HERO
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師走とは言うものの、特に忙しさを感じることもなく過ぎていく日々。 『クリスマスは絶対に休みとりますので……!』 やけに必死な瞳でそう言った恋人の顔を思い出しながら、忍は酷く幸せな気分で家路を辿っていた。今日は早く帰れるって言っていたから、家で鍋でもと思考を駆け巡らせていると、突然に肩にずしりと重みがかかり、忍は途端に顔をしかめた。 「忍ーーっ、さみぃっ!!」 「……俺はおまえの暖房器具じゃないぞ」 「いくら出したらあっためてくれる?」 「一分一万円」 「ほい」 忍が無表情で光流の目前に手を差し出すとに、光流は躊躇することなく忍の手の平に一万円札を乗せた。 と同時に、いきなり唇を奪われ、忍はわずかに目を見開いた。即効で顔を背けるが、強引に引き寄せられる。 「まだ十秒たってねぇ」 「故障につき使用不可能だ」 忍は光流を突き放し、くるりと背を向けて歩き出した。 「キスしただけで故障するってどんな繊細な暖房器具だよ!?」 「説明書も読まずに使うからだ馬鹿」 「そんならもう一万出すから、もう一分!」 「残念だが一台限りの限定品だ」 「……一万円の使用方法は?」 「今夜はすきやきにする」 振り返り薄く微笑みながら、一万円札にキスをする忍であった。 何故に今夜はこんなご馳走なのだろう。蓮川は胸の内に疑問ばかりを抱きながら、更なる疑問の瞳を光流に向けた。 「光流先輩、肉食いすぎです……っ!」 っていうか俺ぜんぜん食ってないんですけど!?と、蓮川は目の前でばくばくと肉を平らげる光流に噛み付いた。 「うっせー! 一分一万円で詐欺られた俺の心を少しは労わりやがれ!!」 「は!? まったく意味わからないんですけど!?」 「蓮川」 光流に負けず劣らず肉をひょいひょい平らげていた忍が、怪しげな瞳を蓮川に向けた。 「後で存分に暖めてやるから、好きなだけ食わせてやってくれ」 やはりさっぱり意味がわからないままに、顔を真っ赤にする蓮川と、泣きながら肉を平らげる光流を前に、忍は平然と食事を続けた。 光流が帰った後、炬燵に潜りながらやけにぴったりとくっついてくる忍を、蓮川は心臓をバクバクさせながら背後から抱きしめる。この上ない幸福感に包まれた。 「蓮川」 「はい?」 「もっと、強く」 「あ……はい!」 おねだりされるままに、蓮川は更に強く忍を抱きしめた。ぎゅっとすればするほど、愛しさばかりが募り、いっそ抱き潰してしまいたい衝動にかられる。 「もしかして寒いんですか?」 「俺よりおまえの方が、ずっと暖房器具にふさわしいな」 「だから、さっきから何の話ですか? 確かに俺、昔から体温高いですけど……」 「いまだに子供の頃のままか」 そう言ってクスリと微笑んだ忍は酷く幸せそうだ。しかし蓮川は拗ねた様子で口をとがらせた。 「どうせ子供のままです、色々と……」 「……何を拗ねてるんだ」 膨れっ面をする蓮川に忍が尋ねると、蓮川はやや間を置いて言った。 「……俺の前で光流先輩と二人だけの会話するの、もうやめてください」 あの頃とは違うんです。蓮川がそう訴えると、忍はやや切なげに目を細め、蓮川の肩に寄りかかった。 「おまえの方を、ずっと大事にしてる」 「そんな事は解ってます。だから我慢してるんです。でも本当は、凄く……嫌なんです」 素直な気持ちをありのまま伝えてくる蓮川に、忍は答えないまま更に肩を落とす。 自分ならば、プライドが邪魔をして絶対に言えないであろう言葉。どうしてそんな子供じみた気持ちを、こいつは平気で口に出来るのだろう。忍は考えるが、考えれば考えるほど、ただ自分に嫌気がさすだけだった。 もしも自分が同じことをされたら。蓮川と五十嵐巳夜に、目の前で秘密めいた会話をされたら。自分はきっと蓮川のように正気でなんていられない。嫉妬の炎で二人もろとも焼き尽くしてしまうかもしれない。そのくらい、好きで、好きで……。 「……ガキ」 顔をうつむけたまま、忍は低い声を漏らした。 「どうせ俺は……!」 反抗してくる蓮川の肩を掴み床に押し倒すと、忍は咄嗟にその唇を塞いだ。 奪うように唇を貪る。苦しげに歪む蓮川の舌に、自ら舌を絡ませる。激しいキスの後、蓮川の顔を見下ろすと、頬を蒸気させながら困惑する瞳に見つめられ、忍は身を焦がすような独占欲に苛まれた。 心の内で何度も繰り返す。ガキ。このクソガキ。 我慢できるくらいなら、まだ全然ましじゃないか。そんなちっぽけなおまえの想いなんかより、俺の方がずっとずっと、おまえのことを──。 「忍先輩……?」 急激に悔しさにも似た想いにかられ、瞳に涙を浮かべる忍を前に蓮川が目を見開いた。 しかし忍は何も言わず、自らぎゅっと蓮川の身体に抱きついた。 「あの、なんで俺が怒られてるんでしょう……?」 「煩い、馬鹿……」 絶対に、死んでも、素直な気持ちなんて口にしてやらない。 忍は心の内ばかりで何度も「好き」を繰り返しながら、頑なに口を閉ざした。 その日、小泉典馬と五十嵐巳夜の結婚式が盛大に行われた。 学生時代に世話になったからと呼ばれた光流はともかく、何故に自分まで招待されたのだろう。小泉典馬からの招待状に嫌な予感しか覚えないまま、しかし現在同僚である以上無下に断ることももできず結婚式に出席した蓮川は、二人を心から祝福するものの、気持ちはどこか複雑だった。 昔からの多くの友人に囲まれ、彼らに一見無邪気な笑顔を向ける典馬は、幸福な新郎そのものだ。その一方で、友人と呼べるのは大学時代の同級生と思われる数人のみである巳夜は、遠慮がちな微笑みばかりを彼女たちに向けている。そこに形ばかりの喜びはあっても、花嫁としての真の幸福さは微塵もないように、蓮川の瞳には映った。 晴れない気持ちのまま光流と共に二次会に参加した蓮川であるが。 「池田先輩! 相変わらず男前~!!」 「まだ独身ですよね!? ね!!??」 高校時代と変わらず、光流とみれば群がってくる後輩の女性陣と、そんな女性軍に相変わらずサービス精神を忘れない光流に辟易としながら、蓮川はその群れから距離を置いた。 まったく、その気もない女と戯れたところで後々面倒なだけじゃないか。蓮川は心の内で呆れながら、ふと数人の男女と話をしている巳夜に目を向けた。 楽しそうに微笑んではいるが、どこか疲れた様子。そういえば昔から、初めて会う人も、人の群れも、苦手な方だったな。高校時代、寮祭に連れて行ったものの、からかってくる男連中に気を遣いすぎて、後になって酷く疲れていた時のことを思い出し、蓮川は心配そうに目を細めた。 「蓮川君」 突然に背後から声をかけられ、振り返るなり蓮川は身構えた。 「今日は来てくれてありがとう。巳夜ちゃんも喜んでたよ」 そう言って明るく微笑む典馬を、蓮川は神妙な面持ちで見つめた。 喜んで? それを見て、こいつはどんな気持ちだったのだろう。蓮川は疑念を抱きながらも口にはせず、自分もまた形ばかりの笑みを造った。 「おめでとう。幸せそうで良かった」 蓮川が言うと、典馬はふっと微笑んだ。意味ありげなその表情に、蓮川はピンと緊張の糸を張り巡らせた。 「……池田先輩、相変わらず凄い人気だよね」 不意に典馬が女性陣に囲まれる光流の姿に目を向けながら言った。 「中学時代も、池田先輩に憧れて止まない人がいっぱいいたよ。でも先輩は、誰一人として見向きもしなかった。僕が知っている限り、池田先輩が本気で好きになった相手はただ一人だ」 そう言ってぐいとグラスのワインを飲み干した典馬に、蓮川は殺気にも似た瞳を向けた。 「……手塚忍。今は君の恋人で間違いないよね?」 確信をもって尋ねてくる典馬を前に、蓮川は驚愕に目を開き、わずかに肩を震わせた。 「本当に凄いね、君って。あれだけの人から、あっさり一番大切な人を奪っちゃうなんて、それってもう天性の才能としか思えないな」 「な……っ!」 「尊敬しているんだよ僕は。どうやったらそんな簡単に人の物を奪えるのか、ぜひともご教授願いたいね」 嫌味なまでに下から物を尋ねてくる典馬を前に、蓮川はますます肩を震わせた。 「彼女も……彼も……、物じゃない……っ」 「ああ、言い方が悪かったかな。そう、「物」じゃなく「心」だったね。でも僕には同じことだ。物を手に入れるのと同様、心を手に入れるにもそれなりの努力とテクニックが必要だからね。つまり君はそれらを全て心得ているということだ。心得ている上で、見事に僕から彼女を奪い去った。君さえいなければ、僕も池田先輩も、これほどの傷を背負わずに済んだのに」 口調は穏やかだが、確実に一歩ずつ追い込んでくる典馬に、蓮川は何も言い返すことが出来なかった。 「頼むから自覚してくれないかな。自分がどれほど人を傷つけてきたのか。どれほど他人を不幸にしているのか。君の幸せは、全て人を踏みつけにした上に築かれているものなんだと、どうかこれからも忘れないでね」 冷ややかな瞳で一分の隙もない言葉を突きつけ、典馬は蓮川に背を向けた。 蓮川は一つの反論も出来ないまま敗北感ばかりを覚え、ただ悔しげに典馬の後姿を見つめた。 くそ……っ、くそくそくそ……っ!! 畜生……っ! おまえなんかに、おまえなんかに、何が──!!!! 「おまえな、いくらなんでも飲みすぎ」 「す、すみませ……っ」 口を開いたと同時に吐き気が込み上げ、道端の隅で盛大に嘔吐した蓮川の背を、光流が仕方ないと言わんばかりにさすってやる。 吐くだけ吐いてややすっきりすると、同時に気持ちの方も落ち着いていくが、おかげで懸命にさすってくれる光流の優しさが酷く辛くなった。 「光流先輩……」 「あ?」 「さっさと恋人作って下さい」 道端に蹲ったまま蓮川は言った。途端に光流の額に青筋が浮かび上がる。 「おまえそれ喧嘩売ってるのか?」 光流がピクピクと眉を震わせると、蓮川はいきなり立ち上がって光流の胸倉を掴みにかかった。 「あんだけモテるんだから、さっさと彼女の一人や二人作ったらいいじゃないですか!?」 「それが出来るもんならとっくにしてるわ!!」 躊躇なく逆切れしてくる蓮川に、光流は本音で叫んだ。 光流を睨みつける蓮川の瞳は、酷く真剣で。光流もまた真面目な瞳を向けた。互いに嫌というほど気持ちが解るだけに、それ以上の言葉は出て来ない。蓮川は諦めたように光流の胸ぐらを離し、がっくりと肩を落とした。 「……なんで、忍先輩なんですか……」 「それはこっちの台詞だ、ばーか」 なんで。どうして。どうしても。あの人でなければ駄目なんだ。あいつじゃなければ駄目なんだ。どうにもならない想いのまま、二人はただ深く意気消沈した。 「……でも、渡しませんから」 「でも諦める気ねーから」 殺し合いで決着でもつけない限り、これ以上は意味のない攻防戦だと、二人は力なく歩き出した。 そんな二人の葛藤など知るよしもなく、今日も健気に(というより暢気に)愛する恋人の夕食作りに励むため、メニューの献立を考えながら今にも鼻歌歌いそうな幸せオーラに包まれながら仕事をしていた忍の前に、一人の依頼人が表れた。 「奥様の浮気の確かな証拠は?」 結婚したての妻が、浮気をしている可能性がある。しかも現在身ごもっている子の父親は、浮気相手の男である可能性がある。そう訴えてきた一人の若い男性に、忍はあくまで冷静に尋ねた。しかし心の内は、散り散りに乱れていた。その相談相手が、忍の知る人物であったからだ。とはいえ、直接話したことは一度もない。ずいぶん昔に、何度か姿を見たというだけの関係だ。あの頃の面影が多少残っているものの、声も容貌もまるきり変わってるその男性──小泉典馬を前に、忍は脈打つ鼓動を止めることが出来ずにいた。 「僕の妻は高校の教師をしていまして、相手は同じ学校の臨時教員なんですが……」 言いながら、典馬は数枚の写真を差し出してきた。それらが視界に飛び込んできた刹那、忍の鼓動がドクンと激しく脈打つ。 確かな浮気の証拠とは言いがたいが、親密に身体を寄せ合いながら話をしている写真。酷く楽しげに笑い合っている姿。目と目を合わせ見つめ合っている姿。それはまるで、恋人同士のように。 カッと胸の内が熱くなる。忍はその熱情を必死で抑え、相手には冷静な表情を向けた。 「これだけでは、証拠にはなりませんね」 「あとはそうですね……この学校の生徒の保護者に知り合いがいるので、これは確かな情報なんですが……。校内でもこの二人は確実にデキていると、生徒達も確信している様子で……」 典馬は酷く焦燥感を持った様子で言った。 「何より、子供が僕の子である可能性は、ほぼ無いに近いんです」 「それは……つまり計算が合わないと……?」 「はい……。妻は僕の子だと言い張っていますが……おそらくは、いや間違いなく、この臨時教員の……」 「しかし……証拠は……」 典馬の表情が真剣であればあるほど、忍は冷静さを保てなくなる自分を確信した。自然と声が震える。駄目だ。今は仕事中だ。忍は自分に言い聞かせた。 「はっきりと妻の姿は映っていませんが、これが証拠にはならないでしょうか……?」 そう言って典馬が差し出してきた一枚の写真。ラブホテル前に映る男女の姿。女性の方ははっきりとした姿は映っていないが、男性の方は明確だった。忍の目の前が、一瞬真っ暗になった。 違う。これは絶対に何かの間違いだ。そんな、そんなことあるわけがない。 でももしも、本当だったら……? あの女のお腹の子の父親が、蓮川だったら……。 疑念を抱いたと同時に、気が狂いそうな激しい感情に見舞われ、忍はぶるぶると頭を横に振った。 突然に地の底まで突き堕とされたような絶望感。あの写真の映像が何度も脳裏に蘇る。聞いていない。蓮川の口から何一つ聞いてはいない。けれどあの映像が全てではないのか。目の前に確かな証拠があったのではないか。信じたい心と信じられない心が激しくぶつかり合う。そうして浮かびあがる、数々の疑惑。 『まだ好きだけど……やっぱり、許されないよな』 『うん、お腹の子は……典馬の子だって信じて、生きていく』 もし誰にもひた隠しにして愛し合っていたのなら。もし蓮川が、二人同時に愛してしまっていたのだとしたら。二人きりの二人だけの時間で、互いの伴侶には生涯の秘密を共有していたのなら。少しも、全く、ありえない話なんかじゃ、ない。 不意に携帯電話のメール音が鳴り響いた。 『今日は遅くなります』 蓮川のメールを開いた途端、カッと頭に血が登った。 気が付けば忍は、蓮川の携帯の着信音を鳴らしていた。 『もしもし?』 「今すぐ帰って来い」 『え……でも、仕事が……』 「帰って来い。でなきゃ別れる」 『え!? ちょ……忍せんぱ……』 相手の声も聞き終えず、忍は一方的に会話を切った。 許さない。許せない。帰ってきたらとことん追い詰めてやる。 苛々と爪を噛みながら、忍は蓮川の帰りを待った。 過去に修羅場というものは嫌というほど経験してきたけれど、ここまでのド修羅場は初めてかもしれない。 光流は額にだらだらと汗を流しながら、赤く腫れた頬を押さえながら涙目で床にうずくまる忍と、それ以上に目の周りを赤く腫らせた蓮川を交互に見つめた。 「浮気っておまえ……こいつにそんな器用な真似……」 「そんなのわからないだろ……っ! おまえが思うほど、こいつはもう子供じゃないんだ……!!」 「いーかげんにして下さいっ!! さっきから説明してるじゃないですか!! その写真はたまたまホテルの前を通った時の写真だって!!」 「そんなあからさまな嘘を信じる馬鹿がどこにいるんだ! あんな写真見せられて信じられるわけがないだろう!? おまえが大学時代どれだけ遊んでたかくらい、俺はとうに知ってるんだ!!」 「え、そうなのか!!??」 ガーンと激しく顔を青ざめさせながら、光流は大変にショックな表情を蓮川に向けた。 「う……そ、それは、過去の過ちというか、若気の至りというか……っ」 「まじで女遊びしてたのかよ!?」 「あ、遊びじゃありませんって!! たまたま、成り行きで、そういうことに到ってしまっただけで……!!」 「たまたまでも成り行きでもない! おまえがすぐに惚れたりフラッと流されずにいたら済んだ話だろう!? どうせ今回だって、「おれがついてるよ……!」とか言って自分に酔った挙句、失楽園の世界にでも浸ってたんだろうが!!!」 「そういうドラマの見すぎですってば!! 俺はいつでも貴方一筋です!!!」 「ねえおまえら痴話喧嘩してるの漫才してるのどっち!?」 物凄い熱いかと思えば妙に冷めている二人の会話に、光流はしまいに目を据わらせた。 「ともかく、小泉が仕掛けてきたのは確かだな……」 「あいつ……っ、どこまでも姑息な手を使いやがって……っ!」 「いやだから、昔からあいつだけは相手が悪いって言っただろ? あいつに一度目をつけられた奴はとことん追い詰められて、中には自殺寸前まで追い込まれた奴だっているんだ。あれに比べたら、忍の性悪さなんてどれだけ可愛いもんだったか……」 「……光流先輩、中学時代からやたら人間関係濃すぎません?」 「俺だって好きで出会ったわけじゃねーよっ!」 偶然、たまたま、巻き込まれただけだっ!!と光流が吼えると、即効で忍が「余計なお節介ですぐ首突っ込むからだ馬鹿」と突っ込みを入れた。今まさに巻き込まれ要員である光流が、「おまえが言うなおまえが」とわなわなと肩を震わせる。 「……実は俺、ずっと疑っていたんですけど……あいつの怪我、もしかしてわざとなんじゃ……」 「120%わざとだろうな」 「ですよね光流先輩!?」 さすがです!!と蓮川は感嘆の表情をした。 「おおかた五十嵐の不良仲間にわざと襲わせて、庇ったふりをしたんだろう。五十嵐を一生縛り付けておくためにな」 「……手強いな」 「おまえもやりかねねーけどな。まあそんくらい、五十嵐への執着が半端ないってことだ」 そこまで言って光流は、忍の蓮川への執着も半端ないことを思い知り、自ら首を締めたことに気づいて撃沈した。 「気持ちは解らないでもない。俺だって、足の一本や二本で繋ぎとめておけるなら……」 「忍先輩、そんなに俺のこと……! でもそんなこと、絶対にしちゃ駄目です!! そんなことしなくたって、俺は先輩のこと誰よりも愛してるんですから!!!」 「蓮川……」 突然に忍の手をぎゅっと握り真剣な瞳で訴える蓮川に、忍は頬を染めうっとりとした表情を向けた。 死ね。いっぱん死ね。本気で死ね。 ありったけの想いを込め心中で叫ぶ光流であった。 朝から晩まで船酔いのような気分の悪さに見舞われ、巳夜の身体も心も限界まで追い詰められていた。 身体の不調は心の健康にまで影響を及ぼす。いつもならばどうにか受け流せる言葉も、心が拒絶してどうしようもない。 「赤ちゃんの名前は、僕が決めていいのかな? それとも、巳夜ちゃんが決めたい? でも、あの男の名前から一字もらうとかは、さすがにやめてね」 「違うって……何度言ったらわかってくれるの!? この子は自分の子だって、典馬がそう言ってくれたんじゃない……!!」 「もちろん、僕の子として育てていくつもりだよ。たとえ血が繋がっていなくても」 「……やっぱり、別れよう。この子は私が一人で育てていく」 「そんなこと許さないよ。子供が可哀想だと思わないの?」 「愛情のない両親に育てられるほうが、よっぽど可哀想だよ……!!」 巳夜は泣き崩れるが、典馬は冷めた瞳でそれを見つめるだけだった。 蓮川は憔悴しきった巳夜の様子に胸が痛まずにはいられなかった。 その日も突然にトイレに駆け込んだ巳夜の体調を心配すると、巳夜は大丈夫と薄く笑ったが、全然大丈夫でないことは巳夜の額に残った暴力の傷痕が証明していた。 せめて駅まで送ろうと、仕事終わりに学校からの帰路を辿っている最中。 「この子……間違いなく、三浦君の子なの……」 蓮川が再度しつこいほどに尋ねると、巳夜はようやく真相を口にした。蓮川は驚愕に震えた。 「典馬にはちゃんと話した。典馬も全部承知したうえで、父親になるって言ってくれた。それは本当だと思うの。でも……昔、私が裏切ったこと、典馬の気持ちを凄く傷つけていて、今もまだ全然、癒えていないの……。昔から典馬はそうだった。人一倍プライドが高いからこそ、傷つけられることにとても臆病で。だからまた、いつ貴方に私を奪われるんじゃないかって、怖いんだと思う……」 「そんな……俺にはもうそんな気持ち、微塵もないのに……」 蓮川がぽつりと呟くように言うと、巳夜は一瞬悲しげに傷ついた表情をした。 同時に瞳からぼろぼろと涙が溢れる。突然に泣き出した巳夜を前に、蓮川はぎょっと焦りの表情を見せた。 「な、泣かないで……! 大丈夫! 俺が……」 焦るあまり巳夜の肩をがしっと掴み、けれど最後まで言葉を口にすることは出来なかった。 涙に濡れた彼女の瞳が、あまりにも過去の記憶と重なって、どうしようもなく胸が締め付けられたからかもしれない。 駄目だ。これ以上は。そう思った刹那、巳夜が突然に蓮川の胸に額を寄せた。これ以上はこらえきれないとでもいうように、身体を震わせ声を押し殺し泣き続ける巳夜を、蓮川は拒絶することが出来なかった。 そっと肩に手をかける。 昔のように、もう背負うことは出来ないとわかっている。けれど今だけ、ほんの少しでも慰めになるのなら。そう思いながら、蓮川は彼女が泣き止むまで傍に寄り添った。 その先の電柱の影から、カメラのシャッター音が鳴ったことには気づかないまま。 あまりにも胡散臭い笑顔と、演技めいた口調。なるほどと感心さえ覚えながら、忍は目の前に相手に同じくらい胡散臭い笑顔を向けた。 「奥様とはその後、いかがですか?」 忍が尋ねると、男はふと顔をうつむけ、酷く暗い表情をした。しかしこれも間違いなく演技の内だろう。忍は直感で察した。 「実は……新たな証拠がありまして……」 小泉典馬の口から出た台詞に、忍はぴくりと眉を動かした。 そうして彼がカバンの中から差し出した一枚の写真を前に、動揺を隠せない様子で目を見開く。 「これは……」 「もう……間違いないですよね。駅前で二人抱き合っているなんて、恋人同士でもない限り有り得ないことです……」 憔悴した様子で言う典馬のそれが、もう嘘なのか本当なのか、見向く余裕など忍にはなかった。 はっきりと顔まで映っている、身を寄せ合う男女の姿。これを見て、誰がただの同僚などと思うだろうか。 「しかし……相手の男は恐ろしくお人好しな一面も持っているので、この時もただ彼女に同情しただけという可能性も……」 忍は震える心をどうにか落ち着かせながら、低い声を発した。それが全く冷静でない言葉だと気づいた時には遅かった。 「ずいぶんと良くご存知ですね?」 突然に、典馬の声が先ほどまでの動揺したものではなく、はっきりとした口調に変わった。忍はハッと己の迂闊な発言に気づき、カッと顔を赤らめた。 「そう、貴方のおっしゃるとおり、彼は酷くお人好しで偽善的な無神経極まりない人間だ。どうせこの時も、僕の妻に妙な同情をし、一時の優しさを与えたに違いない。しかしだからと言って、これは絶対に許される行為ではありませんよね? もし彼女が仮に貴方の妻だったとして、貴方は相手の男を許せますか?」 典馬の問いに、忍は咄嗟に言い返すことが出来なかった。 その隙を狙い、典馬は更に言葉を重ねた。 「そう、賢明で情もある貴方になら解っていただけるはずです。理由はどうであれ、事実はこの瞬間、二人は確かに身体を寄せ合い心を寄せ合っていた、それだけです。それは僕にとってはどう考えても浮気だとしか思えないのですが、先生はどう思われますか?」 「ち……がう……」 矢のように刺さる典馬の声に、忍は身体を震わせながら心の内で反論を繰り返した。違う。蓮川はただ同情しただけだ。泣いている彼女を放っておけなかっただけだ。愛情なんかじゃない。絶対に。絶対に。 「違う……!!」 信じたい。信じなければ。そう思えば思うほど、別の心の声が邪魔をする。その声を振り払うように、忍は声を荒げた。 「……何が違うんですか?」 そんな忍とは対照的に、典馬は酷く落ち着いた声で忍に尋ねた。 「先生も解っているはずだ。彼女は彼を慕っていたからこそ彼の前で涙を流した。彼は彼女をまだ心のどこかで愛していたからこそ、抱きしめて慰めた。だってそうでしょう? 誰が何の気持ちもない相手とこんな行為をします? 互いに好き合っていなければ、有り得ない行為なのではないですか?」 とことん追い詰めてくる典馬の声に、忍の心臓がドクドクと脈を打つ。 「愛……なんかじゃない……」 声を震わせながら、忍は典馬に鋭い視線を向けた。 「同情だ……!!」 こんなのはただの同情だ。愛なんかじゃない。決してまだ彼女を愛しているわけじゃない。忍は自分の心の内で自分に言い聞かせた。 「そうですか……それならば、彼の貴方への気持ちも、全て同情ということになりますが?」 典馬は心無い瞳で忍を見つめた。その言葉に、忍の表情に絶望の色が走る。 「貴方もさぞ、辛かったのでしょうね。池田先輩からの重すぎる愛情が。だから涙を流しながら別れる決意をした。そして彼は、そんな貴方に同情し、抱きしめて慰め、今なお同情を愛情だと錯覚している。……そういうことになりますね?」 フッと嘲笑する典馬を前に、忍は更なる絶望を尽きつけられたような気がして身動きとれなくなった。 「残念です、貴方になら僕の気持ちも彼女の気持ちも解ってもらえると思っていたのですが……。どうぞそのまま盲目的に信じていて下さい。彼の貴方への気持ちが同情ではなく、愛情なのだと。……まあ僕から見たら、過去の恋人とこんなことしておいて、今更愛してるだとかふざけるなって話ですが」 典馬は吐き捨てるようにそう言うと、写真を忍に投げつけその場を去った。 一枚の写真がユラユラと揺れながら床に落ちる。 忍はそれを拾い上げ、写真に映る男女の姿に力ない視線を落とした。 歪んでいく瞳の色。暗く深い海の底に沈んでいくように。 忍の瞳から、一筋の涙が零れ落ちた。 |