HERO
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『あの……、あの……っ、泣かないで下さい……! 大丈夫ですから……! 俺がずっとついてますから……!!』 愛しているからこそ感情が掻き乱されて、離れたいけれど離れられなくて。愛情、絆、義理、責任感、それらにがんじがらめに縛られ苛まれ、毎日が苦悩の連続だった日々。ようやく自分自身との決着をつけ苦悩から解放されたものの、失ったものがあまりにも大きすぎた故の喪失感でいっぱいで、どうしようもなく辛くて苦しくてやり切れなかったあの頃。 そう言って、何度も抱きしめてくれた彼の気持ちは、全て同情からくるものだったのだろうか。 そんなはずはないと心の内で否定しながら、忍は再度襲い来る息苦しさに翻弄された。 馬鹿。蓮川の馬鹿馬鹿馬鹿。 信じたいのに。あんな男の言葉なんかに惑わされず、まっすぐに信じていたいのに。 どうしてあんなことをしたんだ。何も抱きしめたりしなくたって、他に慰める方法なんていくらでもあるじゃないか。それともやはりまだ、彼女のことを……。次から次へと浮かび上がってくる疑念。信じ切ることが出来ない己の弱さが、ただ惨めで情けなくて自己嫌悪に陥るばかりだ。 駄目だ。あの男に惑わされては。忍は自分にそう言い聞かせ、スーツのポケットに忍ばせていた写真を破り捨てた。もうこれ以上、疑ってはいけない。それこそあの男の思う壷だ。思いながら、スーツを脱ぎソファーに座った忍の耳に、ふと玄関のチャイムが鳴り響いた。 続け様に何度も鳴るチャイムに不穏な空気を感じながら、忍は玄関に足を急がせた。 ドアを開けるなり、汗を流しながら酷く焦った様子の蓮川の姿。忍は目を見開いた。 「忍先輩……っ、助けて下さい……!!!」 今にも泣き出しそうな声で言う蓮川の背には、五十嵐巳夜の姿がおぶさっていた。 どうやら帰宅途中に貧血で倒れた彼女を、焦るあまりどうして良いか解らず自宅まで連れてきた蓮川は、額に青筋を浮かべながらせっせと彼女の介抱をする忍に心底申し訳ないという顔を向けた。 「す、すみません……っ、俺、どうしていいか解らなくて……っ!」 「俺の職業は医者でも看護士でも救急隊員でもない。こう言う時はまず救急車を呼べ」 「いやあの、すぐそこでだったんで、うち連れてきた方が早いかなって……」 「うちには人工呼吸器も薬も何もない」 「し、忍先輩なら何とかしてくれるかなって……」 「おまえは俺を何でも出来る超人と勘違いしているのか……?」 どう言っても言い訳ばかりをかましてくる蓮川に、苛立ちを通り越して堪忍袋の緒が切れ、忍は蓮川の胸倉を掴みながら恐ろしく低い声をあげた。 すみませんすみませんと何度も謝る蓮川の耳に、ふと「ん……」と小さく巳夜の声が届いた。 ソファーに横たえられていた巳夜が、目を開き上半身を起こす。 「だ、大丈夫か!?」 蓮川が慌てて巳夜の元に身を寄せた。忍の背後にブリザードが吹き荒れていることには気づいていないまま、蓮川はぎゅっと巳夜の手を握り締める。それは巳夜の身体もそうだが、何よりお腹の中の子を心配しての行為だったのだが、忍にそこまで思いやれる余地もなく。 「だ、大丈夫……! ごめんなさい!! ありがとう!!!!」 蓮川より先に忍のとてつもないマイナス波と邪気溢れる視線に気づいた巳夜が、ヒッと表情を青冷めさせながら、慌てて蓮川の手を振り払った。 「あの……っ、あの……っ、本当にすみませんでした……!!!」 今にも土下座せんばかりの巳夜を前に、蓮川がいまだ気づいていないまま「そんな謝らなくても……!」とオロオロする背後で、忍は巳夜ににっこりと邪気溢れる微笑を向けた。 「貧血ですか? お腹に子供がいるというのに、無理はいけませんね。ゆっくり休んで歩けるようになったら、すぐにタクシー呼びますので」 まるで極道の妻のごとく殺気に満ちたオーラを放ち嫌味に溢れた口調で言った忍を前に、巳夜はますます表情を青ざめさせた。 怖い。怖い。怖すぎる。 心の内で何度もそう繰り返しながら、巳夜はタクシーの後部座席で酷く緊張したまま、隣に座る忍にちらりと顔を向けた。 端正な整った顔立ちは、高校時代と少しも変わってはいない。何一つ自分に声はかけず淡々と見つめていたばかりの彼の印象は、巳夜にとってあの頃のまま少しも変わってはいなかった。 思い出せば恥ずかしすぎる過去。この人も恐らくは、相当に自分を軽蔑していたに違いない。そんな劣等感も相混じり、ますます忍に緊張感ばかりを抱く巳夜であった。 「あ、あの、この辺で結構です……!」 自宅にはまだ遠い場所であったが、緊張感に耐え切れず、巳夜はタクシーの運転手に向かって叫んだ。車が止まると、慌ててカバンの中から財布を取り出すが、それより先に忍が料金を支払った。 タクシーを降りると、巳夜は財布の中から一万円札を取り出し忍に手渡した。 「わざわざ送っていただいて、ありがとうございました……!」 「……家まで送りますよ」 忍は一万円札を受け取らないままぶっきらぼうにそう言って、その場から歩き出した。巳夜は焦りに焦った表情で、慌てて忍の後を追いかける。 「あの……蓮川……さん、には、いつも迷惑かけてばかりで、本当にすみ……」 「僕に謝る必要はありません。それより、そのおどおどした口調の方を何とかしてもらえますか?」 物凄く苛ついているのをまるで隠さず単刀直入に言ってくる忍に、巳夜はますます額から汗を流した。 どうしよう。どうしよう。どうしよう。パニックになるあまり言葉が出てこず、ひたすら緊張しながら歩く巳夜に、忍が更なる苛立ちを見せてくる。 「どうしてまず、ご主人に連絡しないんです?」 「え……」 「普通なら、真っ先にご主人に連絡して迎えに来てもらうでしょう」 尋ねられ、巳夜はようやく気づいたかのようにカッと頬を染めた。 蓮川の家を出る際、蓮川が「送るよ」と言ったと同時に、忍が「俺が送る」と言って、二人タクシーに乗り込んだ。忍は「蓮川に送ってもらう必要はない」と言いたいのだろうと理解した瞬間、巳夜は彼の内にある激しい嫉妬心を直感し、迂闊なことをした自分を責めた。 決してそんなつもりだったわけではないのに。ただあまりに突然だったから、咄嗟の判断が出来なくて。それに、典馬だって仕事で忙しい日もある。そうそう自分のことばかりで迷惑はかけられない。巳夜は心の内で言い訳ばかりを繰り返した。 「す、すみません……! 主人には、あまり迷惑をかけたくなくて……」 「あいつにはかけてもいい、と」 「……いえ、そういうわけじゃ……」 またしても鋭く核心に触れられ、、おどおどと口篭りながら巳夜はうつむいた。 「そうやって無自覚に人を翻弄するところ、昔から変わってませんね」 忍はあくまで冷めた口調で言う。あからさまな侮蔑の視線。動悸にすら見舞われ返す言葉が出てこない巳夜に、忍や容赦なく言葉を続けた。 「けれどこれ以上、あいつを利用するのはやめて下さい。貴女とご主人の関係がどれだけ切迫していようと、あいつには関係のないことだ。けれどあいつはお人好しだから、どこぞの馬鹿と同じように、たとえ熱が三十八度超えていても貴女と貴女の子供を守ろうとする。そういう単純馬鹿な奴らを利用する貴女みたいな人間、僕は昔から一番嫌いなんです」 言いながら、忍は自分の心が荒んでいくのを確かに感じていた。けれど止めることが出来なかった。彼女の瞳に涙が滲んでも、彼女が酷く傷ついていると解っていても、抑えることが出来ない。溢れてくる感情を。どうしようもない怒りと憎しみと苛立ちを。 言い返せるものなら言い返せばいい。それが出来ないのは、おまえがまた無自覚にあいつを取り込もうとしているからだ。何一つ物を考えず、自分の弱さを利用して。 彼女の心の内にある蓮川への本当の想いをとうに見透かしている忍だからこそ、なおさら苛立ちが募った。 「……ごめん、なさい……」 彼女は顔を俯けたまま、小さな声でそう言って、深々と頭を下げた。忍は苦い想いばかりに駆られたが、決して表には出さず、心の内で唇を噛んだ。これ以上追い詰めたところで、彼女は決して認めはしない。そう確信した忍は巳夜に冷たい表情ばかりを向け、くるりと背を向ける。 ふと、一匹の猫が足元を通り過ぎた。 道路上に飛び出したその猫を、咄嗟に巳夜が庇いに走る。 この馬鹿、と忍が止める手を伸ばした時には既に遅く、道路上で甲高いブレーキ音が鳴り響いた。 猫を庇い道路に横たわった巳夜の額から大量の血が流れた。その腕の中で猫が小さく鳴き声をあげ、軽やかに飛び出し去って行った。 『ママ……』 夢を見る。 何度も、何度も、何度も。 『ママ……』 行かないで。お願い。戻って来て。 『ママ……』 お願いだから、私のところに戻ってきて。消えていかないで。ママが必ずあなたを守るから。お願い。お願い。お願い……!!! 「巳夜ちゃん、大丈夫?」 「あ……」 目が覚めると同時に、ぼろぼろと瞳から涙が零れる。巳夜は半ば放心状態で涙を拭い、典馬から顔を背けた。 「……大丈夫。ごめんなさい、夜中に起こして……」 時計の針は真夜中の三時を示している。暗い面持ちで言う巳夜の頬にそっと手を寄せ、典馬は巳夜の唇にキスを落とした。巳夜がすぐに顔を背ける。しかし典馬は構わず巳夜の身体をベッドの上に押し倒した。 「……やめて……」 今はとてもそんな気持ちには。巳夜は典馬からの求愛をやんわりと拒絶した。しかし典馬は力を緩めない。 「いつまでも悲しんでいても仕方ないじゃないか。だから、子供作ろう? 次は僕と巳夜ちゃんの子だよ。きっと可愛いに決まってる」 そう言って行為を続けようとする典馬に、巳夜はあくまで抵抗を示した。 「僕との子は要らない?」 恐ろしく冷たい典馬の瞳。巳夜は涙目でふるふると首を横に振った。 「そう……じゃない、そうじゃないけど……!」 頑なに拒絶する巳夜を、典馬は冷め切った瞳で見下ろし、巳夜に背を向けベッドから降りた。 「典馬……!」 巳夜は呼び止めるが、典馬は振り返りもせずに寝室を去って行った。 暗い部屋の中、巳夜の瞳から涙が流れる。 違う。そうじゃないのに。決して典馬との子が欲しくないわけじゃない。 でも、今はまだ、あの子のことを想っていたい。 世界でたった一人しか存在していなかった、あの子のことを。 だからお願い、「次は」なんて言わないで。 あの子はものじゃない。いなくなったから「次を」だなんて、そんな簡単な存在じゃない。 つい数ヶ月前まで、確かにこの身体の中で生きていたの。 一生懸命、産まれようとしていたの。 (でも、私が……) 殺してしまった命。 ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……!!! 巳夜は嗚咽をあげながら、何度も心の内で天国の我が子に向かって叫んだ。 「いいかげん、その辛気臭い顔やめてくれない?」 このところ頻繁に尋ねてくる母親に、会うなり軽蔑の眼差しを向けられ、巳夜は暗い顔をますます俯けた。 「いつまでも悲しんでいたって仕方ないでしょう、それよりも前を向かなきゃ。実はあなたにもお兄さんかお姉さんがいたはずなのよ。でももしその子が産まれてたら、あなたはこの世にいなかったかもしれない。だからね巳夜ちゃん、その子はきっとそういう運命だったのよ。大丈夫、次の子が出来たらすぐに忘れられるわ。だから早く元気になって、典馬くんとの子をお母さんに見せて?」 亜希子は巳夜の手をぎゅっと握り締め、優しい声色で言った。目の前で慈愛に満ちた瞳を向けてくる亜希子の言葉に、巳夜は力なく頷いた。 「可哀想に……あんな男に関わったばかりに。僕としては訴えてもいいくらいだと思っているんですけど、巳夜ちゃんが自分のせいだって言い張るから。でも巳夜ちゃん、証言者がいるんだよ。あの男の恋人が巳夜ちゃんを道路に突き飛ばしたのを、はっきり見たと言ってる人がいるんだ」 「それは……違う……! 私が、自分で……!」 「巳夜ちゃんは昔から優しいから、そうやってすぐ人を庇っては自分が損をするんだ。でも、庇う必要なんかないんだよ。子供を殺したのは、間違いなく彼なんだから」 まるで暗示でもかけるかのように、典馬はまっすぐに巳夜の目を見つめながら、確信を込めた力強さで言った。 思い出せ。そう言われているような錯覚に陥り、巳夜の頭の中は混乱した。 同時に、あの日のことが鮮明に思い出される。 あからさまに敵意を向けてくる彼の冷たい瞳。 矢のように突き刺さる、数々の蔑みの言葉。 『貴女みたいな人、一番嫌いなんです』 やめて。どうしてそんな酷い言葉が言えるの。私が貴方に何をしたっていうの。どうして貴方みたいな人が、あの人の恋人なの。 (違う……!) 襲ってくる数多の負の感情を、巳夜は咄嗟に振り払った。 違う。あの人のせいなんかじゃない。私はあの時、猫を助けようとして。その代わりに、自分の子を犠牲にしたんだ。だから、あの人のせいなんかじゃない。巳夜はただ己ばかりを責め続けた。 頭がガンガンと痛む。 眩暈と吐き気に襲われ、巳夜は階段の途中で立ち止まった。 「……大丈夫?」 不意に背後から声をかけられ、巳夜ははっとして振り返った。蓮川だった。目の前にある、酷く心配そうで優しげな顔を見ると、胸の鼓動がドクンと高鳴った。 「まだ体調、良くないの?」 「う、ううん……もう、大丈夫」 巳夜は無理に笑ってみせた。 「実は……彼、も、あの日以来調子が悪そうで……。ああ見えて凄く優しい人だから、たぶん、物凄く気にしてるんだと思う……」 「そう……。でも、彼は何も悪くないんだから、気にしないでって伝えておいてね」 「ありがとう。君にそう言ってもらえたら、きっと安心すると思う」 心底ほっとしたように、蓮川が言った。 巳夜の表情が暗く曇ったことには、全く気づいていないまま。 『熱があるのに、無理しちゃ駄目だろ!?』 まだ何を疑うこともない純粋な少女だったあの頃。 熱でぼんやりとしていた私に、彼は叱るようにそう言った。 だって、どうしても、どうしても、おまえに会いたかったから。 泣きたくなる想いで心の内でそう叫んで。でも苦しくて言葉に出来ないでいたら、ひんやりと冷えたタオルが額に添えられた。 真冬できっとタオルを絞る手も冷え切っているのに、何度も何度も絞りなおしてくれて。 『一也……』 『ん?』 『……帰らないで』 そんな我儘を言ったのは、何年ぶりのことだったろう。母親にも、典馬にすら言えずにいたのに。 身体中熱くて、痛くて、苦しくて、酷く辛かったはずなのに。 ずっと手を握り締めてくれていたあの日の記憶が、今も一番幸せだったと思ってしまう私は、やはり最低な人間なのだろうか。 ひんやりと冷えた氷枕。玉子たっぷりの雑炊。こまめに汗を拭ってくれるタオル。 「忍先輩……なんか楽しんでません?」 気のせいか、心なしか、心配しているというよりは生き生きしているような……つまり楽しんでいるような……。そんな気がするのは、たぶんきっと気のせいなんかじゃないはずだ。蓮川は朦朧とした意識の中、せっせと看病してくれる忍に疑わしい視線を向けた。 「楽しい」 忍はまるで正直に応えた。蓮川がますます目を据わらせる。 「人が苦しんでるのに、何が……」 楽しいんですか!!と噛み付くより先に、唇に噛み付くようなキスをされ、蓮川は目を丸くした。 「……監禁してる気分に浸れるだろう?」 つまりは独占欲の表れだと、忍は満足気に言った。蓮川が顔を真っ赤にした後、はぁと呆れたようにため息を漏らす。 「何でもいいですけど、少しは元気出たなら良かったです」 風邪ひいた甲斐ありましたと、蓮川はそっと忍の身体を抱き寄せた。 忍は見透かされたいたことにやや動揺しつつも、肩の力を抜いて蓮川に身を委ねた。 「貴方のせいじゃないから気にしないで……って、彼女、言ってましたよ」 蓮川の言葉に忍は目を細め、こくりと小さく頷いた。 そっと顔をあげると、蓮川が優しい笑みを向けてくる。 「風邪移るから、もう看病はいいので自分の部屋で寝て下さい」 そう言って突き放そうとする蓮川の唇に、忍は再度唇を重ねた。 「たぶんもう移ってる……から……」 「さ、さすがに今日はえっち出来ませんよ!?」 「人を万年発情期みたいに言うな!」 誰もそんなこと言ってないと怒りながら、忍は蓮川の隣に身体を横たえた。 「一緒に寝る(寝たい)だけだ」 むっと口を尖らせ、拗ねた瞳でそう言って見つめてくる忍があまりに可愛くて、蓮川は赤い顔を更に真っ赤に染めた。 その日、街中で偶然にも出会った元生徒を前に、巳夜の心は激しく動揺した。 「五十嵐センセー、お久しぶりです!」 明るい声で挨拶してきた元生徒、川口理佐は、一目で妊婦だと解るお腹を重たそうに抱えながら、以前と少しも変わらない笑顔を巳夜に向けた。その隣には、理佐の母親がぴったりと寄り添っている。 「びっくりした……少し見ない間に、ずいぶん大きくなったのね」 「うん、七ヶ月にしちゃ、ちょっと出すぎみたい。今検診行ってきたんだけど、食べすぎだって怒られちゃった」 あははと暢気に笑いながら、若すぎる母親は言った。 三浦春人亡き後は憔悴し切っていた彼女。けれどもうすっかり元の彼女に戻っている様子だ。それは若さからくる故のものだろうか。それとも母親になるという自覚が彼女を支えているのだろうか。 どちらにせよ羨ましいと、巳夜は思った。 「全く、だから太りすぎって言ったでしょう!? もうあんた一人の身体じゃないんだからね!?」 理佐の母親がややヒステリックに娘を叱りつけた。 「だって食欲止まらないんだもん! 大丈夫だって、これからちゃんと制限するから」 しかし理佐は少しも怯まず、あっけらかんと言い返す。、 「そう言ってあんた、今朝も菓子パン二個も平らげたじゃないの。あれどれだけカロリーあると思ってるの!?」 「あー、わかったわかった。文句はパパに言って。赤ちゃんのためにたくさん食べろって、パパが買ってくるのが悪いんだからさ」 唐突に目の前で親子喧嘩を始める二人を前に、巳夜は苦笑した。そんな巳夜の引き具合を察した母親が、しまったという風に愛想笑いを向けてくる。 「先生からも言ってやってくださいな。この子ったら全然母親の自覚なくて困ってるんですよ。主人は主人で、初孫が楽しみすぎるあまりはしゃぎっぱなしで甘やかし放題だし、もう本当に子供が産まれたらどうなることやら……」 はぁとため息をつきながら愚痴る母親に、巳夜はただただ苦笑ばかりを向けるより他はなかった。 「でも、元気そうで良かった。無事に元気な赤ちゃん産んでね」 巳夜が気を取り直して笑顔で言うと、理佐は明るい笑顔で「うん!」と応えた。 その場で別れてからも、ああだこうだと言い合いながら去っていく親子を見送り、巳夜はその場を歩き出した。 元気そうで良かった。父親がいなくても、両親がいれば無事に赤ちゃんは育っていくだろう。あれだけずばずばと物を言い合える母親が助けてくれるのなら、理佐もきっと安心して子供を育てていけるはずだ。そう確信した巳夜は、安堵すると共に、無性にやるせない気持ちに襲われた。 まともに見ることが出来なかった、理佐のお腹。幸せそうな笑顔。幸せそうな親子。 そして、もういなくなったあの子の兄弟であるはずの赤ん坊。 そう思った瞬間、息苦しいほどの悲しみに襲われ、巳夜の瞳から涙が溢れた。 どうして。どうして。どうして。 何度も何度も、見えない誰かに向かって問いかける。どうして私ばかりが。 その場で泣き出しそうになった瞬間、母親の叱責が思い出され、巳夜は手の甲で涙を拭った。そしてそれ以上の感情を必死で抑える。 だめだ、いつまでもこんな風に落ち込んでいては。前を向かなきゃ。そう自分に言い聞かせ歩き出した直後、巳夜はハッと目を見開いた。 交差点の向かい側で、二人並んで歩く見覚えのある後姿。傍から見たら、友人同士で歩いているようにしか見えないが、巳夜の目にはハッキリと「恋人同士」に見える二人の男性。巳夜はすぐさま目を逸らしたい衝動に駈られながらも、二人から目を離すことは出来なかった。 ふと、彼が立ち止まる。それに気づいて、彼が振り返る。何かを尋ねて、彼は首をかしげた。ああ、その顔は知っている。巳夜は心の内で呟いた。その後には、そっと手を差し伸べて。「ほら、早く」それが彼の口癖だった。私はいつも、その手を握り締めた。ぎゅっと強く、離さないように。「離さないで」そう、心の内で願いながら。 巳夜の瞳から、抑えていたはずの涙が溢れ出る。もう想うべきことは何もなかった。それなのに、涙が溢れて止まらない。 どうして。何故。私が。私だけが。こんなにも。 悲しみは、限界を超えた瞬間、憎しみに形を変えた。 巳夜の瞳が、憎しみをもって忍の姿を捕らえる。 どうして貴方なの。今彼の隣にいるのが、こんなにも私を苦しめた貴方なの。 貴方なんかに、彼は渡さない。貴方なんか幸せになる権利なんてない。あの時貴方といなければ、あんなことには。貴方さえいなければ、私の赤ちゃんはまだ生きていたはずだ。大体、男同士で幸せになれるはずなんかないじゃない。気持ち悪い以外の何物でもないわ。貴方なんて、彼に相応しくない。お願いだから、彼を不幸にしないで。 溢れてくる、心の内にひた隠しにしていた一途な想いと憎しみと怒り。それは一瞬にして膨れ上がり、彼女の心を蝕んだ。自分の心が黒く染まっていくことに気づかないまま、巳夜は憎悪に満ちた瞳で、憎むべき相手を一心に見つめ続けた。 街中で、ふと耳にする雑音。そう、雑音でしかない。昔から。 「忍先輩……?」 ふと声をかけられ、いつの間にか立ち止まっていた忍は、ハッと顔をあげ、目の前できょとんとしている蓮川を見つめた。 「どうしたんですか?」 「……いや」 「ほら、早く」 静かに微笑んで、蓮川が手を差し伸べる。 忍は迷わず、その手を握り締めた。そうするといやに心は安堵し、一瞬感じた不快感はすぐに消え去った。 「少しは元気出ましたか?」 久方ぶりの外出。というか、デート。誘ったのは蓮川の方だった。忍はあまり乗り気ではなかったが、こんな時間を過ごせるのなら、やはり外に出て来て良かったのだろうと思った。 「それはこっちの台詞だ」 ただでさえ精神的なダメージが多い中、流行りのインフルエンザに侵されまだ病み上がりである蓮川に、忍は苦笑しながら尋ねた。けれど蓮川はまるで余裕の表情を浮かべる。 「俺はあなたと違って打たれ強いので」 まさに雑草という言葉がぴたりと当てはまるほどに、蓮川の心身共に早い回復力には驚かされるばかりの忍であった。ただし「あなたと違って」という言葉は聞き捨てならないが。 「昔のうじうじぐだぐだはどこへ行ったんだ」 「そんな子供の頃の話をされても……」 頼むから勘弁して下さいと蓮川は頭を垂れた。 「……もう帰る」 「え、まだ出てきたばかりですよ?」 「帰る」 「……はい」 いやに頑なな表情をする忍を見つめ、蓮川は仕方ないように頷いた。 デートっていうよりただの散歩だったな。思いながら、蓮川はソファーに並んで座りながら寄りかかってくる忍に、黙って身を預けていた。しかし内心では相当に焦っているのも事実だった。 一体全体なんだろう、この甘えっぷりは。一緒にいる間はほぼニ十四時間といっていいほどぴったりくっついて離れない、究極の甘えん坊になっている理由は、やはり……。 思い当たることと言えば、やはりそれしかないのだ。自分が巳夜を送ると言い張って、タクシーで家まで送っていった際、不運にも巳夜が目の前で交通事故にあい子供を失ってから、忍はやけに赤ん坊の声に敏感になっている。今日、急に立ち止まったのも、おそらくは子供の声に反応したのだろう。まったく繊細な人だと、蓮川は改めて扱いの難しさを感じた。同時に、酷く愛しくもなる。今更どれだけ悔いてもどうにもならない結果に、長い時間悔やんでいられるほど子供では無くなってしまった自分とは違って、彼はいつまでも純粋なままだ。それはきっと、高校時代から少しも変わらず。 「あの……テレビ、つけてもいいですか?」 「好きにしろ」 ただくっついてるだけの微妙な緊張感に耐えきれず、蓮川はテレビの電源をオンにした。真昼間のワイドショーが画面に流れ、途端に部屋の中が賑わしくなった。けれど内容はといえば、さして興味も無い芸能人のゴシップばかりで、蓮川は膝の上で猫のように目を閉じている忍の髪を撫でながら、退屈そうに欠伸をした。 日当たりの良い暖かい部屋の中でじっとしていれば、当然襲ってくるのは眠気ばかりで。気が付けば二人重なって眠りに落ちていたところ、突然に蓮川の携帯が派手に着信音を鳴らし、二人はビクッと身体を震わせ咄嗟に起き上がった。 「おまえのその旧式の着信音どうにかしろ!」 気持ち良く眠っていたところを、旧式の黒電話みたいな着信音に起こされ、忍が半ば切れ気味で声を張上げた。 「解りやすくていいじゃないですか! 俺、流行りの歌とか着信音にするの嫌いなんです!」 蓮川もまたわけのわからない蓮川の拘りに、忍はますます不機嫌さを露にした。 蓮川が電話に出ると、どうやら相手は例のごとく横暴な先輩で、電車賃足りないから今すぐ迎えに来いなどという無茶ぶりにも関わらず、蓮川は断りきれずさっさと家を出て行ってしまった。 せっかく気持ち良く寝てたのに。殺す。帰ってきたら絶対に殺す。忍は苛立ちばかりを露に、再びソファーの上に寝転がった。しんと静まり返った部屋の中。もう一度眠ろうと思ったけれど、一向に睡魔が襲ってこず。さっきまであんなに眠くて仕方なかったのに。苛立ちながら忍は起き上がり、茶でも飲もうとキッチンに向かった。 緑茶をすすりながら、つけっぱなしのテレビに目を向ける。わざとらしい演技が繰り広げられる昼のドラマから、ふと赤ん坊の泣き声が響いた。耳障りでしかない雑音。忍はすぐにテレビの電源をオフにした。 (煩い……) 頼むから、静かに眠らせてくれ。忍は見えない誰かに向かって懇願した。 『……ごめん、なさい……』 不意に記憶が蘇る。酷く傷ついた彼女の瞳。萎むように小さな声。 別に謝って欲しくて言ったわけじゃない。傷つけたくて言ったわけじゃない。ただ自覚させてやりたかっただけだ。彼女がまだ無意識の内に蓮川に想いを寄せていて、無意識の内に奪おうとしていることを。そうして自覚して、離れて欲しかった。たとえ自分が悪者になっても、どうしても、どうしても奪われたくなかったから。 でも、そんなことは赤ん坊の死とは何の関係もない。ただ不運だっただけだ。 (死んだのに……?) 違う。彼女が勝手に飛び出したんだ。自分の身体も省みず、猫なんかを庇ったりするから。全部彼女の自業自得だ。だから俺のせいなんかじゃない……! (最低だな) どこまでも自分を追い詰めてくる心の声に、忍は耐え切れず思考を閉ざした。頼むから、もう黙ってくれ。そんなことは解っている。解っているけれど、自分を責めて何になるというのだ。今更どう償えと言うんだ。だからもう忘れなければ。忍は必死で自分にそう言い聞かせた。 ドロドロと溶けて、パチパチと熱が燃え広がって、まるで自分が自分ではなくなるみたい。 こんな感覚を、ずいぶん昔にも味わったことがある。 『巳夜ちゃん、どうしてそんな子になっちゃったの? お願いだからいつもの巳夜ちゃんに戻って!』 『そんな格好似合わないよ、巳夜ちゃん。不良仲間と付き合うのなんて、もうやめなよ』 『不良なんてやめろつっただろ。おまえ向いてねぇんだからさ』 そう言って、いつも私を元の道に戻そうと説得してきた人達。 抑えつけてくるものと必死で戦っていた、私。 似合わない。向いてない。いつもの私じゃない。それは何を見て言っているの? 誰にそう決め付ける権利があるの? いつもの私って何? 必死であなた達に気に入られようと、好かれようと、「いい子」でいた私じゃなきゃ必要ないの? でも私は、「いい子」の自分なんて大嫌い。だから変わるの。変わりたいの。だからお願い、邪魔しないで。 もう私を自由にして……!!! 「五十嵐……」 酷く狼狽する蓮川に、かまわず巳夜は抱きついた。 「ど、どうし……」 放課後、二人きりの美術室。いきなり泣き出ししがみついてきた巳夜を前に、蓮川はただただ混乱する。 「助けて……」 絞るように声をあげた巳夜の肩をつかみ、蓮川はそっとその身体を引き離した。 「あいつに……何かされたの?」 「典馬が……手塚さんのこと、訴えるって聞かないの……」 「訴えるって、どうして……」 「あの夜……あの人が、私を道路に……」 黙っていたけれど。言えなかったけれど。そう言いながら泣き出す巳夜を、蓮川は茫然と見下ろした。 そんな。そんなこと、あるわけがない。 蓮川は震える心で何度も繰り返しながら、帰路を辿った。 あの夜、忍は巳夜が猫を助けるため自ら道路に飛び出したのだと語った。巳夜もその通りだと言っていた。それなのに、何故突然そんなことを言い出すんだ。 どうしても言えなかったと、巳夜は語った。あの人のことを想うあなたのことを想ったら、と。 でも本当はあの日の夜、あなたを利用するなと言われて、謝ったけれど、許してはもらえなかった。彼はきっと、あなたに近付く自分のことがどうしても許せなかったのだと思う。だからあんな真似を……。 けれどあの人のことが、凄く怖かった。これ以上関わったら、何をされるか解らないと思った。だから典馬にも、訴えるのだけはやめてくれとお願いしている。私はどうしたらいいの? そう言って泣き崩れる巳夜に、蓮川は何も言うべき言葉が見つからず、ただ「悪かった」と謝ることしか出来なかった。 大丈夫。俺がなんとかするから。もう何も心配しないで。 そう言うと、巳夜はまた抱きついてきて。もう、突き放すことなど出来なかった。 けれど信じたくはなかった。 忍が嘘をついている? それとも嘘をついているのは巳夜の方なのか? 記憶を遡れば、答えは明確で。 一度たりとも自分に嘘をついたことはなかった巳夜と、すべてが嘘で塗り固められたような忍と。 どっちがなんて、考える余地もないのに、こんなにも信じたくないと願っている自分は、結局あの頃と変わらず騙されやすい単純馬鹿なままなのだろうか。蓮川は過去の苦い記憶を思い出し、ますます苦悩に陥った。 とりあえずは、話をしなければ。蓮川は逸る心を必死で抑えながら、足を急がせた。 疑いたくなんかない。でも、頼むから正直に応えてください。 そう尋ねてきた蓮川に、忍はただひたすら口を閉ざした。 「応えないっていうことは、本当なんですね……?」 テーブルの上で向かい合う蓮川の声が、手と同時に震える。忍の表情がますます硬くなった。 「俺が……違うって言えば、信じるのか……?」 目の前で憤る蓮川に、忍もまた震える声を発した。 「もちろん信じます……!」 「嘘だ……!」 忍が声を荒げ、感情的な瞳を蓮川に向けた。 「もう既に、彼女の言葉を信じてるじゃないか……!」 「違います……!」 「違わない! 本当に信じてるなら、聞くまでもないだろう!?」 疑っているから。どこかで彼女の言葉が本当だと信じているから。そう訴えてくる忍に、蓮川は言葉を詰まらせた。それが図星だと言わんばかりに。 「だったら違うって言って下さい! そんなことは絶対にしてないって! そうしたら俺……!」 絶対に絶対に、信じますから。そう叫んだ蓮川に、忍は敵意ばかりの瞳を向けた。 「おまえの思っている通りだ。俺があの女に酷いことを言って追い詰めて、俺が故意にあの女を道路に突き飛ばして子供を殺した」 忍はまっすぐに蓮川の目を見て言った。蓮川の瞳が絶望に満ち、握り締めた拳がふるふると震える。 「嘘……ですよね……?」 縋りつくような蓮川の瞳を前に、しかし忍は少しも表情を変えなかった。 突然に、蓮川がガタンと派手な音をたてて椅子から立ち上がる。同時に、力一杯手を振り上げた。バシッと頬を打たれ、忍はその場に倒れた。蓮川は涙と憎悪に濡れた瞳で忍を見下ろすと、くるりと踵を返し部屋を後にした。玄関の閉まる音を聞きながら、忍は小さく肩を震わせた。 「おまえバッカじゃねーの!? 何で絶対やってないって言い張らねぇんだよ!?」 「言ったって……そんなの、意味がないじゃないか……!」 涙に濡れながら頑なに意地を張っている忍の赤くなっている頬を、光流は頭を抱えながらタオルで冷やしてやる。 蓮川が五十嵐の言葉を少しでも信じている。わずかでも疑念を抱いている。ただそのことがあまりにも悲しすぎて、だったら向こうの言うことを信じてろと意固地になる気持ちも解らないではない。忍が絶対にしてないと言い張って蓮川が信じると言ったところで、心の底から信じていないことなど見え見えなのだから。 「でもある程度は自業自得だと思うぞ?」 「おまえのせいでもあるだろーが……っ!」 いやだからなんでそこで俺に八つ当たり!?と、光流は殺意をもって睨みつけてくる忍に大いに疑問を感じた。 確かに高校時代、一緒に蓮川のことを遊び感覚でさんざ騙したけれども。蓮川が今回のことで不信感を抱くのも当然なほどに嘘つきまくったけれども。どっちかっていうといつも主犯はおまえの方じゃねーか!!! 心の内で叫ぶが敢えて声には出さず、ほんとごめん蓮川と大いに過去を反省した光流であった。 「にしても、五十嵐もどーしようもなかったけど、そんな嘘だけはつくような奴じゃなかったんだけどな……」 「知るか……っ! おまえら馬鹿共があの女をどれだけか弱いと思ってるかどうか知らないが、あれほどタチの悪い女はいないぞ……!」 「いや小泉や蓮川はともかく、俺は思ってねぇ! 思ってねぇって!!」 「ああそうだな、女に泣きつかれたから断れない突き放せないってだけで、基本女を一人じゃ何も出来ない弱い生物だって軽視してることに気づいてないだけだったな。もしあの時あれがあの女じゃなくて蓮川だったら、即効で野宿でもしろって追い払ってるだろうが」 「俺は普通! 女に野宿させられねぇって思うの男として普通だから!!」 「俺は思わない。男だろうが女だろうが、野宿などせんでも生き抜く方法はいくらでもある今の時代なら」 「そりゃおめーは男だろうが女だろうがどこでも逞しく生き抜くだろうけど、人種が違うから人種が!!」 「人を野生のゴリラみたいに言うな! 言っておくがあっちの方が他人に寄生しながら俺より100万倍逞しく生き抜くタイプの人間だぞ!?」 あの寄生虫女!!と、激しく憤りを露にする忍を前に、光流はもはや言い返す言葉もなくだらだらと額から汗を流した。ってゆーかおまえ人のこと言えるのかよこの家猫と、さんざ寄生されたあげくあっさり宿を移された光流は心の中でそっと呟く。 「とりあえず、誤解はきっちり解いてだなぁ……」 「もういい。あんな単純馬鹿猿、こっちから捨ててやる」 「いやもうそれ100万回は聞いたから」 拗ねに拗ねまくっている忍を前に、ひたすらはぁとため息をつく光流であった。 「は? もう勝手に拗ねてりゃいいじゃないですか。あの人の我儘をいちいち全部聞いてご機嫌とりしてたらキリないです」 もはや別れの危機に慣れきってしまっているのか、あの忍相手に非常に冷静かつ冷徹な蓮川に、光流は尊敬の念すら抱いた。すげぇ。こいつまじすげぇ。あの忍を本気で怒らせて殴った挙句放置プレイとか、並の精神レベルじゃねぇ。俺なら即効で土下座してる。もしくは無理矢理黙らせる。いやだからますますつけあがるんだ嫌われるんだと、光流は過去の行いを大いに反省した。 「いやでもあいつ、今回は本気の本気みたいだぜ」 光流はわざと真剣な声で言い放った。蓮川が明らかにぴくりと反応を示す。なんだ、やっぱりビビッってんじゃねーか。光流は心の内で呆れ声を放った。 「おまえ今度こそ本気で捨てられるかもよ? まあ俺にとっちゃ好都合だけど」 光流の挑発的な言葉に、蓮川が動揺を隠せない様子で肩を震わせた。 「謝った方がいいんじゃね?」 光流は脅迫めいた口調で、蓮川の耳元で囁いた。しかし蓮川はあくまで頑なな表情で、キッと光流を睨みつけた。 「死んでも謝らないし迎えにも行かないし勝手にしろとお伝えください!」 忍以上に頑固一徹な蓮川を前に、光流は再度はぁと深くため息をついた。 全くあの人はもう! そりゃ多少なりとも疑ったのは悪かったし、殴ったのも悪かったけれど、だからと言って嘘をついたのは自分の方じゃないか……!! (俺は信じるって、言ってるのに……!!) どれだけ嘘をつかれても、どれだけ疑わずにはいられなくても、あなたが違うって言うなら、自分の気持ちくらい簡単に騙せるのに。 (馬鹿……) どうして信じてくれないんだ。蓮川は眉をしかめ、ぐっと涙をこらえた。 ふと玄関のチャイムが鳴り響く。 また余計なお節介をしにきたのかあの人は。蓮川はうんざりしながらも、玄関に向かい扉を開いた。 刹那、蓮川の表情が一瞬にして固まる。 「こんにちは。少し話をさせてもらっていいかな?」 落ち着いた声。落ち着いた笑顔。それなのに、不穏な空気ばかりを感じる。蓮川の胸の鼓動がドクンと疼いた。 いったい何を企んでいるのか。何を目的にここまで出向いてきたのか。 出した紅茶に手もつけず、相変わらず落ち着いた様子のままテーブルの椅子に座る典馬を前に、蓮川は神妙な面持ちを崩さない。 「手塚先生は、出掛けてるのかな?」 「……彼に何の用が?」 「もちろん、妻の事故の件で。君ももう知っていると思うが、僕の子供を殺した罪はきちんと償ってもらわないと」 明らかに攻撃性を持って用件を口にした典馬に、蓮川はわずかに肩を震わせながらも、鋭い瞳で彼を見据えた。 「それは……本当のことなのか……?」 「もちろん。実際に証言者もいるんだ、彼に勝ち目はない」 「……でも、ついこの前までは、彼のせいじゃないと……。彼女は確かに、そう言っていたんだ……!」 蓮川は必死の様子で言った。どうしても忍が故意でそんなことをしたとは思えない。いや、思いたくなかった。 「彼女は昔から、偽善めいたところがあってね。ただ君に良い顔をしたかっただけだと思うよ。認めたくはないが、彼女はまだ君のことを愛している」 「そんな……!」 「彼女のことを誰よりも解っているのは僕しかいない。だから解るんだ。彼女自身でさえ認めていないことであってもね。本当に馬鹿だったよ、僕は。自分のつまらないプライドのために、自分の足を犠牲にしてまで彼女を取り戻したのに、結果は同じだった」 典馬は自らをあざ笑うように、自虐的なまでの台詞を放った。蓮川はあまりに唐突な典馬の自白に唖然とする。 「おまえ、あの時やっぱり……!」 「そう。どうやら君もとうの昔に勘付いていたみたいだね。でもあの時は僕もまだ子供だったんだ。意地でも君に彼女を渡したくなかった。けれどもう、認めなければならないと思っている。そして、彼女を解放してやらなければと。だから敢えて、君に頼みに来たんだ。どうか彼女を、もう一度、昔のように愛してやってくれないかな」 思いがけない典馬の要望に、蓮川はますます狼狽の色を見せた。当時ならばまだしも、彼女への想いはもうとうの昔に断ち切った。他に愛する恋人が出来た今になってそんなことを言われて、誰が受け入れられるものか。 「そんなこと……出来るわけが……!」 「お願いだ、彼女にはやはりどうしても君が必要なんだ。そして僕はやはり今もまだ彼女のことを愛していて、彼女に誰よりも幸せになって欲しい。どうか今の恋人とは別れてくれないか。もし僕の願いを聞いてくれるなら、僕も彼を決して犯罪者にはしないと約束する。つまり彼女も彼も、両方を守れるということになるんだ」 「どうして……そんなことを……、君は、彼女のことを愛してるんだろう!?」 「だから、だよ。愛している。どうしようもなく愛しているから、彼女の一番の幸せを願うんだ。それが本当の愛っていうものなんじゃないかな」 そう言った典馬の表情は、今までに見たことがないほど一途で真剣なものだった。 蓮川はその瞳に胸打たれたと同時に、激しい苦悩ばかりを感じた。 別れる? あの人と? そんなこと、考えられない考えたくもない。 けれど今ここで彼の要求を拒絶したら……。 (犯罪者……) だめだ。それは、それだけは。 この男は、やると言ったら必ずやる。何しろ自分の片足を失ってまで彼女を取り戻したのだ。今ここで彼の要望を拒絶すれば、例えどんな手を使っても、忍をとことんまで追い詰めるはずだ。 決断を迫られた蓮川は、襲い来る強迫観念に耐え切れず、握った拳を震わせ頷いた。 愛している。どうしようもなく愛しているから、一番の幸せを願うんだ。 それが。それが……本当の……。 「忍! 迎えに来たぞ! いつまでも拗ねてねぇでとっとと帰れよな!」 玄関のチャイムを押すと同時に表れた光流が、奥のリビングにいるであろう忍に向かって声を荒げる。しかし忍が姿を表すことはなく。光流が舌打ちしながらリビングに向かおうとするが、蓮川は咄嗟に光流の腕を掴んで制止した。光流が目を見張る。 「すみません、お邪魔します」 蓮川は神妙な面持ちを崩さないままそう言って、まっすぐにリビングに向かった。 扉を開くと、リビングに置かれたソファーの上に忍の姿があった。しかし蓮川に背を向けたまま振り向こうともしない。その腕の中には、彼と同じ名前の白いポメラニアン。それはまるでいつかの自分に重なる。あれはそう、初めて兄に思い切り叱られた幼い自分。自分が悪いと解っていたから、アルバイトから帰ってきた兄に謝りたかったけれど、また怒られるのかもしれないと思うとどうしようもなく怖くて顔を向けることが出来ず、必死でぬいぐるみに縋りついていた、小さな小さな自分の姿だ。 「忍先輩」 あの時兄がかけてくれた声と同じ、穏やかな声で蓮川は忍に呼びかけた。 「今日、小泉典馬から、本当のこと聞きました。やっぱり忍先輩の言ってたことが本当で、彼女、精神的に不安定なあまり嘘をついてしまったらしいです。申し訳なかったと、謝ってくれました。だから……疑ったりして、本当にすみませんでした」 蓮川があくまで優しい声色で言うと、忍はようやくゆっくりと振り返った。その表情に、蓮川は一瞬ドキリとした。まるで、今にも泣き出しそうな表情をしていたからだ。ああ……やっぱりこの人は。蓮川は胸の内で呟きながら、静かに微笑んだ。 「……馬鹿」 「ごめんなさい。……帰りましょうか?」 忍は切なげに目を細めると、小さく頷いた。そうして腕の中の犬をそっと離す。 立ち上がった忍の手を、蓮川はそっと握り締めた。ふと、視界の中に光流の姿が飛び込み、蓮川はまっすぐに光流を見つめた。 「蓮川、おまえ……」 「ご迷惑おかけして、本当にすみませんでした」 蓮川は光流に深々と頭を下げる。光流はいつもとあまりに違う蓮川の様子にただならないものを覚え、神妙な面持ちをした。しかし今の蓮川に何かを尋ねる隙はない。忍と共に部屋を出て行く蓮川を、光流はただ黙って見送った。 もう真実がどうかなんて、どうでも良かった。 ただどうしようもなく愛している。 今抱きしめてしまったら、きっともう二度と離せなくなるほどに。 けれど今夜だけは。 「昨夜、高校時代と同じ夢を見たんです」 風呂に入りパジャマを着て寝る準備を整え、ベッドの中で二人きり。忍の身体を抱き寄せ髪に口付けながら、蓮川は静かな声で語りだした。 「俺が点呼に行ったら、忍先輩が死んだって、光流先輩が凄く泣いてて……。俺は恐る恐る忍先輩の顔覗き込んだんです。そうしたら、顔を血塗れにした忍先輩が起き上がってきて……昔の俺はあまりの恐怖に悲鳴をあげたんですど、昨夜は違ってました」 「怖く……なかったのか?」 「……生きてて良かったって、血塗れのあなたを、ぎゅっと抱きしめたんです。良かった……生きてて本当に、良かったって……」 「……ばーか。それじゃ、呪った意味ないだろ……」 「仕方ないじゃないですか、本当にそう思っちゃったんです」 っていうか昨夜本当に呪ってたんですかと、蓮川は苦笑した。 「ずっと、ずっと、生きてて下さいね」 「この俺が、そう簡単に死ぬわけがないだろう。夢なんか本気にするな、馬鹿」 「そう……ですよね。貴方ならきっと、どこにいても、誰といても、大丈夫だって思います」 「……大丈夫なんかじゃ、ない」 ふと忍が、酷く潤んだ瞳で蓮川を見つめた。 「おまえがいないと、大丈夫なんかじゃ……」 好きだと、全身全霊で訴えられているような気がした。蓮川の瞳にじわりと涙が浮かぶ。 「なんで泣くんだ……」 「す、すみません……。あんまり幸せだと、泣けてきちゃうものなんですね……」 蓮川は手の甲でぐいと涙を拭った。仕方ないとでもいうように、忍がそっと目元に唇を寄せてくる。その抱擁が、あまりにも優しくて、そして幸せすぎて、蓮川は強く忍の身体を抱きしめた。ぬいぐるみを抱きしめていたあの頃よりも、ずっと強く。 そうして眠りに落ちていった忍を、いつまでもいつまでも見つめ続ける。 好きだよ。何度もそう叫んだ。 どうか貴方が、世界で一番、誰よりも幸せでいられますように。 神様。俺はもう他に何も要らないから。それ以外は、何も要らないから。俺の最後の願い、どうか叶えて下さい。窓の外に浮かぶ満月に、心からの祈りを捧げた夜。月明かりだけが唯一の細い蜘蛛の糸だった夜。それが──最後の夜。 翌朝、蓮川は荷物をまとめ、愛する人に背を向け住み慣れた家を後にした。 |