HERO
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久方ぶりに尋ねてきた母親の表情は、酷く嬉しそうで。 左手には手土産のケーキ、右手には数冊のウェディング雑誌。まるで近く自分が結婚でもするかのような、高揚感に満ちた瞳。 「ねえねえ、典馬君はどのドレスがいいと思う?」 「そうですね、こんなのはどうかな?」 「あら素敵! でも、巳夜ちゃんにはちょっと地味かしら……」 そう言って、お茶の準備をしている巳夜を酷く残念そうな目で見つめたのは、巳夜の母、五十嵐亜希子だ。 「ほらこの子、私と違って地味な顔立ちじゃない? せめてドレスくらいは、もっと派手な方が良いかなって」 亜希子の言葉には一切反応を示さず、巳夜はあくまで淡々とした事務的な動作でテーブルの上に紅茶とケーキを並べた。 「巳夜ちゃんは、どんなドレスがいい?」 典馬が穏やかな口調で尋ねた。 「……別にどれでも」 巳夜は抑揚のない声で応えた。 「あなたって昔からそう。ほんとに自分の意思ってものがないのね。いいわ、お母さんが典馬君と一緒に、あなたに似合う最高のドレス選んであげる」 そうすれば絶対に間違いないから。はしゃぎながら言う亜希子に、典馬は穏やかな微笑みを絶やさず、巳夜は口を閉ざし黙って母の言葉に頷き続けた。 だって言い返すだけ、無駄だもの。 昔からお母さんは、いつもそうだった。 デパートに服を買いに行って、好きなものを選びなさいって言うから、凄くこれが欲しいって思った、大好きなうさぎのキャラクターがプリントされたTシャツを持って行ったのに。 せっかくこんなに可愛い服がいっぱいあるのに、何でそんなダサいシャツ選ぶのよ。ほら、巳夜ちゃんにはこっちの方がよく似合っている。そう言ってお母さんが着せてきたのは、全然可愛いなんて思えない紺色の地味なワンピースだった。でも、お母さんが可愛いを連呼するから、凄く欲しかった服は諦めて、これでいいって頷いた。 お昼ご飯は何が食べたい?って聞かれて、大きなハンバーグが凄く美味しそうだったから、それを選んだのに。 そんなに大きいの食べきれないわ。こっちのお子様ランチにもハンバーグついてるわよ。お母さんがそう言って頼んだお子様ランチのハンバーグはとても小さくて。こんなハンバーグが食べたかったわけじゃないのに。思いながらも、美味しいって言わなきゃまた嫌な顔をされるから。美味しいって、無理に笑った。 デパートの屋上。小さなメリーゴーランドに乗ってみたかったけれど、もう乗りたいとは言えなかった。 だってどうせまた、「あんなの乗ってもつまらないわよ」。そう言われるだけだもの。 だからもう、お母さんの好きにして。 花柄ばかりの食器とか、お母さんが使うバックとか靴とか、お母さんが好きな雑貨とか、つまらなくて仕方ない買い物も、お母さんに付いていかなきゃ家に帰ることは出来ないから。だから黙って後をついていって、「これがいいと思わない?」そう尋ねられたら、笑って「うん」って応えて。少しでも早く、この苦痛な時間が終わるように。心の中で「早く帰りたい」ばかりを繰り返していた、あの頃。 「巳夜ちゃん、大丈夫? 疲れてない?」 さんざはしゃぎながら喋り倒していた母親が帰り、二人きりになった部屋の中、ふと典馬に尋ねられ、巳夜は力なく「うん」と頷いた。 「おばさん相変わらずだよね。あの調子じゃ新婚旅行にまで着いてきかねないなぁ……」 ソファーに座り、亜希子が持ってきたウェディング雑誌のページをめくりながら、典馬は困ったように言った。巳夜もまた困るしかなく苦笑する。 「巳夜ちゃんは、どんなドレスがいいの?」 「……どれでもいいよ。お母さんの好きなので」 「こっちとこっちなら、どっちがいい?」 典馬がそう言って指さした二着のドレスを、巳夜は力ない瞳で見つめた。本当にもう、どちらでも構わないのに。思いながらも気遣ってくれる典馬の気持ちを無下にすることは出来ず、どちらかといえば地味めのドレスを指さした。 「僕もそっちのが好みだな。……大丈夫、おばさんには僕が上手に言っておくから」 典馬はそっと巳夜の肩を抱くと、酷く優しい声で囁いた。 巳夜はようやく心穏やかな表情をして典馬に身を委ねる。 「好きだよ、巳夜ちゃん。僕が世界で一番、巳夜ちゃんのこと幸せにしてあげるからね」 幼い頃から、何度も何度も繰り返されてきた、優しくて力強い愛の言葉。救い上げてくれる手、それはまるで、おとぎ話しに出てくる理想の王子様のように。 巳夜は典馬に身を委ねたまま、そっと瞳を閉じた。 少しも心が揺らがないままに。 これでいい。 これでいいんだ。 そう、何度も何度も、自分に言い聞かせた。 だからお願い、もうこれ以上、私の心を揺さぶらないで。 「五十嵐先生、出来ました」 放課後の美術室、何日もかけて仕上げた生徒の絵を前に、巳夜の心は大きく揺さぶられた。 「三浦君、凄い……!」 自然と涙が浮かび上がるほどの感動を覚えたのは、いつぶりのことだろう。 校庭で一人走る男性の姿。あまりにもリアルで、あまりにも美しいその絵に、巳夜の心はただ震えた。久方ぶりの感動に、自然と溢れてくる涙。 突然に泣き出した目の前の女教師を、生徒は動揺に満ちた瞳で見つめた。 「あ、あの……」 生徒がそっと、巳夜の肩に手を置く。生徒に余計な心配をさせていると解っていても、後から後から溢れてくる涙を止めることはできなかった。 どうして急に、泣いたりしたのだろう。 頭を抱えながら走り終え、三浦春人はタオルで汗を拭った。そんな春人の目前に、二人の教師の姿が映った。それはつい先ほどまで気になって仕方なかった女教師と、生まれて初めて尊敬の念を抱いた男教師が、何やら親密な様子で話をしているところだった。 「あの二人って、デキてるのかな」 不意に背後から声をかけられ、春人は振り向くなり眉をしかめた。 二人の教師を見つめながら、やけにツンとした表情で近づいてきた同級生の彼女、川口理佐(かわぐちりさ)は、意味ありげな視線を春人に向けた。 「なによ、その面白くなさそうな顔」 「……んな顔してねーよ」 「好きなんでしょ、五十嵐先生のこと」 単刀直入に尋ねてくる彼女に、春人はますます眉をしかめ、理佐から顔を逸らした。 「でも残念、あの先生、ぜってー蓮川先生のこと好きだよ」 「だから何だよ、俺には関係ねーよ」 春人はあくまで冷徹にそう言い放ち、理佐に背を向けてその場を去った。不機嫌さを露にする春人を、理佐は半ば睨みつけるような瞳で見送った。 その日、突然に瞬から合鍵を渡された蓮川は、途端に目の前が真っ暗になった。 「ロンドン……?」 「うん、勉強したいことがあってねー。そんなわけでしばらく留守にするから、その間、この部屋自由に使ってもらって構わないよ」 にっこり笑って自由度高すぎる言葉を放つ瞬を前に、蓮川は合鍵を受け取りつつわなわなと肩を震わせた。 「おまえはどうしていつもそう、行動が唐突なんだ?」 「え? そう?」 「自覚がないなら自覚しろ! なんでそういう大事なことを、相談の一つもせずに勝手に決めるんだよ!?」 「あー……、心配してくれる気持ちは嬉しいんだけど、こう見えても僕ってけっこう頑固なとこもあるじゃない? 反対されようがなんだろうが、行くって決めたら絶対行くから、敢えて相談する必要もないというか……」 瞬にしては珍しく口篭りながらの答えに、蓮川はまだ納得いかないというように眉をしかめる。 「突然でごめんね、すかちゃん。まさかそんなに寂しがってくれるとは思ってなかったから……」 「だ、誰も寂しがってるわけじゃねーよ……っ!」 「はいはい。すぐ帰ってくるから、その間、忍先輩となるべく喧嘩しないで仲良くするんだよー?」 結局「お土産買ってくるからねー」とどこまでも子供扱いのまま、トランク片手にさっさと旅立っていった瞬を、蓮川はわなわなと震えながら、忍はいつも通り平常運転で見送ったのであった。 「いいじゃないか、あいつの人生なんだからあいつの好きにさせてやれ」 「……俺がある日突然いなくなっても、同じこと言えるんですか?」 「一緒にするな、馬鹿者」 酷く冷静に一喝され、蓮川は「う」と言葉を詰まらせた。 「普段まったく気にかけてやらないくせに、離れると解った途端に不安になって引き止める自分の身勝手さをまず反省するんだな」 つくづくどこかの誰かに似すぎていて嫌になると、忍は深くため息をついた。ますます蓮川の表情が重くなる。 「だから普段から、今を大事にしろと言ってるだろう。失くしてから気づいても遅いんだ」 「そうだぞ蓮川、俺は今猛烈に反省している!!」 突然ぬっと現れた光流を前に、蓮川がぎょっと目を丸くした。 「瞬だから別に俺が一週間くらいいなくたって元気にやってるだろうとか、瞬だから俺が仕事で忙しくても理解してくれるだろうとか、瞬だから俺がいちいち構わなくても気にも留めないだろうとか、決して他人を信じ切るな! じゃなきゃおまえも俺の二の舞だぞ!? こいつらこう見えて人一倍繊細なんだから、常に構ってやらねーと、あっちゅーまにもっと都合の良い相手見つけて去っていきやが……」 「人をペット扱いする前に、己の身勝手さ最低さをまず反省しろ」 光流の頭を踏みつけ、低い声で忍が言った。 「すみません、今本気で反省しました! 俺、頑張ってもっと残業減らします! 休みも増やします! そんでずっとずっと忍先輩のことぎゅっとして離しませんから……!!」 絶対に絶対にいなくなったりしないで下さい。そう蓮川が訴えると、忍は明らかに表情を緩ませ、ぽっと頬を赤らめた。 「ほんとに……?」 「はい……!」 「絶対?」 「はい!!」 「嘘ついたら……浮気してやるからな」 唐突に目の前でいちゃつき始めるカップルを前に、光流がわなわなと肩を震わせた。 「ちょっと待て! 俺はおまえらの踏み台か!?」 「まあそういうことになるな」 「なんたっていきなりパラディンですからねぇ……」(※超活躍は初期の初期だけ) 完全なる哀れみの視線を向けられ、光流は再度過去を深く反省したのであった。 ずっとずっと、ぎゅっとして離さない。離したくない。そんなこと常日頃から思っているし、誰よりも何よりも大事にしているつもりなのに。 「俺……そんなに、放っておいてばかりですか……?」 たぶん瞬にもそう思われていたんだろうと確信した途端に、急に不安になった。 「そうじゃなくて……すぐ、見えなくなるんだ」 「見えなく……?」 「陸上と同じだ。ゴール目掛けて突っ走るばかりで、隣を走る奴のことなんて気にも留めないだろう?」 忍の言葉に、蓮川は最もですとうなだれた。 「でも現実は競技とは違う。なにも気に留めず走り続けていたら、気が付けばゴールで一人きりになっているんだ」 「それは……嫌です」 せめてあなただけは、そばにいて下さい。そう言うと、忍は仕方ないように目を細めた。 「だったらたまには、うんと大事にしろ」 頬を両手で挟まれ、引き寄せられると同時に唇が重なった。 だから、うんと死ぬほど大事にしてますってば。心の中で絶叫しながら、蓮川は忍の舌に舌を絡めた。 それでもこの人の目に、大事にしているように映っていないのなら、これ以上どうすれば良いのだろう。 頭を悩ませながら、とりあえずはうんと大事にしようと前戯に時間をかける蓮川であった。 『公務員なら安定してるわ。せっかくお金かけて美大に入れてあげたんだから、しっかりお仕事するのよ』 『絵を売る仕事なんて苦労するだけだよ。いずれ仕事なんてしなくても生活できるくらい、僕が頑張るから。それまでの繋ぎだと思って頑張って?』 本当は教師になるつもりなんて、全然なかった。 でも、お母さんや典馬が、絶対に教師になった方がいいって言うから。 ずっと憧れていた絵本作家を諦めて、この職業に就いたのに。 「五十嵐センセー、今日スカート短すぎじゃね?」 「あ、もしかして蓮川先生を誘惑するためですかー?」 廊下を歩く巳夜に、二人の女子高生があからさまにからかいの声を投げかけた。巳夜は振り返り、カッと顔を赤くして生徒たちを睨みつける。 「そ、そんなわけねーだろ……!?」 ついうっかり高校時代の口調で言い返してしまい、巳夜はしまったとますます顔を赤らめた。 「え、五十嵐先生って噂通り元ヤンだったんですかー?」 「うわ、だっさ。もしかして長いスカート履いてスケ番とか言ってた時代の? 超うけるー!!」 高らかに笑い声をあげながら手を叩く生徒たちを前に、巳夜は真っ赤になりながら肩を震わせた。 「おまえら、調子こいてんじゃねーよ」 すると、背後から突然に現れた一人の男子生徒が、低い声で言いながら女子生徒たちを睨みつけた。 「なによ、ほんとのこと言っただけじゃない」 しかし負けじと言い返したのは、女子生徒の片割れである川口理佐だった。 「だったら俺もほんとにこと言ってやるよ。おまえのそのぶっとすぎる靴下、全然可愛くねーから」 明らかに喧嘩を売る口調で、三浦春人が言った。 理佐が酷く悔しげに春人を睨みつける。しかしそれ以上は言い返さず、友人と共に背を向けてその場を去っていった。 「……あ、ありがとう、三浦君。でも、女の子にあの言い方はないんじゃないかな……?」 巳夜はやや遠慮がちに言った。 「川口さん、きっと傷ついたよ。だってあの子、三浦君のこと……」 「俺が……!」 突然、春人が声を荒げた。巳夜が目を丸くする。 「俺が好きなのは……!」 酷く真剣な春人の瞳。巳夜はますます瞳を大きくした。 「……あ、いや……、あの……」 しかし春人は思いなおしたように、顔を赤らめながら巳夜から視線を逸らす。しばし気まずい沈黙が漂った。 「あの……元ヤンって噂、まじっすか……?」 春人がとても信じられないといった口調で言った。 巳夜はきょとんと目を開くと、それからクスリと微笑んだ。 「ほんとだよ」 どこか悪戯っぽい口調で言う巳夜を前に、春人はやはり信じられないという顔をする。その顔がいつものクールな表情とは違ってあまりに子供っぽくて、巳夜はますますおかしそうに笑った。 「『おまえら、許さんぜよ!』」 巳夜がポーズをとる。それは大昔に流行ったドラマの中の台詞だった。 「って、知ってる?」 「え……ああ、確か、スケ番なんとかって」 「そう、あれに凄く憧れてたの」 「……まじっすか?」 「まじだよ」 そう言って無邪気に笑った巳夜の前で、春人もまた酷く可笑しそうに笑顔を見せた。 どうして。何で。どこが良いのよ、あんな女の。 理佐は激しい慟哭を覚えながら、悔しさに唇を噛んだ。 「……っざけんな!!!!」 放課後の誰もいない教室。胸の内に込み上げてくる怒りを抑えきれず、理佐は目の前のゴミ箱を蹴り倒した。完全に八つ当たりだと自分で解っていても、抑えることは出来なかった。ゴミ箱の中のゴミが床中に散らばって、直さなきゃと思った刹那、後頭部に軽い痛みが走った。 「おまえ何してんだよ」 理佐が振り返ると、丸めた教科書でパコッと頭を叩いてきた教師の姿が目前にあり、理佐はぎょっと目を見開いた後に、むっと唇をとがらせた。 「うっかり当たっただけです」 「思い切り蹴飛ばしてだろーが。いいからさっさと元に戻せ」 言い訳した途端に一蹴りされ、理佐はますますむくれた表情をする。そんな理佐を前に、教師は仕方ないようにため息をついた。 「最近やけにイラついてるみたいだけど、何か嫌なことでもあったのか?」 「……別に。先生には関係ないじゃないですか」 拗ねた様子で反抗にかかるが、目の前の教師はまるで相手にしていないように失笑するばかりで、理佐はますます苛立ちを募らせた。 「それより今のって体罰になるんじゃないですかー? 訴えてもいいですかー?」 「いいけど、どこに?」 教師が全く顔色を変えないままに尋ねてくる。その余裕の態度に、理佐はぐっと言葉を詰まらせた。 「お、お父さんとお母さんに、言ってやるから……っ!」 理佐は悔しさをこらえきれず、声を荒げた。 「じゃあ俺も、ゴミ箱蹴り倒して片付けもしなかったので、ご家庭でもそのようなことがないようしっかり指導お願いしますって訴えても構わないよな?」 「……そんなの、お父さんもお母さんも信じないもん!」 「嘘は一つもついてないけど」 「違う! うっかり当たっちゃっただけなのに、先生がいきなり殴ってきたんだから! 私はなんも悪くない……!」 叫ぶように理佐が声を張上げると、突然、ばちっと両頬に衝撃が走った。両手で挟み込まれ逃げられなくなった理佐は、目の前の教師のあまりに真剣な瞳にハッと目を開き、それから必死で視線を逸らした。 「本当にうっかり当たっただけなのか?」 真剣な声で尋ねられ、何度も心のそうで「そうだ」と頷いた。けれど言葉にすることは出来ない。それがどうしてかなんて、とうに自分で解っているのに。理佐は今にも泣き出しそうな心を抱えたまま、どうにか教師の視線から逃れようとぎゅっと目を閉じた。 「嘘じゃないなら、ちゃんと俺の目を見て応えろ」 今すぐこの場から逃げ出したくて、理佐は必死で頭を振るが、強い力で抑えつけられ逃がしてもらうことは出来ない。 嘘なんかじゃない。私は悪くない。なにも悪いことなんてしてない。でも、目を開くことが出来ない。だってこの人は本気だ。本気で見抜いてくる。私がついた嘘を。嫌だ。怖い。怖い怖い怖い───!!! 「応えろ!!!」 まるで心臓を撃たれるような声に一喝され、理佐はようやく目を開いた。その目から、ぼろぼろと涙がこぼれる。 「……め……なさい……っ」 声にならない声で、理佐は謝罪の言葉を口にした。 認めたくない。でも、認めなければ殺される。そんな恐怖の中、後から後から溢れてくる涙を止められないでいると、教師はようやく両手の力を緩めた。 「理由は?」 真っ赤になった理沙の目前で、教師は穏やかな口調でそう尋ねた。 常々、女子高生という生き物ほど不可解なものはないと思っていた蓮川だが。 「春人の馬鹿野郎ーーーっ!!!!!!!」 窓の外に向かって目一杯叫ぶ女子高生を目前に、蓮川は仕方ないように目を据わらせた。 ああでも自分にも思い切り身に覚えが。夕日に向かって叫んだあの時、瞬はまさにこんな気持ちだったのかと思うと、つくづく過去の自分が恥ずかしくなった蓮川であった。 ごめん。まじでごめんあの時の瞬。心の内でそう思いながら、幼馴染に失恋して泣きじゃくる理佐の頭を、よしよしと撫でてやる。 「人の心だけは思い通りにはならないからな……もう諦めろ」 「……うぅ……っ」 でも、だって、諦められない。泣きながら確実に心の中でそう思っている理佐の気持ちも、痛いほどによく解る蓮川なだけに、ただ優しく慰めてやることしかできなかった。 「でも、三浦の片想いの相手が五十嵐先生なら、まだ望みはあると思うんだけど……」 「……どーいうこと?」 「いやだって、五十嵐先生、もうすぐ結婚するし……」 「……ほんとに?」 「ああ。だから、諦めるにはまだ早いかもしれないぞ。まずは自分の気持ちを打ち明けてみるべきじゃないのか?」 自分の高校時代を思い出しながら、蓮川は言った。 理佐はこくりと小さく頷いた。 後悔なんかは、していないんだ。 やるだけのことはやって、出来る限り心を尽くして、愛せるだけ愛したのだから。 それなのに、どうして今なお、こんなにも傷が疼くのだろう。 もう全て終わったことなのに。すみれに対する恋心のように、綺麗な思い出として綺麗な記憶のまま残り続けていたら、それで良かったのに。 忘れたい。 どうしても、忘れたいんだ。何もかも全て無かったことにして、消してしまいたい過去でしかない。 『ごめんなさい……!』 泣きながら何度も何度も謝る彼女を、心の底から憎んだ。 あんなに追いかけたのに。あんなに尽くしたのに。あんなに愛したのに。 結局はあいつを選ぶのか。 俺ではなくて、あいつを。 だったら、何のために俺は───!!! あの時、大声をあげて泣きたいのは自分の方だった。けれど彼女は泣かせてもくれなかった。 どこにも行き場のない心を、慰めてくれたのは別の女性だった。けれど彼女ほどにその女性を愛せなかった自分は、結局自分を癒してもらうために、他者の優しさを利用していただけだった。 汚い。俺は汚い。 俺の心に愛なんて、どこにもない。 あるのはただ、自分だけだ。 どこまでも自己中心的な、自分だけなのに。 「……き……だ……」 例えどんなに酷いことをしても、どんなに醜い自分を曝け出しても、どんなに傷をつけても。 この人だけは、まっすぐに自分を愛してくれる。 「……っ、先輩……っ」 「あ……っ、あぁ……っ……!!」 だから今度こそ、間違えたりしない。 愛の意味を、間違えたりはしない。 女子高生というものは、なんで、どうして、こんなにも不可解な生き物んだ───!!!! 「蓮川先生っ! ここ教えてくださぁーい!」 目の前でやたらと目をきらきらさせ、いつもより1トーン高い声をあげる理佐を前に、蓮川は額からだらだらと汗を流した。 「数学の問題は数学の先生に聞くように」 「だって蓮川先生の方が解りやすいだもんっ!」 「……これから部活行かなきゃならないから」 「じゃあ私も行く!」 「おまえは帰宅部だろーがっ!」 「今日から陸上部のマネージャーになりますっ!!」 どうにかこうにか距離を置こうとするも、圧倒的なパワーで近づいてくる理佐に、蓮川は成す術もなくがっくりと肩を落とした。 若さ。これが若さってやつなのか。無理だ絶対勝てないこの凄まじい暴走ぶりには。 だからといって。 「先生、見て。この下着、可愛いでしょ?」 ただでさえ短いスカートを更に短くして、ちらっとピンクのパンツを見せてくる女子高生相手に冷静でいられるはずもなく。 「いいかげんにしなさいっ!!」 っていうか片想いの幼馴染はどうした!?と突っ込むものの、とうに失恋を認めきっちり気持ちを切り替えている理佐の恋心は、すっかり幼馴染から蓮川に移っている様子である。人間、こうもあっさり過去の恋を忘れられるものかと、蓮川は理佐の切り替えの早さに尊敬の念すら抱いた。 「わたし、先生の好みじゃない……?」 うるっと瞳を潤ませてくる理沙を前に、蓮川は本気で頭を抱えた。 「好みも何も、子供相手にそういう興味は抱けないから」 「私もう子供じゃない……! 胸だってこんなにあるんだから……っ!!」 「そうやって平気で押し付けてくるとこが子供だと言ってるんだ!!!」 立派な大人の女性はそんなことしません!!と蓮川は一喝した。 「じゃあ、立派な大人の女になったら、好きになってくれる……?」 「ならない。おまえの気持ちは嬉しいけど、俺には一生大事にしたい人がいるんだ」 蓮川はあくまで真摯に訴えた。 すると理佐はぽろっと涙を流し、蓮川に背を向けその場を走り去っていった。 さすがに胸が痛む蓮川ではあったが、彼女のことを本当に想うのならば当然のことで。 どうか頼むからなにとぞ彼女が新しい恋をしますように。そう心から祈りながら、深くため息をついた。 |