HERO<再会>
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そういえば、ここ一週間ほど一度も夢を見ていないな。 デスクの上に昼食の弁当箱を広げながら、蓮川はぼんやりとした瞳でふとそんなことを思った。 入社して初めての大掛かりなプロジェクト。素直で真面目であるが故に上司から目をかけられ、結構な大役を任された蓮川は、プレッシャーに押し潰されそうになるあまり、ここ数日かなりのハードワークが続いていた。 夜の帰宅は午前様。朝は早くから出勤。休日出勤は当たり前。おかげで家でゆっくりする暇は微塵もなく、ここ数日まともに会話すら出来ていない忍の顔が思い出され、蓮川は深くため息をついた。 けれど弁当箱の蓋を開けた瞬間、瞳がパーッと輝きを放つ。 和牛ステーキに海老の天ぷら、玉子焼きに筑前煮、それからお漬物に豆ご飯。どこの料亭弁当かと思うほど美しく彩られた和風弁当を前に、蓮川は涎を垂らしながら感動の涙を浮かべる。そうして不意に、今朝の会話が思い出された。 「え……お弁当、作ってくれたんですか?」 「このところずっと、まともな飯食ってないんだろう?」 いつものごとく無表情だけれど、心配してくれているのが伝わってくる落ち着いた声。蓮川はわずかに顔を赤らめ、忍の手から弁当を受け取った。 「あ、ありがとうございます……」 「……別に、これくらい……」 妙に照れ合い視線を合わせられずにいた二人だが、突然、蓮川が忍の肩をがしっと掴んだ。 「俺、頑張ります……! だから、あと少しだけ、待っててくださいね……?」 一途で真剣な眼差しを向けてくる蓮川に、忍は一瞬だけ酷く寂しそうな表情を見せた。そう、ほんの一瞬だけ。 「あの……これって、愛妻弁当……って言って、いいんですよね……?」 「……馬鹿……っ、誰がそんなもの……!」 速攻で否定しようとした忍の唇を、蓮川が咄嗟に塞いで遮る。 そっと舌を絡ませ、互いの熱をしっかり確認し合ってから唇を離すと、忍の頬はやけに色っぽく熱を持っていた。 「いい……ですよね……?」 ぎゅっと抱きしめる蓮川の肩に、忍は素直に寄りかかって、解るか解らないくらいの控え目な動作で頷いた。 どうしよう。離れたくない。離したくない。仕事なんて行きたくないのに。ずっとずっとこのままこの熱を感じていたいのに。畜生と心の中で呟きながら、蓮川は更に強く忍の身体を抱きしめた。 「仕事……遅れるぞ……」 「解ってます……けど……っ」 嫌だ離したくないと気持ちが叫んでどうにも治まらないでいると、忍の方からすっと離れられた。蓮川が酷く残念そうな顔を見せる。 しかし。 「行ってらっしゃい、あなた」 素っ気無いかと思えば、突然に目を細めて微笑みながらとんでもない台詞を耳元で囁かれ、蓮川の顔からボッと火が噴いた。蓮川は真っ赤になった顔を両手で覆い隠し、その場にうずくまる。 「な……んの真似ですかっ、それは……っ!」 「落ち着け、ほんの冗談だ」 「今はやめて下さいっ、今は!!」 うずくまりながら盛大に鼻血を吹いている蓮川の目前に腰を下ろし、忍は実に満足気にタオルで鼻血を拭いてやる。明らかにからかいにきている忍に、蓮川は恨みがましい瞳を向けた。 「全くもう……今の仕事終わったら容赦しませんから、覚悟しててくださいね!?」 おかげですっかり正気に戻った蓮川は、ヤバい本気で遅刻すると即座に立ち上がり、タオルで鼻を押さえたまま忍に背を向け走って行った。その背を見送り、相変わらずにこにこと微笑んだままの忍だったが、蓮川の背が見えなくなるとその表情から笑みは消え、切なげな瞳だけが宙を仰いだ。 (ほんとにもう、あの人は……) 今朝の忍の冗談を思い出し、冗談だと解っているのにまたしても顔からボッと火を噴きながら、蓮川は目の前の弁当に手をつける。久しぶりの手作りの味に感動したら、再び忍の悪魔的に天使な顔が思い出された。 だめだやっぱり好きだ可愛い愛してる。どんなに手の平で遊ばれているだけだと解っていても、つまらないプライドなんて粉々に吹き飛んで砕け散ってしまうほど。もうどうにでもして下さいと腹見せ状態な自分情けないと思いながらも、骨抜きにされてしまうあの異常なまでの魅力は一体なんなんだろう。 蓮川は考えるが答えは出ない。解らないけど好きだ。とにかく好きだ愛している。この仕事終わったら、絶対絶対絶対……!!! 「蓮川、美味そうな弁当だな」 頭の中が煩悩まみれのところ、突然に背後から声をかけられ、蓮川はびくっと肩を震わせた。 「一個もらいー!」 「あ……っ!」 ひょいと素手で玉子焼きを捕らえられ、蓮川は真横に立つ年上の先輩、安田信吾をじろりと睨みつけ、咄嗟に自分の弁当を死守する体制に入った。 「安田さんは今日もカップラーメンですか? モテるんだから、いーかげん結婚したらどうです?」 一見すると芸能人かと見まごうほどにルックスの整った安田であるが、三十代半ばでいまだ独身。女性関係での噂が絶えないところを見ると決してモテないわけではないだろうに何故だろうと、常に不思議に思っている蓮川だった。 「ばーか、結婚なんて人生の墓場だぜ? んなことより、おまえの仕事は順調に進んでんだろーな?」 バサッと頭から書類を被せられ、蓮川はぐっと飯を喉に詰まらせた。 「無茶言わないで下さいよ……っ。俺にこれ以上仕事フるつもりですか!?」 「おまえなら出来る! 俺の目を信じろ!!」 「貴方の目ほど胡散臭いものはないんですが……っ」 「大丈夫だって、おまえには期待してるんだ。この仕事で信頼を得られたら、将来出世間違いないぞ! 頑張れよ!!」 「ちょ……っ、だったら少しは手伝ってくださいよ……っ!!」 蓮川が吼えるものの、安田は完全無視でその場を去って行ってしまった。 残された書類に目を通しながら、蓮川は唸り声ばかりをあげる。これで今夜も午前様。明日も休日出勤決定だ。どこかの誰かによく似た先輩に心の中で恨みつらみの声を吐きながら、最終諦めのため息をついた蓮川だった。 (くそー……っ!!) 歯を食いしばり、目の前のキーボードをひたすら叩き続ける蓮川の表情は酷く険しい。 強引で傲慢なパワハラ上司安田ときたら、後輩を可愛がっているという名目のもとにさんざ自分の仕事押し付けやがって。なんで俺はいつもこういう人種にばかり当たってしまうんだ。もはや不幸という名の運命が忍との幸福を邪魔しているようにしか思えない。 高校時代と全く変わらない境遇に嘆いてばかりいると、ふと先日の会話が思い出された。 「忍先輩、洗い物終わりました!」 「ありがとう」 「忍先輩、洗濯物畳んでしまっておきましたよ!」 「ありがとう、助かった」 「忍先輩、お風呂洗い終わったのでもうお湯入れておきましょうか~?」 「ああ頼む」 一連の生活作業を終え、忍が先に風呂に入っている最中、いつものごとく同部屋に存在している光流が、突然に深くため息をついた。 「蓮川……おまえ少しは自分の立場に疑問持った方がいいんじゃねーか?」 「え……? なにを疑問に思うことがあるんですか……?」 きょとんと首をかしげる蓮川に、光流がますます呆れたようにうなだれる。 そうこうしている間に忍が風呂からあがってくると、蓮川は即座に駆け寄りドライヤーを手に持った。 「ちょっと待て蓮川、おまえ何するつもりだ?」 「え……忍先輩の髪を乾かさなきゃなので……」 しごく当然のように言う蓮川の手から、光流が咄嗟にドライヤーを奪い取った。 「ドライヤーくらい自分でかけさせろ!」 「だって、俺がやってあげた方が早いし気持ちいいって言うから……」 いっさいの疑問が無いどころか当然みたいな顔をして言う蓮川に、光流は呆れを通して唖然とした瞳を向ける。 「おまえ……おまえって奴はさ、何でそうも簡単に男のプライドを捨てることが出来るんだ?」 「プライドって……ただ髪乾かすだけのことに、なんのプライドが必要なんですか?」 わなわなと震える光流を前に、蓮川はきょとんと首をかしげた。 「そうだぞ光流、本人がやりたいと言ってやってるんだ。(余計な知恵をつけさせないでいいから)好きにさせてやれ」 「おまえそれ絶対計算だろ? 単に自分が楽したいだけだろ?」 光流が憤りを露にしながら、パジャマ姿で涼しい顔のまま蓮川の前に座り込む忍に問いかけるものの。 「先輩、熱くないですか?」 「ああ……凄く、気持ちいい」 髪を乾かしてもらいながら酷く気持ち良さそうに頬を蒸気させ怪しげな瞳を向ける忍に、蓮川もまたぽっと顔を赤らめる。光流の肩がますます震えたと思うと、乱暴にドライヤーを取り上げられ、蓮川はぎょっと目を丸くした。 「いいか、疑問を持て蓮川」 「ちょっ……熱っ、熱いですって……!!!」 ゴォォと音をたてるドライヤーから吹き出る熱風を浴びながら、蓮川は思い切り顔をしかめた。 「目の前の顔に騙されるな、言葉に惑わされるな、常に心に疑念を抱いて生きろ……! そうでない限り、おまえの人生犬まっしぐらだぞ!?」 「わ、わかりましたから、とりあえずそれ止めて下さい……っ!!」 熱いです熱いです熱いです!!と喚きたてる蓮川を前に、あくまで険しい顔つきの光流と、あくまで自分には関係ないといった様子でそれを見つめている忍であった。 いや、解ってる、解ってますって、大丈夫です光流先輩。 キーボードを叩きながら、蓮川は光流の言葉を再度自分に言い聞かせた。 今朝のことといい 昨夜のことといい、忍にいいように操られていることなんてとうの昔に解っている。それこそあの、二人にいいようにこき使われていた高校時代にだって、本当はとっくに解っていた。それでも逆らえなかったのは。解っていても「はい」と頷くしか出来なかったのは。時に酷く惨めになる時があっても、決して背を向けることができなかったのは。 (……き……だったんだ……) いつも目の前を圧倒的な速さで駆け抜けていく広い背中を、誰よりも尊敬していて。時折立ち止まり振り返っては気にかけてくれる優しさを、誰よりも感じていて。躊躇って怯えていたら頑張れと背を押してくれる力強さを、誰よりも頼りにしてきて。この人達なら、何があっても絶対に絶対に大丈夫だって強く思えたから、自分もどこまでもついていこうって思うことが出来たんだ。 高校時代を思い出しながら、蓮川はまた突然に昨夜のことを思い出し、苦笑を浮かばせた。 (くだらねー……) でも本当は、ドライヤー一つ自分でかけることを面倒くさがる、ドライヤー一つかけてやることに男のプライドをかける、そんな小さな子供みたいな人達だったなんて。 (疑問……かぁ……) けれど光流の言うことも最もで。結局自分は、なにも考えずに物事を引き受けては自分を追い詰め、自分がいっぱいいっぱいになれば途端に人に責任を押し付ける、至極自分勝手な人間なのだ。唐突に自覚した蓮川は、自己嫌悪に陥り深くため息をついた。 安田を信頼し尊敬しているからこそ、認めて欲しくて引き受けたくせに、今更泣き言なんて言うな。 蓮川は自分にそう言い聞かせ、目の前の仕事に集中することを決意した。 蓮川一也の一日はストイックだ。 朝は目覚ましが鳴る時間に起きて顔を洗い歯を磨き、ご飯と味噌汁と納豆という毎朝決まったメニューをしっかり摂って会社に向かう。忙しい時期以外は、ほぼ定時に帰宅し夕食の準備。食べ終わると自分の分の食器は必ず自分で洗い片づけを終え、その後高校時代から定着している三十分ほどの筋トレをしてから、外に出て一時間のランニング。帰宅後は風呂へ直行。そこからパソコンに向かい、毎日0時きっかりに電源を落とし、歯を磨いて寝る準備。 どこかの誰か(=元彼)みたいに何かしら食いながらテレビを見るといった習慣もなければ、だらだらと漫画を読むこともなく、パソコンを開いたからといってゲームをするわけでもなく、ひたすら仕事関連のプログラミング。相当にストイックな忍ですらワイドショーくらいは楽しむというのに、一体こいつの人生なにが楽しいんだろうと疑うほどのストイックさに、忍は感心を覚えずにはいられない毎日だった。 「俺の人生? 全然楽しいですけど?」 「だから何が?」 心底疑問に思いながら忍が尋ねると、蓮川は相変わらずきょとんとした表情で。 「だから……こうしてることが……」 当たり前じゃないですかと言わんばかりに、蓮川は同じベッドに横たわる忍の身体をぎゅっと抱きしめた。 その表情が、本当に、心の底から幸せそうで。 (あ……) ふと忍は、蓮川の生い立ちを思い出す。 そうだ、こいつはそういう奴だった。たとえどんなに不幸な境遇でも、大好きな人が一人そばにいてくれれば、それで何の疑いもなく、不幸を不幸とも思わず、幸福を幸福だとも思わず、ただ「嬉しい」しか感じないような、そんな……。 「犬まっしぐらだな」 「……喧嘩売ってるんですか?」 蓮川が目を据わらせる。忍はクスリと笑みを浮かべた。 「俺に首輪をつけられるのは嫌か?」 「とっくに自覚してます。でもあんまり調子に乗ったら……噛み付きますよ?」 蓮川は拗ねたように言って、ガブリと忍の首筋に歯をたてる。忍は恍惚とした表情で目を細めた。 最低だ。最低だ最低だ最低だ。 蓮川は悔しさと憤りのあまり、握り締めた拳を更にぶるぶると震わせた。 「どういうことです、安田さん!?」 蓮川にとっての初めての大きな仕事。前日までほぼ徹夜でやり通したにも関わらず、無残にも失敗という形で終わった。だがそれは決して蓮川のせいではなく、安田が取引先の相手と揉めたのが直接的な原因であった。 しかし安田はあまりにも思いがけない行動に出た。直属の上司に自分の責任ではない、蓮川の仕事に問題があったのだと訴えていたことを、蓮川はずいぶん後になって同僚の口から耳にした。あまりにあんまりな責任のなすりつけに、蓮川は込み上げる怒りを抑えきれないまま安田に詰め寄ったが、安田の応えは更に卑劣なものであった。 「頼むからそんな目くじら立てないでくれよ。実際おまえのプログラムに問題あったのも確かなんだしさ」 「だから…っ、俺は不安だったから、ちゃんと前日にこれで大丈夫かと、何度も最終確認したじゃないですか!?」 どうしてもどうしても納得がいかないと蓮川が訴えると、安川は仕方ないように深くため息をついた。 「蓮川、頼むから解ってくれよ? 今は俺にとって人生で最も大事な時期なんだ。もちろんおまえへの恩は忘れない。この借りは必ずいつか返すから、今だけこらえてくれ。頼む! この通り!!」 突然、わざとらしいほど大袈裟に頭を下げる安田を前に、蓮川は握った拳を震わせながらも、それ以上言い返すことは出来なかった。 珍しく帰ってくるなりビール一缶一気飲みした蓮川を前に、忍は仕方ないように眉を下げた。 「開き直って謝ってくれるなら、まだマシな方じゃないか。本物の屑なら最後まで嘘を突き通して保身した上、あとはおまえのことなど知らぬぞんぜぬで昇進コースまっしぐらだぞ」 「忍先輩……まるで覚えがあるみたいな言い方ですね?」 まるで本物の屑を見られるかのごとく蔑みの瞳で見つめられ、忍は思わず蓮川から目を逸らした。どうやら確実に覚えがある様子である。 「俺はそういうの絶対許しませんから! 人として最低の行為だと思います!!」 相変わらずまっすぐで正義感の強い蓮川は、たとえ恋人であろうともお構いなしに攻撃的な態度を向けた。忍はやや額に汗を滲ませたものの、少し考えてから諦めの視線を蓮川に向ける。 「……仕方ないだろう、それが組織というものだ。おまえの言う屑になれない限り、最後まで生き残ることは出来ない、そういう弱肉強食の世界なんだ」 「屑とまでは言ってません! ただ、それが「強い」って言うのは、なんか違うと思います……!」 どうしてもどうしても納得がいかない。頑なに意見を変えない蓮川を前に、忍は小さくため息をついた。 確かに蓮川の言うことは何一つ間違ってはいない。最低なのは誰がどう見てもその安田という人物だろう。真面目に上司を思いやり仕事をこなしてきた蓮川が非難される理由も何一つない。けれど。 「おまえほど、組織に向いてない奴も珍しいかもしれないな」 あと一歩。あと一つ。目の前の人物が「完璧な人間」ではなく、「一人の弱い人間」なのだということが理解できない蓮川には、きっと過酷すぎる世界なのだろうと忍は思う。 「おまえが変われない限り、どこに行こうと同じことだ。だったらいっそ、今のようなサラリーマン世界で生き抜くことは諦めて、他の世界を選んでみたらどうだ?」 「他の……?」 「おまえに向いている仕事なら、他にいくらでもあると思うぞ」 忍の言葉に、蓮川は顔をうつむけ神妙な表情をした。 誰もが羨むような大企業に就職して、わずか半年余り。 確か自分は、兄とは違うホワイトカラーの道を突き進むと決めていたはずなのに。 (結局はこうなるんだ……) 懐かしさばかりを感じる、古びた校舎の廊下を歩きながら、蓮川は己の境遇を半端なく呪った。 安田の件があって以来、会社でさんざ揉め事を起こした結果、ついに狭い鳥篭の中を脱出した蓮川が次に選んだ先は、高校教師。大学時代に教員免許は取得しているものの、採用試験は末受験なので、とりあえずは臨時教員として経験を積みながら採用試験合格を目指すことを決めた蓮川は、今日から働くことになった都内の共学高校で、不安と緊張に包まれていた。 いやでも、兄と全く一緒の職業というわけではないし。いや、今は別に保険医を軽視する気持ちは微塵もないけれど、あの頃は医者でも官僚でも弁護士にでもなれたはずの男が男子校の保険医って、あまりにも有り得なかったから……。そんな言い訳を心の内で繰り返しながら、結局は兄と似たような道を辿っている現在、血の濃さを感じずにはいられない蓮川であった。 (でも……) 『いいんじゃないか、おまえには合ってると思うぞ。……頑張れ』 そう言って背中を押してくれた恋人の力強い瞳を思い出し、蓮川はぐっと拳を強く握り締めた。 今日からここが俺の生きる場所。 希望の光を胸に、教室のドアを開いた蓮川……であったが。 「うっそ、まじ有りえねーしよ!」 「っざけんなよ! おまえまじ殺す!!」 「超ウケる~! おまえらなに喧嘩してんの?」 教師が入ってきたにも関わらず、机の上に座り大声で喋り続ける生徒、教室の端でなにやら喧嘩を始める生徒、それらを面白がりながら黄色い笑い声をあげる女子高生の群れ、あまりにもあんまりな目の前の風景に、空いた口が塞がらない蓮川であった。 学級崩壊。 その四文字しか浮かばない蓮川に、常勤教師である数学担当の長尾が抑揚のない声で言った。 「蓮川先生はどうぜ短い期間の勤務ですから、余計な事はせず、教壇に立って淡々と一時間授業を終えた方が賢明ですよ。あ、あの子達、最初は色んな嫌がらせしてくるかもしれませんが、全部無視して下さいね。相手にしたらますます酷くなるだけですから」 痩せ細った身体に銀淵の眼鏡、背後に何か背負ってるとしか思えないほど辛気臭い顔をした数学教師を前に、蓮川は不安ばかりを覚えながら、「はぁ……」と気の抜けた返事をすることしか出来なかった。 そして思う。 これでは、何も変わらないじゃないか……!!と。 確か、のし上がるためには上司に媚を売るしかない腐った組織に嫌気がさして、未来ある子供達を良い方向に導くこの仕事に大いなる希望を持って転職したはずなのに、実際のところは。 「蓮川せんせー、しつもーん! ディープキスはセックスに入りますかー!?」 (無視) 「修学旅行にゴム持ってっても取り上げられないですかー!?」 (無視……!) 「もし妊娠しちゃったら、どーすればいいんですかー!?」 (無視……!!!) たとえ何を言われようとも全て受け流して、ひたすら誰も聞いちゃいない授業の演説。 ちょっと要領の良い教師ならば、一緒にふざけて生徒のご機嫌をとりながら、ある程度は円滑に進む授業ではある。しかしそれでは、上司の抑圧に耐えて耐えて耐え抜いていた頃となにも変わらない。結局は上司に媚を売るか生徒に媚を売るかの違いだけではないか。 心の中で自問自答を続ける蓮川に、生徒達は容赦なく野次を飛ばす。やっぱり無理。俺には無理。絶対に無理。こんな低俗な質問を無視し続けることも、へらへら笑いながら冗談にすることも、これ以上つけ上がらせることも。 「おまえら、いいかげんにしろっ!!!」 ついにぶちっと堪忍袋の緒が切れ、ダァン!!と派手な音をたて教壇に拳を叩きつけた蓮川の前で、生徒達は実に楽しげに表情を歪ませた。まんまと彼らの挑発に乗ってしまった蓮川は、しまったと後悔するが後の祭り。こうなったらヤケだ、こいつら全員、今日こそ本気で黙らせる。そう決意した蓮川は、下品な罵声や笑い声をあげる生徒たちに、あくまで真剣に怒った眼差しを向けた。 「ディープキスはセックスに入らないし、修学旅行にゴム持っていったら当然取り上げるし、妊娠したら全部おまえらの自己責任だ! 安易に自分の子供殺したくないなら、時と場所と場合をしっかり考えてセックスするように! 以上!! 他に質問はあるか!?」 蓮川の叱責に、一瞬にして教室内が静まり返った。さすがの悪ガキ達も何か胸に響くものはあったのか、みなおずおずと姿勢を正し、気まずそうに無言になる。蓮川はようやく怒りを沈め、ふぅと小さく息を吐いた。 「……頼むから、勘違いしないでくれ。子供を作る行為というのは、とても大切で……尊いことなんだ。だから、愛し合うなとは言わない。でも、きちんと考えて欲しいんだ。いや……言わなくても、みんな、解ってると思うけど……」 生徒達が大人しくなった途端、激昂してしまったことが気恥ずかしくなり、蓮川は困ったようにそう言った。酷く反省したようにしゅんとしながら子供っぽい顔をする生徒達の姿が目前にあった。 おそらく彼らは、本気で性的な行為を軽視しているわけではなく、単純に目の前の新任教師への興味からくる、子供じみたからかい行為だったのだろう。要するに構って欲しかっただけの話だ。昔からさんざ周囲にからかわれ続けてきた蓮川には、彼らの行為が酷く子供っぽいことだということだけはすぐに理解できた。 だからこそ、初めて生徒達を可愛いなと、愛せそうだなと、そう思った瞬間でもあった。 授業を終え職員室に戻り自分のデスクに腰かけた蓮川は、ふぅと安堵のため息をついた。この仕事で初めて得た充実感を感じながら、薄く笑みを浮かべ目を細める。 「蓮川先生」 ふと頭上から声がし、蓮川は顔を上げた。目の前には教頭の姿。その隣に立つ女性を見るなり、蓮川は驚愕した。 「紹介します。昨日まで家庭の事情でお休みしていたんですが、今日から復帰してきた、美術の五十嵐先生です」 そう言って笑顔を見せた教頭の隣に立つ、グレーのスーツに身を包んだ一人の女教師。 後ろで一つに束ねたストレートヘア。美人すぎるわけでもなければ、決して器量が悪いわけでもない、平均的な顔立ち。どこか困ったような遠慮がちな瞳と目が合った瞬間、蓮川の心臓の鼓動がドクンと鳴り響いた。 「……巳夜……?」 蓮川がほとんど無意識の内に呼んだその名前。目の前の女教師は、どこか切なげに微笑んだ。 そんな。まさか。どうして。だって。 再び出会うなんて微塵も思っていなかった、かつての恋人を前に、蓮川の心の内は酷く動揺していた。 「……今日の授業中……」 放課後の校内。人気のない廊下を歩きながら、蓮川の高校時代の恋人、五十嵐巳夜は遠慮がちに声を放った。 「凄く、カッコ良かった……」 「あ……あぁ……」 あの、さっきか。いつの間に見ていたのだろう。生徒達に怒鳴った時のことを思い出し、蓮川は思わず顔を赤らめた。そんな蓮川の隣で、巳夜はふと立ち止まり、うつむけていた顔を蓮川に向けた。ずいぶんと大人びた姿。けれど、瞳はあの頃のまま何も変わっていない。蓮川は懐かしさばかりを胸に、巳夜の顔を見つめ返した。 「いや、ほんとは無視するつもりだったんだけど……つい、我慢できなくなっちゃって……」 「……変わってないんだね」 クスリと巳夜が微笑んだ。蓮川の顔がますます赤くなる。 「良かった……少しも変わってなくて」 それから巳夜は、酷く大人びた表情で、大人びた声を発する。そこにあの頃の若げの至りとも言うべき荒っぽさは微塵もない。それも当然だ。あれからもうずいぶん長い月日が流れているのだから。 「み……五十嵐……さん、も、変わってないよ」 かつて何度も呼んだ名前。けれど今は呼んではいけないような気がして、蓮川が遠慮がちに言うと、巳夜はほんの少し寂しげな瞳を見せた。 「……そうかな?」 「あ……でも、さすがにもう、自分のこと「おれ」とは言わないか」 場の空気を少しでも和ませようと、からかうように蓮川が言った。巳夜は恥ずかしそうに頬を赤らめた。思わず一瞬、ドキリとした。 「あ、あれは若気の至りで……!」 「解ってるって。でも、結局全然治らなかったじゃん。あんだけ頑張るって言ってたのに」 「……だから、さすがに社会人になってからは、頑張って直したってば! 今は、ちゃんと言ってるよ、「私」って!」 途端にムキになる巳夜を前にすると、蓮川はあの頃と少しも変わらない可愛らしさを感じて、クスリと微笑んだ。 「へぇ、じゃあ、今言ってみて?」 「え……」 「「私は元気です」って」 蓮川の言葉に、巳夜はわずかに目を見開いた。 それから少し間を置いて、躊躇いがちに口を開く。 「わ……私は、元気……です」 声は少しも変わらない。虚勢を張っていないと、途端に小さくなる声も。小さな子供みたいに泣き出しそうになる瞳も。あの頃のままの彼女だ。どうしようもなく好きだった、あの頃のままの。思ってから、蓮川はすぐその感情に蓋をした。 「良かった」 蓮川は優しく笑って言った。 「元気そうで……良かった」 それから穏やかな笑みを浮かべた蓮川の目前で、巳夜もまた穏やかに、そして一瞬泣き出しそうに微笑んだ。 キスをすると、切なげに瞳を伏せる。足を開かせると、途端に恥ずかしそうに頬を染める。声を聞かせてと言うと、いやいやと首を横に振る。意地悪をして焦らすと、途端に泣き出しそうに瞳に涙を浮かばせる。 「先輩……、イきたいですか……?」 「……ん……っ」 小さく頷く様子があまりに可愛くて、蓮川は先端を撫でるように舌で柔らかく愛撫した。ぴくぴくと震える忍のペニス。先端の割れ目を舌でなぞると、今にも溢れ出しそうに液が滲む。一旦口を離して裏筋を舌で舐める。もっと、もっと感じて欲しい。中に入れていた指を引き抜く。ひくひくと収縮するそこにも、蓮川は舌を寄せた。 「あ……っ、あ……! も……、い……から……っ」 ぐいと頭を押し退けられ、蓮川はやや不満げに口を尖らせた。けれど足を広げ何かを欲し待っているかのような忍の顔を見たら、欲望が膨れ上がって止まらなくなった。 膝裏に手をかけ、限界まで足を開かせる。唾液で濡れた秘部に、限界まで膨らんだ自身のペニスを押し当てると、蓮川はゆっくりと忍の中に侵入していった。呑み込まれるような感覚に翻弄され、蓮川は欲望に身を任せ腰を動かした。 「ん……っぁ……っ、あぁ……っ!」 ビクビクッと忍のペニスが震え、解放を待っていた精液が一気に溢れ出る。構わず蓮川は無我夢中に忍を犯した。 「あ……だめ……っ、イって……、今、イって……る……!!!」 涙と汗と精液でぐちゃぐちゃになった忍の、あまりにも淫らな姿が堪らない。 身体が求めるままに、蓮川は忍の身体を貪り続けた。 (大切にって……) 我ながら、よく偉そうにあんなことが言えたものだなと、蓮川はめいっぱい己の発言を悔いた セックスなんて結局は欲望の塊だ。どんなに愛していたって、自分の欲望が限界に達すれば、相手を優しく気遣う余裕なんてどこにもなくなる。それどころか、もっと滅茶苦茶にしたくて堪らなくなる。それが男の性というもの……などと己に言い訳していないで、もっと大切にしなきゃとひたすら自己嫌悪する蓮川であるが。 「はすかわ……」 ぎゅってして?と言わんばかりに首に腕を回してしがみついてくる忍は、なんだか酷く幸せそうで。え?間違ってなかった?あれで良かったの自分?とうっかり愛を履き違える蓮川は、大切で仕方ないように忍の身体をぎゅっと抱きしめた。 それからも、好きで好きで堪らないと言わんばかりにすりすりしてくる忍は、恋人というよりは猫そのものみたいな感覚で。もしかして俺って、凄く愛されてる? いやいやこの人に限ってそんなことは。いつものほんの気まぐれに違いない。疑いながらもあまりに可愛すぎてうっかり猫と間違えた蓮川は、同じように忍の髪をすりすりと頬で撫でた。 「忍先輩の髪って、凄く綺麗ですよね……」 サラサラの感覚があまりに気持ち良くて、ずっと抱いて眠っていたくなる。 「何で癖毛の奴はストレートへアに憧れるんだ?」 「……誰の話ですか?」 速攻で思い出される人物が約一名。ピクッと眉を吊り上げ尋ねた蓮川から速攻で目を逸らした忍を、もう一度めちゃくちゃにしてやりたくなる蓮川であったがグッとこらえた。 「全国的な平均値のことを言ってるんだ。つまらない事でいちいちヤキモチやくのは、いい加減にやめろ」 「いて……っ、じゃあ何で目逸らしたんですか!?」 グイと両手で髪の毛を引っ掴まれ、蓮川は痛そうに顔を歪めた後、同じように忍の顔を両手で挟んだ。 「逸らしてない」 「嘘だ」 互いに負けるもんかと真剣な睨み合い。が、どちらかといえばやはり蓮川の方に分があった。 「……好きだって、言ってる」 先に瞳の力を抜いて声を発したのは忍の方だった。 蓮川はまだ真剣な瞳のまま、忍を見据えている。しかし忍の瞳がわずかに潤んだ瞬間、蓮川は目を見開いた。 「おまえが一番だって、言ってるのに……!」 どうして信じないんだこの馬鹿と、まるきり拗ねた瞳で忍が訴えると、蓮川は途端におろおろと顔を赤らめた。 「あの、いや、俺だって、もちろん……!」 ごめんなさいごめんなさいと心の中で叫びながら、蓮川は忍の頭をぎゅっと抱え込んだ。 「好きです……! 誰よりも誰よりも世界中で一番、あなたのことが……!!」 焦りまくりながら強く抱きしめると、同じくらい強い力でぎゅっと抱きしめられる。 ああ本当にこの人は……もう……!! 今夜は絶対に止められない核心を抱きながら、蓮川は噛み付くように忍の唇にキスをした。 |