HERO<再会>



 
 
 教師という職業がこんなにもブラックだったなんて。
 陸上大会で数多の成績をあげてきたが故に、ほとんど無理矢理に陸上部顧問の補佐を頼み込まれた蓮川は、定時には帰ることができない毎日の上、土日も休みなく生徒達の練習に付き合う日々が続き、くたくたに疲れ果てていた。
 しかし。
「三浦、ちょっと無理しすぎじゃないか?」
「……いや、大丈夫っす。あと一周だけ……」
「いいから今日はもう帰れ。無闇に走っても足腰痛めるだけだ。休養も大事なトレーニングのうちだぞ」 
 他の陸上部員はとうに下校しているにも関わらず、一人黙々と走り続ける生徒に、蓮川は諭すように言った。
「……はい」
 素直に頷くもののどこか不満げな生徒に、蓮川は眉をしかめた。しかしそれ以上は何も言わず、帰宅するため背を向ける生徒の後姿を黙って見送った。
 

 三浦春人(みうらはると)。十六歳。父親は幼い頃に他界し、現在は母子家庭の一人っ子。
 蓮川は担任教師から陸上部生徒の家庭環境を聞くなり、なるほどと妙に納得せざるをえなかった。
 何故同類というのは、こうも簡単に見分けがついてしまうのだろう。たぶん同じ匂いがするからだ。
 初めて見た時から、なんとなく気にはなっていた。周囲の友人とは一線を引いた冷めた付き合い方、いつもどこか諦めたような瞳。そのくせ走ることにはがむしゃらで、自分を限界まで追い詰めながら、いつも目に見えない何かを追っている。
「……今日もパンか?」
 昼休み、いつもと同じ屋上手前の踊り場。コンビニで買ったパンに食らいつこうとしていた生徒、三浦春人に声をかけると、彼は怪訝そうに蓮川を見上げた。蓮川はその隣に腰を下ろし、手に提げていたランチバックから二人分の弁当箱を取り出し、一つを春人に手渡した。
「そんなもんばっか食ってたらちゃんとした身体作り出来ないし、いつまでたっても早く走れるようにはならないぜ?」
「……どーも」
 春人は無愛想に弁当を受け取るが、おそらくは照れ隠しだろう。弁当の蓋を開くと、いつも冷めた瞳が一瞬だけ輝きを放つのを、蓮川は見逃さなかった。
「……これ、先生が作ったんスか?」
 春人は明るく染めたやや長めのストレートヘアをかき上げ、割り箸を口で割った。
「そう。美味そうだろ?」
「……地味っスけどね」
「ばーか、下手に凝ったもんより、こういう弁当のが美味いんだよ」
 鳥ささみの味噌焼き。えのきのベーコン巻き。だし巻き玉子。ほうれん草の胡麻和え。見た目茶色いと、そういえば忍にもよく言われるけれど、あなたの異常に凝った弁当より気楽に食べれるので、とうっかり言い返して大喧嘩になった日のことを思い出し、蓮川は苦笑した。
「先生、一人暮らしですか? 料理とか、するんスね」
「まあ……中学生の頃には簡単なもんくらいは自分で作ってたからな。親、いなかったし」
 蓮川のその台詞に、春人は目を見張った。
「だからおまえも、自分の飯くらい自分で作れよな。高校生にもなれば、料理くらい簡単に出来るんだからさ。解らないなら、最初は俺が教えてやるし」
 蓮川はあくまで淡々とした口調で諭す。春人は弁当を食いながら、黙って耳を傾けていた。


 帰ってこない。
 どうして帰ってこないんだ。
 テレビを流し見しつつチラチラと時計に目をやりながら、忍は苛々と眉をしかめた。
 いや、サラリーマン時代にもこんなことは多々あったし、大して気にしてないけど。仕事なら仕方ないけど。でもいくらなんでも、残業多すぎやしないか。休日出勤ありすぎやしないか。完全に労働基準法ガン無視じゃないか。訴えてもいいレベルなんじゃないかこれは。
「しっのぶくーん! 今日は一段と不機嫌だけどそんなおまえも好……ぐはっ!!!!」
 飛びついてくるなり速攻で殴りつけた光流は無視して、忍は今日こそ、まずこのブラックな職と社蓄な自分を良しとしている蓮川に訴えてやると、心の内で拳を握り締めた。
「おまえもおかしいと思わないか光流? どうせまた、おまえみたいな屑パワハラ上司にこき使われてるに決まってるんだ……! まったくあいつの要領の悪さときたら……」
「忍くん、寂しいからって俺に愚痴言うのはすっげー無神経っつーか無防備っつーか……とにかくすげー腹立つの頼むから解って?」
 光流は缶ビール片手に、微笑みながらもふるふると肩を震わせる。しかし目の前でくだを巻いている忍はといえば全く聞いておらず、相変わらず帰ってこない蓮川の愚痴三昧である。
「心が寂しい生徒だかなんだか知らないが、犬や猫とはわけが違うんだ! むやみやたらに拾って可愛がったところで、根本的な問題が解決しなければ返って残酷なだけだろう!? 結局その心労の挙句ダウンして、尻拭いするのはいつも俺だ! あ!? 解ってるのか!? 解ってるのかおまえらは!!??」
「いや……ほんとすみませんごめんなさい許してください……」
 完全に酔いに酔った忍に胸倉を掴みあげられ、光流は思い切り身に覚えのある行動だけに、一つも反論は出来なかった。とはいえ、似たような男を選ぶおまえもおまえだと言いたいけれど、当然言えるはずもなく。
「わかる、わかるよ~忍先輩。なんでこう後先考えないんだろうね、この人達は」
「瞬……っ、やっぱりおまえだけだ……っ、俺の気持をわかってくれるのは……っ!」
 いつの間にやら合流していた瞬に泣きつく忍の頭を、瞬がよしよしと撫でる。
「でも、言ったところで治らないから。学習しない猿だから。単純馬鹿だから。諦めるしかないんだよ。それに、そういうところが好きなんでしょ?」
 まるで聖母のごとく穏やかな笑みを浮かべる瞬を前に、忍はまだ納得いかないながらも諦めたように頷いた。
 愚痴るだけ愚痴って泣くだけ泣いたら気が済んだのか、すやすやと眠る忍を横に、瞬は小さくため息をつく。
「それにしても……ほんとよく似てきたよねぇ、すかちゃんてば」
「やめろマジで凹む」
「……嬉しいくせに」
 にっこり微笑む瞬を前に、光流は目を据わらせ口をとがらせてから、ビールをぐいと飲み干した。


「見て、蓮川先生。この絵、凄くいいと思いません?」
 放課後の職員室、ふと巳夜が差し出してきた一枚の絵に、蓮川の目は釘付けになった。
 それは見慣れた校庭の風景。一人グラウンドを走るジャージ姿の男性。明らかに自分を描いているとしか思えないその絵を前に、蓮川は感動をおさえきれないように頬を蒸気させた。
「これ、三浦君が描いたんです。……きっと、凄く好きなんですね、蓮川先生の走る姿が」     
 巳夜は穏やかな声で言った。その言葉に、蓮川は今にも泣き出しそうな表情になる。
「へぇ……、あいつにこんな才能があったなんて、知らなかった。陸上よりも絵の方が向いてるかもな」
「私もこの才能、惜しいなって思ったけど……たぶん三浦君は、美術部に誘っても断るんじゃないかな」
 フフ、と小さく、巳夜が微笑む。きっと彼女も三浦のことをよく解っているのだろうと、蓮川は悟った。なぜなら彼女もまた、自分たちと同類なのだから。
「み……五十嵐先生は、何で絵の道に……?」
「……覚えてないの……?」
「え……?」
「……ううん。他に、何も出来ることがなかったから……かな」
「え、充分凄いと思うけど。いやほら……俺、絵はめちゃくちゃ下手だから、描ける人ってほんとに尊敬する」
「そういえば昔、描いてくれたよね。……猫の絵」
 巳夜が懐かしそうな瞳をした刹那。蓮川の脳裏に、高校時代の記憶が鮮やかに蘇った。


『おれ……ずっと、猫が欲しかったんだ……』
『猫……?』
『いつもおれの帰りを待っててくれる猫』
『……わかる。おれは、犬だった』
 古びた狭い家。それは巳夜の部屋で、初めて身体を重ねた日のことだった。母親が仕事で留守にしていたのをいい事に、抑え切れない愛情が溢れ出して、止めることは出来なかった。
 お互い何もかもが初めてで、幼くて、拙くて、それでも産まれて初めて、自分が世界一幸福だと感じることが出来た日。
『じゃあ、将来結婚したら、犬と猫、両方飼う?』
『うん……!』
 巳夜が嬉しそうに微笑む。
『いが……巳夜、は、どんな猫がいい?』
 一生守ってやりたいと、心の底から想ったら、自然と名前を呼んでいた。
『……真っ白な猫。……一也、は……?』
 同じように名前を呼び返されて、一瞬酷くドキリとしたけれど、平常心を装った。
『え……と、……茶色くて、ふわっとした……』
 言葉ではうまく説明できなくて、ベッドの上に広げたノートに鉛筆で犬の絵を描いた。
 けれどあまりにも下手くそすぎて、巳夜は涙が出るほど笑って。
『次! 猫! 猫の絵描いて?』
『わ、笑うなよ……!?』
 やっぱりあまりにも酷すぎる猫の絵を見て、巳夜はますます大笑いして。
 もう二度と絵なんか描くもんかと拗ねたら、さらさらと慣れた手つきで犬と猫の絵を描いてくれて。
 自分のものとはあまりに違いすぎて、あまりに上手すぎたから、感動のあまり何度も「凄い!!」を連発した、あの日。
 
  
「あの時、凄く感動してくれて……嬉しかったんだ。人から褒めてもらえたの、初めてだったから」
「そ……か、でも、ほんとに上手かったから……。あ、俺のは、最悪だったけど……」
 蓮川があまりに悲惨だった自分の絵を自虐すると、巳夜は酷く可笑しそうに笑った。
「わ、笑うなよ……!」
「ごめんごめん……っ」
 言いながらもまだ笑い続ける巳夜に、蓮川は口をとがらせる。
「良かったら、今度見に来て。私の絵も飾ってあるの」
 ひとしきり笑った後、巳夜は蓮川に一枚のチラシを差し出した。それは数人の画家による作品展の案内だった。
「ありがとう、休みの日に行ってみる」
 蓮川がチラシを受け取り、笑顔で言った。


 次の日曜、絵を見に行きませんか?
 確かにそう、言おうとしたのに。
(さすがに……なぁ……)
 元彼女の作品を、なんて忍に言えるはずもなく。
 少なくとも自分だったら、渋々ながら付き合いはするだろうけど、とてもいい気分になるとは思えないし。ただ嫌な想いさせるだけなら、最初から黙っていた方がいいのではないだろうかとさんざ悩み、結局は一人で赴いた作品展。
 数々の絵を眺めながら、蓮川は頭の中にクエスチョンマークばかりを浮かべた。もっとこう風景画とかだったらわかりやすいのだけれど、いまいち意味が解らない抽象画ばかりで、正直これの何が良いのかさっぱり解らない。
「わからねー……」
 突然、すぐそばで声が響いた。うっかり口に出してしまったかと焦った蓮川の隣で、巳夜がにっこり微笑んだ。
「って顔してる」
 どうやら心の内を代弁してくれた巳夜に、蓮川は苦笑を向けた。
「……ごめん」
「いいよ。絵なんてほとんど自己満足の世界だもの。それより、来てくれてありがとう」
 この後、時間あれば。そう尋ねてきた巳夜に、蓮川は一瞬迷いながらも、「少しだけなら」と応えた。


 日曜日。久しぶりに丸一日休みだというのに、小一時間ほど出掛けてきますと言って戻ってこないこと三時間。
 何だか最近、凄くぞんざいに扱われている気がする。
 どんよりと重い空気を背負った忍に、光流が背後から襲い掛かった。
「忍~っ、暇なら映画見に行こーぜ! 映画!」
「……クソつまらないアクション以外だったら行ってやってもいい」
 もう知らない。蓮川なんかほんとに知らない。これ以上待ってなんかやらない。完全に拗ねモードに入った忍は、あてつけと言わんばかりに光流の誘いに乗ったのであった。


 作品展を一通り見終えたら、すぐに帰って忍と共に休日を過ごすつもりだった。
 けれど、一杯お茶を飲むだけと近くのコーヒーショップに足を向け、ふと春人の話が出た途端に、止まらなくなった。
 母親は介護職で夜も留守にしている事が多いこと。連日バイトに明け暮れて、あまり良くない友人が多いこと。女関係でもトラブルが絶えないこと。様々な事実を知れば知るほど、蓮川の心の内は重くなっていった。
 けれど、ずっと面倒を見ていられるわけじゃない。愛情をかければかけるほど、自分がいなくなった後に辛くなるのは春人自身で。きっと自分は残酷なことをしている。その自覚があるだけに、これからどうすれば良いのか、どう距離を置けばいいのか、延々とそんな話をしている内に、気が付けば時刻が随分と過ぎていた。
しまった早く帰らなければと、巳夜と共にコーヒーショップを出て駅に向かっている最中のことだった。
 突然、目の前にお星様が回った。
 え……今何が起こったの? 大地震? それともガス大爆発? わからない。よく解らないけど……もう……無理、かも……。
 わけがわからないままに、蓮川の目の前が暗くなっていく。
「一也……っ、一也……!!」
 どこかで聞き覚えのある声。
 そう、これは確かに遠い昔に聞いた……。
 けれど最後に別れた時には、もう二度と聞きたくないと思った声だ。


「蓮川……!!」
 眩しいほどの光が差し込んだと同時に、よく見知った顔が視界に飛び込んできた。
「光流先輩……?」
 蓮川が目を開きゆっくり起き上がると、目の前にはホッと一息ついた光流の顔があり、蓮川はきょとんと首をかしげた。
「え……俺、何で自分の家に……?」
「おまえ、覚えてないのか……?」
 眉をしかめる光流に、蓮川はまだぼんやりとする頭を抱えながらも、突然にハッと目を見開いた。
「忍先輩!?」
 蓮川は慌てて周囲に目を向けるが、目的の姿はどこにも見当たらない。すると光流が忍の部屋を指さした。蓮川はすぐさま忍の部屋に駆け寄りドアノブに手をかけるが、しっかり鍵がかけられている。蓮川は何度もドアノブを回しガチャガチャと音をたてた。
「忍先輩っ! 開けて下さい!! 違うんです! あれは違うんですってば~!!!!」
 必死で声を荒げるものの、中の人物は完全に沈黙を決め込んでいる。蓮川は涙目を光流に向けた。光流がいやいやいやと首を横に振る。
「いやおまえ……あれはいくらなんでも言い訳不可能だろ。よりによって元カノとデートって……」
「違いますって! 彼女とはただ単に職場で偶然会っただけで! あれは彼女の絵の展示会見に行っただけで、まさかデートなんてするわけないでしょう!!??」
 完全に誤解だと言い張る蓮川であるが、背後で静かにドアが開くなり凄まじい冷気を感じ、蓮川の表情がサーッと青ざめていった。
「……偶然……だと……?」
 おっそろしく低い声を放ち、間違いなく目からビームを発している忍を、蓮川は恐る恐る振り返る。案の定そこには、本気で石にされるのではないかと恐怖するほどの怒りオーラを放った忍の姿があった。
「いつ?」
「いや……、あの……っ、い、一ヶ月くらい前に……!」
「どこで?」
「学校で……っ、その……、彼女が美術教師で……偶然、たまたま……!」
「何故それを先に話さなかった……?」
「いや! だって! 聞いたって嫌な想いするだけかなって思って……!」
 殺される。まじで殺される。本気の恐怖を感じながらも、蓮川はしっかり忍の問いに応えた。 
「一億歩譲ってその思いやりは認めてやろう。だがしかし、プライベートで会う必要は果たしてあったのかなかったのか?」
「ありません! 一つも微塵も全っ然ありません!! ほんとにすみませんでしたっ!!!!!」
 でも絶対死んでも浮気とかじゃありませんから!! 懇親の想いを込めてそう言うと、忍は再度拳を振り上げた。二度目の殴られる覚悟を決め目を閉じた蓮川に、しかし予想していた衝撃は訪れなかった。
「すとーっぷ。それ以上殴ったら、俺と違って顔二度と戻らなくなるぞ」
 蓮川の目の前には、忍の拳を片手でガードした光流の背があった。  


 でもよく考えたら、自分こそ元彼とデートしてるんですけど……。とは言えないまま、床に体育座りをしてまだ拗ねてる忍の肩に、ソファーに座った蓮川は恐る恐る手を伸ばした。しかし触れた途端、電撃が走ったかと思うほど忍の肩が震え、蓮川もまたビクッと大きく身体を震わせた。
「あ、あの……、言わなかったのは、本当にすみませんでした……。でも、本当に彼女のことはもう何とも……」
「……だったら何で、絵を見に行ったりしたんだ」
 蓮川に背を向けたまま、忍はまだ納得がいかないというように尋ねた。
「そんな……深い意味は……。ただちょっと、彼女の絵に興味があっただけで……」
「絵じゃなくて、彼女に、だろう?」
「違います!!」
 忍の問いに、蓮川は思わず声を荒げた。刹那、忍が険しい顔を蓮川に向ける。
「違わない! でなければムキになる必要なんてないだろう!?」
「それは、忍先輩が信じてくれないからで……!」
「信じられるわけないだろう!? ずっと会ってたことを隠されてて、俺の知らないところでプライベートでまで会っていて、どうやって信じろって言うんだ……!!」
「だから何度も言ってるじゃないですか! 貴方に嫌な想いさせたくなかったから黙ってただけだって!」
「そんなのただの言い訳だ! やましい事が何もないなら、とうに言えてたはずじゃないか……!!」
 どこまでいっても平行線の話し合いに、蓮川は疲れたと言わんばかりに息を吐いた。
「……いい加減にして下さい。そんなに俺のことが信じられないんですか……?」
 どう言っても信じてはくれない忍に、今にも爆発しそうな怒りをどうにか抑えようと、蓮川は声を低くする。しかし握り締めた拳の震えは止まらなかった。
 本当に、彼女にはもう何も想いもないのに。今好きなのは貴方だけなのに。今までだってずっと、誰よりも大事にしてきたのに。どうして信じてくれないんだ。苛立ちが募るばかりの蓮川に、   
「信じられない!!」
 忍が懇親の力を込めて言葉を放った瞬間、込み上げる苛立ちに耐え切れず、気がつけば蓮川は忍の頬を思い切り殴っていた。赤くなった頬を抑えた忍の瞳に驚愕の色が走り、それからじわっと涙が浮かびあがる。こらえきれず怒りに身を任せた蓮川が後悔の念を感じ、「あ……」と声をあげた途端、今度はバキッ!!と派手な音が響き渡り、目の前に本日二度目のお星様が回った蓮川であった。
  


『一也……! 一也……!!』
 頭の中に、何度もあの女の声が響き渡る。
 煩い。煩い煩い煩い煩い……!!! 
 忍はその声をどうにか振り払いたくて、公園のベンチに座り自分の頭を抱えた。
 今にも泣き出しそうな瞳。必死で彼を呼ぶ彼女の声。まだ恋人同士だった頃のままに。
(嘘だ……っ)
 どうして、なんで、今頃になって俺達の目の前に現れたりするんだ。
 かつて蓮川が、どうしようもなく好きになった女。忍は知っている。蓮川がどれだけ彼女のことを好きだったのか。何度諦めようとしても諦めきれなかった恋。がむしゃらに頑張って頑張って、ようやく実った恋。彼女だけを想い彼女だけを見て、幸せな恋心に満たされていたあの頃。全て見ていたからこそ、今こんなにも心を揺さぶられる。かつては心静かに応援していたはずの恋に、今こんなにも苦しめられるなんて。忍は襲い来る嫉妬の波に呑まれ、完全に我を見失っていた。
『そんなに俺のことが信じられないんですか……?』
 唐突に蓮川の声が蘇る。  
 信じられない。信じられるわけがない。ずっと会っていたことを秘密にされて、あまつさえまるで恋人同士のように並んで歩いている姿を目前にして、どうして信じられるって言うんだ。本当に何の気持ちも無いのなら、とうに言えたはずじゃないか。黙っていたのは、言えない何かがあったからだとしか思えない。
 だってあんなに。
 あんなに好きだった相手に再会して、もう何の気持ちも無いなんて、思えるはずがないじゃないか……!!!
 怒りで震えが止まらない。憎しみでどうにかなりそうになる。怖くて苦しくて不安で、気が狂いそうだ。あいつは俺のなのに。俺のものなのに。絶対に絶対に、誰にも渡さない。増してやあの女には絶対に。激しい感情の渦に巻かれながら、忍はそれらの感情を必死で押し殺そうと、ぶるぶると身体を震わせた。


 真夜中になっても、忍が家に帰って来ることはなく。
「光流先輩……っ、頼むから居場所教えてください……っ!!!」
 どうせ知ってるんでしょう!?絶対知ってるんでしょう!?と詰め寄る蓮川に、光流は落ち着けと宥めるものの、蓮川の焦りは強まっていくばかりであった。
「いやほんとに俺も居場所はわからねーんだって。けど今は何を言っても無駄だ。とにかく距離を置け」
「でも、だって、万が一忍先輩に何かあったら俺……!」
「んな簡単に死ぬようなタマじゃねーから。むしろ自分の命を心配しろ」
「……光流先輩、過去に似たようなことあったんですか……?」
 本気で蓮川の命を心配してくる光流に、蓮川は途端に怪訝そうな目を向けた。
「いや……まあ、大学時代にちょっと……」
「浮気したんですね?」
 蓮川は思い切り軽蔑の眼差しを光流に向けた。
「ち、ちげーよっ! 無理矢理参加させられた合コンで、どーしても断りきれなくてだなぁ……っ!」
「ヤったんですね?」
 更なる軽蔑の眼差しを向けられ、光流は額に汗を流した。蓮川がはぁと深くため息をつく。
「光流先輩がそーいうことするから、忍先輩が男性不信に陥るんじゃないんですか!? どう責任とってくれるんです!?」
「ちょっと待て!! 誤解されるようなことしたのはおまえだおまえっ!! 俺に全責任を押し付けるんじゃねーよ!!」
 光流が喚くものの、蓮川はまだ恨みがましい目を光流に向けて涙ぐむ。
「だって俺……ほんとに浮気なんかしてないのに……! どんだけ謝っても許してくれないし、疑われるばかりで……これ以上どうしたらいいんですか……っ」
「えーと……とりあえず俺は「今すぐその腐ったちん○をハイターで消毒したら許してやる」って言われたから実行したけど、おまえも同じことしたら許してもらえるんじゃね?」
「ほんとに消毒したんですか!!?? ……じゃなくて!! あんたらの非常識な感覚と一緒にしないで下さい……っ! 大体消毒も何も、俺は先輩と違ってほんとに何もしてませんから……!」
「だったら何で、さっさと五十嵐と職場で再会したこと言わなかったんだよ?」
 元はといえばそこだそこと、光流が呆れながら尋ねる。
「だって元カノの話なんか聞いて楽しいですか!? たとえ職場上の付き合いだけであっても、会ってるって知ったら無駄に不安になるだけじゃないですか!? どうせ数ヶ月しかいない職場だし、離れたらそれきり会うつもりはなかったし、だからわざわざ言う必要は無いかなって思ったの、そんなにいけなかったですか!?」
「いや……なんつーか……おまえもおまえで人の気持ち考えすぎじゃね?」 
「大体自分は毎日のように元彼と会ってるじゃないですか!? それどころか必要以上にベタベタしたりいちゃいちゃしたり、あまつさえ何度俺の前でキスまでしました!? 何度したんですか光流先輩!!??」
「い、いやあの……今回ばかりは本気で謝りますんで頼むから落ち着いて下さい」
 いやまじでごめんと、初めて蓮川の忍耐力に敬意を表した光流であった。


 いや今はそんな小さいことで愚痴愚痴言ってる場合じゃない。(※決して小さいことではないことには気づいていない)
 何度も忍の携帯に電話をした蓮川であるが、居場所は一向に検討がつかず。 
 その夜、ふと蓮川の携帯電話にかかってきた電話越しの相手に、蓮川は間抜けな声をあげた。
「へ!?」
「だから、忍先輩ならうちにいるってば。何でいつも僕の存在を忘れてるわけ!? どうせまた光流先輩にばっか泣きついてたんでしょ!?」 
 電話越しに喚き声をあげる瞬の声を聴きながら、思い切り肩透かしをくらう蓮川であった。


「忍先輩、いいかげん許してあげなよ? だいたいすかちゃんが浮気なんか出来るはずないじゃん」
「……一也って言った」
「は?」
「あの女、「一也」って呼んだんだぞ、「一也」って……!!」
「そんなに悔しいなら、自分もそう呼んだらいいでしょ!?」
 ヤッたわけでもあるまいし馬鹿馬鹿しい!!と一蹴りする瞬に、忍はあくまで逆毛を立て続ける。
 完全に聞く耳持たない拗ねモード全開の相手に、だめだ何を言っても通じるはずがないと頭を抱える瞬であった。


 瞬の部屋のベランダに佇み背を向けるばかりの忍に、蓮川は静かに歩み寄った。
「忍先輩……」
 しかし呼んでも返事は無い。
「まだ……怒ってるんですか……?」
 蓮川は真剣な声を放つ。忍がゆっくりと振り返り、決して好意的ではない表情を蓮川に向けた。
「どうしたら……信じてもらえるんですか……?」
「信じてるとか……信じてないとか……そういうことじゃない」
「だったらどういう……!」
「俺にだって解らない……! ただ許せないんだ……!」
 わけのわからない忍の応えに、蓮川は困惑ばかりを覚えた。
 だったらどうしろと言うのだ。これ以上何を望むんだ。忍の心の内がまるきり解らない蓮川は、不安感からくる苛立ちを抑え切れない。
「土下座して謝ればいいんですか!? それともハイターでちん○消毒すれば満足ですか!? 俺がそこから飛び降りれば気が済むって言うならそうしますけど!!」
 もうこうなったらヤケだとばかりに蓮川が叫ぶと、忍は今にも泣き出しそうな表情をして、ぶるぶると首を横に振った。
「違う……っ!」
「何が違うんですか!? 貴方の言ってること、全然わからないです!! 俺を謝らせたいのか屈服させたいのか殺したいのか、はっきりして下さい!!」
 頭の中が混乱する。もうめちゃくちゃなことを言ってるのは、自分でも解っていた。けれど本当にわからないのだ。忍が何を望んでいるのか。どうして欲しいのか。だったらもう、何もかもどうでもいい。そんなに信じられないなら信じなくていい。殺したいならさっさと殺せばいい。
 だって俺は、貴方に殺されるのなら、貴方に捨てられるよりもずっと……!!
 興奮するあまり、蓮川はべランダの手すりに飛び乗った。
 蓮川の思いがけない行動を前に、忍が目を見開く。
「どうぞ、貴方の気が済むように」
 突然に、蓮川はいやに冷静な声で忍に訴えた。
 忍はわずかに肩を震わせながら、蓮川を見つめる。その瞳にわずかに狂気の色が宿った。
「……おまえは……」
 ますます我を見失い狂気の色を濃くする忍は、そっと蓮川に手を伸ばす。
 蓮川は忍から真剣な瞳を逸らさない。
「俺の……」
 渡さない。絶対に、絶対に、誰にも。そう忍の瞳が訴えているのを、蓮川は確かに感じ取った。
 この人は、本気だ。そう悟った瞬間、背筋にゾクリと寒気が走った。狂人じみた忍を前に、蓮川はごくりと喉を鳴らす。けれど今更、逃げることなんて出来ない。それはイコール、この人を見捨てるということだ。それは、それだけは───!!!
 覚悟を決め目を閉じた蓮川の身体が、忍の手に押されグラリと揺れる。
 刹那、忍はハッと目の色を取り戻した。
 まっさかさまに落ちていこうとする蓮川の手首を、忍は咄嗟に掴んだ。渾身の力を込めて引き上げようとするが、両手で掴んでいるのが精一杯だった。
「いいから離して下さい……っ!」
「ふ……ざけるな……っ!」
「いいですってば……! もういいです……! 死んだっていいんです……!!」
「馬鹿……っ! 何でそんな……!」
「貴方に信じてもらえないなら、もういいです……!!」
 馬鹿。馬鹿馬鹿馬鹿。もうお互いに、そうとしか思えなかった。
 掴んだ手の震えが限界に達し、ベランダから落ちていく蓮川を、忍は絶望に満ちた瞳で見送ることしかできなかった。


「蓮川……っ、蓮川……!!!」
 自宅のベッド上で力なく瞳を閉じる蓮川に、忍が泣きながらしがみつくものの。
「大丈夫だから忍先輩、ちょっと気絶してるだけだから。すかちゃん頑丈だし」
「うんまあ、二階から落ちたくらいじゃまず死なねーよな」
 つかおまえら、本気で何してんの? ベランダで盛大に声張り上げて痴話喧嘩の挙句に飛び降りとか、あまりにも恥ずかしすぎじゃね?と光流が突っ込むものの、感極まっている二人の耳には何一つ届いてはいない様子だ。
 不意に蓮川がぱちりと目を開いた。目の前で涙を流す忍を見るなり、蓮川はがしっとその両頬を手で包み込んだ。
「忍先輩っ、無事でしたか!!??」
 ベランダから落ちたのは自分であるにも関わらず、決死の表情でまず忍の心配をする蓮川を前に、忍がますます瞳を潤ませた。
「良かった……! 忍先輩に何かあったら俺……!!!」
 蓮川はがしっと忍を抱きしめ、ひたすら忍の身を案じる。ボロボロと忍の瞳から涙が溢れた。
「うー……っ」
 言葉にならない声ばかりが溢れ出て。
 しがみつくように蓮川に抱きついた忍の瞳から、後から後から涙がこぼれて止まらなかった。
 そっとしておいてやろ?と瞬が光流に目配せする。二人は仕方ないように、それぞれの自宅に戻って行った。
 


 ただどうしようもなく、苦しかったんだ。
 悔しくて怖くて不安で辛くて、許したくても許せなくて。別の誰かに盗られるくらいなら、今ここで自分のものにしてしまいたい。
 そんな身勝手な自分がもっと許せなくて、いっそ死んでしまいたいとすら思った。
 おまえはずっと、こんな苦しい想いに耐えていたんだと思ったら、なおさら自分を許せなくなって。
 こんな自分、愛される資格なんてない。
 そう思ったら、もう死ぬしかないって。
 おまえと別れるくらいなら、死ぬしかない。
 そう、思ってしまったんだ。
「馬鹿……!!」
 泣きながらそう本音を打ち明けた忍に、蓮川は涙目で訴えた。
「俺の気持ちなんかより、貴方の方がずっと……!」
 ずっとずっと、大事なんです。
 蓮川が言うと、忍もまた涙目で蓮川を見つめた。
 好きだと、何度も訴えた。
 狂おしいほどの熱に浮かされながら。

「あ……っ、はす……」
「……一也、ですよ……?」
 呼ばなかったら、イかせてあげません。蓮川は忍の口を片手で塞ぐと、そう耳元で囁いてから、そっと手を離した。解放を待つペニスが蓮川の手の中でひくひくと震えている。忍は焦点の合わない瞳に涙を浮かべ、蓮川の首にかじりついた。
「か……ず、や……っ、……も……イきた……っ」
 おかしくなる。そう言ってねだる忍のペニスを、蓮川は上下に扱いた。限界まで膨れあがったペニスから、勢いよく精液が溢れ出す。汗と涙と唾液にまみれた忍の顔が快楽に歪み、苦しげに瞳を閉じた。
「初めて俺の名前、呼んでくれましたね?」
「おまえ……も、呼んで……くれ……」
「……嫌です」
「なん……で……っ」
 不満げな忍の頬に唇を寄せながら、蓮川は一気に忍の身体を貫いた。激しい刺激に忍の身体が仰け反って快楽を示す。
「思い出されたらイヤなので」
 言いながら、蓮川は上に乗る忍の身体を突き上げた。
「俺の呼び方で……感じてください。……忍先輩」
 ギラリと蓮川の瞳が光った。
「あ……んっ、ひぁ……あぁ……っ!!」
 ぐちゃぐちゃと結合部が音をたてる。幾度目かの射精に見舞われ、忍は荒く息を吐いたままぐったりとした表情を見せる。それなのに容赦なく唇を奪われる。絡み合う舌と舌。そのまま押し倒された形になった忍は、またも激しく最奥を突かれて苦しげに表情を歪ませた。
「あ……かず……っ、や……、も……だめ……! や……ぁあ……っ!!」
 朦朧とした意識の中、忍の声がより本能を刺激する。今、同じように名前を呼び返したら、もっと感じ合うことが出来るのかもしれない。
 けれど怖いんだ。
 一瞬……ほんの一瞬でも、この人の頭の中に自分ではなく、他の誰かがよぎってしまうことが。
 たぶん自分は一生、この人を名前で呼ぶことなんて出来やしない。
 蓮川は共に絶頂を迎えながらも、ただ切なさばかりを覚えた。
 愛している。
 だから、絶対に、絶対に、呼んだりはしない。
 あの人を思い出させるその名前だけは、今も殺してやりたいほど憎くて、そんな最低な自分を殺してやりたいほど、貴方を愛しているのだから。


 思い出したんだ。
 と、ふと忍が呟いた。
「何を……ですか?」
「初めておまえを「好きだ」って思った日のことを」
「え……?」
「あの時も……言ったんだ。「光流先輩に何かあったら俺……!」って」
「……それは、凄く後悔してます」
 出来れば一生思い出したくなかったとでも言うように、蓮川はがっくりと首を落とした。
 いや本当に、本気で。あの時死んでくれていたら、今こんなにも嫉妬に苦しむことはなかったのに、と心の底から本気で思う。最低だと解っていても。
「俺は感動したけどな」
「……そうだったんですか?」
「ああこいつ、底なしの馬鹿だなって」
 そう言って、忍はふっと不敵の笑みを浮かべた。
 それから、ずいぶんと拗ねた目をして。
「……馬鹿」
 そんなことを言うものだから。
 蓮川は心の底から「すみませんでした」と謝った。
 これからは、変な気を遣わず、ちゃんと全部話します。
 反省の意を示すと、忍は酷く満足気に抱きついて。それから同じように「……すまなかった」と小さく囁いた。


     
「み……池田君、今日のネクタイはどうかと思うぞ」
「し……手塚君、これおまえが100均で買ってきたやつ」
 やたらと硬い表情で言葉を交し合う二人を前に、蓮川はだらだらと顔から汗を流した。
「あの……不自然すぎて気持ち悪いです」
「だろ蓮川!? おい忍、いいかげんその呼び方……ぐはっ!」
「手塚君、だ。二度と気安く俺の名前を呼ぶんじゃない」
 思い切り光流を踏みつける忍に、蓮川が半ば呆れたように言った。
「あの忍先輩、ほんとにもういいですから……」
「良くない!」
「いやでも、「池田君」「手塚君」はさすがにからかわれてるとしか思えな……」
 自分のことを想って呼び名を変えてくれる気持ちは有難いけれど、どう見てもふざけているようにしか思えない蓮川が眉をしかめながら訴えると、いきなり忍にがしっと頭を抱きこまれた。
「俺はもう二度と、おまえに辛い想いはさせたくないんだ……っ! そのためにはこんな猿の呼び名なんぞどうでもいい!」   
「て、手塚君……っ、俺の気持ちはガン無視!?」 
「忍先輩……っ、そんなに俺のこと……っ!」
「っておまえもガン無視かよ!?」
 おまえら本気でいっぺん死ね!!
 目の前でいちゃつく二人にありったけの殺意を込めて、そう叫ぶ光流であった。



 
 明日会ったら、ちゃんと謝らなくちゃ
 自宅の扉を開き、酷く気だるい表情で机の上にカバンを置いた巳夜は、不意に目を大きく見開いた。
 カバンを置いたすぐ横には、ビリビリに破られた一枚の写真。一瞬、ドクンと激しく鼓動が高まった。
「おかえり、巳夜ちゃん」
 背後から響いた、酷く落ち着いた穏やかな声。巳夜は振り向けないまま、ますます鼓動が高鳴っていくのを感じた。
「ご飯、出来てるよ。もちろん食べるよね?」
 酷く優しい笑顔と、酷く優しい台詞。
 しかし目の前には、無残に破かれた一枚の写真。
 そこには確かに、自分と、それから元恋人の姿が映っていた。