HERO



 

『……ま……、てんまぁ……!』
『だいじょうぶだよ、みやちゃん。もう、だいじょうぶ』
『うん……、……ひっく……』
『またあいつらがいじめてきたら、ぼくがやっつけてあげるからね。ぼくがずっと、みやちゃんをまもってあげるから』
『……っ、うん……っ』
 

 ああ、今日も、仕事に行かなくちゃ。
 少し前までは、毎日が憂鬱で仕方なかったのに。
 今はどうしてだろう、朝を迎えるのが楽しみになっている。
 スーツを着る時も、化粧をする時も、なんだか前よりずっと楽しい。


「……髪、切ったんだね?」
 いつもよりやや急ぎ足で朝食のコーヒーを飲み干すと、向かい側に座る恋人に微笑みながら尋ねられ、巳夜はトドキリとした表情で頬を赤らめた。
「うん……、でも、ちょっとだけだよ」
「よく似合ってるよ」
 相変わらず微笑を絶やさないまま、共に暮らしはじめたばかりの恋人は言った。
「……典馬」
 巳夜は遠慮がちに口を開いた。目の前の彼、小泉典馬は、「ん?」といつもと変わらない顔を巳夜に向ける。けれどどこかいつもと違うことに、巳夜はとうに気づいていた。
「今日は職場で飲み会があるから遅くなるけど、心配しないで待っててね」
「飲み会? どこで?」
「駅前の……居酒屋で」
「誰と行くの?」
「だから、職場の人達とだってば」
「どの先生達?」
「……いつものメンバーだよ」
「校長先生と教頭先生、それから岡先生と、川辺先生、中島先生と、桑田先生もかな? 佐藤先生はまだ調子悪くて来れないって? ああ、それから……あの臨時教員も参加するのかな?」
 微笑みながらいっそ冷ややかとも言える瞳で尋ねてきた典馬を前に、巳夜は酷く苦しげな表情で顔を俯けた。コーヒーカップを持つ手がわずかに震えている。
「……飲み会も仕事の内って、前に典馬も言ってたよね?」
「もちろん、コミュニケーションは大事な仕事のうちだよ」
「だったら……」
「気をつけて行っておいで。終わったら電話してね。すぐに迎えに行くから」
 反論しかけた巳夜の言葉を遮り、典馬は言った。
「自分で帰れるから、いい」
 巳夜の声が頑なに震えた。
「駄目だよ、夜道は危ないんだから。それとも僕が迎えに行くのに、なにか不都合でもあるのかな?」
 穏やかな口調ではあるが高圧的な物言い。しかし巳夜にそれ以上言い返すことは出来なかった。
 結局は電話をすると約束し、重い足取りで学校に向かった巳夜だった。



「あの、忍先輩。今日は職場で飲み会があるんで、遅くなります」
 朝食を終え出勤準備を整え、玄関で靴を履きながら蓮川が言った。
「……わかった」
 相変わらず残業残業の日々が続いている上、今日も午前様かと、忍が呆れ半分怒り半分の瞳で訴えてくる。蓮川は困ったように眉を下げた。
「一次会終わったら、すぐ帰ってきますから! ……待ってて下さいね?」
 蓮川が真剣な瞳で訴えると、忍はやや拗ねた目をしながらも、仕方ないという風に頷いた。そのあまりに新妻感溢れる仕草に、蓮川の顔がぽっと赤くなる。滾る愛しさをこらえきれず、そっと肩を掴んで唇を寄せると、忍はそっと目を閉じた。ちゅ、と小さく音をたてて、触れるだけのキスをする。
「あの……今夜……」
 してもよろしいでしょうか? そう小声で尋ねると、忍は蓮川の手をとり、手の平に人差し指で丸の文字を描いた。思わずぞくっとする感触に、蓮川の顔がますます紅潮する。もうこれ以上はヤバい。絶対にヤバい。蓮川は心の内で絶叫して、くるりと忍に背を向けた。
「い、行ってきます……!」
 思い切りぎこちない動作で、手と足を同時に出した蓮川の耳に、
「あ!」
 何か思い出したような忍の声が届き、振り返る。
「ゴムとローションもう無かったから帰りに買って来てくれ」
 あまりにも情緒のない忍の言葉に、ガクッと肩を落とす蓮川であった。


 っていうか、あの人は一体いつ仕事してるんだ……?
 蓮川より遅れること数ヶ月。一度はサラリーマンを経験してみたかっただけという理由で勤めていた会社を辞め、大学時代から目標としていた弁護士事務所に所属した忍であるが、土日はほぼきっちり休み、残業いっさい無し、どれだけ有給あるんだって疑問に思うほどの休日の多さ。要領? 要領なのか? それともよっぽど悪辣なやり方を……。どうしても拭えない疑念ばかりを思い浮かべる蓮川だが、疑っちゃいけないと頭を振って必死で疑念を取り払った。高校時代はともかく、今はあんなに優しくて純粋で可愛い人が、そんな悪辣なことをするはずがない。恋は盲目とはよく言ったもので、相当に色々なものを見失っている蓮川であった。
「……先生、蓮川先生!」
 ぼーっと考え事をしていた蓮川の耳に、ふと隣の席に座る教頭の声が届き、蓮川はビール片手にハッと目を見開いた。
「また生徒たちのことでも考えてたんですか? 本当に仕事熱心ですね、蓮川先生は」
「あ……いや……」
 恋人のことを、とはとても言えないまま、蓮川は苦笑した。
「すっかり教師という職業が板についてきましたよね。生徒達もずいぶん懐いているようだし、転職して正解だったんじゃないですか?」
「そんな……俺なんか、まだまだ……」
 謙遜ではなく本気でそう思う蓮川だった。
 実際、相変わらずからかってくる生徒も多ければ、必死になればなるほど空回ることも日常茶飯事。日々これで良いのかと自問自答するばかりの毎日だ。
「ストレス溜まる仕事ですから、くれぐれも無理はしないで下さいよ」
「そうそう。五十嵐先生も体調の方はどうですか? やっぱりストレスからくる病気だったんじゃないですか?」
 教頭の話にのり、一人の女教師が巳夜に向かっていった。巳夜は遠慮がちに「いえ、そんなんじゃ……」と首を振る。蓮川はそんな巳夜を見つめ、やや心配そうに眉を寄せた。
「病気……って、ちゃんと治ったんですか?」
「あ……はい! もうすっかり! 単なる疲労で、病気っていうほどの病気じゃないので」
 少し休職させてもらったから大丈夫、と巳夜は明るく笑って言った。
「五十嵐先生も、無理は禁物ですよ。もう結婚も決まっているんですし、元気な赤ちゃん産むためにも丈夫な身体でいないと!」
「けっ……こん……?」
 今初めてその事実を耳にした蓮川は、目を丸くした。巳夜は口篭って蓮川から視線を逸らす。
「そうですよ、五十嵐先生、もうすぐ結婚予定なんです。五十嵐先生の彼氏、男前で性格良くて家庭的で、すっごく素敵なんですよ~!」
 はしゃぎながら女教師が言うが、巳夜の表情は決して明るくない。
「そっか……今、幸せなんですね」
 蓮川は穏やかに微笑みながら言った。しかし巳夜は蓮川と視線を合わせないまま、ますます表情に暗い影を落としただけであった。


 二次会はカラオケにと誘われたが、蓮川は速攻で断った。周囲に「彼女でも待ってるんですか?」とからかわれ、迷わず「そうなんです」と応えた。ますますからかわれたけれど、嘘をつくつもりはなかった。ただ、相手が男であるという事実だけは言うに言えなかった事だけが後ろめたい気持ちに駆られ、忍に申し訳ないと感じた。
 そうして二次会に向かう教師達と別れ、居酒屋の出口でぽつんと立つ男女が二人。
「五十嵐先生は、二次会行かないの?」
「……帰る約束、してるから……」
 相変わらずどこか元気のない巳夜に、蓮川は察したように遠慮がちな瞳を向けた。
「……彼氏と?」
「……」
「もう一緒に住んでるんだ?」
「……」
「……蓮川先生、も……だよね」
「……ああ」
「正直……まだ、信じられないでいる」
 うつむいたまま言う巳夜に、しかし蓮川は微塵も怯まず言った。
「他言しないでいてくれて、ありがとう。でももしみんなに知られて非難されても、あの人と離れるつもりは絶対にないんだ」
「……そんなに、好きなんだね」
「……うん」
 隠すことなく蓮川は頷いた。
 あの突然に殴られて気絶した日の翌日、一部始終目前にしていた巳夜には、全ての事情を正直に話した。殴ってきた相手が今の恋人であること。男同士で愛し合っているという事実。予想通り、巳夜は酷く衝撃を受けた顔をしたけれど、決して非難するようなことはなかった。そのことに感謝しながら、蓮川は今自分が幸福であることを告げた。
 けれど。
 結婚を目前に同じように幸せであるはずなのに、それを一切話してくれなかった巳夜は、どうなのだろう。
 恋人がいて、結婚まで話が進んでいるのに、どうしてこんなにも暗い表情ばかりをするのだろう。
 疑問ばかりが脳内を駆け巡る蓮川の前に、ふと現われた男を見つめた瞬間、蓮川の表情がやや険しいものに一変した。



「典馬……」
「お待たせ、巳夜ちゃん」
 なんだろう、この感覚は。まるで、デジャ・ヴュのように、どこかで確かに覚えのある風景。
 蓮川は目の前の男を確かに知っていた。あの頃よりずっと背が伸びて、男らしくなって、けれどあの頃と少しも変わらない、どこか偽りめいた笑顔。
「帰ろうか。向こうの駐車場に車停めてあるんだ」
 巳夜の手をぎゅっと握り締めたその男を、蓮川は高まる鼓動のままに見つめた。
「ま、待って……!」
「早く帰ろう?」
 強引なまでに彼女を引っ張っていく彼の手。
 黙って見送る蓮川の瞳に、彼女の困ったような、助けを求めるような表情が映った。それは確かにいつかどこかで見た顔だ。
 その隣で、彼もまた蓮川に目を向けた。
 酷く冷徹な、射るような瞳で。
 わけのわからない感情に見舞われ、蓮川は呆然と二人を見送った。



 とうに忘れたはずの苦い記憶が蘇る。

『巳夜ちゃんは僕のだよ』

 忘れたい。それなのに忘れられない。あの勝ち誇った表情。優越感に満ちた瞳。自信に溢れた姿。

(やめろ……! 消えてくれ……!!)

『黙れ。おまえは負けたんだ』

(違う……! 俺は……俺は、ただ身を引いただけ……!)

『黙れ負け犬。彼女は僕のものだ。おまえには絶対に渡さない』

(煩い……! 黙れ……黙れ黙れ黙れ!!!!)

 俺は負けてなんかいない。おまえに。おまえなんかに。

 もしもあの時、俺の方が先に不良に絡まれているところを発見していたら。俺だって足の一本や二本、少しも惜しくはなかった。それで彼女がそばにいてくれるなら、他には何も要らなかったのに。
 けれど現実、彼女のために生涯残る傷を負ったのは彼の方で。
 そんな彼を見捨てることが出来なかった彼女の気持ちも、痛いほどに解ったから、必死で気持ちを押し殺して身を引いただけだ。
 だから、絶対に、絶対に、負けたわけじゃない。
 あの頃の彼女への気持ちだけは、他の誰にも。
   
   

「おかえり」
 酷く重い心を抱えたまま玄関の扉を開くと、いつもの声が出迎えてくれ、蓮川の心がほっと安堵したその時だった。
「忍ー、明日着てく服、やっぱこっちでいい?」
「どっちも悪趣味には違いないんだから、いちいち俺に聞くな」
「ちょ……っ、悪趣味ってどこがだよ!? これめっちゃくちゃ高かったんだぜ!?」
 それはいつもの風景。いつもなら当たり前にあるはずの光景なのに。
「なあ蓮川、これカッコいいと思うだろ!?」
 やたらと派手なスーツを目前に差し出してくる光流に、しかし蓮川はまともに顔を向けられないまま応えた。
「……ええ、いいんじゃないですか」
「ほら見ろ! おまえこそ目腐ってんじゃねぇ!?」
「やかましい。いいからさっさと帰れ」
 心底鬱陶しそうに言う忍に、まだぶつぶつと文句を言いながら去っていく光流を見送ってから、蓮川は靴を脱いでリビングに向かった。
 いつものことだと自分に言い聞かせるのに、無性に苛立ちが止まらない。蓮川は出来る限り忍の顔を見ずに上着を脱いだ。
「ずいぶん早かったな」
 相手の声が暢気であればあるほど、蓮川の苛立ちはますます募っていった。
「……早く帰るって言ったじゃないですか」
 おのずと声が低くなる。駄目だと解っていても、負の感情を抑えることは出来なかった。
「……何を怒ってるんだ? 飲み会で嫌なことでもあったのか?」
 さすがに察した忍が、冷静なままに尋ねた。
「別に……。っていうか、なんで俺が怒ってる理由が解らないんですか……?」  
 心の内で舌打ちし、蓮川は鋭い瞳を忍に向けた。そのあまりにも不穏な蓮川の様子に、忍は一瞬怯んだ表情を見せる。
 刹那、蓮川の右手が忍の手首を掴んだ。そのまま乱暴なまでに、ソファーの上に押し倒す。言葉もなく突然に唇を唇で塞がれ、忍は大きく目を見開いた。
「……な……んで……っ」
 あまりにも強引な口付けに嫌悪感ばかりを感じ、忍は自ら顔を逸らして蓮川の唇から逃れた。
「いいかげん俺がいない間に、前の男連れ込むのやめてもらえませんか?」
 ふざけるなと、蓮川の瞳が真剣に訴える。本気で怒っているのを悟った忍は、しかし怯まず蓮川を睨み返した。
「なんで、そんな言われ方されなきゃならないんだ……っ!」
 何もしていないのに。いつものことなのに。忍は訴えるが、その言葉が蓮川の苛立ちを鎮めることはなく、更に加速させるだけだった。 
 再度忍の唇を塞ぐ。とても優しく出来る余裕はなかった。シャツを引き裂き、ボタンが弾け飛ぶ。強姦にも近いやり方に忍は抵抗を見せるが、構わずズボンと下着を同時にずり下ろした。
「……や……っ」
 本気で嫌だと訴える忍をあくまで無視し、蓮川は強引に忍の中に押し入った。前戯もなく硬く閉じたままのそこに、無理矢理に捻じ込む。忍の表情が苦痛に歪んでも、溢れ出る怒りを。そして記憶を。抑えられない。消せない。過去と現在の記憶が交互に甦る。
 
『忍は俺のものだ』

(黙れ……!!) 
 
『おまえには渡さない。絶対に』

(黙れ……!!!)

『だから黙って身を引け、この負け犬』

(黙れ……!!!!!)

 もう二度と、誰にも渡さない。
 死んでも身を引いたりするものか。
 この人は俺のものだ。俺の。俺だけの。
 絶対に、絶対に、もう二度と、負けたりなんかしない──!!!!!
 
「あ……っ、……ぅあ……っ!!」
 背に爪をたてられ、強烈な痛みが走った。
 ようやく我に返った蓮川の目前には、汗と涙にまみれ苦痛に耐える忍の姿。
 痛い、と涙を流す忍を、蓮川は呆然と見下ろした。
「なん……で……、そんなに……」
 怒ってるんだと、忍が涙に濡れた瞳で訴えてくる。
 その姿があまりにも無残で、哀れで。蓮川はそっと忍の髪を撫で、涙を舌で拭った。
「俺だけ……ですよね?」
 そう口にした途端、今度はあまりにも自分が情けなくなって、ボロボロと流れる涙を止めることが出来なかった。
「貴方は……貴方だけは、俺だけのもの……ですよね?」
 蓮川が苦しげに言葉を吐く。
 最低だ。そう何度も自分を罵った。苦しくて苦しくて、息さえままならないままに。
 刹那、強く抱きしめられる。
「当たり前だ……馬鹿」
 ぎゅっと抱きしめられ、酷く優しい声が耳元で響いた。蓮川は忍の身体を強く抱き返し、後から後から涙を溢れさせた。
「……っ、く……、ごめ……なさい……っ」
 どうしてこんなことをしてしまったのか、どうしてこんな愛し方しか出来ないのか。解らない自分を、ただ強く抱きしめてくれる人がいる。萎んでいく何か。そして溢れてくる何か。蓮川は心のままに涙を流した。まるで小さな子供のように。



 どうして。何をそんなに不安に想うことがあるのだろう。
 蓮川の寝顔を見つめながら、忍は切なげに目を細めた。
 いまだしつこくつきまとっては来るものの、光流がもう以前の関係を諦めていることくらい、蓮川はとうに理解しているはずだ。現に一緒に暮らすようになってからは、ヤキモチといっても少し拗ねる程度の可愛いものだったのに、何故今になってこんなにも激しい嫉妬心を抱くのだろう。
 考えたくもない嫌な予感が胸をよぎる。けれど、どう考えても他に思い当たる理由なんてない。
「……や……」
 不意に蓮川の口から、死んでも聞きたくない名前が漏れた。忍は目を見開き、握った拳を震わせた。
 どうして。何故。今、一体どんな夢を見ている?
 胸の震えが止まらない。
 今すぐ叩き起こしたい気にかられたが、忍はぐっとその衝動を堪えた。
 そうだ、自分にはこの程度で怒る資格なんてない。それよりももっともっと酷いことを、蓮川にしてきたのだから。
(でも……)
 知らなかったんだ。
 嫉妬心が、こんなにも辛いものだったなんて。
 今もまだ彼女のことを好きなんじゃないだろうか。職場で会うたびに愛し合っていた頃のことを思い出してしまうのではないのだろうか。もしも互いにまた、惹かれ合わずにいられなかったら……。
 不安ばかりが波のように押し寄せて、猜疑心が忍の心を蝕む。
 どうして信じてくれないんだと、何度も蓮川に苛立ちを感じた。
 けれど今なら解る。
 二人の絆の深さを知っているから。確かに愛し合っていた日々を見ていたから、不安で不安で堪らなくなるんだ。
 信じたい。信じなければ。信じるべきなのに。
 どうしたら信じられるのか、その方法が解らない。
 今にも泣き出しそうになる心を抱えたまま、忍は蓮川の隣に横たわった。そうして寄り添うようにそっと、柔らかい髪に顔を埋める。今見てる夢がどんな夢でも、たとえ彼女との幸福な時間であったとしても、それはただの過去の記憶。そう、自分に言い聞かせた。