Goal


 
 
 たぶんこれは当然の報いなのだろうと、忍は目を細め、隣で静かな寝息をたてる恋人を見つめた。
 初めて抱き合ってからしばらくは、おまえは万年童貞かと呆れるくらいに拙くて、だから優しくて、むしろ忍の方が積極的に性を貪っていたのに。
 時折こんな風に屈折した愛情表現をするようになったのは。せずにいられなくなったのは。
(あの時からか……)
 思い出し、忍は憔悴し切った表情で上半身を起こした。
 過去に忍が犯した、たった一度の過ち。その時から、蓮川の鬱屈はどんどんエスカレートしていくようになった。
 解ってる。誰がどう見たって、自分が悪いことくらい。だからどんな蓮川も、受け止めていこうと決意した。
(馬鹿……) 
 どうして、解ってくれないんだ。
 昔のことなんて、もう絶対に思い出さない。思い出したくもない。今はただまっすぐに、おまえだけを見つめていたい。
 照れ屋で不器用で酷く鈍感で、でも誰よりも純粋で優しくて一途なこの男を、心から愛したのだから。
 忍は切なげな瞳で眠る蓮川の顔を見つめ、それからそっと、蓮川の手を握り締めた。そうするとまるで赤子の反射運動のように、蓮川がぎゅっと手を握り返してくる。クスリと忍の口元から笑みがこぼれた。
 寝顔だけは、昔とちっとも変わっていない。呼べばぶっきらぼうに振り返るところも、からかえば顔を真っ赤にして反抗してくるところも、興奮するとすぐに鼻血を出すところも。
 それなのに。
(変わったのは、俺の方か……)
 優しさだとか愛しさだとか、そんなものが溢れてくればくるほど、伝わらないもどかしさに苛立ち、上手に伝えられない自分を責めてばかりいる。
 せめて素直に、好きだ愛してると囁くことが出来たなら。無邪気に抱きつくことが出来たなら。いつもそばにいられるだけで幸せだと、全身で訴えられたなら。
 そう、例えば、彼の初恋相手のように。
 今になって、あの頃心のどこかで蔑んでいた彼女に、敗北感ばかりを感じるなんて──。
「ん……」
 どうやらおまえの瞳は、俺よりもずっと多くを見抜いていたらしい。  
 なのにどうして、俺なんかを好きになったりしたんだ。
 忍はそう心の内で問いかけ、握りしめた手をそっと離した。


 
 正直、仕事を犠牲にしてまで見る価値のあるものとは、思っていなかった。
「絶対に勝てよ」
「はい……!!」
 けれど顔を合わせた瞬間、酷く嬉しそうに目を輝かせた蓮川を目前にしたら、やっぱり無理してでも来て良かったと心から思えた。
 グラウンドの観覧席に座り、忍は緊張した面持ちで準備をしている選手達を見つめる。
 蓮川の隣に並ぶ、蓮川と同じくらいの背丈の青年。どうやらあれが蓮川の倒すべき相手であるらしい。その正面に立つ、背の高い逞しい体つきをした青年。見覚えのあるその顔は、確か前回の大会で三位だった選手だ。悔しそうに握り拳を地面に叩きつけていた姿を思い出し、忍は苦笑した。
 実に健全で、良いことだ。
 生徒全員が盛り上がっていた高校時代の体育祭ですら、裏で賭け事の採算ばかりを考えていた自分とは真逆の人種達。
 今現在も全力で走ることなどとは無縁の忍は、退屈そうにグラウンドを眺め、大会開始の合図を待った。
『あ、あの子です、彼です、蓮川一也選手!』
 やがて開会式が始まろうとする頃、すぐ横で英語で話す声が耳に届き、忍はチラリと横目をやった。するとその横に座る、明らかに日本人ではない男性が相槌を打った。
『見ててください。素晴らしい選手ですよ』
 キラキラと瞳に輝きを放つ日本人男性と、それほど乗り気ではなさそうな外国人男性。なるほど引き抜きかと、忍は大して関心も持たないまま、共に蓮川の登場を待った。

   

 流れる汗だとか、太陽の光だとか、勝った負けたの熱い戦いだとか、そんなものには昔から全然興味がなかった。
 全然なかった、ハズなのに……。
「蓮川……!!」
 気が付けば、忍は応援席を立っていた。目の前を脅威的なスピードで走り抜ける選手達に、胸躍る興奮を覚えずにはいられなかった。
 それまでの選手達とは圧倒的な実力の差で駆け抜ける、三人の選手達。その差はほんのわずかだ。隣の男達も、その周囲の観客達も、その熱い戦いに無我夢中だった。今までに感じたことのない高揚感。
 頑張れ。頼むから。あと少し、もう少し、あと一歩、頑張れ。
 忍が心の底からエールを送ったその瞬間、選手達がゴール地点に辿り着いたと同時に、次から次へバタバタと倒れていった。
 全身全霊、全速力で駆け抜けた選手たちに、もう一歩たりとも動く気力は残っておらず。命がけとも言えるその接戦において首位の座を勝ち取ったのは。
『蓮川一也、確かに素晴らしい選手だ』
 今までに感じたことのない高揚感でいっぱいの忍の隣で、外国人男性が拍手をしながら冷静に言い放った。
 その声を聞きながら、忍もまた同じことを胸の内で叫んだ。
(どうしよう ……)
 今すぐ駆け寄って、抱きしめたい。
 よく頑張ったって、キスを贈りたいのに。
 ふと冷静さを取り戻した瞬間、忍は胸の内にポカリと穴が開いたような感覚に襲われた。
 そんなこと、出来ない。出来るはずがない。
 せめて同じ選手だったら。彼を守り支えてきた家族だったら。──彼女、だったら。
 突然にリアルな現実を押し付けられ、忍はただ呆然とその場に立ち尽くした。
 考え出したら、思考は止まらなくなった。
 目の前では、酷く清清しい表情を浮かべ、戦い終えた選手達と向き合っている蓮川の姿。
 なんて。
 なんて、遠いのだろう。
 それはまるで、限りなく広がる大空の向こうに羽ばたいていってしまった、一羽の鳥のように。
 あまりにも唐突に襲ってきた途方も無い孤独感に苛まれ、忍は即座にきびすを返し、その場を去った。  
 
 
「先輩、どうして先に帰っちゃったんですか!? おれ、メールしたのに……!!」
「ああ、すまない。仕事途中で抜け出してきて、どうしても急がなきゃならなかったんだ」
 夜になってようやく会えた蓮川は、会うなり無邪気に甘えてくる。しかし忍は、後ろめたさからまともに蓮川に視線を向けられずにいた。
「おれ、勝ちましたよ……!」
 ガバッと抱きつかれ、忍は戸惑いと共に安堵を覚えた。
 小さく「よくやったな」と囁いた瞬間、こんな後になって、人に見られることのない部屋の片隅でしか言えないことに、昼間の途方も無い孤独感を思い出し表情を暗くした。
「ご褒美、くれますよね?」
 そんな忍とは裏腹に、蓮川は思い切り口の端を緩ませ幸せそうにそう囁き、忍の身体をベッドの上に押し倒した。
「やるけど、三つまでだぞ」
「子供にお菓子やるみたいな言い方やめて下さい」
 蓮川が口をとがらせる。忍はクスリと微笑んだ。
 唇を重ね、ふわふわの癖っ毛に指を絡ませる。ほんのり汗が混じった髪の香りを嗅ぐと、心はいつも不思議なほどに落ち着いた。
「三つまでなら、良いんですね……?」
「……ん……っ……ふ……」
 冗談だ馬鹿と首を振ると、乳首を強く吸われ、忍はぎゅっと目を閉じた。
 じゃれるように甘く触れ合う時間は、ただただ幸福なばかりで。
 このままずっと、離れたくない。抱き合っていたい。そう、心から願う。
 頼むから、そんなに急に、大人になんてならないでくれ。
 もう少し。
 あと少し。
 ほんの少しで良いから。
 このままこの腕の中で、ずっとずっと、一緒に──。
 


 
 それから半月が過ぎた頃、いつもの部屋でいつものように、蓮川は飄々と言ってのけた。
「海外の有名コーチにスカウト……? 引き抜きっていうんですか? されたんですけど、断ったら何でかみんなに凄い勢いで責められて。でもおれ、そろそろ真面目に就活しなきゃならないし、そんな場合じゃないのに、ほんと困ってるんです」
 あまりに重大な出来事をまるで他人事のように言い放つ蓮川を前に、忍はやや呆れた表情を浮かべた。
 やっぱりダメだこいつは。いつだって事の重大さを微塵も少しも理解していない。いや、それにしても、いくらなんでも。
「おまえはいったい、何のために陸上やってたんだ……?」
 忍は学校教師のような口調で尋ねた。
「え……なんとなく。せっかく高校から続けてきたし、やめるのも勿体無いし……」
「だったら、そのまま続けたらどうだ? そのコーチがどれほど有名かは知らないが、誘いを断って周囲に責められるほど凄い人なら、付いていく価値はあると思うぞ?」
 周囲の嘆きを想像し心中でため息をつきながらも、忍はなるべく言葉を選んで蓮川に尋ねた。上から物を言って素直に聞く相手ではない。貴様それだけの才能を持ちながら何故もっと真剣にならない、それで周囲が納得すると思うのかこの馬鹿者と、いつぞの体育祭で見た風景のごとく胸倉つかみながら怒鳴りつけたい気分ではあったが、なんとか堪えた。
「嫌ですよ。そんなことになったら、おれたち離ればなれになっちゃうじゃないですか……!」
 速攻で拒絶してきた蓮川の言葉に、忍は目を見開いた。
「おれはもう決めてるんです。早く就職して、自分で稼げるようになって、このアパート出て忍先輩と一緒に暮らすって」
 なんの躊躇いもなくそう言って、蓮川がぎゅっと忍の身体を抱きしめた。忍はますます愕然と目を開く。
 いつの間にそんな未来予想図を……? しかも普通すぎるにも程がある。いや、普通なのは全然構わないのだが、それにしても。
 世界一位も夢じゃない男が、一体なんだってそんな普通中の普通な未来を一番に夢見てるんだ。ああでも男同士っていう意味では普通じゃないかも。忍は完全に頭の中を混乱させた。
「目を覚ませ蓮川。おまえは今、確実に現実を見失ってる」
 がばっと蓮川の身体を引き離し、忍は真剣な瞳を向けた。蓮川が眉を寄せる。 
「別に海外に行ったところで、全く会えなくなるわけじゃない。気持ちが離れるわけでもない。そんな理由でその話を断ったら、一生後悔し続けるかもしれないんだぞ?」
「しませんよ、後悔なんて」
 忍の真剣な言葉に、しかし蓮川はあっけらかんと答えた。
「陸上は好きですけど、唯一の趣味ですから、もう大会とかに未練はありません。それに、海外に行けば上には上がたくさんいると思うんです。別におれがやらなくたって、何も問題ないでしょう? それよりおれは、安定した職についてお金貯めて、いつか忍先輩のために広い家を建てたいんです」
 無邪気すぎると言えば無邪気すぎるし、現実的すぎるといえば現実的すぎる、反論しようもないほどの正論で論破され、忍は返す言葉を失った。
 いや、確かにそれはその通りだろうが。でも、なにか違うような……。 
 混乱する中、忍は不意に大会の最中を思い出す。
 誰よりも早く風を切って駆け抜けゴールする蓮川の姿。あれを見て誰が、陸上より恋人を選ぶことを納得するというのか。世界一位の座より凡人の人生を応援するのか。その一瞬の勝負に、真剣に向き合っていればいるほど。 
「だめだ」
「え……?」
「おまえは陸上を続けろ。そのコーチの誘いも断るな」
「え……なんで、ですか……?」
「何がなんでもだ。もしその話を断ったら、おまえとは別れる」
 忍は鋭い瞳を蓮川に向け、厳しい声を放った。途端に蓮川が目を見開き、それから瞳に険しい色を宿した。
「し、忍先輩は、おれと離れても良いって言うんですか!?」
 まったくもって忍の言葉の意味が解っていない蓮川は、案の定全力で的外れな反抗をしてくる。予想通りの言葉に、忍は小さくため息をついた。
「俺とおまえの問題じゃない。これは周囲の……いや、日本の。もしかしたら全世界の問題がかかってるんだ」
「おれの実力なんて、広い世界に行けば、そんな大したものじゃないです……!」
「自信を持て。そんな大した実力を持たない奴に、大物が目をかけるはすないだろう。おまえはそうやって「自分なんか」と言い訳して、頑張ることから逃げてるだけだ。おまえが本気を出せば、オリンピックで金メダルも夢じゃないのに、どうし……」
「そんなもの、おれは興味ありません! 金メダルなんかより、忍先輩のがずっとずっと大事です!!」
 忍の言葉を遮り蓮川は叫んだ。頑固一徹、思い込みの強さは天下一品な蓮川に、忍の言葉の意味など考えられるはずもなかった。
 だめだ、こいつは。やっぱりまだまだガキすぎる。自分の立ち位置も、周囲の苦悩も期待も、何一つ解ってはいない。何故こんな奴に無駄に才能を与えるのだ神様というものは。忍は苛立ちばかりを覚えながら、蓮川に厳しい目を向けた。
「なら俺が、おまえが金メダルを手にする瞬間を見たいと言ったら?」
 その台詞に、蓮川が困惑の色を見せた。何かを考え、それでもまだ決意は固まらないというように、苦悩の色ばかりを滲ませる。
「いや……です……」
 蓮川の握った拳がふるふると震えた。
「俺のために、頑張れないか?」
 支配めいた言葉だと解っていても、忍は続けた。どうしても、この才能を殺したくない。忍もまた、あの大会を見守った時に、そう願ってしまったから。
「嫌です……! だって離れたら……!!」
 今にも泣き出しそうな顔をして蓮川が叫んだその瞬間、忍は蓮川の葛藤の理由を初めて知り、愕然と目を見開いた。
「聞け蓮川! 離れたって俺は、ずっとおまえを……!」
 忍の声は、少しも蓮川には届いていなかった。背を向け部屋を飛び出す蓮川を、忍は茫然と見送った。
 
(離れたら、戻っちゃうじゃないですか……!!)

 あの時、蓮川の心は確かにそう叫んでいた。
 忍は眉間に皺を寄せ、唇を噛み締める。
(あの馬鹿……!!) 
 決して戻ったりなどしない。ずっと、ずっと、待っている。いつか金メダルを手にするその日まで、例えその間に蓮川の方が離れていったとしても、自分だけはずっと永遠に見守り続ける。
 それなのに、そうと心に決めているのに、何をそんなに怯える必要があるのか。
 決まっている。それほど蓮川の心に根付いているものが深すぎるのだ。
 それは自分と光流に限ってのことじゃない。二度目の恋の相手も悪すぎた。
 あの時、表面上は可愛らしくニコニコ微笑みながら上手に本心を隠し、「守ってあげる」という大義名分の元、完全に五十嵐を支配していた幼馴染を前に、蓮川は成す術もなく破れ去った。
 むろん忍は、傍で見ていながらその結末を予測していなかったわけじゃない。だがいくら「相手が悪い」と言ったところで、当人が納得しなければ引き離しようがなかった。
 案の定、波乱万丈の末幼馴染の元に戻った彼女を、泣くことすら出来ずに悔しげに拳を震わせながら見送った、あの時の蓮川の心の傷は、今なお根深く記憶に残り続けているに違いない。
 けれど、自分は違う。ろくに自分一人の面倒も見られず他人に頼ってばかりのくせに、それまで全身全霊で守ってくれていた幼馴染の庇護の下から自立しようと必死で足掻いていた、まるで反抗期の中学生でしかなかった女とは違う。今たとえ光流が目の前に現れても、決して心変わりなどはしない。
(頼むから……)
 信じてくれ。そう、何度心の中で叫び続けただろう。
 どれだけ叫んでも、消えない。消せない。蓮川の記憶に残り続ける、あの女の傷痕を。
 憎しみにも似た想いにかられ、忍はぎゅっと拳を握り締めた。
 もしもあの時。まだ何も知らず何も恐れない真っ白だった学生時代に、蓮川のことを今みたいに好きになれていたなら。
 きっと互いに、傷一つない綺麗な心のまま、まっすぐに愛し続けていられたはずだった。
 
 消せないんだ。

 どんなに足掻いても、苦しんでも、引っ掻いて噛み付いて無理やりに消そうとしても。
 一度つけられてしまった刻印は、何度も何度でも蘇っては、より鮮やかに。
 こんなにも、俺たちを苦しめ続ける。