Goal


 
 次の大会まで、あとわずか。
 絶対に来てくれると約束したから、次は絶対に負けない。
 その日も固い決意を胸に練習を続ける蓮川の前に、優希の姿が表れた。途端に蓮川は、険しい瞳を優希に向ける。優希もまた、いつもの無邪気に緩んだ表情ではない、真剣な目つきを蓮川に向けた。
「やっと、ヤル気になってくれたんですね」
「……ふざけんな。どこまで人を馬鹿にするつもりだ?」
「相変わらず卑屈ですね。おれが先輩に勝てた理由、教えましょうか?」
 完全に上から物を言ってくる優希に、蓮川はただ憎しみに満ちた瞳を向ける。
「ずっと、見てたからですよ、先輩のこと」
 その言葉に、蓮川はハッと表情を緩めた。
「先輩のフォーム、視線、踏み込み、トレーニングの最中も試合の最中も、いつも一秒たりとも見逃さず、ずっと見てきました。どうすれば速く走れるのか、どうすれば追いつけるのか、どうすれば先輩に勝てるのか。一度も追い越せない先輩の後姿見ながら、ずっと……!」
 優希の声に、だんだんと力が篭っていく。そうして初めて蓮川は気づいた。優希が酷く悔しげな瞳を自分に向けていることに。
「いつか勝ってやるって、先輩の見えないとこでずっと練習してました。そんなこと、何一つ知らなかったでしょう? そりゃそうですよ、だって先輩、おれのことなんか一度だって真剣に見ちゃいなかった! いつだって全然眼中になかったでしょう!?」
 優希がこれまで抑えていた感情を爆発させるようにまくし立てた。蓮川は返す言葉もなく、ただ愕然とした瞳を優希に向ける。
 呆然と立ち尽くす蓮川を、優希は憎しみにも似た瞳で睨みつけ、蓮川に背を向けその場を走り去っていった。
 


 違う。
 そうじゃない。そうじゃないんだ。
 決して、見てなかったわけじゃない。眼中になかったわけじゃない。
 いつだって、ずっと見てたよ。苦手な長距離を走り終えた後に懸命に呼吸を整える姿。タイムが上がって嬉しそうに目を輝かせている姿。羨望の眼差しで見つめてくる視線。汗を流しながら必死で追いかけてくる姿。いつだってずっと、背後に感じていた。
 だからこそ、いつの間にか、当たり前だと思っていた。
 優希が後を追ってくるのが。いつもすぐ傍にいる事が。
 本当はその裏に、同じ選手として多くの葛藤を抱えていたことなんて、想像もせずに。
(最低だ……)
 こうして追い越されるまで、何も気づけずにいたなんて。
 蓮川は後悔ばかりを繰り返しながら、いつも背後から応援し続けてくれた優希の、明るい笑顔を思い出す。
 きっともう二度と、あんな風に笑いかけてくることはないであろう、可愛いばかりだった後輩の姿。
 自分だって、知っているのに。
 どんなに焦がれても追いかけても、決して追いつけない追い越せない、その悔しさ。空しさ。情けなさ。どうしても負けたくない、追い越したいと思う気持ち。同じ場所を目指す男同士だからこそ、それはどう足掻いても決して逃れることは出来ない感情なのだと、知っていたはずだった。
(どうすれば……)
 もう一度、取り戻すことが出来るのだろう。
 そう思った刹那、携帯の着信音が鳴り響いた。着信相手の名を見た途端、蓮川は一瞬怯んだが、震える手で携帯電話を手にとった。
「はい……」
 電話の向こうから響く声を聴いた瞬間、どうしようもなく会いたくなった。


「よう、久しぶりだな」
 待ち合わせの場所に着くと既にその姿はそこにあり、確かここに来るまでは胃液吐きそうなほど緊張していて、何度も後戻りしようとしたはずだったのに、いつもと少しも変わらない姿を見たら不思議なほどに安堵感を覚え、蓮川の目元が緩んだ。
「すいません、いつも誘い断ってばかりで」  
 同時に酷い罪悪感に襲われ、ろくに目は合わせられないまま、蓮川は光流と共に歩を進めた。
「なにしけたツラしてんだよ? さては、何かあったな?」
 何かあるもないも、些細なことから死んでも口に出せないようなことまで、それはもう色々あった蓮川は、やや動悸に見舞われながら「別に」と返事を濁した。
 別に悪いことをしているわけじゃない。二人はもうとっくに別れたわけだし、なにも罪悪感を感じる必要なんてないはずなのに。
 でも、なんか、なんとなく、それだけは絶対に口にしてはいけないような気がする。蓮川は本能で危険を察知し、今だけは恋人のことは忘れようと心中で決意した。



「光流先輩」
「あ?」
 居酒屋でビール片手に他愛ない会話を続ける。しばらくしてからふと、蓮川は光流に真剣な目を向けた。
「もしおれが、えっと……例えば、先輩と真剣勝負して、万が一おれが勝ったとしたら、先輩はどうします?」
 蓮川が尋ねると、光流はまったく考えもせずに、さも当たり前のように応えた。
「悪ぃ、おまえに勝負事で負ける想像がつかねぇ」
 光流のあまりにあんまりな台詞に、蓮川はわなわなと肩を震わせた。
 相変わらずこの人は……っ。蓮川は心の中で呟いたと同時に、恋人の顔を思い出す。すると妙に優越感に似た感情を覚え、蓮川は光流に不敵の笑みを向けた。
「そうですね、そうやっておれも胡坐をかいてたんだ」
「へ?」
「よく解りました。先輩、教えてくれてありがとうございます! じゃあまた!!」
「おい……っ、なんなんだよいきなり!?」
「すいません、おれ、練習しなきゃならないんで! 今日は帰ります!」
 蓮川は投げ捨てるようにそう言うと、光流に背を向けその場から走り出した。
 今、はっきりと思い出した。見下される気持ち。悔しい気持ち。負けたくない気持ち。
 そしてあの頃、そんな自分に、あの人にどうして欲しかったのか。
(絶対、勝つ……!)
 蓮川は己に気合を入れ、まっすぐにいつものグラウンドに向かった。
   

 ざまーみろ。馬鹿。アホ。いっぺん死ね。
 蓮川は憎い相手に心の内で罵倒ばかりを繰り返しながら、愛しくてたまらない恋人ににっこり微笑みかける。酷く子供っぽい胸の内とは裏腹に、妙に大人びた笑みを浮かべる蓮川を、忍は怪訝そうな瞳で見つめた。
「何か良いことでもあったのか?」
「いえ、別に何も。それより先輩、おれのこと好きですよね?」
 ぎゅっと忍の手を握り締め、蓮川は相変わらず微笑み続けるが、目だけは異常なほどに真剣そのものだ。忍は眉間に皺を寄せた。
「おれ達、恋人同士ですよね? 誰よりも愛し合ってますよね!?」
「……落ち着け蓮川、何があった?」
「ありません。ただ確認したいだけです」
 何やら切羽詰っている様子の蓮川を前に、忍は珍しく怯んだ表情を見せた。こうと決めたことは脇目もふらずに前進あるのみの蓮川である。こんな一途な目をしたら、もう何をどう言っても耳に入らない事は嫌というほど承知済みの忍だった。
「ああ……その通りだ」
 忍は最も早く蓮川の暴走を沈める言葉を選んだ。かなり無理やりにではあるが。
 途端に蓮川は、まるで勝ち誇ったかのように目を輝かせる。
「先輩……っ」
 そして感激に打ちひしがれたように、忍の身体を思い切り抱きしめた。
 いったい何なんだこいつは……っ。忍の額から汗が流れた。 
「おれ、絶対に絶対に勝ちますから、ずっと見ててくださいね……!!」
 力強い口調でそう言うと、蓮川は忍を勢いよく背後のベッドの上に押し倒す。
 なんだかよく解らないが、今は何を言っても無駄なような気がする。
 そう心の中で呟いて、忍は唇を塞がれるままに瞳を閉じた。


 もう、おれのものなんだ。
 今はもう、あの人のものじゃない。
 だから大丈夫。何も恐れることなんてない。

(みつ……る……っ)
 
 ドクン、と、蓮川の心臓が脈を打った。

 過去の記憶がフラッシュバックすると共に、突然沸き起こった激しい嫉妬心に苛まれ、蓮川は乱れる忍の身体を反転させて腰を引き寄せた。淫らに尻を突き出す忍の姿を目前にすると、更なる嫉妬心と独占欲が蓮川を襲った。
 何度、あの人に貫かれたのだろう。
 思った刹那、全身に鳥肌が立つほどの猛烈な感情に支配される。 
「もっと、腰上げて足開いてください。そんなんじゃ、入りませんよ?」
 さんざ啼かせても、まだ全然足りない。波のように襲い来る激しい感情に翻弄されたまま、蓮川は忍の身体に覆いかぶさり低い声で囁いた。忍の表情が羞恥に歪む。震えながら遠慮がちに足を開くその姿に、更なる被虐心を煽られる。
「あ……!」 
 既に熱くなっている自身ではなく指を押し入れると、忍が顔をあげて背をのけぞらせた。ローションに濡れた指で、奥の良い部分を刺激する。ぐちゅぐちゅと卑猥な音をたてる度、淫乱に腰をよがらせるその姿に、また過去の男の姿が重なる。
 今、自分がその姿に形を変えても、この人はきっと変わらず感じ続けるに違いない。
 酷く荒ぶる心とは裏腹に、蓮川は暗く冷めきった瞳を忍に向けた。
「……っ、な……に……っ!」
 指の変わりに仕込んだローターが、ブンと振動音を鳴らした。
 突然の予期せぬ感覚に、しかし忍の身体は正直に反応した。
「……や……っ、抜い……っ!」
「おれ、明日までにレポート終わらせなきゃならないんで、ちょっとだけ待っててもらえます?」
 蓮川が相変わらず低い声で囁くと、忍が内部に仕込まれたローターを外そうと手を伸ばしたが、蓮川の手が忍の手首を捉えそれを許さなかった。
「勝手に抜いたら許しません」
 重圧的な言葉を投げると、忍は一瞬で達しそうになるほどの感じた表情を見せた。蓮川の瞳がますます暗さを帯びる。蓮川は蔑みにも似た瞳で、淫らな格好を晒す忍の姿を見つめた。
 命令に近い声を乱暴に浴びせれば浴びせるほど、この人はいつもそうだ。どんな風に仕込まれてきたのか、はっきりと解るほどに。
 だったらお望み通りに。
 いや、それ以上に。
 ──あの人、以上に。


「はす……かわ……」
 涙が混じった懇願の声が耳に届いても、レポートから目を背け振り返る気にはなれなかった。蓮川は握ったペンに力を込め、苛々と唇を噛んだ。
 おれはどうしたいんだろう。何がしたいんだろう。でも今は、とてもじゃないけど優しくなんて出来やしない。
 思い出す。初めて舌を絡ませた時。初めて自分のものを口に含ませた時。初めて自らねだり求め縋って来た時。その全てにあの男の影が散らついて胸の内を焼き焦がし、それは決して消えない刻印となって、いつまでもいつまでも蓮川を苦しめ続けた。
(うんざりだ……!!)
 そう思うのに。もう二度と、こんな想いはしたくない。苦しくて苦しくて、どうしようもないのに。
「も……許し……っ」
 振り返ってその涙を見つめたら。抱きしめて懇願の声を耳にしたら。縋ってくる腕に抱き込まれたら。
 どうしようもなく愛しさが募って、離したくないと心から願う。
「あ……っ、あ……っ!!」
「名前……呼んで……」
 お願いだから、あの人じゃなくて、おれの名前を。
 内部の熱を感じながら祈るようにそう囁くと、熱に浮かされたように恋人が自分の名前を呼ぶ。
 でもそれだって本当は、命令されたからなのかもしれない。
「忍……先輩……っ」
 好きだ。
 好きだ。好きだ。好きだ……!!!
 どれだけ叫んでも足りない。平行する、愛しさと憎しみ。どうして、あとたったの一年。あの人より早く巡り会って、初めから自分のものに出来なかったのだろう。
(忍……)
 そう、呼ぶことが出来なかったのだろう。
 泣き叫ぶばかりの想いと共に、蓮川は強く強く忍の身体を抱きしめた。
 何も悪くはないのに、何度も「許して」と叫び続ける、哀れで従順な操り人形を。