Goal


 
 グラウンドを全速力で駆け抜けた後、蓮川は両手と両膝を地面につき、荒い息を懸命に整えた。
 来る日も来る日も、走って、走って、走って。もう死ぬんじゃないかと思うくらいに、がむしゃらに走って。
 こんなことにいったい、何の意味があるのだろう。
「先輩っ、すげーっ!!! 新記録ですよ!!!」
 ストップウォッチを手に満面の笑みを浮かべながら駆け寄ってきた後輩に、蓮川はただ疲れた表情ばかりを向けた。
「いちいち記録とらないでいい。今速く走れたって、本番で勝てなきゃ意味ないだろ?」
 タオルで汗を拭いながら言うと、優希がきょとんと目を丸くした。蓮川が「なんだよ?」と怪訝そうな目をむける。  
「いや、先輩、ちゃんと勝ち負けに興味あったんだなぁって……」
「は? 当たり前だろ?」
 勝負事において勝ち負けにこだわらない奴なんているものか。思いながら蓮川が言うと、優希はますます感心したような顔をした。
「良かったー! それ聞いて安心ですよ!! おれいつも、先輩ってなんのために陸上やってんのかなぁとか、大して興味ないのにアホみたいに練習する意味わかんねーとか思って……いてっ!」
 言いたい放題な後輩の後頭部をバコッと拳で殴り、蓮川は疲れた表情で更衣室に足を向ける。
「次の大会も、優勝間違いないですね!」
「人のことはいいから、おまえもちょっとは練習しろ!」
 いつも人のことをどうこう言う割に、まったくもって自分を高めようとしない後輩に、蓮川が怒鳴りつけたその時だった。
 突如ぬっと目の前に表れた人影。蓮川よりもずいぶんと背が高く体つきも良い見知らぬ男を目前に、蓮川は眉をしかめた。
「よう、久しぶりだな蓮川一也」
「……誰だ?」
 やけに偉そうな口調で思い切り上から目線で声をかけてきたその男に、蓮川は怪訝そうに尋ねた。途端に、男が歪みわなわなと肩を震わせるが、本気で誰だか解らない蓮川は、神妙な顔つきで男を見つめた。
「本田美鹿(ほんだみろく)、二十一歳。 高校生全国陸上競技大会にて三大会連続優勝! 陸上界に彗星のごとく表れた超天才児とは俺のことだ!! どうだ思い出したか!?」
 えらく熱い勢いで自己紹介をはじめた相手を前に、しかし蓮川は相変わらず頭の上に疑問符ばかりを浮かべた。
「え……おれ、どこかで会ってたっけ?」
 まるっきり少しも全然思い出せないでいると、美鹿と名乗った青年は呆気にとられ、それから顔を真っ赤に沸騰させ、全身全霊で怒りを露にした。
「前大会で、おまえにわずかな差で負けた者だ……っ! 貴様、本当に覚えてないというのか!!??」
「あ……、ああ、そう言われればこんな感じだったかも……」
「こ、ここここここんな感じ!!? こんなってどんな感じ!!?? おれって一体どんな感じだおいコラ!!!!!」
 なんなんだ、初対面で(はないらしいが)このオーバーリアクションすぎる、明らかに脳味噌足りなそうな輩は!!!! 蓮川は心の内で絶叫しながら、掴まれた胸倉を揺さぶられ続ける。
「まあまあ、こういう人なんで、ほんとにすいません」
 一通り怒り終えると次には悲しみが襲ってきたのか、うずくまって嘆きはじめる美鹿に、優希が丁寧かつ明らかに蓮川を馬鹿にした口調で言い放った。
 なんでおまえが謝るんだ、なんでっ、と、蓮川は心の内でぼやき続ける。
「で、おれに何の用?」
「用もクソもあるか! こーいう時は普通、「あの時はさすがにヤバかったぜ。でも次も負けないからな!」「それはこっちの台詞だ! 次こそおまえを負かすから覚悟しておけ!」みたいな展開になるのが当然だろ? それが男同士ってもんだろ? なんでそんな当たり前の約束が解らねぇんだよっ! これだから進学校のボンボンは……っ!!!!」
「んな約束知るかっ!! だいたい進学校通ってる奴がみんなボンボンだと思ったら大間違いだ!!」
「いやー、ボンボンの中で育ったら、大体みんな気づけばボンボン色に染まってるっしょ」
「そうだそうだボンボン! おまえみたいな苦労知らずのボンボン、いつかぜってー倒してやっからな!! 覚えてろこのボンボン!! ちくしょーっ!!!!!」
 叫んだかと思うとあっという間に走り去っていってしまった、どうやらライバル視されているであろう相手を、蓮川はただ呆然と見送った。
 っていうかおまえ、ボンボン言いたいだけだろ。それしか嫌がらせ思いつかないだけだろ。どこの大学かは知らないが、そもそも大学行けたのが奇跡なんじゃ……。そんな明後日な思考を駆け巡らせていると、隣に立っていた優希が深くため息をつき、蓮川がハッと我に返った。
「先輩、まさかほんとに覚えてなかったんですか?」
「え……あ、いや、思い出したって。ちゃんと!」
 どこか責めるような口調で尋ねられた蓮川は、戸惑いがちに応えた。
「……普通、忘れようと思っても忘れられないような相手ですけどね。さすがに同情しちゃいましたよ」
 完全に呆れた口調で言う優希に、蓮川は返すべき言葉を見つけられなかった。
「先輩に負けた隣であの人、物凄く悔しそうに涙浮かべてましたよ。もしかして、それも気づいてませんでした?」
 優希の言葉に、蓮川は呆然と前ばかりを見つめた。
 そんな蓮川を前に、優希は仕方ないとばかりに、諦めたような苦笑を浮かべた。
 何故だか異常に胸の鼓動が高鳴り、蓮川は言葉に出来ない想いに囚われた。


 だって、もともと、全然知らない奴だったし。
 競技中は隣を走る相手の顔を見る暇なんて、一秒だってありはしない。
 ただ走ることだけに無我夢中で、息も出来ないほどの苦しさに目の前が真っ白になって、何も考えられなくなる。隣の奴を気にしている余裕なんてあるものか。
 もちろん一番前を走れたら嬉しいけれど、勝ったとか負けたとかそんなのはただの後付けで。別に走ることは嫌いじゃないし、頑張れって言われたら出来る限り応えたいと思うし、あとはただひたすらゴールに向かって全力で走るだけのことだ。それに……。
『走れ』
 いつもいつも、そう言われ続けてきたから。
 おまえは速いんだから。才能があるのだから。生かさなければ勿体無い。自分の能力を無駄にするな。
 そう言われてきたから、どんなに疲れても、もう無理だって思っても、がむしゃらに頑張ってきたのに。
 同じ陸上部員からは、いつもいつも嫌な視線を投げかけられ、嫌な言葉を吐かれ、時に嫌がらせとしか思えない行為も少なくなかった。
 どうしてこんなにも、批難ばかりされなきゃならないんだ。嫌われなきゃらないんだ。
 おれは悪くない。
 何も、悪いことなんてしてないのに。

『悪ぃよ、馬鹿』

 突然、頭をゴンと殴られたような錯覚に陥り、蓮川はハッと顔をあげた。
 最寄の駅まではまだ遠い電車に揺られながら、漠然と、過去の記憶を思い出す。

 あれは、いつの事だったろう。
 確か、他校の女子中学生に突然告白されて。ちょっとはドキッとしたし、嬉しくもあったのだけれど、その頃付き合い始めたばかりの彼女がいたから。
『おれ、彼女がいるんで』
 そう言って断ったら、相手が急に泣き出した。
 どうして良いか解らなくて、
『あの、泣かれても……。おれ、あんたのこと全然知らないし、困るんで』
 本当に困った気持ちをそのまま口に出したら、相手は酷く傷ついた顔をして、小さく「すみません」と言って、泣きながら背中を向けて去っていった。
 なんだか凄く後味悪いなと思い、寮に帰ってからそのことを話したら、即効で新聞紙で頭をはたかれた。
『だって、おれには五十嵐がいるんだから仕方ないじゃないですか!?』
 殴られる意味が解らずそう噛み付くと、深くため息をつかれて、ますます苛立ちが募った。
 どうして。なんで。おれは何もしてないのに。
『おまえな……物には言い様ってもんがあんだろ?』
『じゃあ、どう言えば良かったんですか……』
『無茶を言うな光流。蓮川にそんな器用な真似が出来るわけないだろう。第一、優しく言ったところで余計な期待持たせるだけだろうから、蓮川の対応はあながち間違ってるとも言えんな』
『だからっておまえ……!』
『気にするな蓮川。こいつみたいに笑顔でプレゼント受け取って何でも言うこと聞いてやって、さんざ期待させておきながら後で酷いフり方する方がよっぽど残酷だと思うぞ俺は』
『アレはどう考えても俺は何一つ悪くねぇっ!!』

 結局、いつものように二人が口喧嘩を始めて、その話はそこで終わってしまって。
 なんだ、やっぱりおれ、何も悪くなかったんだ。
 そう安心して、納得して、すっかり忘れていたあの時の感覚を、今になって急に思い出す。
(じゃあ、どう言えば……)
 あの人なら、なんて応えたんだろう。
 あの時あの彼女に、そして試合で負けたあいつに、どんな言葉をかけていたんだろう。 
 急激に、悔しさにも似た想いにかられ、蓮川は泣きたくなるほどの惨めさを覚えた。
(忍先輩……)
 助けて。
 助けてください……!
 そう心の内で願った刹那、携帯が振動した。ポケットから携帯を取り出すと、メール着信ありの文字。
『来週、見に行けるから、場所教えろ』
 一瞬にしてそれまでの痛みを忘れ、胸が弾んだ。
 来週の大会、見に来てくれる。そう心の内で確認したら、ますます胸が期待で膨らんで、自然と表情が緩んだ。
 絶対、絶対、頑張ろう。次も絶対に勝つんだ。
 そう自分に誓い、蓮川は返信を急いだ。


 前の日にはしっかり寝て体調を整えて、準備は万端。負ける気なんて微塵もしない。
 自信に満ちた蓮川を、優希が呆気にとられたような瞳で見つめた。
「先輩、一体どうしたんですか? そんなヤル気満々なんて珍しい……」
「いつでもヤル気はあるっつの!」
「えー……いつもは全っ然普通にスポーツドリンク飲んでたり携帯いじってたりするじゃないですかー。まだ試合一時間前だってのに準備運動とかしてるの、おれ初めて見ましたよ? おまけにいつもは寝癖すらロクに気にしないのに、ちょくちょく鏡見て前髪治してるとか、まるでデート前の女子高じゃないですか!!」
「おまえな……そこまで人のこと観察してる暇があったら、少しは自分のことに目ぇ向けろっ!」
「わっかりました。目を向けます。本気出します」
 突然、優希がまっすぐな眼差しを蓮川に向けた。いったい何事かと、蓮川はやや怯んだ表情をする。
「蓮川一也!!! 今日こそおまえを叩き潰す!!!!」
 突然、物凄い叫び声が更衣室に響き渡り、蓮川はビクッと肩を震わせた。振り向くと、そこには背後に「闘志」の文字を背負った美鹿の姿。
 あの後、気になって過去大会の記録などを調べたが、優希の言うとおり将来を大いに期待された素晴らしい記録の持ち主だった。だがそれより先に、「美しい鹿って……。馬鹿なら解るけど」と、まったくもって外見に似合わない名前につっこみまくったことを思い出し、蓮川は到って平常心で美鹿を見つめた。
「ノッてこいよてめぇは!! ねぇお願い頼むからノッて!!??」
 一度こいつのIQ知りたいなどと思いながら、蓮川は喚く美鹿を無視してグラウンドに足を向けた。
 試合開始三十分前。既に見学席に到着しているであろう忍の姿を探すが、どこにも見当たらず、やっぱり仕事で無理だったのかなと肩を落としたその時だった。      
(忍先輩……!)
 きっと仕事中だったのに、こちらを優先して来てくれたのだろう。スーツ姿で見学席に腰を下ろし、きょろきょろとグラウンドを見回す忍の姿が視界に飛び込んで来て、蓮川はパッと瞳を輝かせた。
 勝つ。
 今日は、今日だけは、絶対に。何がなんでも。
 蓮川は何度も心の中で己に言い聞かせ、晴れ渡った空の下のグラウンドをまっすぐに見つめた。
         
 
 酷く落ち込む恋人を前に、忍は慰める言葉もなく。
 これまで一度も負けなしだというのに、最後の最後にこれまで何の記録も持たない後輩に破れ去った蓮川は、今までにないほどの落胆ぶりを見せた。それとも、自分が見に行ったりしたから悪かったのか。昔からだが、何故にこうもプレッシャーに弱いんだ。忍は心の内でため息をつく。
「準優勝なら、十分な結果だろう。三位の奴なんて、今にも泣き喚かんばかりの勢いで落ち込んでたぞ」
 忍に慰めの言葉をかけられるものの、蓮川の暗い表情は変わらない。
 そう、せめて数々の大会で優勝記録を持つ、あの美鹿に負けていたなら、ここまで落ち込みはしなかったかもしれない。っていうかあれだけ意気込んでおいて三位て、ほんとに何しに来たんだあの馬鹿は。思いながら、陸上生活五年目にして初めて負けた相手の言葉を思い出す。
『本気出します』
 言葉通り、優希は全速力で蓮川の横を駆け抜けた。あとほんの数ミリ。追い越せたはずだった。それなのに、追い越せなかった。どう足掻いても、どれだけ力を込めても、死に物狂いで走っても、追い越すことは出来なかった。
(あいつ……!!)
 あれが本来の実力だったのなら、今までのあいつは何だったのか。いつも凄い凄いと褒め称えながら、実は心の奥底で馬鹿にしていたのか。そう思うとますます悔しさが募り、蓮川は吐き気すら襲ってくるほどの猛烈な感情を覚えた。
 悔しい。悔しい。悔しい悔しい悔しい……!!!
 ドクンドクンと全身が脈打つ。震えと動悸が止まらない。なんであの時、あともう一歩早く前進できなかったのか。あとほんの少し力を出し切れなかったのか。後悔ばかりに襲われ、制御できないほどの苦しさに襲われていると、不意に暖かい手の平の感触が頬に伝わった。
「本当に……カッコ良かったぞ。もっと早く、見ておけば良かったって思った」  
 頬を優しく撫でられる。優しいばかりの微笑みが、どす黒く染まった心を一瞬にして浄化した。
「でもおれ、悔しいです……。せっかく先輩が、見に来てくれたのに……っ」
 安堵したら突然に涙が溢れ出し、蓮川はまるで小さな子供のように忍の首に手を回し、しがみついて泣きじゃくった。
 絶対に、絶対に、見せたかった。
 誰よりも早く走って一番にゴールして、喜んでくれる顔が、どうしても見たかったのに。
「また必ず見に行く。だから、その時は……」
 唇で約束を交わすと、それまでの悔しや怒りは一瞬にして消え去り、残ったのは安堵感だけだった。
 大丈夫。まだ、頑張れる。
 心からそう思えて、蓮川はようやく瞳に光を宿した。