Family
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(や、ヤバい……) 猛烈な眠気に襲われた蓮川は、心の内で自分の頬をペチペチと両手で叩いた。 これで何度目になるか分からない睡魔との闘い。腕時計をチラリと見ると、この戦いの終わりまでまだ一時間以上もある。どうにか耐えなければと背筋を伸ばして前を見つめた。 しかし、今までに一度も聞いたことのない静かな音楽が延々と流れ続けるオーケストラを前に、どう足掻いても勝つことは出来なかった。 結局、最後の三十分は気絶という名の爆睡。 隣に座っていた忍に肩を叩かれ、ハッと目を覚ました蓮川は、既に空っぽの大ホールをきょろきょろと見回した後、思い切り青ざめた。 どうしよう。どうしよう。どうしよう。 確か過去にも似たようなことが。あれはそう、大学時代。大して興味のなかった映画鑑賞中、気が付けば眠りに堕ちていて、彼女の機嫌を大いに損なってしまい、その日一日ずっと険悪なムードが漂っていた最悪なデート。 「す、すみません……っ!」 蓮川は慌てて謝るが、忍はいつもの無表情で、さっさと出るぞと言わんばかりに出口に足を向ける。蓮川は椅子にかけたままのコートを手にとり、すぐさまその後を追った。 ああああああ……せっかくのクリスマスデートなのに。お誕生日祝いなのに。どうして俺はこう馬鹿なんだアホなんだ無神経なんだ気の利かない最低男なんだ。これまで何度恋人に罵られたか知れない言葉を頭の中で反芻させながら、クリスマス色に染められた街中を肩を落とし歩き続ける。きっとまた呆れられたに違いない。軽蔑されたに違いない。でも、クラシックコンサートなんて正直、何が良いのかさっぱり解らないし。いやいや、だから俺は駄目なんだ。知性がない教養がない貧乏人なんだ。 蓮川がひたすら自分を卑下していると、不意に忍の足がピタリと止まった。 「蓮川、あれ……」 「え……?」 忍が指差したのは、全国どこにでもあるチェーン店のドーナツショップだった。店前に立てられている看板メニューに、サンタクロースの形をした可愛らしいドーナツが載っている。 「あれが、どうかしたんですか?」 「いや、おまえが好きなんじゃないかと思って。買ってやろうか?」 あまりにも当たり前のように、どこか無邪気な顔をして忍が言う。蓮川はガクッと肩を落とした。 「あの、いいかげん子供扱いはやめていただきたいのですが……」 「昔は喜んでたじゃないか。いつだったか、瞬がおまえのために凄く可愛いバースデーケーキを買ってきて……」 「あ、あれは、あんな可愛いケーキ初めて見たから……!」 そう言って蓮川が思い出したのは、高校時代。 瞬が突然、「お誕生日おめでとー!」と言いながら、ケーキの箱を開いた。ホールケーキの上に飾られた、色とりどりの可愛い動物達。それまでケーキと言えばイチゴの乗ったショートケーキか、せいぜいクリスマスケーキの上に乗った美味しくないサンタクロースくらいしか見たことのなかった蓮川は、あまりに凄いケーキを前に「うわっ、すげー!」と思い切り目を輝かせた。 結局ケーキはほとんど光流に奪われ、可愛すぎた動物達はサンタクロースと一緒であまり美味しくはなかったのだけれど、酷く印象的な誕生日だったことだけはよく覚えている。 そしてふと、蓮川は思った。 あの時、忍はどんな顔をしていただろう。思い出そうとしても、はっきりとは思い出せなかった。 「忍先輩もあの時、可愛いって思ってたんですか?」 なんだかんだ言いつつも結局足を踏み入れたドーナツショップ。サンタクロースの形をしたドーナツを目前に、蓮川は尋ねた。 「ああ、思ってた。それに興味深かったな。これは何で作られてるのだろうとか、このクリームはどうやって絞られてるのだろうとか」 「はあ……」 高校時代、思い出される忍の表情はいつも同じだ。まるで無表情で無感動に見えたあの時、実はそんなに色々考えてたのか。全然気付かなかった。蓮川は思いながら、ひたすら自己嫌悪に浸る。あの頃、その可愛さに少しでも気付いていたら。もう幾度目になるか解らない後悔を感じ、心の内で号泣した。 「コレも、可愛いですか?」 蓮川はうなだれながらも、サンタクロースのドーナツを手にとり、忍の目前にかざしながら尋ねた。 忍はきょとんとした顔をした後、 「おまえの方が可愛い」 にっこり微笑んで言った。 蓮川はまたしても、ガクッと肩を落とす。 だから、可愛いなんて言われてもちっとも微塵も嬉しくはないのですが。思うものの声には出さずにいると、手に持ったドーナツに忍がかぷっとかぶりついた。モグモグと口を動かす忍を前に、蓮川の頬が熱くなる。 (か、可愛い……っ) いやあなたの方が何倍も何百万倍も何億万倍も、超がつくほどに可愛いんですけど。男としての機能が色々とくすぐられ、ヤバいと感じた瞬間、蓮川は咄嗟に忍から目を逸らした。どうにか平常心を保とうと、視線を向けないままぶっきらぼうに尋ねる。 「あの、怒ってないんですか?」 「何を?」 「……さっさと食べちゃって下さい」 チラッと横目を向けると、忍が実に興味深げにサンタクロースのドーナツを眺め、あまつさえ到るところを人差し指でツンツンしている。その凶悪的なまでの可愛さを前に、またしてもナニが反応しそうになり、蓮川はグイッと忍にドーナツをつきつけた。 「自分で持って下さいって!」 目の前で頬張るとか、それ絶対わざと煽ってるでしょうと言いたくなるほどに煽りにくる忍に、蓮川は我慢の限界だと言わんばかりに叫んだ。 「で、俺が何を怒ってるって?」 忍がようやく悪ふざけをやめるものの、素でドーナツを食べる姿はやはり小悪魔的に可愛くて。尋ねてくる忍に目を向けられないまま、蓮川は相変わらず拗ねた様子で応えた。 「いや、だから……さっき、コンサートで思い切り寝ちゃったこと……」 「別に何も悪いことはしてないだろう。退屈だから寝た、それだけのことじゃないのか?」 思いがけない忍の言葉に、蓮川は目からうろこが落ちたかのような表情をする。 「いやでも、せっかく高いお金払って行ったコンサートだし……」 「高いコンサートだからって、興味もないのに無理矢理感動できるものでもないだろう。元々おまえにそっち方面の感性があるとは思ってないし、俺が無理に付き合わせたコンサートなんだから、眠ろうが途中退場しようがおまえの自由だ」 「はぁ……」 なんだろう、凄く合理的すぎてビックリする。っていうか楽。そんな風に思ってくれたら凄く楽。あまりの感動に言葉も出ない蓮川であった。 「忍先輩は、感動したんですか……?」 「ああ、凄く良かった」 「……俺にはよく、解らないです」 蓮川は遠慮がちに、素直な意見を述べた。 「解らないのは、考えたことがないからだろう。俺の祖母はとても芸術家肌の人で、幼い頃から色々な場所に連れて行かれたんだ。クラシックにミュージカルにオペラ、能に歌舞伎。幼い頃はもちろん、何が面白いのかさっぱり解らなかった。けれど祖母の音楽への解釈を聞いている内に、凄く興味が沸いてきた。今日のクラシックにしてもそうだ。バイオリン、フルート、オーボエ、サックス、トランペットに打楽器。それぞれの楽器に色々な役割があって、それらが調和して見事な一体感を伴って初めて、素晴らしい音楽が創り上げられる。このフレーズにはどんな意味があるのだろう、作曲者は何を感じ、何を伝えたかったのだろう。指揮者や演奏者達はどんな音楽を俺に伝えたいのだろう。想像しているうちに、音楽が鮮やかな美しい景色を魅せてくれる。心地良くて、時に熱くなって、最高の瞬間を感じることが出来る。そう……まるでセックスの時みたいに」 恍惚とした表情で語っていた忍の視線が、怪しく蓮川を捉えた。途端に顔を真っ赤に染める蓮川に、忍は不敵な笑みを浮かべる。 「俺をどうしたら感じさせられるか、いつもよく考えろ」 「……はい」 頑張ります。そうとしか言えず、真っ赤な顔をしながら頷いた蓮川であった。 「朝からずっと付き合ってもらったのだから、今度は俺がおまえに付き合う。どうしたい?」 ドーナツショップを出た直後、忍は尋ねたが、蓮川はなかなか応えられないでいた。 こんな時、光流だったら速攻で「ホテルか家」と応えたものだが。思い出して若干の苛立ちを感じた忍は、そんなことは微塵も考えていない、目の前のピュアで可愛い恋人を前に、キュンと胸が疼くような愛しさばかりを覚えた。 思えばコンサート中にしてもそうだった。光流もよく付き合わせたクラシックコンサート、同じようによく爆睡していたものだった。しかし彼は蓮川のように申し訳ないと思うどころか、「あー、よく寝た寝た!」と完全に開き直っては、その後「今度は俺の娯楽に付き合えよ?」とホテルに直行。思い出してはまた腹が立ち、腹が立ってはまた、いつも一生懸命な恋人にキュンと恋心が煽られる。 あんな超絶俺様なモラハラ男と違って、コンサート中どうにか起きてようと必死な様子に、忍が心の内で密かに「可愛い」と思いながら苦笑していたことには、蓮川は微塵も気付いていないのだろう。 「俺は別に行きたいとことかないので、忍先輩の好きなところに付き合いますよ」 蓮川は遠慮がちに笑いながら言った。忍はやや眉をしかめる。 いつも犬のように後を着いてくるばかりの蓮川に、忍が物足りなさを感じることは滅多にない。元々、誰かに主導権を握られるのは好きじゃない。昔から自分のやりたいように好きなように、自由に人を使ってきた忍にとっては、うってつけの相手なわけだが。 さすがにこうも付き合わせてばかりだと、たまには蓮川の意思を優先してやりたくなるわけで。 「おまえの好きなところに行きたい」 忍がきっぱりそう言うと、蓮川は酷く困った表情をした。忍にはそれが酷く不思議だった。昔から思っていたが、こいつの口から自分がしたいことや自分が行きたいところを聞いたことがない。大抵、光流か瞬に言われるまま、仕方なく後を着いていくばかりだ。良く言えば柔軟に人に合わせることが出来るということだが、悪く言えば自分の意思というものが無いようにも思える。 「どこでも構わないぞ。映画館でもゲーセンでもパチンコでも」 「いや、俺はほんとにどこでも良いので……」 蓮川はあくまで遠慮する。忍は若干の苛立ちを感じた。 「暇な時によく行く場所は無いのか?」 まったく答えが出せない様子である蓮川に、忍はどうにか答えを出させようと質問を試みた。 「それは……まあ、あるにはありますけど、忍先輩が行っても全然楽しくないでしょうし……」 「俺もおまえが楽しくない場所に付き合わせたんだ。同じ時間くらいは付き合う」 「いやでも、さすがに悪いですから」 蓮川はどこまでも遠慮ばかりを見せる。いいかげん俺の気遣いを察しろよと、忍の額に青筋が立った。 「全然問題ない。連れて行ってくれ」 「そんな、俺なんかに気遣わなくても。今日寒いし、もう暗くなってくるし、忍先輩の好きなとこで全然……」 「いいから四の五の言わずにさっさと連れて行け!!」 気遣いもそこまで行くと卑屈にしか見えないとばかりに、いきなり切れる忍を前に、「はいっ!」と背筋を伸ばす蓮川であった。 しかしそのニ時間後。蓮川がそこまで気遣うのも当然だったかもしれないと、忍は寒さに震えながら己の強引さに後悔ばかりを感じた。 市民グラウンドのベンチで待つこと二時間近く、蓮川は相変わらずグラウンドで汗をかきながら走り続けている。 好きなこと=走ること。行きたいとこ=走れるところ。なんて単純かつ金のかからない生き物(=ペット)なのだろう。忍は自分とはあまりに違う生き物を前に、半ばカルチャーショックを受けつつも、「自分の世界に篭る」という意味では、走ることも音楽を聴くことも同じことなのだろうと理解した。 蓮川は走っている間、何を考えているのだろう。いや、何も考えずにいられるから走るのか。日常では人にこき使われ、疲れるばかりの蓮川だ。鈍感に見えて、実のところ人の気持ちだけは人一倍よく考えるだけに、考えることに疲れ果てているのだろう。 そう思うと、さんざ気を遣わせた昼間の時間を改めて申し訳ないと思い、このくらいの退屈さと寒さは耐えようと、ベンチの上で身を縮ませる忍だった。 それに、蓮川の走る姿を見るのは好きだ。綺麗なフォームも、一生懸命なところも、いつもの少し情けない姿と違って、凛とした精悍な顔つきになるところも。 (好き……) 心の内でそっと呟いた途端に、そんな恥ずかしい自分に気付かされ、忍はぽっと顔を赤らめた。 一人悶えていると、不意に尿意が襲ってくる。さすがに寒すぎて我慢も限界だった。どこかにトイレはと辺りを見回していたところ、やっと走ることに満足した蓮川が戻ってくる。 「すみません、いつの間にか夢中になっちゃってて……!」 走ることに集中しすぎて忍の存在をすっかり忘れていたらしい蓮川は、慌てて忍に駆け寄り、がばっとその体に抱きついた。 「うわ、すごい冷えてる……!」 酷く焦った様子で頬を両手で包み込まれた忍は、一瞬本気で寒さなど忘れた。それよりも、懸命に心配してくれる一途な瞳に、胸の奥が疼いて、泣きたくなるような切ない想いに駈られる。 「ごめんなさい、すぐ帰りましょ……」 忍は咄嗟に唇を塞いで、蓮川の言葉を遮った。 唇を離すと、瞳で「今すぐ暖めろ」と訴える。その声が届いたのか届かないのか、解らないうちにもう一度唇が重なる。情熱的に絡まってくる舌が、切なさをより一層沸き立たせる。 「……忍……」 耳元で、昔よりずいぶん低くなった声が響く。もう駄目だと、忍は瞳に涙を滲ませた。 走り終えて熱く火照った身体。内側も多分、同じくらいに熱くなっている。いつもならこんな場所でなんて、人目を気にして絶対にしないのに、堪えきれないとでも言うように、シャツの下の乳首を蓮川の指が弄ぶ。それだけで忍の身体は今にも達しそうに疼いた。 期待していた通りに、蓮川の手がズボンの上から股間を撫でる。不意に身体を反転させられ、ベンチの上に手をついて尻を突き出すような恥ずかしい格好にされるが、忍はされるままに身を委ねた。 「……んぁ……っ……」 ズボンのチャックを降ろされ、ペニスだけを露にされる。性急に擦られ、羞恥心も相まってあっという間に高みに連れて行かれる。ガクガクと足を震わせた忍の耳元に唇を寄せ、蓮川は囁いた。 「いいですよ、このままイッて」 乳首とペニスを同時に刺激され、忍は快楽に喘いだ。 「あ……、ぁ……っ、イく……っ!」 溢れ出る精液が蓮川の手を濡らすまで、そう時間はかからなかった。ビクビクと痙攣する忍の身体とペニス。完全に達した後も、蓮川は刺激を続けた。敏感になりすぎたペニスを執拗に弄ばれ、忍は地面に膝をついて首を振るが、蓮川の愛撫は止まらない。 「や……っ、も……や……っ、あぁ……っ!」 頼むからやめてくれと懇願するが、蓮川の親指が先端を執拗に撫で続ける。頭がおかしくなりそうな快感と共に、体の奥から溢れてきそうな感覚が押し寄せてきて、忍は嫌々と首を横に振った。頼むからこれ以上は。もう駄目。もう無理。泣き出しそうになった刹那、自分の意思とは関係なしに、ペニスの先から大量の液体が溢れ出る。 「やだ……っ、やぁ……っ!!」 止め処なく溢れてくる液体と共に身体中に走る、これまでにないほどの快感。 「………おもらし、しちゃいましたね」 蓮川が汗と涙でぐちゃぐちゃになった忍の耳元で、嘲笑うかのように囁く。忍がカッと頬を赤く染めると、それはすぐさま優しい声に変化した。 「いいんですよ……? 凄く、可愛い……」 好きだと、愛してると、愛しげに頬に手を寄せられ、唇を奪われる。忍は絡んでくる舌を、貪るように求めた。 「はや……く……」 今すぐおまえが欲しい。そう瞳で訴えるが、蓮川はふといつもの平静な表情に戻り、仕方ないように苦笑した。 「風邪ひいちゃうから、続きは帰ってからしましょう?」 身体が限界まで昂ぶっているのに、まさかの終わりを告げられ、忍が嫌だと首を振る。 「ここまでしておいて……今更……っ!」 「ご、ごめんなさい……っ。走った後ってアドレナリン出すぎて、つい……!」 「だったら最後まで出し切れ……っ!」 「すみません今正気に戻りました! 戻った以上はこんな場所でなんて無理です! それにほんとに風邪ひいちゃいますから!!」 「嫌だ……っ、今すぐじゃなきゃもう二度としない……!!」 「か、帰ったら! 帰ったらうんと満足させてあげますから、そんな我儘言わないで下さい。……ね?」 蓮川は懸命によしよしと頭を撫でるが、忍は当然納得するはずもなく。 がぶっと思い切り肩に噛み付かれ、カエルが潰れたような悲鳴をあげる蓮川であった。 結局さんざ宥めすかして家に帰り、速攻で風呂に湯を張り、まだご機嫌斜めの忍と何とか一緒に風呂に入ること三十分。アヒルちゃんが浮いた熱い湯船に浸かっていたら、ようやく身も心も落ち着いたのか、背後から抱きしめていた忍がうとうとと眠りそうになる。 「先輩、ここで寝ちゃ駄目ですよ?」 「……ん……」 かろうじて返事はするものの、まるきり心ここにあらずな忍を、蓮川は早々に湯船から上がらせた。 疲れからくる眠気でいっぱいなのか、まるで動きが鈍い忍の身体を拭いてやり、下着とパジャマを着せてやり、最後は抱っこで寝室まで連れていくはめになった。 まるで緑を風呂に入れてる時のような感覚に陥った蓮川は、ベッドの上で安らかに眠りに落ちていく忍の髪をそっと撫でる。 何故なんだろう、普段はこれでもかというほど大人な人なのに、時々びっくりするほど子供返りしてしまうのは。 蓮川は考えるが、恋人同士ならよくある話だ。親から得られなかった愛情を恋人に求めるというのは。自分もまたこの人には、時に母親のように甘えてしまうことも少なくないわけだし、まあこのくらいは。 (可愛い……) それに、凄く、凄く、可愛いし。 どうやら酷く幸せな夢を見ているらしい、忍のあどけない寝姿を前に、蓮川は穏やかな顔つきで目を細めた。 溢れてくるこの幸福感と熱情を、どう言葉に表せば良いのか分からないまま。 そんな、幸福度MAXの恋人達がいる一方。 「今日はありがとうございます! またよろしくお願いします!!」 営業の仕事を終え、取引先の相手が見えなくなるまで見送った後、明るくにこやかな笑顔から一変して疲れ切ったため息を漏らす男が一人、とぼとぼと街中を歩き出した。 (そーいや今日……クリスマス・イヴだっけ) ふと光流は、街中に飾られたクリスマスツリーに空虚な瞳を向けた。 色とりどりに飾られたツリー。綺麗だとは思ったけれど、だから何だと思い直し、ツリーから目を逸らし歩き出す。我ながら卑屈だ。でも一人きりで綺麗だなんて感じたって空しいだけだし。特別、見せたいと思うような相手もいないし。いや、一人もいないわけじゃないけど。けれど。 (くそ……っ) 今頃は絶っっっ対にクソがつくほどいちゃつきまくっているであろう恋人達の姿をうっかり妄想してしまい、超がつくほどの苛立ちに襲われた光流は、さっさと帰って家で待っている最愛の忍ちゃん(わんこ)に癒してもらおうと、早足で歩き始めた。 すると突然、見知らぬ女性が体当たりしてきた。光流は身体をよろめかせながらもその女性を受け止めた。 「てめぇ! このクソアマ! 払った金返せよ!!!」 ほぼ同時に、野太い男性の怒号が耳に響く。 「うっせぇバーカ! 払った金の分は奉仕してやっただろーが! これ以上あんたの変態趣味に付き合ってたまるかってんだよ!!!」 光流の腕の中の女が、目の前のチンピラ風情の男に勝るとも劣らない汚い罵声を張上げる。光流はただただ唖然とするばかりだった。しかしすぐに、これは関わってはいけない連中だと判断し、女を突き放そうとするものの。 突然、女の身体からガクッと力が抜け、光流は慌てて彼女の身体を支える。どうやら気を失ってしまったらしい彼女をその場に置き去りにするわけにもいかず、光流は「ああもう!」と心の内で悪態をつきながらも、彼女の身体を抱き上げる。 「お兄さん、お金、いくら返せばいい?」 「え? い、いや、要らねぇよ。チッ、お節介な兄ちゃんだな」 光流が男をじっと見つめながら尋ねると、男はやや怯んだ表情を見せ、仕方ないと言わんばかりにその場を去って行った。 金髪に近い色のウェーブがかった髪。豹柄のコートに胸の開いたブラウスとミニスカート。濃いアイシャドウと真っ赤な口紅。どこからどう見ても水商売。今日見た男を見る限り、ずいぶんと下級層ばかりを相手に商売しているような。 「……ん……」 路地裏で壁を背に座らせた女の頬をペチペチと叩くと、女はようやく目をうっすらと開いた。 「おーい、立てるか?」 光流は到って平静に声をかける。 女は頭を抱えながらだるそうに体制を整え直した。どうやら意識ははっきりとしている様子だ。女の前にしゃがんでいた光流は立ち上がり、その場を離れようとしたが、コートの裾を掴まれ、即座に苦い顔をする。 「無理。立てない。送って」 「……タクシー呼ぶくらいならしてやってもいいけど」 「お金ない」 「さっきの男から貰ってんだろ」 頼むからこれ以上関わらせないでくれと言わんばかりに、光流は敢えて冷たい瞳を彼女に向けた。けれども彼女が酷く辛そうにうなだれてしまい、立ち上がる事も出来ない様子を見ると、本来の世話焼きな自分がムクムクと本性を表す。駄目だ。関わっては絶対に駄目だというのに。光流は必死で自分を律するが、もう一人のお節介な自分が黙ってはいなかった。 結局、光流は彼女を背におぶり、自分にうんざりしながら歩き出した。 絵に描いたような、六畳一間のボロアパート。いつかの同棲時代を思い出すなと思いながら、光流は小さくため息をついた。 それなりのマンションに住めるようになった今じゃ、こんなボロアパートに住むなんて考えられないし、大学時代はよく我慢していたなと思う。それでも思い返せば、あの頃は幸せだった。今よりずっと不便で退屈で、何もなかったはずなのに、思い出だけは何故こんなにも鮮やかなんだろう。 思い出すと泣きたくなるような気持ちにかられたその時、シャワーを浴びていた女がタオルで髪を雑に拭きながら、浴室から戻ってきた。光流は一瞬、目を丸くした。派手な化粧を落とし、シンプルなスウェットに身を包んだ彼女は、思いがけないほどによく整った可愛らしい顔立ちをしていたからだ。年は三十代前半くらいだろうか。明らかに年上ではあるが、どこか幼ささえ感じるのは、飾らないぶっきらぼうな仕草のせいだろうか。 「あんた……化粧しない方がいいんじゃねぇ?」 初めて家に入れる男を前に、いっさい気遣うどころかまるで空気のように声をかけることもなく、鏡台の前に座ってドライヤーをかけ始める彼女に、光流は据わった目で声をかけた。 「あ? どーいう意味よ?」 女は気の強い瞳で光流を睨みつけた。 「つか、絶対化粧下手だろ。なんだよこの趣味の悪ぃ口紅の色はよ」 いつもならば初対面の女性にはそれなりに気を遣う光流であるが、相手があまりにも地のままなので、光流もまたうっかり社交辞令を忘れ地を曝け出してしまう。 「っせーな! そっちこそ男のクセにやたら綺麗なツラしやがって、気持ち悪ぃんだよ!」 光流が手にとった真っ赤な口紅を奪い返し、女は相変わらずぶっきらぼうに言った。光流はわなわなと肩を震わせる。 「助けてやった恩人に対してなんだよ、その失礼な態度は!?」 「あ!? 誰も助けてくれなんて頼んでねーよ! 金が欲しいならやるから、さっさと出て行きな!!」 女はあくまで不機嫌面でそう言うと、光流に一万円札を投げつけた。 光流はますます肩を震わせる。屑だ。あまりにも屑すぎるこの女。俺だって決して育ちが良いとは言えないが、必要最低限の一般常識だけはしっかり親に叩き込まれている。どう育ったらこんな屑が出来上がるんだ。一度でいいから親の顔が見てみてぇ。 心の内であらゆる悪態をつきつつ、光流は投げつけられた一万円札を目の前の女に投げ返した。 「頼まれても二度と助けねーよ!」 本当は一発殴ってやりたいところだが、相手は女だ。こらえろ、こらえるんだ自分。光流は必死で自分に言い聞かせ、立ち上がった。精一杯の怒鳴り声をあげても女は微動だにせず、光流に背を向けたまま飄々と髪を乾かし続けている。駄目だ、この女。苛立ちは抑えきれないものの、仕方ないと諦め、光流は女の部屋を後にした。 世の中、実に荒んでいる。世間の荒波を改めて体験した光流は、失恋の一つや二つまだマシな方だと己を慰めた。人生最高の悲しみを味わったものの、俺はまっとうに仕事もしているし、まっとうに生きているし、まっとうにペットを愛することも出来る。失恋してからこの方、常にどこか後ろ向きな考えばかりが巡っていたが、水商売女の凄まじい荒みっぷりを前にしたら久方ぶりに前向きな気持ちになれた光流は、マンションに帰るなり愛する忍(わんこ)をぎゅっと抱きしめた。忍は尻尾をフリフリさせながら、ハッハッと嬉しそうな息を光流に吹きかける。 「忍~、おまえはほんっっとに可愛いな……っ」 可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い。ひたすら心の内で可愛いを繰り返しながら、光流は思う存分に抱擁を楽しんだ。 これ以上なく癒されたところで、隣の部屋の寝室と通じる壁にぴったりくっつけたステレオをフルボリュームで鳴らす。近所から苦情が来るのにまるで時間はかからなかった。 「光流先輩っ! いいかげんこのマンション追い出されますよ!?」 迷惑なのはうちだけじゃないんですから!と、既に嫌がらせに慣れきった蓮川が、しなくて良い心配をしてくる。 (アホ……) なんでこうもお人好しなんだこいつは。慌ててパジャマを羽織って来たと見られる蓮川に、光流は冷めた瞳ばかりを向けた。しかしすぐさま、今頃忍は寝室で裸かよ、とまたもしなくて良い妄想をしてしまい、ムカムカと怒りが込み上げてくる。 「今日はクリスマス・イブだ、蓮川」 「は!?」 「せっかくだから、忍が超絶喜ぶテクをおまえに教えてやろうと思ってな」 光流がニヤリと笑みを浮かべると、蓮川は顔を真っ赤にしながらも、興味津々な様子で光流に近づいた。 「愛する妻を喜ばせたいだろ?」 光流は蓮川の耳を引っ張ると、実に怪しげな声で悪魔の言葉を囁いた。 あくまで単純馬鹿な蓮川は、心の内で頷きながらゴクリと喉を鳴らす。 「……って、聞きたくありませんそんなこと!!」 しかし、ハッと我に返った蓮川は、気を取り直して光流に噛み付いていった。 「ちぇ、これ以上ねぇ丸秘テクニックなのに。あいつも絶対おまえに惚れ直すのに。おまえ情報の大切さわかってねぇな。こんな親切な先輩、世界中のどこにもいねぇぞ?」 「あいにく惚れ直させなくても充分惚れてもらってますから……っ」 「言うようになったじゃねーか……っ」 光流は相変わらずクソ生意気な後輩を前に、ギリギリと歯を鳴らした。 バチバチと火花を鳴らし合うこと数十分、いつものごとく決着のつかない勝負を終えさせたのは、蓮川の帰りを待ちきれずに苛立ちを募らせた忍の一喝なのであった。 |