Family



 
   クリスマスが過ぎれば、あっという間にお正月。
 さっそく新年の挨拶にと蓮川の実家に訪れた忍は、いつまで経っても息子(誤)ラブなすみれと火花を散らしつつ、いつまで経っても弟最愛な一弘にからかわれ、いつまで経っても変わらない蓮川家の有様に辟易していた。
「忍くん、それ美味しい? やっくんが昔から大好物の玉子焼きなの~」
「ええとっても。最近は甘くない玉子焼きの方が好きだって言ってますけどね」
「いやあの、俺、どっちも好きなんで……っ!」
 何故か嫁姑戦争が繰り広げられているすみれと忍の間に蓮川が口を挟んだ途端、二人にキッと睨まれ、蓮川はヒッと顔を青ざめさせた。
「なんかさー、お兄ちゃん居場所がないなぁ、おまえが帰ってくると」
 その隣では、一弘が明らかに拗ねた瞳で弟を見据える。
「妬くなよみっともねぇ……っ」
 蓮川がわなわなと肩を震わせた。
「やっぱ母親ってのは旦那より息子が愛しいものなんだよな。おまえも子供出来たら俺の気持ちが解るって」
「俺はすみれちゃんの息子じゃねぇっ!」
 弟! あくまで弟だから!!と、息子も弟も大して変わらないことには気付いてないまま、蓮川は声を荒げる。
「それに、うちは子供なんか出来やしないし……」
 そこまで言った刹那、周囲の空気がピーンと張り詰めた。蓮川は言ってはいけない言葉を発してしまったことに気付き、サーッと血の気を引かせる。一弘は「馬鹿……」と頭を抱えた。
「いや、あの、俺は子供なんか出来なくても、全然幸せなので……っ!」
 慌ててフォローする蓮川だったが、忍の周囲を包み込むどよんとした空気が変わることはなかった。


「忍しぇんぱい、笑って?」
 蓮川の部屋のベッドに座り、神妙な面持ちをしていた忍は、小さな手にそっと頬を撫でられ、胸の内がキュンと疼くのを感じた。
 蓮川によく似た瞳。鼻。顔の形。髪質。まるで蓮川をそのまま小さくしたような。
 すっかり忍に懐いている緑が、いそいそと忍の膝に座り、ぎゅっと抱きつく。その小さな身体を抱きしめながら、いっそのこのまま連れ去ってしまいたいとすら思う忍だった。
 子供が欲しいなんて思ったことは、一度もない。なかったはずなのに。
 義兄夫婦のごく普通な幸せを目前にしていると、やはりどうしても思わずにはいられない。
 蓮川にも、こんな幸せがあったはずなのに、と。
「元気になぁれ、元気になぁれ」
 母親の真似なのか、必死でよしよしと頭を撫でてくる緑がよりいっそう愛しくなり、泣きたくなる。
 欲しい、なんて思ってはいけないけれど、こんなにも蓮川と瓜二つな可愛い生き物を目前にして、思うなと言うほうが残酷だ。
「百年早いわ、クソガキ」
 不意に腕の中の感触が無くなったと思ったら、蓮川にひょいと抱き上げられた緑が「わーん!」と泣き声をあげた。
 そのままポイッと襖の向こうに投げ捨てられ、ますます大きな泣き声が響くが、蓮川は無視して襖をピシャッと閉めた。
 大人気ない。実に大人気ない。こういうところは光流とそっくりだというとまた怒るから言わないが、何故にこうもそっくりなのだろうと、己の趣味になんとなく嫌気がさす忍であった。
「あの……さっきは、すみませんでした……」
 急に大きくなった、などと思いながら、忍は隣に座る蓮川を同じ目線で見つめた。
「別に……気にしてない、今更」
「ほんとに……?」
 蓮川が不安げな瞳を向けてくる。瞳の色も鼻の形も輪郭も、髪の色も質も、大きくなっただけで、緑とちっとも変わらない。そう思ったら、心がぽわんと暖かくなって、忍はクスリと笑みを浮かべた。
 愛しい気持ちが抑えきれず、ガバッと抱きついて、柔らかな癖っ毛に指を絡ませる。蓮川は「わっ」と驚いた声をあげながらも、抵抗することはしなかった。
 可愛い。可愛い可愛い可愛い。忍は心の内で思い切り叫ぶ。
「おまえがいれば、充分だ」
 図体がでかくなっただけで、子供と同じようなものだし。なんてことは、蓮川のプライドを想えば絶対に口には出来ないけれど。どうしようもなく愛しいと思う気持ちは、たぶん一緒だから。
「お、俺も、先輩がいてくれれば……っ!」
 忍のそんな想いはいざしらず、蓮川は感極まった様子で、忍の身体をぎゅっと強く抱きしめた。
「なかよしだね、パパ」
「パパ、見てて恥ずかしい……っ」
 にっこり笑う緑を抱き締めながら、一弘が頬を染め緑の頭に顔を埋める。
「だったら見るなよ、この馬鹿兄貴!!!」
 襖の隙間からそっと覗いていた兄と甥っ子の存在に気付いた蓮川が、思い切り怒声をあげた。  

  

 そんなほのぼの(?)とした蓮川家での一日を終え、次は忍の実家へと思う蓮川であったが、勘当された身も同然である忍の実家に足を踏み入れることは叶わず。
 しかし、たまに連絡をとっているという忍の母が東京まで出向いてくれ、初めて義母となる人に料亭で体面することとなった蓮川は、緊張のあまり身体を強張らせていた。
「はじめまして、蓮川さん」
 上品な色合いの和服に身を包んだ忍の母、佐和子は、穏やかな笑みを浮かべながら蓮川を見つめた。
 あまりにも忍とよく似た、美しく清楚で、どこか少女めいた純潔さすら見せる佐和子を前に、蓮川はひたすら緊張するばかりだ。正座でピシッとまっすぐに背を伸ばすものの、頭の中は完全にパニックになっているのが赤裸々に表れていて、隣に座る忍は心の内で頭を抱える。
「あ、あの、すみません、俺なんかで……っ」
 まったくもって自分に自信を見出せない蓮川は、無自覚に卑屈な言葉を選んでしまう。
「あら、想像以上に素敵な方で、安心してますのよ。それに、なんて可愛らしい……」
「お母さん……」
 蓮川を前ににっこりと微笑みながら、今にも「テトと呼びましょう」と言わんばかりの佐和子を前にして、妙に血の繋がりを感じさせられた忍が、佐和子を制するように声をあげた。
「ごめんなさい、殿方に向かって可愛らしいは失礼だったわね」
「いえ、慣れてますので……」
 蓮川は苦笑しながら言った。内心は屈辱感でいっぱいであったが。
「テ……蓮川さんは、ご両親は早くにお亡くなりになられたのですってね。きっと苦労なさったんでしょうね」
 「今、明らかに「テト」って言いかけましたよね」とは言わず(言えず)、蓮川は苦笑した。
「いえ、それほどでも。苦労したのは兄だけで、俺は甘えてばかりで」
「小学生の頃からお兄様と二人で過ごされてたのでは、おうちのお手伝いもたくさんしなければならなかったでしょう?」
「それは……やらざるをえなかったというか……。それに、兄に子供の頃からスパルタで教えられてましたし」 
 言いながら、蓮川は思い出す。掃除に洗濯、料理まで、小学生の頃からありとあらゆる暴力や罵声を受けながら、血の滲む想いで習得した日々のことを。いやでも、おかげで生活には何一つ不自由しない今があるんだ。蓮川は前向きに自分に言い聞かせ、必死で兄に感謝の念を募らせるが、同時に何であそこまで殴られ蹴られ罵倒されなければならなかったのだという憎しみも募っていく。複雑な心境でいる蓮川を前に、佐和子はあくまで穏やかな笑みを浮かべた。
「偉いのね、とても。忍さんなんて、高校卒業するまで包丁の一本も持ったことはなかったのよ」
「そ、それは……。手伝おうとしたこともあったけれど、お父さんに男が台所に入るものじゃないと窘められていたもので……」
 蓮川に比べ恵まれすぎた環境で育ってきた自分が恥ずかしくなったのか、忍はややムキになって反論した。
「そうね、私も家のことをしようとすると、家政婦さんの仕事を奪ってはいけないと怒られたものよ。おかげで随分と退屈でつまらない人生だったわ」
 あくまで穏やかに、しかしどこか憂いを帯びた様子で佐和子は言った。
「自分がやるべき仕事があるって、素晴らしい事だわ。私はたくさんするべき事があった蓮川さんのことが、羨ましい」
「そ、そんな風に言われたの、初めてです……」
 蓮川は感銘を受けたように目を丸くし、それから照れ臭そうに頬を染めた。 
「自信を持ってね。きっとあなたは、誰よりも必死に、逞しく生きてきたのでしょうから」
「……ありがとうございます」
 にっこりと微笑む佐和子に、蓮川はただ照れた表情ばかりを向ける。
「それに比べて忍さんは、甘ったれでしょう。年の離れた三兄弟の末っ子だし、たくさんの人に大切に可愛がられてきたものだから、打たれ弱いところもあって、心配で仕方ないのよ」
「いや、そんな……。こんなしっかりした人、他にいないと思いますけど……」
「しっかり……してるのかしら?」
 佐和子が意味ありげに、チラリと忍を見つめる。忍は図星をさされたと言わんばかりに、佐和子から目を逸らした。
「本人が一番よく解っているみたい」
「からかうだけのつもりなら、もう帰ります」
 侮れない母親を前に、忍はこれ以上つきつめられてなるかとばかりに立ち上がった。
「怒らせちゃったみたい」
 さっさと会計に向かう忍をよそに、佐和子は少女めいた笑顔を蓮川に向けた。ああやっぱり親子だなと思わずにはいられない蓮川は、忍にそっくりな義母を前に、苦笑するばかりであった。
 
   
 料亭を出てから、三人で東京観光。上野から浅草まで、下町を珍しげに観光する佐和子は、すっかりはしゃいでしまって。おまけにめちゃくちゃ気に入ったと見られる蓮川を、ほぼ一人占め状態。生まれて初めて母に嫉妬心というものを抱いた忍は、ただひたすら面白くない様子で、傍目に見るといちゃついているようにしか見えないカップルのような二人の後をついていった。
「お母さん、蓮川君のこと、とても気に入っちゃった」
 蓮川が佐和子のためにと、行列の店に並んでいる間、佐和子は酷く満足気にそう言い放った。
「言わなくても解ります」
「血は争えないものね」
「親子丼は誓ってやめて下さいね」
「嫌だわ、いつの間にそんな下品な言葉覚えたのかしら?」
 どこまでもからかってくる佐和子を、忍は鋭い瞳で睨みつける。しかし佐和子はあくまで余裕の笑みを浮かべると、忍に慈愛の瞳を向けた。
「冗談よ、私の天使はあなただけだもの」
 思いがけない佐和子の言葉に、忍は目を見張る。
「それから、旭さんと、渚ちゃんと。みんな、誰よりも幸せになって欲しいの」 
 そう言って、佐和子は静かな表情で目を伏せた。
「だからお願いよ、蓮川君と一緒に、幸せになってね」
 あまりにも「母親」の顔をする佐和子を前に、忍はどんな顔をすれば良いのか解らなくなって、目を逸らしてしまう。 
「あとは二人でデート、楽しんで。お母さん、これから渚ちゃんに会いに行ってくる」
「姉さんに……?」
「きっとあの娘は一生独身ね。女の子にしておくのが勿体無いわ。一番お父様に似て気が強くて野心家なのだから、あの娘が家を継いでくれたら万事うまくいくのに」
 佐和子はそう言って、ふぅと疲れ切った溜息をついた後、気を取り直し忍に真顔を向けた。
「あのね忍さん、倫子ちゃんがあなたに会いたがってたわ。今度、連絡してあげてくれる?」
 佐和子は困ったように言って、一枚のメモを忍に渡した。そこには携帯の電話番号が書かれている。
「揃って困った子達だから、倫子ちゃんも苦労してるわ。話を聞いてあげてくれる?」
「どうして僕が……」
「実はお父様、ちょっと前に倒れて入院してね。命に別状はないけれど、しばらく別荘で療養することになったから、手塚家のことは全て旭さんが取り仕切っているの。でもあの子の性格だから、色々と無理が出てきているみたい。私も今はお父様と一緒に別荘に住んでいるから、なかなか助けにはなってあげられなくて……。一度でいいから、二人の様子を見て欲しいの」
 メモを渡したと同時に、ぎゅっと忍の手を握り締め、佐和子が酷く真剣に懇願する瞳を忍に向ける。忍は戸惑いを見せるが、断ることは出来ず、小さく頷いた。佐和子はホッとしたように笑みを浮かべる。
 それから念を押すように「連絡してね」と言って、佐和子は忍に背を向け去って行った。
 その直後、蓮川がようやく買えたらしい売店のきび団子を手に持って、戻って来た。
「あれ、お義母さんは……」
「……姉に会いに行くらしい」
「え、せっかく買ってきたのに!」
「実は凄く気まぐれで奔放な人なんだ、生粋のお嬢様だからな」
「……ほんと、そっくりですね」
 どこかうんざりしたように呟いた蓮川を、忍はジロリと見据える。蓮川が慌てて「いえ、なんでも」と訂正した。
「あの、これ、どうしましょう……!?」
「おまえが全部食え」
 不機嫌な様子でスタスタと歩いて行く忍を、蓮川は慌てて追いかけた。
 忍は右手に持ったままのメモを、くしゃりと握りつぶした。


 
 正月? なにそれ美味しいの?
 うっかりそんな卑屈な台詞を吐き出しそうになる己を呪いながら、光流は正月だからといって特に挨拶しに行くような場所もない自分にうんざりしていた。相変わらず煩い親戚が集まっているだろう実家には、三が日が過ぎたら顔を出せば良いだろう。ああそうだ、正の息子にお年玉を用意しなければ。って、まだ赤ん坊の甥っ子にお年玉っているのか……? そんなことを考えながら、ただぶらぶらと街中を歩く。一人では初詣すらする気にならない。またも卑屈になりそうな自分が嫌になりかけたその時、突然、背後から重みが襲ってきた。
「わ……っ!」
「やっと見つけたー! この前はありがとねー!!」
 一体何事かと振り返ると、そこには派手な化粧と派手な衣装を身にまとった、クリスマスに散々な目に合わされた女の姿があった。見るなり「げ」と危機を感じた光流は、無視して離れようとするが。
「ねーねー、あんた、この辺に住んでるの? 年は? 名前は?」
 相手の態度など一向にお構いなしで、後をピッタリついてきながら質問攻めの彼女に、光流はあくまで無視を決め込む。
「あたしは香里。年は四十ニ歳でー」
「四十ニ!!??」
 あまりの驚きに、光流はうっかり立ち止まり声を荒げてしまった。
 すると目の前の、香里と名乗った女は、きょとんと首をかしげる。
 どこからどう見ても、どう年配に見繕っても三十代半ばにしか見えない目の前の女が、四十ニ歳の熟女。この事実に茫然とする光流は、いやこれで四十二歳ってありえないだろ。頭の中身は小学生以下だろ、と思わずにいられない。
「……で、俺になんの用? オバサン」
 光流は敢えて相手を怒らせ遠ざける言葉を選んだ。しかし香里は怒るどころか、ニッと笑顔を浮かべて、光流の腕に自分の腕を絡ませる。
「だから、お礼言いたかったんだってば。ね、この前助けてくれたお礼に、好きなとこ連れてってあげる。お金ならあるから心配しないで?」 
「……んな心配してねーよ! ってか、連れてってあげるって、俺は幼稚園児じゃ……聞けよババア!!」
 やはり光流の言葉は全然聞いていないまま、強引に腕を引いてぐんぐん歩いていく女に、光流は成す術もなく拉致されていった。 


 幼い頃から庭といっても過言ではない浅草寺。物心ついた頃から、やや胡散臭い場所ではあったが、この胡散臭い女と一緒にいるとなおさら胡散臭さが増す。光流はいつだったか一万円で自分の貞操を買おうとした女を思い出しながら、隣で豪快に屋台の焼きソバを食らう女を、うんざりした表情で見つめた。
「オバサン、俺、熟女趣味はねーから」
「バーカ、誰があんたみたいなガキ相手に商売するかっつの。ほら、焼きソバ食いな。腹減ってるだろ?」
「別に腹減ってねーんだけど」
「そう? 凄く、腹減ってるように見えたからさ」
 香里は飄々と、「じゃあよこしな」と言って、光流の分の焼きソバを奪ってガツガツと平らげた。
 光流は茫然としながら、目の前の不思議すぎる女に複雑な心境を抱いた。まるで気持ちが読めない。時折こんな類の人種には出会うが、一番やりにくい相手だ。何故なら彼女は、読むほどの気持ちを、思考を、持ち合わせていないからだ。ただ動物のように、気の向くまま、本能のままに生きている。そんな印象。 
 たぶん自分に声をかけたのも、ただ「かけたかったから」なのだろう。あの時は不機嫌に追い返したのも、ただ不機嫌だったから。それだけ。
「ねーねー、あの煙、なんの意味があるの?」
 ふと香里が、常香炉からもくもくと煙を立てている一角を指差した。周囲には人が集まり、煙を自分に寄せている姿が見られる。
「あの煙を浴びると、悪い場所が良くなるらしいぜ。あんたも頭にかけてくれば?」
「まじで!? 頭良くなるかな!?」
 光流が皮肉を言ったにも関わらず、香里は一目散に煙に駆け寄って、必死で煙を頭に寄せた。ああやっぱり馬鹿だ。本気で馬鹿なんだ。光流はなるほどと納得しながら、四十二歳にして動物並の知能しか持ち合わせていないらしい女を見つめる。
 ふと「おいでー!」と手招きされ、光流は仕方なしに歩み寄った。
「ほら、あんたもかけてあげる」
「いや、俺、頭いいし」
 これでも一応、進学校出て一流大学卒なんで。と言っても香里はまるで聞いておらず、笑いながら光流に煙をかける。けれどそのあまりに一生懸命な様子を見ていたら、なんだか色々とどうでも良くなってきた。
 気が付けば、まるで二人一緒に子供に戻ったかのように、金魚すくいをしたり、りんご飴をかじったり、調子に乗って花やしきにまで足を運び乗り物に乗りまくったり。そういえば、こんな風に何も考えずに馬鹿みたいに無邪気に遊ぶのなんて、ずいぶん久しぶりだな。良い大人が、何をやってるんだか。思うものの、香里の圧倒的なパワーには勝てなかった。いや、むしろ負けるかとすら思った。
 いつかの熱い気持ちを取り戻せたかのように。



 くしゃくしゃになったメモ用紙を、忍は空虚な瞳で見つめた。
(兄さん……)
 実家に戻り、倫子と結婚して父の後を継いで、幸せに暮らしているはずだと思っていた。それなのに、何故母は自分を頼ってきたのだろう。今、兄は実家でどんな風に過ごしているのだろう。  
 いや、そもそもあの穏やかで争い事を好まない兄が、あの野心家で豪傑な父の後を継いで、幸せに暮らせるはずなんかない。そんなこと解りきっていたはずなのに、逃げた自分を責めたくなくて、必死で兄は今幸せなのだと思い込もうとしたのかもしれない。
 忍はどこかやり切れない想いで静かに息を吐き、携帯電話の番号をゆっくりとした動作で押した。
『忍くん……?』
 ずいぶんと久しぶりに聴く電話越しの声。懐かしさと切なさと、ほんの少しの罪悪感が一気に押し寄せてくる。
 ズキンと痛む胸を抱えたまま、忍は倫子への言葉を続けた。


 腰まで届く長い髪。低めの声。いつもアンニュイな表情。
 少しも変わっていない元恋人の顔を見つめ、忍は穏やかな微笑を浮かべた。
「兄さんは元気にしてる、倫子ちゃん」
「疲れているわ。やっぱり旭くんに、政治の世界は向いていないみたい」
「……そう」
「真面目すぎるのよ。それに、優しすぎる。ううん、優しいんじゃないわ。自分が傷つくのが怖いだけね」
 うんざりしたように倫子は言った。
 しかしふと、リビングをぐるっと一周眺め、穏やかに目を細める。
「素敵な家ね。シンプルで、飾り気がなくて、それでいてどこか所帯じみていて。……落ち着くわ」
 倫子はそう言って、カップに注がれた紅茶を一口すすった。
「忍くんは、幸せそうね。良かったわ」
 心からそう思っているのか、それとも皮肉なのか。倫子の気持ちを量れないまま、忍もティーカップに手をかけたその時、玄関のドアが開く音が響いた。
「おかえり」
「ただい……」
 休日であるにも関わらず、部活の指導で出勤していた蓮川が、見知らぬ客人を前に目を丸くする。
「彼女は手塚倫子さん。兄の奥さん……つまり、俺の義理の姉にあたる人だ」
「はじめまして。お邪魔しています」
 清楚な笑みを浮かべ会釈する倫子に、蓮川もまたぺこりと、遠慮がちに会釈を返した。


 なんていうかこう、凄く、自分だけ世界が違うような……。
 どこの深窓の令嬢かとみまごうばかりの美女。銀座とか白金とか青山とか、よく解らないけどそういう高級そうな町で買ってきたような高級そうなお菓子と、香りの強い紅茶。丁寧な言葉遣い。静かに流れる空気。こんな時こそ光流先輩来てくれないかな、などと思いながら、蓮川は緊張で顔を強張らせた。
「そう、教師をしていらっしゃるの。大変なお仕事でしょうね」
「いえ、それほどでも……」
「忍くんとは、高校時代、寮が一緒だったんですってね。じゃあ知ってるのかしら、私とのこと」
「え?」
 倫子の言葉に、蓮川が目を見開く。忍が眉をしかめ倫子を見つめた。その表情を面白がるかのように、倫子は饒舌に言葉を続ける。
「あの頃忍くん、よく無断で外泊してたでしょう? うちにもしょっちゅうアポなしで泊まりに来るものだから、困ってたのよ」
 あまりに思いがけない倫子の言葉に、蓮川は一瞬にして固まった。
 あの頃、忍の外泊が女遊びだということは知っていた。でも、まさか、兄の恋人とまで? 信じられない事実に、思考がぐるぐると回る。身体の内が熱くなって、わけがわからなくなるほどに。
 目の前の美しい女性と忍を交互に見つめ、蓮川はますます嫉妬の念を募らせた。その心のままの瞳を忍に向けると、忍は咄嗟に目を逸らした。まるで隠していた悪戯を見透かされた子供のように。一瞬にして真実を悟った蓮川は、激しい苛立ちに襲われる。
「そう……だったんですか、俺もよく困ってたものですよ。一応寮長だったので、無断外泊は断固として許しませんでしたけどね」
 しかし蓮川は自制心を持って、倫子に作った笑顔を向けた。心の内は動揺と嫉妬で入り乱れていても。
「それは素晴らしい判断だわ。この子、ちゃんと見張っててないとすぐに悪さするから、気をつけてね」
「はい」
 にっこり微笑み合いながら、不穏な空気ばかりが漂う。倫子も相変わらず陰湿な女だが、蓮川もそれに負けないくらい陰湿だ。倫子への苛立ちと、蓮川への後ろめたさとが交互に襲って来て、忍は今すぐこの場を去りたい想いでいっぱいだった。


 倫子を駅まで送っていく道を歩きながら、忍は不機嫌さをどうしても隠すことは出来なかった。
「ああ楽しかった。あの子、すごく気に入っちゃったわ」
 母とまるで同じ言葉を口にする倫子を、忍はやや鋭い瞳で睨みつける。
 どうしてくれる。あれは怒ってた。強烈に怒ってた。死ぬほど怒り狂ってた。嫌がらせにも程があると、忍は倫子を怒鳴りつけたい気持ちでいっぱいだったが、なんとかこらえ自制心を保つ。
「でも苦労するわよ、忍くん」
 ふと倫子が、それまでとは違った真剣な顔つきで言った。
「あの子、旭くんにそっくりだもの。優しいけれど、優柔不断で真面目で頑固で、融通が利かなくて。自分を守ることで精一杯。違う?」
 倫子のあまりに的確な言葉に、忍は目を見開いた。
「忍くんが好きになった理由が、よく解るわ。本当にそっくりね……私達」
 あの頃と少しも変わっていない。「同士」である自分達。だからこそ誰よりも解り合えて、傷を舐めあい、癒し癒され、利用し利用され続け、今もまだ何一つ変わらない想いで接することが出来る。もしこれが男女でなかったら、いや男女であっても、人はそれを「親友」と呼ぶのだろう。
「兄さんは……俺に会いたがってるのかな」
 まるで時が戻ったように、十五歳の頃の幼さを含んだ声色で、忍は言った。
「一度だけでいいの、旭くんに会いに来て」
 まるで懇願するかのような瞳を忍に向け、倫子は言った。
 それからくるりと忍に背を向け、駅に向かって歩いて行く。
 忍はその後姿を、神妙な面持ちで見送った。


(全然、気付かなかった……!!!!) 
 うかつだ。あまりにもうかつだった自分。倫子に言われるまで、その事実に微塵も気付いていなかっただなんて。
 真面目。頑固。優柔不断。鈍感。融通が利かない。確かにそう言われれば、どこもかしこも微塵も余すところなく、兄にそっくりじゃないか。昔から自分ちょっとブラコン気味じゃないかなとは思っていたが、今更こんなにも自覚させられるなんて。いやちょっとどころか、かなり重度のブラコンだったことに、今更気付くなんて。
 けれど、決して兄に似てるから好きになったわけじゃない。たまたま好きになった相手が兄によく似ていただけのことだ。自分でもわけのわからない言い訳をしているなと感じながら、忍はやや恐る恐る、自宅の玄関のドアを開いた。
 リビングに入ると、案の定、どよんとした暗く重い空気が肩にのしかかる。
「蓮川……」
「おかえりなさい。お義姉さん、泊まって行っても良かったのに」
 忍が声をかけるなり、ソファーから立ち上がってくるっと向き直った蓮川の顔は、明らかに造っているだけの満面の笑みに溢れている。逆に怖いとしか思えず、忍はつい目を逸らした。それがますます蓮川の苛立ちを募らせてしまったのだろう。
「凄く綺麗な人ですね。あんな綺麗な人、子供の頃から傍にいたら、そりゃ好きになって当然ですよね。俺もそうだったから、解ります」
 怒るといつもより饒舌になる、自分と全く同じタイプの恋人は、確実に喧嘩を売っていると見られる言葉を口にした。いや、喧嘩を売っているわけじゃない。傷つけたいだけだ。相手の心臓を爪で引っ掻いて。それも無自覚に。
「……おまえみたいに、幸せな恋をしてたわけじゃない」
 理解のあるフリをして、めちゃくちゃに攻撃してくる。「俺もそうだったから」。それはつまり、初恋の相手である義姉のことを好きだった。好きになって当たり前だったと言いたいのか。そんなことを聞かされて心穏やかでいられる恋人がどこにいるものか。蓮川の言い様に苛立ちが募り、忍は拳をぎゅっと握り締め、反撃に出た。ピクリと蓮川の眉が揺れる。
「じゃあどんな恋です? ドロドロに欲深い恋? ああそうですよね。俺と違って純粋さの欠片もなければ節操もない人でしたものね、あんたは」
 蓮川に思い切り蔑みの瞳で見つめられ、忍はカッと頬を熱くした。
「おまえだって……本当は抱きたくて仕方なかったんだろう!?」
 忍は思わず声を荒げた。そうして想像したくもなかった現実、絶対にそうであって欲しくなかった現実に目を向け、ますます胸の内がズキンと痛んだ。
 あの頃、蓮川だって「男」としてすみれを抱きたかったはずだ。同じように年上の女を好きになって、でも気持ちだけなら蓮川の方がずっと想いは強かったはずだ。忍は決して、蓮川がすみれを想うように純粋に一途に、どうしようもなく倫子のことを好きだったわけじゃない。セックスだって、本当はどうでも良かった。抱きたくて抱いていたわけではなく、ただ、欲しかったんだ。誰でもいいから、自分を抱きしめてくれる存在が。唯一抱きしめてくれた兄の代わりに、倫子に抱いてもらっていた。今思えば、ただそれだったのだ。
 でも蓮川は違う。純粋にまっすぐにすみれに恋をして、だからこそ懸命に自分を殺して身を引いた。大切に大切に彼女を守り抜いた、真剣で一途な恋。 
 嫌だ。俺の前にそんな女がいたなんて。考えただけでも苦しくて仕方ないのに。何故こんなに何度も、思い知らされなければならないんだ。
「姉だろうが何だろうが、さっさと抱いて自分のものにすれば良かったんだ! 小泉からあの女を奪ったようにな!!」
 忘れられない。ずっと押し殺していた気持ちが波のように溢れ出て、止まらない。どんなに消そうとしても、消せない過去。蓮川に、どうしようもなく好きになった女がいた。それだけで、嫉妬心で気が狂いそうになる。どんなに忘れよう、過去のことだと自分に言い聞かせても、苦しくて苦しくてどうしようもない。だから。
「だったら……!」
 突然、蓮川の右手が忍の腕を捕らえ、怒りに満ちた眼差しで忍を見据えた。
「お望み通り、自分のものにしますよ」
 本性を隠さない蓮川の瞳は、野生の色そのもので。力任せに床の上に押し倒された忍は、身体の内から込み上げてくる欲望を抑えきれず、蓮川の首に腕を絡ませ、自ら唇に唇を重ねた。
「あんたは……あんただけは、絶対に誰にも渡さない……!」
 嫉妬に狂っているのは、互いに自分だけではないということを、解っているから求め合わずにはいられなかった。
 もうとうに過ぎたはずの過去が、まるで歯車のようにギシギシと不快な音を、頭の中で鳴り響かせる。頼むから、誰も入ってこないでくれ。ずっとずっと、二人きりでいたいんだ。二人だけの世界で、平穏に、優しく、傷つけ合わずに、ただ愛だけを感じていたい。
 ただそれだけのことが、何故こんなにも難しい。


「あ……っ、ぅあ……っあ……!!」
 半ば無理矢理に身体を裂かれ、忍の瞳から涙が溢れる。けれど今は強引ささえ、自分だけのものにしてしまいたい。
「泣いてるんですか、先輩……? 可哀想に、俺なんかに無茶苦茶にされて」
 耳元で愛しげに囁かれる声。それなのに指先は千切るように乳首を弄ぶ。忍は唇を噛み締め、全身を巡る痛みに耐えた。
 許して。でも、許さないで。あの頃と同じように。変わらないまま、一途にまっすぐに、愛して欲しい。過去のどんな女よりもずっと、ずっと、深く。
「屈辱で胸が一杯でしょう? なのにこんなに感じてるなんて、先輩ってドMだったんですね、知りませんでした」
「……っん…、ち……が……」
 ペニスの鈴口にキュッと爪を立てられ、忍の身体がビクンと震える。今にも溢れ出しそうに硬い自身はあまりにも正直で、言い逃れしようがない。もっと、もっと酷くして欲しい。それで自分の汚れた過去が無かったことになるのなら。
「何が違うんです? それとも淫乱ですか? あんなに綺麗な恋人がいても、他に欲望の捌け口が無けりゃ気が済まないんですものね。本当にどうしようもない人ですね、あんたは」
 蓮川に蔑まれれば蔑まれるほど、忍の身体はより一層熱くなった。
 激しい屈辱感と、胸の内に滾る高揚感。その正体は自分でも解らない。それとも自分でもとうに解っていたからだろうか。だからこそ本当は、罰して欲しかったのかもしれない。誰よりも傷つけ、苦しめ、そして愛して欲しかった兄に。そして、今、目の前にいる恋人に。
「も……っと……っ」
 忍は縋るように蓮川の首に腕を絡ませ、しがみついた。
「……変態」
 ゾクッとするような低い声が耳元で響いた刹那、忍の身体は大きく震え、ペニスから勢い良く白濁が溢れた。
 しかし蓮川は構わず忍の足を広げ、自らの腰を容赦なく振って最奥に何度も自分のペニスを突き立てる。
「や……っ、イッ……もぉ……、らめ……っ!!」
 ぐちゅぐちゅと結合部が音をたてる。これ以上ない快楽が波のように押し寄せる。忍は涙と汗にまみれ、必死で蓮川にしがみついた。