蘇生

 

 話をしなければ。
 そう思うのに、会いに行くことは愚か、携帯の番号すら押すことが出来ない。
 本当のことなんて、きちんと話をしなければ解らない。そう理解しているのに、真実を知ることが怖い。おそらく自分はまた、現実から目を背けている。けれどどうやって目を向けろと言うのだ。十年以上の日々を親友として過ごし、一生の友人だと信じていた相手。それなのに──。
 忍は高まる鼓動を静めるため深呼吸し、それから覚悟を決め携帯電話を耳に当てた。コール音がやけに長く感じる。今すぐ切りたい想いにかられたが、やはり逃げてはいけないと思いとどまった。もう二度と、光流を失いたくはない。それならば、勇気を持つんだ。真実を知る勇気を。


「出かけるんですか?」
「ああ……。すぐ帰ると思うが」
 正の顔をまともに見ることが出来ないまま、忍はコートを羽織う。そっと肩に手がかかる。求められ、忍は正の唇を受け入れた。触れるだけのキスの後に身を引き離すと、ずいぶんと大人びた正の瞳が目前にあった。
「気をつけて帰ってきて下さいね」
 静かな声色。いつもなら、どこに行くのかと煩いくらいに尋ねてくるのに、いやに落ち着いた正の様子。忍は違和感を覚えたが、それよりもこれからするべき事に意識が向いた。
 正とは帰ってきてから、またゆっくり話せば良い。そう思いながら、忍は正に背を向け玄関に向かった。

 
 古びたアパートの一室。
 無性に懐かしく感じると同時に、苦い記憶ばかりを思い出す。
 高校を卒業後、似たようなアパートで共に暮らして楽しかったのはほんの数ヶ月だけで、次第に光流が家に帰らなくなると、後は気持ちのすれ違いばかりだった。あの頃から、光流は人知れず深い闇を抱えていたのだろうか。その時に気づいていれば、今こんな風に怯えながら向き合うこともなかったのだろうか。考えても答えは出なかった。

「ほら」
 畳の上に座る忍に、光流がビールを差し出した。忍は温いビールを受け取る。先に蓋を開けビールを飲み込んだのは、目の前に座る光流の方だった。
 忍はとても飲む気になれず缶を脇に置き、意を決して口を開いた。
「また、いつもの冗談だったのか……?」
 冷静になろうと意識しても、声がわずかに震える。おそらく光流にも心中の動揺は伝わったのだろう。神妙な面持ちを一向に緩めない光流を前に、忍は心の内でまだ悪足掻きを続けた。頼むから、冗談だったと言ってくれ。そうすれば、今ならまだ間に合う。そう心の中で呟いてから、自分でも何を願っているのかまるで理解できずにいた。
「冗談じゃ、もう済まされねぇだろ」
 光流が低い声を発し、缶ビールを畳の上に置いた。忍の心臓がドクンと脈打つ。
「そんなわけ、ないだろう……。おまえには、彼女がいたじゃないか。結婚しようと思ってた相手も……」
 この期に及んでまだ光流の心を認められない忍は、光流の顔をまともに見ることができず震える声で尋ねた。
「……ああ、付き合ったよ。何人もの女と。おまえのこと忘れるために」
 しかし次に発した光流の言葉は、忍の否定をあっさり覆すものだった。忍の表情が凍りつく。
「でもやっぱ、無理だった。向こうも俺が本気じゃないの、すぐに察したよ。だからフられまくったんだ」
 どこか投げやりに言う光流に、忍はようやく顔を向けた。
「どうして……!」
 忍が責めるように声を発すると、光流は苦しげに表情を歪ませた。
「俺だって……わかんねぇよ。どうしてかなんて。でも、気づけば好きになってて……。どうしようもなく好きで……ああもう!」
 光流が突然に大声を出したかと思うと、半ばやけのような状態で告白をはじめた。
「そうだよ! 好きになってたんだ! でも俺たち男同士だし、おまえは何人も女がいて受け入れられるわけないと思ってたし、告白なんかできるわけねぇだろ!? だから女と付き合った。でも気づけばみんな、おまえとどこか似てる女ばっかで……。どーいうことかなんて、自分でもわけわかんなかったよ! ただもう、誰と付き合ったって同じことだって気づいたから……だから結婚もやめた! もう女と付き合うのもやめたんだ!」        
 まくしたてるように言い切った後、光流は肩で息をする。
 忍はただ漠然と瞳を見開いた。
「ずっと……高校時代から……?」
 不信感から頭がまるで空白状態で、忍は尋ねた。光流が頷くと忍はふるふると肩を震わせた。
「……じゃあ何か、おまえは寮で暮らしてたあの時も、ずっと俺をそういう目で見ていたのか……? 俺が着替えたり風呂に一緒に入るたびに欲情したり、隠れてといっても全然隠しきれていなかったが一人で処理していたあの時も、俺のことをおかずにしていたと、そういう……」
「頼むから一気にそこまで想像しないでくれ!!」
 呆然としたままであるにも関わらず、実に現実的なことを口走る忍に、光流が涙目で懇願する。しかし否定はしない辺りが、また忍を絶望の淵へと追い詰めた。途端にカッと顔が熱くなり、頭まで血が登る。
「そういうことだろう!? いったいどういう妄想しながらオ○ニーしてたんだ貴様は!!」
「一度そこから離れてくれ頼むから!!」
「信じられない……」
 頼むから現実的に考えないでくれと、今にも泣きそうな光流の前で、忍は絶望的な表情で畳の上に手をついた。
 いや、既に心のどこかでは解っていたのだ。けれどどうしても、どうしても信じたくはなかった。ずっと親友だと思い、そう信じ続けてきた相手が、まさか自分を性的な対象にしていたなど、そんな事実を簡単に受け入れられる人間がどこにいるものか。
「忍……」
「今頃……そんなこと言われても……」
「わかってるよ。だから離れるって決めたんだよ」
 光流の諦めにも似た声を耳にすると、忍は咄嗟に顔をあげた。
「悪かったな、気色悪い想いさせて。もう二度と、おまえの前に姿は見せねぇから安心しろ」
 光流は忍から視線を逸らして切なげに言った。忍が目を見張る。
「どういう……意味だ?」
「もう、親友でなんかいられねぇだろ、お互い」
 やけに重い光流の言葉の後に、重苦しい沈黙が流れる。
「……すまない。少し取り乱していた」
 先に口を開いたのは忍だった。
 混乱している場合ではない。とにかく落ち着いて冷静にならなければと気づいた忍は、神妙な面持ちで訴える。
「確かに俺は、おまえの気持ちには応えられない。だが、おまえを大切だと思う気持ちは変わらない。だから、今まで通り……」
 忍はあくまで誠実に、正直な願望を伝えた。
 例え想いに違いはあれど、忍にとって光流はやはり何にも代え難い大切な存在だ。決して失いたくは無かった。
「一緒に……いられるわけねぇだろ」
 しかし返ってきた光流の言葉は、忍にとって絶望的なものであった。
「おまえなら、フられた女に「お友達でいましょう」って言われて、何もなかったように今まで通り一緒にいられるか……?」 
 震える声で光流は言った。
「これでもずいぶん……無理してきたんだぜ……。 友達のフリして、おまえ騙し続けてきたことに……」
 苦悩に満ちた表情が、光流がこれまでどれだけ苦しんできたかを切に表していて、忍は胸の内に痛みを覚えた。
 光流の深い想い。誰よりも一番に愛されていることに気づかずにいた自分が、あまりにも未熟だったのだろうか。忍は自分に問いかけた。けれどどこからが友情でどこからが愛情で、どこからが恋愛感情かなど、誰に解るだろう。光流に感じていたそれは自分もまた、誰に対するものよりも深い愛情であったに違いない。線を引くのは結局、同性であるか異性であるかの違いだけなのならば──。
「騙されたなどとは、思っていない……」
 いまだ整理がつかない気持ちのまま、忍は光流の言葉を否定した。
「ただ……もしもっと早くに知っていたなら……」
 あるいは。そう思った刹那、忍は思考を閉ざした。それ以上考えてはいけないと心に制御がかかった。
「知って……いたら……」
 貫かれるような胸の痛みと共に、ふと、正の顔を思い出す。
 駄目だ。それだけは。彼を裏切るような真似だけは。そう思うのに、溢れてくる感情が止まらない。どうしたら良いのだろう。どうすればこの胸の痛みが抑えられる。どうすれば伝えられる。解らない。ただこのまま永遠に光流と会えなくなるかと思うと、どうしようもなく痛くて、苦しくて。
「どうして……言ってくれなかったんだ……!」
 気が付けば、頬に涙が伝っていた。
 光流を責めたところで仕方がない。同じ立場なら、自分だって言えるわけがない。そんなことは解っていた。あの頃の自分はあまりに幼くて、心の底から光流を信じ切っていた。幼い子供がコウノトリを信じているように、光流がそんな穢れた欲望を胸に秘めているなんて夢にも思わず、ただ信じて、光流の一途な愛情を微塵も疑うことなく受け取っていた。無邪気に自分を慕い、好きだ愛していると後を追ってくる正と何も変わらない。無垢で純粋で、無知で残酷な子供だったのだ。
「……ごめん」
 光流が静かな声を発する。長い間、どれだけ苦しんで、どれだけ苦しませてきたのだろう。そう思ったらますます胸が苦しくなり、忍は近付いてくる光流の顔を目前に、そっと瞳を閉じた。閉じた瞳から涙が伝う。唇が重なってきても、受け入れることしか出来なかった。
 遠い記憶が蘇る。
 思い出せば確かに、愛されていたのだ。どうしようもなく。気づいていたら、何かが変わっていたのだろうか。けれど。
 唇が離れ、忍は淡い色の瞳をまっすぐに見つめた。
「もう……遅い」
 遅すぎたのだ、何もかも。
 気づくことも、伝えることも、心を寄せ合うことも。
 全ては愛することに怯え逃げてきた結果なのだと、忍は深い後悔と共に悟った。
「ああ……解ってる」
 光流もまた、同じ瞳をして言った。
 
 

 
 今度こそ、もう二度と元には戻れない。絶望の内に、忍は後悔ばかりに襲われた。
 確かにあの頃、忍は男になど微塵も興味は無かった。だが同性愛者を迫害するような想いを抱いたことはない。人それぞれ様々な恋愛の形があるのだから、そんなものは個人の自由だと思っていた。
 実際、寮内には男同士のカップルも存在したが、彼らに嫌悪感を抱いたことは一度も無い。だがそれとこれとは話が別だ。今でこそ同性と恋愛している忍だが、最初からそういうつもりで付き合っていた相手だからこそ、抵抗なく受け入れられただけのことだ。しかし光流は違う。あくまで親友であって、そんな想いを抱いたことは一度もない。色恋などとは無縁で、一生信頼しあえる友人だと思っていた。だからこそ、光流の想いに心のどこかで気づいていながら、気づかないフリをした。目を逸らし続けていた。気づいてしまえば、何もかもが終わってしまうと知っていたからだ。怯えていたのだ。永遠の絆を失うことを。
 愛情と友情の境目なんて、今となっては何も解らない。身体の関係があるか無いかだけで、どうしようもなく大切に想う心は一緒なのならば、光流の想いを受け入れることも可能だったのかもしれない。いや、それも男の恋人がいる今だからこそ思える事で、当時に想いを打ち明けられていたら、やはり激しく拒絶したのだろうか。まだ男を知らないあの頃の自分では、それも無理はない。
 性別などたいした問題ではない。そう思っていたのはあくまで他人事だったからなのだと、忍は身を持って思い知った。
 答えが出ない。出せない。
 このまま光流と会わなければ、それで終わることなのかもしれない。
 でも。だけど。
 あのまま放っておけば、光流はまた離れて行ってしまう。今度こそ、本当に手の届かないところへ。
 不意にあの夢を思い出す。高い崖の上から落ちていく、光流の姿。背筋が凍るような恐怖が忍を襲った。止めなければ、何としても。でも、どうやって。考えてもやはり答えは出なかった。
 突然、何かを思い切り叩き付けたい衝動にかられた。「ああもう!」。光流の口癖が蘇る。今まさにそんな気分だった。考えたところで、答えなど出るわけがない。ならば光流がいつもそうしていたように、行動するまでだ。例えどんなに拒絶されようとも、もう二度とあんな悲惨な想いをしたくないのならば。
 忍は拳を強く握り締め、谷底から這い上がる決意した。
 

 
 突然表れたかと思うと、登山用具を全てゴミ袋の中に詰め込み始める忍を前に、光流は唖然と口を開く。しかし不意に我に返り、慌てて忍の行動を止めに入った。
「おま……っ、どーいうつもりだよっ!?」
「見れば解るだろう、全部捨てる。二度と山には行かせない」
 きっぱり言い切る忍を前に、光流は動揺を隠せない。
「な、なんの権利があってそんな……!」
「煩い!!」
 うだうだと理屈をこねようとする光流を、忍は一喝した。光流が圧倒され口を閉じ、それから漠然と忍を見つめる。それまでとはまるで逆転した立場に立たされ、忍は過去の自分を思い切り殴り飛ばしたい気分にかられた。
「おまえがどう言おうと、俺が決めたんだ。もう二度と危険な真似はさせない。こそこそと俺のそばから離れるような真似をしたら、首に縄つけてでも連れ戻してやるから、よく覚えておけ!」
 忍は反論を許さない強い口調でそう言うと、ゴミ袋に詰めた登山用具一式を肩に担ぎ、光流に背を向け玄関に向かった。派手な音をたててドアを閉める。自分が駄々をこねるたびに、光流がよくそうしていた気持ちが今ならよく解る。改めて深い後悔と羞恥心ばかりを感じながら、忍は深くため息をついた。
 けれど、もう二度と逃げないと決めたのだ。傷つくこと、傷つけることを恐れていたら、また失うだけの日々に後戻りだ。
 突然に、あの雨の日を思い出す。みんなで傘を投げ賞賛の嵐を後輩に寄せた、懐かしい記憶。最後に必ず愛は勝つのだと教えてくれた、何も恐れないまっすぐな瞳。彼が突き進んだ結果は見るも無残なものだったけれど、それでも彼はまた立ち上がり、今なお前を向いて歩いているだろう。
 あの道端に生えた雑草のように、強くなるんだ。
 忍は瞳に力を宿し、まっすぐに前を見つめた。



 激しい疲労感に苛まれ、忍はベッドの上に倒れこんだ。
「忍さん、あの荷物は……」
「ゴミの日に捨ててくれ」
 忍はもう何もかも投げ出したい思いで言った。正が怪訝そうに眉をしかめる。
「どうしてそんなにムキになるんですか」
 正が眉をしかめ、どこかもどかしげに尋ねた。
「くだらない嫉妬はするなと言ったはずだ」
 忍は疲れた様子で言った。今は子供の嫉妬に付き合っている余裕はなかった。それよりも、光流を引き上げる方が先だ。今光流は、断崖の淵に立たされている。少しでも目を離したら、いつ身を投げてしまうかも解らない光流を放っておくわけにはいかない。
 正が不安げな表情を見せる。忍は小さく息をつき、正の手を握り引き寄せた。
 何も心配することはないと、優しく唇を重ねる。正が忍に覆いかぶさり、咥内に舌を潜り込ませた。包み込まれるような感覚が心地良く、忍は目を閉じて正を受け入れた。
 これからどこへ行くのか、何が始まるのか、解らない。けれど頑張れる。頑張れそうな気がする。いつでも優しく迎えてくれるこの腕の中に、帰る場所がある限り。



 
「いーかげんにしろよな……っ」
「何がだ」
 光流のアパートに身を寄せ、布団の上に寝転んだ状態でじっと光流を見つめる忍に向かって、寝起きの光流ががばっと起き上がったかと思うと、我慢の限界とばかりに声を張り上げた。
「決まってんだろ! 人のもん勝手に捨てるわ、勝手に合鍵作って朝起きたらいつの間にか傍にいるわ、あまつさえ俺の気持ち知っていながら同じ布団に寝るとか何の拷問だ!?」 
「少しは俺の気持ちが解ったか?」
 憤る光流に、しかし忍は実に冷静に言い放った。
 光流の勝手な振る舞いに散々振り回されていた頃の記憶を思い出せば、このくらいの報復は当然だとすら思った。むろん今考えれば自分も悪かったのだと理解はできるが、だからといってさんざ気持ちを掻き乱され苦しまされてきたことに変わりはない。思い出せばいまだに腸が煮えくり返るような想いをしたことは数え切れないほどだ。    
「別に構わないぜ。手を出したいなら出しても」
 忍は相変わらず動じない様子で、まだパジャマ姿の光流に怪しげな瞳を向けた。光流が言葉を詰まらせ眉をしかめる。
「出来ないだろう? おまえはそういう奴だ」
 忍は布団から這い出て身を起こした。
「好きだ愛してると言いながら、正のことを思えばそれ以上先には進めない。結局おまえにとって、俺はその程度のものだ。それが恋だなんて、笑わせる」
 忍は起き上がり、鼻で笑うように言った。
「なん……だよ、それ……」
 光流が肩を震わせる。憤りを隠せない光流に、忍は更に辛らつな言葉を続けた。
「黙れ臆病者。超えられなかったのなら、いつまでもうだうだ引きずってないで、潔く諦めろ。おまえに好きだと言われたところで何の説得力も無いのだと、まだ解ら……」
 突然に肩を掴まれ、言葉を遮られた。布団の上に乱暴に押し倒される。目の前には酷く悔しげな光流の表情。それでも忍は冷徹に光流を見据えた。
「好き……なんかじゃ、なかっただろう?」
「違う……」
「どんなに抱きたいと思っても、好きだと思っても、自分を守るほうが大事だったんだろう? 傷つくことが怖かったんだろう? だから言えなかった! 違うか!?」
「違う!!!」
 苦しげな光流の表情。とことん追い詰めてやる。その醜さを曝け出さない限り、傷は消えない。忍は決して怯まなかった。
「何も違わない! 本当に好きなら超えて見せろ! 家族も自分も、意地もプライドも何もかも捨てて、本気でぶつかって来てみろよ!?」
 波のように感情が押し寄せる。自分もまた醜さを曝け出し本気でぶつからなければ何も壊せない。壊さなければ何も変えられない。意地とプライドをかけているのは、忍もまた一緒だった。 
「それが出来ない人間に、誰が……!!」
 突然に唇を塞がれ、忍は苦しげに目を閉じた。乱暴に咥内を犯される。
 一か八かの賭けだった。自分もまた線を越えなければ、身を犠牲にしなければ、かなわない願望だということは知っていた。受け入れることは決して容易いことではなく、それ相応の覚悟が必要なのだということも。それなのに。
「……っ……や……」
 心が、身体が、拒絶する。恐怖と不安に支配される。
 光流の手がシャツのボタンを引き千切る。深い傷を負う覚悟で挑んだ、これは戦いだ。恐怖に支配されるな。忍は自分に言い聞かせた。
「みつ……る……」
 名前を呼べば、思い出す。
 くしゃりと髪を撫でる光流の手。困ったような笑顔。自分を呼ぶ声。
 いつも前を歩き、太陽のように眩しく輝いていた、あの頃の光流の姿。
 大丈夫。きっと守れる。守ってみせる──。
 

「……ん……、っ……」 
 強く手首を掴まれる。忍は目を閉じ襲いくる波に身を任せた。
 そっとうなじに触れる唇の感触。そこにもう荒々しさは微塵もなく、ただ愛しみだけを込めて撫でられる。包み込まれる。
 導かれ、躊躇しながら足を開く。光流の熱い咥内に自身を迎えられ、忍はきつく眉を寄せ、瞳に涙を滲ませた。太股を柔らかい髪が撫でる。押し寄せてくる熱情に追い詰められ、忍は強く目を閉じた。
「……あ……っ……」
 快楽を解き放つと同時に、忍は全身を痙攣させた。
 乱れる呼吸を整える間もなく、更に大きく足を開かされる。迎え入れる準備は出来ていた。出来ていたはずだった。それなのに、いざその時になればやはり恐怖に身体は拒み、容易に受け入れることはかなわない。
「力、抜けよ……。誘ったのは、おまえの方だろ……?」
 いまさら逃げるなんて許さない。そう言われれば、拒絶することは出来なかった。
 握られた手首に痛みが走る。半ば無理やりに、光流が押し入ってくる。忍は苦痛に表情を歪ませた。
「……っ…、く……」
 閉じた瞳から涙が伝う。 
 侵される。拒絶する。それでもなお深く、光流が潜り込んでくる。怖くて、痛い。それなのに強く拒めない。一刻も早く解放されたいと願うのに、この時を待っていたかのように歓喜する心と身体。
 どうして、こんな──。
「みつ……る……っ」
 こめかみに涙が伝った。 
 ずっと、ずっと、好きだった。好きで好きでたまらなくて、誰よりも愛されたいと願っていた。でもそれは、こんな形では無かったはずだった。辛くて悲しくて切ない。それなのに、今なお愛しくてたまらない。激しい想いと共に抱きしめられるほど、涙が溢れて止まらない。
 恋でも愛でもない、増して友情でもない、その心の正体がどうしても解らないままに。



 これからどこへ行くのだろう。どこへ向かっていくのだろう。
 わかるはずがない。ただ目の前には後ろの道を塞がれた、果てしなく長いトンネルが続いているだけだ。
 そっと肩から抱きしめられる。熱い温もり。自然と涙が流れ落ちた。
 好きだよ。そう何度も心の中で繰り返した。伝えることは出来なくても。
 光流もまた、何も言葉にはしなかった。それなのに、強い想いが伝わってくる。深く慈しまれれば慈しまれるほど胸は痛み、切なさばかりが込み上げる。
 どうしてこんな形でしか、愛し合うことが出来なかったのだろう。
 ただ一つ道を誤った、それだけのことで。
  



 これは裏切りではないと、何度も自分に言い聞かせた。けれど。
「最近、どうしたんですか?」
 正に尋ねられ、忍はビクリと肩を震わせた。惚けたふりをしても、自分でも不自然だと解った。それなのに、正はいつもと変わらない無邪気な笑顔を見せてくる。
「何か凄く優しいから。あ、もしかして、何かの前振りですか!?」
 いつも通りの気が抜けた焦りを見せる正を前に、忍は「馬鹿」と微笑を浮かべた。
「そうかもな。覚悟しておけ」
「ちょっ……! 忍さんのそれは、全く全然、洒落になりませんから!」
 絶対に嫌だと、正はがばっと忍に抱きついた。
「信用しろ」
「出来ません。……あなたは、嘘つきだから」
 正は口をとがらせ、拗ねた口調で言った。素直な正の反応に、忍は安らぎばかりを覚える。
 決して、悟られてはいけないと思った。あれは一度きりの過ちだ。もう終わったことなのだ。そう自分に言い聞かせる。
「悟りを開いたんじゃなかったのか?」
「俺は神様なんかじゃありません」
 拗ねる正の髪を撫でながら、確かにその通りだと忍は思った。
 彼は何をしても許される神ではない。一人の人間だと解っているからこそ、嘘を突き通す。それが一時でも彼を裏切った、自分なりの償いならば。
「いつまでも引っ付いてないで、行くぞ。楽しみにしてたんだろう?」
 久方ぶりの連休は、正と北海道旅行に行くことを決めた。罪悪感からでもあり、本当の願いからでもあった。だからせめて旅の間は、これまでの一切を忘れよう。二人きりで楽しい時間を過ごそう。一生を共にすると決めた、愛しい恋人のために。




 煙草は高校を卒業してすぐに止めた。これほど百害あって一利なしなものはないと気づいたからだ。
 もともと鬱憤を晴らすためのものであり、ヘビースモーカーでもニコチン中毒でもなかった忍が煙草を止めることは割に容易だった。だから周囲に禁煙する禁煙すると言いながら、数日経てばまた同じように煙草を吸う人間を弱者だと蔑んだ。
 煙草だけに限った話ではない。パチンコ。競馬。麻雀。DV。ストーカー。母と子の共依存。どれもこれもみな、今度こそもうやめる別れる離れると言いながらも同じことを繰り返す、完全な依存症だ。
 やめたいやめたいと思えば思うほど、心はまたそこに回帰し、振り出しに戻ってはまた苦悩に苛まれる。
 結局のところ当人が依存対象を断ち切る強い意志を持てない限り、抜け出すことは不可能なメビウスの輪だ。
 そんな不毛な繰り返し、自分には無縁だと思っていた。それなのに。


「もう……終わりにしよう」
 やけに静かな部屋の中、忍の静かな声が響く。
 畳の上に寝転がりテレビを見続ける光流に、忍は神妙な面持ちで訴えた。だが光流は振り返りもせず、忍に背を向けたままだ。
 これまで何度も同じ台詞を口にしてきたことに、言ってから忍は気づく。それなのに光流から連絡が来れば会わずにはいられない。会って求められれば拒めない。その繰り返しの日々で、正に対する罪悪感はどう足掻いても拭えずに苦しい日々が続いていた。
「おまえだって、辛いだろう? 弟を裏切り続けるのは……」
 今日こそはこの無意味な関係を断ち切ろうと、心に決めてきた。話がしたい。ただそれだけなのに、光流は耳を傾けるどころか、ようやく身体を起こしたかと思うと、忍の首に手を回し強引に唇を寄せた。
「やめ……っ」
 忍が抵抗を見せるが、光流はお構い無しにその手首を掴み、畳の上に乱暴に押し倒す。
 一度、激しく抵抗した事がある。そうしたら、光流は忍の両手首を縛りつけてまで無理やりに押し入り、容赦なく忍の身体を犯し続けた。あの時の恐怖と痛みを思い出し、忍はされるがままに身を投げ出した。
 その一度から、光流の暴力にも等しい行為は徐々にエスカレートしていった。その都度激しい抵抗をしながらも、忍が完全に拒み切れなかったのは、光流の苦悩が痛いほどに理解できたからだ。ここまで光流を苦しませたことへの自責の念から来るものでもあったかもしれない。
 一線を越えたら、後戻りは出来ないと覚悟はしていた。けれど光流ならばきっとそれで立ち直り、終わらせてくれると思っていた。そう信じたのは甘かったのだろうか。自分が思うよりもずっと、光流の闇は深かったのだろうか。命よりも大切な家族までもを、見失うくらいに。
「あ……、ぅ……っ」
 腰を掴まれ後ろから突かれたその時、忍の携帯の着信音が鳴り響いた。相手は解っていた。出るつもりなどなかったのに、光流が畳に置かれた忍の携帯に手を伸ばす。忍は驚愕に目を見開いた。
「やめ……っ」
「出ろよ。大事な恋人からの電話だぜ?」
 光流が忍の耳元で低く囁き、携帯を忍の耳に押し当てた。
『もしもし? 忍さん?』
 携帯電話の向こうから、何も知らない正の気の抜けた声が届く。途端に忍は凄まじい恐怖心に襲われた。声を出さないよう必死で押し殺そうとしているにも関わらず、光流がわざと声を出させるかのように忍を犯す。
『忍さん? 今、どこに居るんですか?』
「すぐに……帰る……。……っ……」
 必死で声を押し殺しながら、頼むから切ってくれと忍が涙を流すと、光流はようやく正からの電話を切り携帯電話を放り投げた。同時に激しさを増す行為。完全に理性を失った光流に何度も乱暴に貫かれ、忍は苦痛ばかりを感じながら表情を歪ませる。帰りたい。ただ切実にそう願った。
「まだ……帰す気ねぇから」
「あ……あ、ぁ……っ!」
 畳の上に頭を押し付けられる。どこまでも残酷で、愛情なんて微塵もない行為。嫌だとどれだけ心の内で叫んでも、身体は勝手に反応を示し、強い力に服従する。追い詰められる。恐怖に怯える余裕すらないほどに。
 果てしない欲望。これこそが光流の本性で、光流の闇で、光流自身なのならば。これまで見てきた光流は一体、何者だったのだろう。誰だったのだろう。どこへ行ってしまったのだろう。
「忍……」
 けれどよく知った光流の声を耳にすれば、全てが幻想だったのだと認めることなんて、諦めることなんて、出来るはずがなかった。
 



 もう絶対に連絡はするまい。連絡が来ても取り合わない。
 忍はそう心に決め、携帯の番号を変えた。正にも光流には教えないでくれと頼んだ。当然ながら心配されたが、取り乱してもう二度と会いたくない。あいつに教えたらおまえとも別れる。本心を露にしてそう告げると、正は何も聞かず表面上は納得した様子を見せた。
 本当のことを話さないのは卑怯だとわかっていた。それでも、隠し通さなければならない嘘もある。ここまで知られることは無かったのだから。守り続けたのだから。今真実を告げれば、正ならきっと許すだろう。だからこそ、余計に隠し通さなければと思った。最低な告白など、自分の傷がほんの少し浅くなるだけで、正のことを深く傷つけるだけでしかないのだ。
 そう答えを出した忍が光流と会わなくなって、一ヶ月が過ぎようとしていた。

「そろそろ……教えてくれませんか? 光流と何があったんです?」
 ようやく平穏が戻ったと思った矢先。
 休日を朝からゆっくり過ごしていた忍に、正が尋ねた。
「……喧嘩をしただけだ」
 忍はそれ以上話す気はないと、飲んでいた紅茶のカップを手にとり立ち上がる。シンクに溜まった食器を洗おうと水を流すと、正がカウンター越しに真剣な表情で訴えた。
「だったら、ちゃんと仲直りしましょうよ! 親友だったんでしょう!?」
 ずいぶんとムキになる正に目も向けず、忍は無言で食器を洗い続ける。
「忍さん!」
「おまえには関係のないことだ。それに、光流と会うなと言ったのはおまえの方だろう?」
 いったい何故今頃になってそんなことを言い出すのか、忍は苛立ちを隠せない瞳で正を睨みつけた。
「それは……ただのヤキモチで……。でも、二人が喧嘩してるのは、もっと嫌です」
 拗ねたように正は言った。勝手なことを。忍は小さくため息をつき、水を止めタオルで手を拭った。
 ソファーに腰を下ろすと、正はまだ煩く「仲直りしろ」と喚きたてる。
 何も知らないで、暢気なことだ。忍は苦々しい想いで耳を塞いだ。本当のことを知れば、そんなことは口が裂けても言えないはずだ。いったいどんな想いで、今まで嘘をつき通してきたと思っているのだ。全てはおまえのためだ。それなのに、何故そっとしておいてはくれない。忍は心の内で叫びながらも、必死で感情を押し殺す。しかし。
「煩い……!!」
 光流が。光流が。光流が。正がその言葉を発するたびにどうしようもない苛立ちに襲われ、忍は耐え切れず声を荒げた。正が驚愕に目を見開く。
 いっそ本当のことを洗いざらいぶちまけてやろうかとすら思った。何度も光流に抱かれたと。時に強姦にも似た形で、乱暴に犯されたこともあった。無理やり猛ったものを咥えさせられたこともあった。正にすらしたことのない様々な行為を、知ればとてもそんな懇願は口にできまい。何も知らないというのは、つくづく幸せで愚かで残酷だ。
 そう、何も。何も知らないくせに──!!!
「頼むから、もうそっとしておいてくれ……」
 爆発しそうな想いを懸命にこらえ、忍は苦しげに声を発した。
 そんな忍の苦悩を察したのか、正は口を閉ざし、それからそっと忍の肩を掴み抱き寄せた。暖かい腕に包み込まれれば、どうしようもなく泣きたい想いが込み上げてくる。あまりに身勝手だと解っていても。
 愛しているのに。愛しているから。どうしても口に出来ない真実。
「もう……言いません。だから……泣かないでください……」
 抱きしめられ、忍は身を委ねた。安堵したら怒りは悲しみに変わり、涙が止まらなくなった。
 もう光流には二度と会わない。絶対に。絶対に。そう、何度も心の中で叫んだ。




 夜中に突然、チャイムが鳴り響いた。
 正だろうか。しかし今日は、檀家との付き合いで帰れないかもしれないと言っていたはず。
 忍は不信に思いながらインターホンの画面を見つめたが、誰の姿も見当たらなかった。
 もしかしたら鍵を忘れたのかもしれない。念のためと、忍は玄関の扉を開く。ドアが開いた瞬間、忍は身体を硬直させた。
「よう……」
 ずいぶんと久しぶりに見る光流の姿。咄嗟にドアを閉めようとしたのに、足で阻まれた。同時に光流の身体が覆いかぶさってくる。鼻をつく酒臭さに、忍は表情を歪めた。
 玄関の扉を開けたままでいると、隣人が通り過ぎた。このままではまずいと、忍はすぐさまドアを閉めた。
 出て行けと怒鳴ろうとしたのに、強い力で手を引かれ、そのままリビングまで連れられる。強引にソファーの上に押し倒される。首に熱い息がかかり抵抗を試みるが、光流の本気の力にかなうはずもなかった。
「……や……め……っ」
 嫌だと何度訴えても、いつものように少しも聞き入れてはもらえない。抑えつけられ、荒々しく唇を塞がれる。シャツの中に光流の手が潜り込み、指が胸の突起を強く摘んで、忍は苦痛に眉を寄せた。
 抵抗を諦めたその時、玄関から物音が響いた。忍が目を見張る。気づいた時にはもう遅かった。
「何……して……」
 光流がようやく抑えつけた力を緩める。即座に身を起こした忍の前に、正の驚愕に満ちた表情があった。激しい衝撃が忍を襲う。それは正もまた同じであっただろう。
「何……してんだよ……。何してんだよ、光流!!!!!」
 震える声が爆発したその瞬間、正が光流に詰め寄りその胸ぐらを掴んだ。光流が射るような瞳で正を見据える。殴るなら殴れと、その瞳が訴える。腹を据えてきたのだと理解した刹那、忍は足元が崩れ落ちそうな恐怖に見舞われた。