蘇生


 光流が意識不明になってから、二週間が経過しようとしていた。
 何をしていても生きた心地がしない。忍は毎日のように病室を訪れた。そうして後悔の念に苛まれる。何故もっと早くに連絡をしなかったのだろう。何故もっと頻繁に会いに行かなかったのだろう。どうしてもっと多くの話をして、光流のことを知ろうとしなかったのだろう。知っていれば、止められたはずだった。こんな危険を犯し命の危機に陥る事も無かったはずだ。
「早く……起きろ。この馬鹿……」
 そっと柔らかい髪に触れれば、思い出す。懐かしい、遠い昔の記憶。
 一時は反発して自ら距離を置いて苦しんだこともあった。もしかしたら、光流もそうだったのかもしれない。あの頃、恋に溺れ自分との友情を忘れた光流を憎んだように、光流もまた自分を憎んだのかもしれない。どうして俺を置いていくのだと。どうして捨てていくのだと。
 考えれば次から次へと視界が広がる。光流の深い闇に潜り込む。光流の想いに心を寄せ、旅をする。



『そこから何が見えるんだ?』
『……世界』
 手が届きそうなほどに空が近い。ここは世界の頂点だ。どこまでも果てしなく広がる世界を見下ろす。なんて壮大で圧倒的な光景だろう。気をしっかり保たなければ、呑み込まれてしまいそうなほどに。
『見ろよ、世界は綺麗だろ? おまえにもいつか、見せてやりたかったんだ』
 振り返って、光流が笑う。忍もまた静かに微笑み返した。
『もう……充分に見せてもらったよ。だから、帰ろう』
 呼びかけるのに、光流は振り返らない。
 頼むから、たまには足を止めてこちらを振り返ってくれ。そう願うのに、いつも背中しか見えなかった。必死で後を追いかけて、追い続けて、やっと追い越して振り返った時には、光流はもうどこにもいない。
『光流……!』
 頼むから、振り返ってくれ。崖っ淵に立つ光流に、何度も呼びかける。帰ろう。俺達の家に。こんな一人きりの場所にずっと一人で立っていたって、孤独なだけじゃないか。ここから降りればみんなが待っている。おまえの家族も、友人も、これから先出会うであろう大切な人も、みんなおまえのことを待っている。だから、もうそれ以上先には行くな。行かないでくれ。行かないで──!



 奈落の底に落ちていくような感覚と共に目が覚めた。
 いつの間にかベッドの淵に頭を寄せ眠っていた忍の肩には、覚えのない上着がかけられている。
「いいですよ、まだ傍にいて」
 忍がゆっくりと体を起こすと、隣に座る正が静かに微笑んだ。その肩に額を寄せ、そっと体を預ける。包むように肩を抱かれ、ほんの少し楽になったような気がした。
「すみません……ほんとはちょっと、嫉妬してます」
「……嫉妬? 光流にか?」
「だって……俺、こんなに心配してもらったことないし……」
「これだけ心配させるような真似したら、容赦なく怒るぞ」
「だってよ、光流。さっさと起きて、目一杯殴られろ」
 正が眠ったままの光流に語りかける。
 しかし依然として無反応の光流を前に、二人はしばし沈黙した。静かな空気の中、先に口を開いたのは忍の方だった。
「おまえは……こいつがいて辛かったことは一度もなかったか?」
 忍が尋ねる。
 赤ん坊の頃から、いつも同じ目線で多くの時間を共にしてきた弟。喜びも苦しみも悲しみも、あらゆる感情の全てを共有してきた、世界でたった一人の特別な存在。きっと一番に光流を理解しているだろう相手に、聞いてみたいと忍は思った。
「そりゃ、ちょっとくらいは。こいつがいなかったら、ケーキ一人占めできたのにとか。こいつがいなかったら、好きなテレビ見放題だったのにとか」
 少し考えて、正が応える。 
 そのあまりにもくだらない答えに、忍は失笑した。
 だがそれが健全な兄弟というものだ。些細なことでいがみ合って、仲直りして、また喧嘩して。そうして人と人との距離の測り方を覚えてく。本来ならば。
「でも光流は、もっとずっと辛かったろうな……」
 正が苦しげに顔を歪ませた。
「何で俺たち、双子で産まれなかったんだろうって、何度も思いました……。たぶん母親だって、同じだったと思います。こんなに愛してるのに、どうしてこの子を産めなかったんだろうって。いつもどこか遠慮がちで、本音でぶつかってきてはくれない光流を前に、俺たち家族はみんな、いつもそう思ってました。だからずっと俺は、おまえは家族なんだ。帰って来いって言い続けました。でも大人になるにつれ、その言葉が光流にとってどんどん重荷になっていくのが解ったから……言えなくなりました。いや、諦めたって言った方が正しいかな。結局俺たちは、光流の本当の家族から光流を奪うことは出来なかったんです」
 初めての告白。それは忍にとっても酷く心苦しく重いものだった。切なげに目を伏せ、静かな声を発する。
「それは光流が……光流も、誰よりも切望してたはずだ。お前達と本当の家族だったら、どんなに良かっただろうって。充分すぎるくらい両想いじゃないか。何を悲しむ必要がある?」 
 そうだ、何も悲しむ必要はないし、それを誇りに思えば良い。この家族は充分すぎるほどに、愛し愛されてきたのだから。忍は涙を滲ませる正の頬にそっと唇を寄せた。正は瞳に溜まった涙を拭い、優しく微笑む。
「でも光流……変わりましたよ。緑都に行ってから、少しだけ。たぶん、忍さんがそばにいてくれたからだと思います」
「……俺は何も……」
「光流が寮に入ってから初めてうちに帰ってきた時、ずっと、忍さんの話ばかりしてました。その時から俺、一体どんな人なんだろうって興味津々で、あ……ちょっとヤキモチも入ってたかもです」
 苦笑しながら素直に幼かった少年時代の想いを口にする正の話に、忍は静かに耳を傾ける。
「そんな言うほど凄い奴かよって思って、初めて家に連れてくるって知った時は、たぶん良い顔できないだろうなって思いました。でも、初めてあなたに会ったら、そんな反発心なんか綺麗さっぱり消え失せて、それどころか見惚れちゃって……。たぶん、一目惚れだったんですね、今思えば」
 あの頃は子供すぎて気づかなかったけど。そう言って、正はまっすぐに忍の瞳を見つめた。
「あの時からずっと……ずっと、好きで好きで仕方なかったんだと思います。だからあなたと会わせてくれた光流にも、絶対に幸せになって欲しいです」
 そう言って、正は慈愛に満ちた瞳で光流を見つめた。
 帰ってこい。忍は心底そう思った。
 目が覚めたら、思い切りその閉じた心の瞳を覚まさせてやるから。
 だから、早く──。
 祈るように目を閉じ、忍は今まだ遠い場所にいる光流に呼びかけ続けた。



 また、雪の降る季節が訪れる。
 寒さに震えた日々。救ってくれたのは光流であり後輩達であり教師であり、緑都学園の生徒達だった。今はどんな時も、愛されていたと思える。幸福であったと思える。これからもずっと、忘れることはない永遠の記憶。

『先輩、忍先輩~っ!』
『どうした瞬?』
『またすかちゃんが胃炎だって~。せっかく一緒に食べようと思ってハンバーガー買ってきたのに、「そんなもん重すぎて食えるか!」って酷くない!?』
『全くナイーブな奴だな』
『お、ハンバーガー! やっりぃ! 瞬、サンキュー!』
『ちょっと光流先輩! お金はちゃんと払ってよね!?』
『え!? おまえ金持ちのくせにセコいぞ!?』
『普通後輩に奢らせる~?』
『一応後輩だという自覚あったんだな』


『く、苦しい……』
『牛丼大盛り二杯食った後にハンバーガー三個一度に食うからだ、馬鹿』
『やべぇ動けねぇ………っ。 せめて胃薬買ってきて! 頼むこの通り!』
『這って買いに行け』
『忍ぅ~~~……』


『サンキュー、ばっちり治った』
『と言ってるそばから何故プリン食ってるんだ貴様は』
『いや~、せっかく貰ったもんだしな~。賞味期限切れない内に食っとかねぇと』
『奪ってきたの間違いじゃないのか?』
『だって新商品だぜ、新商品!? うわ、これすげー美味い! おまえも食ってみ!?』
『甘いものは嫌いだ』
『一口でいいから、な?』
『しつこい』
『わ……!』


『忍く~ん、服プリンまみれになったくらいで、そんな怒るなって~』
『だったら今すぐ洗濯してこい』
『わ、わーったよ、わかりました。ったく……』


『ほら見ろ忍! すげー綺麗になっただろ!?』
『アイロンは』
『……これアイロンいるか?』
『かけないなら着ない』
『はいはいはいはい! かけりゃいいんだろかけりゃ!』

 
『伸びたから要らない』
『このくらいで捨てるな! いーからとっとと着ろっ!!』
『何を……っ』
『ほら、なんてことないだろ? だからもう、いーかげん機嫌治せって』
『……』
『忍』


『忍』 


  
「光流……?」
 何かに呼ばれたような気がした。
 目が覚めると、そこは病室。また眠ってしまっていたのかと体を起こした忍は、目の前に飛び込んできた景色に愕然と目を見開いた。
「……おはよ」
 懐かしい声。懐かしい瞳の色。そして、懐かしい笑顔。
 淡い色の髪が光に透けて、金色に輝く。これは夢の延長戦なのかと、忍は目の前の光景を疑った。けれど夢にしてはあまりにも鮮やか過ぎる。けれど例えこれが夢の中であっても構わないと思った。もう一度、その声が聞けるなら。その笑顔が見れるなら。
「光流……」
 震える指を寄せる。そっと頬に触れると、光流が苦笑した。
「悪ぃ、心配かけちまったみたいで。俺、いつからここに……」
 堰を切ったようの溢れ出る想い。忍の瞳に流れる涙を見て、光流が言葉を止めた。
 覆いかぶさり、しがみつくように髪に指を絡ませる。帰ってきてくれた。その喜びを全身で噛み締めたら、溢れる涙が止まらなくなった。まるで幼子に戻ったような忍の背に、光流がそっと手を回す。
「光流……」
 溢れてくる涙と共に、何度も名前を呼んだ。もう二度と離れないように。もう二度とどこにも行かないように。ごめんと言う光流の声が、何度も心に響く。馬鹿と何度も言いたいのに、何も言葉にならない。この喜びを、誰に感謝しよう。ありがとうと、誰に伝えれば良いのだろう。それまで信じなかった誰かに心から祈った、あの時のように。

 
     
 忍が怒るまでもなく、家族によってさんざ殴られ怒られ、そして許された光流は、骨折した足のギプスが外れるやいなやリハビリに精を出した。
 医者が驚くくらいの回復を見せる光流だが、完全に元通りになるには、まだかなりの時間を費やしそうだ。忍はその間、時間があれば光流の病室に通った。それまでの空白時間を埋めるように、ささやかな会話を交わし、リハビリを手伝い、光流が眠るまで傍に寄り添う。懸命に光流の傷を癒そうとする忍の様子は、まるで雛鳥に餌を運ぶ母親のように甲斐甲斐しいものだった。
「いくらなんでも、もう放ってほいても大丈夫じゃないですか?」
 ただでさえ数少なかった二人きりの時間を光流に奪われ、正がいいかげん我慢の限界だとばかりに忍に訴えた。病室で光流の検査が終わるのを待っていた忍は、嫉妬心を露にする正を前に仕方ないように息をつく。
「わかった。今日はもう帰るから、これから一緒に……」
 食事でもしに行こうと言おうとしたその時、車椅子に乗った光流が看護婦と共に戻って来た。
「正、来てたのか」
 光流が正の顔を見るなり顔をぱっと明るくする。忍はそんな光流の元に歩み寄ろうと立ち上がるが、突然正に腕を掴まれた。
「悪い光流、また来るから。あ、次はおまえの好きな漫画持ってきてやる」
 正は光流に向かって気さくにそう言って背を向けるなり、神妙な面持ちをしながら忍の腕を引き病室を後にした。



 あまりにも強引な正の態度でもって初めて、ずいぶんと我慢させてきたことに気づいたものの、忍は相変わらず不機嫌な正に、自身もまた不機嫌な瞳を向ける。
「言っておくが、俺は光流に対しておまえが嫉妬するような感情を抱いたことは一度もない」
「解ってますよ。でも、もう会いに行くのはやめて下さい」
「親友に会うなと?」
「なら俺も一緒の時だけにして下さい」
「いいかげんにしろ、俺はおまえの所有物じゃない。いちいちおまえに許可をとって行動してたら……」
「所有物ですよ!」
 突然、正がテーブルを叩き、激しい音が響いた。
「何を言って……」
 あまりにも思いがけない正の言葉に、忍が愕然と目を見開く。
 常々嫉妬深い男だとは知っていたが、まさかここまで。思った刹那、腕を捕らえられソファーの上に押し倒される。
「所有物で何が悪いんですか!? あなたは俺のものだ」
「それ以上ふざけた口を叩くな!」
 忍は威圧に満ちた瞳で正を睨みつけた。
 途端に正は怯んだ瞳をして忍の腕を放すものの、その表情はまるで納得していない。   
「おまえだって光流が大切なら……解るだろう。傷が癒えるまでは、そばにいてやりたいんだ」
「……」
「光流が元気になったら、また時間が空く。そうしたら、二人でどこか旅行にでも行こう」
 出来うる限り優しさを持った口調で忍が諭すと、正は苦しげに眉を寄せた。
「絶対に……約束、ですよ……」 
 唇を寄せ合ってもまだ、正の瞳から不安げな色が消えることは無かった。



「忍、もう俺のことは構わねぇで良いから、正と一緒にいてやれよ」
「構わないで済むなら、俺も構いたくない。そんな心配してる暇があったら、もう二度と無茶なリハビリはするな」
「い……!」
 忍がぐいと腕を掴むと、光流は激痛に顔を歪めた。
 一刻も早く元通りに治したい想いからか、それとも他の理由があるのか、光流は目を離せばすぐに必要以上のトレーニングをしては治癒を遅らせている。医者に再三注意されているにも関わらずだ。何がそんなに光流を追い立てているのか、何をそんなに急ぐ必要があるのか、忍にはどうにも理解できなかった。
「で、でも、あいつマジで怖ぇんだもん……」
 どうやら正の心中を見抜いている光流は、心底困ったように言った。
「何を心配してるんだか。兄弟そろってつくづく馬鹿だな」
「……全くな」
 深く息をついて、光流はどこか意味ありげな台詞を口にした。珍しく認めるとは、さすがに今回のことで懲りたのだろうか。忍は安堵しながら立ち上がる。この様子ならしばらく無茶はしないだろう。
「そろそろ帰る。今日はもう動かないでじっと寝てろよ」
「はいはい」
 反抗的に光流が頷く。忍は威圧感をもった瞳で睨みつけ、光流に背を向けた。足を踏み出したと同時に、腕を掴まれる。
「忍」
「なんだ?」
「あ……いや、さんきゅ」
 何かを言いかけて思い直したような光流に、しかし忍は何も尋ねなかった。

  
 さすがに疲れた。
 忍は家に着くなりベッドの上に横たわり、深呼吸するように息を吐いた。連日の仕事が終われば光流の看病、空いた少しの時間を恋人に費やす毎日。一人でゆっくり休む時間など皆無に等しかった。久しぶりに一人きりの部屋で解放感に浸っていると、しばらくして玄関のドアが開く音が耳に届いた。
 寝室のドアが開いても、忍はそのまま寝たふりを決め込んだ。
 帰ってきた正に、そっと触れられる。解っていたけれど、目は開けられなかった。どうしようもなく疲れていて、今はただ眠りたい。頼むからそっとしておいてくれと心の内で呟くと、正が離れ静かに扉の閉まる音がして、忍は安堵の内に深い眠りに落ちていった。

    
 光流の退院の日が決まった。
 しばらくは実家で過ごし、また一人暮らしをしていたアパートに戻ると光流は言った。そういえば結婚はと尋ねると、とっくにフられたと自虐的に笑った。
 久しぶりに一緒にすごした日々。まるで高校時代に戻った時のように共に笑い時に喧嘩しながら、共に困難を乗り越え、また以前と何一つ変わらない形を取り戻せた事に安堵し、忍は光流の背を見送った。
 正もまた、忍が光流の見舞いに行かなくなったことで落ち着きを取り戻し、しばらくは平穏な日々が続いた。
 だが想定外の事態は突然だった。父が仕事で大失態を犯したのだ。父はそれまでの敵とマスコミに追い詰められて破滅の道を辿った。父の名があったからこそ最初から難なくこの世界に居られた忍もまた、当然ながら呆気なく政治家生命を絶たれた。忍はプライベートにかまけ、すっかり仕事の手を抜いていたことを後悔したが、失ったものに大きな未練は無かった。ただ、積み上げる時は血を吐く想いで突き進んでいたのに、崩れる時はほんの一瞬だと、世の中の空しさを身をもって思い知っただけだった。
 もはや何の未練も無くなった政治の世界にも手塚家に用は無く、忍はあっさりと家族と絶縁し、これまでとは全く別の道を辿ろうと心に決めた。

「だから、どうして結婚を決めてはくれないんですか!?」
「何度も言わせるな。日本の法律で男同士の結婚は不可能だ」
「養子縁組したら良いだけのことでしょう!? それにもう結婚指輪だって買ってあります!!」
 そう言うなり、正はポケットからシルバーリングを取り出した。途端に忍の背後にブリザードが吹き荒れる。一体いつの間にこんなものを。おそらく実家と縁を切ると告げたその時から目論んでいたに違いない。結婚。いや、それは、それだけは。忍の心が断固として拒絶した。
「とりあえず弁護士を目指そうと思うんだ」
「話を摩り替えないでください」
 涼しい笑顔を向ける忍に、正は厳しい顔を向けた。
 そして忍の手をとり、左の薬指に強引に指輪をはめる。こんな頭の中に花が咲いている女しか喜ばないような儀式に、いったい何の意味があるのか。忍は疲労感に苛まれながら左手の指輪を見つめた。正の顔を見ると実に満足そうで、こいつも相変わらずお花畑だとしか思えない。
「ちゃんと、毎日つけておいて下さいね」
「まるで首輪だな」
「そうですね。こうして繋いでおかないと、あなたはすぐにどこかに行っちゃいますから」
 結婚など首に縄をつけるも同然だと、自覚していながら何の悪気も無く強要するのが実に腹立たしい。人を信じると言いながら全く信じていない正を、忍は鋭く睨みつけた。しかし正は既に開き直っている。何を言われようとどんな顔をされようと、自分の心に正直に忍を束縛するつもりだ。救いようの無い傲慢さと、何もかもを包み込む包容力でもって。   
「一生、大切に守ります。だから、俺に全部下さい」
 正は真摯な瞳で忍を見つめると、そっと左手の指輪に唇を寄せた。貴公子さながらの誓いのキス。何もかも失った今だから、うっかり身を投げ出してしまいそうになる。けれど男としてのプライドが、忍にそれを許さなかった。
「自分の身は自分で守る。おまえにやるのは空いた時間と空いた体、それだけだ」
 忍は即座に指輪を外すと、正に投げ渡し冷たく背を向けた。
 正が落胆してるのが解っても、いいかげん甘やかしすぎたとだけ思う。誰がおまえごときに飼い慣らされたりするものか。憤慨する想いで、忍は足取りを早くした。


「ちょっとくらいあいつの気持ち考えてやれよ。何も気にすることねぇだろ。さっさとうちに嫁に来たらいーじゃん」
「おまえと同じ苗字になってたまるか」
「……悪くねぇな……」
 呟くように光流が言った。忍はますます鋭い瞳を光流に向ける。何やら妄想に浸っている光流が忍の視線を感じ、ハッと我に戻った。
「ってことは、俺はおまえのお兄ちゃんになるわけだ」
 にやにやしながら光流が言った。忍は眉を吊り上げる。いつものからかうような台詞が今日も一段と憎らしい。
「それはそうと光流、その荷物はいったいどういうつもりだ?」
 仕返しとばかりに、忍は光流の部屋の端に置かれた大きなリュックサックに目を向け威圧的に尋ねた。途端に光流が額に汗を流す。
 どこからどう見ても登山用のものであるその荷物。生死の境目を彷徨っていながら、また同じ危険を繰り返そうとしている光流に、忍は重圧的な視線ばかりを向けた。光流がますます額に汗を滲ませる。
「いや、だって、せっかく見つけた趣味だし……」
「さんざ人に迷惑かける趣味など、とっとと捨ててしまえ」
 忍はきっぱりと言った。
「お、おまえはそう簡単に、大事で仕方ないもんを捨てられるのかよ!?」
 ムキになって言う光流に、忍は小さく息をついた。
「何も全て捨てろとは言ってない。安全な範囲内で遊ぶ分には一向に構わないが、おまえは絶対にそれだけでは気が済まないだろう?」
 忍の実に冷静な分析に、光流は返す言葉もないといったように苦い顔をする。
「自制できない事は最初からするな。でなければ命がいくつあっても足りない」
「……別に、構わねぇよ」
 諭す忍を前に、光流はふてくされた表情を浮かべた。忍がぴくりと眉を吊り上げる。
「男にはなぁ、例え命を削ってもやらなきゃならねぇことがあるんだよ! おまえに人の趣味をどうこう言われる筋合いはねぇ!!」
 拗ねたかと思えばいきなり切れる光流に、忍は猛烈な怒りを覚えずにはいられなかった。この馬鹿は、いったいどこまで馬鹿なのか。その命を生み出すのに、女がどれだけ命がけの想いをしているのか一度でも考えたことはないのか。ここまで育てるのに、どれだけの労力を費やしてきたのか想像もしないのか。そんなものは子供を産んだことも育てたこともない自分ですら、少し考えれば容易に想像できることであるのに、男だからという理由だけで全て許されると思っているこの馬鹿は、どこまでも救いようのない馬鹿だ。
「そんなものは全ておまえの自己満足だ。おまえが山に登ったところで誰も得はしないし、誰も喜びもしない。むしろ余計な心労が増えるだけだ。特におまえの母親はな」
 今すぐ殴りたいほどの憤りをどうにか抑え、忍はあくまで冷徹に低い声を放った。「母親」。その言葉を聞いた途端に、光流が神妙な面持ちをする。光流が何より大切にしている存在なだけに、忍は一番堪える言葉を選んだのだ。
「楽しいことなら、他にいくらでもあるだろう。解ったなら、山に登るのはもう諦めろ」
「……ねぇよ」
 光流が低い声を発した。まだ反発するかと忍が鋭い瞳を向けると、光流の肩がわずかに震えている。先ほどまでとはまるで違う、どこか尋常ではないその様子に、忍は目を見張った。
「楽しいことなんて、何もねぇ」
 感情を抑制した声。何かを懸命にこらえているような。
 どういうことかと、忍は考えた。しかし答えは見つからない。いつも多くの友人に囲まれ、様々な能力に長け、容姿にも恵まれ、不自由することなど何もないはずだ。それなのに、何故そんな後ろ向きな考え方をするのか。全くもって光流らしくない言葉に、忍は疑問ばかりを抱いた。
「……映画でも観に行くか? 確かおまえの好きそうな映画がやっていたはずだ」
 とりあえず気持ちを切り替えさせようと、忍は出かけることを提案した。
「今そんな気分じゃねぇから」
 しかし光流の頑なな態度は変わらない。
「なら、何かビデオでも借りてくる」
「いいから、もう帰れよ」
「光流……」
「俺のことは放っておいてくれ!」
 光流が心底鬱陶しいと声を荒げた。ずいぶんと気が立っているその様子に忍は不信感を抱いたが、すぐに諦めることはしなかった。何故だかは解らないが、光流が心を閉ざしている。おそらく胸の内に言いたいことを抱えているのに、それを吐き出せない鬱屈からくるものだ。そう判断した忍は、敢えて侵入することを心に決めた。
「放っておけば、おまえはまた無謀なことをするつもりだろう?」
 忍は話を元に戻す。
「おまえには関係ねぇだろ」
「ある。おまえは俺の親友だ」
 そう忍が言い切ったと同時に、光流がそばにあった本を忍に向かって投げつけた。的が外れたおかげで被害はなかったが、光流が本気で攻撃を仕向けてきたのは確かだった。いや、攻撃と言うよりは癇癪と言った方が正しいだろうか。光流が抑え切れないほどの怒りを抱かせるようなことを口にしただろうか。忍は考えるが、答えは出なかった。 
「親友とか、要らねぇから」
 予想だにしない台詞に、忍は額に汗が滲むのを感じた。誰だろう、これは。まるで光流らしくない台詞、光流らしくない声、光流らしくない瞳。まるで別人のような光流の姿を前に、気を緩めたら怯んでしまいそうで、忍は己を奮い立たせた。ここで引いてはいけない。なぜかは解らないがそう思った。
「たとえそれが俺じゃなくても、要らなくは……ないだろう。おまえにとって、大事なものじゃないのか?」
 極力冷静な声で忍は尋ねる。友達が大事なものだと、ずっと昔に教えてくれたのは光流ではなかっただろうか。古い記憶をたぐり寄せれば、いつも誰より一番に友人を大事にしていた光流の姿しか思い出せない。それなのに。
「大事だなんて思ったことは、一度もねぇよ」
 しかし次に放った光流の言葉は、忍の記憶を全て無に返すほど投げやりなものだった。
「だったら、今までの友人はみな、おまえにとって何だったんだ……?」
 自然と声が震えた。
 忍の記憶の中では、誰もが光流を慕い、信じ、愛していて、光流もまたその想いに応えてきたからこそ、より一層愛されてきたはずだ。それなのに、それらは全て嘘だったというのか。偽りだったというのか。
「さあ……ただ気持ち良かっただけだろ。馬鹿な連中をあっさり騙せるのが。でももうそれも、何も楽しくねぇし、空しいだけなんだよ」
 酷く残酷で身勝手な台詞。まるでかつての自分のような。けれどそんな光流は見たくない。勝手だと解っていても、決して見たくはなかった姿だった。忍は憤り光流に詰め寄り、胸ぐらを掴みあげた。
「貴様……!」
「いいぜ、みんなにバラしても。これが俺の本性だ。あの時のどうしようもなかったおまえと、何一つ変わらねぇよ」
 だから理解できたのだと、救うことが出来たのだと、そう言われてしまえば、忍には何も言い返すことは出来なかった。
 そうだ、知っていたはずだ。自分達は同じ穴のムジナ。どうしようもなく汚れているからこそ、そこに安らぎがあった。それなのに、なぜ目を逸らしていたのだろう。なぜ光流だけはそんな薄汚れた感情などとは無縁で、どんな時も誇り高くそこに在り続けて欲しかったと願っていたのだろう。全ては己の理想を光流の中に夢見ていただけに過ぎなかったのか。突然に明るくなった目の前。同時に暗闇に突き落とされる。目の前が何も見えない。
「何で……泣くんだよ……」
 光流の胸ぐらを掴む忍の手が震える。瞳から溢れる涙が止まらない。
 理想が崩れ落ちる瞬間、人は何故こうも弱くなる。解っていた。ずっと解っていたのに、目を逸らし続けていた。光流に無理をさせていたことにすら、ずっと気づかないふりをして、自分の理想を守り続けていた。全ては自分の描いた夢が、希望が、たった一つの光が消えてしまうことが怖くて。       
「ちが……う、おまえは、そんな……」
 違う。違う。違う。忍は何度も心の中で叫んだ。
 認めたくない。けれど、認めなければならない真実。人は何故、見たくないものからこうも残酷に目を逸らし続けられるのだろう。信じたくない現実から、簡単に逃げてしまえるのだろう。
「おまえは……」
 深い悲しみの内に、忍は光流の首に腕を回し、しがみつくように抱きしめた。そうしないと、光流がまた、どこか遠くへ行ってしまいそうで怖かった。例えどんなに信じたくない真実だとしても、離したら駄目だ。絶対に。強い想いのまま抱きしめる忍の腕に力が篭る。光流の中に溶け込んでいくような感覚の中で、悲しみばかりが胸を引き裂く。
 一体どのくらいの時間、そうしていただろう。
 不意に、髪をくしゃりと撫でる感覚が忍を呼び覚ました。いつもの光流の癖。抱きしめた腕の力を緩めて顔を上げると、そこには落ち着いた瞳をしたいつもの光流がいて、忍は震えるほどの安堵を覚えた。
「……ごめん」
 囁くように光流が声を発する。先ほどまでの荒んだ様子は微塵も無い。もう大丈夫だ。そう思った刹那、突然に唇に熱い感触が走った。忍が目を見開く。戸惑いと混乱の内に、忍は顔を歪め、咄嗟に光流の肩を掴み引き離した。
「な……」
 言葉を遮るように、光流に肩を掴まれ背後に押し倒される。畳の上に強く背を打ちつけ、忍は驚愕した。再度唇を覆われる。先ほどまでの触れるだけのものとは違う、強引に割り込んでくる柔らかい舌の感触。忍は混乱のまま強く瞳を閉じた。
 シャツの下から潜り込んでくる光流の手の感触を覚えたと同時に、我に返った。突き飛ばす勢いで光流の体を引き離す。即座に立ち上がり、忍は光流に背を向け部屋の扉を開いた。
 逃げるように家を出て、そのまま早足で道を歩く。ただどうしようもなく混乱していた。
 いったい何が起こったのだろう。光流は何をしようとしていたのだろう。胸の鼓動が激しく脈打って止まらない。息苦しくて呼吸さえままならない。激しい動悸に見舞われ、忍はその場に立ち止まり胸を抑えた。息苦しさで何も考えられなくなる。それとも体が考えまいと拒否しているのか。どうすることも出来ない苦しさの中、忍は苦悩の表情ばかりを浮かべた。