蘇生
忍が力いっぱい殴った頬は見事に腫れていて、正は痛々しい顔を抑えながらもあくまで冷静に、諭すように言った。 「昨夜電話しなかったことは謝ります。充電するのすっかり忘れてました。彼女とは、偶然たまたま会っただけですから、もう変な誤解しないで下さい」 何度言い訳しても一向に機嫌の治らない忍に、正は困り顔ばかりを向ける。だが聞く耳持たない忍にどんな弁解をしたところで、いいかげん無駄だと悟ったのか、ソファーに座る忍の隣に腰を下ろし、そっとその肩に手を回した。 「……ヤキモチ、やいてくれたんですか?」 それまで困り果てていたはずの正が、どこかはずんだ声で言う。忍は苛立ちを覚え、切れ長の瞳で正を睨みつけた。 「実はちょっと……嬉しかったです。俺のこと、ちゃんと好きでいてくれたんだなって」 「勘違いするな。誰が──」 どこをどうしたらそんな発想に至るのか。どこまで自惚れるつもりだろうこいつは。忍は心の内で悪態をつき、低い声を発する。しかし正の耳には全く届いていないようで、いつものように下手に出るどころか、やけに優越感を持った瞳で見据えられ、忍は口を閉じ屈辱に身を震わせた。最悪だ。それしか頭の中に浮かんで来ない。いつでも感情的になった方が負けなのだと、とうの昔に知っていたはずなのに、何故あんな醜態を見せ付けてしまったのか。この兄弟はどこまで自分をコケにするつもりか。同時にかつての苦い記憶までもが蘇り、腸が煮えくり返る想いの忍であったが、正は相変わらず嬉々とした様子だ。 「忍さんを、一番愛してますよ」 肩を抱き寄せられたかと思うと、そっと唇を塞がれる。 もはや何を言っても正の耳には届かないと、忍は観念した。悔しさや屈辱感はまだ胸の内に残っている。けれどそれよりも。 「これからも、ずっと、ずっと……」 低く甘く囁く声が、荒んだ心を浄化していくのを、忍は確かに感じていた。 恋が長く続くなんて、今もまだ信じてはいない。それなのに、いつの間にか、信じたいと思っている。例えどんな醜い姿を曝け出そうと、それすら嬉しいと。愛しいと。そう言って抱きしめてくれる、この男なら。 「裏切ったら、今度は殺す。それでも」 「いいですよ。だからもういい加減、信じて下さい」 忍の問いに、間髪入れず正は応えた。 黒い瞳の奥の真剣な眼差し。身体の奥が熱くなる。唇を覆われればますます芯が疼いて、忍はされるがままに身を投げ出した。 「……ん……ぅ……」 「今日の忍さん、すげぇ可愛い」 瞳は興奮に満ちているくせに声は妙に落ち着いている。足を限界まで開いた淫らな姿をその瞳に映しているのかと思うと、なおさら言いたくもない懇願を口にしたくなり、忍は苦しげな表情で正を睨みつけた。 「は……やく……、しろ……っ」 じわじわと快楽の淵に追い詰められるような緩やかな愛撫。明らかに焦らされている。懇願ではなく命令をすると、溢れる液で濡れた先端を指でこすられ、忍はビクリと身体を震わせた。いつもの尽くすだけの愛撫と違い、酷く嗜虐的なそれは、愛されていると確信した自信からくるものだろうか。 「忍さん……俺のこと、好きですよね? ちゃんと言ってくれたら、イかせてあげます」 生意気だと、心底忍は思った。それなのに身体は勝手に反応を示して、とうに服従の態勢を整えている。こんな格好でこんな淫らな声をあげて、何もかも曝け出しているのに、今更意地を張ったところで更に見下ろされるだけだ。それなのに、たった一言が口に出来ないでいる。苦しくて首を振っても、正は頑なに待ったままだった。 「いや……だ、もう……」 「そんな目しても、もう騙されません。言ってください。じゃなきゃ、俺ももう……」 「……ぅ……っ」 正の表情が苦しげに歪む。酷いことをしているという自覚があるのだ。それでもなお意地を張っているのは、互いに同様だった。言ってしまえば負けなのだと思っていた。認めてしまったら、今まで必死で保っていたプライドが全てが崩れて無くなって、何も残らなくなってしまいそうで怖かった。そこから先は、何があるかも解らない未知の世界なのだから。そんな産まれたばかりの世界で、赤ん坊のように泣くことしか出来なくなってしまうことが怖くて、怖くて。でも。 「……き……だ……っ。す……」 こらえきらなくなった想いと同時に忍がその言葉を放った刹那、奥を貫かれる。嬌声を放ち、瞳から涙が溢れる。強く抱きしめられて、連れて行かれる。揺さぶられ、どこに辿り着くかも解らない無我の世界で、頼れるのは唯一この力強い腕だけだ。しがみつき、声をあげ、唇で求める。 もうどこにも、恐怖は無かった。ただ欲しくて欲しくて、狂ったように求める。求められる。 世界にたった二人しかいない、真っ白な世界の中で。 全てを委ねることは、決して服従などではないのだと知る。 解っているつもりで、少しも解ってはいなかったあの頃と変わらないまま、気づけばなんて遠くに来てしまったのだろう。 「仕事……今日はいいんですか?」 「ああ……」 まどろむような日の光の中、忍は眠気の残るぼんやりとした表情で応えた。 仕事など、今はどうでも良い。それよりも、身体が疼いて仕方ない。今までもそんな感覚は何度もあった。けれど一度終わってしまえば波のように熱情は引き、日々の規律を忘れたことはなかったのに、今はどれだけ快楽を貪ってもまだ足りない。つくづく自分は貪欲な獣なのだと思い知らされる。 「あの……さすがに、もう勃たな……」 「無理やりでも勃たせろ」 強引に上に乗り、見下ろす形で忍は命令した。 今にも泣き出しそうな顔を見ると、更にサディスティックな欲望が膨れ上がった。この程度で終わるような男なら必要ない。そう言葉にすれば、なおさら必死になる目の前の恋人に、更なる嗜虐心が沸いてくる。限界に追い詰めるまで、忍は決して許すことをしなかった。 気まぐれに、わがままに、自己中心的に。欲望が満たされれば満たされるほど、より誇り高く、より美しく、忍の瞳は輝きを増していった。誰もがその魅惑的な姿に圧倒されるほどに。 「おまえ……」 それはこの男もまた例外ではなく、光流は久しぶりに会うなり複雑な表情で忍を見据えた。 「どうした?」 忍は射るような視線で光流を見つめ返す。 「いや……。恋、してるんだな……」 感心しているようでもあり絶望してるようでもある光流の物言いに、忍は自信満々に笑みを浮かべた。 「そうだ、悪いか?」 開き直ってしまえば怖いもの無しの忍である。これが恋であろうが愛であろうが依存であろうが錯覚であろうが、今一番欲しいものであることに変わりはない。手に入れたという実感があればあるほど。 しかし目の前の光流は、やはり酷く複雑そうな表情だ。無理はないと忍は思ったが、人間いつまでも同じままではない。 「俺、帰るわ。なんかこの部屋、居たくねぇ……」 「さすがに汚らわしいか? 相変わらず潔癖だな」 「……ごく普通に常識的なだけだ」 「どうだか。おまえは自分の潔癖さに気づいていないだけだろう」 「俺のどこが潔癖だって?」 むっとした表情で光流が忍を睨みつける。忍は低く笑って、光流の耳元に唇を寄せた。 「俺がこうして誘惑したら、嫌悪感が沸くだろう?」 「だからそれをごく常識的な感覚だっつってんだよ。いつまでもおまえの悪ふざけに付き合ってられっか」 投げやりに言葉を放つ光流を、忍は相変わらず不遜な態度で見つめ、それから静かに微笑した。 「そうだな、お互いもうやめにしよう。くだらない駆け引きは」 どうやって距離を保てば良いのか解らなくて、時に本気で、時に冗談で、必死で自分を守りながら逃げてばかりいたあの頃を思い出す。光流とただ無邪気にじゃれ合った日々は、思い出せばやはり楽しかった記憶でしかない。時にじゃれ過ぎて噛み付いたり噛み付かれることがあって、そんな苦い記憶ですら、今はどうしようもなく愛しいと思える。 「借りは返す。俺はおまえの親友だ。だから何かあれば、いつでも俺を頼ってきてくれ」 忍はまっすぐな瞳で光流を見つめ、まっすぐな言葉を放った。 光流もまた、真摯な眼差しで忍を見つめる。 「……わかった。じゃあ、またな」 ふと緩く笑って、光流は忍に背を向けた。その背を、忍は穏やかな心持ちで見送った。 これで全ては終わった。そう感じた。何が終わったのかも、いつから始まっっていたのかも解らない。ただとても長い長い道のりだったような気がする。それなのに、飛び越える時はこうも一瞬で、儚くも感じ、誇らしくも感じる。長いこと淀んでいた胸の内が晴れ渡り、忍はまっすぐに顔を上げて窓の外の青空を見上げた。 目まぐるしく回る日々の中、ふと思い出す。 そういえば、あの人は元気でいるだろうか。今頃、どこで何をしているのだろう。たまには会って話をしなければ。そう思うのは一瞬で、日々の忙しさに追われればまた思い出すことを忘れ、気が付けばずいぶんと月日が流れていることに気づく。 「ただいま~」 「おかえり」 部屋に入ってくるなり、どっと肩の力が抜けたように膝の上に倒れこんでくる正を、忍は手に持った本を置かないまま平然と見下ろした。 「死人を弔うのが、そんなに疲れることか」 「坊主の仕事はお経を唱えるだけじゃありません」 正が目をすわらせた。 「檀家さんとのお付き合いに地域のみなさんとのお付き合い。ボランティア団体の子供達のお世話。駐車場の経営。その他だって色んな仕事があるんです。一日二十四時間じゃ全然足りません」 「ほとんどが主婦の井戸端会議と同レベルの仕事だろう? 不要なボランティアをお人よしにほいほい引き受けるから、そういう目に合うんだ」 忍の実に厳しい叱責に、正は口をとがらせた。 正と共に暮らすようになってから一年という月日が流れた。祖父が体調を悪くし本格的に寺を継いだ正は、仕事に追われ滅多に帰ってこれない日が続いている。だがどんなに忙しくても合間を見つけては、懸命に会う時間を作ろうとする。忍も相変わらず忙しい日々ではあったが、以前ほど仕事に興味が持てなくなりがむしゃらにならなくなった分、自分でする必要の無い仕事は人に任せることが増えたので、時間にはずいぶんと余裕が出来ていた。だからこそ正の兄によく似た要領の悪さを見ていると、全て自業自得だと思わずにはいられない。 「忍さん……そろそろ本気で結婚しません?」 「寝言は寝て言え」 膝の上にうずくまりながら甘えにも似た声をあげる正に、忍は冷徹に言い放った。 「だって! 最近うるさいんですよ母親が! いいかげん嫁をもらえって! 忍さんだったら、うちの親も絶対納得すると思うし、だから……!」 「いい加減そのお花畑な思考を何とかしろ」 忍は低い声を発すると同時に正の頭を押しのけた。 「たとえおまえの両親が認めたところで、檀家がそれを認めると思うか? ご近所さんが温かい目で優しく見守ってくれると思うのか? ボランティア団体の子供達に悪影響だとは思わないのか? 上っ面ばかりの「良い人」に囲まれた平和ボケも大概にしろ」 「上っ面なんかじゃありません! みんな凄く良い人達です!」 きっぱりと言い切る正を前に、忍は辟易とした想いだった。この馬鹿は、相変わらず人はみな平等で、みな同じ思考を抱えて生きていると思っているらしい。 「断言してやよう。おまえがゲイだと知れば、手の平返して冷たく背をそむけるような連中だ。例え百歩譲ってゲイだということは許しても、俺とおまえが近所を並んで歩いていれば、見る者は決して不快な気持ちを拭えない。人は自分とは違う生き物には必ず恐怖や警戒心を抱く。何故なら自己防衛本能が働くからだ。未知の生物を容易く受け入れることが出来る人間がいるとすれば、それは本能を忘れ生き残ることを忘れた滅び行く種族だ。共に滅びたいならおまえも本能を忘れて今すぐ無我の境地へ飛びたて」 まくしてたてるように忍が言った、その数秒後。 「……すみません。言ってる意味がさっぱり解りません」 もはや完全に理解不能といった様子で正が言った。 そうだった。こいつは自分が余裕で主席合格したあの緑都学園の補欠にも引っかからないほどの馬鹿だった。低脳だった。すっかり忘れていた忍は、疲労感に苛まれながら額に青筋をたてた。 「わかった。もっと解りやすく教えてやろう」 忍は鋭い瞳を正に向けたかと思うと詰め寄り、右手でぐいと正の股間を掴みあげた。 正が目を丸くするのも厭わず、ソファーの上に押し倒す。手の平で撫でると顕著に反応を示す様子を楽しみながら、忍はサディスティックな表情を浮かべた。 「僧侶とは自分を律し本能を無くし、無我の境地で生きる者のことだろう? それなら修行の成果を見せてみろ」 「……っ……」 忍は嗜虐的な瞳で試すように言いながら、正のズボンのベルトを外し股間を握り締める。正が刺激に表情を歪ませた。 「ち……違います……っ!!」 突然、正が大きな声を張り上げたかと思うと身を起こし、体制を逆転させた。ソファーに押し倒される形になった忍は、面白くなさそうに眉をしかめる。 「悟りとは迷い無く生きることです。人を信じ、己を信じ、自分の心に正直に。だから俺は、俺の信じる人を信じるんです」 自信に満ちた力強い声。思わず圧倒されるほどに。 「だからあなたも、俺の周りにいる人達を信じてください」 迷いなど微塵も無い瞳。途端に忍は、悲しげな色を瞳に宿した。 「……人は誰もみな、おまえみたいに強くはない」 忍は小さく訴えた。 心に迷い無く生きる人間は、実は酷く身勝手で傲慢だ。迷い悩む必要が無ければ、誰も苦しんだりはしたくない。それは与えられなかった者ほど強く根深く心に傷として残っていて、怒りと悲しみと屈辱をいつもその胸の内に押し殺して生きている。だから他者を攻撃する。これ以上傷つけられないように。傷つかないように。それを間違っていると言われるなら、おまえがその身を挺して守ってくれるというのか。例えどんな鋭い刃が自分たちを目掛けて来ようとも、命を懸けて。 「俺のために、強くなってはくれませんか?」 忍は諦めにも似た表情を正に向けた。 やはり彼は、たちの悪い偽善者だ。守りたいと言いながら、共に滅びることを願っている。 共に死ぬのも悪くはないと思った。むしろそれが最上の幸福なのかもしれない。その一線を飛び越えられない自分は、どこまでも臆病で卑怯なだけなのかもしれない。けれど、守りたい。この酷く身勝手で傲慢で、だからこそ力強い手で他者を引き上げることの出来る、唯一無二の聖人を。決して破滅へと導きたくはないから、受け入れることが出来ない望みがある。 「もう少し……時間をくれ……」 もう少し。あと一日。あと一年。今出来ない人間が、いつになったら出来るようになるのかと、これまで何度も腸の煮えくり返る想いをしてきた。それなのに気づけば、蔑んできた人間と同じ事をしている。今なら解る。怖くて不安でどうしようもなく怯えていた、彼らの胸を切り裂くような苦しみが。なぜあんなにも傲慢に生きてこれたのだろうと、自分を責めたくなるほどに。 「お願いだから、信じてください。何があっても、俺が必ず守ります」 信じたい言葉。信じたい瞳。信じたい腕の中で。迷い無く生きることが出来ない忍を責めるように、しかし優しく、その指が唇が快楽に誘う。 「ん……、ぁ……っ」 狂おしいほどの熱さに身を任せていると、不意に正の携帯が音を鳴らした。 「電話……」 「後でいいです。それより、もっと迷わず感じて下さい」 「なんの……嫌味だ……っ」 唐突に指で奥を掻き回され、忍は身をよじらせ快楽から逃れようとするが、両手を一まとめにして押さえつけられる。 「修行、してみましょう?」 正がにっこり微笑んだ。 「この……生臭坊主……っ」 「時々、凄く口汚いですよね忍さん。うちの兄貴の影響かな」 こちらは既に追い詰められているというのに、余裕の口調でからかうような言葉を投げられ、忍は屈辱に身を震わせた。しかしお構い無しに前と後ろを同時に刺激される。わざと羞恥心を煽るように恥ずかしい音をたてられ、忍は最後の抵抗とばかりに足で反撃しようとするが、咄嗟に掴まれて身体を反転させられた 「足癖も悪すぎです。これが修行中だったら、とっくに警策で打たれてますよ?」 うつ伏せにされ腰を高く突き出す格好になった忍の耳元で、正は説教めいた声色で囁いた。まるで仕置きだと言わんばかりの口調。忍の表情が羞恥と屈辱で赤く染まる。強い力で押さえつけられたまま、宙に晒された秘部に熱い息を感じ、忍は顔を熱くした。 「い……や……っ」 嫌で嫌でたまらないのに、おかしくなりそうな感覚に翻弄される。呼吸が乱れ息が苦しい。酷くもどかしくて切ない愛撫が長く続き、身体の奥が疼いて熱い塊を欲しがる。太股に淫らな液が伝わるのを感じると、なおさら正を渇望した。 「は……やく………」 「じゃあ……。──って、言って下さい」 耳元で正に囁かれた言葉に、忍は耳まで顔を熱くした。この変態と詰りたくなるような恥ずかしい言葉。そんな偏愛に満ちた願望にすら忠実な正がどこまでも憎らしい。死んでも言うかと、忍は唇を強く噛み締めた。 「無理ですか? じゃあ、仕方ないからこれで我慢してあげます」 生来持つ男の征服欲を露にした正は、そそり立つ欲望の象徴を、欲しがって疼いている入り口に押し当てる。次に襲い来る刺激を覚悟して、忍がビクリと身体を震わせた。入ってくるのは一瞬で、疼いていた奥に激しく突き立てられたと同時に瞳を強く閉じる。引いては押し寄せる波。苦しくて腰を引いても、強引に戻されてはまた奥を貫かれる。欲望を解放した男の身勝手は留まるところを知らない。そんな我儘を受け入れている自分もとうに理性を失った獣であることを自覚した忍は、自らも求め、請い、願いを捧げ、やがて遥か遠い高みに意識を飛ばした。 シャワーを浴びている最中、正のいつもと違う声が耳に届き、忍は足早に浴室を出る。すると携帯電話片手に、正が慌てた様子で忍に詰め寄った。 「今、母親から連絡あって。光流が、意識不明の重体で病院に運ばれたって……!」 一瞬にして、忍の頭の中が空白になった。その後に続く正の言葉が少しも聞こえないほどに。 けれど目の前でおろおろする正を目前に、すぐに我を取り戻した。まるでゴキブリでも潰すかのように正の足を踏みつける。 「い……っ!」 「落ち着け。今すぐ病院に行くぞ」 忍はすぐに身支度を整え、正を連れて車に飛び乗った。 ずいぶん長いこと、存在を忘れていた気がする。いや、いつでも胸のどこかで思い出していた。けれどあいつのことだから、心配せずとも元気にやっているだろう。時間が出来たら連絡の一つでもしてみよう。そう思っている内に、気づけばずいぶんと長い時間が経っていた。 確か最後に会ったのは──。 思い出せないまま車を走らせ、辿り着いた病院の一室で横たわる光流の姿を目前にした瞬間、忍は足元から落ちていくような感覚に襲われた。 「まったく馬鹿な子だよ。仲間が止めるのも聞かず危険な山に登って大怪我だなんて……親不孝だったらありゃしない」 光流の母が意識不明の息子を前に、ハンカチで涙を拭いながら言った。 正もまた、震える手でそっと眠る光流の頬に手を触れる。今にも泣き出しそうなその表情を前に、忍の心は不思議と落ち着いたものだった。 登山など、いつからそんな趣味を見つけたのだろう。何故そんな危険な真似をしたのだろう。昔から無謀なところは多々あったが、巻き込まれることはあっても自ら危険に足を踏み入れるような無用心な人間ではなかったはずだ。聞きたいことが山ほどあるのに、光流の瞳は閉じられたままだ。登山のおかげか鍛え抜かれた肉体。無精髭。明るい色の髪はそのままだが、目の前にいる光流は全く見知らぬ男のように映り、まるで現実感が無い。 これはきっと、何かの間違いだ。そう自分の心に言い聞かせるのに、目の前で涙を見せる光流の母や弟が、これが確かな現実であることを示している。 「光流……」 眠る光流の目の前でぽつりと声を漏らせば、またいつものように大きな瞳で見つめ返して、名前を呼んでくれると思っていた。 それなのに、どうして目を開かない。どうして少しも動かない。どうして。どうして。どうして。 「光流!!」 途方も無い不安は恐怖に変わり、忍は光流の身体を強く揺さぶった。咄嗟に正に止められても、抑制はかなわなかった。頼むから目を覚ましてくれ。以前は大嫌いだった、からかう言葉でも何でも構わない。目を開いて口を開いて、いつものように軽口を叩いてくれたら、それで──。 しかしどれほど懇願しても、光流は深く眠ったままだった。 断崖の淵に立たされ足元を見失った忍は、正の腕に抱き止められどうにか意識を保った。 |
|