蘇生

 

  高層マンションの最上階を選んだ理由は、都会の景色が好きだったからだ。
 地上に降りれば自分より遥かに高く見上げなければならないものも、まるでミニチュア模型のように小さく見える。こんなちっぽけな世界で何を悩み迷う必要があるのかと、改めて自分を見直せるからだ。
 全てはこの最上階から見える景色のように、小さく壊れやすいものだ。跪いて祈りを捧げるように見上げるものなど、どこにもありはしない。


「落ち着かねぇ」
 無駄なものは一切ない広くシンプルな部屋の、やたらと大きなソファーに座り、光流は心底落ち着かないというように足をソワソワさせた。
「それならさっさと出て行け。呼んだ覚えはない」
「なーんで正は呼んで、俺は駄目なんだよ?」
 光流が目をすわらせ訴えた。忍は応えない。
「忍さん、ビールもう無いから買ってきますね」
 冷蔵庫を物色していた正が、気を利かせて近くのコンビニに走って行った。
 誰も連れて来るなと言ったはずなのに、早速なんの断りもなく兄を連れてきた正に、後で絶対にお仕置きしてやるなどと思いながら、忍は缶ビールをぐいと飲み干した。とにかくこの場は適当にやり過ごしてと考えていた忍は、ふと目の前の光流の視線に気付く。
「……何が言いたい?」
 じっと見据えられ、忍は低い声をあげた。言いたいことがあるならさっさと言えば良いものを、無言の重圧をかけるところは昔から少しも変わらない。負けずに忍は高圧的な視線を向けた。
 光流はしばしの無言の後、諦めたように目の力を抜いた。
「おまえ、本気なのか?」
 やはりあの時光流は悟っていたのだと、忍は心の中で舌打ちした。
「俺たち二人の問題だ。おまえにどうこう言われる筋合いはない」
 忍が思い切り反抗的な態度をとると、光流は小さくため息をついた。
「いや、俺だってどうこう言うつもりはねぇよ。おまえらが本当に想いあってるなら構わねぇ。ただ……」
 光流が鋭い視線を忍に向ける。
「正を傷つけるような真似だけはするな」
 その言葉に、忍はただ無心の瞳だけを向けた。
 ずいぶんと疑われたものだ。一時は親友だと認めただけのことはあり、自分という人物をよく知っている。忍は愉快な気分すら覚えた。
「相変わらず弟想いだな。気持ち悪いくらいだ」
 だがそれとこれとは別問題だ。
 気色が悪い。心底そう思った。
 兄弟愛など、笑わせる。そういえば高校時代にも、世界は弟を中心に回っているような気色の悪い教師がいたことを思い出す。弟を守れと洗脳された兄の責任感からくるものだろうが、いつまで親の言葉に縛りつけられ、言いたくもない言葉を言い、愛していると勘違いし続けるつもりなのだろう。本当は心の裏側では、誰よりも一番憎んでいるくせに。弟さえいなければ母親の愛情を一人じめできたのにと、妬み僻み嫉妬していたくせに。いまだ本当の気持ちに気付きもせず、母親に褒められたいがために良い子の仮面を被り続けていることにも気づいていない、哀れな道化師だ。
「安心しろ、これ以上ないくらい大切にしているよ」
「そうか……」
 忍の挑発的な視線に、光流もまた好戦的な瞳を向ける。しばしの沈黙が続いた。
「……で、おまえ、いつからゲイになったんだ?」
 不意に光流が、顔は真剣なままだが力の抜けた声を発した。。
「こだわらない主義なだけだ」
 忍が到って平静な声をあげる。
「こだわれよ。そこはこだわれよ。頼むからこだわれよ。つか、死ぬほどビビったっつーの!」
 光流が我慢の限界とばかりに声を張り上げた。忍は何事かと目を見開くが、すぐにいつもの事だということに気付いた。真面目な雰囲気を大の苦手とする光流が、いつまでも重苦しい空気に耐えられるはずがない。
 それにしても、死ぬほど驚いたにしては随分と冷静な態度のように思ったが、やはり相当に動揺していたのか。さすがに見上げた自制心だと、忍が他人に感心したのはずいぶんと久しぶりのことだった。
「それを知ってたら俺だって……!!!」
 何故か酷く悔しげに言う光流に、忍はきょとんとした表情を見せた。
「あ……いや、とにかく、色々と厄介な道であることに違いはねぇんだから、冷静に、よく考えて、二人にとって一番良い道をだなぁ」
 よく解らないのが、応援してると言いたいのだろうということだけは理解した忍だった。ただそれより先におまえが落ち着けと思うが、あえて口にはしない。
「そういうおまえはどうなんだ?」
「あ?」
 このまま全くアドバイスになっていない光流の説教を聞いていても時間の無駄だ。忍は論点を摩り替えようと試みた。
「結婚するつもりなんだろう? 相手の女とはうまくいってるのか?」
 忍が尋ねると、光流は言葉を詰まらせ、それから眉をしかめ視線を逸らした。
「まあ……その内な」
 はぐらかしたと忍は感じたが、それ以上は問い詰めなかった。聞いたところで気分が良くなるとは思えなかったし、自分にはもう何の関係もない話だ。
 光流が立ち上がり、帰り支度を整える。不意にくしゃりと頭を撫でられた。
「忍、頼むから幸せになってくれよな」  
 変わらない高校時代からの癖。物言い。胸の奥の何かがざわついた。安堵すると共に苛立ちを覚えた。
 もしも今抱きついてキスをしたら、こいつはどんな顔を見せるのだろう。驚くのか。それとも平静を装って無かったことにするのか。それとも。
「光流……」
 気がつけば腕を掴んでいた。どうしたんだと首を傾げる光流の唇に、好奇心のままに唇を重ねた。一瞬触れ合ったと同時にやり過ぎたと後悔し、忍は咄嗟に口の端に笑みを浮かべた。
「……今、死ぬほど驚いてるだろう?」
 三つ目の予測。先手を打って冗談で終わらせたのは忍の方だった。
 途端に光流が顔を赤くして、口元に腕を持ってくる。
「お、俺はおまえと違ってこだわる主義なんだよっ!」
「つまらない人生だな」
「てめ……っ」
 突然、光流ががばっと飛び掛ってくる。忍は床の上に押し倒される形になった。忍の胸の内に懐かしさが込み上げた。悪戯にからかう度に、殴るふりをしては許す光流の、変わらない姿。──の、はずだった。
「っとにおまえは……」
 冗談で終わるはずだったのだ。今までのように。それなのに何故、そんな瞳をするのだろう。見上げた光流の瞳が、酷く苦しげに歪む。今にも泣き出しそうなほどに。
 心の内が見透かせない。こんなことは初めてだ。いや、初めてなんかじゃない。いつも。いつでもそうだった。見透かせない。光流の心の内だけは。どんなに探っても、潜り込んでも、得たいの知れない何かが硬く線を張っていて、そこから先に行くことは許されなかった。
「おまえは……」
 探ることを諦めた忍は、胸ぐらをつかまれたまま、遠い瞳を光流に向けた。思考が止まる。こんな状況に陥るたび、何も考えられなくなるのは何故なのだろう。ただ光流のどこか苦しそうな表情に囚われて、離れられない。
 近付いてくる、光流の瞳。相変わらず長い睫だ。まるで明後日なことを考えていた忍のすぐ目前まで、光流は顔を近づけた。まるでスローモーションのようにゆっくりと唇同士が触れようとしたその時、玄関のドアが開く音がした。
「ただいまー。参ったぜ、そこのコンビニで売り切れててさ」
 疲れた様子で正が目前に現れるより先に、光流は咄嗟に立ち上がった。忍もまた立ち上がり、部屋に入ってきた正からコンビニの袋を受け取る。
「正、俺、先に帰るわ。またな」
「え……なんだよ、せっかくビール買ってきたのに」
「コレと約束」
 正に向かって小指をあげ、光流はさっさと家を出て行った。
 どこまで本気で、どこまで嘘なのか。見透かせないまま、忍は疲れたようにソファーの上に横たわった。
「そんなところで寝たら、風邪ひきますよ」
 正に咎められても、忍はその場を動かず目を閉じた。 
 考えるよりも今はただ眠りたかった。一晩眠って明日が来れば、忘れる。忘れられる。無性にざわつく胸の内も、きっと鎮められる。ぼんやりとした意識の中でまどろみ、忍は深い眠りに落ちていった。


「少し遊びが過ぎているようだな、忍」
「仕事の手は抜いていないつもりですが」
「惚けるならそれでも構わない。だが忘れるな、おまえは手塚家の跡取りだ。もしも私の顔に泥を塗るような真似をしたら、生きる道はないと思え」
 高圧的な物言いだけを残して背を向けた父親に、忍はただ蔑みの視線だけを向ける。
 この老人は自分がとうに力を失っていることに、何故気付かないのだろう。既に着々と多くの後援者を従えてるこの自分を、いつまで無力な子供のままだと思っているつもりなのだろう。
 遊ぶことさえ許されなかった子供時代を思い出す。年相応の子供達と同じ遊びに興味を持てば、くだらない遊びだとことごとく否定され、人に批難を受ければおまえのやり方が悪かったのだと責められ、父の望む完璧な姿を見せれば見せるほど、更に上を要求され続けた。だがその要望にどれだけ応えたところで、父は決して満足しない。それも当然のことだ。底無しの欲望を持っているからこそ、父は頂点を極めることが出来たのだ。そして自分もまた、そんな父親と同じ欲望にまみれた人間であることを、忍はとうに自覚している。

「今日はずいぶん優しいね」
「昨日、彼が誕生日に指輪をくれたの。だから気分が良くて」
 そっと髪を撫でてくれる女性の手は好きだった。程よい力強さで柔らかく暖かい。良い香りのする肌触りの良い髪や、絹のような肌、豊満な胸、高く優しく響く声。全てが心地良く、安堵すら覚える。たとえどんなに嘘つきで狡猾な女であっても、そうであればあるほど心は安らぎに満ちた。裏切りが蜜の味であることを、互いに知っているからだろうか。それとも余計な情や罪悪観念に縛られず、自由に欲望を貪り合えるからだろうか。
「そんな安物が、そんなに嬉しい?」
「値段じゃないのよ、こういうのは。一生懸命選んでくれた気持ちが嬉しいの」
「僕がその十倍の値段の指輪を買ってあげたら?」
「そりゃ嬉しいわよ。すぐに売り払うけどね」
 冗談交じりの彼女の言葉に、忍は少年のように微笑んだ。
「その代わり、例の件はよろしく」
「はいはい、解ってるわよ」
 互いに欲望を満たすだけの共存関係でありながら、癒される。一時の慰めで構わない。ただ奇麗事などいっさい口にしない彼女の前では、自分もまたこのままで良いのだと思える。
 確か昔は、光流にも同じ感覚を抱いていた。互いに同類だと知っていたからだ。それなのに気づけばいつの間にか、心は遠く離れていた。どこで離れたのかも、どうして離れたのかも解らない。その瞬間は、確かにあったはずであるのに。



 
 家に帰るなり、いやに不機嫌な正の姿が待ち構えていた。
「どうして返事くれなかったんですか?」
「仕事中だったんだ」
 疲れているというのにメール一本くらいでがたがた言うなと、忍は冷たい背中を正に向けた。
 間髪入れず背後から抱きつかれる。忍は鬱陶しそうに眉をしかめた。
「……香水の匂いがする」
 髪の匂いを嗅いで正が言った。忍は肩を揺らし正を払いのける。
「仕事だと言っただろう。いいかげん割り切れ」
「だったら、俺はあなたの何なんですか!?」
 忍の腕を捕らえ、正は怒りを露に声を張り上げた。
「人の気持ちを弄ぶのも、いいかげんにして下さい。本気で怒りますよ?」
 初めて聞くような低い声。重圧的な瞳。もともと独占欲が強い男だとは思っていた。いまだ幼少期に植えつけられた貞操観念に縛られているからこそ、セックスを愛の形としてしか使えない男だということも。だが身体を重ねる行為など、所詮は本能であり欲望の一つに過ぎない。考え方一つ変えれば、これ程手っ取り早いコミュニケーションは他に無いのだ。より多くの人間を従えるためには、一人一人にじっくり時間をかけている余裕はないからこそ、忍はより素早い手段をとっているに過ぎない。
「弄んでなどいない。ただ、俺の仕事を理解しろと言ってるだけだ」
 しかしそれを理解させようとしたところで、正は余計に憤慨するだけだろう。忍は言葉を選び伝えた。
「仕事と俺と、どっちが大事なんですか……」
 お決まりの台詞を口にされ、忍は辟易とした想いで小さくため息をついた。
 その区別がつかないほどの馬鹿は、本当に疲れる。やはり最初から背負うべきではなかったと後悔が込み上げてくるほどに。
「言わなければ解らないか?」
 忍はソファーに腰を下ろし、恐ろしく高圧的な視線を正に向けた。
 予想通り正は、悔しげに拳を握り締めるだけで言い返すことも出来ない。忍はふぅと小さく息をつき、立ち上がって正に歩み寄った。そっと頬に手を寄せ唇を重ねると、感情の抑制がきかなくなった正に、やや乱暴にソファーの上に押し倒された。
 今日は全くそんな気分ではなかったが、義務だと思い忍は身体を投げ出した。ろくな愛撫もないままの挿入は酷く辛いものだった。痛みに唇を噛み締めても、理性を忘れた獣に相手を思いやる心など持てるはずがない。これがこの男の本性だ。好きだ。愛してる。そう言いながら、いつも自分だけを見つめて、自分だけを愛せと言う、身勝手で我儘で利己的な幼稚園児そのもの。解っているのに、なぜこんな苦痛に耐えてまで、背を向けることが出来ないのだろう。身体を真っ二つに引き裂くような痛みすら、もっと欲しいと願ってしまうのだろう。
「あ……ぁ……!」
 忍は朦朧とする意識の中、奥深くに正を誘う。
 これが報復でも懲罰でも構わない。一人だけを想い、一人だけを信じ、一人だけを守っていけるなら、どれほど幸せだろう。けれどそれでは満足しない。出来ない。生きているならば、もっと遥か高みを目指したい。誰も手が届かないような、高く見下ろせる場所。自分もまた、理性を忘れた獣だ。 だからせめて今だけでも。
 この快楽と痛みが身の内に宿る獣を解放し鎮めてくれるのならば、果てのない欲望もいつかは姿を消して、静かな心で眠り続けていられるのだろうか。
 

 
 さすがに我慢させすぎたかもしれない。
 いいかげん飴の一つもくれてやらなければ、この先何をしでかすか解らない。明日は丸一日、時間を費やしてやろう。そう心に決めた忍は、正に明日が休みであることをメールで告げた。返事はすぐに戻って来なかったが、特に気には留めなかった。メールに気づけばいつものように、すぐにマンションにやって来るだろう。そう思い、その日は返事を待たずにベッドの上で眠りに落ちた。
 翌日、朝になっても正からの返事がないことに気づいた。そんなことは初めてで、昼頃まで待って落ち着かない気になった忍は、まさか思いがけない事故にでもあったのではないかと焦りを覚え、正の家に足を向けた。
 正の母に昨夜から帰っていないと告げられた。忍は幾度目かの電話を入れるが、携帯の電源は切られたままだった。他に共通の知り合い。思い当たるのはたった一人で、このさい仕方ないと、忍は光流の携帯番号を母親に尋ねた。



「どっかに電話、忘れてんじゃねぇの? そんなに心配するほどのことかよ」
 光流に会って怪訝そうな顔をされて初めて、忍は初めて己の動揺ぶりに気付いた。
 言われてみれば、確かにその通りだった。たった一晩連絡がとれないくらい、大の男が何だというのだ。ただ。
「こんなことは初めてだったから……」
 忍の言い訳じみた台詞に、光流が思わずといった風に目を丸くした。そして突然に冷めた目をする。
「そりゃまた、随分うまくいってるみたいで」
 どこか皮肉めいた光流の口調。忍は眉をしかめた。
「なんの話だ?」
「……別に。ラブラブで良かったなって話だよ」   
 今の流れでどこをどうしたらそう捉えられるのかさっぱり解らない忍は、気に食わないといった目で光流を睨みつけた。光流はそんな忍に、相変わらず面白くなさそうな目を向ける。
「あいつのどこがそんなに良いんだよ? すぐ拗ねるわいじけるわ怒るわ、手がかかるだけだろ?」
「そこまで言えるようになったなら、おまえのブラザー・コンプレックスも少しはマシになったようだな」
 忍はふんと顔を背け、嫌味たっぷりに言い放った。カチンときた様子の光流が額に青筋をたてる。
「誰がブラコンだ、誰がっ!」
「自覚してなかったのなら自覚できて良かったなおめでとう。これでようやくおまえも一人前の立派な大人だ」
「おめぇに大人になったとか死んでも言われたくねぇよ……っ」
 憤慨する光流に、忍もまた噛み付くような視線ばかりを返す。
 初めて会った時から決定的に相性が悪いとは思っていたが、今の今ではっきりと忍は自覚した。やはりこいつとだけは死んでも相容れない。一時でも親友などと思った自分が大いに間違っていた。
 苛立つ気持ちばかりを抱え街中を歩いていた忍が、不意にその場に立ち止まった。まだうるさく喚きたてていた光流が、忍の肩にぶつかり同時に足を止める。
「なんだよ、急に……!」
 抗議する光流を前に、忍は表情を硬くした。
 ようやく探していた人物を見つけたと思ったのに。
 どこかで見たピンク色のコート。安物のブーツ。緩く巻いた栗色の髪。確かに記憶の中にある、一度は正を裏切ったあの最低な女と、なぜ一緒に歩いているのか。一瞬にして頭の中が真っ白になった。
 まさか。こんなはずは。そう思った瞬間、思考が波のように襲ってきた。
 いや、違う。あいつはずっと裏切っていたのだ。好きだ、愛している、あなただけだと言いながら、ずっとこうして前の女と会っていたのか。それならばあの言葉は全て嘘だったのか。違う。そんな。そんなはずは──。
 何かが噴き出すような感覚に襲われる。その感情を制御できないまま、忍は早足で正に近づいた。
 突然に前を阻まれ、正とその隣にいた女性が足を止める。
「忍さん……?」
「昨夜からその女と一緒にいたのか?」
 突然目の前に表れたかと思えば突然質問され、正が目を丸くする。忍はそんな正を蛇のような鋭い瞳で睨みつける。そのあまりの迫力に怯えた女性が、ぎゅっと正の腕を掴んだ。刹那、忍の拳が宙を舞った。
「忍……!」
 光流が止めようとしたその時には、拳は既に正の頬を直撃していた。
「貴様──!」
 地面に倒れこむ正の胸ぐらを掴み引き寄せ、忍は再度拳を振り上げる。しかし二度目の攻撃は光流の手によって阻まれた。
「おま……っ、何してんだよっ!? 落ち着け!!」
 目一杯慌てた光流の声が耳元に届き、忍ははっと我を取り戻した。
 
 
  
「どこがどう大人になったって?」
 ソファーに座りふんぞり返る光流からそっぽを向いたまま、忍は険しい表情を緩めない。
「あのな、ほんとのことなんてちゃんと本人に聞かなきゃ解るわけねーだろ? ただ一緒に歩いてるだけで、なんで浮気だって決め付けるんだよ?」
 とりあえず一旦落ち着かせようと、正には彼女を送るように言い、忍を自宅のマンションに連れ帰った光流は、心底呆れた様子で尋ねた。
「あれが浮気じゃないと、なぜおまえに解るんだ」
 忍は憮然とした表情のまま応える。
「あいつはそんなことする奴じゃねーよ。そんなの付き合ってたら解るだろ!?」
「そう言っておまえは一体何人の女を寝取られたんだ?」
 忍の問いかけに、光流は言葉を詰まらせた。
「お、俺のことはいいんだよっ! それよりおまえのその被害妄想癖を先になんとかしろ!」
「実際被害を受けてなお腐った妄想に浸れる、おまえのその腐った脳みその方を先になんとかしろ」 
 忍のあまりの言い様に、光流は怒りの限界とばかりにぴくぴくと眉を震わせる。しかし爆発させることはなく、落ち着きを取り戻すためにふぅと小さく深呼吸した。
「まあでも、安心したぜ。出し抜かれて本気で激怒するくらい可愛い可愛いとこはそのままみたいで」
 冷静さを取り戻したのか力を抜き、光流は言った。だがその言い方は優越感と皮肉に満ち溢れている。明らかに喧嘩を売ってる光流を前に、忍は瞳を鋭くした。
「浮気されたから怒ったんじゃない。コケにされたから怒ったんだ。すぐに悪さする駄犬は、その場で躾けなければ解らないからな」
「へーへー、認めたくねーのは解るけど、全然説得力ねぇからソレ」
 あくまで上から目線の光流を、忍は苛立ちを抑えきれない様子で睨みつけた。そしてその怒りは更に正へと向けられる。あいつがあんな真似さえしなければ、あんな無様な姿を晒すこともなかったのに。しかも何故よりによってこいつの前で。激しい後悔ばかりが押し寄せる。
「とにかく、ちゃんと正と話し合えよ。誤解するのはそれからで構わねぇだろ。万が一あいつが本気で浮気してたら、俺が慰めてやるから安心しろ」
 あくまでからかいの言葉を投げてくる光流に、忍は怒りばかりを覚え光流に詰め寄り、その胸ぐらを掴んだ。
「それなら今すぐ慰めろ」
「……どうやって? 頭撫でてやろうか?」
 光流が目を据わらせる。ますます頭に血が上り、せめてもの仕返しに、忍は光流の唇に自分の唇を重ねた。
 触れ合った瞬間、何かが胸を貫いた。突然に先ほどまでの憤りが消え冷静さを取り戻すと、急な不安にかられた。
 唇を離すと、目前に真剣な光流の瞳があって、ますます宙に浮いたような感覚が増す。
「それ、まじでシャレになんねぇから」
 更に忍を不安に駆り立てたのは、射るような光流の瞳だった。
 また単なる喧嘩の延長戦で、冗談で終わらせてくれると思っていた。それなのに、何故そんな本気の瞳で見つめるのか。いつものように赤い顔をして、ふざけるなと。からかうのもいい加減にしろと。そう言ってくれたら、それで済んだはずなのに。
 突然に肩を掴まれる。覆いかぶさるように光流の顔が近づいてきた瞬間、忍は咄嗟に顔を背けた。
「いいかげん、からかうのはやめろ……」
 光流から顔を背けたまま、忍は低い声を発した。
「それはこっちの台詞だ。この……」
 耳元に光流の唇が寄せられる。忍はビクリと肩を震わせた。
「クソガキ」
 低い声。心底苛立ちを露にしたような。
 言ったと同時に突き放される。すぐさま背を向ける光流の姿を、忍は何も言えずに見送った。
 どういう意味だとか、何故だとか、すぐに言い返せば良かったのに、何も口にすることは出来なかった。そして、考えることも。
 ただどうしようもない自己嫌悪と惨めさが、忍の心を覆う。
 気持ちを切り替えようと思った瞬間、それまですっかり忘れていた正の顔を思い出す
 話。話をしなければ。
 冷静になれば、すぐに解ったはずだった。それなのに、少しも冷静にはなれなかった。今も正があの女と並んで歩いていた光景を思い出せば、鼓動が高鳴り、全身が脈打ち、激しい怒りが込み上げてくる。嫉妬。切望。愛憎。執着。恐怖。不安。様々な感情が入り乱れたこの気持ちを、何と呼べばいいのだろう。
 そうして忍は生まれて初めて思い知る。
 これが、この醜さこそが、愚かさこそが、恋というものなのだと。