蘇生
遠く聞こえる雨音を目覚ましに、忍はゆっくりと閉じた瞳を開いた。 ここはどこだっただろう。思い出して忍は身体を横向きにし、また静かに目を閉じた。 今日はもう何もしたくない。誰とも会いたくはないし、どこにも行きたくない。初めて訪れたこのホテルの一室から出たところで、帰るべき場所などないのだから、今はこの心地良いベッドの中でもう少し休んでいこう。 目を閉じれば、雨音がだんだんと近づいてくる。一度目覚めてしまえば波のように数多の思考が押し寄せてきて、もう一度眠ることはかないそうになかった。 結局はいつも通りの時間に起きて仕度を整え、忍は荷物を持ち部屋を後にした。 数ヶ月ぶりの東京。 あの頃と変わらないようでいて、少しずつ変わっている景色。こんな場所に、いつこんな店が出来たのだろう。そういえば、以前は何があったのだろう。記憶力には自信のある忍にすら思い出せないほど、目まぐるしく変化していく街並み。 そうだ、確かここには。 思い出そうとして、忍は咄嗟に記憶の扉を閉ざした。 くだらない。思い出したところで、何になるというのだ。思い出せばあの頃に戻れるとでも思ったのか。忍は浅はかな自分を叱咤して足取りを早くした。 目的地までたどり着く途中、見知らぬ人にぶつかった。作った顔ですみませんと声をあげたが、相手の男は無視して通り過ぎていった。心の内が淀み、忍は目深までさしていた傘をあげ視界を広げた。つまらない感傷になど浸っているから、こういった無様な出来事が起こる。そう自分に言い聞かせた。 不意に、オレンジ色の看板が視界に飛び込んできた。手っ取り早く腹を満たしたい男性客が大半を占める飲食店。そこから出てきた一人の客を前に、思わず足を止めた。明るい髪色をした青年の姿が確認されたと同時に、一瞬跳ね上がった鼓動がすぐに静まる。 「おーい、まだかよ!」 店内に向かって声を荒げる、全く見知らぬ男の前を通り過ぎようとしたその時だった。 「悪ぃ悪ぃ、なかなかトイレ空かなくてさ」 苦笑しながら店内から出てきた一人の青年と目が合った瞬間、忍は時が逆戻りしたかのような錯覚に陥った。 「それにしても、ほんとに久しぶりですね、忍さん」 「ああ、元気そうで何よりだよ」 喫茶店の一角で、忍は目の前に座る青年に柔らかい微笑を向けた。 青年もまた明るい笑みを浮かべる。その笑顔は少しも変わってはいないと思った。けれどよく見れば、あの頃とは体格も外観もずいぶん違う。当時の面影を残しているのは髪と瞳の色だけで、外見は少年らしさがすっかり抜け、成人しきった男の姿だ。それもそのはずで、初めて出会った頃から既に十年近い月日が流れている。 「正くんは、今なにをしてるんだい?」 「実はちょっと前まで、自衛隊入ってたんですよ」 ずいぶんと意外な台詞に、さすがの忍も驚きを隠せなかった。 「そう。どうりでずいぶん体格が良くなったはずだ」 しかし平静を装い、いかにも力のありそうな腕っぷしを見つめる。 「めちゃくちゃ鍛えられましたからね」 自信満々に、かつての友人の弟は言った。 「でもなぜ自衛隊なんかに? 実家の方は?」 「いずれ寺継ぐつもりではいますけど、じいちゃんまだ元気だし、本格的に継ぐ前にいろいろ人生経験積んどこうと思って。でも実際なにして良いかわかんなくて色んなバイトしてたら、母ちゃんにおまえは甘ちゃんだから自衛隊でも入って精神鍛えてこいって尻叩かれちまって。おかげでだいぶ鍛えられたし、けっこう楽しかったんで良かったですけどね」 実に楽観的に話を続ける正に、忍は変わらず穏やかな笑みを浮かべ、話半分に耳を傾けた。 昔から決して賢い類の人間だとは思っていなかったが、その短絡思考は羨ましいとさえ思える。まるでいつか一緒に暮らした馬鹿な友人に抱いていた想いと一緒だ。思った瞬間、忍はコーヒーを飲み干し傍らに置いたコートに手をかけた。 「そろそろ出ようか。せっかく会えたからもう少し話がしたいんだけど、あまり時間が無くて」 「いえ、会えて嬉しかったですよ。あ、俺、奢りますよ」 「ありがとう。でも誘ったのは僕の方だから」 忍はさっとレシートを手にとると会計に向かった。 「すまないね、つき合わせてしまって」 今から新幹線に乗れば、夕刻には実家に着ける。そう頭の中で予定を組み立て、正ととりとめない会話を交わしながら駅に向って歩く。明日には実家に戻り溜まっていた書類を整理しよう。その前に新幹線の中でメールを済ませて。するべきことが次から次へと頭の中に駆け巡る。その間も正とは絶えず会話を交わして忍だが、別れればすぐに忘れるであろうことに何も興味は抱けなかった。 「そうそう、光流の奴、もしかしたら結婚するかもしれないって聞きました?」 その名前を耳にした途端、それまでの思考が瞬間的に閉ざされた。そして次に思うべき言葉が何も見つからない。 「……最近、少しも連絡とっていなくてね。そうなんだ、それは良かった。あいつのことだから、変な女に捕まってないと良いけど、大丈夫そうかい?」 しかし一つ言葉が出てくれば、あとは忍らしく饒舌なものであった。 「さあ、どうでしょうね。前に付き合ってた女にも、結局散々な形でフられましたからね。俺も心配なんですけど……」 そこまで言って、ふと正が言葉と足を同時に止めた。急に立ち止まった正に忍が何事かと目を向けると、正の顔色が明らかに変わっていた。まるで未知のものとでも出会ったかのように、驚きと戸惑いを隠せない表情。 正の視線の先にあるものに、忍は咄嗟に目を向けた。するとそこには、同じ年頃の女性がスーツ姿の男と相合傘で腕を組み歩く姿があった。どう見ても男女の関係であるその二人を前に戸惑いを隠せない正の心中を、忍はすぐに見透かした。 世の中の大半の人間は、見た目が内面を反映しているものだ。 緩く巻かれた栗色の髪も、そこそこのスタイルも、淡いピンク色のブランドコートに合わせた安物のブーツも、男に媚びるためだけの笑顔も、それ相応の価値の女だと明らかに解るにも関わらず、なぜ男という生き物はこうも簡単に騙されてしまうのか。 「はは……やっぱ、兄弟っすね……」 まるでこの世の終わりかのように肩を落とす正を見つめながら、つくづく愚かだと心の中で毒づき、忍はカラオケボックスのリモコンボタンを指で押した。もともと歌うつもりで入店したわけではない。 テレビや街中でよく聞く適当な失恋ソングを流すと、悲哀に満ちた旋律が流れる。画面には次から次へと自己に酔いしれた歌詞が映り変わる。しばらくして正の瞳から涙が溢れ出した。 「……ずっと、そんな気はしてたんです……。でもまさか、友達にまで裏切られてたなんて……」 どうやら彼女が掛け持ちしていた男は正の友人であったらしい。つくづく馬鹿な男だと忍は思った。友情など、恋の前には脆く儚く砕け散る。かつて自分がそうであったように。 そうか。あの時の気持ちか。思い出し、忍は正の肩にそっと手を置いた。 「す、すみません……っ、時間、無かったのに……っ」 「かまわないよ。君は大切な友人だ」 こらえ切れず泣き続ける正に、忍はただ優しい言葉をかけた。 今はただ気が済むまで泣けばいい。いずれあんなくだらない女のことはすぐに忘れる。あんなくだらない友人のことも。吐き気を催すような感覚に襲われ、忍は強く拳を握り締めた。過ぎ去った苦々しい記憶と共に。 思わぬ事態のおかげで予定はずいぶんと狂ってしまったが、少しも不愉快だとは思わなかった。 それどころか何故だろう、まるで目の前の霧が晴れたようなこの感覚は。 「あの、また……会えますか?」 「もちろん。近く東京に来るつもりだから、その時はまた会おう」 「はい! あの、たまにメールとかしてもいいですか?」 「ああ、待ってるよ」 忍は優しい笑みばかりを浮かべ、正に背を向けた。背後に熱い視線を感じる。酷く心が躍った。 信頼を得たその瞬間、心が満たされるのは、それが支配であるからだ。 自分は上に立つ者だ。いつも。いついかなる時も。 決して何者にも屈したりはしない。怯えもしないし、増してくだらない人間に裏切られたからといって、あんな無様に泣いたりなど決してしない。 それなのに。 『もしかしたら結婚するかもしれないって』 何故。 たった一つの言葉が胸の内から離れない。 今日の正と同じように、くだらない恋に溺れてこの自分との友情を捨てた、あのくだらない男の姿が。 だがそれも予想通りだ。案の定、あいつはあの最低な女に裏切られて全てを失った。実にあいつらしい、無様な最後だ。それなのにまた、同じ過ちを繰り返そうとしている。底なしの馬鹿だ。 例え次に会った時に正のように泣きついてきたところで、誰が慰めてなどやるものか。 忍は心の中で悪態ばかりをつきながら、新幹線の窓から移り行く景色に目を向ける。何千とある家やビルが立ち並ぶ街の景色が、やけに小さなものに映った。 その日、忍は父の仕事に付き添い、まだ若き政治家と会話を交わした。 政治は国民のためにある。日本という国を蘇らせるためにも、まず自分がするべき事は。青臭い理想論を並べ立てる政治家に上っ面の笑みばかりを浮かべ、忍はその直後に男色の政治家と密約を交わした。 理想。そんなものは、徹底的に叩き潰してやる。あの腐った最下層の人間を守る必要がどこにあるものか。しょせん彼らは知恵のない欲望まみれの動物と一緒だ。弱肉強食の世界で強者が弱者を食い散らかす世界。まともな人間に育てるだけの金もないくせに無闇やたらに子供を作り、動物のまま育った子供はろくに働けもせず国のお荷物になる。そのくせ金をよこせ、政治家は無能、こんな国に誰がしたと、己の無能さを棚にあげ他者を否定するばかりの、国に寄生するダニのような存在。甘やかしたところでどんどんつけあがるだけの連中のために、いつまでも身を犠牲にして尽くす者など存在しない。 「あ……ぁ……っ」 「その顔で、どのくらいの男を手玉にとった?」 「……あなた……だけですよ……」 嘘をつくなと目が語っても、嘘を受け入れたのなら最後まで共に在る覚悟を。 それを解る相手にしか、身体は預けない。増して心など絶対に。絶対に。 「……っ……」 いずれあの若き政治家も、身をもって思い知るだろう。 青臭い理想など、愚かな醜い人間共の現実の前では、巨大な象の前を歩く蟻よりも弱く儚い存在なのだと。 『じゃあ明日、いつものとこで待ってますね!』 接待中に入った正からのメールにさっと目を通し、忍は携帯電話をポケットにしまった。 東京に行くと言えば、いつも必ず会おうと待ち構えている。まるで忠犬ハチ公だ。犬は面倒だから嫌いだが、いずれ何かの役には立つかもしれない。それに手なずけるのも操るのも比較的楽な動物だ。手元に置いておいて損はないだろう。 だから明日は。 手土産の一つでも、買っていってやろうか──。 『母親が会いたがっているから、久しぶりにうちに来ませんか』 以前から度々その誘いは受けていたが、忍は時間があまり無いからと断り続けていた。しかしその日は丸一日空いていていたし、近頃退屈な日々が続いていたせいもあったかもしれない。 「この羊羹、すっごく美味しいわねぇ」 「うん! 俺、羊羹美味いと思ったの初めてっすよ!」 さすが味には疎い低下層の庶民、昨今流行りの有名店であるにも関わらず知らないのは予想の範囲内だが、早朝から並ばなければ手に入らない限定品なだけに、せめて味だけでも解って良かったと己を慰めながら、忍はにっこり微笑んでお茶をすすった。 やれ立派になっただの、昔と変わらないだの、高校時代と全く変わらない態度で接してくる正の母親に、忍もまた以前と変わらない行儀良さで接する。畳も家具も炬燵も何一つ変わらない風景。昔から居心地の悪い空間だったが、今はなおさらだ。やはり来るべきではなかったと後悔に襲われながらも、愛想笑いで乗り切りさっさとこの場を去ろうと考えていたその時だった。 ふと玄関のドアが開く音が耳に届く。「ただいま」と遠くに聞こえる声は、確かに聞き覚えのある声そのもので、忍は一瞬表情を凍りつかせた。 「ああ、帰ってきたきた。今日忍くん来るからって言ってあったのよ」 余計なことをと、忍は思わず視線を鋭くした。 今にも乱れていきそうな鼓動を沈め、平静を装う。足音がやけに耳にうるさく響く。 「おかえり~、光流」 「うっす、久しぶり」 忍はすぐに顔を向けることは出来なかった。けれど近づいてくれば、視線を向けないわけにはいかない。隣に腰をおろすかつての親友に、忍は極めて平静な顔を向けた。 「忍も、久しぶりだな」 少しはにかむような笑顔。変わらない声。明るい色の瞳。柔らかい髪の色。 まるで高校時代に戻ったかのような錯覚を覚えるほどに、光流は何一つ変わってはいなかった。 「ああ、元気そうだな」 自分の声がやけに遠く聞こえた。自分ではない、他の誰かが喋っているかのように。 「まぁな、ってか変わってねぇだろ? それよりおまえ、よくのこのこと俺の前に顔見せれたよなぁ?」 光流がすわった瞳で、まじまじと忍の顔を覗き込んだ。忍は咄嗟に視線を逸らしそうになるのをこらえ、あくまで変わらない表情を向ける。そんな忍を相変わらず怒ったような顔で見つめていた光流は、ふと忍の頭をぐしゃっと撫でた。 「聞いてくれよ正、こいつ酷ぇんだぜ。大学時代同居してたのに、いきなり何も言わず勝手に部屋出ていきやがって。おまけに連絡の一つもよこさねぇでやんの!」 「そりゃおまえが、よっぽど忍さんが耐えられない生活してたんだろ」 冗談交じりに悪態をつく光流に、正が呆れ声を放った。 頭から手を離され、それまで半ば放心状態だった忍がようやく目の色を取り戻す。 「ああ、なにせおまえは部屋は片付けないわ、勝手に友人を呼んでは夜通しどんちゃん騒ぎをするわ、しまいに俺がいないと一人で起きることすらままらない生活だったからな。このままじゃおまえが駄目になると、敢えて心を鬼にして家を出たんだよ。解ってくれるかい、正君」 「すっごい解ります。そりゃ出てって正解ですよ」 忍の容赦ない台詞に、正がうんうんと頷く。光流は言葉を詰まらせながらも、目を吊り上げた。 「だ、だからって、一言言ってくれても良かっただろ!? あの後俺が、どれだけ家賃と光熱費のやり繰りに苦労したか……!!」 「光熱費はともかく、当面の家賃は払っていったはずだが。すぐにもっと安い部屋を探せば良かっただけのことだろう?」 「おま……っ、ほんっと昔から変わらねぇな! そう簡単にはいそうですかって納得して家変えられるかよ!? おまえ帰ってくるのずっと待ってたんだぞ!?」 「過ぎたことを言っても仕方なかろう。あの時は俺も色々と忙しかったんだ。連絡しなかったのはすまなかったと思っているよ」 「おまえはまだその嘘くさい言い回しが俺に通用すると思ってんのか?」 額に青筋をたてる光流を前に、忍はあくまで穏やかな笑みを浮かべる。そのやりとりを見て、光流の母と正がくすくすと笑い声をあげた。 「まったくあんた達は、ちっとも変わってないねぇ。忍くん、今日はお鍋するから、一緒に食べて行きなさいよ」 そう言って、母親は台所の奥に消えて行った。 「まあ……確かに過ぎたこと言ってもしゃーねぇけどな」 憤慨しながらも言いたいことを言ったらすっきりしたのか、光流はため息をつきながらあぐらをかいた。 「あ、母ちゃん、俺すぐ帰るから夕飯いらねーわ」 「なんだい、せっかく忍君来てるってのに」 光流の声に、母親が不満気に声を荒げた。 「さては彼女と約束でもしてんな?」 正がニヤけた笑みを浮かべる。光流はどこか照れくさいように頭を掻いた。 「そういえば、結婚するんだって?」 忍は表情を変えず尋ねた。声色もおそらくは変わらないだろう。彼らにとっては。 「あー……いや、まだ、そこまではいってねぇけど、たぶんな……」 光流は言葉を濁すが、照れているだけだという事実は明白だった。 「まあまあ、そーゆーことだから、今日は帰るわ。またな、忍。正に俺の携帯番号聞いて、たまには連絡しろよ?」 光流は釘を刺すように言った。光流の言葉に、忍は「ああ」と微笑んだ。光流がすぐに背を向け早足に廊下を歩き、玄関の扉が閉まる音を耳にしながら茶の味がやけに苦く感じたのは、相変わらず庇護欲丸出しの台詞が勘に触ったせいだ。連絡が欲しいなら自分からしろと言い返したところで、空しいだけだ。これ以上考えても不愉快になるだけだと、忍はすぐさま思考を切り替えた。 暖かい炬燵。暖かい鍋。暖かい言葉。暖かい笑顔。それらに囲まれながら、何故こんなにも心は寒い。まるで何もかもが凍りついた世界に一人取り残されたかのように。 「今日、泊まっていきます?」 「ああ……かまわないかな。助かるよ」 どんな会話を交わしても上の空のまま、忍は正の申し出に頷いた。 風呂に入り寝る仕度を整え、かつての子供部屋に足を踏み入れる。そこにある勉強机も、壁に貼ったポスターの位置も、何も変わってはいなかった。せっかく空いた部屋なのだから、さっさと片付けてしまえば良いものを、いつまでも未練たらしく残しておくところがいかにも下町の人間らしい。人はそれを情などと呼ぶが、なんということはない、ただ残された家族が寂しいだけだ。いつまでたっても子供にしか存在価値を見出せず、自分の人生を見つけることが出来ない母親のエゴでしかない。 『帰ってくるのずっと待ってたんだぞ』 咄嗟に光流の言葉が蘇る。忍は眉間に皺を寄せた。 そんなものは嘘だ。家だと言いながらろくに帰って来もせず、惚れた女との情事に溺れていた男に言われたところで、何の説得力もありはしない。そんなにあの女が大事だったのなら、何も遠慮などせずにさっさと自分から出て行けば良かったのだ。 突然に激しい憤りに襲われ、忍は拳を強く握り締めた。記憶が蘇る。狭いアパートの一室。テレビの音しか聴こえない部屋。かすかな音がするたびに反応して、鳴らない電話を見つめる。途方もない孤独感。そしてふと、思う。あの高校時代の日々は、全て幻だったのかと。決して揺るがないと思っていた絆も友情も、離れてしまえばあっさり消えて無くなる。結局は、狭い世界で生活の全てを共にしていたからこそ成り立っていた共存関係でしかなかった。その証拠に、外の世界の人間に触れた途端に、みなバラバラに散っていった。蓮川も瞬も、高校時代の友人もみな、光流ですら。 いずれその日が来ることは知っていた。それなのに、知ったつもりで少しも現実を知ってはいなかった自分は、ゆるま湯に浸かって甘い夢を見ていただけの、かつての自分がもっとも軽蔑するべき愚かな人間だった。 今はただ勘違いをしていただけだと思う。幸福で無知で奇麗事だらけの偽善者達に取り囲まれ洗脳され、すっかり本来の自分を見失っていただけだ。 本当の自分は、もっと、もっと──。 「忍さん?」 不意に声をかけられ、忍ははっと目を見開いた。 「どうしたんですか、立ったままで。あ、布団敷きますね」 返事を聞くまでもなく布団に手を伸ばし、せっせと世話をやく正の後姿を見つめ、忍は口の端に笑みを浮かべる。 血など繋がってないはずなのに、何故こうもよく似ているのか。これもまた育てた親の洗脳というものなのか。これをしなければ不安。これをしなければ落ち着かない。これをしなければ気が休まらない。せずにいられないことは、全て親に強いられてきた故の強迫観念からくるものだ。 「いや、君の部屋に行ってもいいかな?」 「え?」 「少し、話をしたい気分なんだ」 きょとんとする正に、忍はにっこりと微笑んだ。その瞳に感情の色は無い。 正の部屋には既に布団が敷かれてあり、忍は気安く布団の上に寝転んだ。正が意外そうな表情を見せるが、忍はおかまいなしに笑顔を見せる。 「懐かしいな。光流とも、よくこうして話をしたんだ」 「あ、ああ……そうなんですか。なんか忍さん、いつもきちんとしてるイメージしかなかったから、意外です」 さすがに大人になっただけあり露骨に表情に露さないが、ずいぶんと驚いたように正は言った。おずおずと忍の隣に腰を下ろす正を、忍は上目使いに見上げた。 「いつもは猫をかぶってるんだ。でも一日中はさすがに疲れるからね。光流にも最初はずいぶん驚かれたよ」 「はは、でしょうね。あいつ、すっげー騙されやすいから。あ、俺も、人のこと言えないですけど」 正は苦笑する。どうやらまだ恋人に浮気された傷は完全には癒えていないようだ。忍は心の中で嘲笑した。 「それは僕も同じだよ」 「忍さんでも、人に騙されたりすることあるんですか?」 「ああ、これ以上なく卑劣な手段でね……。おかげですっかり人間不信だ。正君、君は神様を信じてるかい?」 「え?」 「僕は信じたよ。一瞬……ほんの一瞬だけね。でもやっぱり、神様はどこにもいなかった」 どこか憂いを帯びた表情をする忍を前に、正は眉をしかめた。いったい何があったのだろうと心配するその瞳は、同時に哀れな者を見下し優越感に浸るものでもあるということを、彼は自覚していないだろう。しかしそれは返って好都合というもので、ならば演じてやるまでだ。どこまでも可哀想な自分を。 「もう一度、信じられていたあの頃に戻れたらと思うよ」 忍は酷く落ち込んだ表情を見せる。そして瞳にうっすらと涙を浮かべた。 多くの言葉は要らない。涙一つで、人は勝手に不幸な境遇を想像してくれる。それも大昔のメロドラマかと笑ってしまうような、お粗末で不運なストーリーを。 正の反応もまた忍の予想通りだった。そっと肩に置かれた手がわずかに震えている。頭の中ではいったいどんなドラマが作られているのか。おそらくは自分の失恋と似たような陳腐な境遇だろうが、現実はもっと悲惨極まりない。脳天気に生きてきた彼には想像もつかないほどに。 「そんなこと、言わないで下さい。神様は、ちゃんといます。確かに世の中は嘘で溢れてるかもしれないけど……信じられる人は、絶対にいますから」 まっすぐな曇りのない、純潔な優しい瞳。それは遠い昔信じた人々に、よく似ている。似ているから、踏みにじりたくなる。その腐った妄想から目を覚まさせ、現実の醜さを突きつけてやりたくなる。 「正君、僕の家系はとんでもない悪党の血でね。父は権力のためなら何でもする男だ。例え実の息子が人を踏みつけ利用し地獄に落とし、時に身体を投げ出してもね。いや、むしろもっと狡猾にやれ。もっと足を開けと。……どういう意味か、解るかい?」 そう言い放ったと同時に、忍は試すような瞳を正に向けた。 優しい父親と母親に育てられ、優しい兄に守られて育った心優しい青年。吐き気がする。だがこういう人間を傷つけるのは好きだ。この偽善者を、どうやって地獄に引きずり込んでやろう。決まっている、方法は一つだ。ただ現実を見せ付ければ良い。 「母も同じ、知っていながら見て見ぬふりをする。兄はとうに逃げ出した。姉は何も知らず僕を憎んでさえいる。こんな家族の中で、何を信じろと? 友達を? それとも恋人を?」 案の定、正は驚愕に満ちた瞳をする。信じられないと瞳が語っている。 なんて幸せで、気楽な男だろう。忍は心の内で嘲笑った。 「ああ一時は信じたよ。だが友人は恋人に夢中で気づきもしない。恋人は君のかつての彼女のように裏切りを繰り返す」 言葉にすれば、次から次へと無様な記憶が蘇る。 どんな言葉も優しさも、全て嘘だった。怖いくらいに信じ合っていると信じていたあの頃の記憶も、今となっては全てまやかしだ。この世界は嘘と裏切りに満ち溢れている。信じれば信じるほど、傷は深くなっていくばかりだ。 「こんな中で……信じろと……? どうやって、何を信じろと言うんだ……!」 気が付けばだんだんと呼吸が荒くなるのを、忍は自分でも感じていた。演技だった。演技のはずだった。けれどどこかで何かを間違えた。何を? 何を間違えたのだろう。ただ言葉が止まらない。堰を切ったように溢れる感情が鎮められない。 誰か。誰か。誰か───!!! 「もう……やめて下さい……!」 突然に力強い腕で抱きしめられ、忍は我に返ったように目を見開いた。 「俺……俺は、絶対に裏切りません。だから……」 正の瞳に涙が滲む。熱情のままに唇を塞がれ熱い感触が伝わった。混乱や戸惑いは、一瞬のことだった。 今なら、捕えられる。 忍は本能の内に感じ取る。唇を離して瞳を見つめれば、その誓いは揺るがないものだと確信した。 首に腕を回し、噛み付くように唇を重ねる。髪に指を絡ませる。初めて会った時から、この黒い髪が好きだったと思い出した。力強い腕に抱きこまれれば、いつか優しく自分を撫でてくれた手を思い出す。いつもどこか遠慮がちな瞳も、丁寧な言葉遣いも、穢れのない心も。 もう二度と、逃がしはしない。 共に地獄に堕ちる覚悟があるなら。 引きずり込んで、ずたずたに切り裂いて、欠片一つ残らず食い尽くしてやる。 これを果たして地獄と言えるだろうか。 いや、むしろサンリオピューロランド並にピンク色のごてごてした、甘い甘い夢の世界──。 「忍さん」 「……」 「忍さんってば」 「……何だ?」 「もー、冷たいなぁ。俺のこと、ちゃんと見てて下さい」 思い切りハートが散りばめられた瞳で、そんな虫唾が走るような台詞を言われても。忍は心の中で深くため息をついた。 同時に、さすが兄弟、全くの同類だ。幾度か身体を重ねただけで、何故そうも甘い砂糖菓子のような恋に浸れるのか、全くもって不可解でならない。つくづく幸せに育ってきた奴らなのだと辟易する想いで、忍は正を睨みつけた。 「何度も言うが、俺はおまえと恋愛ごっこする気は微塵も……」 唐突に言葉を唇で遮られ、忍はそれ以上訴える気を無くした。しかも目の前には、幸せいっぱいの正のニヤけた笑顔。馬鹿だ。こいつは馬鹿だ。底なしの馬鹿だ。忍はそう心の中で絶叫して、正の頭を掴み力いっぱい押しのけた。 「痛いですって~。そんな照れなくてもいいじゃないですか。前はあんなに優しかったのに~」 「この際言っておくが、あれは全部演技だ。偽者だ。でたらめだ」 「そうですか? 俺には、本当に見えましたよ」 あっけらかんと言い放つ正を、忍は心地悪い思いで見つめた。 「だって演技で、朝から二時間も並ばなきゃ買えない羊羹くれたりはしないでしょ?」 自信たっぷりに満面の笑みで言われた日には、さすがの忍も返す言葉はなく、頭に満開のお花が咲いたその頭に何を言っても無駄だと悟った。 「それより今日はデートですよ! どこ行きます? ディズニーランド? 豊島園? あ、サンリオピューロランドけっこう楽しいですよ?」 「国会議事堂」 もしかすると、かつての友人以上にとんでもない駄犬を飼いならしてしまったのかもしれない。 絶えず送られてくる熱愛メールを無視しては、以前の恋人に浮気されて当然だと思わずにはいられない忍であった。このままではそのうち長野まで来ると言い出しかねないと思っていた矢先。 「俺、長野に移住します!」 「寺はどうする」 「光流に継がせます」 「あいつが継ぐか」 「何がなんでも継がせます。だから結婚しましょう!」 「おまえはそれを親に言えるのか? 光流に言えるのか?」 「忍さんのためなら家族なんか捨てます!」 色ボケとはかくも最強なものなのか。「家族なんか」。光流には死んでも言えない台詞だろうと忍は思った。だがそれを言ってなお、正には家族に愛される自信があるのだろう。愛情を一身に受けて来た身だからこそ、彼は家族の絆を微塵も疑わない。自分や光流とは、根底にあるものが違いすぎるのだ。 「別れよう。おまえとはこれまでだ」 「ちょっ……酷い! 昨夜はあんなにしがみついてきてくれたじゃないですか! 「好き?」って聞いたら、涙目で頷いてくれたじゃないですか! 最後なんかもっともっとって腰振って……」 公共の場で平然と恥ずかしいことを言い出す馬鹿の頭を、忍は思い切り殴りとばした。誰もしがみついても頷いてもいないし、最後はなかなか動こうとしないから……とそこまで思って違うと頭を振り、忍は正に背を向けすたすたと歩き出した。 すぐに追いつかれ、背後から抱きつかれる。公共の場でもお構いなしだ。馬鹿だ。馬鹿だ。馬鹿だ。最早その言葉しか浮かんでこない忍であった。 久方ぶりに会った若き政治家に、良い顔になりましたねと微笑まれ、忍は眉をしかめた。どういう意味なのか、まるで解らなかったからだ。ただその優越感に満ちた物言いと、どこか人を見下した笑顔が、やけに勘に触ったのは確かだった。 「今日は……どうしたんですか?」 「だま……れ……っ」 忍が腰を上下に揺らし額に汗を流すが、その表情に快楽の色は少しも見られない。慣れない体位のせいだ。ずいぶんと無理をした顔で正を見下ろしていた忍は、いきなり腰を掴まれ目を見張った。間髪入れず下から思い切り突き上げられ、奥の刺激に耐えきれず一際高い声をあげる。何度も突き上げられると同時に腰を深く落とすと、刺激はより一層身体を昂ぶらせ、おかしくなりそうな感覚に見舞われる。それまでのことなど、何もかもどうでも良くなるほどに。 絶頂を極め正の胸に額を落とすと、愛しくてたまらないように頭を撫でられる。その感覚が心地よくてされるままになっていると、不意に正が口を開いた。 「忍さん……俺、やっぱり家族に言おうかと思います」 そう告げられた瞬間、ぼんやりとした意識が急に我を取り戻した。 「それは駄目だ」 突然に怜悧な表情を見せ、忍は言った。 「どうして……!」 さっさと後処理をしシャツを羽織る忍に、正は駄々をこねるような視線を向ける。 「駄目だと言ったら駄目だ。もし勝手な真似をしたら、次は二度と無いと思え」 忍は帰り支度を整えると、命令にも似た口調で言い、正に背を向け部屋の扉を開いた。 あの政治家に会ってからというものむしゃくしゃしていて、つい後先考えず誘われるままに正の家に来て事に及んでしまったが、鬱憤を晴らしてしまえばやはりうかつだったと後悔した。 また面倒なことを言い出さない内に、さっさとこの家を出ようと階段を降りる途中、忍はハッと目を見開いた。 「忍? 何でおまえ……」 「おかえり、光流。以前、正君に借りた本を返しに来たんだ。今日は急いでるからもう帰る。またな」 光流とはろくに視線を合わせないまま、忍は光流の横を通り過ぎ玄関に急いだ。 「忍!」 靴を履いていると突然に強い声で呼び止められ、忍は一瞬肩をこわばらせ振り返った。 「なあ、たまには連絡しろって」 どこか呆れたような声で光流が言う。忍はふっと笑みを浮かべた。 「わかってるよ。忙しくてな。じゃあまた」 素っ気無い言葉だけを残し、忍は玄関の戸口に手をかけた。 「忍さん……! 待って下さいって!」 バタバタと急ぎ足で階段を降りる音と同時に声がして、忍は即座にドアを開いて外に出た。 頼むから変に思われるような行動は慎んでくれ。そう心の中で舌打ちし、さっさと歩を進める。しかし案の定、追いつかれた正に肩を掴まれ行く手を阻まれた。 「誰にも……言いません。だから……」 捨てないでくれと、潤んだ瞳が訴える。こうも健気な一面を見せられると、うっかり情が沸きそうになる。だが彼の望みはあまりにも無謀すぎる。甘い妄想に浸っているだけならまだしも、彼は既に現実を見失いつつある。自分達の関係がどれほど周囲に影響を与えるか、少しも理解していない。純粋な想いなのだから。愛しているのだから。それだけで全てが許されると思っている、身勝手でわがままな子供そのものだ。 「離せ」 今にも泣き出しそうな表情で抱きしめられる。 「キスしてくれたら離します」 その力強さに、忍は心中でため息をついた。 彼は柔軟なようで実は酷く頑固者で、こうと決めて口にしたことは、例えどんな手を使っても必ず強行してきた。人目も憚らず、世間体を気にすることもなく、誰に忌み嫌われようとお構いなしだ。何しろ世界は自分を中心に回っていると疑わない。だからこそ忍にとっては厄介極まりない存在だった。 とにかく今は、一刻も早く納得させて引き離さなければ。苛立ちを隠せないまま、忍は正の唇に唇を寄せた。しかし不思議と強要されている感覚は一切無い。相手があまりにも幼稚すぎる故だろうか。 軽い口付けだけを交わしてさっさと離れようとしたのに、強く抱きこまれて咥内に舌が割り込んでくる。この馬鹿と、目を開いて押しのけようとしたその時、一瞬にして全身が硬直した。 正の肩越しに、唐突に視界に飛び込んできた光流の姿。唇を離した後も、光流はずっと見ていた。心臓が止まるかと思うほどの衝撃を受けたのに、諦めは一瞬だった。知られてしまったのならもう二度と後戻りは出来ない。開き直ることは得意である忍は、正に抱きしめられるままに身を委ねた。さぞショッキングであろう出来事に、光流は一体どういう反応をするのだろう。近付いて来るなら来い。たとえどんな結果になろうとも、おまえが傷つく顔を見るのは嫌いじゃない。 まるで挑むような視線を投げた忍に、しかし光流は平然と背を向けた。そのまま何も言わず家の中に入っていく光流の後姿を、忍は心無い瞳で見つめた。 社交の場ではこれ以上ないほどの作り笑いと見え透いたお世辞と上辺だけの賞賛を。「君のことは忘れないよ」。それが父の口癖だった。 父は知っている。情こそが人を繋ぎ止め、人を従わせる最良の方法なのだと。 信頼を得たいのならば、決して人の顔と名前を忘れてはいけない。だからいつも必ず覚えてきた。何百人といる生徒一人一人の顔。名前。生育暦。特徴。それら全てを把握し、望む言葉を与え、掌握する。誰もが自分を慕い、受け入れ、惜しみない賞賛と愛情を与えてくる。それほど役に立たない相手には手っ取り早く脅しをかける方法も使ってきたが、それもより良い組織を作り上げようとするなら仕方の無いことだ。自らの手を汚さない人間に、賢い者は決して信頼を寄せない。 それらを当然と思うことの、何が悪い。全ては努力してきた結果だ。産まれた時から与えられるものを当然とし、愛されるための努力もせず、愛されてなおそれを簡単に捨ててしまえる、のうのうと生きてきた幸せな人間。おまえが何を知っているというのだ。何を──。 「手、冷たいですね」 ふと暖かい手が重なってきて、いつの間にかずいぶん冷えていたことに初めて気付く。 「早くあったかくなると良いですね」 正がにっこりと微笑む。邪気のないその笑顔は、昔から少しも変わらない。初めて会った時から素直で純朴で、周囲に守られるばかりの甘ったれた少年。あの頃から、弟のように愛しいと思うこともあれば、酷く憎らしいと思うこともあった。今なお相反する心を抱えたままであるのに、忍は迷うことなく正に身を委ねた。 冬が終われば。そういう意味で正は言ったのだ。そしていつか必ず春は訪れ、寒さに震える日は終わるのだと。 彼の前には、いつでも明るい希望しかない。どれだけ時が過ぎても、この刹那の関係が壊れることは決して無いのだと信じて恐れない。無邪気で純粋で、無知で愚かだ。そうと解っているのに。 「……東京にマンションを買った」 忍が呟くように言うと、正が目を見開いた。 「一緒には住めないが、それで我慢できるだろう?」 忍が仕方ないように諭すと、正は信じられないと目を見開き、それから感動に打ち震えたように瞳に涙を滲ませた。 強く抱きしめられる。微塵も隠すことなく喜びを露にする正に、忍はただ身を委ねた。 同情などではない。増して愛情なんかでは決して。ただ、少し。ほんの少し。信じるフリくらいは、してやってもいいと思えただけだ。 例えそれが、一瞬の淡く儚い夢だったとしても。 |
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