蘇生
正がどうにか自制心を保ったおかげで乱闘にこそならなかったが、場の空気は当然ながら酷く重苦しいものだった。 「いつから……ですか?」 瞳がまだ信じたくないと訴えている正の問いかけに、忍は即座に答えることが出来かった。声を震わせる正を前にして、先に口を開いたのは光流だった。 「ずっとだよ」 とうに酔いは冷めたのだろう。光流の瞳は正気だった。けれど態度は酷く投げやりだ。 「高校時代からずっと、俺のもんだ。それをおまえが奪った。だから取り返しに来た」 光流のあまりに意外な台詞に、忍は目を見張った。 「何を言って……」 光流の真意がまるで理解できなかった。つい最近まで、自分達はそんな関係ではなかったはずだ。それなのに、何故そんな嘘を。驚愕する忍の前で、光流は酷く好戦的な目を正に向ける。正もまた愕然と、光流を見つめた。 「いつでもおまえは、そうだったよな。俺の大事なもんあっさりと奪って隣で幸せそうに笑ってる。そんなおまえを横に、俺はいつも諦めるばかりだった」 「な……」 「そうするしかなかったよ。仕方ねぇだろ、おまえの母親はおまえのもんで、おまえの父親はおまえのもんだ。じいちゃんもばあちゃんも。それだけじゃない。着るものも食べるものも遊ぶための玩具だって、全部、本来ならおまえが一人占めして当たり前のもんだった。それを赤の他人が俺が奪ったんだ。だからおまえが泣けば譲るしかなかったし、諦めるしかなかった」 光流のあまりにも思いがけない卑屈な台詞に、正が肩を震わせる。 それは怒りなのか悲しみなのか。ただ信じられないと、何故そんなことを言うのだと、瞳が絶望を語っている。 「なんで……、なんでそんな……!!」 「弟ってのは気楽なもんだよなぁ、正。大して年の違わない俺が、どんだけの想い抱えてたのかも知らねぇで、知ろうともしないで、当たり前だと思ってたんだろ? ずっと一人占めできて当然だと思ってたんだろ? わかるかよ? どれだけ憎かったか、おまえに解るのかよ!!」 「……ざけんな……っ!!!」 突然、正が光流に掴みかかった。振り上げた拳を、力いっぱい光流の頬に叩きつける。 「だから奪ったのかよ!? 俺が……命より大事にしてるもん……だから……!!」 「そうだよ! でももう二度と譲らねぇって決めたんだ! 俺も……俺だって、ずっと、ずっと、自分の命なんかより何百倍も大事なものだったんだ……!!!」 それは血を吐くような叫びだった。 光流の瞳から涙が溢れる。何もかも曝け出した光流の姿は、誰よりも哀れで、惨めで、悲しい。解っていたつもりで、まだ何も知ってはいなかったのだと思い知らされるほどに。忍は胸を打たれる想いで二人の争う姿を見つめた。 「返してくれ……。頼むから……。おまえには、まだ他におまえだけの大事なもん、たくさんあるだろ……? でも俺にはもう、何も……」 光流の目から流れ落ちる涙を見つめながら、忍の頬にもまた涙が伝った。 「何も……」 正が漠然とした瞳で、光流の胸倉を掴んだ手をそっと離す。その瞳にも涙が溢れる。正は立ち上がり、涙を流す光流を見下ろした。酷く悲しみと哀れみに満ちた瞳で。おそらく光流以上に言いたいことはたくさんあっただろう。けれど正は何も言わず光流に背を向け、その場を後にした。 かつて誰よりも輝きに満ち、誰よりも強く、見上げるばかりの存在だった彼は、もうどこにもいない。 あるのはただ、弱く儚い一人の人間の姿だけだ。 「俺は……玩具だったんだな」 静かな部屋の中、ぽつりと言った忍の声に、光流は空虚な瞳を向けた。 「言っただろう、兄弟愛なんて笑わせる。おまえ達は結局、欲しくてたまらない玩具を奪い合ってただけの、身勝手で我儘なガキそのものだ。昔、幼稚園で教わらなかったか?「貸して」。「はいどうぞ」。「ありがとう」」 どこか冗談めいた口調で忍が言う。 「人間だから、そんな簡単なもんじゃねぇんだろ」 玩具だったら、こんな苦しんだりしねぇよ。そう言って、光流は嘲笑した。 確かにその通りだと忍は思った。人間をみんな一緒に仲良く共有だなんて概念、一夫多妻制の国でもない限り受け入れられる訳が無い。 「……本当の兄弟だったら、こんな事にはならなかったのかな」 光流が沈んだ声で言った。忍が少し間を置いてから口を開く。 「いや、同じことだ。俺の姉を見れば解るだろう?」 この後に及んでまだ軽口を叩く忍に、光流は自虐的な笑みを浮かべた。 「血が繋がってるからとか繋がってないからとか、そういう問題じゃない。同じ想いを抱いているから、そこに歪みが生じる。実際の兄弟だって同じだ。庇護してくれる母親を奪い奪われ、生きるための食料を奪い奪われながら、一生争って生きていく。それが兄弟というものだ」 「なんだ……じゃあ、ぜんぜん、普通のことだったんだな」 「ああ。巻き込まれた俺が一番の被害者だ」 自嘲気味に忍は笑った。 「それは……違うだろ。おまえ、ほんと自覚ねぇのな」 光流が呆れたように言う。忍は悲しげに目を伏せた。 自分がそこまで愛されるだけの自信が、忍にはまだ持てないでいたが、二人の想いは真剣に受け止めなければと思った。 結局はこれまで三人三様に積み重ねてきた様々な愛憎が、このトラブルをきっかけに爆発しただけに過ぎない。そこに本当の理由などありはしないのだ。 「俺がおまえを好きになったのに、正はなんも関係ない。ただ八つ当たりしただけだ。おまえが……どうしても欲しくて……。でも、どうしても手に入らなかったから……」 ふと、光流が震える声を発した。それまでの苦悩を全て曝け出す光流を前に、忍は悲しげに目を伏せた。 「諦めることは、出来ないか……?」 「……今なら、解るよ。あの時の、蓮川の気持ち。あの頃は、いいかげんしつけぇって思ったけど、今なら本当に……」 後悔に苛まれた様子で光流は言った。同じように、忍も瞳に後悔の色を宿す。 「ああ……本当に、好きで好きで、たまらなかったんだな……」 誰よりも純粋でまっすぐだった彼の想いに心を寄せれば寄せるほど、懐かしい記憶ばかりが蘇ってくる。 見つめあえばそれだけで、言葉にしなくても解り合えたあの頃に、時が遡る。 「忍……」 頬に暖かい手が触れた。光流の瞳が近付いてくる。忍はそっと瞳を閉じる。静かに唇が触れて離れ、瞳を開けばそこに、よく知った光流の顔があった。 「好き……だよ。ずっと……誰よりも、好きだった……。だから、変わらなきゃだめだって、思った。家族も何もかも、大事なもん全部失ったけど、それでも……」 光流の言葉を待たず、忍は再度自分から唇を寄せた。 守りたい。今、心から思う。 「俺が、ずっと……そばにいる」 忍はそっと光流の肩を抱き寄せる。「俺がついてるよ」。そう言ったら、少しは笑うことができただろうか。でも今は、とても笑うことなんて出来やしない。ここに辿り着くまでに自分達は、命よりも大切な人を犠牲にし、あまりにも多くの罪を犯してきたのだから。 光流が忍の胸に頭を押し付け、涙を流す。まるで母親の胸に抱かれる幼子のように。 静かな部屋の中、ふと、雨音が耳に届いた。 今すぐ傘を持って、追いかけてやりたいと思った。でも、出来なかった。まだ産まれたての赤ん坊を、一人置き去りにしては行けない。例えどんなに胸が痛んでも、心が叫んでも、どうしようもなく愛していても、背負ったものを投げ出すわけにはいかないのなら。 今はせめて、抱きしめよう。 何度も何度も心を殺してきた、この腕の中の小さな命が再び生まれ、生きたいと叫び続けている限り。 会ってすぐに話をしようと思っていた忍の前から、正は突然に姿を消した。実家に尋ねると、しばらく休暇をくれと言って出ていったと聞かされた。寺のこともあり困るが、様子がおかしかったから仕方ないと、正の母親は心配そうに深くため息をついた。今更ながらに彼女に心から申し訳ないと思い、忍は深々と頭を下げた。 落ち着かない日々が続いた。まさかどこかで身を投げたりはしていないか。嫌な予感を抱えるたびに、そんなはずはないと首を振る。光流もまた同じ想いで、共通の知人に正の行く先を知らないか尋ね歩いた。 頼むからせめて連絡をくれ。そう願う忍の携帯に正からの着信が届いたのは、行方が解らなくなって一週間後の事だった。 北海道にいます。来てくれませんか。その無茶な要望に、忍は迷わず応えた。 すぐに飛行機に飛び乗り、以前一緒に泊まった旅館に足を向ける。 そこに正の姿はあった。会えば詰られるかもしれな。もしかしたら殴られるかもしれない。あるいは泣き出すのかもしれない。そんな忍の予想とは裏腹に、正の瞳は酷く落ち着いたものだった。 「外、出ましょうか?」 それどころか静かな笑顔すら見せる正の顔をまともに見ることが出来ないまま、忍は正の後を付いて行った。 北海道にはまだ、たくさんの雪が残っている。吐く息が白い。寒くて指先が冷たい。けれど彼が暖めてくれることはもう二度とないだろう。忍は首に巻いたマフラーで口元の寒さを覆った。 「すみません、こんなところまで来てもらって。でも最後にどうしても、ここで会いたかったから」 最後。その言葉が忍の胸に突き刺さる。 まだ恋人同士でいられた頃、ここに立ち、綺麗な景色ですねと笑った彼の笑顔を思い出す。暖かい温もりと優しいキス。幸福に包まれた時間を思い出す。 「今まで、ありがとうございました。絶対に、幸せになってくださいね」 目の前で、正が穏やかに微笑む。それが正の出した答えだった。 頷くことは、出来なかった。それよりもずっと、同じ台詞を返したかったけれど、それも出来なかった。散々な形で別れておきながら、どうして幸せになれなどと。幸せになるなどと言うことが出来よう。 「俺……俺も、幸せになります。また次の恋、見つけます。だから、大丈夫ですよ」 そんな忍の心中を察したように、正は笑顔で言った。それから、ただ優しい瞳を忍に向ける。 「絶対に、また誰かに恋します。あなたと過ごした日々、本当に、本当に、幸せだったから……」 そう言って微笑む正を、なんて強い男だろうと、忍は思った。 彼なら大丈夫だ。心からそう思えた。 これで全ては終わったのだと、忍は切なさばかりを胸に、正を見つめる。 せめて最後に、触れたいと願った。欲求を堪えきれず、気がつけば忍は自ら唇を寄せていた。しかし触れる寸前に、正が咄嗟に忍の肩を掴み引き離した。 「……離れられなくなるから……」 そう言われて初めて、なんて身勝手な真似をしたのだろうと気付き、忍は己を恥じた。 突然に、正が苦悩に満ちた表情を見せる。忍が目を見張ったと同時に、強い力で抱き寄せられた。 「……ずっと……」 忍の肩に顔を埋めた正の声が震える。 「ずっと、ずっと……いつかこんな日が来るんじゃないかと……怖かった……。光流と一緒にいるあなたを見るたび、怖くて、不安で、苦しくて……!」 堰を切ったように溢れる正の本当の想い。告白。忍は胸を貫かれるような痛みを覚えた。そして己の愚かさを思い知る。 何故、彼なら大丈夫などと思えたのだろう。強い人間などと思えたのだろう。 一体どれほどの痛みを抱え、苦しみ、彼はこの答えにたどり着いたのだろう。 最低だ。そう思った刹那、遠い記憶を思い出す。 ずっと正を裏切り続け、正の友人を選んだあの女と、今の自分と、どこがどう違うというのだ。かつての自分がもっとも蔑んだ最低な人間に成り下がっていたことに、忍は今になってようやく気づく。あの時、吐き気がするほど憎んで、軽蔑した女。けれど彼女もまた、今の自分と同じ想いだったのなら──。 「正……!」 肩越しに正の涙を感じるたびに、どうしようもない罪悪感に苛まれ、忍は正の背に腕を回し強く抱き返した。すまないと、何度も心の中で叫んだ。彼は何も悪くない。ただ純粋に自分を想い、溢れるほどの愛を注ぎ、守ってくれた。それなのに。それなのに。 「ご……め……」 何度謝っても謝り足りないのに、涙が溢れて何も言葉にならない。誰よりも大声で泣きたいのは正のはずで、泣いて全てを無かったことにしようなんて、どこまで卑怯で、愚かで、最低な人間なのだろう。そうと解っているのに、押し寄せてくる悲しみが止まらない。いっそ詰って殴ってくれたなら、どんなに楽だっただろう。心の底から憎まれる方がどれだけ救われただろう。静かに許される事ほど辛い事はないのだと、忍は生まれて初めて思い知る。 「幸せになって……ください」 しがみつくように抱きついていた体を、そっと引き離される。最後まで優しい瞳で、正は言った。 背を向け早足で歩いて行く正を、すぐに追いかけたかった。捕まえて、もう一度、あの力強い手に抱きしめられたいと思うのに、願いは二度とかなわない。そんな身勝手が許されるはずがない。永遠に戻ることのない時が走馬灯のように蘇る。忍は強い胸の痛みと共に、深い後悔と罪悪感に苛まれ続けた。 空港までの道のり。 見覚えのある北海道の景色を眺めると、酷く心が沈んだ。同時に懐かしい記憶が蘇る。 「忍さん、蟹食いましょう、蟹!」 「ラーメン食ったばかりだろう」 「ほんと小食ですね、忍さん。せっかく美味しいもんいっぱいあるのに」 不満げに言う正に、忍は冷めた視線ばかりを送った。 「じゃあ、雪だるま作りましょうよ!」 「何故だ」 まったくもって意味が解らないと、忍は目をすわらせる。雪なんて珍しくもなんともない。ただ寒くて不愉快なだけだ。このうえ雪だるまなんて、冗談じゃない。忍は一刻も早く宿に帰ろうと正に背を向ける。 「もー、そんな怒らなくてもいいじゃないですか~。わかりました、帰って温泉入りましょう?」 「……一緒には入らんぞ」 「せっかく家族風呂選んだのに?」 今の時期予約いっぱいで、選ぶの苦労したんですよ。そう言って、正が嬉しそうに微笑む。それでもまだ不機嫌でいると、そっと抱きしめられて、頬に唇が触れる。 いつも、いつも、そうだった。 どんな我儘にも贅沢にも、正はいつでも笑顔で許し、願いをかなえてくれた。 それなのに、正の我儘を聞いてやったことは一度もなかったように思う。 些細なことで怒って、冷たく背を向けても、正が必ず後を追いかけてくることを知っていたから。どんなに突き放しても、決して見捨てることなく、無償の愛情を注いでくれることを知っていたから。何も恐れることなく自分を曝け出して、傷つけて、甘え続けていられた。 何故、もっと正の望む事を受け入れられなかったのだろう。愛することが出来なかったのだろう。 どんなに腹がいっぱいでも、ラーメンくらい無理にでも付き合えば良かった。 雪だるまだって、一緒に作れば良かった。 一生懸命選んでくれた温泉、素直に喜んでいれば。 本当に好きだったなら、あの笑顔を見ることができたなら、それで何でも受け入れられたはずだった。どんな我儘も身勝手も許せたはずだった。 深い後悔ばかりが、波のように押し寄せてくる。 愛しているだなんて言いながら、いつも一番愛していたのは自分だったのだ。愛してくれるから愛していた、それだけだった。こんな無知で愚かで、どうしようもなく無邪気だった自分を、彼はいつでも許し、愛し、包み込んでくれていたのに。 降ってきた真っ白な雪を見つめ、この雪のように真っ白な子供だったのだと、忍は思う。 いつかこの胸を切り裂くような苦い思い出も、甘く切ない過去の思い出に変えることができるのだろうか。 今はただ痛むばかりの胸を抱きながら、忍は行き交う人々の足跡で汚れた雪の上を、一人歩き続けた。 春が訪れる。心はまだ溶けきってはいない。けれど、容赦なく季節は過ぎていく。痛みも苦しみも、喜びですら、過去に押し流されていく。 「にしても、ド田舎すぎねぇ?」 「そうか? 俺は悪くないと思うが」 「おまえ元々、田舎の人間だもんな」 「ああ、人ごみは嫌いだ」 二人で暮らす場所は、見知らぬ土地にしようと決めた。もう都会に少しも未練はなかった。何にも追われることなく、今はただ二人きりで穏やかな時を過ごしていたい。 山に囲まれた土地で、忍は幼い頃好きだった景色を思い出す。 どこまでも広がる青い空。夕焼け。風に揺れる木の枝。鳥が帰っていく山。全て見上げるものだということに気づく。 いや、あの頃は、見上げるものしかなかったのだ。あまりにも小さすぎて、行く場所も限られていて、共に歩く誰かを自分の意思で選ぶことも出来なくて。けれど、今は。 「ん?」 隣に歩く光流に目を向けると、見慣れた顔で光流が笑う。 そっと手を握られ、握り返す。 自分は選んだのだ。振り返りもせず先を歩く背中ではなく、ずっと繋ぎ続けていられるこの手を。 「あ……今の、八百屋のおっちゃんだ」 自転車で通り過ぎていった相手を振り返り、光流が言った。 全く気づかなかった忍は、記憶を辿る。おそらくたった一度しか行ったことのない八百屋の店主だったのだろうが、思い出してもやはりうっすらとしかその顔は思い出せない。 そういえば昔から、光流は一度会っただけの人物でも、よく顔を覚えていたものだ。 「よく覚えているな」 「ああ、忘れねぇよ」 忍が感心したように言うと、光流は何でもないことのように笑った。 瞬間、ふと思い出す、父親の口癖。 しかし突然に忍の携帯電話が音を鳴らし、思考は閉ざされた。 「もしも……」 「あ、もしもし? そうそう、俺。あ、そーなんだ。わーった、よろしく~」 忍が携帯電話を耳に当てたと同時に、光流に奪われ勝手に会話を終了させられ、忍は眉間に皺を寄せた。 着信の相手はこの地へ来てからの共通の知り合いではあったし、大した用件ではないのは解っていた。だがそれにしても。 「電気屋の息子、あとで冷蔵庫届けてくれるって」 「勝手に人の電話に出るな」 電話を切った後に報告されても、忍の苛立ちは収まらなかった。睨みつけると、光流は飄々とした様子で、忍の携帯電話のボタンを押す。忍が即座に自分の電話を奪い取った。 「あいつ俺に電話しろっつったのに、何でおまえに電話かけんだよ」 光流が低い声を発すると同時に、嫉妬心を露にした瞳を忍に向けた。忍は先が思いやられると浅くため息をついた。 「別にどちらにかけても構わないだろう。冷蔵庫が届くなら、今日は肉や魚も買っていけるな。夕飯は何にする?」 「……おまえ」 ふざけた声を発する光流に安堵しながら、忍は目をすわらせた。 「食いすぎだ」 言ったと同時に、腕を掴まれ引き寄せられる。強引に唇を奪われ、忍は眉をしかめた。この馬鹿と、突き放そうとするが、更に強い力で抱き込まれる。掴まれた腕に痛みが走るほどに。 「い……っ……」 「……言っただろ、もう二度と離さねぇって」 唇が離れ忍が見つめたものは、静かに微笑みながら威圧的な声を発する光流の姿だった。 『忘れねぇよ』 ドクンと鼓動が高鳴り、忍は再び父の口癖を思い出した。 情こそが人を繋ぎ止めるものなら。 何もかも失った光流が、次に求めるものは何なのだろう。もしもあの優しく慈悲深い家族が、この身の内に眠る獣を鎮めるための唯一の鎖だったのならば。 背負っていた全てのものから解き放たれた光流を前に、忍は背後から迫る何かに追い詰められるような感覚に陥るが、すぐに気持ちを切り替えた。 もう後ろ向きな考え方はやめよう。たとえ何があろうとも、守り続けていくと心に決めたのだから。 「早く帰ろうぜ」 光流がいつものように気の抜けた声を発した。忍は安堵し表情を緩める。 ふとカラスの鳴く声が耳に届き空に目を向けると、カラスの大群が群れをなして山へと帰っていく。 同じように家に帰ろうと足を踏み出すと、道端に黒い影を見つけた。カラスの死骸かと思ったが、羽根を広げようと懸命にもがいている。どうやら怪我をしているらしいそのカラスに、忍は歩み寄った。カラスが小さく鳴き、身を震わせている。一瞬迷った後、忍はそっとカラスを抱き上げた。 「ここらへんに、獣医ってあんのかな」 光流もまたカラスにそっと触れ、やや焦った様子で携帯を取り出し、知人に動物病院の居場所を尋ね始めた。 今にも息絶えそうなカラスを優しく包み込み、忍は心の内で懸命に訴える。 怪我が治っても、もう二度と飛ぶことは出来ないかもしれない。飛べたところで、辛く苦しい自然の掟が待ち受けているだけかもしれない。このまま死なせてやった方がずっと幸せなのかもしれない。けれど、まだほんのわずかでも可能性があるのならば。 (生きるんだ) 果てしなく広がる大空で自由に飛ぶ姿を、地上から見上げていたい。 |
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