悠久の水底<中編>
つまらない。
客と共に延々と仕事の話をし続ける父と兄。部屋にこもって勉強ばかりしている姉。接待の準備に忙しい母。
どうせ声をかけても「後で」で終わるだけだから、一人家を抜け出し、歩いて歩いてたどり着いた湖のふもとで、忍は彼に出会った。
「……何、してるの?」
湖の水を両手ですくっては、あっという間にこぼれていくが、また両手で水をすくう。そんな無意味なことを繰り返す同じ年頃の子供に、忍はそっと声をかけた。初対面の相手に自ら声をかけるのは初めてだった。けれど、どうしても気になって。
振り返った相手は、今までに見たことがないほど、綺麗な顔をした子供だった。大人びた瞳も、今まで見てきた同じ年頃の子供とは明らかに違う。目が合った途端に柔らかく微笑みかけられ、何故だか忍は安堵にも似た感覚を覚えた。
次の日も、その次の日も、泉と名乗ったその子供は、いつも同じ場所にいた。まるで忍が来るのを待ち受けていたように。
彼はいろいろなことを知っていた。草花の種類。虫の習性。星の名前。忍も知っていることは多かったけれど、知らなかったことも多くて、同じ年頃の子供に教えられることなんて初めてだったから、ただ真剣に泉の声に耳を傾けた。
彼の穏やかな声はずいぶんと耳に心地よかった。
その日も湖の周辺で泉と一緒に遊んでいたら、旭が迎えにやってきた。
「良かったな、友達ができて」
手をつないで別荘までの道を歩きながら、旭がどこか嬉しそうに言う。
友達。
その言葉が、それまでそんな存在とは無縁だった忍には、なんだか少しくすぐったかった。
早く、明日になればいいのに。
そう心で呟いて、忍は旭の手をぎゅっと握り締めた。
もう、明日には帰らなきゃいけないんだ。
そう言うと、泉は少し寂しげな顔をした。胸がチクリと痛んだ。
「僕のこと、忘れないでいてくれる?」
尋ねられ、少しの間を置いて、忍は小さく頷く。
泉はズボンのポケットから、何かを取り出した。手の平に乗せられていたのは、半分赤で半分透明の丸い球体。よく街中で見かけられる、小銭を入れるとカプセルに入った玩具が出てくる、ガチャガチャと呼ばれる代物だった。だが、カプセルの中には何も入っていない。
「君の宝物、今日の夜、これに入れて庭のどこかに埋めておいて。また会った時に、一緒に探せるように」
いつもと同じ穏やかな口調で言った泉の手から、忍はそのカプセルを躊躇うことなく受け取った。
「忍!」
迎えに来た旭に呼ばれ、忍は泉の顔を見つめる。もう一度、泉は優しく微笑んだ。
「またね、忍くん」
「……また」
小さくそう言って、忍は旭の元へ駆け出した。
振り返りたかったけれど、胸がぎゅっと締め付けられて、もう一度、泉の顔を見ることが出来なかった。
かわりに、手に持ったカプセルを、ぎゅっと強く握り締めた。
宝物。
考えても考えても、そんなものはどこにも無かった。
欲しかったものも、大切なものも、失いたくないものも、何も無かった。
庭の片隅で座りこんだまま、忍は空虚な瞳でカプセルを見つめる。
どうしよう。
何も無い。
何も、無いんだ。
不意に、瞳から涙がこぼれた。自分でも驚いた。
ポタリとカプセルの上に涙が落ちたその瞬間。
「忍くん」
突然、背後から聞き覚えのある声がして、忍は咄嗟に振り向く。
そこには泉の姿があって。忍は立ち上がり、涙に濡れた瞳で泉を見つめる。泉は忍に歩み寄り、そっと指で忍の涙を拭った。
「どうして泣いてるの?」
「入れるもの……何も、無いんだ」
「大事なもの、何も無いの?」
優しく尋ねられ、忍は頷く。
「だったら、僕と一緒においでよ」
暗闇に浮かぶ、いつもと違う、酷く心無い泉の瞳。
泉がすっと忍に手を差し伸べた。
「一緒に、いこう」
だめだって、心の中で声がした。
それなのに。
「……うん」
差し伸べられる手に、忍は自分の手を重ねた。
そのまま強い力で握り締められ、引っ張られる。手の中のカプセルが地面の上に転がり落ちた。
手をつなぎ無言のまま連れて行かれたのは、いつも泉が座り込んでいた湖のほとり。
泉は無表情のまま、躊躇うことなく湖の中に足を進める。忍の手を強く握り締めながら。
「どこ……行くの?」
腰まで水につかったところで忍が尋ねると、泉は立ち止まり、忍の顔を見つめる。
「怖い?」
忍は一瞬怯んだ。
怖いと言ったら、そのまま消えてしまいそうな瞳だった。だから、言えなかった。
初めての「友達」。
消えてしまうくらいなら。この手を離すくらいなら。このまま……。
返事の代わりに、強く泉の手を握り締めた。
そうしたら、泉は優しく微笑んで。
抱きすくめられたと同時に、水の中に引きずり込まれる。
「……っ……!!」
口に、鼻に、容赦なく水が入り込む。息が出来なくなる。それでもなお、強い力で水底へ引きずりこまれる。
苦しさのあまり顔を歪めると、ぎゅっと強く抱きしめられた。
「大丈夫だよ。僕が、ずっと……・」
けれどもう、耳元で囁かれる声が遠い。
「忍!!」
不意に、聞き覚えのある声が耳に届いた。
意識を失いかけたその時、腕をつかまれ、強く引き上げられる。
力強い腕に抱き寄せられたその瞬間、忍は意識を失った。
旭に手をひかれ、ずぶ濡れになったまま別荘に戻ると、姉の渚が血相を変えて忍に詰め寄る。
「忍! こんな時間にどこ行ってたのよ!? 心配したんだからね!?」
怒りを露にする渚に、忍は無表情のまま応えた。
「心配してくれなんて頼んでませんよ」
子供らしくない表情で冷徹にそう言い放つと、忍は旭の手を退け、バスルームにむかっていく。渚がそんな弟の後姿を見つめ、わなわなと肩を震わせた。
「ちょっと忍っ、あんたせっかく人が心配してやってんのに、その態度はなによっ!!??」
怒声をあげるが、家族に無関心な弟はまったく聞いちゃいなかった。
「まあいいじゃないか渚、無事だったんだから」
「だって兄さん、私、本気で……!!」
旭が困ったように妹を宥めるが、渚は納得いかないように喚き続けるばかりだった。
静まり返った家の中、布団の中に潜り込んで身を丸くしても、どうしても眠れなくて。
そういえばと思い出して、家の外に足を向ける。
庭の隅から隅まで探し回ったけれど、どうしても見つからないでいると、目の前にぼんやりと人の姿が浮かび上がる。
はっきりと形を成したその人物は、にっこりと優しい笑みを忍に向けた。
「カプセルなら、僕が埋めておいたよ」
少しの間を置いて、忍が口を開く。
「でもまだ、何も入れてない」
無表情のままに忍は言った。
「入れておいてたよ。君の大事なもの」
「そんなもの、どこにも無いって言った」
「あるよ」
「……どこに?」
尋ねるが、応えないまま泉は微笑んだ。
「君が僕を忘れなかったら、その時に、一緒に探そう」
その姿が、ゆっくりと闇の中に透けていく。
「約束だよ、忍くん」
「待って……!!」
思わず手を伸ばした瞬間、泉の姿は闇の中に消えて姿を失った。
待って。
待ってよ。
もう、連れて行ってはくれないの?
そう心の中で問いかけた忍の瞳から、涙が一粒、地面の上にこぼれ落ちた。
精神統一。
人間、何事も成せば成る。
「いくぜ、特技!」
きょとんとする泉を前に、光流は勢いよく両手を合わせ、目を閉じ念仏を唱える。
が、目の前の相手は平然としたもので。光流の眉がしかめられたと共に額に汗が流れた。もはや精神統一も何もあったものじゃないようだ。
「へえ、君、意外に信心深いんだね? お経唱えられるなんて凄いなあ」
「てめーはホントに幽霊か!!??」
なんだか急に忍に騙されているような気になり、光流は思わず声を荒げた。
「残念だけど僕、生前はキリスト教徒だったから念仏は効かないんだ」
「なにその理屈?」
光流は目をすわらせる。
「念仏で癒されるなら、僕も苦労はしないんだけどね」
「苦労って……幽霊に何の苦労があるんだよ?」
「苦労の塊だよ、幽霊なんてみんな」
泉は飄々と言い放つが、当然ながら生きている人間である光流に理解できるはずもない。
「あいつ……思い出したいって言ってた」
「何を?」
「おまえとした約束を。……約束って、何だ?」
光流が尋ねると、泉はふっと微笑する。
「彼は……優しい子だよね、本当に。昔からちっとも変わってないよ」
「何で、あいつなんだ?」
「彼が僕と一緒に来ることを望んでいるからだよ」
「あいつはそんなこと、望んじゃいねぇ!」
「そうかな? 今もまだ、彼は寂しがってるよ。だから僕との約束を思い出したがっているんだ。本当に今が寂しくなければ、過去にこだわったりはしないはずだよ」
「違う」
光流はキッパリと言い切った。泉が神妙な瞳を光流に向ける。
「おまえのために思い出そうとしてるんだ。あいつは……そういう奴だ」
真剣な表情。泉もまた真摯に光流を見つめる。
「明日……帰るんだよね」
ふと泉は光流から目をそらし、背を向けて尋ねる。
「だったら今夜が勝負だ。僕は今夜、彼を連れて行く」
冷たい声色でそう言うと、泉は歩き出して少し離れた場所にいた後輩たちに足を向けた。何も知らない後輩たちは明るい笑顔を泉に向ける。
光流は意思の強い眼差しで、前を見つめた。
「もう明日帰らなきゃならないなんて、つまんないな~」
湖に足を浸しながら、瞬が寂しげに言った。仕方ないだろと言いつつ、蓮川もどこか寂しげだ。
「君たち、知ってる? この湖って実は心霊スポットなんだよ」
そんな二人に、泉は笑いながらそんなことを言った。途端に蓮川と瞬は「え?!」と顔を青ざめさせる。
「だからむやみに足突っ込んだりしない方がいいよ。引きずり込まれちゃうからね」
からかうような泉の言葉に怯え、瞬が慌てて湖から足を引き上げた。
「特に一人、タチの悪い幽霊がいてね。もう何人もの人がそいつに引きずり込まれてる。だから地元では近づいたら駄目だって有名な場所なんだ。その証拠に、ちっとも人がいないでしょ?」
「えーっ、そーいうことは早く言ってよ~!!」
「あ、なんか俺、急に凄い鳥肌が……」
背筋がゾクッとする感覚と共に、蓮川が顔を青ざめさせる。
「もし引きずり込まれたら、どうする?」
「どうもこうも、死にもの狂いで抵抗するしかないじゃないですか」
考える余地もないといった風に蓮川が言った。
「じゃあもし、大事な人が引きずり込まれたら?」
「大事な人?」
「例えば……そう、君達が大好きな、あの先輩達とか」
そう言って、泉はやや遠く離れた場所で何やら話しをしている光流と忍に人差し指を向けた。
「あー、それは無い無い。そう簡単に引きずり込まれるような人達じゃないですよ」
蓮川が目を据わらせ、まるで当たり前のように言う。
「あははは、言えてるー。逆に引きずり込まれちゃうよね、先輩達なら」
「そっか、そうなんだ」
あくまで明るい二人を前に、泉はクスリと笑った。
「そうだ、一つ、賭けをしない?」
「賭け?」
「昔、忍くんの別荘の庭に、ある物を埋めたんだ。それを、見つけて欲しい」
泉の言葉に、蓮川と瞬は顔を見合わせてきょとんとした表情をする。
「もし見つけてくれたら、素敵なものを見せてあげる。でも、もし見つけられなかったら……」
ふと、泉が突然、それまでとは違った冷笑を浮かべる。
「君たちの大切なもの、僕がもらうよ」
言ったと同時に、泉がその場から瞬時に姿を消した。
蓮川と瞬は同時に表情を固まらせる。そして一瞬の間の後。
「先輩~~~~~っ!!!!!」
二人同時に顔を真っ青にして、大絶叫と共に光流と忍の元に駆け寄ったのだった。
別荘に帰ってからも、後輩二人は延々と喚き続け、光流はややうんざりした表情を浮かべる。
「どうしてそういう大事なことを教えてくれないわけっ!?」
「そうですよ! 知ってたんなら教えて下さいっ!!」
「あー……うるさいうるさいっ!! 俺だって昨夜知ったばっかなんだよ!! 文句は忍に言え!!」
光流に怒声をあげられ、蓮川と瞬は恨みがましい目つきを忍に向けた。が、それ以上文句を言えるほどの度胸もないようだ。
「まったくロクなことない……っ。やっぱ先輩たちと一緒に旅行になんか来たのが間違いだったんだ……っ」
握りこぶしをふるふると震わせ、蓮川が言った。
「どういう意味だ」
光流が眉をしかめる。
「類は友を呼ぶって前にも言ったでしょう!?」
「まあまあすかちゃん、明日には帰れるんだし」
怒りを露にする蓮川を、瞬が宥める。
「でも最後に言ってたことが気になるなぁ……」
「何だ? 最後に言ってたことって?」
「賭けをしようって、言われたんだ」
「賭け?」
「昔、ここの庭に何かを埋めて、それを見つけて欲しいって」
「あー、そんなんもうどうでもいいよ。明日には帰るんだし。っていうか、俺はもう関わりたくない!!」
「はいはい、落ち着いて。そーだね、明日帰るんだし、もう構わないよね」
「あ、ああ、そうだな……」
確かにこれ以上、必要以上に関わるのはあまりにも危険だし、後輩たちに余計な危害は加えたくない。光流は瞬の意見に同意した。
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