悠久の水底<後編>
また、水音がする。
「……泉」
誰かが呼んでいる。
でも、自分のことじゃない。
「泉!! これ、見てみろよ?」
違う。夢を見てるんだ。
意識がなだれこんでくる。
これは……誰の記憶?
「なーに? お兄ちゃん……」
「ほら、おまえの欲しがってたカプセル、やっと出てきたぞ!!」
「あ……凄い! やった!! お兄ちゃん、ありがとう!!」
カプセルを手に握り締め、嬉しそうに笑い合う、少し年の離れた兄弟。
兄は弟をよく可愛がった。弟はいつも兄の後に着いて回った。どこに行くにも、何をするにも、二人はいつも一緒で。周囲に「仲が良いね」と言われても何も思わないほど、いつも一緒にいることが二人にとっては当たり前だった。
時々は、喧嘩になることもあったし、ずっと顔を背けている一日だってあった。そんな時は、大概、兄が先に弟に声をかける。仲直りするのに、少しも時間はかからなかった。本当は二人とも、ずっとずっと、仲直りしたいと思っていたから。
「凄いじゃない、泉! また満点!!」
兄弟の母親の声。大袈裟なまでに嬉しそうな。
「お兄ちゃんも、もう少し頑張らないとね」
87点。決して悪くはない点数。けれど母親は不満そうだ。
「どうしてあなたはもっとハッキリ自分の意見を言えないの? 見てて苛々するのよ!!」
母親は時折、酷くヒステリックに兄を怒鳴りつけた。
「……お兄ちゃん、一緒に寝ていい?」
ベッドの中で一人涙をこぼす兄に、弟がそっと声をかける。
兄は慌てて涙を拭って、「いいよ」と自分の布団の中に弟を招き入れる。
寄り添いながら、兄弟は眠りに落ちていく。
二人だけの静かな世界の中で。
「お兄ちゃん、カブトムシ、採りに行こうよ? 昨日、約束したよね?」
「ああ……ごめん、今日は忙しいから、また明日な」
軽く苛立ちを見せる兄。
「でも、約束、したのに……」
「うるさいな! 今忙しいって言ってるだろっ?」
肩を震わせる弟。
「兄ちゃん今、必死で勉強してるのわからないか!? いいよな、おまえは! わざわざ勉強しなくたって、いくらでも良い点数とれるもんな!!」
兄の言葉にショックを隠しきれない顔をして、弟は部屋を飛び出す。
すぐに、兄は弟の後を追った。
肩を掴み引き止めると、振り返った弟の目に涙が流れていて、すぐさま兄は弟の身体を抱きしめる。
「ごめん……ごめんな、泉……っ」
抱きしめた兄の瞳から、涙が溢れた。
弟もまた、首を振りながら泣き続ける。
僕がいるから、お兄ちゃんが苦しむんだ。僕がお兄ちゃんを苦しめてるんだ。
違う。俺が悪いんだ。俺がお母さんの期待に応えられないから。おまえは何も悪くない。俺が悪いんだ。
子供たちは、ただ、自分を責める。他の誰でもなく、ただ、自分だけを。
二人で、どこか遠いところに行こうか。
誰も自分たちを比べない、誰にも邪魔されずに遊べる、どこか遠い、遠いところへ。
兄弟は森の中を歩き続ける。真っ暗な夜道を、ぎゅっと手を握り締めながら。
ねえお母さん、どうして分かってくれないの?
僕だって頑張ってるんだよ。頑張っても頑張っても、これ以上、出来ないんだ。なのにどうして、駄目だなんて言うの? そんなに僕が嫌いなの? 僕なんかいらなかった?
それとも。
それとも、この弟がいるから……?
この子さえいなかったら、お母さんはもっと、俺を愛してくれた……?
ごめんね、お兄ちゃん。
僕なんか、生まれてこなければ良かった。
そうしたら、お兄ちゃんはもっと、幸せだったのかな?
僕さえいなければ、お兄ちゃんが泣くことはなかったのかな?
「一緒に……いこう」
「うん……」
二人は手をつなぎ、湖の中に身を沈めていく。
全身が水の中に潜り込んだその時。
「……っ……」
突然、兄の手が弟の首を締め付けた。弟の顔が苦しげに歪み、口から大量の空気が泡となって噴き出す。
やがて力の抜けた弟の身体が、水底に沈んでいく。
ゆっくり閉じられていく瞳が、遠ざかっていく兄の姿をただ見つめる。手を伸ばしても、もう届かない。
(お……兄ちゃ……)
沈んでいく。
深く暗い水の底に。
どうして?
どうしてなの?
一緒にいこうって。
ずっと手を離さないって。
ずっと、ずっと、一緒だって……。
だから僕は……。
心が悲鳴をあげる。崩れていく全て。
悲しい。
ただ…………悲しい。
「う……あああぁぁぁぁっ!!!!!」
這い上がった湖のほとりで、兄は地面に四肢をついて叫んだ。拳に血が滲むほど何度も地面を叩きつけながら、ただ、叫び続けた。
世界の全てが砕け散る音を聴きながら。
『おまえが……おまえさえいなければ……、俺はこんなに……!!!』
この声は……違う。泉の兄じゃない。
(兄さん……)
やめろ。やめてくれ。
違う。これは泉の記憶だ。自分のものじゃない。
『何故なんだ父さん……ずっと、ずっと、僕はあなたのために必死で頑張ってきた……!! それなのに、なぜ弟を選ぶんですか!?』
(兄さん……!)
『どうしてなんだ!! どうして……!!!』
(僕は……僕は、選ばれたくなんかなかった。それよりも、ずっと、ずっと……)
『おまえがいなければ……!!』
(僕がいなければ……)
やめてくれ。
もう思い出したくない。
思い出したくない……!!!
「僕なんか、生まれてこなければ良かった」
『僕なんか、いなくなればいい』
交差する、二つの記憶。
暗い闇の底へ沈んでいく。
そこにあるのは、無限の闇と、水音だけ。
「絶対、連れてなんか行かせねぇ」
なんだかやたらと気合を入れた様子でベッドの上に胡坐をかく光流をよそに、忍はあくまで平然とした様子でパジャマに着替える。
すぐにでも帰りたいという後輩達はどうにか落ち着かせて寝かせたが、この男だけはどうにも落ち着かない。気合をいれたところで、得意の念仏も効かなかったというのに、霊相手に何をどうするというのだ。忍は小さくため息をついた。
「いいからもう寝ろ」
「何で肝心なおまえがそう落ち着いてんだよっ。おまえ自分が狙われてるって自覚あるのか!?」
「この俺が安々と殺されるはずないだろう」
「だからその根拠のない自信はなんなんだよっ! だいたいおまえ、自分があーいうのを引き寄せてるって分かってるのか!?」
「そんなの俺のせいじゃない」
あくまで無表情に言う忍を前に、光流はがくっと肩を落とす。
「おまえ……ほんっと、何も分かってねぇんだな」
呆れた口調。しかし忍は本気で分かってないようにきょとんとした表情をする。
だめだ。やっぱりこいつはだめだ。危なっかしくてとてもじゃないけど放っておけない。そんなことを思いながら、光流はそっと忍の肩を抱き寄せる。
「強くなれよ、忍。あんなのが近づけないくらいにさ」
優しく耳元で囁く。忍は抱きしめられたまま応えない。
光流は忍の肩を掴んで引き離し、今度は真剣な目で忍を見据える。
「あいつがおまえを見つけたんじゃなくて、おまえがあいつを見つけたんだ。分かるか?」
「……だったらおまえに、俺の心が分かるのか?」
忍は光流から目を逸らし、苦しげな瞳で言った。
「忍……!」
「何も無かったんだ!!」
突然、忍は激情を露に、光流の手を払いのける。
「あんなものにでも縋りたいくらい、俺には何も……!!」
忍がそう叫んだ瞬間、部屋の明かりが突然消え、周囲が暗闇に包まれた。
二人は目を見開き、辺りを見回す。それからすぐに二人同時に立ち上がって、後輩達の部屋にむかった。
「停電……ですか?」
「いや、違う」
恐怖を露にする蓮川を前に、忍が低い声を放つ。蓮川はますます表情を青くした。
予感は即効で当たった。
真っ暗な部屋の中、ぼんやりと白い影が姿を現す。蓮川と瞬が「ひゃっ」と奇妙な声をあげ寄り添った。
「なんかショックだなぁ、幽霊ってわかった途端にそんなに怖がられちゃうと」
はっきりと姿を現した恐怖の源は、怯える2人とは対照的に、思い切り能天気な口調で明るい笑顔を浮かべる。
「僕たち、友達じゃなかったの?」
「幽霊と友達になった覚えはありませんっ!!!」
「泉さん~、お願いだからこーいう怖いことやめてよ~っ」
「あ、停電? これはホントにただの停電で、僕のせいじゃないよ?」
「へ? そうなんですか?」
途端に蓮川が気の抜けた声をあげた。
「そんな怖がらなくても、君たちを引きずり込もうなんて思ってないから大丈夫だよ。というか、引きずり込めないな、君たちのことは」
「え……?」
「だって僕のこと、怖いでしょ?」
「そ、そりゃ、だって、幽霊ですから……!」
詰め寄ってくる泉に、頼むから近寄らないでくださいとばかりに、蓮川は後ずさる。
「だよね。普通、怖いよね。でも、怖くない人もいるんだ」
ふと瞳を鋭くして、泉の目が忍を捕らえた。
「怖がらない人しか、連れていけない。だから彼を、連れて行くね」
「え……」
蓮川が目を丸くした瞬間、泉が忍に近づいたかと思うと、すっと姿を消した。
刹那、忍の顔に冷笑が浮かび上がる。
「言ったでしょ? 見つけてくれなかったら、君たちの大切なものをもらうよって」
忍が低い声を放つ。けれどそれが忍の言葉でないことは、三人ともすぐに理解した。
「忍……!」
突然、その場から走り出した忍を、咄嗟に光流が追いかける。蓮川と瞬も後に続いた。
玄関を出て、庭先から足を踏み出そうとしたその瞬間、蓮川と瞬が何かに弾き飛ばされたように地面の上に倒れ込んだ。
「何これ……っ!?」
忍と光流の姿が遠ざかっていく。後を追おうとしても、見えない壁に阻まれ、それ以上先に進むことが出来なかった。今度は停電と違って間違いなく泉の仕業であろう出来事に、蓮川と瞬は動揺を隠せない。
「ど、どうしようすかちゃん! このままじゃ先輩達が……!!!」
「……探そう」
「え……?」
突然、蓮川が立ち上がって庭の隅に向かい、両手で土をかき分け掘り返す。
「すかちゃん、何やってんの!?」
「あいつが言ってただろ!? この庭に何か埋めたって! それを探すんだよ!!」
言いながら、蓮川は真剣な目で土をかき分ける。
瞬もまた深刻な目をして、「分かった」と頷いた。
「忍……っ!!」
走って走って走り続けて、ようやく忍の手を掴めたのは、湖のほとり。
心無い人形のような表情をした忍が振り返る。
「忍から出て行け……!!」
「……どうして僕があっさり乗り移れたか、分かる?」
忍の口から、忍のものではない言葉が漏れる。
「君が彼を傷つけたからだよ。彼が咄嗟に心をガードできなかった理由は」
「うるせぇ!!」
「君は、残酷だね。彼に「強くなれ」なんて、僕には言えない」
冷たい瞳。冷たい声色。そしてどこか悲しい。それはどこか、忍の抱える悲しみの色に似ている。
「教えてよ。どうやって、強くなればいいの? 何も無いのに、生きている意味がわからないのに、死ぬことが怖くないのに、どうやって強くなれるの? 最初からそれを持っている君に、僕たちの何が分かるの?」
「黙れ……っ! あいつはおまえとは違う!!」
「違わない。彼は僕。僕は彼だよ。その証拠に、彼が僕を見つけてくれた。彼が僕を望んだ。君を……拒んで」
突然、忍の腕が光流を抱きしめた。そのまま物凄い力で、湖の中に引きずり込まれる。
「違うと言うなら、証拠を見せてよ。一緒に……いこう」
忍の声が泉の言葉でそう囁いた刹那、二人同時に水の底に潜り込む。
離さない。絶対に。そう心で叫び、光流は忍の体を抱きしめる。そのまま二人、暗闇の中に沈んでいく。
どうにか浮かび上がろうとしても、鉛のように重い忍の体がそれを許さない。
息が出来ない。苦しい。このまま死ぬのかもしれない。
だけど、離すくらいなら。連れていかれるくらいなら。たとえこのまま共に湖の底に沈んでも。
(しの……ぶ……)
意識を保つ限界を感じ、せめて最後にと思って、光流は忍の唇に唇を寄せる。助けられなくてごめん。言葉の代わりにキスで訴える。
唇が離れたその時、突然、強く腕を捕まれた。そのまま胸元に引き寄せられる。けれどもう意識は限界で。
光流は目を閉じ、暗闇の中に意識を投じた。
「光流……光流……っ!!」
頼むから、目を覚ましてくれ。
湖のほとりで、体を横たえる光流に何度も息を吹きかける。胸を押す。何度目かの心肺蘇生の後、光流がようやく水を吐き出し、同時に目を開いた。
ほっと安堵した忍の瞳を、呼吸を落ち着かせた光流がまっすぐに見据える。それからそっと、忍の首に腕を回して胸の上に引き寄せた。
「サンキュ……助かった」
「それはこっちの台詞だ、馬鹿」
「……うっせーバカ」
やや怒りを含んだ声色と共に、光流は忍を抱く腕に力を込める。
しばらくの間、静寂が二人を包み込んだ。
「何も無いってことは、ねぇだろうよ」
静かな光流の声。忍は抱きしめられたまま、酷く悲しげに睫を伏せた。
「ちゃんと、助けてくれた人、いただろ……?」
優しさばかりを含んだ声色で光流は言う。
「今だって、おまえが手を伸ばせば、助けてくれる奴ら、いっぱいいるじゃねぇか」
「……伸ばし方が、わからない」
抱き寄せられたまま、忍は切なげな瞳で小さく声を発する。
「ちゃんと俺が教えてやる。だから、もうどこにも行くな」
力強いその言葉に、忍は悲しさを宿した瞳で頷いた。
溢れてくる心のままに、光流の頬に手を寄せ、唇を重ねる。触れるだけのキスの後、突然、光流が勢い良く上半身を起こした。
二人一緒に立ち上がると、光流はいつもの笑顔を忍に向ける。
「帰ろうぜ。あいつら、心配してる」
「ああ」
静かに応えて、湖に背をむけようとしたその時、湖の水面上に白い光が浮かび上がった。二人は浮かび上がる姿に真摯な目を向ける。
「……さよなら、忍くん」
はっきりと浮かび上がったのは、小さな子供の姿。悲しみばかりを宿した瞳。
「なあ、おまえのこと、助けられねぇのか?」
光流がそっと小さな姿に問いかける。泉は首を横に振った。
「僕を助けられる人は、もうこの世界のどこにもいない。たった一人の彼は……とうに狂って自ら命を断ったから」
穏やかな声でそう言うと、泉は透き通るように綺麗な眼差しで忍を見つめる。
「君は、僕みたいになっちゃ駄目だよ」
優しい笑みを浮かべる泉の姿が、徐々に儚く消えていく。
「僕を見つけてくれて、ありがとう、忍くん」
最後の言葉と共に、泉は暗闇の中に姿を消した。
何も無い湖をただじっと見つめる忍を、光流はやや複雑な想いで見つめながら時を待った。
「帰ろう」
長い静寂の後、忍は静かにそう言うと、湖に背を向け歩き出した。その後に、光流も続いた。今すぐ抱きしめたい衝動を必死で抑えながら。
服も手も顔も土まみれで、それでも二人はまだシャベルで庭のあちこちを掘り続ける。
「見つからないね……」
「諦めるなっ!」
「でも何を埋めたかもわからないのに、何を見つけたらいいの~?」
「んなのやってみなきゃわかんないだろっ!!」
「わかりました。頑張ります」
やれやれと息をついて、瞬は再びシャベルを手にとった。地面にシャベルを突き刺したその時。
「おまえら、何やってんの?」
突然背後から声をかけられ、二人はぎょっとした表情で振り返る。
「先輩っ、無事だったんですか!?」
「おう、この通りピンピンしてるぜ」
ずぶ濡れにはなっているが、まるで普段と変わらない光流を目前に、蓮川がガックリと肩を落とした。そしてシャベルを地面に投げ捨てる。
いったい今までの苦労は何だったんだとばかりに、蓮川は深くため息をついた。
「もーっ!! 心配してたんだよ!!?? いったい今まで何やってたの!? 泉さんは!?」
その隣で瞬が勢い良く喚きたてる。
「おまえらによろしくって消えてった」
「何それ!? あの賭けはなんだったのー!?」
瞬が怒りを露に叫ぶ。
「賭けって何だよ?」
「泉さんが昔この庭に大事なものを埋めて、それを見つけてくれたら素敵なものを見せてくれるって。でも見つけられなかったら、大切なものをもらうって。だから先輩たちが連れていかれたのは僕たちがそれを見つけなかったからだと思って、必死で探してたのに、先輩達ときたら全然余裕で帰ってくるし、もうわけわかんないよっ!!」
「あー……そりゃ悪かったな。で、なんか見つかったのか?」
苦笑しながら光流が尋ねると、瞬は涙目のままふるふると首を横に振る。
「見つかんなかった。ガチャガチャのカプセルが一個出てきただけで」
言いながら、瞬はポケットから半分赤色のカプセルを取り出す。
それを目前にした瞬間、忍が目を見開き、そのカプセルを瞬の手から取り上げた。
手に握ったカプセルを真顔で見つめる忍を、瞬が怪訝そうに見つめる。
次の瞬間、忍の瞳から涙が一粒こぼれて、瞬は目を丸くした。その横で、同じように蓮川も驚愕を隠せず顔を青くする。
「せ、先輩っ、どーしたの!?」
あたふたする後輩二人をよそに、光流が乱暴に忍の顔をがしっと掴んだ。
「なにおまえ、目にゴミが入ったのか?」
「……ああ」
「しゃーねーな、洗いに行くぞ。おまえらもさっさと風呂入って寝ろよ、明日早ぇんだから」
光流は横暴なまでの口調でそう言うと、忍の手を引いてさっさと家の中に入っていく。
まるでわけがわからないままに、蓮川と瞬は顔を見合わせた。
「寝よっか、すかちゃん」
「……ああ」
気の抜けた瞬の声に、蓮川も気の抜けた返事を返す。
本気で何だったんだ。そう思わずにはいられないまま、二人は荒れまくった庭を背に、すごすごと家の中に向かったのであった。
「何で俺が泣くと驚くんだ」
「驚くに決まってるだろーがっ。俺だって驚いたわ!!」
即効でフォローしたものの、実は光流も内心かなりてんぱっていたわけだが、当人はさっきの涙はなんだったんだというほど至って平静である。
「で、なんで泣いたりしたんだよ?」
「さあ?」
「おまえなぁ……」
ホントにわけがわからない奴だと、光流が頭を抱える。
「ただ、思い出したんだ」
ベッドの淵に腰かけ、忍は手の中のカプセルを見つめる。その瞳はどこか切なげだ。
「彼との約束」
「約束って、何だよ?」
「それは教えられないな」
「何でっ!?」
「またおまえが妬くだろう?」
からかうような口調に、光流がむっと口をとがらせる。
「そーいう言い方されっと、余計に気になるんだけど」
「聴かない方が良いことだってあると思うけどな」
穏やかな表情で見つめる、忍の手の中のカプセルを、光流がそっと取り上げる。
「これ……捨てていい?」
拗ねたような口調で、けれど光流は真剣に尋ねた。
「ああ」
忍は即座に応える。
少しの間を置いて、突然、光流がガバッと忍に抱きついた。勢い良く背後に押し倒され抱きしめられるが、忍は抵抗しない。
「……嘘だよ、嘘! 嘘に決まってんだろ!!」
「嘘だ」
「嘘だっつの!!」
もう自分でも何を言ってるのかわかってないような光流を体を押しのけ、忍はベッドの上に転がったカプセルを手にとり、それを勢いよく放り投げる。カプセルは見事にゴミ箱の中に消えていった。
「……いいのかよ」
「ああ」
「大事なものなんだろ?」
「だから捨てるんだ」
そう言うと、忍は光流の髪に指を絡ませ、そっと唇を重ね合わせる。唇が離れると、まだ子供みたいに納得いかないような光流の顔が目前にあって、可愛すぎて逆に可笑しくなった。
「素直になれよ、光流。本当は、捨てて欲しいんだろ?」
優しく尋ねると、光流は少し苦しげな表情をして、それから小さな声で「うん」と言った。
「ダメだ。やっぱ俺、心狭いわ」
「それがおまえだろ?」
自己嫌悪に陥っている光流に忍が言うと、光流は忍の体をぎゅっと強く抱きしめる。
「……俺だけ、見てろよ」
「見てるよ」
「俺以外、誰も見たら嫌だ」
「もう誰も見てない」
「ホントに……?」
「まだ信じられないのか?」
忍が尋ねると、光流はようやく安心したように首を横に振って、忍の頬に手を寄せる。大切なものはもうゴミ箱の中で。しっかり形で示してくれた忍を、もう、信じられないはずがなかった。けれど同時に、大切なものを奪ってしまったような罪悪感に襲われる。矛盾した心のままに、光流は忍の唇に唇を寄せる。
頬を撫でた手が耳元からうなじを伝って指が髪に絡まる。優しい口付けが徐々に激しさを増していく。割り込んできた舌に、忍は自らも舌を絡ませた。
「……ん……」
忍のパジャマのボタンが外され、光流の指が忍の胸を優しく撫でる。ピクンと小さく忍の肩が震えた。
恥らうように、忍が顔を横に背ける。閉じられた瞳と、高潮する頬。光流は愛撫の手を続けた。
「忍……」
一番感じやすい部分を擦りながら、光流は目を閉じたままの忍の耳元に囁く。
緩やかで、いつまでたっても達せないじれったい愛撫に、忍はもどかしげに腰を揺らす。もっと強い刺激を欲しているのはわかったけれど、限界まで追い詰める理由がある。
「忍、イきたいだろ? だったら、目を開けろよ」
やや高圧的な口調で言うと、忍はようやくそろそろと目を開いた。欲情に溺れた潤んだ瞳が光流を見つめる。どうしようもない愛しさと歓喜と欲望が、光流の身体に駆け巡った。どうしても、見て欲しかった。今、誰が感じさせているのか、誰が抱きしめているのか、ちゃんとその目で確かめて欲しくて。
「あ……っ!」
「目、閉じるな」
「や……っ、はや……く……っ」
達しそうになった瞬間に目を閉じたら、光流はまた愛撫を中断する。どうしてこんな意地悪をするのかと、忍は懇願するような瞳で光流を見る。達したくてたまらない。そんな忍の瞳に、頬に、唇に、光流は優しく口付ける。唇が触れるたびに、敏感になっている忍の身体がビクビクと震える。もっと。もっと、限界まで感じて欲しい。他の何も、考えられなくなるくらいに。
「……みつ……る……っ」
「今、イかせてやるから。目、閉じるなよ……?」
言ったと同時に、光流は忍の中に押し入れた指と、限界を感じている忍の自身を包み込んだ手を激しく動かす。
「……ん……ぁ、あ……っぁ……!」
言われるままにうっすらと目を開いたまま、忍が絶頂をむかえる。赤く染まる目尻から、涙がこめかみを伝った。酷く煽情的な表情と乱れた呼吸。光流は強く忍の身体を抱きしめ、指を引き抜いた内部に自分の欲望をあてがう。ゆっくりと潜り込み、奥の方まで突き入れると、忍の手が光流の肩を掴んだ。片方の手をとり、口付ける。締め付けてくる内部の熱が、光流の欲望を更に膨らませた。
シーツに手をつき、片方の膝裏に手を当て足を大きく開かせ、奥の感じる部分を目指して腰を動かす。
「あ……や……っ、あぁ……っ」
もっと。もっと、強く繋がりあいたい。
もう絶対にどこにも行かないように。辛い過去も、綺麗な思い出も、何もかも忘れるくらいに。今、目の前にいて、抱き合っている相手だけを見つめていられるように。
『君が本当に欲しいものは、たった一つしかないのに』
「しの……ぶ……」
「は……っ……」
ぐったりと力を無くす忍の、汗の混じった前髪をそっと指でかきあげ、光流は苦しげな瞳をする。
何よりも、誰よりも、一番に大切な存在。それなのに、何もかも奪いたいと思う。壊したいと思う。縛り付けて、離したくないと思う。まるで大切な玩具を取り上げられないよう、必死で泣き叫んでいる子供のように。
ごめん。ごめんな。叫びながら、光流は強く忍の身体を抱きすくめた。
本当は、捨てさせたくなんてなかった。
忍の一番綺麗な記憶。思い出。大切な宝物。
それでもどうしても、捨てて欲しかった。
一瞬だけでも、忍が他の何かを、他の誰かを見つめるなんて耐えられない。それがたとえ、二度と戻らないものでも。永遠に失った相手でも。
いや、永遠に失った相手だからこそ、より美しい記憶として残るものだからこそ、どうしても、捨てて欲しかった。
本当は、それごと受け止めたいと、大切にしたいと思いながら。
矛盾する二つの心。
いったいどちらが本当の心なのだろう?
出ない答えのままに、光流はゴミ箱に放り込まれたカプセルを拾い上げる。
しばらく空虚な瞳でそのカプセルを見つめ、ふと心を決めたように、光流は元の場所にカプセルを放り込み、眠る忍の元に歩み寄った。
忍は、捨てると言った。
その言葉を、信じよう。
眠る忍の額にそっと口付けて、光流もまた、深い眠りに落ちていった。
遠くで水の音が聴こえた気がした。
翌朝、忍が目を覚ますと、隣で寝ていたはずの光流の姿がなかった。
不審に思いながらベッドから身を起こし、庭に向かう。庭に出てすぐに、光流が森の方から歩いてきた。
「……どこに行ってた?」
「ん? ちょっと散歩してただけだぜ?」
素っ気無い口調で言って、光流は家の中に入っていく。
今のは絶対に隠し事をしている顔だ。そう思ったけれど、忍は尋ねることはしなかった。 ゴミ箱に放ったはずのカプセルが無くなっていたことには、とうに気づいていたから。
こっそり持ち主の元に返してきたのだろう。まったく光流らしい。
緩やかに微笑して、忍は光流の後を追った。
「もう絶対に先輩たちと旅行には来ませんからねっ」
まだ怒りが収まらない様子で、帰り道を歩きながら蓮川が声を荒げる。
「でも泉さんって、別に悪い霊じゃなかったのかなぁ? 良い人だったよね?」
瞬が尋ねると、忍が穏やかに微笑んだ。
「ただ、一つだけ気になることがあるんだよね」
「何だ?」
「いや……「素敵なもの」って、何だったのかなって……」
「もういいだろ、瞬。忘れようぜ」
「すかちゃん、まだ怖いんでしょ? ほんと臆病なんだから」
「ち、ちげーよっ!!」
「お化け大嫌いだもんね~」
「っとにおめーは度胸がねぇな。いくら幽霊とはいえあんだけ優しくしてもらったんだから、ちっとは感謝しろ」
光流が呆れたように言って、蓮川の頭をばしっと叩いた。
「な……っ、誰のせいで苦労したと思ってんですかっ!! おかげで俺、腕、筋肉痛ですよ!?」
「だから文句は忍に言え」
素っ気無く言って、光流はさっさと歩き出す。
蓮川は膨れっ面を忍に向けた。が、当然文句など言えるはずがない。そんな蓮川を、忍はまっすぐに見据えた。
「な、何ですか……?」
蓮川がやや怯えた表情をして口を開く。
「蓮川、昼飯、何が食いたい?」
「え……?」
「あ、僕、名物の海鮮丼食べたい~!!」
戸惑う蓮川をよそに、瞬が訴えた。忍は了解したように微笑み、歩き出す。
「じゃあ今から行くぞ。たまには奢ってやる」
忍の言葉に、蓮川と瞬は顔を見合わせた。
「えっ、なになに!! 忍先輩が奢ってくれるなんてどーいう風の吹き回し!?」
「俺……なんかちょっと怖いんですけど……」
喚く後輩達をよそに、忍は涼しい顔で歩き続ける。隣でぽつりと光流が呟いた。
「ほんと、どーいう風の吹き回しだ?」
「頑張ったご褒美だ。言っておくが、おまえの分は奢らないからな」
「……俺、今回の電車賃のせいで、今月、金欠でさ」
「奢らんと言っただろう」
「おまえ金持ちのくせにセコいぞ!?」
光流が涙目で訴えたその時。
「忍先輩っ、僕、ウニ丼食べていい!?」
瞬が背後から忍の首に腕を回して抱きついた。
その後ろで、蓮川は相変わらず疑いを隠せない表情で「やっぱり絶対におかしい……」とぶつぶつ言い続ける。
光流は光流で、「一番安いのでいいからっ」と涙目で訴え続ける。
ふと、忍の耳に声が蘇った。
『大事なもの、一緒に探そう』
見つけてくれて、ありがとう。
その言葉と共に、忍は思った。
もう、忘れよう。
これからは、大切なものは自分で探す。
思いながら、忍は前に向かって歩き続ける。
振り返ろうとは、思わなかった。
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