巣立ち<中編>

 
「あ、拾われっ子が来たぞ!!」
「みんな逃げろ! 光龍寺の拾われっ子だ!!」
 
「うるせえ!!! おまえらみんな、ぶっ殺してやる!!!」
 
 幼い頃から、ずっと人を殴り続けてきた。
 悔しくて、悲しくて、許せなくて、何もかもめちゃくちゃに壊してやりたくて。
 沸き起こる衝動を抑えきれないままに、ただ人を殴り続けた。
 殴っている時は、何も考えられなくなる。ただ壊してやりたいと思うだけだ。こんなくだらないもん、全部壊してやると。
 
「光流はうちの子だよね? よその子じゃないよね?」
 
 両親は、絶対に頭から怒ったりはしなかった。
 いつも弟が泣きながら、光流は何も悪くないと訴えたからだ。
 けれど、先に泣かれると、泣けなくなる。
 両親が怪我をさせた相手の家でひたすら頭を下げる姿を見るたびに、泣きたくて泣けなくて、どうしようもなく自分を殴りつけたくなった。
 
 どうして俺は、産まれてきた?
 なぜ、母は俺を産んだんだ?
 どうせ捨てるなら。
 捨てるくらいなら、最初から産まなきゃ良かったんだ。
 そうしたら、誰も傷つくことなんてなかった。
 
「池田君、可哀想。捨てられたなんて、可哀想すぎるよ」
 
 中途半端な同情なんかいらない。
 やめてくれ。
 俺は可哀想なんかじゃない。
 これ以上、惨めにさせないでくれ。
 
「あいつ、切れるとマジで半端ねーだろ。案外、犯罪者の血でも受け継いでんじゃねーの?」
 
 殺してやる。
 絶対に、殺してやる。
 殴って、殴って、ただ殴り続けて。赤く染まる拳と共に、世の中の全てを憎悪する。
 消えてしまえ。
 何もかも、全部。
 こんな世界なんて、全部消えて無くなってしまえばいい。
 この体に流れる、汚い血液ごと、全て。
 
「子供は、無理なんかせんで、守られてりゃいい。あんたはよく、頑張った」
 
 厳しかったけれど、ずっと一番の理解者だった祖母が、この世を去る間際にそう言い残した。
 もう、殴るのはやめようと、硬く心に誓った。
 どれだけ恨んでも、憎んでも、自分を消したいほど呪っても、事実は何も変わらない。
 俺はこの世界に生まれ、そして生きている。
 愛されながら。
 愛しながら。
 まっすぐ、前を向いて、生きるんだ。
 いつか巡り合える大切な人を、この手で守れるように、強く。
 
 
 

 年末、久しぶりの帰省なのに、光流の表情は暗く重かった。
 それでも家族の前では極力明るさを取り繕って、心配はかけさせまいとする。
 夜中、自室に篭り、光流は入試用の問題集を開いた。しかし、もうすぐセンター試験だというのに少しも集中できない。理由は分かっていた。
『俺はおまえの、何なんだ?』
 頭の中にこびりついて離れない、忍の言葉。
 帰省前、嫌がる忍を半ば無理やりに抱いて、それからきちんとした言葉を交わすこともなく、冬休みに突入した。
 我ながら最低だと、光流は思う。あの時、なぜもっと冷静になれなかったのだろう。自分の言いたい言葉を投げつけて、乱暴に抱いて、自分のした行為は、ただ忍を傷つけるだけ傷つけただけだ。
 初めて忍を殴った時と、同じように。
 ずっと、光流は後悔していた。
 傷ついて、頑なに心を閉ざしていた忍に、もっと他にやり方なんていくらでもあったのではないかと。
(だから、なのか……?)
『俺はおまえの「物」じゃない……!!!』
 初めて忍が、はっきりと自分の意思で伝えてきた、自分の言葉。
 でもそれは、光流にとってはあまりにも酷な言葉だった。
 物のように思ったことなんて一度も無い。
 確かに強引な部分があった事は認めるけれど、そうしなければいつだって忍は待ってるばかりで、自分からは決して近づいて来ようとはしない。
 いつでも冷静沈着で落ち着き払っていて、どんなに光流が愛を囁いても抱きしめても、少しの執着も愛情も見せてはくれない忍に、これ以上どうやって心を示せば良いのか分からない。
 与えても与えても、忍はただ不安がるばかりだ。
 光流には分かっている。忍は光流を愛していないわけじゃない。むしろ純粋に、誰よりも何よりも愛していてくれてることくらい、分かっているのだ。
 けれど光流にももうこれ以上、忍を思いやれるだけの余裕はなかった。
 自分が乱暴な言葉で、乱暴な抱き方で、ただ忍を追い詰めているだけだということも分かっていながら。
 忍は執着を見せないわけじゃない。ただ知らないだけだ。愛情という表現方法を。好きとか愛してるとか、そんな上っ面だけの言葉で飾る、嘘だらけの大人に囲まれて育った忍に、それを言えと強要する自分の方が間違っている。
 それでも、どうしても、聞きたい時だってあるのだ。
 愛しているから。
 どうしようもなく、愛しているから。
 本当は檻の中に閉じ込めて、誰にも見せたくない、自分だけのものにしたいほどに。
 だから許せなくて。
 忍がどんどん成長して、自分から離れていって、今まで自分にしか見せなかった顔を、後輩達にも見せるようになっていく。
 その姿に、ただ苛立つばかりで。
(最低だ……)
 ずっと、忍は自分を必要としているのだと思っていた。自分だけを。
 その忍が、初めて本気で自分に逆らい、逃げようとしていく。
 忍が離れていく。
 そう思ったら、怖くて、怖くて、たまらなくなった。
 もしかしたら忍以上にずっと、自分の方が忍を必要としていたのかと、今、光流は初めて思い知る。
(最低だ)
 邪魔な前髪をかきあげて、光流は唇を強く噛み締めた。
 好きなのに、こんなにも好きなのに、どうして分かりあえないのだろう。
 忍がただ一言、おまえが必要だって、好きだって、言ってくれさえすれば、いつだって全てを捧げるのに。
 愛しているから、欲しいと思う。執着する。嫉妬する。束縛する。でもそれが、忍を苦しめるだけのものなら、それでは俺はどうすればいいんだ?!
 答えのない問いが何度も胸の内で渦巻いて、嵐はいつまでも止むことがなかった。
 
 
「忍君、今年は来ないのかい?」
 ずいぶんと冴えない表情で一心に勉強する光流に向かって、光流の母、幸枝が何気なく尋ねた。
「ああ……あいつも、受験勉強で忙しいだろうし」
「そりゃ残念だね。合格発表終わったら、部屋探し始めるんだろ? いろいろと、物件探しておいたから見てもらおうと思ってたんだけどねえ」
「まだ早いって。合格って決まったわけじゃねーだろ。試験も始まってないのに」
「そりゃそーだね、忍君は間違いないだろうけど、問題はあんただよ。頑張んなさいよ!」
「へぇへぇ」
 だからこうやって勉強してるっつの、と心の中で思いつつ、光流はコタツの上に広げた参考書に目を向ける。
「……やっぱり家、出るつもりかよ」
 すると不意に、コタツに足を突っ込みながらテレビを見ていた正がぼそりと呟いた。
「まーだそんな事言ってるのかい? 光流がそう決めたんだから、好きにさせておやりよ」
 幸枝が呆れたように言う。
 けれど正はふてくされた表情のまま立ち上がった。
「言っとくけど、俺は寺なんか継ぐつもりないからな! 光流が長男なんだから、義務もないし!」
 吐き捨てるようにそう言うと、正は部屋を出て行ってしまった。
「あ、これ正!!」
「いいって、言わせとけよ。あいつだってそのうち分かるだろ」
「あんたがそーやって甘やかすから、あの子、いつまでも大人になれないんじゃないかい?」
「……」
「たまにはガツンと言っておやりよ。遠慮なんてすることないんだよ」
「母ちゃん……」
「ん?」
「腹減った」
「はいはい」
 苦笑しながら、幸枝は台所へ向かっていく。
 その後姿を見ながら、光流は少し照れ臭そうに、穏やかに微笑した。
 
 
 
 まるで、壇上から人を見下ろすために生まれてきたような男だと、思った。
 
 それは、忍が初めて新入生代表として壇上にあがり、光流はその姿を新入生の群れに混じって眺めていた時のことだ。
 初めて出会った時から、光流は忍に、他の同級生達とは確かに違うものを感じていた。
 まっすぐな姿勢、揺るがない視線、気品のある仕草、冷静な判断力。人に深入りしすぎず、かといって無闇に敵を作らない、要領の良さ。学年トップの成績を保ちながら、運動面も恐ろしく長けていて、名門である緑都学園の誰もが、すぐに彼を絶対的に叶わない存在として認めた。
 光流も出会ったばかりの頃は、そんな同級生達と変わらず、忍のことを純粋に凄いと思い、叶わない相手だと思っていた。
 けれど、気づいてしまったのだ。
 いつでも落ち着き払った笑顔の下に、本当の顔が隠れているであろうことに。
 何故なのかは、分からなかった。
 けれどもそれを知っていたから、彼が自らその本性を曝け出した時に、驚きと共に、心の中で納得している自分もいた。そうして心の内に激しく沸き起こる衝動を、抑え切れなかった。抑えきれず、ただ殴りつけた。
 忍の言う通りだったのかもしれない。
 おまえが苦しむ必要ないなんて偽善的なことを思いながら、本当は心の底では、ただ、自分に服従させたかっただけなのかもしれない。
(嫉妬、してたんだ)
 生まれて初めて、叶わないだろうと思った相手。
 こいつにだけは、負けたくないと思った相手。
 激しい嫉妬心。
 憎しみと紙一重の愛情。
 そんな光流の心の内を、忍はとうの昔に見抜いていたのかもしれない。
 それでも、必死で受け入れようとしていてくれた。
 まっすぐに、純粋な愛だけを向けてくれた。
(変わらなきゃ)
 強く、光流は思う。
 これ以上、傷つけたくない。泣かせたくない。
 大切にしたいんだ。
 誰よりも、何よりも。
(愛してるんだ……)
 目を閉じて、その人の姿を瞼の裏に想い描く。
 背後から抱きつくと、必死で隠そうと平静を装うけど、照れてるってバレバレで。
 ちょっと不機嫌な態度をとると、不安げに近寄ってくる瞳が、たまらなく愛しくて。
 一緒に悪巧みばかりするのは、成功した時の嬉しそうな笑顔が見たかったから。
 抱きしめて、耳元で囁かれる自分の名前が、こんなに心地良いものだなんて、知らなかった。
 
 会いたい。
 会って、今すぐ、抱きしめたい。
 
 だから、変わらなければ。
 未来を確かなものにするために。
 過去の自分としっかり向き合って、決着をつけるんだ。
 新しい年の一番最初の太陽を見つめながら、光流は今確かに、過去の自分と決別することを心に誓った。
 
 
「正、話があるんだ。ちょっといいか?」
「あ、ああ……」
 夕刻、寺の墓地を歩きながら、光流は不機嫌そうな顔をする正にチラリと顔を向け、それから不意に立ち止まった。
「なあ、ばあちゃんのこと、覚えてるか?」
「え? ああ……そりゃ、忘れないよ」
「俺、ずっと、ばあちゃんのことを母ちゃんだって、思おうとしてた」
「え……?」
「だって母ちゃんは、おまえの母ちゃんだからさ」
「なんだよ、それ……」
 正の目が驚愕に満ちる。
 しかし光流はまっすぐに正の目を見つめ、言った。
「俺はやっぱり、どうしたって他人なんだよ。おまえと血の繋がった家族にはなれない」
「光流……!」
 正が怒りにも似た声発する。
「なんでそんなこと言うんだよ!! 俺達は家族だろ?! ずっと……ずっと、家族だったじゃねーかよ!!!」
 今にも泣き出しそうな声。
 けれど光流は表情一つ変えず、正を見据えた。
「俺だって、そう思ってる。でも、周りはそうは認めないんだ。だから……寺は、おまえが継いでくれ。俺はこの家を出て行く」
 真剣な表情で、光流は訴えた。
 しかし正は納得せず、鋭い目で光流を睨みつける。
「嫌だ! 絶対に寺なんか継がない!! おまえが出て行くことも認めない!!! 俺たちが家族だって思ってるなら、光流がこの寺を継げよ!! 俺は絶対に継がないからな!!」
 正の言葉を聞き終え、光流は強く拳を握り締めた。
「いいかげん……」
 そして、その拳で思い切り正の頬を殴りつける。
 突然の衝撃に、正の身体が地面の上に倒れ込んだ。
「甘ったれてんじゃねえ!!!」
 ドスの効いた声で、光流は叫んだ。
 正がショックを隠しきれない様子で、血の滲んだ口元を袖で拭う。
「どう足掻いたって、無理なもんは無理なんだよ!! 俺の実の親はどっか別のとこにいるし、おまえとは兄弟でもなんでもねぇし、俺がこの
寺を継ぐ権利なんてどこにもねぇんだよ!!」
「ふ……ざけんなっ!!!」
 正が立ち上がり、拳を振り上げた。右の頬を殴られて、わずかに光流がよろめく。
「だったら今までは何だったんだ!! ずっと俺達のこと、家族なんかじゃないって思ってたのかよ?!」
 光流の胸倉を掴み、正が叫んだ。
「んなこと思ってるわけねーだろうが!!!」
 もう一度、光流は正の頬を殴りつける。
 負けずに正も光流に掴みかかっていった。
 そうして二人は何度も殴りあった。
 
 幼い頃から、こうして幾度も喧嘩したことがある。
 けれど一度たりとも、正にだけは本気を出して闘うことはできなかった。
 いつも心のどこかで遠慮していた。
 自分は、この家の子供じゃないのだから、と。
 でも、間違っていた。
 初めから、こうするべきだったんだ。
 本当の家族だと思ってるなら、本当に信じて愛しているなら、何も怖がらずに、しっかり目を見て向き合うべきだったんだ。
 
(そうだろ、ばあちゃん?)
 
(俺、間違ってないよな?)
 
「そうだねぇ、でも、暴力はおやめよ。人を傷つけても、自分が傷つくだけだからね。この手は、人を守るためにあるんだよ」
 
(……うん。わかった)
 
「強くおなり。あんたは、良い子じゃ。その優しさで、きっと誰かを守ってやれる」
 
(うん……)
 
 
「まったく、いい年して何やってんだいあんた達は!!」
 怪我だらけになって帰ってきた息子たちに、幸枝は怒り半分呆れ半分な様子で手当てをする。
「いって! だって母ちゃんがたまにはガツンと言ってやれって!」
「殴り合いの喧嘩しろとは言ってないよ! まったくあんたは血の気の多い子だよ!! おかげで母ちゃん、どれだけ苦労したか!!」
「もうよせって、母ちゃん。最初に殴ったのは俺だからさ」
 喚きたてる母に、正が言った。
「で、あんたは納得できたのかい?」
 母に尋ねられ、少し間を置いて、正は口を開いた。
「……継ぐよ、継げばいーんだろ! でも坊主にはしねーからな!」
 ふてくされながら言う正に、幸枝は光流に苦笑を向けた。
 
 
「ごめん……な、正」
 ずいぶんと久しぶりに同じ部屋で布団を並べながら、ふと光流が声をあげた。
「……」
「でもずっと、おまえのこと、大事な弟だって、思ってるから」
「……うん……っ……」
 光流に背を向けたまま、正は応えた。その声は少し震えていた。
「ありがとな、正」
 おまえが弟で、良かった。
 心から、光流は思う。
 この家に拾われて、育ててもらって、なんて自分は幸福だったのだろうと。
 だから、感謝しよう。
 育ててくれた祖父母と両親と、共に育った家族に。
 自分を産み、きっと何かの願いを込めて、この家の前に捨ててくれた血のつながった母に。
 そして、大切な人とめぐり合わせてくれた、運命の神様に。
 
 
 寮に戻る日の朝、家を出ようとする光流に、正が言った。
「光流」
「ん?」
「試験、頑張れよ。不合格でも、もうおまえの帰る家なんかないからな」
「なんだよ、それ。酷くねぇ?」
 光流が苦笑する。
 しかし正は笑顔で言った。
「嘘だよ、いつでも帰って来いよな。離れてたって、俺達、ずっと家族なんだから」
「……ああ」
 光流はまっすぐに正の目を見つめて頷いた。
 なんだか急に正が離れていったようで、少し寂しくもあり、けれど何より嬉しいその言葉に、大きな勇気をもらったような気がした。
 
 光流は正に背を向け、歩き出す。
 太陽が眩しくて、一瞬、目を閉じた。
 そうして開いた目の先に、太陽に照らされたまっすぐな一本道が見える。
 その道を、光流は歩いた。
 自分の帰るべき場所へと向かって。