巣立ち<前編>


 永遠に逃げることも断ち切ることも出来ない鎖なら、俺はおまえの所有物で構わない。
 
 何度も自分に言い聞かせてきた。
 
 優しさも残酷さも、身勝手な愛情も、痛みを伴うばかりの束縛も、いつからか心地よいと感じるくらい当たり前になっていて。
 
 ずっとこのまま、永遠にその鎖で繋がれていたいと思っていた。
 
 でももう、終わりにする。
 
 この鎖をはずさない限り、俺達に未来はない。
 
 
「しのぶセンパイ、またおしえてもらってもいいですか?」
「ああ、また明日来るといい」
「ありがとうございます。おやすみなさい」
 にっこり微笑んだあと、不意に頬に軽くキスをされ、忍は小さく息をついた。
「フレッド、何度も言ってるが、日本ではいう習慣はないから」
「あ……すみません。きをつけます」
 途端にしゅんとした表情になって、それからもう一度「おやすみなさい」と言い残して自室へ戻っていくフレッドの背を見送ってから、忍は211号室のドアを閉じた。
 このところ、フレッドは忍のところによく勉強を教えてもらいに来る。というのも、彼は外国人の身でありながら成績は常にトップクラスを維持しているものの、日本語はまだ少し不自由で、寮内で彼に勉強を教えてやれる人物は忍くらいしかいなかった。
「人に勉強なんて教えてる場合かよ? 受験生が」
 大学入試を控えている身でありながら、お人好しにも後輩のために時間を割く忍に、光流が呆れ顔で言った。
「人に教えるのは、自分の勉強にもなる」
 忍は落ち着いた声色でそう言うと、自分の机の椅子に腰を下ろした。
 光流は自分の勉強のため、ずっと机に向かっている。受験生に人を気にかけてる余裕はなく、フレッドがいる間もずっと机に向かったまま、声もかけずに黙々と勉強していた。
「ま、おまえは今更、勉強する必要ねーもんな」
 不機嫌そうな光流の横顔。
 光流がこんな顔をするのは、大抵、酷く苛立っている時だけだ。
 無理もない。大学入試を間近に控えて毎日のように勉強、勉強の日々で、このところロクに眠ってもいないし、まして以前のように友人や後輩達とはしゃぐ事などもっての他で、寮内の三年生は大概みな、同じように自室にこもって勉学に励んでいる。
 そんな受験真っ只中の現在、以前と変わらず余裕をもって生活しているのは忍くらいなものだろう。
「最近ずいぶん、丸くなったんじゃねえ? 前は人に勉強教えるなんて、タダじゃ絶対にしなかったのに」
「そりゃ他の奴にはタダで教えるつもりはないが……フレッドは、特別だ」
「特別? 何で?」
「無駄だからな、ああいう人間に脅しや恐喝は」
 忍はそんな言葉を発してから、フレッドを思い返して薄く笑みを浮かべた。
 寮内の誰もが自分を恐れている中、フレッドは迷いも躊躇いもせずに、ごく自然に懐いてくる。どんなに冷たい態度を見せても、脅す言葉を口にしても、怯むことなく明るい笑顔を向けてくるフレッドに、いつからか忍は諦めにも似た想いで笑顔を向けるようになっていた。
 忍は十七年間生きてきて、あそこまで心の真っ白な人間に出会ったことは、一度もない。
 そしてそういう人間には、無駄なのだ。どんな拒絶も脅しも、最終的には自分が馬鹿らしくなるだけで、意味がない。そしてそこまで隙だらけなのに弱みなど一つもなく、もはや弱点を探ろうという気にさえならない。結局は受け入れるより他はないのだ。
「ふーん……まあ、分からないでもないけどな」
 言葉とは裏腹にどこか面白くなさそうに、光流は目の前の辞書をパラパラとめくる。
「けどもう、この部屋には入れるな」
「え?」
「聞こえなかったのか? この部屋には入れるなって言ったんだ」
 光流の声がいやに低くなり、忍に向けた目の色には鋭い光が射している。
 そこに感情の色は無く、いつもの光流とはまるで別人で、忍の目に困惑が浮かび上がった。
「光流……フレッドのキスは、ただの習慣だ。他意はない」
「んなこと分かってる」
「だったら……」
「黙れ」
「光流、話を聞け」
「黙れ!!」
 光流が突然声を荒げ、ガタッと音をたてて椅子から立ち上がった。そして忍の後ろ髪を掴むなり、上に向けさせて強引に唇を塞ぐ。
「口答え、すんな。おまえは黙って俺の言うこと聞いてりゃいい」
「嫌だと、言ったら?」
 忍は鋭い瞳で光流を睨みつけた。
「分かってんだろ?」
 光流もまた怯まず忍を睨み返すと、いきなり忍の頭を机の上に押し付け、両手首を背中にひとまとめに掴み上げた。
 机に伏せられたまま、衣服の中に光流の手が潜り込んできて、指が背筋を伝う。ゾクリと鳥肌のたつ感覚に襲われ、忍は光流に鋭い視線を向けた。
「この……変態」
「そんな口効いてられるのも、今のうちだぜ?」
 嗜虐心を少しも隠さない声。
 こうなると、もう光流を止めることは叶わない。
 ジワジワと追い詰められる獲物のような気分で、忍は目を閉じた。
 どこかで鎖が絡み合う音が聴こえたような気がした。
 
 
 軋むように痛む手首。
 背筋を這う舌の艶かしい感覚に、忍は唇を強く噛み締めた。
「もっとよく見えるように、足開けよ。そうしたら、指の一本くらいくれてやる」
 後ろ手に縛られ苦しい体制のまま、忍は躊躇いながらも四つん這いになった腰を突き上げ、言われるままに足を開いた。
 激しい羞恥心が自尊心を砕くけれど、光流の言葉に逆らえるほど、恐怖はまだ拭えていない。乳首を強く捻られ、忍の表情が苦痛に歪んだと同時に、光流の指が乱暴に内部に捻じ込まれた。思わず呻き声をあげると、光流の顔が歓喜に歪む。
 今の光流にとって、自分は物でしかない。
 いっそ自分を消したいほどの後悔と苦痛を感じているのに、それでもなお抱かれたいと願っている、浅ましいばかりの自分。忍は目を閉じ唇を噛み締めた。
「言えよ、どうして欲しい? 指一本じゃ、足りねえんだろ?」
 苛むための愛撫と、追い詰めるためだけの言葉。
 きっと涙を流すまで、許してはくれない。泣いて縋って許してくれって請えば、光流はきっと抱きしめてくれる。けれど一度服従を示してしまえば、もう何もかも終わりだということを、忍は知っていた。
 光流はそんなものが欲しいわけじゃない。誰かの愛情が欲しいわけじゃない。抱きしめてくれる手を求めているわけじゃない。ただ、こうして、征服したいだけだ。物のように扱える人間が欲しいだけ。
「最低だ……っ、おまえは……っ」
 絞り出すような忍の声に、しかし光流は冷酷な瞳の色を変えない。
 忍の中に押し入れた指を激しく動かすと忍の自身が淫らに反応し、大きく身体が震えるのを満足げに眺める。屈辱を露にすればするほど、光流は歓喜するだけだ。それなのに、忍はそれを求めている。どんなに物のように扱われても、それだけが自分の存在意義なのだから。
「分かってて喜んでるおまえも、じゅうぶん最低じゃねえ?」
 首筋を舌が這う。音をたて続ける秘部は、絶え間なく光流を欲している。
「久しぶりだもんなあ? ずっとこうして欲しかったんだろ? この淫乱」
「ち……が……っ、違う……っ!!」
 執拗な愛撫が忍の理性を木っ端微塵に蹴散らしていく。それでもなお、自分を保とうとする忍を、光流は容赦なく追い詰める。
 忍の自身を扱き、二本に増やした指を奥まで突き立てると、忍は歓喜とも苦痛とも区別のつかない声を上げ、限界に達した。
 光流は精液で濡れた自分の指を、横たわって息を乱す忍の口に強引に咥えさせる。
「舐めろ」
 促されるまま、忍は光流の指を濡らす自分の精液を舐め、瞳に涙を滲ませる。そんな忍の痴態をを相変わらず欲望に満ちた瞳で眺めながら、光流はもう一度忍の自身に空いた手を伸ばした。
 達したばかりの身体はまだ酷く敏感で、忍は軽く触れられただけでも反応してしまう。
「も……う……」
 やめてくれと懇願しても、光流は聞き入れない。
 乱暴に手首の戒めを解くと、今度は前手にキツく縛り上げられた。そのまま上半身を起こされ、口の中に熱いものが無理やりに押し込められた。喉の奥まで突き立てられ、苦痛に自然と涙が滲む。
「もっと舌、使えよ。下手クソ」
「ん……、ん……っ」
 必死で舌を這わそうとしても咥内に収まりきらない光流の自身を、ただ無我夢中で咥えているより他に方法はなく、息も出来ない苦しさに顔を歪ませていると、いきなり引き抜かれたと同時に生温い液が顔に浴びせられた。
 口の中にも精液の味が広がり、忍は潤んだ瞳で縋るように光流を見上げる。けれど望んだ抱擁は与えられず、相変わらず光流の目は冷たく自分を見据えるだけで、もはや睨みつける気力も忍には残っていなかった。
 無造作に押し倒され、足を開かれる。
 そのまま一気に、内部に光流の自身を突き立てられた。
「あ……、あ……っ、嫌……っ!!」
「何がイヤだよ? こうして欲しかったんだろ?」
 涙を流しながら違うと首を振っても、光流は動きを増すばかりだ。
「俺が欲しいって言えよ? いつも澄ました顔してたって、お見通しなんだよ!」
「ち……が……っ、もう……・やめ……っ」
 忍の目に涙が溢れる。
 苦しくて苦しくて苦しくて、全身が引きちぎられるように痛い。
 激しく苛まれながら、心の中で、何度も叫ぶ。
 違う。
 違う。
 違う!!!
 欲しかったのは、こんなものじゃない!!!
 求めてるのは、こんな行為なんかじゃなくて……!!!
「俺が……欲しいんだろ……!?」
 唇を塞がれ、忍は自ら舌を絡ませた。
 どうにかなりそうな快楽と、胸を引き裂く激しい痛み。
 いっそこのまま狂ってしまえたら。
 いや、もしかしたらとっくに、自分達は狂っているのかもしれない。
 激しい執着と、嫉妬と、征服欲。
 それを心地よいとすら思う自分。
 束縛されることを願っていながら、心はバラバラに切り刻まれる。
 違うんだ、本当は。
 求めているのは、こんなものではなくて。
 欲しがって手を伸ばしてしがみついているのは、こんな光流にじゃない。
「欲し……い……」
 息を乱しながら、小さく発した忍の声。
 けれど、その声が光流の耳に届くことはなかった。
 
 
 いつの間にか、大切なものが増えていく。
 生まれてこのかた知らなかった感情と比例して、この学校に入学してきた頃とはまるで違う世界が広がっていく。
 
「先輩達、みんな、余裕ないよな」
 朝食の玉子焼きを口に放り込み飲み込んでから、蓮川が覇気のない声をあげる。
「そりゃ受験生だもん。余裕ありすぎる忍先輩が異常なんだよ」
「どういう意味だ? 瞬」
「言葉通りですー」
 悪戯っぽく瞬が笑った。
「あの光流先輩まで苛立ってるもんな、最近」
「すかちゃん構ってもらえなくて寂しいんでしょー?」
「そ、そんなわけないだろっ!! 清々してるわ!!」
 図星をさされて顔を赤くする蓮川に、瞬がニヤニヤと意味ありげな視線を送る。
「蓮川、今夜、部屋交代してくれないか」
 不意に忍が口を開いた。
「え? 何でですか?」
「あいつのいびきがうるさくて、昨夜あまり寝れなかったんでな」
「俺を人身御供にするつもりですか?」
 眉をしかめる蓮川に、忍は特有の笑みを浮かべながら言った。
「寂しいんだろ? たまには構ってもらえ」
「し、忍先輩までやめて下さい!! 俺は全然ちっとも寂しくなんかな……っ」
 言いかけたところに、突然頭の上から重みを感じて、蓮川は言葉を止めた。
「なーにを朝から騒いでるんだ、おまえは」
 いつの間にか食堂にやって来た光流が、朝食を乗せたお盆を蓮川の頭の上に置いてそう言うと、蓮川の隣の席に腰掛ける。
「あのね、すかちゃんが最近、光流先輩に……」
「だーっ!! やめろ瞬!!」
 慌てて瞬の言葉を遮る蓮川に、光流は怪訝そうな顔をした。
「センパイ、おはようございます」
 するとそこへ、野山とフレッドがやってくる。
 それとほぼ同時に、朝食を終えた忍が立ち上がった。
「フレッド、今日は蓮川と部屋交代するから、来るなら210号室に来てくれ」
「あ……はい、わかりました。きょうもおねがいします」
 笑顔で頷くフレッドに背を向け、早々に立ち去っていく忍を、残った4人が見送った。
「おい、部屋交代ってどういう事だよ、俺ぁ聞いてねーぞ」
 光流が不機嫌そうな顔つきで、蓮川に尋ねた。
「いびきがうるさいから代われって。俺だってイヤですよ、本当は」
「ほう……」
「あっ! 俺のおかず!!!」
 あっさりおかずを奪われ、蓮川が嘆いた頃には玉子焼きは既に光流の口の中である。
「フレッド、最近、忍先輩と仲良いよね」
「はい、しのぶせんぱい、やさしいです」
「それフレッドだから言えるんだよ」
「ほんま怖いもん知らずやわ」
 野山ですらもうハッキリ忍の恐ろしさが分かっているのに、平気で懐いていくフレッドに、もはや周囲は尊敬の念を抱いているわけだが、もちろん当人は何も分かっていない。
「でも確かに、最近丸くなってきたような気はするんだよね」
「え~っ、どこがだよ?!」
「なんとなく?」
 反論するスカに、瞬は直感のみの答えを口にした。
 
 
 その日の夜、瞬と蓮川の部屋で、忍はいつものようにフレッドに勉強を教えてやっていた。
「せんぱい、なにかいやなこと、ありましたか?」
 一通り解らないところを教えてやり、フレッドがなるほどと理解して問題を解いたあと、ふと心配そうに尋ねてきた。
「何だ、急に。別に何もないぞ」
 忍は無表情に言った。
 瞬は栃沢の部屋に遊びに行っている。
 二人きりでフレッドとプライベートな話をするのは初めてのことだった。
「すこし、さびしそうに、みえたから」
 そう言って、フレッドは忍の髪に手を添え、優しく頭を撫でた。
 しかし忍はその手を迷惑そうに跳ね除ける。
「気安く触るな。向こうでの習慣は忘れろと言っただろう」
「はい……すみません」
 気落ちした様子を見て、忍は小さくため息をついて思った。
 まったく、どちらが寂しいのだか。
 遠く故郷から離れ、一人異国の地で勉学に励むフレッドに、もちろん同情などするつもりはないが、どこか放っておけない自分もいた。二年前ならありえない感情だ。
「おまえは、家族に愛されて育ったんだな」
「はい、ちちもははもいもうとも、だいすきです」
「そうか……」
「しのぶせんぱいは、かぞく、すきじゃないのですか?」
「少なくともおまえのように、好きだと思ったことは一度もないな」
「それは、さびしいです」
 フレッドはまっすぐに忍を見つめた。
 曇りのない、純粋な瞳。どこまでも真っ白で、一つの穢れもない、ガラス玉のような。
「寂しいからって、どうにもならないだろう。今更。諦めるしかないんだ」
 父や母に愛されることなど、もうとっくの昔に諦めているし、望むことも何一つない。増していまさら、そのことに傷つくほど幼くもない。
 そう思って、忍は少しばかり自分に驚愕した。なぜこんなことを、話しているのだろうと。
 今まで誰一人として、こんな風に胸の内を明かしたことなどない。それが例え、光流であっても。
 けれどなぜか、フレッドの前では、どんな虚勢も見栄も無駄だと思う。
「せんぱい、あたま、なでていいですか?」
 突然、妙なことを言い出すフレッドに、忍は眉をしかめた。
「ぼくのいもうと、よくさびしいってないてました。そういうとき、あたまなでてあげると、なきやんだです」
「俺は寂しいなんて一言も言ってないし、泣いてもない」
「でも、さびしそうです」
 野生の勘、とでも言うのだろうか。
 これだけ世間知らずで鈍感でありながら、フレッドはどんな嘘も偽りもあっさり見抜いてしまう。
「なら、好きにしろ」
 どうせ駄目だと言ってもまた、期待したのに餌をもらえない犬のように項垂れるだけだ。
 諦めて忍がそう言うと、フレッドはにこりと笑って、大きな手で忍の頭を撫でた。バカバカしいと思ったはずなのに、それは思いがけず酷く居心地が良くて。忍はいつかどこかで感じた遠い感覚を、思い出す。
 ああ……そうだ、似ているのかもしれない、と忍は思った。
 世間知らずで、純粋で、優しくて、真っ白で、自分とは何もかも正反対の人間だった兄に、どこか、似ているのだ。
(もし、これが……)
 光流の手だったら、と思って、すぐにその考えを振り払った。
 代わりに昨夜の行為を思い出す。
 分かっている。
 自分の求める愛情を、光流は決してくれたりはしない。
 こんな風に、心だけで優しく撫でてはくれない。
 光流が求めているのは、愛情なんかでは決してないからだ。
 それなのに、ほんの一滴だけの愛を求めて縋りついて離れられない自分は、あまりに惨めで、小さくて、弱くて、いっそ儚く消えてしまえたらどんなに楽だろうと思う。
 この想いを、執着を、依存心を、どうしたら断ち切れるのか分からない。
 逃げる方法も、理解し合える方法も見つからない。
 もう本当は分かっているのに。
 全てが、間違っていることくらい。
 出口のない迷路に迷い込んだように、ただ翻弄される自分から抜け出したい。
 しっかり自分の足で立って、歩いて、出口を見つけたい。
 その向こうに何が待っているのかは、まだ分からないのだけれど。
 
 
 放課後、生徒会の会議を終え、校舎を出ようとしたその時だった。
「忍先輩~っ!!」
 聞き覚えのある声に呼び止められて、忍は振り返った。
 視線の先に、瞬とフレッドの姿があった。ずいぶん珍しい取り合わせだと思いながら、忍は駆け寄ってくる後輩達をその場で待つ。
「今から帰るの? 一緒に帰ろうよ」
「ああ」
 下駄箱で靴を履き替えようとしたその時。
「わーっ!!! 忍先輩っ、どいて下さい~っ!!!」
 またも聞き覚えのある声がして、振り返ったとほぼ同時に、物凄い勢いで猛突進してきた蓮川が、忍の体に思い切り体当たりした。が、忍はかろうじて蓮川の体を抱きとめる。
「何やってるんだ? 蓮川」
「む、村上先生が……っ!」
 どうやらまた、陸上部の顧問に特訓をうけている様子。
「蓮川~っ!! まだあと校庭10周残ってるぞ!!」
「無理です!! もう絶対無理!!! 忍先輩っ、助けて下さい~!!」
 今の勢いからして、まだまだ走れそうな蓮川だが、本人は涙目で訴えると忍の背後に回って村上から逃れようとする。
「村上先生、部活動の時間はもう過ぎてますよ」
 忍がにっこり笑って村上に言った。
「そんなことで世界を目指せると思うか?! さあいくぞ、蓮川!! 練習だ練習!!!」
「先生、部活動の時間は過ぎてますから」
 熱く語る村上に、忍は変わらない笑顔を向け続ける。
 そして背後に漂わせる負のオーラを、そこにいる誰もが感じていた。ようやく不穏な空気を読みとったらしい村上の額にも冷や汗が流れる。
「し、仕方ないな……今日はここまでにしてやろう」
 村上は名残惜しそうにそう言うと、生徒たちに背を向け去っていった。
「さすが忍先輩~、村上先生の弱みまで握ってるんだー」
「よわみ? むらかみセンセイのよわみってなんですか?」
 感心する瞬の横で、フレッドが首をかしげる。
「あ-、フレッドは分からなくていいよ」
 瞬はぽんぽんとフレッドの肩を叩きながら言った。
「忍先輩、ありがとうございます~」
「なに、礼は夕飯のおかずで構わんぞ」
「やっぱりタダじゃないんですね……っ」
 蓮川が小さく肩を震わせた。
 当然だとばかりに微笑む忍を前に、瞬は笑いをこらえきれない。
 フレッドは相変わらずきょとんとした顔つきで、蓮川は諦めたように「わかりました」と頷いた。
 いつものありふれた風景。変わらない、穏やかな日常。
 けれど次の瞬間、その日常は色を失った。
「忍」
 誰よりも聞き覚えのある声に、一瞬、鼓動が高まる。
「あ、光流先輩も今帰り~?」
 瞬が光流に声をかけると、光流はいつもの様子で声を発した。
「悪ぃけど、俺らちょっと用事あるから、おまえら先に帰っててくれ」
 そう言うと、光流は忍を視線で促し、校舎の中に入っていく。
「じゃあ、先帰ってるね~」
「おさきにしつれいします」
 後輩達は特になんの疑問も抱かず、三人で校舎を出て行った。
 忍はうながされるまま、声もかけず光流の後を着いて行く。酷く嫌な予感がした。
 
 
 辿り着いたのは図書室で、この時間になるともう校舎に人は教員と数名の生徒しか残っていない。図書室にも人の気配はまるでなかった。
「ヘミングウェイの「老人と海」っていう小説探してんだけど、見つからねーんだ。おまえなら、知ってるかと思って」
 図書室に並ぶ本に指をかけながら、光流が言った。
「ああ、それなら確か……」
 忍は以前の記憶を辿り、洋書が置かれている場所に足を運ぶ。
 すぐに見つけて、少し上の棚に置かれてあったその本に手を伸ばすと、光流が先にその本を手にとった。
「サンキュ、助かった」
 口の端をあげて光流が笑う。
 しかしどこかいつもの光流と違う気がして、忍は何を話してよいのか分からなくなった。
 すると不意に、光流の顔が近づいてきて、唇に温かい感触が走った。そのまま腰を引き寄せられ、熱いキスを求められる。けれど忍はすぐにそれに応えられるほど、一昨日の酷い行為を忘れてはいなかった。
 咄嗟に身を引いて逃れようとするが、光流は忍を抱いた手を離さない。
「また、逃げるのか?」
 先ほどまでとはまるで違う、低く冷たく響く声が、忍に嫌な予感を的中させた。
「逃げてなんか、いない」
 思わず怯みそうになる自分を奮い立たせながら、忍は光流の目をまっすぐに見て応えた。
「ゆうべ、蓮川と部屋を交代したのは、その方がおまえのためだと思ったからだ」
「どういう意味だ?」
「俺じゃ……おまえを苛立たせるだけだ……」
 光流が受験勉強で苛立っていることは、分かっている。けれど自分には、少なくとも蓮川のように、光流の心を和らげることはできない。
 だからせめて少しでも癒されるならと思って、蓮川を光流のところに行かせたのだ。
 決して一昨日の行為のせいではない。あの程度のことなら、もう自分は簡単に許せてしまうのだから。
「なに、わけわかんねーこと言ってんの?  蓮川が、おまえの代わりになるとでも思ってんのか?」
「俺の……代わり?」
 そっちこそ、何を言っているんだと聞き返したくなった。
 自分の代わりなんて、そんなもの、光流には必要ないだろう、と思う。
 いつも大勢の人に愛されて、かけがえのない友人が溢れるほどいて、いまさら自分の何が光流に必要だというのか。
「そんなに、玩具を手放すのが惜しいのか?」
 震えそうになる体を、拳を強く握り締めてこらえる。
「おまえは……自由に扱える物が欲しいだけだ……っ!」
 振り絞るような声で、忍は光流に訴えた。
 ずっと言えなかった言葉。
 光流に征服されるたびに、好きなように体を苛まれるたびに、胸の痛みと共に心の内で叫んでいた。
 どれだけ「愛してる」と囁かれても、そのたびに叫んでいた。
 こんなものは、愛なんかじゃない。
 愛なんかじゃ、絶対に。
「もう、おまえの自由にされるのは、ごめんだ」
 鎖をはずしたい。
 自由になってもう一度、本当の光流と、対等に向き合いたい。
 そう強く心で思いながら、忍は光流をまっすぐに見つめる。
「……言いたいことは、それだけか?」
 しかし光流の口から発せられる声は、あくまで冷徹で、そこには少しの優しさもなくて。
 絶望にも似た想いで、忍は光流の鋭い視線から目を逸らした。
 刹那、また唇を塞がれる。
 バサバサッと本が床に落ちる音が耳に届いた。
「……っ……!」
 逃れようとしても、手首を捕らえられ、キリキリと痛むほどに強く掴まれる。
 それでも必死で顔を逸らして光流の唇から逃れると、本棚に背を押し付けられたまま、忍は必死で訴えた。
「嫌だ……っ、もう、嫌だ!!!」
 どうして、分かってはくれないのだろうと、心で叫ぶ。
 こんなこと、もうしたくない。
 支配されるだけの玩具には、なりたくない。
「別れたいのか? 俺と」
「違う……!」
「なら、何なんだよ?!」
 突然、光流が右の拳を強く本棚に叩きつけた。
 音をたてて、本が数冊床の上に投げ出される。
「俺は……おまえの……何なんだ?」
 忍は振り絞るように、小さく声を発した。
「何度言ったら、分かるんだ? 俺が、おまえのことを愛してるって」
 光流が言ったと同時に、忍の目が怒りを帯びたようにカッと見開いた。衝動的に思い切り光流の体を突き飛ばす。光流は少しよろめいて、それでも忍から視線を外さなかった。
「愛なんかじゃない……。おまえは俺を、服従させたいだけだ……っ。俺がおまえに逆らえないのを……知っているから……!」
 怯まない、絶対に。心の内で、自分にそう言い聞かせる。
 光流は無言で射るような視線を忍に向ける。
 この目にいつも、翻弄されてきた。支配されてきた。束縛されてきた。
 見えない鎖で、縛られ続けてきた。
 でももう、終わりにする。
 このまま学校を卒業して、一緒に暮らしたって、そこに待っているのはただ苦痛ばかりだ。
 支配され続け、翻弄されるばかりの、暗い未来しか見えない。
「俺は……おまえの「物」じゃない……!!」
 決して光流から視線を逸らさず、忍は言った。
 そんな忍を、光流はただ黙って見据えた後、やがて自ら視線を逸らした。光流の方から先に視線を逸らすのは、初めてのことだった。
「なら……終わりにしようぜ。もう、おまえには何もしない。それでいいんだろ?」
 しかし次の瞬間、光流の口から発せられた言葉は、あまりにも冷たいものだった。
 更なる絶望が忍を襲う。
 光流は床にばら撒かれた本を拾いあげ、元の位置に戻していく。
「光流、応えてくれ。俺はおまえの、何なんだ……?」
 忍はその場に立ち尽くしたまま、震える声で光流に訴えた。
「おまえの言葉を……聞かせてくれ」
 忍の問いに、光流はしばらく口を閉ざし、全ての本をしまい終わってから、酷く冷静な表情で声を発した。
「愛してるよ」
 冷静で、感情のこもっていない声とはまるで裏腹の言葉。
 わけが分からず、忍は目を見開いた。
 光流が何を考えて、何を想っているのか、少しも理解できなかった。
 そんな顔をして、そんな声で、愛してるなんて言われても、信じられるわけがない。
 それとも、まだ自分を試しているのだろうか。
 どこまでも翻弄されるばかりの自分に嫌悪を感じながら、忍は肩を震わせた。
「愛……なんかじゃ……ない」
「だったら何が愛だ!?」
 突然、手首を強く掴まれて、光流が信じられないような声を上げた。
「愛してもないのに、誰が男なんかに欲情するかよ!!」
 獣のような瞳が近づいてきて、また唇を塞がれた。
 頭の芯が痺れるように情熱的で激しいキスの後、怒りを隠さない光流の瞳が、忍を射るように睨みつける。
「いつでも与えてもらうだけで、自分から何一つ求めないおまえに、俺の何が分かる!! いつだって人を見下してるのは、おまえの方だろう!?」
「違う……っ、見下してなんか……!!!」
 いつ、自分が光流を見下したというのか。忍は驚愕と共に困惑を隠せない色の瞳で、光流を見据える。
「いいよなあ、恵まれた奴は。そうやって自分の持ってるものが、当たり前だと思ってるんだろ? 与えられるものも、当然だと思ってるんだろ? それでもまだ、足りないで欲しがって……これ以上、俺にどうしろって言うんだ!!!」
 光流の激情に、忍は言い返す言葉が見つからなかった。
 それよりも、ただ、怖かった。
 とてつもなく巨大なものが心の中に踏み込んできて、バラバラに心を切り刻んでいく。
 痛くて、苦しくて、怖くて、息もできなくなるような苦痛に襲われるばかりだ。
「俺は……一度たりとも欲しいなんて思ったことはない……」
 恐怖に支配されながら、忍は思った。
 どうしてそれを光流が言うのだろう。誰よりも、言われたくなかった。光流にだけは。
「俺が持っているものなんて、くだらないものばかりだ!!」
 たとえどんな才能が自分にあったとしても、それを欲しいと思ったことなど忍は一度も無い。
 むしろずっと、疎んでいた。
 こんなものさえ無ければ、せめてもう少し、マシな自分でいられたのではないかと。
「俺もその、くだらないものか!?」
 しかし、まだ激情を抑えきれない声で、光流が言う。
一瞬、忍は怯んだように目を見張った。
「そうやって……切り捨てていくんだろ、おまえは……自分を守るためだけに!!」
 光流がゆっくり忍に歩み寄り、壁際に追い詰める。
「愛がないのは、おまえの方だ」
 バン!!と大きな音をたてて、光流は壁に手をついた。
 咄嗟に塞がれる唇。
 まるで呪いのように、繰り返し頭の中で響く光流の言葉。
 愛がない……? この俺に……?
 もう、光流がいないと生きていけないほどに、こんなにも必要としているのに?
 どんな行為だってどんな痛みだって受け入れられるほど、激しく執着しているのに?
 これ以上、どうやって求めたら良いのか分からないほど、強く求めているのに……?
「逃げたけりゃ、いつでも逃げろ。本気で嫌なら、俺を切り捨ててみろよ」
 光流の声が、遠く、近く、残酷に響く。
 違う、逃げたいわけじゃない。
 増して、切り捨てたいわけでも。
「それが出来ないなら、半端なこと口にすんじゃねえ」
 顎を掴まれ、また唇が重なってくる。
 そうしてまた、がんじがらめになる。
(違う……)
 絡み付いてくる鎖に縛られながら、忍は心の中で強く叫んだ。
(違う!!!)
 そう叫ぶのに、どう言葉にして良いのか分からない。
 光流に返す言葉が見つからない。
 ただ心を切り刻まれて、体を苛まれて、何もかもがバラバラになっていく。
「あ……、あぁ……っ!」
 無理やりに、光流が身体の奥深くに侵入してくる。
 深く繋がっているのに、心はあまりに遠い。
 なぜ、こんなにも理解しあえないのだろう。
 どうしたら、この想いは光流に届くのだろう。
 愛しているのに。
 こんなにも深く、愛しているのに。
「みつ……る……」
 名前を呼んでも、届かない。
 繋がっているのは、熱い体温だけ。
 
 音が聴こえる。
 近く、遠く、離れては、押し寄せてくる。
 
 まだ、この鎖は断ち切れない。