SPICE
(ああ……やっと、ここまで来た……) 駅から歩くこと数分でたどり着いた目前の新築マンションに、蓮川は真摯な瞳を向ける。真剣な表情。しかし心の内は酷く踊っていた。 就職が決まり、恋人と一緒に暮らすことを決め、二人でさんざ揉めながらもようやく決まった新居。 しかし引っ越し準備を始めた矢先、いきなり隣人が倒れ入院した挙句、行かないで僕を一人にしないでとわけのわからないことを言い始めた。 そんな隣人に、大丈夫だから俺達離れても友達だからと説得すること一週間。どうにか精神が安定した隣人と別れを告げ、ようやく引越し準備に取りかかれると安堵した途端、今度はすみれが倒れしばし体調不良に陥った。 やむ終えないのでしばらく実家で甥の子守をしながら過ごし、すみれの体調が安定すると、今度こそ引越し出来ると涙ながらに歓喜するものの。 引越し準備を始めた当日、今度は自身が交通事故に巻き込まれ二週間の安静生活を余儀なくされた。 なんで。なんでいつまでたっても新居にたどり着けないんだ。これはもはや運命の悪魔が邪魔しているとしか思えない。負けるもんか。負けるもんかーーー!!!!! もはや執念とも言える回復力で復活した蓮川は、本来住むはずだった日から既に一ヶ月が過ぎた今日この日、ようやく新居にたどり着いた次第である。 (今日からここが、おれの家──) 強い決意を抱いた瞳。蓮川はやや緊張した面持ちで一歩足を踏み出した。 『今から行きます』 一足先に新居で暮らしている忍にメールを送ってから小一時間。やっと、やっと会える。やっと一緒に暮らせる。やっと今日からおれの嫁。(※妄想です) 蓮川はジーンと幸せを噛み締めながら、表札が二つ並んだドアの前に立った。今はまだ「蓮川」と「手塚」だけれど、いつか必ずや一つの表札に。大いなる野望を抱きながら、玄関の扉に手をかける。しかしガチャと音をたてて扉を開いた瞬間、蓮川の表情がピタッと固まった。すぐさまバタンとドアを閉じる。 (……デジャ・ヴュ……?) 今確かに、どこかで見た顔の人物が立っていたような……。 蓮川は半信半疑で、再度そろっと扉を開く。 するとやはりそこには、確実にどこかで見たことのある姿。刹那、思い出したくも無い苦々しい過去の記憶がフラッシュバックし、蓮川はにっこりと笑顔を浮かべる懐かしい友人の姿を険しい目付きで凝視した。 「瞬……?」 腰まで伸びた長髪と、一瞬本気でドキッとしてしまうほどに可愛らしい顔立ちの男を、蓮川は今だ彼以外に見たことがない。 「おかえりなさーい、すかちゃん!!」 あの頃とまるで変わらない口調で言いながらガバッと抱きついてきた瞬を前に、蓮川は頭の中は完全にパニック状態だった。 え……ここってグリーン・ウッドだっけ? おれ、まだ高校生だっけ? ってことは今までのことは全て夢……? そんな……まさか……。ぐるぐると過去と現在が頭の中で交差する。 「あ……固まってる」 「お遊びはそこまでにしておけ、瞬」 有り得ない思考ばかりを駆け巡らせていた蓮川の耳に、よく聞き覚えのある声が届いた途端、蓮川はハッと我に返った。 「忍先輩……!!」 蓮川は瞬の身体をぐいっと押し退けると、すぐさま忍に駆け寄り両肩をガシッと掴んだ。 「ここ、おれ達の家ですよね!? おれ間違ってませんよね!?」 「落ち着け蓮川。ほんのドッキリだ」 相変わらず単純に騙されてくれる蓮川を前に、忍はにっこり微笑みながら言い放った。 蓮川は途端に全身の力を抜き、大きく安堵のため息を漏らす。それから背後の瞬を振り返り、キッと鋭い瞳で睨みつけた。 「どーいうことだよ、瞬! おまえ、何でここに……!!」 「それはこっちの台詞なんだけど?」 明らかに背後に怒りのオーラを漂わせながらにっこり微笑む瞬を前に、「え!?」と尻込んだ蓮川であった。 一体全体どういうわけかと尋ねたら。 瞬もまた就職を機に一人暮らしを始めるため引っ越した新居が、同じマンションの隣の部屋であったという奇跡のような偶然であった。忍が暮らし始めてから二週間後に、まだ空いていた隣の部屋に入居してきた隣人から挨拶があった日には、さすがの忍も驚きを隠せなかったと苦笑した。 「全く、二人とも何で僕に何も言ってくれなかったの!? まさか二人がそーいう事になってたなんて、どれだけビックリしたか……!」 どうやら既に蓮川と忍の事情を把握している瞬は、憤慨した様子で責めにくる。瞬の怒りは当然と言えば当然かもしれないが、蓮川の立場からすれば言えるわけないと言えば言えるわけがないわけで。蓮川は反抗的な表情を瞬に向けた。 「いや、だって、言えるわけないだろ……!?」 こんな事実知ったら、おまえがどれだけショックを受けるか。反論する蓮川を前に、瞬は相変わらず膨れっ面だ。 「あ、そー! すかちゃんていつもそうだよね~! そーやって僕の気持ち考えてるフリして、実は自分のことしか考えてないんだよね? どうせ怖かっただけでしょ? 僕に責められたり反対されたり怒られたりするのが!」 ズバズバと核心を突いてくる瞬に、蓮川は何も言い返せず怯んだ顔ばかりを見せる。その隣で、蓮川と同じように瞬に伝えることが出来なかった忍もまた、微妙に表情を青冷めさせていた。 「そりゃ確かに、知った時は「サイテー!!」って思ったよ!? よりによって忍先輩と!?って。二人とも何考えてんの! 信じらんない!!って。でもよく考えたら、僕には全然関係のない話だし、あくまで二人の問題だし、光流先輩がどうなろうと知ったこっちゃないし、何より二人とも大事な友達なんだから応援しようって決めたのに、すかちゃんときたら僕がメールでそれとなく尋ねても全然ほんとのこと言ってくんなくて……僕がどれほど傷ついたか解る!? 解るのすかちゃん!?」 一方的にまくしたてる瞬の言葉を、蓮川は正座しながら黙って聞くより他になかった。 う……相変わらずこいつは。そういえば確かに数週間前にいきなりメール来て、なんかおかしいなとは思っていた。思っていたけど、メールでいきなり忍先輩と結婚する(※妄想です)なんて言えるわけないし。いずれまた会った時にちゃんと真剣に話そうって思ってたし。第一、「サイテー!!」とか思ってんじゃねーかめちゃくちゃ怒ってんじゃねーか。その時点では応援する気なんか微塵もなかったんじゃねーか。むしろ言葉の暴力でボコボコに殴ってきたに違いない。あまつさえ「自分には全然関係ない」って、おまえそれでもほんとの友達か!? そこに愛はあるのか!? 反発心ばかりを覚えながらも、言い返したところで倍返しをくらうだけなのは嫌というほど解っている蓮川なだけに、ひたすら謝ることしか出来ないのであった。 一通り説教が終わったところで、三人一緒に蓮川の荷物整理を始める。蓮川は一人はしゃぐ瞬を横に、相変わらず煩いと眉をしかめた。 「ねえねえ、そろそろお腹空かない?」 「そうだな、休憩して昼飯にするか」 「あ、おれ、なんか作りましょーか?」 「僕久しぶりに、すかちゃんの炒飯食べたい~!」 「へいへい」 遠慮の無い瞬のリクエストに、蓮川はぶっきらぼうに返事をしながら台所に向かった。 そして台所に立った瞬間、唖然と口を開く。見事なまでにピカピカと磨かれた高そうな食器や、見たこともない数々の調味料が整然と並んでいたからだ。以前忍が住んでいたマンションの、まるでモデルハウスのごとく人が住んでいるとは思えない部屋を思い出し、蓮川はこれからの暮らしにやや不安を覚えずにはいられなかった。 「あの、忍先輩……前も言ったと思うんですけど、月に一度使うか使わないかの調味料揃えてどうするんですか?」 蓮川は見たことも聞いたこともない調味料を前に、心底意味が解らないと忍に訴えた。 「月に一度は使ってる」 忍はややムッとした表情で答えた。 「使うとしても、一振りとか、ほんのちょっとですよね? 結局ほとんど捨てる羽目になるわけですよね? だったらわざわざ使う必要はないんじゃないかと……」 「それがなきゃ美味くないから使ってるんだ。俺が俺の金で何を買おうと勝手だろう? いちいち余計なこと言わなくていいと何度言ったら……」 「お金の問題じゃありません! 食べ物を粗末にするなって子供の頃教わりませんでしたか!? おれ、食材無駄にするのだけはほんと許せないんで、これからは捨てるはめになるものは買わせませんからね!?」 蓮川のあまりの正論に、忍は言い返す言葉もなく、しかし納得いかないというように口をムッと尖らせる。その隣で、瞬が苦笑した。 まったくもうとぶつぶつ文句を言いながら料理を始める蓮川をよそに、瞬は忍に同情的な視線を向ける。 「忍先輩、すかちゃんて結婚したら結構大変なタイプだと思うよ? 僕も小さいことでどれだけ口やかましく言われてきたか……」 瞬は高校時代を思い出し、深くため息をついた。 「ああ、さっそく後悔してる。……じゃなくて結婚したわけじゃない! 一緒に暮らしてるだけだ!」 忍はうっかり瞬の言葉を普通に認めていた自分を否定し、噛み付くように言った。 「はいはい、一緒に暮らしてるだけね。でも一緒に暮らすくらいには好きなんだ?」 瞬が好奇心いっぱいの瞳で忍を見つめる。忍は途端に顔を赤らめた。そのあまりにも素直な反応に、瞬の顔が綻ぶ。 「うわ、可愛い~!! 忍先輩ってば可愛すぎ!!」 「ちが……っ、一緒に暮らした方がなにかと都合が良いだけだ……っ!」 「もー、忍先輩ったらいつの間にそんなに可愛くなっちゃったの? しかもすかちゃん相手にって信じらんない~! ね、ね、すかちゃんのどこが好きになったの? もしかしてエッチが凄いとか!?」 全く持って人の話しを聞かず一方的にまくし立ててくる瞬に、忍はいつものように冷静に対応し切れない様子だ。 「おいコラ、いーかげんにしろよ瞬」 炒飯が出来上がったフライパン片手に、蓮川が瞬の頭を背後から踏みつけにした。すると次の瞬間、瞬の髪がズルッとずれ、蓮川はぎょっと目を丸くする。 「ひどーいっ!! せっかく綺麗にしてきたのに~!!!」 瞬は涙目で言いながら、トレードマークの長髪を頭からはずした。 「おま……っ、髪……!!! ヅラだったのか昔から!!??」 「……そんなわけないでしょ。普通に切っただけだよ。ってかヅラじゃなくてウィッグって言ってくれる?」 大げさなまでに驚愕する蓮川に、瞬は目を据わらせ低い声で言った。 「な、なんで……っ! なんで切ったりしたんだよ!?」 何故か酷くパニックに陥っている蓮川に、 「切りたかったから」 瞬はあくまで冷静に言い放った。 「なんでだよ!? おれがあれだけ切れ切れ言っても切らなかったくせに!!!」 許せない。絶対に許せないと、蓮川は憤慨しながら瞬を責め立てた。 「なんですかちゃんに言われたからって髪切らなきゃいけないわけ? 僕が僕の髪をどうしようが僕の勝手だから」 「おまえ……っ、おれがあの時、どんだけ心配してたと思ってんだよ!?」 「なに、僕が女に見えることですかちゃんに不都合があった? それとも僕が男に襲われる心配でもしてくれてたの? 悪いけど余計なお世話だから。僕だって男だし、襲われたとこで自分でどうにかするよ。それより自分が大事にしてる髪を切れ切れ言われる方がずっと鬱陶しかった! それに人から指図されるとなおさら切りたくなくなるの! いいかげんそーいう気持ち解って!?」 またしてもこてんぱんにボコボコにされ、蓮川は撃沈しながらもまだ悔しさを隠せず、全身を震わせながらフライパンを握り締めた。 「忍先輩の調味料だって同じことだよ。お金の問題じゃないし食べ物粗末にしちゃいけないって確かにその通りだけど、美味しく食べれる気持ちの方も大事だって、僕は思うけどな」 瞬は真剣な瞳でそう言い終えると、不意ににっこり微笑んだ。 「だから早く、すかちゃんが作ってくれた炒飯食べよ? 僕もうお腹空きすぎて限界~」 いつもの様に明るく言い放つ瞬の前で、蓮川と忍は気まずそうにチラリと目を合わせ、同時に視線を逸らした。 夕刻を過ぎ、一通り部屋の片付けを終えたところで、瞬が隣室に帰っていった。 二人きりになると、途端に静まり返る部屋。ソファに隣り合わせに座っているのに、どちらも照れの方が先行してしまい妙にぎこちない様子だ。 (どうしよう……) 蓮川は心の内で焦りながら、ただ「どうしよう」ばかりを連呼する。突然、瞬の言葉が鮮明に思い出され、蓮川はどんよりとした空気を背負った。 言われてみれば確かに瞬の言った通りで、高校時代の自分を猛省すると共に、やっぱり言い過ぎてしまったかもしれないと、忍への言葉にも後悔ばかりを覚える。忍の気持ちなど微塵も大切にしていなかった自分が情けなくなり、いつものように声をかけることは出来ずにいた。怒っているだろうか。それとも呆れているだろうか。せっかく一緒に暮らせるのに、初日からこんなことじゃ、この先本当にうまくやっていけるのだろうか。焦りばかりが蓮川の心の内に募っていく。 そんな蓮川とは対象的に、いつものように冷静な表情のまま、つけっ放しのテレビに目を向けていた忍は、不意に立ち上がった。蓮川がますます焦りを覚える。 「あ、あの……」 「夕食作ってくる」 忍は食卓椅子にかけてあったエプロンを着用し、台所に立った。 (うわ……!) なんか凄い若奥さん!これぞまさに夢に描いていた新婚生活!!と一通り興奮したところで、いやいやと蓮川は首を振る。 「あの、おれも手伝います……!」 「いい。少し時間かかるから、先に風呂入っててくれ」 素っ気無い口調で言われ、蓮川はしゅんと肩を落としながら風呂場に向かった。 ちゃぷんと浴槽の湯が音をたてる。 汗をたくさんかいた後の風呂は最高に気持ちが良い……はずなのに。 もやもやする心のせいで、少しもそうは思えない。それどころか、すぐにでも泣きたいような気持ちでいっぱいで。蓮川は一つの汚れもない清潔な風呂場をぐるりと見渡し、深くため息をついた。一人暮らしの頃には酷く憧れていた自宅風呂。今日は絶対に一緒に入るんだって決めていたのに。いっぱいいっぱいいちゃいちゃするんだってはりきっていたのに。今だって触れたくてたまらないのに。 (あーーー…………っ!!!!!!) 叫び出したい声を必死でこらえながら、蓮川は水面にドボンと顔を叩き付けた。 おれの馬鹿。馬鹿馬鹿馬鹿。もはやそんな自分を責める言葉しか出てこない。どうやって謝れば良いんだろう。どうやったら許してくれるだろう。どうしたら……。 ああだこうだと考えていたら、うっかりのぼせそうなほど頭がクラクラしてきたところで、蓮川は真っ赤な顔で風呂からあがった。 リビングの扉を開くと、良い匂いが食欲を誘った。 食卓を見ると、既にいくつかの料理が並べられている。パスタ。サラダ。スープ。ここまでは解る。しかし他は見たこともない聞いたこともない料理ばかりで、美味しそうと思いながらも二人でどうやってこの量を食うのかと、蓮川は眉をしかめた。 食卓の椅子に座ると、忍がオーブンから取り出したばかりの皿を食卓の中央に置いた。 「焼き鳥……ですか?」 「あながち間違いではないが、正式名は「鶏肉の香草焼き」だ」 あくまで冷静に、しかしどこか呆れたように忍が言った。蓮川が顔を赤らめる。 「いただきます……」 蓮川は丁寧に手を合わせ、おずおずと焼き立ての鶏に箸を伸ばした。 「なんか……変な味します」 「バジル・タイム・ローズマリー・オレガノ。……パセリくらいは解るだろう?」 「はあ……」 小さい頃から、あんまり好きじゃなかったのですが。蓮川はまた余計な一言を言いそうになった自分を戒め、言いたい言葉をぐっとこらえ頷いた。 「パスタにもサラダにもスープにも、同じものを使っている。俺も初めて食べた時は、変な味だと思った。でも今は、これがないと物足りない」 忍はそう言うと、まっすぐに蓮川を見つめ、静かな微笑を浮かべた。 「なるべく無駄にしないよう、レシピを増やしていく。おまえがこの味に慣れるよう、調理も工夫していく。だから……このくらいの贅沢は、許してくれないか?」 優しい瞳でそう訴えてくる忍を前に、蓮川は途端にじわっと瞳に涙を浮かべた。そして必死で涙をこらえながら、まっすぐに忍を見つめる。 「す……すみません、おれ……、ほんとに……駄目で……っ」 今更ながら、なんでこんなにも優しい人が、こんな自分を好きになったのだろう。思いながら後悔ばかりを繰り返す蓮川の前で、忍はただ緩やかに微笑んだ。 それから二人、もう絶対に食えないというくらい食べて食べて食べまくって。残った料理はしっかりとタッパに入れて冷蔵庫に保存して。明日の朝も美味しい朝食が食べられますね。そう笑って、全ての片づけを終えた後、キッチンに立ったまま向き合う。 「今更ですけど……今日から、よろしくお願いします」 昼間は邪魔が入ったからと冗談めかして言いながら、蓮川は改まった表情を忍に向けた。 忍は敢えて言葉にはせず、けれど心の内の言葉は、その幸せそうな微笑からはっきりと伝わってきた。二人同時に唇を寄せ合い、触れるだけのキスを交わす。 (幸せだ……) 蓮川は心で呟き、そっと忍の身体を抱きしめた。 温もりを感じていたら、身体がどうしようもなく反応した。欲望のままに忍のシャツのボタンを外すと、忍がわずかに顔を赤らめながら後ずさった。 「先に……風呂に入ってくる」 明らかに恥らっている忍を前に、蓮川は今すぐにでもめちゃくちゃにしたい気持ちを抑えながら、「わかりました」と頷いた。 「おれも……もう一回、一緒に入っていいですか……?」 けれど辛抱堪らずそう訴えると、 「それはまだお預けだ」 おまえはすぐ暴走するから。悪戯っぽい瞳を向けた忍に、蓮川はしょぼんと肩を落とした。 新婚初夜。(※妄想です) 今日くらいはゴムつけなくても許されるだろうか。そんなことを延々と思いながらソワソワと忍待ちをしていた蓮川は、浴室のドアが開く音を聞きつけると同時にテレビから扉に視線を移した。 湯上りの忍が今まさに壮絶なフェロモンを発しながら姿を表す。無理。もう待つとか無理。ほんと無理絶対無理。抑えきれない興奮をギリギリまで必死に抑え、蓮川はソファーに座ろうとする忍に飛びつき即効で押し倒した。 「ベッドの上じゃなくていいのか?」 「と……とりあえず、ここでお願いします……っ!」 もはやムードも何もあったものではない蓮川は、強引なまでに忍のパジャマのボタンを外していく。白い胸が露になった、その時だった。 突然鳴った真夜中のチャイム。もしやまだ引越し荷物で届いていないものがあったのだろうか。蓮川は心の中で「もう!」と叫びながらも、仕方なく忍から離れインターホンに向かった。 「はい?」 『夜分遅くすみません。今日隣に引っ越してきた者なんですが、挨拶に伺いました』 焦るあまり相手の姿もよく見ず、声もほとんど聞こえちゃいない蓮川は、さっさと挨拶だけ済まそうと玄関の扉を開いた。 「どうも~! 今日からお隣さんの池田光流でーす! っと思ったらおまえ蓮川じゃねーか! えらい奇遇だなこれからよろしく!! 」 何故か真っ白なわんこを腕に抱き、目の前で満面の笑みを浮かべながらわざとらしい台詞を発する人物を前に、蓮川が一瞬にして全身を硬直させる。 え……、またしてもデジャ・ヴュ? なに、なにが起こってるんだ一体? もしややっぱり今までのことは全て夢? 完全にパニックに陥る蓮川を尻目に、光流がずかずかと部屋に足を踏み入れる。そのまま忍の元に突進していった。 「忍っ、偶然だな~? 俺も引越し決めたマンションが、まさかおまえと隣の部屋とは思わなかったぜ!!」 「確実に絶対に120%偶然なんかじゃないだろう!?」 貴様と怒りを露にしながら、忍は抱きついてくる光流の身体を押し退ける。 「ほんと偶然だって、いやマジで! おまえとの思い出が詰まったアパート出るのはすげー辛かったけど、なんせほら、あそこペット禁止だろ? こいつの面倒見るために引越しせざる終えなかったんだよ。おまえが置いていったこいつのために」 やたらと恩着せがましく言う光流の腕の中で、すっかり成犬になったわんこが元気そうにパタパタと尻尾を振っている。忍は悔しげに光流を睨みつけた。自業自得とはいえ、光流にわんこを押し付けた代償はあまりにも大きすぎたようである。 呆然と震える忍の耳元に、またもバタン!!と予想外の音が届いた。 「すかちゃーん、ごめんだけどドライヤー貸して!? 僕のいきなり電源入らなく……って、光流先輩!?」 「おま……瞬!?」 当然のようにずかずかと踏み込んできた瞬が、光流と顔を鉢合わせた。二人同時に目を丸くする。 「隣に引っ越しってまじ!? 光流先輩ってば相変わらず下衆い~!! 最高~!!!」 「偶然だって偶然。よろしくな、瞬」 「うん! うわ、この子可愛い~! 名前なんていうの?」 「可愛いだろ? ほら忍、ご挨拶は?」 「うわ、元カノの名前つけるとか光流先輩ってば相変わらず女々しい~!! さっすが~!!」 「おまえもほんと変わらねーなー?」 あはははははと脳天気に笑い合う二人をよそに、わなわなと肩を震わせる忍と、真っ白に燃え尽きている蓮川であった。 ※おまけ※ そう。僕は傷ついていた。それはもうこの繊細なガラスのハートがボロボロに砕け散るくらいに。(※「どこが繊細だどこが」by光流) すかちゃんのことは好きだ。忍先輩も大好きだ。それと同時に、光流先輩のことも好きっていうか、前の二人と違ってかなりアレな人ではあると思うけど基本良い人だと思うし尊敬もしてる。だからこそ、三人が僕の知らないところでいつの間にそんな泥沼三角関係になっていたのかと思うと、面白す……いやいや、それぞれに大変な想いを抱えているであろう事を想うと、誰一人として僕に相談の一つもしてくれなかったこの空しさ。切なさ。孤独感。 そう、いつだって僕は彼らにとって、大して重みのある人間じゃない。例えるならそこにいるだけで場を盛り上げてくれるゆるキャラ的な。毎日晴れか雨か曇りか教えてくれるお天気お姉さん的な。見てるだけで可愛いと癒される今日のわんこ的な。つまりいてもいなくても大して日常に差し支えないけれど、いないと何か物足りないみたいな、いつも同じ顔でそこにいるのが当たり前みたいになっているそれが僕。 なんなのあの揃って自己中な三人は。いいかげん甘えてない? 僕が見た目か弱い女の子だからって甘えすぎてない? 確かに僕は可愛いもん好きだし可愛い格好も好きだし自分自身も激可愛いけど。一応中身はれっきとした男だし。同じ男であるからには、みんなに対等に見てもらいたいし、頼りにもされたいし。でもそんなこと言って、ただ「してもらう」んじゃ意味ないから、いつもあっけらかんと見せてる僕だけど。僕だって傷つくことくらい、普通にあるんだから……! あるんだからーーーーっ!!!!!!! (って全然傷ついてないけど) というかもうそんな拗ねた感情はとうに通り越したところで、僕は新婚さん(あくまで認めない忍先輩は本気で可愛すぎると思う)二人を、暇な時にただぼんやりと見てるテレビ的な感覚で眺める。 「蓮川、大事な書類をこんなところに置いておくな」 テーブルの上に散らばったままの書類を、忍先輩がさっさと片付ける。 「す、すみません……っ。あの忍先輩、初日って何持って行けば……!」 「文具一式とメモ帳と印鑑。大事なことは全てメモに取るんだぞ。携帯電話をマナーモードにしておくことも忘れるな」 忍先輩がてきぱきと、明日のすかちゃんの入社式に必要なものを揃えていく。 なんていうか……ちょっとやり過ぎじゃないの、忍先輩? すかちゃんもう、十分すぎるほど大人な年齢だよ? と言っても中身はあの頃とちっとも変わってないから、心配になる気持ちは解らないでもないけど、もしや忍先輩って割と男をダメにするタイプ? 「ねえねえ、二人ともなんで、名前で呼ばないの?」 僕が尋ねると、二人は同時にきょとんとした顔つきをした。 「恋人同士なのに、「蓮川」「忍先輩」って、なんか不自然じゃない?」 普通に疑問に思ったから尋ねただけなんだけど、二人は何故か揃って重大な出来事に見舞われたかのように、深刻に顔を見合わせた。 「で、でも、忍先輩は忍先輩だし……!」 ごめん、全然意味わかんない。いや意味はだいたい解るけど、そこでそれに拘る意味が。 「蓮川は蓮川だ」 えぇぇぇぇーーーー……こっちも!!?? なにこの二人、面白い面白すぎる!!! 「じゃあ、一回だけ、呼んでみてよ。「一也」、「忍」って」 面白すぎるからからかっちゃおうとお願いしてみると、二人はまた顔を見合わせ、それから二人同時に首まで真っ赤になった。 (なにこの可愛すぎる生き物達……!!!!) え、名前……名前呼ぶだけのことでそんなに照れちゃうの!!?? なにが恥ずかしいの!!?? やだ可愛い可愛すぎる!!! 心の内で絶叫しながら、僕は再度お願いしてみた。こうなったら聞きたい。意地でも聞きたい二人の名前呼び。 「し、しの……ぶ、……先輩」 すかちゃんが顔を真っ赤にしながら、途中まで頑張ったけどやっぱり無理だったみたいだ。うん解る。凄く頑張ったねすかちゃん!! 拍手!! 一方、忍先輩はと言えば。 「……」 「か」の口から止まってる、止まってるよ忍先輩!! 最初の一文字も言えないってどんだけ!!?? さんざ迷った挙句に、忍先輩はついにぷいとすかちゃんから顔を背けた。見た目はあくまで無表情だけど、耳は赤く染まっている。照れてる。照れてるんだね忍先輩……。何をそこまで照れるのかさっぱり解らないよ僕には……。 「忍先輩、すかちゃんの名前解ってる? 一也、だよ。か・ず・や」 僕はそっと、忍先輩の耳元に囁いた。すると忍先輩は、キッと鋭い瞳で僕を睨みつけてきた。 怒ってる。ってか拗ねてる。出来ないからって僕に八つ当たりはどうかと思うけど、ヤバい凄い可愛すぎてもっと苛めたい。 「お願い、言ってみて? すかちゃんも聞きたがってるよ?」 にっこり笑って言うと、忍先輩はちらっとすかちゃんに顔を向けた。すかちゃんは相変わらず顔を真っ赤にしながらも、どこか期待に満ちた眼差しを忍先輩に向けている。やだこっちも可愛い可愛すぎる!! なにその「拾って?」みたいな柴犬の瞳!! 「……か……」 忍先輩もその瞳に胸打たれたのか、ようやく最初の一言を発したけれど、後が続かない。だから何をそこまで躊躇する必要があるのか、僕にはさっぱり解らないんだけど、すかちゃんは何かを察したようだ。 「……いいですよ、無理に呼ばなくても。やっぱり、今までのほうが自然だし」 困ったように笑いながら、すかちゃんは言った。 わあ、すかちゃんが成長してるーーー!!! なんかいきなりハイスペック彼氏になってるーー!!! 胸が打ち震えるほどの感動を覚えていると、忍先輩もやはり同じことを感じたのか、瞳をうるっと潤ませた。解る、解るよ忍先輩!!! すかちゃんグッジョブ!!!! 「……すか……」 突然、呟くように発した忍先輩の声に、僕とすかちゃんは同時に首をかしげた。 「すか、なら、呼べる……」 忍先輩は、ぽつりと小さく口にする。 なんか凄く頑張ってるみたいに言ってるけど、確か名前呼ぶだけの話だよねコレ……? 「あ、ありがとうございます……!!」 ってなんでそこで「ありがとう」----!!!???? しかもすかちゃん、すっごく嬉しそうだし!! 目キラキラと輝いてるし!!!! 「すか」 「……はい」 「すか?」 「はい……っ!!」 でも、凄く嬉しそうに、凄く幸せそうに、そんな風に呼び合う二人を目前にしていたら、これこそまさにゆるキャラ的な。お天気お姉さん的な。今日のわんこ的な。つまり凄く癒されて、安心して。ああ幸せだなぁ。毎日ずっと、こんな風景を見ていたいなぁ。そう思えたから、僕も二人に「ありがとう」って心の中で呟いたんだ。 ……それにしても。 「すか……ちゃん?」 「はいぃぃぃっ!!!」 たぶん心の中で同時に「可愛い」ばかりを繰り返しているバカップル二人を前に、もう勝手にやっててと呆れた僕は、そっと二人の元を去って光流先輩の部屋に飲みに向かったのだった。 |
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