Mother



 
 木枯らしが吹き、寒さに震えるばかりの季節。
 あれからというもの、蓮川は会うたび首に緑色のマフラーを首に巻いている。
 そうしてふと、思い出す。炬燵に足を突っ込んだ蓮川の肩にかけられている、縞模様の半纏。今だ大事に着続けているのは、やっぱり……。
 手作りの贈り物に涙を流すほど喜んでいた高校時代を思い出し、忍は表情を曇らせた。

「先輩、寒くないですか? これ着ます?」
 明らかに薄着の忍に、蓮川が肩にかけていた半纏を差し出した。
 しかし忍は無表情のままそれを拒んだ。
「大丈夫だ」
「でもそんな格好じゃ、風邪ひいちゃいますよ? これ暖かいですよ、先輩もよく着てたでしょ?」  
「要らないって言ってるだろう」
 忍が酷く鬱陶しそうに跳ね除けると、半纏はバサッと音をたてて床の上に広がった。刹那、忍はハッとした表情を見せるが、やはり頑なに口を閉ざしたままだった。蓮川が小さくため息をついて、床の上の半纏を拾い上げる。
「どうして今日はそんなに不機嫌なんですか? おれ、また何か悪いことしました?」
「覚えがないなら何もしてないんだろう」
「またそーいう遠回しな言い方を……。思うことがあるならはっきり言って下さいって、いつも言ってるじゃないですか」 
「言ってるだろう。優柔不断。気が利かない。鈍い。無神経。馬鹿」
「それは聞き飽きました! そーじゃなくて怒ってる理由を具体的に言って下さいと言ってるんです!!」
「……なにも怒ってない」
「嘘だ」
 ふいと目線を逸らすと、両頬を挟まれ強引に顔を覗き込まれる。まっすぐな瞳に見つめられ、忍はますます頑なに口を閉ざした。
「言わないなら、今日はもう何もしませんよ?」
「しなくて結構だ」
「あ、そーですか。じゃあもう知りません」
 蓮川が目を据わらせる。そのままぷいと背を向けられ、忍は悔しさに肩を震わせた。
 間髪入れず蓮川の頭に枕が飛んできたかと思うと、ティッシュの箱やら漫画やら、しまいには時計がゴンと派手な音をたてて蓮川の後頭部を直撃し、蓮川は頭の血管をぶちっと切れさせた。
「幼稚園児ですかあんたはっ!!!」
 しまいに包丁でも投げかけない忍の腕をぐっと捕らえ、蓮川は猫かと見間違うほど逆毛を立てている忍を厳しい目で見下ろした。だが隠さず怒りを露にする忍は、完全にいつもの理性を失っている。互いにいっそ本気で殴ってやろうかと思ったその時、蓮川の携帯電話が着信音を鳴らした。
「すみれちゃん? どうしたの? うん……わかった、すぐに行く」
 どうにも怒りの収まらない忍は、蓮川が電話を切らない内に立ち上がる。すぐに部屋を出ようと歩を進めるが、蓮川の手に腕を捕らえられ遮られた。
「どこ行くんですか?」
「帰る」
「まだ話は終わってません」
「また実家に行かなきゃならないんだろう」
「後でいいです。それより今は、こっちの方が大事ですから」
 真剣な瞳で見据えられればられるほど、忍の心は頑なに線を張った。
「おまえと話す事など何もない。いいからさっさと実家に戻れ。なんなら一生帰って来なくても構わないぞ」
「一生ってなんですか!? おれの家はここですけど!!」
「いっそ無駄な家賃払ってないで実家に帰った方が、向こうにとっても都合良いんじゃないか? いつでも無償で子守を頼める、都合の良いベビーシッターがそばにいてくれた方がな」
「……なんて言い方するんですか」
 最低最悪な物の言い方だとは自分でも解っていた。指摘されるとなおさら自分の醜さが浮き彫りにされ苛立ちばかりが募り、次から次へと溢れてくる言葉を抑制することはかなわなかった。
「実際その通りだろう? 安い惣菜や手編みのマフラーで誤魔化されるおまえもおまえだが、あの女に良いように利用されてるのがまだ解ら……」
 言い淀んでいた胸の内を暴露させたその時、突然頬に強い衝撃が走った。
 ジンと痛みが走る打たれた頬よりも痛む心を抱えたまま愕然とする忍に、蓮川は本気で怒りを露にした瞳を向ける。
「おれのことはいくら言っても殴っても何を投げても構いません。でもすみれちゃんのことは……お願いだから、悪く言わないでください……」
 蓮川は握り締めた拳を震えさせ、あくまで抑えた声色でそう言い放つと、忍に背を向けて部屋を出て行った。何も言い返すことも追いかけることも出来ないまま、忍は小さく肩を震わせた。



 今度こそ、もう本当に、終わりなのかもしれない。
 喧嘩なんてこれまで、数え切れないほどしてきた。いつでも躊躇することなく言いたい放題言ってこれたのは、蓮川なんかに負けるはずないという自信があったから。それは裏を読めば、蓮川がいつでも必ず妥協してくれるという確信があったからだ。
 でも、今回は違う。
(本気で、怒ってた……)
 暗い夜道をとぼとぼと歩きながら、忍は込み上げてくる感情を必死で堪えた。
 蓮川の馬鹿。馬鹿馬鹿馬鹿。心の内で何度も呟く。確かに自分も言い過ぎたかもしれないけど、だからって──。
 何も解ってはもらえない悔しさ。それ以上に、あんな言葉しか吐くことが出来なかった自分が大嫌いで、自己嫌悪で死にたくなる。
 嫌われて当然だと解っているのに、何故変わることが出来ないのだろう。どうしてもっと、優しい言葉が選べないのだろう。 蓮川の怒った顔を思い出すと、後悔と恐怖ばかりが波のように押し寄せてくる。
 ふと忍は、足をぴたりと止め立ち止まった。明かりのついた目の前のペットショップに視線を向けると、無意識の内に足が動いた。


 まばらに客が歩いている店内に入ると、ショーケースの中で尻尾を振る真っ白なポメラニアンの姿が視界に飛び込んできた。大きくて真っ黒な瞳をキラキラ輝かせるその子犬の前に、忍は膝を落とした。すると妙に気持ちは和み、いっそもうこいつで良いかもなどと思った瞬間、瞳がよく似た恋人の無邪気な笑顔を思い出し、瞳にじわっと涙が浮かぶ。
「良かったら、抱っこしてみますか?」
 不意に女性店員に柔らかい声をかけられ、忍はいつものように拒否することを忘れた。
 ふわふわの子犬をそっと手渡され、忍は内心激しく戸惑いながらも、店員の手から子犬を受け取った。柔らかい毛と、人肌以上に温かいぬくもりを感じたら、突然に怖くなった。生きているものなのだという実感が伴ったせいだろうか。どうして良いか解らないまま抱いていると、子犬は相変わらずハッハッと息をしながら、真っ黒な瞳を右往左往させている。その様子はやはり愛しい恋人によく似ていて、忍は静かに微笑した。
「名前! 名前、なににする!?」
 ふと忍の耳元に、小さな子供の声が届いた。
 振り返ると、そこには同じように子犬を抱っこしながら嬉しそうに目を輝かせた女の子と、その隣に並ぶ兄らしき男の子、そしてその両親の姿があった。どうやら犬を購入したばかりのファミリーらしい四人と一匹の光景に、忍の心はズキンと痛んだ。
「おれも、おれも抱っこしたい!!」
「やだ! わたしが抱っこしてくの!!」
「こら、ちゃんと抱っこしてあげないと怖がってるでしょう?」
「そうだぞ、今日からおまえ達の妹なんだから、みんなで大事にしような?」
 父親と母親に言い聞かされ、子供たちは奪い合いを止めて子犬の頭をそっと撫でた。
 子犬はやや怯えながらも、どこか嬉しそうに目を輝かせながら子供たちを見つめる。
 そんな光景を前に、忍は生まれて初めて、この場所も悪くないと思えた。
 たとえ血が繋がっていなくても、まったく別世界の生き物でも、偶然出会いほとんど一目惚れでも。
 この場所をきっかけに、一生を共にしていく家族に出会えるのなら。
 それはやはり、かけがえのない奇跡なのだろうと思った。
「……来るか?」
 一度だけ聞いて、返事がなかったら、もうこれで終わりにしようと思った。
 それなのに、目の前の小さな小さな生き物が、「クゥン」とか弱い声をあげたものだから。
 離すことは、出来なくなった。





『行っといで。バカ息子』
 緑林寮への入寮日。そう言って笑って見送ってくれた母の声を思い出し、光流は号泣した。
「チョッパーぁぁぁ……っ」
 俺、おまえの気持ち解るよ解りすぎるよ。光流の手元に広げられた漫画本に、涙の雫がいくつも零れ落ちる。もう無理。もう限界。泣きすぎて死ねる。やばいやばいと心の内で絶叫する光流の耳に、ふと玄関のチャイムが鳴り響いた。光流は慌てて涙を拭い、玄関口に向かう。
 扉を開いた瞬間、光流の瞳が大きく見開かれた。


 一体全体、何がどうなってこうなっているんだ。
 扉を開けるなりいきなり大量の荷物とポメラニアンの子犬を突きつけ、「まず何をしたら良い?」と尋ねてきた忍をチラチラと見つめながら、光流は火をつけたヤカンの中の水が沸騰するのを待ち続ける。
 部屋の中央に置かれた炬燵に座り、ペットショップで衝動買いしてきたらしい子犬をじっと見つめ続ける忍は、可愛いと言えば可愛いけれど不気味と言えば不気味すぎる光景。なんとも言えない心境の光流であった。
「なんでそんな無謀なことしたんだよ? おまえ動物なんかまるで興味ねぇくせに」
「マンションはペット可だから心配ない。大きくなるまでは、仕事の間はペットシッターに頼むつもりだ。だから大丈夫、何も問題ない」
 実に忍らしい現実もしっかり見据えた回答が返ってきた。光流は安堵すると共に、相変わらずな忍を仕方ないように見つめた。
 お湯でふやかしたドッグフードを差し出すと、よほど腹が空いていたのかガツガツと食べ始める子犬を前に、二人はしばし沈黙を保った。
 水玉のマグカップに注いだコーヒーを、光流は無言のまますすった。忍もまた、もう一つのマグカップに手を伸ばす。相変わらず口は閉ざしたままだが、瞳は確実に何かを言いたそうで、たまにチラッと向けられてはまた逸らされる視線に、光流はやや苛立ちを覚えた。 
 頼むから言いたいことがあるならハッキリ言ってくんねぇかな。光流は心の内で叫びながらも表には出さず、ひたすら忍の言葉を待ち続けた。
 おそらくは犬の世話など口実に過ぎず、他に胸の内に抱えていることがあるに違いないのだが、尋ねたところで素直に本当のことを言ってくる相手ではない。忍の性格は嫌というほどよく解っている光流であった。



(言えよ頼むから……!!!!!)
 しかし無言のままテレビを見ながら時間が経過すること一時間。子犬は既に忍の腕の中で爆睡している。そういえばほぼ一日中どころか酷い時は三日以上、こんな風に待ち続けたこと多々あったなと過去の記憶を思い出しながら、何か言いたそうで言えない忍を前に耐える光流であったが、もはや我慢も限界というところでぽつりと忍が口を開いた。
「光流……」
「あ?」
 光流は到って平静を装いながら、忍に目を移した。
「もし……もし初恋の人がいつもそばにいて、好きな気持ちは変わらないまま新しい恋人が出来たら、おまえならどうする……?」
 忍の問いに、光流はガクッと肩の力が一気に抜けた。
 それまるで例え話になってねぇし。そのまんまだし。思いながら、呆れた眼差しを忍に向ける。
「相変わらずすみれちゃんすみれちゃん言ってるわけか、蓮川の奴は」
 光流のあまりにも直接的な言葉に、忍の頬がカッと赤く染まった。
「で? なに? ヤキモチ? なにそれ? おまえ俺に喧嘩売ってんの?」
「なんでおまえに喧嘩売ることになるんだ……!」
「なるに決まってんだろ? まだおまえのことが好きな俺に、蓮川のことが好きすぎてどうしようって言ってるようなもんだぜ?」
「そんなこと言ってない!」
「言ってるつってんだろこのクソガキ!! 人の気持ちをちったぁ考えろこのド天然!!」
「人の気持ち考えろとかおまえにだけは言われたくない!!」
 いつものように一頻り言い合ってゼイゼイと肩で息をすると、二人同時に疲れ果て意気消沈し、目の前のコーヒーに手をつける。
 全くと憤慨する光流の目の前で、コーヒーを一口すすった忍の瞳から、突然ぽろっと涙がこぼれた。光流がぎょっと目を丸くする。
「おま……っ、泣くほどのことか!? あいつとすみれさんがデキてるわけねぇだろ!!??」
「ち……が……っ、勝手に、出てくるんだ……っ」
 もはや止められないと言わんばかりに後から後から涙を溢れさせる忍を、光流は呆然と眺めた。
 凄ぇ。恋の力って凄ぇ。などと感心している場合ではないと思いなおし、そうじゃなくて今がチャンスだとばかりに忍の身体をぎゅっと強く抱きしめる。
「もう……忘れろよ、そんな奴のことなんて」  
 光流は非常にわざとらしい、恋愛ドラマばりのシリアス顔で真剣な声を放った。
「おまえには、俺がいるだろ?」
 よっしゃこの顔で堕ちない女いない!!などと思いながら、忍の濡れた瞳をまっすぐに見つめる。いける。このままキスいける。心の中でガッツポーズを決めたまま、ゆっくり顔を近づけたその時。
「蓮川がいい……っ、蓮川じゃなきゃ嫌だ……っ」
 完膚なきまでに叩きのめされ、光流は心の中で号泣したのであった。


 もう何で俺、もっとしっかりがっつり捕まえておかなかったんだろう。
 俺の馬鹿。馬鹿馬鹿馬鹿。こいつが俺を信頼し切ってたからって、油断してたにも程がある。もともと釣った魚に餌はやらない主義だけど、もう二度と釣れない幻の珍魚くらいもっと大切に大切にするべきだった。高い餌も優しい言葉も限りない愛情も注ぐべきだったのに。忍だからちょっとくらい放っておいても大丈夫だろうとか、仕事なんだから解ってくれるだろうとか、多少怒らせてもすぐまた許してくれるだろうとか、何があっても絶対に愛し続けてくれているはずだと信じきっていた己の傲慢さが憎らしい。
 そんな下衆の後悔ばかりを繰り返しながら、光流は炬燵に入ったまま眠る忍の髪をそっと撫でた。
 不意に忍の言葉が蘇る。
『おまえは俺一人で満足できる人間じゃない』
 なんだか色々と、複雑に考えすぎてやしないだろうか。でも、それが深層心理だといわれれば、確かにそうなのかもしれない。求めすぎていたのだ、あまりにも多くのものを。そして気づいた時には、もう遅すぎた。求めすぎた結果、一番大切なものを失い、失って初めて気づく愛しさ大切さ。
(やっぱり……)
 好きで好きで、どうしようもない。
 こんな風に酷く残酷な形で自分を翻弄させる今ですら、命を懸けても守りたいと思ってしまう。それが忍のことを、更に苦しめていると解っていても。
 だからこそ、蓮川じゃなければダメだと言い張った忍の気持ちも、痛いほどに解る光流だった。
 駄目なんだ、他の誰かじゃ。どうしても、どうしても、世界にたった一人しかいないおまえじゃなければ。
(くそ……っ!)
 どうにもならない現実に目を向ければ向けるほど、光流の胸の内に募ってくるのは蓮川への苛立ちばかりだった。
 いっそこのまま力づくで奪ってしまおうか。そう思いながら、忍の頬に手を寄せ、唇をそっと近づける。
 けれど。
 忍の瞳から涙が一筋、こめかみを伝った。
 光流は切なげに目を細め、そっと手を離した。    


 マグカップに入ったコーヒーと、トーストと目玉焼き。朝は決まっていつも同じだった光流の朝食。一緒に暮らしていた大学時代は、うんざりするばかりだったのに。懐かしい味を口にしたら、何故だか無性に泣きたくなった。
「泣きながら食うのやめろっ!」
 いや気持ちは解るけど。俺もおまえに完全にフられたと悟った日には牛丼10杯泣きながら食いまくって、隣に座る正十にドン引きされたけど。思いながら光流は、泣きすぎて真っ赤になった忍の瞳をタオルで拭ってやる。
「何度も言うけど、そんなに辛いならあいつのことは諦めて俺のところに……」
「嫌だ」
 どれだけみっともない姿を晒しても、そこだけはきっぱりはっきり自信を持って言う忍を前に、光流はわなわなと肩を震わせた。
 どんだけ嫌われてんだ自分!!と心で泣きながらも、忍の涙にはめっぽう弱く。突き放すことも出来ないまま、結局は思い切り甘やかしてしまう。
「じゃあどうすんだよ、ここで泣いてるだけじゃ事態は何も変わらねーぞ」
 いつまでもうじうじいじけてないで、自分から謝るなりなんなり行動を起こせと思う光流だが、頑なになっている忍の殻をそう簡単に破れるはずもなく。
「……もういい。あんな駄犬こっちから捨ててやる。しばらくはこいつの世話で忙しいしな」
「ってカッコつけて言っても全然説得力ねぇんだよ馬鹿!! 現実から目を逸らすなっ!!!」
 あまりの苛立ちに、忍の頭をぱこっと軽くはたいて光流は言った。
「365日逸らし続けてるおまえに言われたくない」
 忍が子犬をぎゅっと抱き込みながら、恨みがましい目を光流に向ける。途端に光流が言葉に詰まった。
「営業なんてカッコつけた事言ってるが、一人の客に腐った商品売りつけることくらい、それこそおまえのその実生活においてはなんの役にも立たない顔面を利用すれば数分もかからない造作もないことだろう? それなのに何故、たった一人の客に何時間も何日もかけて話を聞いてからようやく売る必要があるんだ?」
 突然に真剣な瞳を向けられ、光流は目を見張った。
 それから、心の内で苦い笑みを浮かべる。ほんとに、相変わらずこいつは。自分自身ですら知りたくない、認めたくない心の奥深い部分に、ずけずけと上がり込んでは追い詰めてきやがる。光流は愉快な気分さえ覚えた。
「……意味なんかねーよ。いいから、人のことは放っとけって。それより今は、おまえの問題を何とかしようぜ?」
 本当は、今すぐ本当の気持ちを洗いざらいぶち撒けて、すっきりしたい気分だった。でもそれは、男としてあまりにカッコ悪すぎるから。
 光流は心の内で失笑し、忍の腕の中の子犬を取り上げた。
「悪ぃ、ちょっとだけ待っとけ。おまえのご主人様と、大事な話があるからな」
 光流は子犬に向かってそう言うと、移動用のケージに子犬を隔離した。
 忍がどこか不安気な瞳を向けてくる。縋るものがどこにも無くなった忍は、まるで捨てられた子猫そのもので、有無を言わさず拾って自分のものにしてどこまでも甘やかしてやりたくなる。
 光流は忍に歩み寄ると、そっとその肩に手を置いた。刹那、忍の肩がわずかに震えた。
「本気で蓮川と別れるつもりなのか?」
 光流が真剣な表情で尋ねると、忍は戸惑いがちに小さく頷いた。
「だったら俺にももう一度だけ、チャンスくれよ。もう本当に絶対に、これで最後にする。だから……」
 光流は酷く真剣な瞳でそう訴え、忍の唇に自分の唇を寄せた。柔らかい感触を唇に感じたら、止まらなくなった。そのまま背後に押し倒し、更に荒々しく咥内を蹂躙する。
「……ん……っ、や……」
 しかし忍から求めてくることはなく、顔を逸らされあっさり唇は離されてしまう。
 今忍が何を求めているのか、誰を求めているのか、一瞬で判断できるほどに、忍の瞳に浮かぶ涙がそれを証明していた。ああ、やっぱり、失ったものはあまりにも大きすぎた。光流は切なげに目を細めた。
「もう一度聞くぜ、本当に蓮川と別れるつもりなのか?」
 今度別れると頷いたら、本気で全力で自分のものにしてやろうと思った。
 けれど、忍は瞳からぽろりと一粒涙をこぼし、首を横に振った。
「嫌……だ、別れたくない……っ」  
 ようやく胸の内を漏らした忍を前に、光流の心の内はただただやるせないばかりで。
 光流は密かにチッと舌打ちして身体を起こすと、炬燵の上に置かれた携帯電話に手を伸ばした。
「もしもし蓮川? 今、忍うちにいるぜ。いいか、五分だ。五分だけ待ってやるから今すぐ来い。言っとくけど、俺は一秒も待たねぇからな」
 激しく苛立ちながら光流は携帯電話を切った。くそ、なんでこんな敵に塩を送るような真似を。思いながらも、まだ心のどこかでは諦めていない。五分。五分で来なければ今度こそ、絶対に、何がなんでも。
 そう、固く決意したのに。


「忍先輩っ!!!」
 はえーよ普通不可能だろうおまえは超人か!!?? そんなツッコミをせずにいられないほど四分五十九秒ぴったりに駆けつけてきた蓮川を前に、光流にはもはや「敗北」の二文字しかなく。
 しかも、闘争心剥き出しのオーラを背負ったままずかずかと詰め寄ってきた蓮川に、今度こそ絶対に何が何でも避けてやろうと思っていた握り拳を、避ける間もないほどの脅威的なスピードでくらったとなれば、もう完全に負けを認めるより他はなく。
 勇敢な王子様によって助け出されたお姫様は、振り返りもせずに去って行ってしまったのでありました。光流は心の中で一夜限りのおとぎ話を完結させたのだが。
「……って、あいつ何か忘れてねーか……?」
 畳の上に倒れた光流は、ハッハッと荒い息を頭上に感じ目を開く。
 やっぱりあいつはどーしようもないお姫様だ世間知らずだ無責任かつ無邪気な超絶クソガキ我儘姫だ。
 あっさりご主人様に置き去りにされた子犬を前に、いったいどこにどうぶつけたら良いのか解らない怒りと共に、光流は自分と同じくらいに哀れな子犬をぎゅっと抱きしめたのであった。


 光流の家から連れ出され路地を歩くこと三十分、一言も口を利かないまま腕を引かれ続ける。
 何か。何か言わなければと思うのに、言いたかったはずの言葉は一つも発せない。光流の家で一晩過ごしたという事実が、蓮川にとってどれほどの打撃かを想像すればするほどに、忍の心は罪悪感と恐怖でいっぱいになった。
「はす、蓮川……!」
 忍が思い切って声を発すると、蓮川はようやくピタリと足を止めた。けれど、目も合わせてくれない。それどころか、表情は怒りに満ちていて。ピリピリと神経を尖らせるその様子を目前にしたら、とても言葉など発せなくなった。
「……何か、されましたか?」
 視線は合わさないままに問われ、忍は反射的に首を横に振っていた。
「本当に?」
 再度尋ねられ、忍は小さく頷く。
 すると突然、がばっと蓮川に抱きつかれ、忍は大きく目を見開いた。
「良かった……っ、おれ、もう絶対に間に合わないと……」
 心底安堵したように言ったかと思うと、蓮川はその場にずるずるとへたれ込む。
 いつもの事だが、いったいどういう速度で走ってきたのか。肩の力を抜いた途端に力尽きた蓮川と共に腰を落としながら、忍の心もまた安堵の内に泣きたくなった。
「馬鹿……」
 一度声を発したら、止まらなくなった。
「馬鹿……馬鹿……っ!」
 地面の上に座りこんだまま、忍は蓮川の首に腕を回しぎゅっとしがみつくように抱きついた。蓮川が頭の上に疑問符を並べながら、目を丸くした。
「す、すみません……! 殴ったりして、ほんとにほんとにすみませんでした……っ!」
 いつものように焦りながら強く抱きしめられて、忍は更に罵りたくなった。
 でも本当は、解っている。
 どうしようもない馬鹿だって罵りたいのは、思い切り殴り飛ばしたいのは、他の誰でもない自分自身で。
 自己嫌悪と後悔ばかりを繰り返しながら、忍は何度も心の内で「馬鹿」と叫び続けた。



 飛び込んだ近場のホテル。部屋に入るなり、もう我慢できませんとばかりに蓮川に唇を重ねられ、忍もまた溢れる感情のままに蓮川の首に腕を回し、二人一緒にベッドの上に倒れ込んだ。
 何度も舌を絡ませ合う。混じり合う唾液が顎を伝い、次第に荒くなる息と熱くなる肌。欲情を隠さず、忍は自ら服を脱ぎ上半身を露にした。蓮川もまた同じように、引き締まった肉体を露にする。素肌を重ねあえば、更に身体の芯が疼いた。
「先輩……これ……」
 蓮川の唇が首筋に触れたかと思うと、突然身体を引き離され、忍は切なさに身を捩った。
「どう見ても、キスマーク……ですよね?」
 蓮川の言葉に、忍は愕然と目を見開く。
 そして光流の顔を思い出し、カッと顔を赤らめた。あの下衆、いつの間にこんな痕を。どうせあいつのことだ、人が寝てる隙を狙ってやったに違いないだろうが、まさかそれ以上のことをしていないだろうなと、急激に不安に駆られた。気が動転していたとはいえ、あまりに迂闊すぎる自分の行動を思い切り後悔しながら、忍は速攻で「違う」と否定した。けれど、忍の首筋にくっきりと残る赤い痕を前に、それ以上言い訳が出来るはずもなく。
「やっぱり……」
 思い切り疑いの眼差しを向けてくる蓮川に、忍は思い切り首を横に振った。
「違う……! これは寝てる間に勝手につけられただけで、本当に何も記憶にない……!」
「じゃあ、証拠見せてください」
 射るような蓮川の瞳に、忍はごくりと喉を鳴らした。

 まるで獣のような自分の姿があまりにも惨めで情けなくて、忍は屈辱と羞恥に表情を歪ませながらも、呼吸は徐々に乱れていく。
「もっと開かないと、奥まで見えませんよ?」
 責める言葉がなおさら欲情を煽り、忍は羞恥に顔を紅潮させながら、高くあげた尻の蕾を右手の指で広げた。左手だけで支える体制が酷く辛い。けれどそれよりももっと、恥ずかしい部分に寄せられる蓮川の視線が耐え切れず、忍は大きく広げた足をふるふると震わせた。
「もう……、いい……だろう……っ」
「何がですか? 中は確かに無事だったみたいですけど、他のところは証拠が残らないので確かめようがないんですが」
 これ以上、何をどうしろと言うのだ。蓮川の冷徹な台詞に、忍の瞳にじわりと涙が滲んだ。蓮川の目の前に晒す蕾が羞恥のあまりヒクヒクと震える。嫌だと心で叫ぶのに、みっともないほどに反応を示しているペニスを、後ろからぎゅっと握り込まれた。忍の身体がビクンと跳ねあがる。
「ここも、触られたんですか……?」
「……ん……、ちが……っ、何も……されてな……」
「どうだか。本当は、こんな風に気持ち良くしてもらったんじゃないですか?」
「あ……っ、ぁ、あ……!」
 ペニスを上下に扱かれ、忍は首をのけぞらせシーツを掴む手に力が篭った。
「何回イかされたんですか? 光流先輩の手で。舌で。……唇で」
 まるで今までの鬱屈を全て晴らすかのように、どこまでも責め立ててくる蓮川の言葉に追い詰められ、忍はただ切に許しを請う。こんな風に追い詰められるくらいなら、いっそ殴り飛ばしてくれた方が遥かにマシだとすら思った。
「ちゃんと、答えてください」 
 突然、バシッと音をたてて尻に衝撃が走った。続けざまに何度も平手で打たれる。痛みと屈辱に交互に襲われる。それでもなお逆らえず黙って耐えていると、再度ペニスを扱かれた。
「先輩、もうお尻真っ赤ですよ? それとももっと、叩かれたいですか?」
「……や……っ、も……、やめ……っ」
「嫌がってる割には、気持ち良さそうですけど」
 パシンと、強くも弱くもない力で叩かれるたびに、奥がジンと疼いて切なさに身悶える忍のペニスから、先走りの液が溢れる。蓮川は更に強く忍の尻に手を打ち下ろした。
「ひ……ぁ……っ、あ……、もう……もう……っ!」
 繰り返し扱き打ち据えていると、不意に忍が背をのけぞらせた。同時にシーツの上に大量の精液が放たれる。絶頂を極めた忍は、赤くなった尻を突き上げたままシーツの上に顔を埋め、荒く呼吸を繰り返した。
「もう一度聞きますよ先輩。本当に、何もされてないんですね?」
「あ……!!」
 答えるよりも先に侵略され、忍はシーツにしがみついた。次々に襲い来る波に歯を食いしばる。達したばかりで引き戻され、新たに与えられる快楽。息が出来ないほどの苦しさに、喘ぎは悲鳴にも近い。忍は二度目の精を放つと、膝を崩しシーツの上に突っ伏した。
「まだ、お仕置きは終わってません」
 荒く息を吐き、汗と涙と精液にまみれた忍の身体を、蓮川は仰向けに反転させて両足を肩に抱えた。
 容赦なく、鎮まることのないペニスを最奥まで侵入させる。激しく腰を揺らしながら、忍の乳首に歯を立てた。
「い……ぁ……っ、あ、あぁ……っ!!」
 もう駄目だと、無理だと、どれだけ忍が訴えても、聞き入れてはもらえなかった。
 けれど絶望の隙間に飛び込んできた蓮川の獣のような瞳が、あまりに強くて逞しくて。ゾクリと背筋に戦慄が走る。
「あ……はす……かわ……、蓮川……っ!」
 揺さぶられしがみつき、壊れそうなほど抱きしめられる。
 波のように押し寄せる熱情は止まることを知らなかった。
 
 

 ホテルを出た後は、なんだかやけに優しくて。いつもならすぐ逆切れして反抗してくるくせに。忍は面白くなさ気に蓮川を睨みつけた。
「もう疲れた。タクシー呼べ」
「そんな贅沢言わないで下さい。どうしても歩けないなら、おんぶしてあげますから」
 ふざけるな馬鹿と言った忍に、蓮川は仕方ないように笑った。
 やけに余裕なその態度が勘に触る。苛立ちのままに、忍は蓮川の背に覆いかぶさった。
「出来るものならこのまま家まで歩いてみせろ」
「……先輩、恥ずかしくないんですか」
「全然」
「わかりました。全力で歩きます!」
 蓮川は勢い良く返事したかと思うと、唐突に忍を背負ったまま全力で走り出す。……が、やはり途中で力尽きゼイゼイと息をついた。「馬鹿」と心で呟きながらも、忍は絶対に降りてなんかやるものかと硬く心に誓い、ぎゅっと抱きついた蓮川の髪に顔を埋めた。
「あ……先輩、ちょっと待ってて下さい」
 ふと立ち止まった蓮川に降ろされ、忍はきょとんと首をかしげた。
 道の端に腰を下ろし、立ち上がって戻ってきた蓮カの手には、一輪の小さな花が握られていた。蓮川はその花を握ったまま、忍の左手をとる。
「あれ……指輪って、どうやって作るんだっけ……」
 なにやら焦りながら忍の左の薬指に白い花の茎を巻きつけるものの、思った通りにはいかず、酷く不恰好に巻きつけられただけの薬指の白い花を、忍は相変わらずきょとんとした瞳で見つめた。
「す、すみません……、おれ、不器用で……っ。あの、今はこんなものしかあげられないけど、いずれちゃんとした指輪プレゼントするので、その時まで待っててもらえますか……?」
「……これで対抗してるつもりか?」
 以前光流が口にしていた、高校時代の思い出。どうやらずっと引きずっていたらしい蓮川に、忍は仕方ないようにクスリと微笑んだ。
 そうして、思い出す。
 確かあの時、光流がいつもより元気がなくて。理由が解らなくて、でもどうしても元気になって欲しくて。大丈夫。俺がずっと傍にいるから。そう心の中でそっと呟いて、光流の薬指にはめたシロツメクサの指輪。大好きな人が嬉しそうに微笑んだ顔を見て、自分もまた幸福感に包まれた、遠い遠い記憶。
「いや、あのっ、だって……」
 やっぱり、凄く羨ましかったから。そう言い訳する蓮川に、忍は柔らかい微笑を向けた。
「もう一度、言ってくれないか」
「え……?」
「大丈夫だって……」
「あ……」
 忍の言葉に、蓮川が何かに気づいたように目を開き、それからそっと忍の身体を抱きしめた。
「……おれが、ついてます。ずっと……」
 耳元で、優しい声が響く。
 力強い腕で抱きしめられ、忍は幸福に満ちた表情で瞳を閉じた。
 
 おまえなんかがついてたって、不安にさせられるばかりだし、頼りなくてガキすぎてちっとも安心なんか出来ないし、これからもいっぱい泣かされるのだろうと思うけど。
 あの日のまっすぐな瞳だけは、大丈夫だって。
 本当に、絶対に、嘘なんかじゃないって。
 一生信じ続けていられるような気がするから。
 これから先何があってもきっと、大丈夫だって、心から思えるんだ。


 
 そういえば、すっかり忘れていた。
 ハッハッと目の前で舌を出す、どこかで見覚えのある子犬を見下ろしながらも、忍の表情は到って冷静だ。
「この一週間、俺がどれだけ大変な想いしたか解るか忍? なっかなかトイレの場所覚えないわ、まるで言うこと聞かないわ無駄に吠えるわ人見知りは激しいわ、おまけに物凄い寂しがりのくせにツンデレで、もう俺がいないと生きていけない状態なこいつを一体全体どうしてくれるんだ? え?」
「安心しろ。全ておまえの妄想だ」
 たぶんおまえがいなくても十分に生きていけるそいつは。忍は心の中で呟きながら、腕の中の子犬にすりすりと頬を寄せる光流の肩をぽんと叩いた。
「良かったじゃないか、最高の恋人が出来て。喜んで譲ってやるから、おまえはそいつと幸せになるんだぞ」
「だーれが恋人だ、誰が。犬相手じゃセックスは出来ねぇ」
「俺をそれ専門みたいに言うな?」
 忍は額に青筋を立てながらもにっこり微笑む。
「つかおまえ、無責任にも程があんだよ。俺にも仕事ってもんがあるし、あのペット禁止のアパートでいつまでもこいつの存在隠し通してらんねぇし。おまえが買ったペットの責任くらい、自分でしっかり……」
「責任持ってもかまわんが、俺の躾けは厳しいぞ」
 言うなり忍は、手を出すとガブガブ甘噛み(だけどけっこう痛い)してくる子犬の首根っこを掴みあげ、そのままパッと手を離した。地面に急降下する子犬を、光流が咄嗟に両手で抱き止める。
「おま……っ、こいつまだ生後三ヶ月だぞ!? 殺す気か!?」
「この程度で死ぬような駄犬なら必要ない」
「……前言撤回。やっぱりおまえにこいつは渡せねぇ」
「好きなだけ甘やかしてやるんだな。おまえには必要な相手だろう?」
 忍がどこか不敵な笑みを光流に向けた。
 光流は一瞬返す言葉を失い、それからやや悔しげに口をとがらせる。忍はふっと微笑して、光流に背を向けた。
 しかし。
「しのぶくーん、おうち帰って今度こそおしっこする場所覚えましょうね~? おまえの元ご主人様みたいにどこでも誰とでも構わずしちゃダメでちゅよ~?」
 確実に忍に聴こえるように声を発した光流の言葉に、ピタリと足を止めて振り返る。
「貴様……犬に俺の名前をつけるなこのド変態!!」
 忍の怒号が響き渡った。



「忍先輩……」
「ん……」
「みどりもちゅう~!!!」
「させるかこのクソガキ!!」
 良い雰囲気のところを割って入ってこられ、蓮川が緑の首根っこを掴んで忍に抱きつくのを制止させる。緑がわーんと声をあげて泣き出した。
「それより今日こそピーマン食え人参食え玉ねぎ食え!!」
「やだぁ! しのぶしぇんぱい~!!」
 今日もてんこ盛りの野菜炒めを前に泣きながら抱きついてくる緑を、忍はやれやれと仕方なしに抱きとめる。子供なんか全然好きじゃないのに、何故こうなるんだと思いながら緑を見つめると、小さな手にぎゅっと力を込めてしがみついてくる。またもうっかり胸がきゅんと疼き、忍はわけのわからない感覚に翻弄された。魔性。これが魔性というやつなのだろうか。そんなことを思いながら、潤んだ瞳で見つめてくる緑を前にまたもずきゅんと胸の内が疼く。
「忍先輩、なにやってんですか……?」
「いや、似合いそうだと思って……」
 忍はぼそっと呟きながら、犬の耳がついた帽子を緑に被らせた。いつの間にそんなもの買ってきたんですかと蓮川が目を据わらせる。
 案の定、あまりに似合いすぎる犬耳帽子をかぶりながら嬉しそうににっこり笑う緑を前に、忍はもはや「可愛いは正義」を認めざるをえないと心の内で鼻血を流した。
 やばいこのまま連れて帰りたいと思ったその時、いつも通りの時間にお迎えのチャイムが鳴り響いた。忍は心の内でチッと舌打ちする。
「緑くーん! いい子にしてた?」
「ママぁ!」
 そして非常にラブラブな親子を前に、心の内でハンカチを噛む。
「うわぁ、凄く可愛いお帽子! やっくんが買ってくれたの?」
「あ、いや、それは……」
「そうですこいつが買いました」
 意地でも自分が買ったとは言いたくない(というか認めたくない)忍は、戸惑う蓮川を前ににっこり微笑む。
 すると、すみれが満面の笑みを浮かべ、ガバッと蓮川に抱きついた。
「ありがとう、やっくん!」
 いつもの光景。蓮川にとってすみれは、緑と同じでかけがえのない母親のようなものだと解っている。それでもやはりどうしてもズキンと胸が痛む忍の前で、蓮川はすみれの肩を掴みそっと引き離した。いつもとは違う蓮川の反応に、すみれがやや戸惑いを隠せず目を見開く。
「ごめん、すみれちゃん。もう、こういうこと止めてもらっていいかな?」
 そんなすみれに、蓮川はあくまで落ち着いた瞳で穏やかに言った。
「おれ、今すごく大事な恋人がいて……。その人がこういうとこ見たら、やっぱりどうしても、凄く嫌な気持ちになっちゃうんだ。だから……」
 蓮川の言葉に、すみれの表情が見る見る内に曇っていく。
「そ、そうよね……。わたしったら、気づかなくてごめんなさい……。もう、しないように気をつけるね」
 酷く焦った面持ちでそう言うと、すみれは落ち込み傷ついた表情を隠せないままに、そっと緑の手を引いて帰ってきった。
 すみれを見送った後、蓮川が忍に真剣な瞳を向けた。
「ずっと、気づかなくてすみませんでした」
「俺は別に、何も……気にしてなんか……」
 忍は蓮川から視線を逸らし、精一杯強がってみせる。本心を知られるのは、あまりにみっともなくてカッコ悪いことだと解っていたから。でも。本当は。ずっと。
「本当に?」
 ぎゅっと抱きしめられたら、そんな意地やプライドが粉々に砕け散っていく。代わりに、こらえていた分の気持ちが涙になって溢れ出る。
「うるさい……っ、このマザコン……っ!」
「はい……ちゃんと、卒業します。……不安にさせて、すみませんでした」
 煩い。蓮川のくせに生意気だ。そんな罵倒ばかりを繰り返しながらも、心は酷く満たされて。
 どんどん我儘に自分勝手になっていくのだけれど、もうそんな自分も、許して良いのかもしれないと思えた。

    
「忍……おまえほんとに頭どうかしたんじゃねぇ?」
「何がだ」
「何がじゃねーよっ! マフラーの編み方教えてくれとか正気か!?」
 いくらなんでも色ボケしすぎじゃね!?と光流が突っ込むものの、忍は毛糸と編み針を両手に平然とするどころかポッと顔を赤く染める始末。
「だって、蓮川が俺に編んで欲しいって言うから……」
 あまつさえポッと顔を赤らめながら、口調まで恋人にがっつり影響されている忍を前に、光流はわなわなと全身を震わせた。
 すっかり忘れてたけど、こいつはそういう奴だった。一度思い込んだらとことん突っ走らないと気が済まない奴だった。目的の前には手段も選ばず人の目も気にせず己の限界すら超えてどこまでも爆走する奴だった。こうなるともはや止めることは不可能であることを思い出した光流は、ただひたすらに蓮川を呪い、いつか絶対殺すと硬く心に誓うのみであった。


 とても生まれて初めて編んだとは思えないくらいに見事な手作りマフラーを首に、幸せいっぱいの表情をする蓮川を前に、忍もまた酷く幸せそうで。そのバカっぷるぶりたるや、光流も電柱の影でハンカチを噛み切らずにはいられないほどだった。いやでも忍の幸せが俺の幸せ。笑え笑うんだ光流。
「って笑えるか!!!!」
 笑って祝福するどころかおまえら本気で目を覚ませと張り倒したくなるほど突っ走っている二人を前に、わんこ片手に詰め寄ろうとした光流の目前にふと、同じく電柱の影に身を潜ませハンカチを噛みしめながら二人を見つめるすみれの姿が視界に入り、光流はぎょっと目を見開いた。
「す、すみれさん!?」
 うっかり声をあげると、それまで周囲の視線などまるで気にしていなかったバカっぷる二人が、同時に目を向けた。
「すみれちゃん?」
 いったい何事かと歩み寄る蓮川に、すみれは途端に慌てふためいて言い訳を始めた。
「ご、ごめんなさい……! あの、わたし、どうしてもやっくんの事が心配で……。新しい彼女ってどんな人かなって……。でもまさか、相手がその、男の人だったとは思わなくて……!」
 どうやら母心で蓮川を密かにストーキングしていたらしいすみれは、まさかの恋人を目前に完全にパニック状態のようである。
 しかしもはや完全に開き直っている蓮川は、やや顔を赤らめ照れ臭そうに微笑みながらも、忍の手をぎゅっと握り締めた。
「うん……。改めて、紹介するよ。この人がおれの……」
 そこまで言って蓮川は、ハッと目を見開いた。どうやらようやく、背後から漂う異様な雰囲気に気づいた様子だ。
「俺の、何だよ?」
「あの……いえ、だから……っ」
 凄まじい冷気を放ちながらボキボキと拳を鳴らす光流を前に、さすがに恐怖を隠せない蓮川は、忍の手をとると速攻でその場から走り出した。
「待ちやがれ蓮川っ! てめぇ今日こそぜってぇ殺す!!!!!」
「あんたもいーかげん卒業して下さいっ!!!!!」
 逃げる蓮川を追いかける光流の腕の中で、わんこ(命名しのぶ)がハッハッと嬉しそうに尻尾を振った。