Mother
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仕事を終え帰宅途中に寄った本屋の一角で、忍はズキンと痛んだこめかみを指で抑えた。 このところ、やけに頭痛が酷い。 もともと偏頭痛持ちで、十代の頃から意味不明の頭痛に襲われることは日常茶飯事だった。おそらくは自覚のないストレスのせいだったのだろうと今ならば分かるが、当時は原因が解らず不必要に苛々しては周囲の従順な人間に当り散らすことも少なくなかった。思い出し、忍は後悔の念にかられ小さく息を吐いた。 おそらくはこの頭痛も、仕事のストレスからくるものだろう。明日は久しぶりの休日、やはり家で落ち着いて過ごすべきだろうかと思った刹那、スーツのポケットから携帯の振動音が響いた。 『明日、いつもの場所で待ってますね』 恋人からの短いメールを前に、忍は目を細めて口の端をあげた。 (まあ、いいか) 何も考えず何もせず、一人きりでゆったりと過ごす時間は凄く貴重である。 でも、それよりももっと。 『了解』 メールの返事を打ち送信すると、忍は夜空を見上げた。そっと浮かんでいる三日月を見つめたら、ほんの少し頭痛が和らいだ気がした。 その日は蓮川がたまには外でデートしたいどうしてもしたいと駄々をこねたので、忍は仕方なく大して観たくもない映画に付き合い、あまり好きではないファーストフード店で昼食をとり、やっと家に帰れると思ったら大して興味のないペットショップで足を止められる始末。 「先輩、こいつ可愛くないですか?」 「……全然」 ガラスケースの向こう側で、懸命に尻尾を振ってくるゴールデンレトリバーの子犬を前に、忍は目を据わらせた。 ハッハッと舌を出しながら、やけに興奮した様子の子犬。何故だろう、あいつを思い出して仕方ない。先日も突然電話してきたかと思えば、「忍~、俺のワン○ース17巻どこ置いたか知らねぇ? どこ探しても見つかんねぇんだけど、今すぐ読まなきゃ続き気になって眠れねぇ!!」と夜中の三時に喚いてきた馬鹿のことを。 ただでさえ短い睡眠時間しかとれない日に超絶くだらない内容で起こされ、結局ほぼ徹夜で仕事に行くはめになった日のことを思い出し、忍は今すぐ目前のガラスケースを叩き割りたい衝動に襲われた。 「先輩ってほんと、動物とか興味ないですよね。このウサギも可愛いと思えないんですか?」 蓮川が呆れたようにそう言って指差したのは、もっふもふの毛皮が丸まっているようにしか見えない、真っ白な子うさぎだった。確かにこれはちょっと触ってみたいかもと思った忍だったが、うさぎの真っ赤な瞳と視線が合った瞬間、何故だか敵意を向けられているようにしか感じられなくて、忍は即座に興味を失った。 「思えない。もう出るぞ」 忍は素っ気無く言うと、さっさと店外へ足を向けた。 昔から、ペットショップはあまり好きじゃなかった。 母親から無理やりに引き離され、狭いゲージにぎゅうぎゅうに押し込められている小動物たち。ろくに歩くことも出来ないショーケースの中で、いつも丸まって眠っているばかりの犬や猫。そんな動物達を鑑賞しながら「可愛い」を連発しはしゃぐ人の群れ。きっと誰も考えていやしない。今は幼いこの動物達が、大きくなったらどうなるのか。何十年も生きる犬や猫が、いつまでもこのペットショップで暮らしていけるはずがないことなんて、きっと誰も。 「いつか家建てたら、犬飼うのが夢なんです」 ベッドに背を預けたまま酷く暗い面持ちの忍に、隣に並ぶ蓮川が夢見る瞳で言った。 忍はまったく共感できなかったが、口には出さず蓮川の言葉に耳を傾けた。 「おれ、ずっと家で一人で留守番してること多かったから、憧れだったんですよね。友達の家で、犬が尻尾振りながら真っ先に出迎えてくれるの見て、凄く羨ましいなって。でも、一度だけ子犬拾って帰ったら、兄貴にうちでは絶対に飼えないからって言われて、大泣きして駄々こねて。……今思うと飼えないの当たり前なんですけど、あの頃はガキだったから、すげー困らせちゃいました」 蓮川が苦笑すると、忍はわずかに目を細めた。 「それで、兄貴と一緒に必死で飼い主探して……やっと見つかった時は、凄く嬉しかったです。でも別れる時はやっぱり、また大泣きして。普通の雑種の子犬だったんですけど、今でもあいつの顔ははっきり覚えてます」 「……よくある話だな」 「そうですね、たぶん誰にでも、一度はそういう記憶ありますよね。先輩は? なかったですか?」 「花ならあったかな」 「花?」 「道端に咲いてた花を無理やり引き千切って、綺麗だなと思ったから持って帰って、あっさり捨てたことならある」 きっとあれと同じ感覚なのだろうと、忍は思った。 案の定、蓮川は意味が解らないといった表情をする。とうに過ぎた過去だと、二度と同じ過ちはしないと、思いながら忍は蓮川の頬に手を添え、自ら唇を寄せた。 そんなことより、今は。瞳でそう訴えると、蓮川の頬が紅色に染まった。 時計の時刻は既に夕刻の六時を回っている。忍は悶々とした気分のまま眉をしかめた。 「やっくん、これにがーい!」 「文句言わず黙って食え」 べーっと目の前でピーマンを吐き出す、齢5才の男児を前に、忍は辟易とした想いでティッシュを差し出した。 「しのぶしぇんぱーい、ピーマンとって~!」 「四の五の言わず黙って食えと言ってるだろーが」 完全に泣きが入っている齢五歳の男児に全くもって容赦はせず、ついにはげんこつまでくらわす蓮川を前に、忍は額に青筋をたてた。 「おまえがそうやって無理やり押し付けるから、こいつがいつまでたってもピーマン食えないんじゃないのか?」 「そうやってすぐ甘やかさないで下さい! だからこいつはいつまでも甘ったれて好き嫌い多いんです!!」 「まだ味覚が発達してないんだ、仕方ないだろう? ピーマン一つ食えないくらいで死ぬわけじゃあるまいし、大人げないにもほどがある」 「ピーマンだけじゃありません! きゅうりも茄子も人参も玉ねぎも、こいつ野菜いっさい食えないんですよ!? こんなんで小学校行ったら給食なんっも食えなくなるじゃないですか!! そうなったら困るのはこいつ自身なんです!!」 まるで夫婦喧嘩のごとく言い合いを始める二人を前に、齢五歳の男児──蓮川緑は、ふるふると肩を震わせ、ついにわーんと大きな声を張り上げて泣き出した。 「たべるぅ、みどり、これたべるから、けんか、やめてぇ!!」 言いながら、緑は皿の上にてんこ盛りにされた野菜炒めのピーマンをフォークで口の中に運んだ。しかし思い切り涙目の緑を前に、さすがに蓮川と忍も喧嘩を止めた。 「その野菜いっさい食えない幼稚園児にこの山盛り野菜炒めって鬼かおまえは」 「おれもこうやって好き嫌い克服したので、その文句は全て兄貴に言ってください」 「その父親は何をしてるんだ、何を」 「知りませんよっ! なんか知らないけどあいつ、こいつのことはすげー甘やかしますから! おまけにすみれちゃんもあの頃のまんまで猫可愛がりするばかりだし、そりゃこいつ何も出来なくなって当たり前なんです!」 蓮川の言い分に、忍はなるほどと妙に納得した。 「保険医は一度子育て終えてる時点で、変に心の余裕がありすぎて孫を可愛がるおじいちゃん状態になってるのはよく解った。だがしかし、おまえがこいつの父親になる必要はどこにもないだろう?」 忍がガツッと言って蓮川を睨みつけると、蓮川は途端に怯んだ表情をした。 時を遡ること数時間前。 ベッドの上になだれ込む寸前の二人の耳に、携帯電話の着信音が鳴り響いた。着信の相手は蓮川すみれ。速攻で電話に出た蓮川は、慌てて緑が預けられている託児所に足を急がせ、そのまま家に連れて帰ってきたわけだが。 「し、仕方ないじゃないですか……! いくらパートとはいえ、すみれちゃんだってすぐ仕事抜けられなかっただろうし、兄貴も今日は運動部の引率で遠出してるし……」 「だからといって少し、おまえに甘えすぎじゃないか? 子供の面倒見切れないのなら、仕事などすぐやめて母親業に徹するべきだろう」 「専業主婦って案外息が詰まるものなんですよ……。すみれちゃんもさんざ悩んだ末、今のパート続けること決めたんです。おれも協力するって言った手前、放っておくわけにはいかないし……」 「だからおまえは都合よく人に使われるお人好しだと言うんだ。月に一度や二度ならともかく、週に一度はこうして夕飯食べさせているんだろう?」 「べ、別におれは、そんな苦じゃないので……」 鈍い。やっぱり鈍すぎるこいつ。ある意味幸せな奴だと心の中で辟易しながら、忍は諦めたように息をついた。 つい三ヶ月ほど前から、すみれは緑林寮の食堂でパート社員として働き始めている。その頃から、頻繁に義弟に頼るようになって現在に至るわけだが、忍には理解し難かった。子供一人で経済的にそこまで困っていないのならば、何も無理に働く必要はどこにもあるまい。しかも明らかに年よりもだいぶ幼い、この頼りない子供を放ってまでする価値のある仕事だとも思えない。疑問ばかりを抱きながら、忍は目の前で大嫌いな野菜を泣きながら必死で食べ続ける緑に、どこか同情めいた視線を向けた。 「もういいだろう。こんな塩こしょう振りかけただけの冷めた野菜炒め、俺でも全部食うのは至難の業だぞ」 「すみませんね料理下手で……っ。しかもおれはその至難の業を一ヶ月連続でやってのけましたけど……っ」 「それでその貧相な舌が……」 「本気で哀れまないで下さいっ!」 忍の視線に激しくつっこみながら、蓮川は緑の目の前に置かれた皿をひょいっと持ち上げた。 「わかった、もういい。片付けるからテレビでも見てろ」 諦めたようにそう言った蓮川の前で、緑がしゅんと肩を狭めた。 「しょお、だ、おしょれないで、いーきる、よろこび」 テレビを前に歌って踊り続ける緑を前に、確かにこれで五歳は少し幼すぎるかもと疑念を抱いた忍ではあったが、男児なんて普通はこんなものだろうとも深く考えるのを止めた。バイキンマンけっこう可哀想だななどと思いつつ一緒にアニメに見入っていると、ふと玄関のチャイムが鳴り響いた。 「ごめんなさい、やっくん!!」 蓮川がドアを開くと、緑を迎えにきたすみれが慌てふためいた様子で部屋の中に入ってくる。 その声を聞いた途端、緑がテレビから目を離しぱっと瞳を輝かせた。 「ママぁー!!!」 「緑、遅くなってごめんね~!!」 しかし抱きしめられた途端、緑はとたんにむっと口をとがらせた。 「おしょい~! ママのバカぁ!!」 「ごめんね? 寂しかった?」 「みどり、やっくんのごはん、きらいー!! すっごくすっごくにがかったぁ!!」 「おいコラ、そこは「ありがとうございます」だろクソガキ」 蓮川が速攻で緑の頭をゴンと殴る。確かにその通りだと、さすがにそこは同意な忍だったが、子供など所詮こんなものだとも思った。 「緑くん、お兄ちゃん、頑張って作ってくれたんだよ? 一緒に「ありがとう」しようね?」 「……うん。やっくん、ありがとぉ」 「本当にありがとう、やっくん。今日弘くんになかなか連絡とれなかったから、凄く凄く助かったわ」 すみれがにっこり笑って言うと、途端に蓮川は顔を赤らめる。 「これ、食堂で余ってたお惣菜で悪いんだけど、良かったら明日のご飯にでもと思って。あ……」 タッパの入ったビニール袋を蓮川が受け取ったと同時に、すみれが何かに気づいたかのように目を開いた。 「やっくんの作ったご飯、わたしがもらってもいい? 夕御飯まだだから、お腹すいちゃった」 「え……、ああ、いいけど……、冷めちゃったし、適当に塩こしょうしただけのもんだから、全然美味しくないよ?」 酷く照れながら蓮川が言った。 「相変わらず仲良しなのね。学生時代からのお友達なんて、この年になるとみんな忙しくてなかなか会えないから、羨ましいわ」 結局あがり込んで談笑すること一時間。忍は表面上愛想よく微笑み続けながらも、心の疲労は既に限界だった。 「まあ……。それよりすみれちゃん、無理に全部食べなくても……」 「えー、だって美味しいもの。やっくんの野菜の切り方、弘くんと全く一緒ね。凄く上手に切ってる」 「そ、そうかな……?」 すみれの褒め言葉に、蓮川は盛大に照れながらも瞳は酷く嬉しそうだった。この単純馬鹿と、忍は心の内で舌打ちする。 「あー、美味しかった! やっぱり人に作ってもらう御飯って最高だね!」 「すみれちゃん、少しは仕事慣れた?」 「ううん、まだまだ全然、お皿洗いだけでもちっとも追いつけなくて、怒られてばかりだよ。でも、凄く楽しいの。この前、初めて私が一から全部作ったサラダ、みんな凄く美味しそうに食べてくれてね。責任者の方が次は味噌汁作らせてくれるって言ってくれたから、今日初めて作ったんだけど、わたしったら味噌の量間違えて全部台無しにしちゃって……」 今日の失敗を思い出したのか、突然にしゅんと落ち込むすみれを前に、蓮川は優しい笑みを浮かべた。 「大丈夫だよ、すみれちゃんのご飯で不味かったものなんて、今まで一つもなかったから」 蓮川が落ち着いた声で言うと、すみれは嬉しそうに表情を明るくさせた。何だか凄く良い雰囲気の二人を前に、忍の表情がやや曇った。 あの頃よりずっと背が伸びた蓮川は、すみれと並んだらもう以前のように「姉弟」ではなく、「男女」にしか見えなかった。 そのことに、どうしてこんなにも苛立ちが募るのだろう。 意味不明のもやもやを心の内に抱えたまま、忍は立ち上がりコートを羽織った。 「え……もう、帰るんですか?」 「明日も早いんだ」 「どうせなら泊まっていって、うちから直接仕事行ったら良いじゃないですか。あ、見てください先輩。すみれちゃんからもらったお惣菜、これ寮でよく出てたピーナツとホウレン草の和え物ですよね。よく光流先輩に奪られちゃって、本気で悔しかったんですけど、覚えてます?」 「……記憶にないな」 「えー、あんなに美味しかったのに? 食べてみたら思い出すかもですよ?」 「要らない」 「そう言わず、ほら一口だけでも……」 「要らないって言ってるだろう!」 苛立ちが爆発し、忍は蓮川の差し出したタッパを右手で払いのけた。音をたてて床に落ちたタッパの中身が無残な形で床の上に広がる。 忍はしまったと思ったが、何も言わず蓮川の部屋を飛び出した。 最低だ。 そう自分を責めてばかりいるのに、素直に詫びる言葉を口に出せない。 せめて電話で。メールで。そう思うのに、思い出せば思い出すほど苛立ちばかりが募って、とても素直になんてなれやしない。 「忍くーんっ!!!」 暗い面持ちで職場から自宅へ向かう途中、突然背後からガバッと抱きつかれ、忍は途端に目を据わらせた。 「仕事はどうしたストーカー」 「今日はもうノルマ達成した」 「何件」 「旦那の浮気発覚したばかりの奥さんと、奥さんに熟年離婚されたばかりの旦那さんと、息子が引きこもりで部屋から一切出てこないって悩んでる奥さんと……」 「もういい」 相変わらず人の弱みにつけ込みまくっている光流に辟易としながらも、しかし何故か妙に安堵する自分もいる。きっと今の自分の心が殺伐としているせいだ。忍はまたも自己嫌悪に見舞われながら、鬱陶しそうに光流の身体を払いのけた。 「なんだよ、元気ねぇな。また蓮川と喧嘩でもしたのか?」 あっという間に人の心境を見抜いてくる光流を、忍は忌々しげに睨みつけた。 「してない。いいからもう人の事は放っておいてくれ」 「……わかった」 「……と言いながら何故抱きついてくるんだ貴様はっ!!」 言ってるそばからぎゅっと抱きついてきて髪にすりすりと頬を寄せてくる光流に、忍は腹の底から声をあげた。 「俺だって放っておけるもんなら放っておきてーよ。でもおまえの匂い嗅いだら、身体がこう自然と……」 「自制する気が全くないからだろう!?」 この煩悩まみれの動物と、忍が光流の顔面に拳を叩きつける。地面に倒れた光流に背を向け、スタスタと歩き出した忍の耳元に、ふと「忍」と静かな声が届いた。意に沿わず足を止め、忍は振り返る。 「あんま、溜め込むなよ?」 光流が柔らかい笑顔で言った。 忍は目を細めるとふいと顔を逸らし、光流に背を向けて歩き出した。 生きられない。 自分の思う通りになんて。 おまえみたいに自由奔放に生きられたなら、どんなに……。何度、そう思っただろう。一時は真似してみようと思った事もあった。けれど現実はそんなに甘いものではなく、自由に生きることでより罪悪感を抱えることも少なくなく、身勝手な自分を責めてばかりいた頃を思い出す。 『すみません。明日、緑の幼稚園のイベントに行かなきゃならないんで、また再来週に』 明かりの消えた部屋。広いベッドの上で、忍は携帯電話のメールを見つめ切なげに目を伏せた。画面を閉じ、枕元に電話を置いて身体を横向きにする。 返事は明日にしよう。それよりも、今はただ一刻も早く眠りたい。 ああそうだ。せっかく週末空いたのだから、新調しようと思っていたノートパソコンでも見に行こうか。 思いながら、忍は肩の上まで毛布をかぶった。柔らかく暖かい感触に包まれるとほんの少し心は落ち着き、忍は静かに眠りに堕ちていった。 週末。 酷く目覚めが悪く、久方ぶりに昼近くまで眠り続けた忍は、まるですっきりしない頭を懸命に覚醒させる。起きてすぐにシャワーを浴びたけれど、やはり気だるい状態が続いていた。家にあるもので適当に昼食を食べたら、家電製品店に行こう。そう決めたのに、ソファーに座ってぼんやりとテレビを眺めること数時間。気が付けば、時計の時刻は三時を回っていた。 いいかげん、何かしなければ。思いながらのらりくらりと立ち上がった忍の耳に、チャイムの音が聴こえた。 誰だこんな時間にとインターホンのボタンを押すと、目の前の画面に蓮川の姿が映った。 忍は目を見開く。すぐさま玄関に向かった。 「忍先輩!」 ドアを開いた途端、酷く嬉しそうに無邪気に、蓮川が抱きついてきた。忍がますます驚きを隠せない表情でいると、そのまま床の上に押し倒される。 「おまえ……なんで……」 「やっぱりどうしても会いたくて、緑の発表会の出番終わったら速攻でこっち来ちゃいました! 良かった、家にいてくれて……!」 満面の笑みを浮かべながら、蓮川が顔を寄せてきたかと思うと、唐突に唇を塞がれる。 あまりに突然の抱擁。それなのに、拒めない。むしろ求めたくなる。忍は蓮川の首に腕を回し、注がれる情熱のままに舌を絡ませた。 熱い肌を直で感じたら、朝から続いていた頭痛が嘘のように和らいだ。 「先輩……凄く熱い」 「お……まえが……、そう、したんだろ……っ」 頭の芯がぼぅっと形を無くす。忍は胸を上下させながら、荒く息を吐いた。目の前で蓮川の首にかけられた十字のアクセサリーが揺れる。筋肉の引き締まった胸に抱き寄せられた瞬間、心臓が激しく脈打った。内壁を蓮川のペニスでじれったく擦られ、息が乱れる。 「ん……、ぁ、あ……!」 「もっと……、おれの、締めて……?」 ぐいっと更に奥を突かれた。忍はぎゅっと目を閉じ、言われるままに蓮川を咥えこんだ下半身に集中するが、きちんと応えられているのかどうかなんて解るはずがない。不安ばかりが増して、忍は蓮川の首に腕を回してしがみついた。 「すげ……気持ち、い……」 近づけばよりいっそう蓮川の荒い息を感じ、安堵と興奮に高揚する。忍は下半身により意識を集中させた。 「んっ……、ん……!」 「もう、いいですってば。そんなに頑張らなくても」 不意に蓮川がクスリと笑みを漏らし、忍は耳まで真っ赤に顔を染めた。 おまえが言うからと睨みつけようとした途端、力強い腕に腰を引き寄せられ、最奥まで熱く太いペニスを感じる。身を委ねる覚悟も出来ていないまま、激しく導かれる。忍の口が開き、瞳に涙が滲み、揺さぶられ悲鳴にも近い声を放った。 この部屋でなら、いくら声を出しても漏れることはない。そう思うと、はしたないと解っていても抑えることが出来ない。 もっと、と何度も叫び、与えられるままに忍は果てた。 「やっぱ先輩の部屋の方が、色々と都合が……」 こうやって、一緒にお風呂にも入れるし。そう言いながら、蓮川が酷く幸せそうに背後からぎゅっと抱きついてくる。湯船のお湯がちゃぷちゃぷと音をたて、その心地良い感覚に忍もゆったりと瞳を閉じた。 「早く稼げるようになるんだな。そうしたら、ここの家賃半分持ってもらっても構わんぞ?」 「……いやです。自分の家は自分で選びたいですから」 「賢明な答えだ」 「その時は、一緒に選んでくださいね?」 蓮川の問いに、忍は応えないままキスを交わした。 家なんてもう、どうでもいい。どこでもいい。六畳一間だろうが、高層マンションだろうが、小さな一戸建てだろうが、どこでも。 ただそこに、おまえがいてくれたら──。 その日は久しぶりに、外食をした。忍の要望で、やや値段の張る老舗料亭。そこでふと、忍は気づいた。一見すると雑に見える蓮川だが、基本的な習慣はしっかりと躾けられている。綺麗に箸を使う蓮川を眺めていると、何度教えても一向にうまく箸を使えない緑のことを思い出し、男手一つでよく育てたものだと、保険医に初めて尊敬の念を抱いた。 「緑の発表会は、どうだった?」 「すげー可愛かったですよ。先輩も一緒に見に行けば……って、無理がありますね、さすがに」 蓮川が苦笑しながら言い、忍もまた静かに口の端をあげた。 「でも緑が、この頃よく忍先輩と会いたいって言い出したりして、兄貴にすごく変な顔されるんですよ。おまえとあいつがそんなに仲良いとは思わなかったって。まあ、あの頃を思えば当たり前ですよね」 「真相を知ったら気絶するかもな」 「……言ったら、だめですか?」 ふと蓮川が真剣な目をして言った。 「やっぱり一弘には、言っておかなきゃって思うんです。……光流先輩との事みたいになる前に」 「……それを、おまえの兄貴が許すと思うのか」 「わか……りません。でも、たとえ許されなくても、おれは……!」 「なにも焦ることはないだろう。いずれ解ることだ。その時がきたら、俺も殴られる覚悟は出来ている」 クスリと笑い冗談めかして忍が言う。 その言葉に、蓮川の表情も緩んだ。 大丈夫。ずっと、一緒にいる。その約束は、他の何よりも確かで、永遠のように思えた。それなのに、刹那の幸せであるようにも感じられる。忍の瞳が切なげに曇った。 しばらく蓮川と会わない日が続いた。 すみれが急に倒れたとの電話が入ること二週間、久方ぶりに会った蓮川は妙にやつれていて、その傍らではしゃぐ緑を見つめていると、さすがに同情心を得ずにはいられない忍だった。 「メニエール病?」 「ええ、やっぱりパートでかなりストレス溜まってたみたいです。生まれて初めて働くわけだから、当然かもですけど」 なるほど彼女らしい。自覚のないストレスがついに身体にきたのかと、忍は妙に納得した。 ある日突然の眩暈に倒れたすみれは、それでもパートを辞めることはなく働き続けているらしい。おかげで蓮川に皺寄せが回ってきているわけだが、蓮川とて学生だからといってアルバイトもしているわけだし決して暇な毎日ではあるまいに、そこに頻繁に子守りを押し付けられては、疲れ切ってしまうのも当然だ。いいかげん甘えすぎではないだろうかと、忍は蓮川夫婦に苛立ちを覚えずにはいられなかった。 「そんなに大変なら、すみれさんの実家に頼るわけにはいかんのか?」 アパートから蓮川の実家に向かうまでの道を三人で歩きながら、忍は尋ねた。 「それが……こいつ、向こうの親御さん達には異常に我儘で、全く言うこと聞かないんですよね。でも何でかおれの言うことはよく聞くからって……」 「甘やかすから舐められてるのだとハッキリ伝えたらどうだ?」 「言えるわけないですよ。向こうはこいつのこと天使だと信じて疑ってないんですから……」 仕方ないように蓮川がため息をついた。 これのどこが天使だ羽根の生えたエンジェルだ純粋無垢な生き物だ。どこからどう見ても犬以下の動物でしかない齢五歳の男児を見つめながら、忍は目を据わらせた。 「しのぶしぇんぱい、抱っこ!」 しかし蓮川とよく似た黒目がちの瞳をキラキラ輝かせた緑に手を差し伸べられ、忍は途端に感情が揺らいだ。いや、可愛くなんかない。天使なんかじゃない。いやでもやっぱりちょっとは可愛いかもしれない。なんだかよく解らない心のままに、うっかり抱っこしてしまうと、緑がぎゅっと抱きついてくる。その温もりに、胸の内がきゅんと疼いた。何なんだこの妙な感覚は。忍は不慣れな感覚に戸惑いばかりを覚えた。 「忍先輩、なに固まってるんですか」 もうわけがわからないのでひたすら無になっていると、蓮川が呆れたように声をかけてきて、忍の腕の中の緑をひょいと抱き上げた。途端に安堵したような寂しいような気分に襲われ、これまた酷く複雑な心境であった忍は、並ぶと親子じゃないかと思うほどそっくりな二人を前に、本当に保険医の息子なんだろうなという有り得ない疑いすら抱いてしまう。 そんな忍の目前に、更に疑念を抱かずにはいられない光景が広がった。 「やっくん、いつもありがとう~! 大好き!!」 緑を自宅に届けたと同時に、すみれが蓮川にがばっ抱きつき、背に回した腕にぎゅーっと力を込めた。 蓮川はやや顔を赤らめながらも、高校時代ほどには動じない。おそらく慣れ切ってしまっているのだろうが、傍から見たらどう見ても恋人同士にしか見えない抱擁に、忍の背後にブリザードが吹き荒れた。 いや、こんな光景、高校時代には笑って見てたはずだけど。微笑ましい以外の何物でもない光景だったけど。一人前の男性にまるで当たり前みたいに抱きついたあげく「大好き」って、普通この年になって有り得ないだろ。腸が煮えくり返るほどの苛立ちの原因がわからないままに、忍は悶々とした気持ちのまま目の前で抱き合う二人を見つめ続けた。 「寒くなかった? 今日は泊まっていったら?」 「いや、いいよ。これから忍先輩と予定あるし」 蓮川が遠慮がちに言うと、すみれは一瞬、酷く残念そうに目を伏せた。 つくづく解りやすい女だと、忍はまたも心の内で毒舌を吐いた。 「そう。本当にありがとうね、やっくん。あ、そうだ、ちょっと待ってて!」 すみれは気を取り直したようにそう言うと、バタバタと足音をたてて部屋の奥に入っていく。 すぐに戻ってきたすみれの手には、緑色のマフラーが握られていた。 「これ、やっくんのために編んだの。良かったら使ってね」 そう言うと、すみれは蓮川の首にマフラーを巻き、にっこりと可愛らしく微笑んだ。 途端に蓮川の表情が赤く染まり、蓮川もまた酷く嬉しそうに笑みを浮かべた。 「ありがとう、すみれちゃん。大事にするね」 まるで当たり前のようにそう言う蓮川の姿もまた、高校時代と何一つ変わらない姿のはずだった。 それなのに、どうして今は──。 忍は行き場を失った感情をどうして良いか解らず、ただ苛立ちの正体を知りたくなくて二人から目を逸らした。 手編みのマフラーくらい、俺だって。俺だって。 (編めるか……っ!!!!) 突然、目の前のガラステーブルを叩き割りたい衝動に襲われ、忍はハァハァと肩を揺らした。 いや編めるけど、編もうと思えば余裕で編めるだろうけど、なにが悲しくてこの自分が好いた男のために夜鍋してせっせこマフラー編まなきゃならないんだ。ていうか義弟にそんな手間かけてる暇あったら、そのぶん我が子の面倒見てやれ。心の中で罵詈雑言ばかりを並べ立てていると、突然首元にふわっと優しい感触が走った。 「忍っ、これおまえのために徹夜で編んだマフラー! 大事に使えよ~?」 どこから表れたのかいつの間にどうやって部屋に入って来たのか、光流がにっこり微笑みながら言ってきた。 忍は即座に首にかけられたマフラーを剥ぎ取り糸を一本引き千切ると、マフラーはあっという間に無残なまでに元の毛糸玉に姿を戻した。 「ああ……っ、俺の愛の結晶が!!!」 「おまえの髪の毛編みこんだマフラーなんぞ誰が使うか!!」 もはやこれは呪いだろうとしか思えない忍は、ますますすみれの蓮川への執着に苛立ちを募らせる。 「いいかげんそのプレゼント攻撃やめろ! おまえに何もらったって嬉しくもなんともないというのが、どうして解ら……っ」 憤慨しながら訴えた忍は、突然言葉を光流の唇で遮られ驚愕した。 「じゃあ、どうしたら喜んでくれる?」 唇を離したと同時に光流の真剣な瞳が飛び込んできて、忍は言葉を失った。 「ブランド物のプレゼントもダメ。気持ちを込めて編んだマフラーもダメ。おまえは何なら満足するんだよ?」 「……それならおまえこそ、何を与えたら満足するんだ?」 ふと忍がどこか悔しげな瞳を向ける。光流が目を見張った。 「俺がどれだけ愛しても、振り向きもしなかったくせに……。なんで今頃になって……!」 「ちが……」 「何も違わない! 俺がどれだけ愛しても、家族も夢も全てを捨てておまえを選んでも、おまえは俺一人で満足できるような人間じゃなかっただろう!? 誰彼構わず無償で愛しては放り投げてまた愛しての繰り返しだ。今だって何も変わってない! だったらもう俺のことも、放っておいてくれ!!」 まくしたてるように忍は言った。完全に八つ当たりだと解っていたが感情の爆発を止めることは出来ず、気づけば瞳から涙が溢れていた。 蘇る、光流と過ごした日々。ずっとずっと、自分の片想いでしかなかった日々。どれだけ愛しても見返りのない毎日に、空しさばかりを覚えていたあの頃。それなのに何故、やっとそんな苦しみと決別することが出来た今になって、こんなにも心を掻き乱すんだ。 悔しさばかりを胸に訴えると、光流は忍から視線を逸らし、曇った表情を見せた。 ゆっくり背を向けて去っていく光流を、忍は晴れない心のままに見送った。 |