HERO<過去>


 


 初めての恋は、中学三年生の冬。
 まだまだ全然ガキすぎて、それが本当に恋だったかと尋ねられたら、今は苦笑してしまうかもしれない。
 けれどあの頃の俺にとって、彼女は女神そのもので。綺麗で、可愛くて、優しくて、いつも全力で俺を愛してくれたように思う。もちろんそれは一人の「男」としてではなく、あくまで「弟」としての愛情だったけれど、実はそれこそが、幼い頃からずっと求めてやまなかったもので。だからこそ俺は、彼女の幸せを心から願って、自分の恋心を一生隠し通すことを心に決めた。
 それが所謂俺の「初恋」。
 今でも俺は、彼女の幸せを誰よりも願っていて、誰よりも……いや、これはやっぱり、言葉にしてはいけないんだろう。
 ずっと、心の奥に綺麗なまま残り続けるもの。そしてずっと、心の奥にしまっておかなければならないもの。それが初恋というものなんだと、今は思う。

 
 二度目の恋は、高校二年生の冬。
 やっぱりまだまだ全然ガキで、男女の付き合いがどういうものかもよく解らないままに、がむしゃらに必死で、愛そうとした。そして、愛されようとした。愛の意味なんか考えず、ただまっすぐに、一生懸命に。

「ごめん……」
「……なんで、謝るの?」
 あれは初めて、彼女の家に挨拶に行った時のことだ。
「あの、はじめまして! 巳夜さんとお付き合いさせていただいている、蓮川一也といいます!!」
 思い切り心臓をバクバクさせながら頭を下げるものの、目の前の相手は非常に冷めた顔つきで。
「……この子のどこが良かったの?」
 長いロングヘアに、やや派手だと感じるメイクを施した彼女の母親の第一声は、明らかに不機嫌そのもので、瞳は完全に俺達を蔑んでいた。
「昔から何をやっても不器用だし泣き虫だし意気地も無いし、今もちっとも変わってないのよ? 正直、こんな子と付き合ったらあなたが苦労するんじゃないかしら? その点、典馬君だったらこの子のこと昔からよく解ってるし……」
「やめてよ、お母さん!!」
 あまりにも無神経に……いや、今思えばおそらくはわざと、俺が一番聞きたくない名前を出した母親の声を遮るように、彼女は今にも泣き出しそうに声を張りあげた。
「だって本当のことじゃない。あなた、どれだけ典馬君に助けられてきたと思ってるの? あなたが熱出して、あたしがどうしても仕事休めなかった時、いつも面倒見てくれたの典馬のお母さんと典馬君じゃない。あなたが苛められてた時だっていつも庇ってくれて、何不自由なく面倒見てくれて。あんな優しくて良い子を裏切ってこんな見ず知らずの男と付き合うだなんて、どれだけ恩知らずなの!? お母さん、あんたをそんな軽い女に育てた覚えないわ!!」
 突然に激昂した母親を前に、彼女は唇を噛み締めぶるぶると肩を震わせた。
「あ、あの……! 俺……俺も、絶対に彼女のこと守ります……! 何があっても絶対に……!!」
 俺は震える彼女の姿を見ていられなくて、必死で彼女の母親に自分が真剣であることを訴えた。
 けれど、結局はそれから一言も口を聞いてくれず、不機嫌にそっぽを向かれたまま、彼女が「もういいから」と家を出て、そのまま帰り道を辿った。
「本当に……ごめん」
「……少しでも認めてもらえるように、俺、頑張るから……!」
 今にも泣き出しそうな顔。俺は彼女の肩を強く掴んで、あの雨の日と同じくらいの気持ちを込めてそう言った。
 そうしたら、彼女は小さな子供みたいに泣き出して。
 俺は自分も泣き出しそうになるのを必死でこらえながら、彼女の身体を強く抱きしめた。


 それからも彼女の母親からは、ずいぶんと敵意ばかりを向けられた。
「あなた、ご両親いないんですってね? お兄さん一人で、さぞ苦労したんでしょうねぇ……。それはとても可哀想だと思うけれど、私はやっぱり母親だから、娘が一番可愛いの。あの子には絶対に幸せになって欲しいの。だから一時の気の迷いに惑わされないで、ちゃんとした家の子にお嫁さんに行って、幸せになってもらいたいの。お願い……わかって?」
 どうしても別れて欲しい。彼女の母親は遠回しに、何度もそう頭を下げてきた。決してあからさまな言葉は使わなかったからこそ、俺は何も言い返すことが出来ず、黙って感情の爆発を耐えて耐えて耐え続けた。
 兄のことを蔑まれたあの時と同じ。酷く惨めで辛くて悔しくて悲しくて。でも、彼女を守るって決めたんだ。男なんだから、絶対に弱音を吐いたりしちゃいけない。もう二度と泣いたりするもんか。そう何度も自分を奮い立たせ、彼女の母親に認めてもらえるよう、無理矢理に怒りや屈辱を自分の中で殺して、懸命に頭を下げ続けた。
 その努力の甲斐があり、彼女の母親は徐々に軟化していってくれて。
「こんにちは、一也君」
 ついには俺のことを、笑顔で迎えてくれるようになった。
 そのことは酷く喜ばしく、もうこれで何の問題もない。堂々と彼女と付き合えるんだと思った矢先のことだった。

「どうして……!!」
 突然、彼女から「別れて欲しい」と思いもかけない言葉をかけられ、俺は愕然としながら彼女に詰め寄った。けれど、彼女は泣きながらふるふると首を横に振るばかりで。
 どうしても、どうしても納得できない。
 だってついこの前まで、あんなに好きだって言ってくれたじゃないか。
 何度も抱き合って、キスをして、ずっと一緒にいようって誓い合ったじゃないか……!!! 
 わけのわからないまま混乱する俺の前に突きつけられた現実は、あまりに悲惨なものだった。

「……やあ、お見舞いに来てくれたの?」
 それは総合病院の一室。
 ベッドの上でいやに不敵な笑みを向けてくる、同じ年の男の姿。その男の右足はギプスに包まれていた。
「彼女のことを助けてくれたのは感謝してる。でも頼むから、怪我を理由に彼女のことを縛らないでくれ」 
 彼女が元不良仲間にリンチを受けていたところ、彼女を庇い怪我を負ったのが、彼女の幼馴染みであり元恋人である彼、小泉典馬だった。
 結果的に彼に大きな借りが出来た彼女は、どうしても彼に背を向けることはできなかったのだろう。けれど俺はすぐに、彼の真意を見抜いた。少なくとも俺だったら、怪我をたてに今好きな人と別れて欲しいなんて、どうしても思えないし、させたくない。
「……嫌だな、僕は別に怪我をたてにしてそばにいて欲しいなんて、一言も言ってないよ。全部巳夜ちゃんの意思なんだから、申し訳ないけど、君の方こそ身を引いてくれないかな?」
 彼は心無い瞳で言った。俺はなおさら確信せずにいられなかった。彼に彼女への本当の愛など微塵もないことを。
「嘘だ……!」
 俺は高まる感情を抑えきれず叫んだ。
 絶対に、そんなはずはないと、心から思った。いや、信じていた。
 けれど。

 
「ごめんなさい……おれ、やっぱり典馬のこと……見捨てられない……。あいつの足……もう二度と、元通りにはならないって……」
 酷くか細い声で、彼女は泣きながらそう言った。
 その瞬間、俺の目の前にはただ絶望しかなかった。
 背を向け去っていく彼女に、もう言うべき言葉は見つからず、追いかける気力すら浮かばなかった。
 それは生まれて初めての大失恋。
 どうしても信じられなくて、悔しくて、悲しくて、いっそ死んでしまいたいとすら思った。
 もう二度と彼女に触れられない。声も聴けない。会うことすら出来ない。だったらもう生きている意味なんてどこにもない。
 その絶望の最中、俺を救ってくれたのは、大学生になっても続けていた陸上だった。
 どうしていいか解らず、泣きたくても泣けなくて、ただがむしゃらに走り続けた。毎日、毎日、何も考えられなくなるまでひたすらに走り続けた。忘れろ。忘れるんだ。忘れなきゃ。そう自分に言い聞かせながら。
 何度も何度も蘇る、彼女との記憶。
 人生で一番幸福だった全ての思い出を必死で振り払った、あの頃。


 三度目の恋は……正直、よく覚えていない。たぶん、あまり本気じゃなかったからだろう。ただ、見た目だけは彼女によく似た相手だったと思う。けれど中身は全然違っていた。誘われればデートをして、電話がくれば適当な返事をして、メールはほとんど放ったらかしだった。だからすぐに自然消滅になった。その後すぐに彼女に新しい彼氏が出来たと友人から聞いて、ああ当然だよなと思っただけだった。
 それからも、大学時代に何人かの相手と関係を持った。ある時は相手から誘われるままに、ある時は遊び相手として、ある時は割と本気で迫られたこともあった。けれど俺自身がもう恋愛には冷め切っていたから、本気の恋に発展することはなかった。互いにもう男女関係に慣れきった年頃でもあったおかげで、大きな修羅場に発展するようなこともなく、ただただ無難に過ごすばかりの関係に、いいかげん辟易していた頃だった。
 俺がもう一度、本気で恋をしたのは。


 もう二度と、誰かを本気で好きになることなんてないと思っていた。
 それなのにその人は、あまりにも突然に、俺の心の隙間に飛び込んできた。
 大学三年生の冬。


「忍先輩……?」
 ずいぶんと久しぶりに出会ったその人は、少しも変わっていなくて。
 高校を卒業してから大学生になってからも、互いに都内に住んでいたので、時折会うことはあったのだけれど、隣にはいつも同じ顔があって。
 でもその時は一人きり。
 そういえば、この人と二人きりで話すことって滅多になかったような……。
 妙に緊張ばかりを感じながら、オープンカフェでお茶をするものの、会話は一向に弾まず。相変わらず冷静で無表情で、いったい何を考えているんだか解らない不気味さに、ただただ恐縮するばかりだった俺は、早々に別れようと目の前のコーヒーを一気に飲み干そうとした。けれど慌てすぎて、思い切りテーブルの上にコーヒーをぶちまけてしまったら、その人は仕方なさそうにクスリと微笑んだ。
「相変わらずそそっかしいな、おまえは」
 そう言ってテーブルを拭いたついでに、俺のシャツにかかったコーヒーも丁寧に拭いてくれて。
 俺は心臓をバクバクさせながら、すみませんと謝った。
 それで、終わるはずだった。高校時代と変わらない関係のまま終わるはずだったのに。


 う……っそ……だろ!!??
 いやいやいやいやいや、有り得ないから。いくらなんでも絶対に有り得ないから。きっと絶対に何かの見間違いだから。
 だって、忍先輩が、光流先輩と、キス……してるだなんて。
 きっと何かの演劇の練習に違いない。……って、どこの社会人が道端で演劇の練習なんかするんだよ!?
 いつもの悪ふざけに違いない。……って、悪ふざけで道端で痴話喧嘩しながらキスした挙句に涙流すか!?
 いや、これは、きっと、絶対に、なんらかの止む終えない事情があって……。
 などと、電柱の影に隠れながら完全に頭の中が混乱していた俺に、ドンと派手に体当たりしてきたその人の瞳には、間違いなく涙が滲んでいた。
「あ、あの……っ」
 って、これ間違いなく忍先輩だよな!? いやでもあの忍先輩が泣くとか有り得ないから!! 天地が引っ繰り返っても有り得ないから!!!! ますます混乱する俺の前で、その人は顔をうつむけて。
「……何でこんなところにいるんだ」
 おっそろしく低い声を発した。
「いや、あの、偶然、たまたま……っ」
 本当に偶然たまたまだったのでそう言ったら、今度は俺の胸ぐらをがしっと掴んで、さっきまで泣いていたとは思えない凶悪さに満ちた瞳を俺に向けてきたかと思うと、
「今見たことは忘れろ。……いいな?」
 完全に脅しにきてる声色でそう言うものだから、俺は恐怖に怯えながらこくこくと頷いた。


 けれど忘れろと言われたところで、そう簡単に忘れられるような事実ではないのも確かなことで。
 いやでも関わったらいけない。そんな気がしてならない。うん、絶対に死んでも関わるのはやめよう。そう決意した俺の前で、またしても運命の悪魔が微笑んだ。  
(また泣いてるし……っ!!)
 だからこれ、絶対に何かの見間違いだって……!!!
 だってあの忍先輩が、小雨降る中オープンカフェの一席で酷く寂しそうに涙を拭っているなんて、絶対に有り得ないから!!!
 きっと自分は悪夢を見ているに違いないと、そのままそっと去ろうとしたのに。どうしてもどうしても気になって、後ろ髪引かれてしまって。
 いやだって放っておけるわけないじゃないか。雨けっこう降ってきてるし。この寒空で雨に打たれたら、いくら忍先輩だって風邪ひくだろうし。せめて傘をさしてやるくらいは。
 それが全てのきっかけ。前兆。それは悪魔の微笑みか天使の囁きか。
 たぶん最後になるであろう、本気の恋の始まり。 

 
 人生本当に、何が起こるかわかりはしない。
 もう誰かを心から好きになることなんてないと思っていた。
 増してや相手が、この人だなんて。
「……どうした?」
 きょとんとした目を向けられ、ついまじまじと見つめてしまっていたことに気づき、俺は即効で顔から火を噴いた。 
 うわ、今の顔、最高に可愛かった……!!
 胸の鼓動がドキドキと脈を打つ。
「忍先輩……」
「ん?」
 名前を呼ぶと、酷く幸せそうに目を閉じながら寄り添ってくる姿が、あまりにも愛しくて。
 言葉にならないまま、俺は後ろから抱きしめていた身体を、更に強く抱きしめた。
「何を甘えてるんだ」
「~~~~っ」
 うぅ……っ、好きだ好きだ好きだ好きすぎる。人間、愛がマックスを超えるとこうも言葉が出て来なくなるのだと、改めて思い知った。
 なんかもうひたすらぎゅっとしたい。いっそ抱き潰してしまいたい。このまま永遠に離れないでいられたらいいのに。
 感極まりすぎて柔らかい髪にスリスリと頬を寄せていると、よしよしと言わんばかりに頭を撫でられて至福の時に包まれた。
 そんな甘い雰囲気のままに押し倒して、全部を露にして、隅から隅まで余すことなく堪能していると。
「……み……つる……っ」
 突然、地の底の底まで一気に突き落とされた。
 途端に昂ぶっていたもの全てが萎んでいって。
 ショックのあまり撃沈する俺を前に、その人は物凄く焦りに焦って。
 でも当然、すぐに気持ちを切り替えることなんて出来るわけがなくて。
 もう無理。ほんと無理。絶対無理。
 ただでさえ、二人が恋人同士だったなんて今だ認めたくはないのに、がっつりセックスしてましたなんて言われた日には、俺にどうやって立ち直れと……?
「ちが……っ、違うんだ……! おまえの癖っ毛が、あんまりよく似た感触だったから……!」
「……俺の髪、あんなふわふわしてないです」
「声が……、ちょっとだけ、似てたから……っ」
「俺あんな間抜けな声してないです」
「触り方が似てたから……!」
「俺あんな親父くさい人と同じ触り方してましたか!?」
 似てる似てると言われても大変に死ぬほどショックなだけですから!!! そう切実に訴えると、その人はどうしていいか解らないというように、瞳にうるっと涙を滲ませて。俺は思わず「う……」と言葉を詰まらせた。
 あの……あの忍先輩が、俺の前で涙浮かべてるとか。物凄く悲しそうな子猫みたいな目向けてるとか。申し訳なさそうに(生えてないけど俺だけに見える)猫耳をぺしゃんとしてるとか。
 ありえないありえないありえないから!!!!!!!
 心の内で絶叫して、気が付けば俺はその人をぎゅっと強く抱きしめていた。
「……もう、その人のことは忘れてください」
 お願いだから、俺のものになって下さい。
 絶対に絶対に、幸せにするから。守ってみせるから。誰よりも大切にするから。もう二度と……離さないから。
 そう心の内で強く訴えると、その人はコクリと小さく頷いて、俺の背に手を回してきた。
 そうして俺は、思い出したんだ。
 抱きしめられる暖かい感触。 
 誰かに愛しいと想われることは、こんなにも幸福で。
 誰かを愛しいと想うことは、こんなにも泣きたくなるものなんだって。
 だからもう二度と、心を閉ざしたりはしない。
 躊躇わず、まっすぐに、強く人を愛せていたあの頃の自分を、やっと思い出せたのだから。
「蓮川」
 今もあの頃のまま、変わらない声で俺を呼んでくれる、貴方がここに居てくれるから。