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「……先輩。忍先輩ってば!」
「……」
 付き合い始めて数ヶ月、いったいこれで何度目の喧嘩になるのだろうか。蓮川は深くため息をついた。
 いや確かに、喧嘩の原因は八割方自分にあるとは思っている。でもこの人だって大概、自分勝手だし、我儘だし、傲慢だし、あまりに冷静すぎると思ったらいきなり切れたりするし、自分のことはまるで棚にあげてものを言ったりするし、かと思えば肝心な事に限ってなかなか口に出してくれなかったり。  
 そんな傍若無人な恋人の振る舞いに右往左往すること数ヶ月。
 結局この日もいつものように些細なことで大喧嘩になって、互いに拗ねて意地を張って口を聞かないまま一時間強。確か高校時代にも、こんなことがあったような。思い出し、蓮川は勉強机の椅子を回転させて、ベッドの上で背を向けたまま横たわる忍に声をかけた。
 しかし何度声をかけても案の定、忍は振り返ってもくれない。蓮川は困った様子で眉をしかめ、椅子から立ち上がってベッドに歩み寄った。
「おれ、コンビニ行ってきます。なんか欲しいものないですか?」
「……なんでもいい」
 忍が低い声でぼそっと応えると、蓮川の額にピキッと青筋が浮かびあがった。
「なんの嫌味ですかっ、なんのっ!!」
 蓮川が思わず声を張り上げると、忍はようやく振り返るものの、瞳は完全に怒ったまま。蓮川は途端に怯んだ表情を見せる。
「いいから四の五の言わず、何でもいいから買って来い! むろん俺が心から満足するものをな!!」
 忍は完全に憤慨し切った声で言うと、フンと顔を背け、また蓮川に背を向けて寝転んだ。
 これ以上なくぶち切れられた蓮川は怯えながら後ずさりし、すごすごと玄関に足を向けたのだった。

 「なんでもいいです」イコール「どうでもいいです」っていうのは、ちょっと違うと思うし、決してそういう意味で言ったわけではなかったのだけれど……。
(大体、おれが好きなもの言ったって、いつも否定するばかりじゃないか)
 ムッと口をとがらせながら、蓮川はコンビニの棚に並ぶ弁当をひたすら見つめる。
 休日は外に行くよりもおうちデートを好む忍。となると外食をすることは滅多になく、どちらかが家で手料理を作るわけだが、最近は忍の方が積極的に料理する事が多くなっていた。
 なので今日も、駅から家に帰る前にスーパーに寄り、「何が食いたい?」と聞かれたから、「なんでもいいです」とだけ答えたら、忍は急に不機嫌になり出した。蓮川はつい数時間前の記憶をじっくり思い返す。


「先輩の好きなものでいいですってば」
「おまえはいつもそうだな。昔から自分の意見ってものがなさすぎる」
 完全に人を見下した口調で言われ、蓮川は口をとがらせた
「……言ったって、通ったことなんかないじゃないですか」
 膨れっ面で言う蓮川の言葉に、忍がぴくっと眉を吊り上げた。
「カレーがいいって言えば、「またそれか、いいかげん飽きないか?」。オムライスがいいって言えば、「飽きた」。ハンバーグがいいって言えば「それも飽きた」。じゃあ何を言えっていうんです!?」
 蓮川が拗ねた口調で言うと、忍がわなわなと小さく肩を震わせた。
「そのお子様ランチメニューしか思いつかないおまえの貧相な舌を何とかしろと言ってるんだ!!」
「好きなんだから仕方ないでしょう!? 否定するならいちいち聞かないで良いから、自分の好きなもの作ってくださいって言ってるんです!!!」
「それじゃ意味がないだろう!!」
「なんでですか!? おれは別に好き嫌いないし、忍先輩が好きなものならなんだって食います!!」
「だから……そういうことを言ってるんじゃ……」
 ふと忍は、もう疲れたとばかりに言葉を止めた。ふいと顔を背け前を歩き始める忍に、蓮川は結局それ以上何も言えず。気まずい雰囲気のまま家にたどり着き、現在に至るわけだが。


(おれ、何か間違ったこと言ったか……?)
 やっぱり、どう考えても解らない。
 突然に腹の虫がぐうと鳴り、蓮川は弁当の棚からオムライスを一つ手にとり、それからもう一つと思ったところでピタリと手が止まった。
 この中で、忍が好きなもの。頭を悩ませ考える。好きとか嫌い以前に、そもそもコンビニ弁当で満足するような人じゃないだろうし。だからといって自分の分だけ買っていくわけにもいかないし。
(サンドイッチ……くらいが無難か?)
 どうしようと考えること五分弱。蓮川は自分の分のオムライスと炭酸ジュース、忍の分のサンドイッチとコーヒーを籠に放り込みレジに向かった。
 
 コンビニの袋を手に下げて歩きながら、蓮川は何度目になるか解らないため息をつく。
 もう正直言って、ほんとに本気で面倒くさい。
 いや、もちろん好きだけど。大好きだけど。どうしようもなく愛しているけど。
 こうも理解不能な部分が多すぎると、時に凄く疲れてしまうのも、どうしようもない事実なわけで。
(めんどくせー……)
 ハァと深くため息をつき、どうやって機嫌をとろうか考えながら、とぼとぼと家に向かう蓮川であった。


「玉子サンド、嫌いでしたか?」
「別に」
「ハムサンドは?」
「嫌いじゃない」
「じゃあカツサンドは……」
「食えなくはない」
「じゃあ何なら食べれるんですか……っ」
「別に。なんでも食える」
 全ての質問にしっかりはっきり答えつつも、テーブルの上に並べられたサンドイッチには全く手をつけない忍を前に、蓮川の苛立ちも限界だった。
「だから何の嫌味ですかっ!! いーかげんにして下さい!!!」
「全て今までのおまえの台詞をそっくりそのまま返したまでだが?」
 にっこり微笑みながら忍が言った。途端に蓮川が「う……っ」と言葉を詰まらせる。
「じゃあ頼むから、文句一つ言わずにおれの好きなオムライス作ってください」
 しかし蓮川は気を取り直し、負けるかとばかりに忍を睨みつけ言い返した。
 反撃され、忍もまた鋭い瞳で蓮川を睨みつけるが、蓮川は決して視線を逸らさない。
「……ガキ」
「どっちが」
 こんな庶民に。こんな金持ちに。負けてたまるかと火花が散るも、腹の虫には勝てなかった。
 蓮川の腹が派手な音をたてて鳴り、途端に場の空気が緩んだものに変化する。蓮川がやや顔を赤らめ、はぁと大きく息をついた。
「……わかりました。すみません。おれが悪かったです」
 先に一歩引いたのは蓮川の方だった。
「もうこれからは、何がなんでも絶対にオムライス食いたいって言いますから、いーかげん機嫌治してください」
 しかし引いたのはあくまで一歩な蓮川を前に、忍は相変わらず緩まない表情のまま口を開いた。
「そこまでオムライス食いたい理由はさっぱり解らんが、どうやらおまえみたいな庶民に多くを求めすぎた俺も悪かったようだ。呪うなら昼飯にカレーかオムライスかハンバーグしか作ってくれなかった保険医を呪おう」
「それでもクソ忙しい庶民にとっちゃ十分手をかけてくれた昼食なんです……っ」
 ほんっとにこの人は……っ。蓮川はわなわなと肩を震わせながらも、必死で怒りの爆発をこらえた。これ以上言い返したところで堂々巡りだし、この人が素直に自分の非を認めて謝ったりするはずがない。
 悶々とした気持ちのままでいると、不意に忍が立ち上がり、台所に向かった。蓮川は目を見張る。 
 数分後、鮮やかな手つきで出来上がった、コンビニものとは比べ物にならない美しい出来映えのオムライスが二つ、テーブルの上に並んだ。
 チキンライスが綺麗に包まれた黄金色のオムライスを目前にした瞬間、蓮川の瞳が感動に打ち震えたかのように輝きを放った。


「ん……っ、ぁ……」
 シーツをぎゅっと掴む、細く長い指先。うつ伏せた忍の身体に覆いかぶさったまま、蓮川はそっと白いうなじに口付けた。
 汗ばんだ体から熱い体温が放たれ、忍の内部が蓮川のペニスをぎゅっと締め付ける。酷く心地良い感覚に包まれ、しばらくそのままでいると、忍がじれったそうに腰を動かした。
「は……やく……っ、動け……っ」
 ジンと身体の奥が痺れるばかりの感覚に翻弄されながら、忍が涙目で訴えた。
「だって、気持ちいい……先輩のナカ」
 こうしてると、凄く安心するんです。蓮川がそう言ってわずかに腰を動かすと、忍はぎゅっと目を閉じ切な気な声をあげた。
「あ……、ん……ん……っ」
 熱くなっているペニスでじれったいほどに掻き回され、忍は自ら腰を突き出した。ねだっているようにしか見えないその淫乱な様を見つめる蓮川の瞳が、だんだんと欲望の色に染まる。
「やらしいですね、先輩。そんなに突いて欲しいんですか……?」
 クスリと笑みを漏らし、蓮川はぐっと忍の腰を両手で掴んだ。同時に、思い切り腰を打ち付ける。忍の背がのけぞり、一際高い嬌声を放った。
 シーツを握る忍の手に、更に力が篭る。構わず蓮川は、何度も腰を振った。局部が擦れ合う音がなおさら欲望を煽る。忘我した忍の緩んだ口元から唾液が流れ顎に伝った。
「あ……あ……っ、もう……イく……っ! イ……っ」
「もっと……締めて下さい……っ」
「あ……っ、はあ……! あ……ぁん……っ!!」
 乱暴に声を放ち、激しく打ち付けるほど、忍が我を忘れ獣のように嬌声を放つ。
 蓮川の額から汗が流れ、忍の白い背にぽたぽたと形を描く。
 たまらなくなり、蓮川は忍の肩に歯を立てた。
 何度も果てては、何度も奥を掻き回す。
 二人の欲望に限界はなかった。


 はだけたシャツの胸元から除く自分の痕が、ほんのり赤く浮かび上がる。
 蓮川は満足気に微笑み、忍の耳元で囁いた。
「眠かったら、寝てて下さいね」
「ん……」
 疲れ切ったのか、ぽやんと瞼を閉じる姿は、まるで小さな子供みたいに酷くあどけなくて。
 可愛くて可愛くて可愛すぎて、ずっと腕の中に閉じ込めておきたくなる。
 蓮川はそっと忍の髪を撫でた。
 愛しさのままに寄り添っていると、突然、ピンポーンと玄関のチャイムが鳴り響く。
 蓮川は慌ててシャツのボタンを締め、ベッドから立ち上がった。
 宅配便か何かだろうと、気楽な気持ちで玄関の扉を開いた瞬間。
「よう蓮川、邪魔するぜ」
 蓮川の表情が一瞬にして固まった。
 




 眠くて眠くて、どうしようもない。
「……ぶ」
 頼むから、もう少しだけ寝かせてくれ。
「……のぶ」
 嫌だ。煩い。あっちに行け。
「忍!!」
 突然ハッキリと耳元に届いた声。忍の目がぱっと見開いた。
 目の前には、酷く見慣れた顔。それなのに、一瞬、懐かしいと感じたのは何故だろう。
「なんだ?」
 いつものように、忍は尋ねた。
 本当に、煩い。凄く眠いのに。もっと寝ていたかったのに。どうしていつも邪魔ばかりするんだこいつは。
 そんな文句を心の内で連ねながら、ジロリと目の前の相手を睨みつける忍の視界に、蓮川の姿が飛び込んできた途端、忍は現実に引き戻されガバッと上体を起こした。
「光流……?」
 未だ覚醒しきっていない忍は、あまりにも突然目の前に現れた光流を前に、表情は到っていつも通りだが頭の中は完全にパニック状態に陥った。  
「「光流……?」じゃねぇよ!! どれだけ探したと思ってんだ!!!」
 光流の怒号が部屋中に響き渡った。


 ええと、何で光流先輩がここに……?
 というか、来る前に電話の一つくらいして下さいよ。そして当然のようにずけずけと上がり込まないで下さい。あまつさえ人の恋人に覆いかぶさって名前呼ぶとか、本当に……本当にこの人は……っ。
 頭の中ではいくらでも喧嘩が売れるのに、足は一歩も踏み出せず、声は一つも発せず、ただただ茫然と光流を見つめる蓮川の頭の中も完全に混乱していた。
「探したって、なんで……。おまえとは……」
「いいから帰るぞ! 話はそれからだ!!」
 光流が忍の手首を捉えぐいと引っ張るが、忍は咄嗟に抵抗を示した。
「おまえと話すことなんて何もない……!!」
 忍が光流の手を跳ね付け叫んだ。途端に光流の表情が険しいものに変わる。
「また、つまんねぇ事で拗ねてんのか?」
 まるで子供にでも言い聞かせるかのような光流の台詞に、忍の頬がカッと赤く染まった。
「誰が……っ」
 忍が反発を示したその時、茫然と瞳を開く蓮川と視線が合った。忍は一瞬、今にも泣き出しそうな表情を蓮川に見せた。
「み、光流先輩……っ」
 蓮川がやや怯みながらも真剣な表情で声を放ったその時、突然、玄関の扉がガタンと派手な音をたてた。
「は、蓮川くん……た、助けて……っ」
 玄関先から声がしたかと思うと、頭からだらだらと血を流した青年が、玄関の扉に手をかけながら必死で蓮川に向かって手を伸ばした。
「おまえ……っ、どうした!?」
 あまりにあんまりな姿をしたその青年に、蓮川が慌てふためきながら尋ねる。
「そ、そこの道路で……、車に跳ねられて……。病院、連れてってもらえないかなぁ……?」
「おま……っ、ちょっと待て! 今すぐ救急車呼ぶから!! 光流先輩、救急車お願いします!!!」
「お、おう……!」
 頭からだらだらと血を流している人間を前にする事など他になく、それから救急車が着くまで三人で必死に手当てをした。救急車が到着すると蓮川が一緒に乗り込み病院へ搬送となり、結局その場に残されたのは光流と忍のみであった。  


 どうやら隣の住人であるらしい怪我人のおかげで、最悪の修羅場は免れたようであるが、それにしても。なんだってこんな悪すぎるにもほどがある悪いタイミングで表れるんだこいつは。
「忍」
 二人きりになるなり名前を呼ばれ、忍はビクッと肩を揺らした。
 数ヶ月ぶりの声。それなのに、少しも懐かしいとは思えない。
「……探してたんだぜ、ずっと」
「誰も探してくれなんて頼んでない。……おまえとは別れたはずだ」
「なんだよそれ!? 勝手に決めんな! 俺は別れるなんて一言も言ってねぇぞ!!」 
 完全に怒りを含んだ口調。忍はろくに目を合わせられないまま口を閉ざした。
「なのにいきなり出て行ったかと思えば、姿くらましやがって。んなコソコソ逃げるような真似されて、誰が納得するよ?」
「……逃げてなどいない。おまえとは別れると、はっきり言ったはずだ」
 明らかに責めにきた光流に、忍は強気な瞳を向けた。
「もう何もかも無理だって……言ったはずだ」
「だから俺は納得してねぇ! もう一度ちゃんと話し合ってやり直そうって言っただろ!?」
「その台詞は聞き飽きた。もう何度やり直しても同じことだと気づいたから……だから、別れようと言ったんだ。でもおまえがどう言っても「別れない」の一点張りだったから、出て行くしかなかった……。居場所を知られたら絶対に突き詰めてくるだけだと解ってたから、携帯の電話番号も変えたし、誰にも新しい住所は知らせなかった」
「……じゃあ何で、今ここに……。蓮川のとこにいるんだよ?」
「それは……たまたま、偶然、会って……」
「たまたま偶然会った奴の家のベッドで寝てる理由が全然わからねぇ」
 威圧感を持った口調で尋ねられるが、忍は負けずに睨み返して口を開いた。
「仕事でどうしようもなく疲れてたんだ。男友達の家で寝てても、何も不思議はないだろう?」
「ああ、ただ寝てるだけならな」
 光流が目を据わらせた。その不穏な目つきに、忍が一瞬怯んだ表情を見せた。
「けどな、今のおまえの格好とこの部屋とそのゴミ箱を見て、なんも気づかないのはあいつくらいなもんだぜ?」
 やけに冷めた口調で光流が言った。そんな光流とは対照的に、忍はカッと顔を熱くする。
 幸い服は着ていたものの、光流の言葉通り、愛し合った跡はそこかしこに残っている。
 もはや返す言葉がない忍は、羞恥に顔を染め悔しげに拳を握り締めた。
「なんの気の迷いか知らねぇが、お遊びにもほどがあるんじゃねぇ?」
「遊び……なんかじゃ……ない」
 忍は真剣な眼差しを光流に向けた。
「目を覚ませ忍。相手は「あの蓮川」だぞ」
 光流もまた、酷く真剣な目を忍に向ける。「あの蓮川」、やけに強調されたその言葉を耳にした瞬間、忍の表情が固まった。
「わかってんのか? あいつだぞ、「あの蓮川」だぞ? おまえ頭どうかしてるんじゃねぇ?」
 本気も本気で疑問符を投げかける光流に、やはり返す言葉は思い浮かばない忍だった。
 いや、そんなこと言われなくても解ってる。相手は確かに蓮川だ。蓮川で間違いない。でも「あの蓮川」と聞かれたら、確かに「あの蓮川」だとしか応えようがない。あまりにもあんまりな光流の言葉に、しかし妙に納得してしまうのは何故なのか。同意せずにいられないのは何故なのか。妙に不安ばかりを覚えてしまうのは何故なのか。忍は苦悩した。
 いやでも、あの頃の蓮川とは全然違う……いや、違わない。いや違う。どっちだ自分!!!!ますます苦悩する忍の目前で、光流が深くため息をついた。
「とにかく、今までのことは忘れてやるから、俺のとこに戻って来い」
「嫌だ」
「忍……」
「それだけは死んでも絶対にいやだ。おまえなんかより、あの蓮川の方がずっとずっと……」
 突然忍の口がピタリと止まる。目の前には、いやに冷静な瞳をした光流の姿。
「ずっと、何だよ?」
「ずっと……、す……」
 すぐさま頭に浮かんだはずの言葉を発しようとするが、何故か異常に躊躇され、忍は苦悩の表情を浮かべた。
 「あの蓮川」。またもその言葉が脳裏に蘇る。高校時代を思い出せば思い出すほど、「あの蓮川」にベタ惚れのうえ散々抱かれまくっている事実がとても信じられず、増して光流相手にどう伝えろと言うのだ。それだけは高校時代から変わらない忍のプライドが許さず、言いたくても言えない言葉が尻すぼみに小さくなる。
「……き……」
「あ!? なんつってるのかさっぱり聞こえねぇなぁ!?」
 そんな忍の心中を確実に察知しているであろう光流を前に、忍は悔しげに肩を震わせた。
 「あの蓮川」を好きだ、なんて、高校時代を思い出したらとてもじゃないけど口になんて出せない。わかっていてわざと苛めてくる光流に激しい怒りを感じながらも、どうしても口には出せず、忍はふるふると震えながら悔し涙を浮かべた。
 すると不意に光流が小さく息をつき、そっと忍の頬に右手を寄せた。
「なあ……俺が悪かったなら本気で謝るし、おまえの望む通りにするから……。……帰ってこいよ」 
 先ほどまでとはうってかわった、酷く優しい声と瞳で光流は言った。
 さんざ貶めた後は、いつも、いつも、こうだ。この数ヶ月離れていた間にも少しも変わってはいない光流を前に、忍はとても頷く気になどなれなかった。それなのに、心のどこかで安堵している自分も嫌になる。惑わされるな。忍は自分に言い聞かせた。
「光流……」
 頼むから、別れてくれ。そう口に出そうとしたその時、玄関の扉がバン!!と派手な音をたてて開いた。
「忍先輩……っ!!!」
 まるでお姫様を助けに来た王子様のごとく姿を表した蓮川であったが。
 どういう勢いで帰ってきたのか、今にも死にそうなほどぜいぜいと息をつき、顔中から汗を噴き出しながら、蓮川はその場にバタッと倒れ込んだのであった。


 情けない。
 思うことは、そればかりだ。
 いや、必死なのは解るが。人間の限界を超越したその足は、やはり天才としか言い様がないほど凄いことに違いはないのだが。
「徒歩三十分かかる病院から五分で走ってきたら、普通死ぬっていうか死んでも無理だよな」
「だから死んでるんだろう」
 光流がやけに冷静な声で言うと、忍もやけに冷静な声を放った。
 あと一歩のところで力尽きた蓮川を、光流が「よっこらせ」と肩に抱えてベッドに運ぶ。
 おそらく恋敵に奪われてなるかと決死の想いで走ってきたのだろうが、こいつは……。忍は頭を抱えため息をついた。