HERO



 
 
   本当はずっと、こんな日を夢に見ていた。
 大好きな貴方のために作った料理を、貴方が「美味しい」って言ってくれる。大好きな貴方のために掃除をした部屋で、貴方がいつも傍にいてくれる。大好きな貴方のために洗濯したシーツの上で、貴方が私を抱きしめてくれる。
 そんな平凡で平穏な毎日が、私のただ一つの願いで。
 貴方さえいれば、他には何も要らなかった。


「おかえりなさい」
「……ただいま」
 いつも通りの時刻に帰ってきた蓮川の手からそっと鞄を受け取り定位置に置くと、巳夜はいそいそとテーブルの上に夕食を並べ始めた。炊きたてのご飯と具沢山の味噌汁、それからバランスの整った三品のおかず。
「今日の味噌汁、少し辛かったかな……?」
「美味しいよ」
 不安げに巳夜が尋ねると、蓮川はにっこり微笑んで言った。巳夜がほっと表情を緩ませた。しかし蓮川が巳夜から視線を逸らしたと同時に、巳夜は表情を曇らせた。そのことに気づかないまま蓮川は夕食を平らげ、既に準備が整っている浴室に向かう。
 巳夜はその間、いつものように皿を洗い終えると、鍋の中に半分以上残った味噌汁を、全て排水溝に流して廃棄した。
 だしの素すら入っていない味噌を大量に使用した、絶対に美味しいはずなんてない味噌汁。
(嘘つき)
 巳夜は心の内で呟き、心無い瞳で排水溝に流れていく味噌汁を見つめた。


「久しぶりだね、巳夜ちゃん。元気にしてた?」
「う、うん……」
 スーパーで買い物をしていると、偶然にも学生時代からの友人と共に歩いていた典馬と出会った。両隣で典馬を囲う女友達に、どこか責めるような目線を向けられる。巳夜は気まずそうに目を逸らしながらも無視することも出来ず、典馬の目前で小さく頷いた。
「そっか、良かった。彼と幸せに暮らしてるんだね……」
 典馬が酷く優しい声で、どこか寂しげに言う。巳夜の心がズキンと痛んだ。
「ちょっと典馬、あんな子に優しくしてやる必要なんか、もうないよ!」
「そうだよ、どこまでお人好しなの!?」
 じゃあね、と去って行く典馬の後姿を見送ると、苛立ちを隠さない女性達があからさまに巳夜に聴こえるように言った。
 巳夜の肩が小さく震える。鼓動がドクドクと高鳴り、息が苦しくなる。
『最低!』
 突然に過去の記憶が蘇った。
 あれはそう、高校時代。好きで好きで堪らなかった人のことを選んだ日から、周囲の友人からの態度は一変した。それは当然のことだった。典馬という誰もが羨む最高の彼氏を持ちながら、他の男に恋心を向け、あまつさえ典馬を捨てたのだから。
 特にそれまで彼を慕っていた女友達からは、猛烈な攻撃を受け続けた。何度軽蔑の眼差しを向けられただろう。何度蔑みの言葉を放たれただろう。そのたび恐怖と屈辱で身体が震え、負けるもんかと意固地になっては更に敵を増やしていった。
 巳夜はあの時と少しも変わらない自分の臆病さに嫌悪ばかりを抱きながら、せめて涙は流すまいと、ぐっと唇を噛み締めた。
 

 今夜もどうか、彼が喜んでくれますように。
 そう願いながら買い揃えた食材を抱え自宅に戻った巳夜は、玄関の扉を開くなり視界に飛び込んできた、自分のものではないハイヒールを見つめ表情を重くした。
「お母さん、来てたの」
「あら、来ちゃ悪い? どうせ暇してたんでしょ? いいわよねえ、専業主婦って気楽で。毎日旦那の世話だけしてりゃいいんだもの」
 顔を見るなり嫌味っぽい口調で言ってくる亜希子と決して目をあわさず、巳夜は食材を冷蔵庫にしまいながらぽつりと言った。
「……まだ、結婚したわけじゃないよ」
「当たり前じゃない。典馬君と離婚してまだ半年も経ってないのよ。まったく、いい恥さらしだわ。あんな良い旦那を捨てて、ろくに将来性もない高校教師と不倫した挙句に同棲なんて。あまりに最低すぎて、恥ずかしくて誰にも言えやしない」
 どこまでも容赦なく責めてくる亜希子に、しかし巳夜は何一つ言い返すことはしなかった。いや、出来なかった。
 結局夕食の時間まで延々といつものように責めたてられた巳夜は、ただ黙々と夕食の準備だけに専念した。出来る限り母親の言葉を聞くまい何も感じまいと、必死で耳と心を塞ぎながら。
 玄関の扉が開く音がすると、巳夜の表情はわずかに緩んだ。
 急ぎ足で玄関に向かう。
「ただいま」
「おかえりなさい」
 巳夜は笑顔を浮かべながら、帰ってきた蓮川の手から鞄を受け取った。同時に、心は激しく叫んだ。「助けて」、と。
「おかえりなさい、一也君」
「あ……いらしてたんですね。こんばんは」
 蓮川は亜希子の顔を見るなり一瞬目を見開いたが、いつも通りの表情で礼儀正しく挨拶をした。
「教師の仕事はどう? 続けていけそうなの?」
「ええ……、なんとか頑張ってます」
「もちろん頑張ってもらわないと困るわ。これから先、ずっと巳夜ちゃんのこと養ってもらわないとならないんだもの」
 夕飯を共にしながら、亜希子は到って笑顔で蓮川と話をするが、亜希子が蓮川に放つのはあくまで脅迫めいた言葉ばかりだった。
「すみません……、俺、結婚するつもりは……」
 ふと蓮川の口から漏れた台詞に、巳夜はピクリと反応を示した。亜希子もまた険しい瞳を露にする。
「あらどういうこと? 結婚するつもりもないのに一緒に暮らしているの?」
「……」
「さすが育ちの悪い男は、やることが違うわね。女一人奪っておいて、結婚するつもりはない責任とるつもりはない?」
 亜希子は突然に、鬼気迫る表情で蓮川を睨みつけた。 
「ふざけんじゃないわよ!!」
 バン!!と大きな音をたて、亜希子がテーブルを両手で叩きつけた。
「やめて、お母さん!!」
 巳夜がとっさに声を荒げた。
「あんた、いいかげん目を覚ましなさい! この見かけだけは誠実そうな男に騙されてるんだって、どうして解らないの!?」
「やめて……! もう帰って! 帰ってよ……!!!」
 喚き出し、しまいには殴りつけてくる亜希子の身体を押しのけ、巳夜は強引に亜希子を玄関の外に追いやった。すぐにドアの鍵をかける。亜希子がドアを蹴るが、無視を決め込んだ。やがてコツコツと響く足音が遠くなり、巳夜はほっと安堵した。
「ごめん……怒らせて」
 食卓に戻ると、蓮川が暗い面持ちで言った。巳夜は目を合わさず、ううんと首を横に振った。
「こっちこそ、ごめんなさい……あんな母親で」
 巳夜が小さく言う。その瞳から、ぽろっと涙が流れた。蓮川はそっと、巳夜の肩に手をかかる。巳夜はたまらず蓮川の腕の中に飛び込んだ。けれど昔のように、強く抱きしめてはもらえない。それがどうしてなのか、巳夜は知っていた。知っていたからこそ、苦しくてやるせなくて、どうしようもなく悔しくなった。
 自ら蓮川の唇に唇を寄せる。けれどふいと顔を横に逸らされた。
「……お願い……」
 泣き出しそうになりならが言った直後、巳夜は噛み付くように蓮川の唇を奪った。そのまま床の上に押し倒し、強引に舌を絡ませる。しかし決して応えてはくれない蓮川に、巳夜は縋りつくような瞳ばかりを向けた。
「どうして……」
 胸の内が悲鳴をあげている。辛い。苦しい。悲しい。お願い、助けて。昔のように。
「あなたの……せいじゃない……っ」
 けれど決して抱きしめてはくれない蓮川に、巳夜は震える身体で訴えた。その瞳が一瞬にして憎悪の色に染まっていく。
「あなたが……あなたの恋人が、私の赤ちゃん殺したんじゃない……! あなたが関わらなければ、三浦君だって死なずに済んだじゃない! 私だって、あんな悲惨な目には合わなかった……!! 全部……全部あなたが悪いのに、あなたが私をこんな風にしたのに……どうしてなの!!??」
 泣き喚きながら、巳夜は何度も蓮川の胸を叩いた。それでもただ黙って聞いてるだけの男が、どうしようもなく憎かった。いっそ首を絞めて殺してしまいたいほどに。

 
 何を食べても味を感じない。テレビを見ていても、今自分が何を見ているのかも解らない。ただ淡々と仕事をこなし、家に帰り、あたらず触らず無難に生活をこなすだけの、死んだような毎日。
 パソコンのモニターだけが光る暗い部屋の中、蓮川は空虚な瞳を窓の外に向けた。夜空にはやけに明るい満月が浮かんでいる。一瞬だけ、綺麗だと感じた。それはきっと、愛した人を思い出したからだ。けれど、これ以上思い出してはいけないと、蓮川はすぐにその感情に蓋をした。
 忘れろ。忘れるんだ。忘れなきゃ。今は果たすべき約束と責任を、最優先しなければならないのだから。
 大丈夫。このくらいの痛みなら、全然耐えていける。
 あの人を永遠に失う。その痛みに比べたら、全然。
 目を閉じれば、浮かんでくる。あの人は俺なんかいなくても、必ず幸せになれる人だから。俺なんかよりもずっと幸せにしてくれる人が、いつも傍にいるのだから。
 だからどうか今この時も。あの人が、誰よりも幸せでありますように。
 蓮川は祈るように目を閉じ、最愛の人の笑顔を思い浮かべた。



 玄関からわずかな物音がするたびに、忍が小さく反応する。その仕草を見つめると、光流の胸は酷く痛んだ。
「忍、これすっげぇ薄いんだけど」
 舌どうかしてるんじゃねぇ!?と言わんばかりに、味噌汁を啜るなり眉をしかめ苦い声をあげる光流を、忍はじろりと睨みつけた。
「文句あるなら自分で作れ」
「作るよ! 作りゃいーんだろ! おまえのもよこせ! ……ったく」
 ぶつぶつと文句を言いながらも、しっかり忍の分の味噌汁まで作り直す光流の背を見つめながら、忍はどこか遠い目をした。
『それ、美味いか?』
『え、全然美味しいですよ?』
『舌も鈍いんだな』
『どーいう意味ですかっ!!』
 不意に思い出される会話。あれは初めて作った料理が完全に失敗した時の事だ。
 まあいいか、不味ければ残すだろうなんて思いながら、自分では絶対に食べられないくらい不味い料理を食べさせたら、普通にばくばくと平らげて。無理に食べているのではないかと心配したら、本当に全然無理なんてしていない様子で。こいつ絶対におかしい。常々おかしいとは思っていたが、やっぱりおかしい。思いながら、実はそんなに不味くないのかもしれないと首をかしげ再度口にした料理は、やっぱり死ぬほど不味くて吐きそうになった。
『なに食って育ったらそれを普通に食えるんだ』
『そんなゲテモノ食べてる人を見るような目で見ないで下さいっ! 忍先輩の舌が繊細すぎるんです!! それに俺、食べ物粗末にするの嫌なんですってば』
 言いながら、結局全部平らげた蓮川を見ていたら、どっちが普通でどっちが普通じゃないのか、だんだん解らなくなってきた。
 たぶん「普通」の基準なんて、人それぞれだからだ。
 そう結論づけて、だったらそれぞれ「普通」だと思うことをしたらいい。それからは、人の味覚なんて全く気にならなくなった。
「な? こっちのが美味いだろ?」
「そうだな」
「そのどーでもいいって反応一番空しいわ!」
 せっかく作ったのに作り直したのにと、拗ねる光流を無視して味噌汁を残らず食べ切ると、忍はシンクに空の食器を運んだ。ついでだから洗ってやると、光流の分の食器も黙々と洗っていると、光流は暢気にテレビを見始めた。その気配を背後に感ながら、忍の心の内は穏やかだった。それでもどうしようもない寂しさだけは、いつまでもまとわりついてきて離れず、忍の目の色を曇らせた。
 

 それから風呂に入りパジャマに着替え、すっかり寝る準備が整ったところで、光流が先にベッドに入り、ポンポンとベッドを叩く。それは昔から変わらない「おいで」の合図だ。忍は歩み寄り、それから思い切り光流の身体を踏みつけた。
「いいからさっさと自分に家に帰れ」
 なに当たり前のように一緒に寝ようとしているのだと、忍は恐ろしく低い声で言った。が、突然に手首を掴まれ、引き寄せられる。強引にベッドの中で抱き込まれ、忍は目を据わらせた。
「いーじゃん、たまにはお母さんと一緒に寝よーぜ」
「……帰れ」
「やだ」
「帰れ……っ!」
 力一杯抵抗しても、光流にがばっと抱きしめられ逃げることは敵わない。この馬鹿力と、忍は悔しげに光流を睨みつけ、やがて諦めたように力を抜いた。せめて背を向けた光流の、背後から抱きしめてくる体温がやけに心地良くなった刹那、突然、瞳にじわっと涙が浮かんだ。
「なに無理してんだよ」
「……して……ない……っ」
「泣いてますぅー。無理してますぅー」
 あくまでからかってくる光流の声が憎らしくて、悔しくて、忍は後から後から溢れてくる涙をこらえきれずにいた。
「あのさ……その「お母さん迎えに来てくれなくて寂しい~!」みたいな泣き方されても、俺、本当のお母さんの代わりにはなれねぇから」
「いちいち子供に例えるな……っ!」
「だって心理としちゃ一緒じゃん? あ、俺、今すげー申し訳ないことしたって思ったわ、うちの母ちゃんに」 
 こんな気持ちだったんだなと、光流が苦笑する。そうして、本当に愛していたんだと。愛してもらえていたんだと。そんなことを言うものだから、忍はますます涙が止まらなくなった。  
「でも……会いたいんだ……」
 解っている。解っているけれど、せめてもう一度だけでも。理由なんて何もない。ただ心が求めて止まない人に、会いたい。
(会いたい……!!)
 こんなに、こんなにも愛されているのに。
 小さく「ごめん」と口にする忍を、光流は更に強く抱きしめた。
「……わかってる」
 本当の親が、いつか迎えに来てくれるかもしれない。いつか会えるのかもしれない。そんな夢ばかりを見て泣いていた幼い頃の自分を思い出しながら、光流は優しく囁いた。 
 

 さあ、ゲームを始めようか。
 とびきり楽しくて、とびきり最高の、人間ゲームを。
 暗い部屋の中で一人きり、典馬は青白く光るパソコンモニターの前で無機質な笑みを浮かべた。
 さて、次はどうしよう。何をしよう。どうやってこのおもちゃ達で遊ぼう。モニターに映る四人の顔を、典馬は酷く楽しげな瞳で見つめる。
 五十嵐巳夜。ああもうどうでもいい、こんな気の狂った女。そろそろ使い物にもならなそうだし、いっそ壊れてしまえばいい。
 蓮川一也。そうだ、もっと足掻け、もっと苦しめ。おまえが追い詰められていくたびに、僕は体中が震えるほどの歓喜に満たされる。
 池田光流。相変わらず、侮れない人だ。まだ触れてはいけない。この駒だけは慎重に。
 手塚忍。
「決ーめた」
 典馬が小さく呟いた。酷く心躍る楽しそうな表情で。


 『人間』
 物心ついた頃から僕は、これほど馬鹿な生き物は他にいないと知っていた。
 こいつらと比べたら、犬や猫の方がまだマシだ。なにしろ餌さえ与えていれば従順に懐いてくるし、無駄な言葉も発さない。だから幼い頃から動物はよく可愛がった。そうすると、大人達はみな「偉いね、優しいね」と頭を撫でてきた。「だって可愛いもの」僕は笑顔でそう応える。大人達はますます微笑みを絶やさない。馬鹿な奴ら。僕は父と母にすら、心の内でそう呟いていた。
 ある日、一匹の猫が僕を引っ掻いてきた。僕の足に血が流れた。痛みと屈辱で僕の身体は怒りに震えた。気が付けば僕は、その猫を壁に投げ飛ばしていた。許さない。あんなに可愛がってやったのに。あんなに尽くしてやったのに。僕を傷つける爪や牙なんて必要ない。うんと痛がってもがき苦しむ猫を前に、得たいの知れない歓喜が沸いてくる。この子の全ては僕のもの。僕の体は確かに快楽を覚えていた。   
 幼い頃は、人間も可愛いものだと信じて疑わなかった。泣いている子供は可哀想だと思ったし、怪我をしている子は助けなければと思った。だからいつも同年代の子供達に苛められて泣いていた女の子を、迷わず助けてあげた。そうすると、その子はいつも僕のあとをくっついてきて、ぴたりと傍についてきて離れなかった。可愛いな。犬や猫よりずっと色々なことをして遊べるし。僕はいつもそう思いながら、その子の頭を撫でていた。  
 人間に疑いを持ち始めるようになったのは、成長してきた彼らがどんどん巧みに言葉を使うようになってからだ。
 僕を慕い、僕を崇めていた彼らも、徐々に悪知恵がつき始める。そうしていつも、僕を利用しようとしてきた。完璧だから理想の人だからと僕を崇め奉っては、危機に陥ると助けてくれと懇願してくる。僕が自らの時間を犠牲にして彼らを助け、彼らの望んでいる結果を与えれば与えるほど、彼らは更に依存してきた。そして望まない結果に終われば、容赦なく僕を責めたてる。まるで苦しい時の神頼みと言わんばかりに。
 そう、僕はいつでも彼らにとって「神様」だった。優しくて、賢くて、頼りになる、全てにおいて完璧なパーフェクトヒューマン。
 僕がそ彼らの好意をそのまま崇拝として何も疑わず、彼らの望む「神様」を目指していたら、それはそれは幸せだったのだろうと思う。
 けれど残念ながら僕は、そんな馬鹿で単純で純粋な人間ではないんだ。
 おまえらみたいに身勝手な人間の理想に付き合っているほど、愚かな人間でもない。
 ただもう、全てが空しいだけだ。
 だったら、とことん遊んでやろう。
 裏切り、傲慢、愛欲、憎悪、全てが渦巻くこの素晴らしく醜悪な人間世界で。
 遊ぶくらいしか、もう生きている意味なんてないのだから。


「お久しぶりです、手塚先生」
 休日、暇つぶしに訪れた図書館で、ふと声をかけてきた人物を前に、忍は驚愕の表情を隠せなかった。
 相変わらずの端正な顔立ち。上品な物言い。穏やかな口調と人好きのする微笑み。彼ほどの人間ならば、いくらでも愛と献身を捧げる女性はいるであろうに、なぜあの五十嵐巳夜という平凡な女性にあれほどの執着を寄せていたのか。忍は疑問に思いながら、警戒心ばかりを胸に目の前の相手、小泉典馬を見つめた。
「池田先輩は、お元気ですか?」
「……そういえば貴方とは、同郷でしたね。たぶん中学時代と何も変わっていませんよ」
 少しだけと誘われた近所の喫茶店。静かな空間の中、しかし妙に張り詰めた空気。忍は心の内の動揺を見透かされないよう笑顔を取り繕った。
「変わらないでしょうね。池田先輩はあの頃から、僕が知る限りでは一番に出来た人でしたから」
「ただ見栄っ張りなだけですよ」
「はは……そうも言えるかもですね。でも、なかなか出来ることじゃない。努力していたと思いますよ」
 光流をそんな風に評する人物は初めてで、彼はやはり中学時代から相当に頭が良く人間観察に長けていたのだろうと忍は感じた。なにしろ高校入学時の自分には、光流のそういった面を少しも見抜けず馬鹿呼ばわりしていたのだから。
「だからこそ、僕にはやはりどうしても理解できませんね。貴方が彼を捨て、なぜあんな平凡でつまらない男に走ったのか」
 ふと挑戦的な台詞を投げてきた典馬に、忍は緊張の糸を張り詰めさせた。
「……それは僕も同様です。貴方ほどの人が、何故あんな平凡でつまらない女を本気で愛したのか、理解できません」
 忍もまた、好戦的な台詞を放った。典馬がわずかな動揺を露にした。
「僕が彼女を愛していたと、本気で思っているんですか?」
「ええ」
「はは……、愛だなんて、くだらないですね。ただ同情していただけですよ。子供の頃からいつも苛められていた彼女があまりに気の毒で、放っておけなかった。ただそれだけです」
 典馬はまるで過去をあざ笑うかのように言った。忍はそんな典馬を、あくまで冷静に見つめる。
「確かにきっかけはそうだったかもしれない。けれど自分を一途に慕ってくる彼女に愛情を寄せるようになっていたのも確かなのでは?」
 まるで心を見透かすように尋ねてきた忍の台詞に、典馬の瞳が一瞬鋭く光った。しかしすぐに一瞬の動揺を悟られまいと、瞳の色を元に戻す。忍は探るような視線を変えない。
「もちろん、全く微塵も愛情が無かったというわけではなかったと思います。だからこそ僕は、最後まで責任を持って彼女の面倒を見ようとしました。彼女が例え他の男の子供を身篭っても、その子の父親になろうと覚悟を決めるほどにね。責任感だけは無駄に強いんですよ、昔から。僕の唯一の短所だと思っています」
「なるほど……」
 忍は静かに頷いた。何か言いたげな台詞、しかしそれ以上は決して言葉にはしなかった。典馬ならば、何かを感じたであろうことは承知の上で。
「けれどもう、変わらなければと思ったんです。彼女は子供の頃から成長しないまま、僕を父親や母親と同様に慕い依存していただけで、そこに男女としての愛情など微塵もありはしなかった。精神的に対等でない相手をいつまでも守っていても仕方ない。彼女にはもっと似合いの相手がいくらでもいる。似たような平凡でつまらない男がね」
 いやに饒舌になる典馬を、忍はあくまで冷静に見つめていた。しかし典馬が一枚の写真を忍の目前に差し出した刹那、忍の瞳に動揺の色が走った。
 そこには、幸せそうに手を繋いで歩く巳夜と元恋人の姿。忍の心臓がドクンと脈打った。
「今はその平凡でつまらない男と、とても幸せそうに暮らしています」
 忍の手が小さく震えた。その様子を目前に、典馬がにやりと楽しげに笑みを浮かべる。
「結局は、こうなるのが運命だったんです。僕がどんなに愛しても、彼女の心はずっと彼にあって、僕は彼女の心を手に入れることは出来なかった。それは彼もまた同様だったようですよ……?」
 囁きかけてくる、まるで悪魔のような声に、忍の心は一瞬にして闇に支配された。
「貴方もお気の毒に。いかがです、飼い犬に手を噛まれた気分は? けれど所詮犬は犬。レベルの低い相手にこれ以上手を焼かされる必要などありませんよ。いいじゃないですか、同じレベルの人間同士、これからも仲良く……」
「黙れ」
 忍が低い声を発した。怒りに満ちた瞳。そのあまりの迫力に一瞬怯んだ典馬であるが、瞳がどんどん高揚に満ちていく。
「お怒りになる気持ちはわかります。だって僕らは、ずっと彼らに騙されていたんです。一番好きなのはあなただと。一番愛しているのはあなただと。他に心から愛する人がいながら、ずっと……!」
「違う……!」
「そんな嘘ばかりを繰り返されて、裏切られて、傷つかないはずがない。僕にはよく解ります、あなたの憤る気持ちが。憎しみが。怒りが。……可哀想に」
 突然の感情の昂ぶり抑え切れず、涙を流す忍の目前で、典馬は酷く優しい瞳を向け優しい声を放った。
 まるで自分たちは、同じ穴の狢だとでも言うように。
   

 もっと壊れろ。もっとボロボロになれ。いっそあの男を激しく憎むくらいに。
『あんな平凡でつまらない女を本気で愛したのか』
 本気で愛していた? あるわけないだろう、そんなこと。
 ただ可哀想だから拾ってやっただけだ。面倒を見ていただけだ。でなければ誰が、あんな頭の悪い馬鹿で愚かな女など相手にするものか。
 典馬は苛々と爪を噛み、目の前の仕事に集中できずにパソコンのモニターを消した。
 何度も頭の中にちらつく、忍の見透かしてくるような瞳。思い出すたび苛立ちばかりが募った。
 しかしふと彼の涙を思い出し高揚感が漲る。典馬はクスリと嘲笑した。
 つくづく馬鹿な弁護士だ。あの女と同じ、頭の悪い馬鹿でつまらない平凡な男に、本気で心を寄せているだなんて。愚かすぎるとしか言い様がない。 
『全部、君の言うとおりにする。だから……どうか、あの人だけは……』 
 不意に記憶が蘇った。頼むから、彼のことを許してやって欲しい。代わりに自分が全て背負うから。そう言って、巳夜を一生守り続けると誓った、あの男の酷く惨めで無残な姿を。
 あの時、確かに全身に歓喜が駆け巡ったはずなのに。
(畜生……!!)
 彼の顔を思い出した刹那、激しい怒りが込み上げてきた。典馬は苛立ちをこらえきれず、パソコンデスクに思い切り拳をたたきつけた。
 何故今頃になって、こんな想いにかられなければならない。
 僕は勝った。見事にあの男を絶望の最中に突き落とし、不幸という名の檻の中に閉じ込め、一生その無様な人生を監視し続ける。彼はもう僕の手の中にいる。絶対に死んでも逃がしたりはしない。僕は勝った。確かに勝ったんだ。
 それなのに。
 追い詰めてくる何かを、確かに感じる。
 暗い部屋の中、典馬はふるふると肩を震わせた。
 それは恐怖だろうか、焦りだろうか、それとももっと他の……。答えが出ないまま、典馬は唇を噛み締めた。


 嘘だって、絶対に違うって、頼むから言ってくれ。
 もう一度好きだって、愛しているって、抱きしめてくれたら、もう今度こそ絶対に疑ったりしないから。おまえの言葉だけを、どこまでも信じるから。
「いやだから、もう一度会ってちゃんと確かめればいい話だろ?」
「……どこにいるか解らない」
「日本中、いや世界中探し回ってから言え!」
 何があったか知らないが、またも目を真っ赤に腫らしている忍を前に、光流が呆れ半分怒り半分の口調で言った。しかし忍は拗ねたように顔を背けるばかりで、あまりのうじうじっぷりに光流の苛立ちもいいかげんマックスの様子である。
「どうせ会って拒絶されたらどうしようとか、会って冷たい顔されたらどうしようとか、会ってロクなことにならない想像ばっかしてるんだろ? んなもん実際会ってみなきゃ何もわからねぇだろーが!」
「そうやって実際会った結果、散々な目に合った奴に言われたくない」
 非常に的確かつ痛いところを突いてきた忍を前に、光流はどうしても諦めきれず忍を追った挙句の散々っぷりを思い出し、わなわなと肩を震わせた。
「ねえ解ってる? それ全部自分のせいだって解ってる!?」
 いや解ってるから言ってるんだろうけど!!と光流は涙目で訴える。
「だって仕方ないだろう、他に好きな人が出来ちゃったんだから……!」
「どこの少女漫画の台詞だよ!? ってか開き直り方半端ねぇ!!!!」
 じゃあそれまで愛し合った長い長い年月は一体なんだったの!?と、何度人間不信に陥りそうになったか解らない光流は、改めて心の中で叫んだ。
「つまりそう言うことだ。他に恋をしてしまった以上、過去の恋は過去の恋。終わったものは終わった。戻れないものは戻れない。「好き」という気持ちはゲームと違ってリセット出来るものでもコントロール出来るものでもない。何でそういう当たり前のことがいつまで経っても解らないんだおまえらは……!!!」
「って俺と誰の話だよ!?」
 いつの間にやら例のごとく八つ当たりにきている忍に、光流はまたしても涙目だ。
「だったら、蓮川だって同じことだろ? 五十嵐との恋はとうに終わった恋で、今はおまえのことを一番に……」
「……でもあいつは、俺と違って嫌いになって別れたわけじゃない」   
「うん。解る。言ってることは解るけど、嫌いになった張本人に向かって言う?」
 もう悲しい通り過ぎて涙も出ないわと、光流は目を据わらせながら言った。
「だからまだ昔と代わらず全然好きだろうし、むしろ綺麗な思い出になってる分もっと好きになってるだろうし、ずっと好きであった以上は結局俺のことなんて、あの女の代わりでしかなかったん
だ……!」
「だからどうしておまえはすぐそう自分を卑下するわけ!?」
 光流の言葉などまるで聞いていないまま完全に少女漫画の世界に浸っている忍を前に、光流はどこをどう考えたらそういう結論に到るわけ!?と泣きが入る。
 あくまで「会いになんか行けない……!」と完全に悲劇のヒロインになりきる忍を前に、こりゃ駄目だと、完全に匙を投げた光流であった。

 

(だからって、何で俺がこんなことを……?)
 もはや己の神経が全く解らないままに、光流はようやく探し当てたマンションの二階を見上げた。
「池田先輩……」
 チャイムを押すと、しばらくたって開いた玄関のドアの向こうに立つ元後輩に、光流は「よう、久しぶり」と笑顔で挨拶した。


 干した洗濯物がベランダで揺れる。
 目の前には、ドリップで丁寧に淹れられたコーヒー。
 まるで新婚だと言わんばかりに、綺麗に掃除された部屋。
 光流は部屋を一周ぐるりと見回すと、目の前でどこか不安げな瞳をしている巳夜に視線を向けた。
「あのさ……」
 光流が声を放つなり、巳夜は一瞬、ビクッと肩を震わせる。これはやっぱり、相当に後ろめたいことがあるなと、光流は心の内で苦笑した。
「おまえ今、幸せか?」
 光流が単刀直入に尋ねる。巳夜は「え……」と首をかしげ、ずいぶん経ってからコクリと頷いた。
「ふーん……。なら、いい」
「え……?」
「おまえが幸せなら、いいよ」
 光流はいつもと変わらない笑顔を浮かべそう言うと、ぐいっとコーヒーを飲み干し立ち上がった。
「コーヒーごちそうさん。またな」
 玄関で靴を履く光流を、巳夜は神妙な面持ちで見つめた。
「池田先輩……!」
 そして光流が玄関の扉を開くなり、焦った声を放つ。
「なにか……言いたいこと、あるんじゃないんですか……?」
「……聞きたいことは聞けたから」
「何で、私のことなんか……。本当に聞きたいのは、彼のことなんじゃないんですか……?」
「あいつの心配なんかしてねーよ」
「じゃあどうして、私の心配なんか……!」
「ぶァか。おまえが昔から、心配かけるようなことばっかするからだろ」
 仕方ないとでも言うように、笑ってそういった光流の前で、巳夜の肩が小さく震える。そうしてこらえきれないように泣き出した巳夜を、光流は優しい目で見つめた。やっぱり仕方ない奴。そう心の内で呟きながら。


 昔から、池田先輩にはたくさんの友達がいて。いつもたくさんの人に囲まれていれ、私が声をかける隙なんて少しも無かった。
 それなのに、一人でいる時、ふとすれ違った瞬間、当たり前のように声をかけてくる先輩に、私はたぶん恋をしていた。
「先輩……」
 その日、私は同級生の女子達に嫌がらせをされて。池田先輩が注意してくれたおかげで気持ちが随分と救われたから、きちんと自分でお礼を言おうとしたのだけれど。
「池田先輩、いつも巳夜ちゃんのこと助けてくれてありがとうございます!」
 いつも私の代わりに、典馬がそう言って池田先輩に頭を下げてくれた。そのたび池田先輩は苦笑するばかりで。ああきっと、池田先輩も私のこと駄目な子だって思ってる。一人じゃ何も出来ない、惨めで可哀想な子だって。だから池田先輩は、いつも私のこと助けてくれるんだ。構ってくれるんだ。池田先輩は、優しいから。誰にだって平等に。
 だから変な勘違いなんてしちゃいけない。……好きになったりしちゃ、いけない。
 自分で自分にそう言い聞かせ、それでも声をかけられればまた有頂天になって、また自己嫌悪と同じことの繰り返し。次第に心はどんどん荒んでいって、気が付けば池田先輩に反発ばかりするようになった。

「もう、おれのことは放っておけよ!」
 不良なんて似合わない。むいてないんだから、さっさとやめろ。何度もそう言って諭してくる先輩に、苛立ちばかりが募っていったあの頃。
 だって、先輩が言う「似合う自分」でいたって、ちっとも良いことなんてないじゃない。お母さんは相変わらずだし、友達からは嫌われるばかりだし、典馬には迷惑をかけてばかりだし、もう我慢も限界だし。
 そうやってやさぐれればやさぐれるほど、不思議と仲間は増えていった。
「あんた絶対こっちの方がいいよ。あたしは好きだよ」
 誰もが声をかけるのを躊躇うほどに強い不良の先輩が、笑って背を叩いてくれる。ずっと欲しかった友達が、仲間が、今の私を好きだって言ってくれる。
「す、すみませんでした五十嵐先輩!」
 少しぶつかっただけで、後輩がびびって頭を下げてくる。
 今まで除け者にされていたのが嘘のように、変わっていく周囲。
 私はそれが酷く心地良くて。もう二度と、あっちの世界には戻らない。先輩の言うことも聞かない。
 そうよ、似合わないなんて、誰が決めるの? 誰にそんな権利があるの? 私が私の好きに生きて、何が悪いの? 
 もういい子の自分なんて要らない。弱くて惨めで小さくて、泣いてばかりの自分なんて要らない。もう誰に守ってもらおうとも思わない。
 強くなるんだって、一人でも強く生きていくんだって。もうか弱い「女の子」でいるのはやめよう。そう、決めていたのに。


『五十嵐は可愛いよ』
 あなたが何度も何度も、そう言ってくれるから。
 いつもひねくれてて、可愛げがなくて、言葉も乱暴で、むすっとしてばかりだった私のこと。
『自分で気づいてないだろ?』
 初めてそう言ってくれたのは、いつのことだったろう。
 最初は自分のどこがどう可愛いのか解らなくて、言われるたびに反発ばかりしていた。
 でも、あまりにも何回も「可愛い」って言ってくれるから。
『これ、おれが持っても変じゃないかな?』
『うん』
 自分には絶対に似合わないと思っていた花柄の雑貨とか、フリルがついた洋服とか、リボンのついた靴だとか。そんなのばかりを選ぶようになって、どんどんどんどん女の子らしくなっていく自分が何だかくすぐったくて、少しだけ怖かった。
 このまま私、どんどん変わっていっちゃうのかな?
 それともこれが、本当の私だった? 
 そう……私は確かに昔、こんな女の子だった。可愛いうさぎのイラストが大好きで、可愛いピンクの服が大好きで、いつも可愛くてキラキラしていて、いつも自分のことより人のことばかりを考える、優しくて強くて逞しい、少女漫画の主人公に憧れていた。そんな強く優しい女の子になりたくて、なりたくて、頑張っていたはずなのに。
 理想と現実は違うんだって、知ってしまったから。
 そんな主人公が、どれだけ辛い世界で生きていたのか。だからこそ夢を見なければ、悲劇のヒロインになりきらなければ生きていけなかったのだと、知ってしまったから。
 でも、あなたといる時だけは、いつも可愛くてキラキラしていた。あなたはどんな服が好きかな。あなたは何が食べたいかな。あなたは。あなたは。自分のことよりあなたのことで、いつも頭はいっぱいで。あなたのためなら、女友達のキツい言葉だって、お母さんからの蔑みの言葉だって、何だって耐えられるような気がしていた。
 気が付けば、私はすっかり元通りの私。意気地がなくて泣き虫で、いつも逃げてばかりいた、少女漫画の悲劇のヒロイン。
 ただ、あなたは、そんな私を好きになったわけじゃなかった。そんな夢ばかりを見て綺麗に飾った心の裏側の、本当の私を見てくれた。
 あなただけが、私の全部を「好き」って言ってくれた。
 だからもう、それで充分。
(好き……)
 大好きだった。
 どうしようもなく、誰よりも、好きで好きで堪らなかった。
 でももう、諦めなくちゃ。
 本当は、あなたを自分のものしたい。誰にも渡したくない。いつも私を守りなさい。おとぎ話の王子様のように、いつも私の求める完璧な姿で。
 私の望み通りにしていれば、私は貴方に惜しみない最高の愛を与えてあげる。
 そうしていつの間にか、ヒロインではなく鏡を見つめる魔女になっていた自分を、もう認めなくちゃ。
 あの人のことを、本当に好きなら。
 きっともう、こんな顔をさせちゃ、いけないんだ。


「一也、見て」
 高校時代の制服をヒラリと靡かせる巳夜を前に、蓮川がぎょっと目を丸くする。
「どう?」
「え……どう……って、いや……懐かしいなって……」
 明らかにドン引きしている蓮川を前に、巳夜がクスリと微笑んだ。
「いい年して制服なんて気持ち悪ぃだけなんだよ!!」
 突然、酷く柄の悪い口調で巳夜が言った。蓮川がますます驚愕に目を開き額に汗を滲ませる。
「……って、顔してる」
「そ、そんなこと思ってな……!」
「いいよ、もう、無理しないで」
 巳夜はそう言うと、制服のジャケットを脱ぎ、次にブラウスのボタンを外しはじめた。黒い下着が露になり、制服を全て脱いだ巳夜の姿は、上から下まで曲線を描いた成熟した女の身体そのものだ。  
「もうこんな茶番劇……やめよう。私のこと、抱いて?」
 自ら求めたのは、初めてだった。
 お願い。そう心から求めながら、巳夜は今にも泣き出しそうな瞳で蓮川を見つめる。
 そっと肩を抱かれる。ほんのわずかな期待は、次の瞬間に見事に打ち砕かれた。そっと肩にかけられた彼のジャケットが、やけに冷たく感じた。 
「どうしても……無理なの?」
 巳夜の瞳から、一筋の涙が流れた。肩が震える。寒くて寒くてどうしようもない。
「一度でいい……。一度だけでいいから、お願い……!!」
 悪足掻きだと解っていた。酷くみっともないことをしていることも。でももう、二度と諦めたくない。どんなに惨めでもボロボロになっても哀れでも、最後まで力を振り絞って、求めるだけ求めたい。 
 そうしなければ、この惨めで哀れな自分が、あまりにも可哀想すぎるから。
「……ごめん……」
 そう言って、ただ優しく抱きしめて来ようとする腕を、巳夜は振り払った。
 肩にかけられていたジャケットを蓮川に向かって思い切り投げつける。踵を返し、巳夜は寝室に飛び込み部屋のドアを閉めた。裸のままドアの前にうずくまって座り込む。その肩が震え、とめどなく涙が溢れる。
 要らない。
 そんな偽善的な優しさは要らない。偽りの愛なんて要らない。くだらない同情はやめて。私が欲しいのはあなたの優しさなんかじゃない、まして身体なんかでもない。
 でももう、望むものは手に入らない。
それは、それだけは、彼だけのものなのだから。
「巳夜……」
「出て行って……」
 ドアの向こうの気配を確かに感じながら、巳夜は振り絞るように声をあげた。
「出て行って……! もう二度と戻ってこないで……!!!」
 悲鳴にも似た声。
 けれど心は叫んでいる。行かないで。行かないで。行かないで。
 お願いだから、もう一度、あの頃のように。
『巳夜』
 人生で一番に幸福だった頃の記憶が、走馬灯のように蘇る。
 もうあの頃の彼はどこにもいない。もうあの頃の彼には会えない。こんなにも会いたくて会いたくて、堪らないのに。
 遠のいていくばかりの温もりを感じながら、巳夜は肩を震わせ涙を流し続けた。


「別れたって、どういうことかな?」
「……」
「僕のことを捨てておいて、今更別れるだなんて、僕は許さないよ」
「……最低なのは、解ってる。でも、あの人の心はあの人の自由だから。私に縛る権利はないの」
「あの男のせいで、僕達の子供が死んだのに?」
「それは……違う。私の不注意だった」
「違うよね? あの男の恋人に突き飛ばされて、事故にあったんだよね?」
「違う……」
「自分でそう認めたじゃないか……!!」
「いいかげんにしろ、小泉」
 喫茶店の片隅。突然に現れた人物を前に、典馬は目を見張った。
「おまえの言う「証言者」とやらから、きっちり話は聞かせてもらったぜ。おまえに頼まれて、嘘の証言をしたってな」
 光流の隣で目も合わせず申し訳なさそうにする中学時代の元同級生を前に、典馬は思わず舌打ちした。しかし光流に険しい目で見据えられると、諦めたように、ふっと肩の力を抜いた。 
「やっぱり先輩には、叶いませんよ」
「ざけんなよ、小泉。この場じゃなけりゃ、今すぐおまえのことぶっ飛ばしてるとこだ」
「勘弁して下さいよ、僕もずいぶん煮え湯を飲まされたんだ。僕はあくまで巳夜ちゃんの幸福を願ったからこそ、彼女が一番に愛する人と共にいるのが幸せだと思ったんです。僕のしたことは、そんなに間違っていましたか……?」
 突然に悲しげに瞳に涙を潤ませる典馬を前に、光流は「う」と言葉を詰まらせた。
「だ、だからって、蓮川と忍の仲を引き裂いてまでってのは、どう考えても筋違いじゃねーか!」
「それを選び実行したのは、あくまで彼自身ですよ。僕は巳夜ちゃんの幸せのためなら、他の誰がどうなろうと知ったことではありません。池田先輩もそうではないのですか? 手塚先生の幸せのためなら、他の誰を犠牲にしても構わないとは思いませんか?」
「そ、そりゃ、思うよ! 思うけど、他の誰かを犠牲にしてまでとは……!!」
「そういう中途半端なところは、昔から変わってませんね。だから詰めが甘いと言ってるんですよ。何の犠牲もなしに得る幸せなどどこにもありはしませんし、犠牲になったところで誰も同情してはくれません。現に高校時代、僕は大いに二人の恋の犠牲になった側ですが、池田先輩は心配のしの字もしてくれるどころか、蓮川一也のことを応援していたじゃないですか。すみませんが僕の先輩への信頼度は、その時点で既にマイナスです」
 典馬のあまりの責め口調に、光流は完全に返す言葉を失った。
「典馬、責めるのは私だけにして。池田先輩は何も悪くない。ただ巻き込まれただけじゃない」
 巳夜が静かな口調で言った。以前とどこか雰囲気が変わり、その瞳に迷いの色はない。その凛とした眼差しに、典馬は一瞬眉をしかめた。
「今回のことも、私がお願いしたの。誤解はきちんと解いて欲しいって。私はもう、二度と彼に会うつもりはないから……」  
「まだ愛しているのに?」
「そうよ。だから本当のことを伝えて、元に戻って欲しいの」
「それで、巳夜ちゃんは幸せなの?」
「……ちゃんと、これから幸せになる」
 そう言って、巳夜はまっすぐに典馬を見つめた。
「これからは誰の力も借りずに……、ううん、こうやってちょっとだけ力を貸してもらいながら、出来る限り自分の力で頑張って幸せになる。だからお願い、典馬ももう何もかも忘れて、幸せになって。私の心配は、もうしなくて大丈夫だから」
 力強い言葉。力強い瞳。そこにはもう一分の迷いもなかった。まるでそれまでの彼女とは別人のように。
 突然に離れていく手を前に、典馬の心は大きく揺らいだ。


 嫌だ。許さない。絶対に絶対に許すものか。
 何が幸せになってだ。おまえになんかに言われなくても、僕はもうとうの昔から、誰よりも恵まれているし誰よりも幸福を約束されている。おまえみたいに生まれつき頭が悪くて親にも恵まれなかった低俗な人間なんかに言われなくとも。
 おまえよりずっとずっと、幸せに生きてきたんだ。
 それなのに、何故こんなにもムシャクシャする。
 何故こんなにも心が乱れる。
(巳夜……!!!)
 あんな女。あんな女。あんな女……!!!
 心の内で何度も叫びながら、典馬はこれまでにないほどの憤りを胸に、拳を握り締めた唇を噛み締めた。



 心臓の音が聞こえる。苦しくて、息もままならなくて、もう止まりたいと思うのに、心が叫ぶ。あと少し。もう少し。まだ限界じゃない。
 そう感じる今だけが、生きていると感じられる唯一の時間。
「蓮川、おまえやっぱもう一度、こっちの世界に戻って来いよ」
 手の中のストップウォッチを見つめた美鹿が、もう何度目になるか解らない台詞を放った。
 グラウンドを走り終えた蓮川は流れる汗を拭いながら、美鹿の声を無視して軽いストレッチをはじめる。
 巳夜と別れ、かといって実家に帰るわけにもいかず、当然ながら以前の恋人との家に戻れるはずもなく。とりあえずしばらく泊めて欲しいと、一人暮らしである美鹿の住むアパートに転がり込むこと一ヶ月。本格的に陸上の道に進み、毎日のようにトレーニングに励む美鹿と共に、蓮川もまた毎日のように走り続けていた。
 やはり走ることは好きだ。けれど今は、記録を伸ばすことやその道に進むことなどまるで考えられない。ただがむしゃらに走って、何も考えられなくなるくらいに疲れて、忘れていたい。そして誤魔化していたいからだ。どうしようもなく馬鹿で、どうしようもなく最低な自分のことを。
「そんなに教師の仕事が好きかよ?」
「まあ……それなりに、かな」
 蓮川は力なく言った。
 採用されたばかりの高校で教師を続けてはいるものの、やはり自分には向いていないのではと思うことばかりだ。真面目すぎるのだと、今の職場でも幾度か叱責を受けた。確かに人の上に立つ職業ほど、真面目にやろうと思えば思うほど自分を追い込み苦しめるばかりだ。いつかの高校教師達みたいに、生徒相手にギャンブルの一つや二つ楽しむくらいの不真面目さも、時には必要なのだろうと思う。
 でも、そんな不真面目さを許してしまったら、生徒達に人の道を教える資格なんてないではないか。煙草を吸う人に煙草なんて身体に悪いからやめろと言われたところで、まるで説得力が無いのと同じことだと言うと、だからそういうところが真面目すぎるんだとまた辟易された飲み会での記憶を思い出し、蓮川は深くため息をついた。
 どうせ自分は固いです。馬鹿真面目です。そして……いつも口ばかりの偽善者です。
 蓮川は自分をけなす言葉ばかりを頭の中で繰り返す。
 そんな蓮川を見つめながら、美鹿は眉をしかめ、ぽんと小さく肩を叩いた。
「帰って一杯やろーぜ」
 蓮川は暗い表情のまま、美鹿と共にグラウンドを後にした。


「せっかくお土産買ってきたのになぁ……」
 テーブルの上に二つ並んだ、お揃いで色違いのマグカップを眺めながら、瞬がぽつりと呟いた。
 まさか自分がいない間に、蓮川と忍が別れているなんて。肩を落とす瞬を見つめ、光流もまた小さくため息をついた。
「つか、何でマグカップなんだよ? 俺に喧嘩売ってんのかこら?」
「だってすかちゃん、忍先輩が使ってる水玉のマグカップみるたび、いつも凄く辛そうな顔してたんだよー?」
「俺もそのマグカップ見るたび辛くなるわ!!」
「光流先輩の気持ちなんて知ったこっちゃないよ。僕はすかちゃんが幸せならそれでいーの」
 見事なまでにはっきりきっぱり言うと、瞬はまた落ち込みのため息を吐いた。
 わなわなと震える光流の耳に、玄関の扉が開く音がする。
「おかえりなさーい、忍先輩!」
「瞬……帰って来たのか」
「ただいま」
 瞬がにっこり微笑むと、忍もまた静かに微笑んだ。
「おかえり。……それは?」
「お土産。忍先輩と、すかちゃんに」
 瞬が躊躇いもせずに言うと、忍の表情が咄嗟に曇った。
「……あいつなら、ここにはもういない」
「事情は光流先輩から聞いたよ。でも、このままでいいの?」
 瞬がまっすぐな目で尋ねた。忍は目を逸らしたまま応えない。
「結局は全部、誤解だったんでしょ? だったら別れる理由なんてどこにもないじゃない。さっさと寄り戻せば済む話なんじゃないの?」
「……そんな、簡単な話じゃ……」
「何が? どう簡単じゃないの?」
 ずばずばと物怖じせず尋ねていく瞬に、光流はハラハラしつつも感心すら覚えた。自分も大概ずばずば言う方だけれど、何を言っても倍返しのダメージをくらうだけだと解っているだけに、余計に何も言えなくなっていく毎日だったからだ。
「……あの女と別れてもここに戻って来ないということは、もうそういう気持ちが無くなったってことだろう」
「すかちゃんがそう言ったの?」
「言ってないけど、大体解る」
「人の気持ち勝手に決め付けないでよ! 実際聞いてもいないで、何が解るの!?」
「煩い!!」
「落ち着けおまえら!」
 どんどんヒートアップしていく二人を前に、喧嘩してる場合かと光流が仲裁に入った。
「光流先輩は黙ってて! そりゃすかちゃんと忍先輩がこのまま別れてくれたら光流先輩にとっちゃ万々歳かもしれないけど、僕は納得いかないよ……!」
「確かに俺は万々歳だけど、納得いかないってどーいう意味だよ!?」
 さっきからずっと思ってたけど、俺に対して酷すぎじゃね!?と光流は憤るが、瞬はそんなことは全くもってお構いなしで、あくまで蓮川のことだけを想って瞳にじわっと涙を浮かべた。
「だってすかちゃん、あんなに忍先輩のこと好きだったのに……!!」
 可哀想、可哀想すぎるよー!!!と泣き出す瞬を前に、「う」と声を詰まらせ見つめ合う光流と忍であった。


 好き。
 好きだった。
 そして、充分に愛されていた。
 それは信じている。信じているんだ。
 でも、今もまだ自分のことを好きでいてくれているなんて自信は、まるでない。
 確かに瞬の言う通り、まず蓮川の気持ちを聞かないことには何も始まらない。
 でも。だけど。


「電話一本するのにいつまでかかると思う……?」
「あと三日くらいかな」
「長すぎる。思考長すぎるよ忍先輩……」
 光流が渡した現在の蓮川の電話番号が書かれてあるメモを見つめながら、延々と長考している忍を眺めながら、いいかげんうんざり気味の瞬と光流であった。 
 そんな二人をよそに、忍は携帯電話と睨めっこをしながら、メモの番号を押そうとするものの。
『あ、もう興味ないんで』
 つい先日まで寝るのも忘れるほど夢中になってたゲームなのに、ある日突然ぽいと放り投げたまま見向きもしなくなった蓮川の顔が思い出され、咄嗟に手が止まった。
 あいつなら言いそう。凄く言いそう。でもそんなこと言われたら二度と立ち上がれない自信ある。
 いやいやいや、ゲームと俺を一緒にするな。やっぱりちゃんと、聞かないと。
 再度番号を押そうとした忍であるが。
『いや、それ昔の話なんで。今はそれほど好きじゃないですよ』
 高校時代、初めて奢ってやったレディボーデンのアイスクリーム。こんな美味しいアイス食べたの初めてですと言いながら、異常に感動しながら食べていたから、今もアイスを買う時は必ずレディボーデンのアイスを選んで買って行って。いつも丸ごと平らげていたから、相変わらずずっと好きなんだとばかり信じ込んでいたら、ある日突然「好きじゃない」なんて言われて目が点になった日のことを思い出す。
『だって、せっかく買って来てくれたんだから、食べなきゃ悪いかなって思って。でもさすがに、もう飽きたなって思ってたので』
 めちゃくちゃ言いそう。絶対に言いそう。言いそうすぎて軽く死ねる。
 「飽きた」、「興味ない」、「昔の話」、「今はそれほど」、「好きじゃない」。蓮川の日常ワードが次々と思い出され、忍の頭の中は軽くパニック状態だ。
 ついには携帯電話をソファーの上に投げ捨てる忍であった。
「やっぱあと一週間はかかるな」
「もう無理。付き合ってらんない」
 完全に冷めた瞳で瞬が言った。
 しかし不意に、忍が携帯電話を手にする。二人同時に「お!?」と身を乗り出した。
 忍がついに震える手で番号を打った。心臓の音が部屋中に鳴り響く音が聴こえてきそうなほどに、全身から緊張オーラが溢れている。(※しかし表情は変わらない)
 光流と瞬はかたずを飲んでその様子を見つめた。
『はい』
 電話の向こうから聴こえる、低い声。忍は一瞬怯んだが、勇気を持って口を開いた。
「は、蓮川……」
『……っ……』
 一瞬、息を呑んだ音が聴こえた気がした。忍はそのまま言葉を続ける。
「おまえに……聞きたいことが……」
『……ごめんなさい!!』
 突然、ぶつっと声が途切れたと同時に、忍の背後にブリザードが吹き荒れる。
 光流と瞬は、同時にサーッと血の気が引いていくのを感じた。 
「し、忍先輩……まだ諦めるのは早いんじゃないかと……」
「いいや! もうここはすっぱりきっぱり諦めろ忍! 大丈夫! おまえには俺がついて……ぐはっ!!」
 いきなり場の雰囲気を丸っきり無視して異常なまでに無神経な言葉を放つ光流を、忍はバキッと拳で殴りつけた。そして背後に負のオーラを背負ったまま、すたすたと歩き出す。
「忍先輩……?」
「もう寝る」
 無表情のままそう言って、自室に篭る忍であった。(※走るか寝るかで言えば寝る派)


 馬鹿。馬鹿馬鹿馬鹿。
 なにが「ごめんなさい」だ。俺はまだ、何も聞いてない。何も言ってない。
 まだ、何一つ……。
 それなのに。
「……っく……」 
 もう嫌だ。もう無理。こんな想い、もう金輪際ごめんだ。
 もう二度と電話なんかしない。してやらない。心の内で硬く決意しながら、忍は布団を被った。何度も何度も、蓮川の声を頭の中に響かせながら。


 あまりに突然の衝撃に耐え切れず切ってしまった電話を前に、蓮川は心臓をバクバクさせながらふるふると肩を震わせた。
「どうした? 知り合い?」
 美鹿が尋ねてくる。蓮川は「いや」と力なく首を振った。
 さっさと食おうぜ。美鹿が言うが、食べかけの夕食はもう喉を通りそうにはなかった。
 どうしよう。どうしよう。どうしよう。動揺ばかりが襲ってきて、他に何も考えられない。もう一度外に走りに行こうかと思うほどに、いてもたってもいられなくなり、蓮川は目の前の缶ビールを一気に飲み干した。
「美鹿……俺、やっぱ最低だよな……?」
「うーん……それは、さすがに仕方ないんじゃねぇ……?」
 蓮川が恋人を犯罪者にしたくなかった気持ちも、元彼女への償いをしたかった気持ちも、同じ男なら解らないでもないと、美鹿は共感半分慰め半分に言った。完全に泥酔しきった蓮川は、相変わらず自己嫌悪でいっぱいの様子だ。
 あの時本当は、信じたかった。信じ切りたかった。けれど典馬の策略にまんまと騙された自分は、どこまでも馬鹿で愚かで、格好つけたかっただけの偽善者だった。
「結局俺は、自分が悪者になりたくなかっただけなんだ……」
 信じたいのに信じ切れなくて。そうして忍を悪者にして。巳夜のことも深く傷つけて。一番中途半端な偽善者でしかなかった。あの時、典馬が何と言おうと、たとえ本当に忍を訴えたところで、一緒に戦えばそれで良かったのに。
 万が一忍が本当に悪かったとしても、庇うことが優しさなんかじゃなく、ただ共に償いをしていけば良かっただけなのに。
 それなのに典馬の言葉を鵜呑みにして、巳夜のことを一生守ると決めながらも心はいつも忍の方にあって。巳夜は一体どんな想いで、自ら別れを切り出したのだろうと思うと、罪悪感でいっぱいだった。こんな自分に、もう二度とあの人を好きだなんて言う資格は無い。だから忘れなきゃ。忘れるんだ。何度もそう自分に言い聞かせた。
 それなのに、声を聞いた瞬間、どうしようもなく好きだと思ってしまった。
 会いたい。本当は凄く会いたくて会いたくて。もう一度だけでいいから、触れたい。抱きしめたい。
(最低だ……!)
 そんな身勝手な願いを振り払うように、蓮川は自分を責め続けた。


 忘れなくちゃいけないのに、気が付けば足が向いていた、懐かしいマンションの目前。
 蓮川は寒空の下、愛しい人がいるであろう部屋を見上げた。あれからどうしているのだろう。風邪をひいてはいないだろうか。一人で何でも出来る人だから、きっと大丈夫だとは思うけれど、時々びっくりするほど寂しがりやで甘えたになるあの人が、今夜はぐっすり眠れているのだろうか。
 そんな愛しさや切なさばかりを抱えながら見上げていた頭を下ろし、美鹿の家に帰ろうと足を一歩踏み出した時だった。
「そんなとこで、何してんだよ」
 聞きなれた声に、ドクンと胸が脈打つ。
「奇遇だな。今仕事から帰ったトコ」
 振り返ると、スーツ姿の光流がにやりといつもの笑みを向けてきた。蓮川は生気のない瞳で光流を見つめる。
「今日は遅くなっちまったけど、あいつ、まだ待っててくれてるかな」
 光流が含みのある台詞を放った。蓮川は一瞬ぴくりと反応するが、妙に冷めた表情を変えることはなかった。
 そうか、やはり今はこの人と一緒に住んでいるのか。当然だろう。そう思っただけだった。
「もうおまえのもんは全部片付けたから、今更帰ってきたって何もないぜ?」
「わかってます。もう二度と来ません。……失礼します」  
「待てコラ、二度と来ないってどーいうことだよ?」
 光流はその場を去ろうとする蓮川の首根っこを掴み引き寄せた。
「……良かったじゃないですか。邪魔者がいなくなって万々歳でしょう?」
 蓮川は光流の顔を見ないままに、高校時代そのものの僻みっぽい口調で言う。光流もまた高校時代そのままに、苛立つ表情を見せた。
「本気で言ってんのか?」
 光流がまっすぐに蓮川を睨みつける。蓮川は冷めきった瞳を決して光流には向けようとしなかった。
 突然、光流の拳が蓮川の頬を直撃した。コンクリートの上に倒れる蓮川を、光流は拳を震わせながら怒りに満ちた瞳で睨みつける。  
「てめぇの想いはその程度のもんだったのかよ……!?」
 蓮川は血の滲んだ口元を拭いながら、酷く悔しげに光流を見上げた。
 そうじゃない。気持ちは誰にも負けていない自信はある。ただ、幸せにする自信がないだけだ。だって自分なんかよりずっと幸せに出来る相手が、いつも傍にいるじゃないか。俺なんかのどこに、この人より勝る点があるというのだ。
 でも。
 だけど。
 気持ちだけは。
 あの人を想う気持ちだけは。   
「そんなちっぽけな気持ちしかねぇ奴に、あいつはやらねぇ!!」
「ちっぽけじゃ……ありません……」
 蓮川は低い声を発しながら立ち上がった。
「あの人を想う気持ちだけは、絶対に、あんたにだって負けません……!!!」
 涙の滲む瞳。蓮川は震える声で言葉を続けた。
「でも、俺じゃ幸せに出来ないんです……! どんなに好きでも、愛していても、こんな馬鹿で優柔不断でつまらなくて頼りない俺じゃ……どうしたって幸せになんか……!!」  
 蓮川の肩が震え、地面の上のぽたぽたと涙が零れ落ちた。
「……ばーか。そんなのあいつは一つも望んでねーよ」
 不意に光流が力の抜けた声を発した。
「そういうどーしようもないおまえだから、好きになったんじゃねぇか」
「……意味がわかりません」
 ぐいと右腕で涙を拭いながら、蓮川は言った。
「いいか、よく聞け蓮川。確かに俺はおまえと違って、頭が良くて顔も良くて頼りになる最高に男前な男だ。おまえなんかに一生勝てるわけがねぇ。そんな俺をフッてまで、あいつがおまえを選んだ理由は何だと思う?」
「どうしたらそこまで自惚れられるのかも解りませんが、俺を選んだ理由も解りません」
 目を据わらせる蓮川の肩を、あくまで真剣な目をした光流がぐっと両手で掴んだ。  
「おまえを好きになっちまったからだよ」
 光流の熱血教師ばりに熱い台詞に、しかし蓮川は大いに疑問顔だ。
「だから何で、俺なんかを……!!」
「じゃあおまえ、今すぐ俺を好きになれって言われて好きになれるのか!?」
「なれるわけないでしょう気色悪い!!」
「俺だって気色悪いわ!! つまりそういうことだ!! 好きって気持ちは理屈じゃねぇんだよ!!」
 光流がずばっと断定した。そのあまりの断定っぷりに、蓮川は言葉も思考も一瞬にして失った。
 確かにそう言われればそうかも。単純かつ洗脳されやすい蓮川は、あっという間に光流の言葉に納得した様子である。
「今すぐぶっ殺してやりてぇくらい腹立つけど、あいつはまだおまえのことが一番好きなんだよ!! いいかげんそのことを解りやがれ!!!」
「光流せんぱ……」
 蓮川が酷く感銘を受けたかのように瞳に輝きを取り戻した、その時だった。
 コツ、と足音がしたその先に、光流と蓮川が同時に顔を向ける。そこにはマンションから出てきたばかりの忍の姿があった。
 おそらく蓮川がいるなどとは夢にも思っていなかったのだろう。一瞬目を見開いたかと思うと、ピーンと空気が張り詰めた。
「し、忍先輩……!」
 蓮川が声をあげた刹那、忍はいきなりきびすを返したかと思うと、逃げるように走り出す。
「なんで逃げるんですか、忍先輩……!!」
 蓮川は叫ぶが、忍は立ち止まることなく、マンションの中に飛び込んで行ってしまった。
 しんと静まり返る空間で、蓮川は真剣な瞳を光流に向けた。
「光流先輩……やっぱり俺、忍先輩のことが好きです」
「だからどうした、俺の知ったこっちゃねーよ」
 馬鹿馬鹿しいと言わんばかりの声を放ちながら、光流はくるりと蓮川に背を向けた。その背を見送る蓮川の瞳に、もう迷いは無かった。


 一目見た瞬間に、どうしようもなく「好きだ」と思った。
 それは理屈なんかじゃない。増して義務でも義理でもない。ただどうしようもなく、心が叫ぶんだ。
 あなたを。あなただけを、愛していると。


「忍先輩……っ」
 チャイムを鳴らすと少し経ってから開いたドア。けれどドアを開いた相手と目が合った途端に、バタンと勢いよく閉じられる。
「忍先輩……!!」
 お願いだから、話をさせてください。そう何度も叫んだけれど、閉じられた扉が開くことはなく。
 隣の家でおおいに頭を抱える蓮川を、光流と瞬はため息混じりに見つめた。
「……やっぱり俺、嫌われてるんじゃないんですか!?」
「おまえな……あいつの繊細っつーかデリケートっつーかクソ面倒くせぇ性格、よく解ってるんじゃねぇのかよ?」
 そう易々と仲直りなんて出来ると思うなと、光流が厳しい声を放った。
「頑張ってすかちゃん! ATフィールド突破しなきゃだよ!!」
「意味わからねぇよ! ATフィールドって何!?」
 何度ドアを叩いても一向に出て来てくれはしない忍相手に、頼むから誰かなんとかしてくれ状態の蓮川であるが、決して助け舟は出さず安全圏から見守るだけの光流と瞬であった。        
 
 
 どうしても無理なら諦めるしかないにしても、俺はまだ何も伝えていないし、何も聞いていない。
 一度だけでいい。きちんと話をしなければ。
 蓮川は今日こそはと意気込み、忍の職場である事務所前で待ち伏せした。そうして待つこと数時間。ようやく忍が姿を表した。職場の人間と何やら会話を交わしながら事務所から出て来た忍は、蓮川の姿を見るなり、またも一瞬固まった。しかしすぐに平静を装い、同僚に別れの挨拶をする。蓮川はそれを待ち、忍の元へ歩み寄った。
「忍先輩」
 しかし声をかけても、忍は無視して蓮川の横を通り過ぎた。
「忍先輩……!」
 蓮川は諦めずに忍の後を追い、声をかける。やはり無視を貫いたまま、どんどん足を急がせる忍に、蓮川はぴたりとついて行った。
「お願いですから話をして下さい……!」
 度重なる無視に、いいかげん我慢の糸が切れる寸前の蓮川が、忍の腕を掴んで引き止める。しかし忍はその手を振り払ったかと思うと、いきなりその場を全力で駆け出した。
 あくまで逃げる忍を、蓮川は唖然と見送るが、ふとその表情がキッと凛々しいものに一変した。
 なぜ逃げる、なぜ話をしない、なぜ話を聞かない、何故。疑問符ばかりが頭に浮かび、気が付けばそれは苛立ちに形を変えていた。こうなったら何が何でも話をする。絶対に逃がしてなるものか。苛立ちを決意に変え、蓮川はその場を走り出した。
 あっという間に蓮川の足は忍に追いついた。
「忍先輩、どうして話をしてくれないんですか!?」
 必死で思い切り全力で走る忍の横を走りながら、蓮川はまるで早歩きしているかのように余裕の声だ。
「そんな逃げなきゃならないほど、俺のこと嫌いになったんですか!?」
 どうして。何で。こんなに全力で走ってるのに余裕で追いついてくるんだこいつは。そう言わんばかりに悔しさ全開で走る忍に、もはや言葉を発する余裕などなさそうだが、余裕で走る蓮川はしつこく質問を投げかける。
「だったら嫌いになったって、はっきり言ってください! そうしたら俺……!」
 蓮川がそう言った途端、忍がピタリと足を止めた。そして酷く悔しげに蓮川を睨みつけたかと思うと、またもその場をダッシュして、近くのバス亭に止まっていたバスの中に乗り込んだ。蓮川が「あ」と声をあげた時には既に遅く、バスのドアが閉まって発車する。
 しかし蓮川は諦めなかった。
「逃がすか……っ!!」
 スピードをあげて去っていくバスを追いかける。その驚異的なスピードは道行く人々の目を惹きつけずにはいられなかった。
 絶対に、何がなんでも、次の停車場所まで追いつく。執念とも言える勢いで走り続ける蓮川の目前で、バスが次の停留所に止まった。バスの扉が開くと同時に、蓮川はバスの中に乗り込んだ。しかしもう一つの扉から、忍がバスを降りていく。蓮川が「あ」と声をあげた時には、バスのドアが閉まり発車した。やられた。心の内で悔しがる蓮川の目前から、忍の姿が遠ざかっていく。畜生と拳を握り締め、わなわなと肩を震わせる蓮川であった。


 どうしてこんなにすばしっこいんだ。なんでこんなに知恵が回るんだ。ト○とジ○リーじゃあるまいし、いつまでこんな不毛な追いかけっこを続けなきゃならないんだ──!!!
 どれだけ追いかけても捕まえることが出来ない忍を前に、今日こそはとはりきる蓮川であるが、その日もやはり撒かれるばかりで。
「し~の~ぶ~~!!!」
 解る。今痛いほどに渚の気持ちが解る。もはや執念としか言い様のないほどに燃えている蓮川の瞳は、まっすぐに忍だけを見つめていた。
 その日もタクシーを乗り継ぎビルの隙間に入り込み、挙句の果てにパトカーまで使って最終追い詰めたのは、どこにも逃げ場のない路地裏の片隅。どうにか道が無いかと周囲をきょろきょろと見渡す忍に、蓮川はぜいぜいと息を切らせながら、確実に一歩一歩歩み寄って行った。
 忍。蓮川が彼のことをそう呼んだのは初めてのことだった。もはや先輩なんて敬称つけてられない。絶対に追い詰める。捕まえる。そうして今度こそ、どこにも逃がさない。たとえどんなに拒絶されても、今度こそ、絶対に、俺の手で。
「忍……!!」
「……っ……!」
 またしてもその場から走り出そうとした忍の腕を、蓮川は咄嗟に捕らえた。その場に押し倒し、四肢をがっつり手と足で拘束する。いっさいの身動きがとれなくなった忍を、蓮川は本能剥き出しの獣のような瞳で見下ろした。 
「好きです」
 そうして、どうしても伝えたかった言葉を、まっすぐに伝える。
「あなたは?」
 そうして、どうしても聞きたかった言葉を、率直に尋ねる。
 他に理由なんて要らない。ただそれだけで良い。ただそれだけを伝えられれば。ただそれだけを聞くことが出来たなら。それ以外に何一つ、こうして追いかける理由も、逃げる理由も、何もないのだから。
「……き……だ」
 それまで酷く悔しげに蓮川を見つめた忍の瞳が、よりいっそう悔しげに蓮川を睨みつけた。
「好きだ……っ、馬鹿……!!!」
 もう一度、はっきりとその言葉を放った忍の瞳から、堪えきれない涙が溢れ出る。
 蓮川は驚愕と歓喜に打ち震える。そっと頬に手を寄せると、忍の涙に濡れた瞳があまりにも儚げで、美しくて。
 その瞳で見つめられたら、堪らなくなった。
「……好きです」
 蓮川は全身全霊でそう訴えると、堪えきれないように忍の唇を荒々しく奪った。忍もまた抑えていた想いを溢れさせるかのように、蓮川の首に腕を回し強い力でしがみつく。何度も絡み合う舌の熱さが、離れていた時を一瞬にして取り戻させる。
 愛している。だから今度こそ、離さない。離れない。
 蓮川は心の内で硬く誓った。
 たとえどんなに不幸にしても、この人がそれを不幸だと思わない限り、それはきっと幸せなのだから。
 
  
(なんて……)
 綺麗なんだろう。
 白く艶やかな肌に浮かび上がるような桜色。胸の突起を摘むと、ピクンと小さく揺れる身体。薄紅色に染まった頬で見つめられれば、鼓動は限界まで高まった。
「あ……っ、ぁ……ぅ……」
 くちゅくちゅと音をたてて擦るペニスの先から、雫が溢れ出る。赤子のように足を開いた無防備な姿は酷く淫靡で愛しい。愛撫の手を止めないまま、蓮川は忍の胸の突起に唇を寄せ舌を這わせた。
「ん……っ、んぅ……っ」
 もう限界だというように、四肢がぷるぷると震える。
「もうイってもいいですよ……?」
 胸から唇を離し耳元で囁くと、忍が大きく体を震わせた。蓮川は忍自身の液で濡れた指を、忍の中に潜り込ませる。二本の指で中の感じる部分を擦れば、忍の息が乱れ快楽に表情が溺れる。堪らない。蓮川は心の内で呟いた。
「ちゃんと思い出して下さい、俺の指の感覚。いっぱい気持ちよくしてあげますから……」
 忍はこくこくと頷くと、指を抜き差しする蓮川の首にしがみつくように腕を回した。
「……ぁ……、また……イく……っ」
 とろんと忘我した瞳が酷く愛しい。蓮川は忍の目元に口付け、更に指を激しく動かした。たぶん何度イかせても物足りない。いっそ気が狂うほどに、めちゃくちゃにしてしまいたい。二度目の精を放った忍が、苦しげに呼吸を整えようとするが、蓮川はそれを待たずに忍の足を抱え、ペニスで一気に貫いた。
「ひ……ぁ……っ!!」
 忍が悲鳴にも似た声をあげる。
 構わず蓮川が腰を突き上げる度に、忍は完全に我を忘れた嬌声を放った。
「はす……かわ……っ」
「……俺の名前は……?」
「かず……や……、かずや……ぁ……っ!」
 まるで母親を求める子供の泣き声のように聴こえた。
 だからこそ、どうしようもなく愛しくて。守りたくて。強く、強く抱きしめた。
 何度も、忍、と呼びかけながら。


 同じ相手に二度も恋をするなんて、たぶん人生これきりだ。
「あの……、手、握ってもいいですか……?」
 ここなら多分、誰も見ていないと思うので。狭い歩道で蓮川がそう言うと、忍は小さく頷いて、そっと手を差し伸べてくる。胸をドキドキさせながら、蓮川はその手をやんわりと握り締めた。綺麗すぎる微笑を浮かべた忍を目前にしたら、ますます鼓動が高まって。どうしよう。今すぐキスしたい。我慢できないほどの衝動にかられ、なりふり構わず忍の頬に唇を寄せた。少しも抵抗せず身を任せてくる忍が、なお愛しい。
「すみません、家まで待てそうにないです……」
「……我慢しろ」
 たぶん、その方が。忍が蓮川の耳元で囁くと、蓮川は耳まで顔を真っ赤にさせる。ぎゅっと忍の体を抱きしめ、「うぅ」と小さな呻き声をあげながら、「わかりました」と頷いた。
 せめて手をつないだまま、その場から歩き出す。
 愛情=発情。一分でも一秒でも多く、触れていたい。あなたに最高の恋をしている、今は。


 小脇に抱えた一冊の本がやけに重く感じ、典馬は表情を曇らせた。
『これ、私の書いた絵本。受賞して出版してもらえることになったの』
 久方ぶりに会った巳夜の、充実感に溢れた笑顔が思い出され、典馬はわけもなく襲い来る苛立ちに翻弄された。
 蓮川一也に捨てられ、さぞ落ち込んでいるだろうと思っていた。直後に見せた笑顔など、きっといつもの強がりに違いないだろうと。仕方ない。またいつものように慰めてやるか。結局あの女が最後に縋れるのは、僕しかいないのだから。 
 それなのに。
 夢に向かって一直線の彼女に、もうかつての弱さは微塵もなく。
『バイトで生活していくのは大変だけど、今、毎日が凄く楽しいの。昨日は同じ絵本作家を目指してる友達と一緒に、憧れていた作家さんに会うことが出来てね。思っていた通り、凄く凄く素敵な人だった……! ねえ典馬、昔私が好きだった絵本、覚えてる?』
 そう尋ねてきた巳夜に、典馬は微笑を絶やさないまま「ごめん、そんな昔のこと、もう忘れちゃったよ」と応えた。巳夜は「そう」と少しだけ寂しそうな表情を見せた。それ以上その話に興味はないと言わんばかりに、典馬は巳夜の部屋を後にした。
 くだらない。心底そう思った。何が絵本だ、何が楽しいだ。作家なんて努力したからと言って、それ一本で食っていけるほど単純な世界じゃない。つくづく馬鹿な女だと、典馬は嘲笑した。
 同時に、巳夜のきらきらと輝いた瞳が走馬灯のように蘇る。それに比べ、家で淡々と同じような仕事ばかりを繰り返す自分。その世界では既に知名度が高い典馬である。今だ多くの賞賛の言葉を得るものの、あくまで利益を得るためである上辺ばかりのお世辞や社交辞令が常だ。似たような言葉の連続に飽き飽きとし、何一つ満足感など得られはしない。元々、さして好きでやっているわけではない仕事。人並みに動くことの出来ない体には都合が良いから続けているだけだった。
 かといって、他にやりたいこともない。どうせこの身体で出来ることは限られているし、考えてみたところでやりたいことなど何も浮かんで来ない、夢も目的もない平坦な毎日。
 考えれば考えるほど、ただ馬鹿馬鹿しいと思うだけだった。いったい何のために、この片足を犠牲にしたのだろう。そうまでして手に入れたかったものは、何だったのだろう。
 酷く焦燥感に満ちた瞳をする典馬の視界に、ふと、見覚えのある姿が飛び込んできた。
 刹那、それまで色を失っていた典馬の瞳が、ギラリと光を放つ。
(蓮川一也)
 どうやら元の鞘に戻ったらしい恋人と、幸せそうに手を繋いで歩くその男の姿を、典馬は射るように見つめた。
 幸福感に満ち溢れた笑顔に、激しい苛立ちが募る。
 何故いつも、おまえが。おまえだけが。僕の全てを奪っておきながら、幸せになれるんだ。
『でもおれ、彼女のことが好きなんだ』
 あの時も。
『全部、君の言うとおりにする。だから……どうか、あの人だけは……』  
 あの時も。
 僕は確かに彼に勝った。僕は僕の思い通りに彼を不幸のどん底に突き落とし、彼から全てを奪い去ったはずなのに。
 何度も、何度でも、彼は立ち上がってくる。這い上がってくる。周囲を不幸に陥れさんざ苦しめておきながらなお、幸福を手に入れて笑っている。
 どうして。何故なんだ。
 典馬は見えない誰かに向かって叫んだ。
 しかし、すぐにそんなことは意味のないことだと気づいた。
 そうだ、この世に神など存在しない。世の中はいつでも不公平だ。
 どんなに人を不幸にしても、幸せになる奴は幸せになるし、誰に迷惑をかけるわけでもなく自らを犠牲にし続けた僕には、幸せなど一行に訪れはしない。ああ本当に、世の中はなんて不公平なんだ。それならば僕もおまえと同じように、僕の正直な心でもって、おまえの全てを奪ってやる。
 もう二度と立ち直れないように。這い上がれないように。永遠の苦しみを、おまえに。
 

 幸せは時折、ほんの少しの不安を運んでくる。
 こんな幸せが、ずっと続いていくはずがない。いつかまた、とてつもない不幸が襲ってくるのでは。そんな後ろ向きな感情が襲ってくるたび、思い出すのは恋人の笑顔と暖かい温もりばかり。
『忍』
 激しく抱かれた昨夜の恋人の顔を思い出し、忍はわずかに頬を赤く染めた。このところ、えっちの時だけは「忍」と呼んでくる。そんな時は昔の面影なんて微塵もなくて、ただ「男」の顔をする彼に、無性に感情が昂ぶる自分がいる。 
(くそ、重症だ……)
 我ながら恥ずかしい恥ずかしすぎると心の内で悶えながら、忍は足を急がせた。今はそんなこと考えている場合じゃなく、明日の仕事のことを。そう必死で感情を切り換える。それなのに、頭の中で何度も響く声。
 忍はますます心の内で悶え、もうこうなったら一刻も早く家に帰って抱きついてやる、と完全に開き直ってますます速度を速めた。焦るあまり、視界は完全に狭くなっていた。いつもならすぐに気づいたはずの背後からの気配に、気づくことが出来なかった。
 ガン!と、鈍い音が響いた瞬間、足元がぐらつき、視界が真っ暗になった。


 真夜中になっても帰って来ず、電話をかけても通じない。蓮川はそわそわと不安げに時計に目をやった。
 連絡の一つなく外泊なんて、今まで一度も無かったのに。どうしてだろう。嫌な予感がしてならない。
 再度忍の電話番号を画面に写した、その時だった。
 全く知らない番号からの着信。蓮川は怪訝に思いながら、即効で電話に耳を傾けた。
「はい……」
『こんばんは』
 電話の向こうから聴こえてきた、落ち着き払った声。蓮川はすぐさま電話の相手を悟った。同時に表情が強張る。
「小泉……?」
『久しぶりだね、蓮川君。元気そうで何よりだよ』
「なんの……用だ」
 彼からのアクセスがあるたび不運に見舞われてきた蓮川の心は、動揺で満ちていた。数々の悪夢を思い出し、心が条件反射し恐怖で震える。
『僕はね、今までにないくらい怒っているんだ。あれほど約束したのに、見事に巳夜ちゃんを不幸にした君に、これ以上ないほどの怒りと憎しみを覚えている』
 典馬のじわじわと追い詰めてくるような声に、蓮川はますます恐怖心を覚えた。
「違……う。別れを選んだのは、彼女自身だ……!」
『この後に及んで、まだそんな卑怯な言い訳をするつもりかい? 最後まで責任持って彼女の面倒を見切れなかっただけのくせに』
 いつものように、容赦なく責めてくる声。違うと何度も心で叫んできた声。それなのに、言い返すことの出来なかった数々の想い。
 「約束」とは何だろう、「責任」とは何だろう。彼女と生活を共にしている間、こうするべき、そうするべきだと、何度自分自身を律してきたのだろう。本当の想いを全て押し殺し、耐えてきた結果、どれだけ彼女を苦しめていたのだろう。結局俺は、いつかと同じように、自分が悪者になりたくなかっただけだ。約束を破る自分も、責任をとれない自分のことも、許せなかっただけだ。そこに彼女の気持ちを優先する心など、一つも無かった。だからこそ、さんざ苦しめて、追い詰めて──。
「彼女には本当に、申し訳ないことをしたと思っている。でもそれは、おまえには何の関係もないことだろう……?」
 蓮川は震える声で典馬に訴えた。そうだ、これはあくまで自分と彼女との問題で、彼に責められる筋合いはない。蓮川はどうにか冷静さを取り戻そうと、必死で思考を巡らせた。
『確かに……ね。けれど、僕との約束は約束だ。それを破った罪は重いよ。だから、きっちり制裁を受けてもらおうと思ってね』
 典馬の声は変わらず落ち着き払っている。蓮川はますます鼓動が高まっていくのを感じた。
『君は僕の一番大切にしていた「物」を傷つけた。だから僕も、君が一番大切にしていた「物」をバラバラに壊してやろうと思う。……もう二度と使い物にならなくなるほどにね』
 あまりにも不穏な声。蓮川は彼の本気を察し、額にじわりと汗を滲ませた。
「やるなら俺をやれ。頼むからあの人には何も……!」
 典馬の意図をすぐに察した蓮川は、懸命に訴えようとしたが、電話が突然切れた。その直後に、メールの着信音が鳴り響く。画像だけが送られてきたメールを開くと、蓮川の心臓はどくどくと脈を打った。恐る恐る、メール画面をスクロールする。気を失い拘束されている忍の画像がはっきりと視界に映った刹那、蓮川の瞳が大きく見開いた。


 何故、どうしてこんなことになったのか、まだ理解出来ないでいる。
「……ぅ……」
 朦朧とする意識の中、忍は懸命に体を動かそうとするが、手足を拘束された状態では呻き声をあげることが精一杯だった。
「苦しいですか? でも安全に作られている拘束帯を使わせてもらっているので、大丈夫ですよ」
 そういう問題じゃないと言わんばかりに、忍は頭上でいやに冷静な声を発する相手を睨みつけた。 
 手首と足首、それから胴体に巻かれた拘束帯は、全力を振り絞ってもびくともしない。おそらく拘束されてまだ数時間のはずだが、気が狂いそうにもどかしい。一体これから何をされるのか、彼は自分をどうするつもりなのか、まるで先の見えない不安感も相まって、忍はこれ以上ない危機感を覚えた。
「こんなことで……復讐になるとでも思っているのか?」
 もがくことを諦めた忍は、それでもどうにかこの場から逃げようと、典馬を説得する方向で問いかけた。
「もう復讐だとか、彼を陥れるだとか、そんなことはどうでもいいんです。ただ、許せないだけですよ。自分の欲望ばかりを優先し何一つ失わないまま幸福を手に入れ、それを当然としている彼のことが。だからせめて一つくらいは、奪ってやりたいと思っているだけです」
「あいつはもう充分に苦しんだ。おまえが思っているよりも、遥かに。それで満足は出来ないのか……?」
「ええ、出来ませんね。ちょっとやそっとの苦しみじゃとても。彼には永久に、地獄の底でもがき続けてもらわないと」
 典馬の瞳が憎しみの色に満ちた。忍が思わず息を呑むほどに。
「例え……今ここで俺が死んだとしても、あいつは不幸にはならない」
「ずいぶんと、ご自分を卑下なさるんですね。彼にとって貴方は、その程度のものだと?」
「違う……! あいつに幸せになる強さがあるからだ……!」
 忍は力強い瞳で訴えた。一瞬、典馬がぴくりと不快げに眉を動かした。
「おまえが幸せになれないのは、自分一人の足で立っていないあkらだ。誰に褒められても崇められても愛されても満足出来ないのは、おまえがそれなしでは生きていけないからだ。人から貰える愛情や賞賛という見返りがなければ、誰のことも愛せないからだ。でも、あいつは違う。誰に卑下されても貶められても、愛されなくても、何度でも自分の力で立ち上がる。そうして誰のことも、許すこと愛することが出来る。だから幸せになれるんだ……!」
「黙れ……!」
 それ以上は聞きたくないと言わんばかりに、典馬が声を張上げた。それでも忍は鋭い瞳で典馬を見据える。典馬の肩がわずかに震える。いつも冷静な彼が、確かに心を揺さぶられている。そうだ、もっと足掻け。もっと自覚しろ。自分の弱さを。傲慢さを。そして、醜さを。おまえが思う完璧な自分など、所詮は人のために創り上げた幻影でしかないのだから。
「愛したいんだろう、本当は。あいつみたいに、誰かのことを必死で。けれどそんな陳腐な感情に翻弄される自分はみっともない。だから必死でその感情にブレーキをかけている。……随分とくだらないプライドだな」  
 忍はわざと典馬を見下し言った。
 典馬の気が、一瞬にして色を変えた。同時に、頬に衝撃が走り、口の中に血の味が広がった。典馬が忍の上に覆いかぶさり、その口の中に指を突っ込み忍の舌を捕らえた。
「黙れ。おまえみたいに余計なことばかり口にする人間、僕は一番嫌いなんだ。いっそこの要らない舌を引っこ抜いてしまいたいほどにね……!」
 典馬は更に指に力を込め、忍の舌を引っ張りあげる。忍は苦しげに瞳を閉じた。
「愛だなんてくだらない。人間の感情なんて、所詮は全て、自分のためだ。自分が好きだから。自分が欲しいから。自分が愛されたいから。自分が愛したいから。自分が。自分が。そんな身勝手な人間ばかりの世界なんて、僕はもううんざりなんだよ……!!」
 典馬は心の叫びを声にすると、ようやく忍の舌を解放した。そして指の変わりに、今度は自身の唇で忍の口を塞ぐ。頭をしっかり抑えこまれ、絡んでくる舌を避けようとしても避けられない。忍は息苦しさに悶えた。
「貴方は……貴方なら、解ってくれそうだ。この世界の息苦しさを。与えても与えても奪われていく空しさを。愛されても愛することのできない虚無感を。……解って、くれるでしょう……?」
 同じ闇に堕ちろと、その瞳は語っていた。彼の言う通り、忍には理解することが出来た。幼い頃から人の顔色ばかり伺って、気が付けば、父の望むように平気で嘘をついて笑うことが出来るようになっていた自分。父の望むように感情をコントロールすることが出来るようになっていた自分。父の望むように人の心を利用することすら平然と行えるようになっていた自分。自分は何一つ望んでいないのに、他人である父の望むように。
「だったら……おまえも好きにすればいい」 
 忍は力ない声で言った。
 もう、好きにしていいんだ。自由になっていいんだ。誰のためでもなく、自分のために生きればいい。そう言うと、典馬は薄く微笑んだ。
「ゲームにはもう飽きました」
 その言葉を耳にした瞬間、忍は絶望すら感じた。
 彼はもうそんなこと、とうに理解していると察したからだ。救いようがない。そう思わずにはいられないほどに。
「もう次のゲームを考える気力もないし……それなら、最後はゲームの主人公にとどめをさしてもらおうと思ったんです」
 だって僕は、ラスボスですから。愉悦すら含んだ典馬の笑みは、もう何もかも諦めた人間の顔そのものだった。
 典馬の指が、忍のシャツのボタンをほどいていく。露になった胸に口付ける。こいつはきっと俺を、囚われのお姫様だとでも思っているのだろう。なんて陳腐で子供じみた、ラスト・ゲーム。忍はやけに冷静な頭の中で呟いた。
 早く。早く来い。お姫様になる気なんてないけれど、今、俺を助けられるのは、おまえだけ──。
「忍先輩……!!」
 そっと心の内で懇願した忍の耳に、今まさに頭の中で描いていた陳腐なラスト・シーンが繰り広げられる。派手にホテルのドアを蹴破ってきた蓮川が、懸命に息を切らせ飛び込んできたかと思うと、振り上げた拳を典馬の頬に思い切り打ちつけた。
「いいかげんにしろよ小泉!!」
 床に倒れた典馬に馬乗りになり胸倉を掴みあげ、蓮川は怒りに肩を震わせながら叫んだ。
「おまえが……っ、おまえが俺を憎むのは当然のことだ! 殴ろうが殺そうが好きにして構わない! でも、これは俺とおまえの問題だ! 何の関係もない人を巻き込むのだけは許さねぇ……!!!」
 完全に抑えこまれ屈辱の表情に満ちた典馬もまた、怒りに肩を震わせた。
「貴様に許される筋合いはないっ!!」
 典馬が完全に理性を失った瞳で叫んだと同時に、蓮川の瞳が大きく見開いた。
 一瞬の激しい衝撃。けれど痛みは感じなかった。腰に深々と刺さったナイフと、じわりとシャツに滲んでくる自分の血液を見るまでは。
「蓮川……っ!」
 忍が叫び、必死でもがく。
 急激に襲ってきた痛みをこらえながら、蓮川は典馬を鋭い瞳で見据えた。
「これで……満足か?」
 蓮川は殺気立った瞳のままにゆらりと立ち上がり、腰に刺さったナイフを一気に引き抜いた。辺りに血飛沫が飛び、それは典馬の頬も直撃した。
 そのまま蓮川は、ゆっくりと典馬に歩み寄る。あまりにも鬼気迫った表情。オーラ。典馬は怯んだ表情で後ずさった。血まみれのナイフを前に、足が震え鼓動が高鳴る。典馬は生まれて初めて死の直面に対峙し、真の恐怖というものを覚えた。
「なに怯えてんだよ? 許さないって言っただろ……?」
 まるでこれから食事だと言わんばかりに獲物を見つめる瞳で、笑みすら浮かべる蓮川を前に、典馬は声を失い息を止めた。
 殺される。
 彼は本気だ。絶対に。殺される。絶対に。
 殺される。殺される。殺される。殺される。殺される──!!!!!
「小泉ぃぃぃぃ!!!!」
「巳夜ちゃん……!!!!」
 蓮川がナイフを振りかざし声を荒げた刹那、典馬は両腕で己を庇いぎゅっと目を閉じ、無意識の内に叫んでいた。
 
 助けて、と。

 
 
『てんま、血、出てる。だいじょうぶ?』
『うん、だいじょうぶだよ。痛くないよ』
『ごめんね、ごめんね、てんま。いたいのいたいの、とんでいけ~!』
 
 あの時、本当は、痛くて痛くてたまらなかったんだ。 
 でも君が、あんまり悲しそうに泣くものだからさ。
 しょうがないなって。我慢しなきゃって。
 だって僕は、男なんだから。弱い子は、ちゃんと守ってあげなきゃ。
 そんな風に強がって、痛みなんて意地で吹き飛ばして。
 僕は強い男だなんて勘違いをしていたけれど。
 あの時、あの涙と、君のおまじないが無かったら、うんと泣き喚いていたのかもしれないね。
 ねぇ……巳夜ちゃん。


 死の瞬間、人は過去を思い出すというのは本当なのだと、典馬は悟った。
 窮地に立たされたというのに、何故僕はこんなにも冷静なのだろう。典馬はぼんやりと宙を仰いだ。倒れた自分の真横でナイフが光っている。それは解る。目の前に、自分を殺そうとした男が息を荒げているのも。
 でも、見えない。ただぼんやりとしか。
 後から後から噴き出してくる汗。恐怖でがんじがらめになった身体の震えは、そう簡単に止まってはくれなかった。
「かず……や……、一也……っ!!」
 典馬の意識をはっきりと覚醒させたのは、涙の入り混じった忍の声だった。
 どさりと覆いかぶさってくる蓮川の身体。典馬はまだぼんやりとした表情で蓮川を抱きとめた。
「なん……で……」
「うるせぇ……クソガキ」
 危険なオモチャ持ち歩いてんじゃねーよ。そう呟いて意識を失った蓮川を、典馬は虚無の瞳で見つめた。体を押し退けると、蓮川は力尽きたのか床にゴロリと横たわり、意識を失った。典馬はふらふらと立ち上がる。まだどこか心ここにあらずの状態で、忍の元に歩み寄り拘束帯を外した。自由になった忍は、即座に蓮川の元に駆け寄った。
「一也っ、一也……!!!!」
 涙を流しながらも、忍は懸命に蓮川の傷口を塞ぎ呼びかけた。
 ああ、まるでさっきの夢みたいだな。
 典馬は二人を眺めながら、ぼんやりと思った。
 いや、あれは夢なんかじゃない。
 そう心の内で呟いた刹那、典馬の瞳から涙がこぼれ落ちた。



『都内のホテルにて、男性が刺される』
 片隅に小さく掲載された新聞を見つめながらため息をつき、忍は病院のベッドの上で暢気に林檎を食べる蓮川を、半ば呆れた瞳で見つめた。その隣で、蓮川の友人である美鹿がおおいに泣き崩れている。
「まあ仕方ないだろ、多少後遺症は残るけど、走れることは走れるんだから……」
「貴様それでも一流のアスリートか!? もう二度と元通りに走ることは出来ないかもしれないんだぞ!? 少しは嘆けよ喚けよ悲しめよ!! ってか何で俺がこんなに泣いてるの!!??」
 蓮川の胸ぐらを掴みあげ、相変わらずの暑苦しさで美鹿は訴えた。
「いや今は趣味で走ってるだけだし、一流でもなんでもないし」
「頼むから目指せよ世界を!!! でなきゃ毎日必死で走ってるにも関わらず、週に一度走るか走らないかのおまえにあっさり負ける俺の立つ瀬がねぇ!!!」
 どこかの誰かと一緒で凄く良い友人だけど、暑苦しい。無駄に暑苦しい。思いながらも、忍もまた美鹿と同様に、二度と元には戻らないかもしれない蓮川の怪我には大いに落ち込むばかりだった。

 さんざ喚くだけ喚いて美鹿が病室から出て行った後、忍もまた気落ちした様子で尋ねた。
「本当に、これ以上罪に問うつもりはないのか……?」
 真の犯罪者となった小泉典馬に、もっと多くの罰を科すことも出来たが、蓮川はそれを望まなかった。
「いや……元を正せば、俺が悪かったんだと思うから。やっぱり人のもの奪ったりしたら、それ相応のしっぺ返しがくるんだなって学んだくらいで」
 蓮川は苦笑しながら言った。
「選んだのは、彼女の方だろう」
 失礼なことを言うなと、忍は慰め半分叱責半分に言った。蓮川がしゅんと肩を落とし「すみません」と口篭る。
 そう、選んだのは彼女の方だ。高校時代も、今も、誰を好きになって誰を愛し誰と別れどう生きていくのか、選んだのは他の誰でもない彼女自身なのだから、そこに他者が責任を感じる必要などありはしない。
「いつか光流先輩にも、刺されますかね」
 蓮川が苦笑しながら言った。冗談とも本気ともとれるその言葉に、忍は「馬鹿」と小さく言った。
 本当に、お人好しにも程がある。本気で殺されかけてなお、自分の非を見つめ他者を想いやれるその強さは、どこから来るのだろう。忍は考えるが、答えは出ない。天性のものなのか、環境がそうさせたのか、おそらくはそのどちらでもあるのだろう。何にせよ、滅多に出会えないであろう強い人間だと確信した。
「選んだのは、俺だ」
 忍はベッドの脇に腰掛けると蓮川の髪に手を寄せ、そっと唇を重ねた。
「いつか後悔しますよ」
「しない」
「頑固ですもんね。……お互い」
 そう言って、蓮川がクスリと微笑む。忍もまた、おかしげに笑みを浮かべた。
 手と手を重ね合わせたまま、しばし沈黙が流れる。ふと忍がもぞもぞと身体を動かした。蓮川もまた、どこか落ち着かない様子だ。
「あの……そういう顔されると、弱るんですけど……」
「……仕方ないだろ、おまえが怪我なんかするから……っ」
 明らかに拗ねた表情で見つめられ、蓮川は顔を赤くして言葉を詰まらせた。頬を桜色に染め、寂しさと身体の疼きを全身で訴えてくる忍を前に、ますます鼓動が高まる。どうしよう。どうしよう。どうしよう。蓮川は軽くパニック状態になりながら、必死で宥める言葉を探した。
「あ、新しいオモチャ、買ってあげますから……!」
「そんなもんで満足できるか!」
 忍が当然納得するはずもなく、まるで今すぐおまえが欲しいと言わんばかりに、布団に潜り込み蓮川のズボンのパジャマに手をかけた。唐突に今すぐいけない事をしようとしている忍の頭を掴み、蓮川は慌てて引き離そうとするが、あっという間にペニスを剥き出しにされる。
「ダメですって……! ここ病室ですよ!?」
 しっかりがっつり勃っているにも関わらず、到って常識的で真面目な蓮川は、怪我の痛みをこらえながら必死で忍を引き離した。忍が思いきり不満げな上目遣いをよこすが、蓮川は仕方なさそうに溜息をつく。
「わ……かりました、こっち、来て下さい」
 蓮川がそう言って左腕を広げると、忍は言われた通りに蓮川の腕に頭を乗せ、隣に横たわる。蓮川は忍のズボンのベルトを外しチャックを降ろすと、既に昂ぶりを見せている忍のペニスに指を絡ませた。
「病室……だぞ……」
 全く抵抗はしないまま、忍がぽそっと言った。
「だから声は我慢して下さいね?」
 ちょっとでも声出したら、おしまいにします。蓮川がそう言って、先走りが溢れる先端を指でぐりぐりと愛撫すると、忍は必死で声を殺しながら身体を震わせる。その様子があまりに可愛くて、蓮川はわざと焦らすようにじれったい愛撫を続けた。
「……ゃ……っ」
 もっととねだるように腰を揺らし涙目を向けてくる忍の尻に左手を回し、奥の入り口を指で辿る。ヒクヒクと収縮するそこは、さんざ待たされて物欲しそうに疼いている。可哀想だけれど、自分がこの状態じゃ仕方ないし。蓮川は心の内で言い訳しながら、せめてと思い指で慰めるが、余計に忍が苦しくなることには気づいていないようだ。
「ん……っ、や……、もっと……っ」
「これ以上はダメですって。汚したら病院の人困るでしょう?」
 さんざ緩い愛撫が続いた挙句、物凄く中途半端に放り出され、忍は泣き出しそうなほどの切なさと、酷すぎるという憤りの狭間でどうにも我慢がならず、ガバッと上体を起こし蓮川の上に乗った。
「俺の中に出せば問題ないだろう……っ」
「いやいやいやっ、誰か来たらどーすんですか!!」
「プロレスごっこですと言っておけ!」
「俺じゃあるまいし誰も誤魔化されません!!」
 ダメなものはダメだと、あくまで蓮川は忍の行為を跳ね除けた。
 思い切り欲情してるくせに、何で我慢できるんだこいつはと、忍は信じられない気持ちでもって蓮川に恨みがましい目を向ける。けれど恐ろしく真面目で頑固で意思の強い蓮川には勝てなかった。   
 結局、逆に拷問としか思えない中途半端さで己の性欲をこらえなければならなくなった忍は、不機嫌さ全開で身なりを整える。
「あ、あの、すみません……っ! 帰ったらうんとしてあげますから……!」
 蓮川は頼むから機嫌直して下さいと頭を下げるが、忍の不機嫌さは増していくばかりだ。
「もーいい。おまえなんかよりオモチャのがずっとマシだ」
「ごめんなさいってば! ちゃんと先輩の好きなオモチャいっぱい使っていっぱい気持ち良くしてあげるし、ちゃんと先輩がイくまで我慢するし、なんなら先輩が三回イくまで我慢しますから……っ!!」
 持久力しか能がなくてすみません!と、蓮川はあくまで自分を卑下するが、男として相当に凄い事にはやはり気づいていないようだ。(※光流先輩はそんなに持ちませんむしろ自分がイきまくります)
「……もうちょっとだけだからな」
 オモチャで我慢するのは。そう言って、忍は蓮川の胸にコトンと額を落とした。
 退院して帰ることが出来たら、うんとうんと構ってあげよう。そう心の内で堅く決意し、愛しげに忍の髪を撫でる蓮川であった。



「典馬くん、可哀想~~。やっぱりあの女に裏切られたのが相当ショックだったんだよ~~!!」
「ねー!! ほんとあの女、腹立つ!! 出所してきたら、みんなで目一杯慰めてあげようね!!」
 小泉典馬が逮捕されたという話題は、あっといういう間に学生時代の同級生たちの間で広まっていった。彼ら彼女らは、可哀想可哀想と、口々に典馬に同情の声を寄せた。おそらく出所してきても、彼と彼らの関係は一つも変わらないだろう。
 そのことに深くため息をつきながらも、巳夜の心の内に、もう昔のように荒い波風がたつことはない。
「ほんとに可哀想だわ典馬くん……。巳夜ちゃん、あなた自分がどれほど典馬くんを傷つけたか解ってるの? あなたはこれからずっと、典馬くんに償いをしていかなきゃならないの。ちゃんと支えになってあげるのよ?」
 しかし母親の言葉にだけは、どう受け流そうとしても心は苛まれた。
 はい、わかりました。もうそんな風には頷かないし、仕方ないこういう人なのだからと割り切ることしか出来ない。幼い少女のままに育った彼女はきっと、この先も変わることはないだろう。だからといって、見捨てることなど出来はしない。何も知らない彼女なりに女手一つで懸命に自分を育ててくれたこともまた、確かな事実なのだから。
「お母さん、典馬はそんな弱い男じゃないよ」
 巳夜はまっすぐに亜希子の目を見つめて言った。その凛とした表情に、亜希子は一瞬怯んで口を閉ざしたが、悔しげに眉を寄せたかと思うと、すぐまた口を開いた。
「だ、誰も弱い男だなんて言ってないわよ! でもあなたが典馬君を裏切らなかったら、こんなことにはならなかったじゃないの!」
 止まらない責め苦を聞き流しながら、巳夜は心の内で深くため息をついた。ああまたやってしまった。いくら自己嫌悪に陥ったところで、亜希子のヒステリーは止まらない。病気。これはもう病気だと思うより他に自分の心を宥める方法はなく。
「あ、あそこにお母さんの好きそうな店あるよ。入ってみる?」
 派手な服が並ぶアパレルショップを指差すと、亜希子の口がピタリと止まり、瞳が輝いた。浮かれた様子でその店に向かっていく亜希子の後ろ姿は、まるで小さな子供のように巳夜の瞳に映った。
 そしてふと、思い出す。

『巳夜ちゃん、大好き!』
 母が綺麗な服を着て化粧を施した後、鏡の前でくるりと回る。
 私はその姿を見て、「綺麗だよ」って褒めてあげる。
 そうすると、母はとても嬉しそうな顔をして、ぎゅっと私を抱きしめてくれた。
 私はそんな母の嬉しそうな顔がとても嬉しくて、そして、とても可愛くて。
 いつもそんな風に笑っていて欲しくて、お母さんをぎゅっと抱きしめた。
 天国のお父さん、見てる?
 大丈夫だよ、お母さんのことはわたしが守るから。
 お父さんの代わりに、ずっと、ずっと、わたしが守っていく。    
 だから安心して、見ていてね。
  
(ああ、私……)
 なんだか随分、子供らしくない子供だったんだな。
 無理しちゃって、馬鹿みたい。
 でも人間、やっぱりそう簡単には変われない。起こった出来事の一つや二つで変われるくらいなら、とうの昔に楽になっている。
 だけど変わることが出来ないから、私は今もあの頃の私のまま、大切なことを忘れず誇り高く生きていけるのかもしれない。
 だったらせめて、そんな自分を好きになって、ぎゅっと抱きしめてあげよう?
 こんな馬鹿で単純で子供じみた自分のことを、世界で一番好きになってあげられるのは、私しかいないのだから。
 

 
「蓮川君の怪我、ほぼ元通りに治るって。……良かったね」
 面会室のガラス越し、巳夜は典馬に優しい声で呼びかけた。相変わらず無表情の典馬は、しかしどこか穏やかな様子にも巳夜の瞳には映った。
「あいつ……僕のこと、クソガキって言った」
「え……?」
 ふと典馬が、ぽつりと声を漏らした。と同時に、身を乗り出し声を荒げる。
「ふざけんなっ! なにがクソガキだよ! 自分だってどーしようもないガキのクセにさ!!」
 いつもの冷静さはまるで皆無で、まるで小さな男の子のように喚き立てる典馬を前に、巳夜は目を丸くする。
「ここ出たら、あいつ絶対殴ってやる! 今度は……この手で」
 典馬はしっかりとした口調でそう言うと、ぎゅっと握り締めた右の拳を見つめた。
 何年ぶりだろう、典馬のこんな瞳を見るのは。
 巳夜はあっけにとられた後、肩を震わせ瞳に涙を滲ませた。
「……馬鹿……っ」
 もう喧嘩なんてやめてよ。
 巳夜は昔と同じようにそう言って、泣き続けた。
 好きで好きでたまらなかった。ずっと会いたかった。
 誰よりも強く優しかった、あの頃のヒーローを前に。



 その帰り道、偶然にもばったりと忍に出会った。彼は恋人の見舞いの帰り道だった。
 恋人の怪我はと尋ねると、忍は大丈夫とだけ応えた。
 本当に申し訳ありませんと、巳夜は頭を下げた。
 貴方が謝る必要はどこにもないと、相変わらずの冷静さと冷酷さでもって忍は言った。
 恐縮するばかりの巳夜は、ただ自分のことを不甲斐ないと思った。人間、やはりそう簡単には変われない。自分より圧倒的に勝っている相手に、劣等感ばかりを抱いていると、不意に忍の瞳が涙で潤み、巳夜はハッと目を見開いた。
「あ、あの、どうし……!」
「……あいつの足、もう二度と戻らないって……」
 我慢の限界とでもいうように泣き出した忍を前に、巳夜はおろおろと焦りながら、大慌てで鞄の中からハンカチを出し、忍の目元を拭おうとするが、焦るあまりにほとんど殴るような形になってしまった。
「あ、あの、すみません……っ! すみません……!!!」
 眼球にえぐられるほどの痛みをくらった忍は、額に青筋をたてながらも、「大丈夫」と巳夜の手を押し返した。
「ほんとに貴女は……どこかの誰かとよく似ていて、嫌になります」
「え……?」
 呆れ声を放った忍を前に、巳夜はきょとんと目を開いた。
「僕にはよく解りますよ、小泉典馬が貴女を好きになった理由が」
「典馬が……私を……? そんな、好きとか、そんなんじゃ……」
 ただ弱い私が可哀想だったからだと、巳夜はやや自虐的に言い放った。
「貴女によく似た人間ほど強い奴を、僕は知りませんけどね」
 忍は失笑しながらそう言うと、巳夜に背を向けその場を去っていった。
 どういう意味だろう……。
 考えるが、少しもさっぱり意味が解らない。
 その場に立ち尽くし、うーんと唸る巳夜であった。


 高校時代。
 忍にとってこの世界で一番強いヒーローは、確かに存在していた。
 彼以上に強い人間はいないと思っていたし、彼以上に自分を救ってくれる存在など有りはしないと信じていた。あまりにも盲目的に、信じていたのだ。彼だけは何があっても、自分を守り続けてくれると。決して見捨てはしないと。そして多分今もまだ、信じ続けている。
「すかちゃん、生徒達と一緒に修学旅行楽しんでるかなあ?」
「忍、寂しかったら俺の胸に飛び込んでこ……ぐはっ!!」
 いつものように悪ふざけばかりしてくる光流を、忍はいつものように思い切り殴りつけた。
 誰が寂しいだ。いや、正直寂しいけど。物凄く早く帰って来て欲しいけど。だからってもう、いちいちおまえなんかに慰められるほど寂しいわけでもない。忍は「全く」と心の内で呟いて、むくっと復活してくる光流を見つめる。
 寂しいのはいつだっておまえの方だろう、馬鹿。再度、心の内で呟いた。
 不意に携帯電話が鳴り響いた。忍は即効で電話に出る。
『もしもし?』
 生徒の世話で忙しいだろうに、律儀に電話をしてくる蓮川の声を聞いた刹那、忍は静かに微笑んだ。
『光流先輩、そこにいるんですか? ……何もされてないでしょうね?』
 背後でぎゃーぎゃー喚いている光流の声を察知し、蓮川がいつものごとく疑いの声をあげた。
「何もされたくなかったら、さっさと帰って来い」
 忍はからかうようにそう言って、まだ何事か喚いている蓮川からの電話をさっさと切った。
「そーやっていちいち試すの、いいかげんやめてあげたら~?」
 瞬が目を据わらせ呆れ声を放ってくる。忍は子供っぽさを見透かされ、ぷいと拗ねた表情を見せた。
「そうそう、旦那のお仕事の邪魔しちゃいけませんよ~、忍くん?」
「煩い! さっさと帰れ!!」
 いちいち上から目線が本当に腹立つと、忍は瞬と光流に噛み付いた。はいはいと頷きながらも一向に腰をあげる気配のない二人に、ますます苛立ちが募る。忍は苛立ちを少しも隠さず、怒った顔ばかりを露にした。
 いつの間にか、守ってくれていた相手は守るべき対等な存在で。
 いつも当たり前に空気のようにそばにいる「家族」なんだって、気づいた。
 だから、何も飾らなくなくていい。素直に泣いて笑って怒って、甘える時は思う存分甘えて。たまにはほんの少しくらい優しくしてやるかって思えるくらいが、丁度いい。
 無理せず、気負わず、ありのままの自分で。

     

「先生、抱っこしてやって」
 その日、一つの命がこの世に誕生した。
 疲れているのにごめんなさいと見舞いに行った巳夜の腕に、理佐は生まれたばかりの我が子を託した
 名前は「春也」。そう言って笑った理佐に、巳夜も心からの笑みを返した。
 恐る恐る抱き上げた腕の中の赤ん坊は、酷く小さくて弱々しくて、怖いとすら感じた。
 でも、とても。
「可愛い……」
 小さな手。小さな足。小さな指。不思議な程に愛しくて、全身全霊で守ってあげたくなる。
「これから大変だろうけど、頑張ってね」
「うん! ありがとう!!」
 明るい笑顔で言った理佐に、巳夜はバイバイと手を振った。
 病室のドアを閉めようとした時、、もう一度理佐に目を向けると、理佐は愛しさでいっぱいの瞳で安らかに眠る赤ん坊を見つめている。
 その姿はまるで、お姫様を守る王子様のように、巳夜の瞳に映った。
 (頑張って)
 心の内でそっとエールを送り、巳夜は病室の扉をそっと閉じた。