Family



 
   いっそ血の一滴すら残さず食い尽くしてしまいたいくらいに、人を好きになった。そんな時もあった。
 でももうそんな風に激しい恋をすることは二度とないだろうと思う今だからこそ尚更、目の前で泣き叫ぶ女の姿が酷く醜く、そして美しく思える。
「ちくしょー! バーカ! おまえなんて死んじまえ!!!!」
 つい先日まで恋人だと、いや恋人だと一方的に思い込んでいた男に、さんざ殴られなじられてもなお、彼女は男に縋った。光流は彼女を見つめ、疑問と同時に尊敬の念すら覚えた。
 何故この女は、何度裏切られてもまだ、人を好きになれるのだろう。信じられないほどの情熱で、人を愛することが出来るのだろう。惨めになったりはしないのだろうか。人に絶望することはないのだろうか。それとも諦めるということを知らないのだろうか。
 まるで親を見失った子供のように、人目を憚ることなく感情のままに大泣きする香里の肩にそっと上着をかけてやり、光流は彼女と共に彼女のアパートへ向かった。 
 狭い部屋に無造作に敷かれた布団の上に香里を横たえ、男に殴られ見るも無残に腫れあがった左目を、冷たいタオルで冷やしてやる。
 なんてどうしようもない女だろう。そんな光流の想いをよそに、香里は泣き疲れた子供と同じように、あどけない顔で眠りに堕ちていく。
 何をやっているんだろう、俺は。光流は己のお人好しさに嫌気がさしながらも、どうしても放っておくことは出来なかった。このままでは、いつか一人で死んでしまうのではないだろうか。それはいくらなんでも、あまりに。
「……ら………」  
 不意に彼女の口元が何かを囁いた。その瞳から、涙が一筋こぼれた。光流はそっと、その涙を指で拭ってやる。
 そうして、溜息をつくことしか出来ない。
 いっそ、拾って帰るか?
 そんな誘惑を必死で振り払い、重い腰をあげて香里に背を向け、そっとドアを閉じ部屋を後にした。


 どうせなら言葉すら奪って、首輪をつけて、この部屋から出られなくなってしまえば。
 確実に病んでる自分と思いながらも、欲望は止まらない。忍は眠る恋人の髪にそっと唇を寄せた。
「先輩……」
「……ん……?」
 静かに目を覚ました蓮川が、切なげな瞳を向けてくる。忍は穏やかな微笑を浮かべた。
「昨夜は……ごめんなさい。俺、わけわかんなくなって……」
「そんなに心配なら、俺が首輪つけてやっても構わないぞ」
「首輪……?」
「隣の犬に借りてこようか?」
 忍がふざけてそう言うと、何を想像したのか途端に蓮川の顔がボッと火を噴いた。
「おまけに尻尾もつけてやる」
「仕事にならなくなるんで、やめて下さいっ!」
 しまいには鼻血を流しながらも、馬鹿真面目に明日の仕事の心配をする蓮川を、忍はふわりと抱きしめた。
「……義姉のことなら、不安に想うことなんて何も無い。だからこそ昨夜、おまえに紹介したんだ」
「……すみません」
 わかっているんですけど、と、蓮川が情けない声をあげる。忍は慈しむようにその髪に口付けた。
「だからおまえも……もう二度と、すみれさんのことは思い出さないでくれ」
 苦しいんだ。忍がそう素直に告げると、蓮川が「ごめんなさい」と今にも泣きそうな声をあげながら、ぎゅっと忍を抱きしめる。
「お、思い出したりしないです……っ! いつでも……あの、仕事中でも、走ってる時も、飯食ってる時も、ナンなら授業中ですら、忍先輩のことしか頭にないですから……っ!!」
「授業中にエロい妄想してるのか、おまえは」
「いやあのっ、時々っ、ごく稀に……っ、いや結構頻繁に……っ」
 焦りながら馬鹿正直に言う蓮川を前に、忍は目を据わらせながらも、クスリと笑みをこぼした。
「……馬鹿」
 真面目に仕事しろ、と耳元で呟く。
 それからぎゅっと抱きしめられ、愛されていることを全身で感じる。
 大丈夫。何も不安に想うことなんてない。そう確信した忍は、蓮川の背に腕を回したまま、口を開いた。
「一度、兄に会いに行こうと思う。おまえにもいずれ、会って欲しい」
「も、もちろんです……!」
 蓮川は忍の身体を引き離し、意気込んで応えた後、首を傾げながら尋ねた。
「あの、お兄さんて、どんな方ですか……?」
 確か高校時代に一度見かけはしたけれど、忍とは全然似てないなという印象しかない。
「おまえによく似ているよ」
「へ? 俺に?」
 あまりに意外な忍の応えに、蓮川は目を丸くした。
「真面目で不器用で要領が悪くて、いつも父に怒られてばかりだった」
「はあ……確かに」
 蓮川は自分に嫌気がさしたように、うなだれる。忍は苦笑した。
「でも、優しくて忍耐強い人だったよ。あの姉さんが尊敬するくらいにな」
 忍がそう言うと、少し照れ臭そうに頬を染めた蓮川の表情が、あまりに可愛くて。
 きっと兄さんも気に入ってくれるに違いない。そう思いながら、再度柔らかい髪に唇を寄せた。

 
 結局はいつものようにいちゃいちゃを繰り返したところで満足した二人は、身支度を整え、外食に出向くことにした。
 玄関の扉を開くなり、「あ」と蓮川が口を開く。
 目の前には見知らぬ女性を背負い、ずいぶんと疲れた様子で自分の家の玄関の鍵を開けようとしている男が一人。
「光流先輩、どうしたんですか……?」
「あ……いや……」
 どこか後ろめたい様子で、おぶった女性を隠そうとするものの全然隠し切れていない光流を、蓮川と忍はきょとんと見つめた。
 

「光流先輩、ついに彼女作ってくれたんですね……っ!」
「ち、ちげーよ馬鹿っ! 誰が四十過ぎのババアに惚れるかっつの!!」
「え、四十過ぎ!?」
 いきなり目を覚ましたかと思うと無邪気に忍(わんこ)と遊んでいる、どこからどう見ても四十過ぎには見えない若く美しい顔立ちをした女性を前に、蓮川は目を丸くした。
「なあなあ光流、こいつすっげー可愛い! あたしも欲しい!!」
「誰がやるか! 元気になったならとっとと出てけっ!!」
「えー、勝手に連れて来といて、そりゃないんじゃない~? ねえ、君達もそう思うでしょ?」
 やっぱり情けなんかかけるんじゃなかった、こんな女に。光流は己のお人好しっぷりを改めて後悔しながら、蓮川と忍にぺらぺらとあることないこと喋りまくる香里に、辟易とした瞳を向ける。
「つかぬことをお伺いしますが、光流のことは本当に、つい最近知ったばかりなんですよね?」
 ふと忍が、いやに神妙な面持ちをして香里に尋ねる。香里はあくまで無邪気に「うん」と頷いた。
「じゃ、あたしはそろそろ帰るね~」
「待て、犬を持って行くな」
 颯爽と犬を誘拐しようとする香里を、咄嗟に光流が引き止める。
「だって可愛い! 欲しい欲しい欲しい!!!」
「おまえに育てられるわけねーだろが!!」
 光流が罵声を浴びせると、香里の表情が一変した。その、どこかショックを隠しきれない様子に、光流はハッと目を見開く。
「……だよね。ごめん」
 香里は初めて見る、酷くうなだれた様子でそう言うと、光流に背を向けとぼとぼと部屋を出て行った。
「香里……!」
 光流は慌ててその後を追う。
「あのさ……別に、ここに住んでもいいんだぜ……?」
「は? 何言ってんの? ガキに世話になるほど落ちぶれちゃいねーよ!」
 香里は振り返ると、きょとんとした直後に、さっきまでうなだれていたとは思えないほど明るく雑に言い放った。そして光流に背を向けると、「まったねー」と手を上げ去っていく。
 光流はハァと深く溜息をつきながら、足元に擦り寄ってくる忍(わんこ)を抱き上げリビングに戻った。すると、なんとも言えない表情で見つめてくる蓮川と忍の姿が飛び込んできて、光流は実に気まずそうに宙を仰いだ。
「光流……」
「な、なんだよ……?」
 忍にじっと見据えられ、光流は目を逸らしたまま応える。
「本当に、ただ偶然知り合っただけの女なんだな?」
「だ、だからそう言ってんだろ! 何を勘ぐってんだよ?」
「いや、ただ、何となく……」
 そう言ったきり口を閉ざした忍を、光流も蓮川も怪訝そうな目で見つめた。 


「やっぱり、寂しいんですね。光流先輩に好きな人が出来たら……」
 家に戻ると、蓮川がやや暗い面持ちで忍に尋ねた。
 光流と、香里と名乗った女性。年の差には驚いたが、どう見ても親しい男女の仲にしか見えなかった。となると、忍にとってはさぞ複雑な気分なのだろうと思わずにはいられない。
「……何を言ってるんだ?」  
 しかし忍は思いがけず、本気で蓮川の言葉の意味が解らないというように首をかしげた。
「あいつが人を好きになるなんて日常茶飯事だろう。それよりも彼女、あまりに似すぎてなかったか?」
「へ……誰に……」
 そこまで言って、蓮川はいきなりピンときた様子で目を見開いた。


 春が近づいてくる。
 そんな気配を感じながら、香里はぶらぶらと街中を歩いていた。
 ふと、子供の泣き声が耳に届いた。香里は振り返る。そこには赤ん坊を懸命にあやす、若い母親の姿があった。香里は目を細めて親子を見つめた。
 可愛い。可愛いな。だからお願い、神様。もう一度だけ、あたしにあの子を頂戴。もう二度と、離したりしないから。今度こそ大切に大切に、育てるから。
(なーんて)
 無理に決まってるじゃん。あたしなんかに。
 ばか。ばかばかばーか。  
 香里が思い切り自分をなじりながら前を向いたその時、見知った一人の青年が姿を表した。
「香里」
 一瞬、呼ばれた気がした。
 『母さん』、と。
 けれど錯覚に決まっていることに、すぐに気付いた。香里は有り得ない幻想を振り払い、目の前の青年に笑顔を向ける。
「みっつるー、どうしたの、こんなとこで」
 最近知り合ったばかりの、やたら綺麗な顔立ちをした青年は、随分と自分を気にかけてくれている様子。いつもみたいに、誰彼かまわず頼っちゃったりしたからかな。ごめんね。香里は心の内で呟いた。
「そっちこそ、こんな何もないとこで何やってんだよ」 
「仕事帰りだよ。この辺り、安いラブホ多いじゃん?」
 そう言って、香里は鶯谷のラブホ街を指差した。
 光流が呆れたように、ため息をつく。
 さすがまだ裏若き青年。ずいぶんとピュアだこと。香里は苦笑しながら、出会った時からやたらお人好しな青年の腕に自分の腕を絡ませた。
「お金入ったから、デートしよっか? 光流、どこ行きたい?」
「なんでオバサンとデートしなきゃなんねぇんだよ。俺はこれから法事で忙しいんだよ」
「法事? 親戚かなんかの?」
「いや、俺、寺の長男なんだよ。あの辺りにある光龍寺って寺の……」
 光流が実家の辺りを指差した刹那、香里の表情が一瞬にして凍りついた。
「光流ー!!」
 不意に、黒髪の女性が手を振りながら近づいてくる。
「あ、あれ、俺の母……」
 もう、彼の声は耳に入ってこなかった。香里の足が、手が、ガタガタと震える。動悸が止まらない。
 嘘。嘘だ。こんな。こんなことって。
 突然に、呼吸が出来なくなった。
 ヒューヒューと音をたてる自分の声ばかりが、いやに耳の内に響く。

(ごめんね……っ、ごめんね……っ!!)

 過去の記憶がフラッシュバックした刹那、香里はその場で意識を失った。


 いつか、会えるかも。
 でも絶対に、会っちゃいけない子。
 解っていたのに、東京に来たら、もしかしたら会えるんじゃないかって。
 そんな淡い期待をしていた。
 でもやっぱり、会わなければ良かった。あのままずっと、ここから遠い田舎町で暮らしていれば良かったのに。そうすれば、あんたの幸せ、邪魔しないで済んだのに。馬鹿だ。どうしてあたし、こんなに馬鹿なんだろう。十五歳のあの頃と一つも変わらない、馬鹿のままなんだろう。


「おい、大丈夫か?」
「……光流?」
 目を開いた刹那、飛び込んできた顔を前に、香里は切なげに目を細めた。その瞳に、じわりと涙が浮かび上がる。
「いい名前、つけてもらったんだね……」
「え……?」
 しかし香里は思いなおしたようにグイッと涙を拭うと、勢い良く飛び起きた。
「ごめん! 帰るわ!」
 そしてすぐさま立ち上がり光流に背を向ける。光流は慌ててその腕を捕らえた。
「待てって! あんたまだ体調悪いんだろ?」
「そうよ、少し休んで行きなさい」
 そこに姿を表したのは、光流の母、幸枝だった。
 幸枝はまっすぐに、香里を見据える。
 香里はどこか怯えた表情で、幸枝から目を逸らした。 
「光流、この人と少し二人きりにして」
 幸枝が言った。
 いつもの母と違う、そのあまりに慎重な面持ちに、光流は黙って引くことしか出来なかった。
 香里もまた、人が変わったように態度が違う。まるで借りてきた猫のようだ。酷く怯えているかのようにも見える。
 わけがわからないでいる光流は、ぽんと肩を叩かれ振り返った。そこには父、正史の姿があった。


「ここに一緒に座るのは、ずいぶん久しぶりだな」
「……ああ」
 池田家の中枢である仏壇の前に正座した光流は、久しぶりに感じる厳かな空気に包まれながら、静かに目を閉じた。
 父が数珠を持って経を唱える。幼い頃から繰り返し繰り返し聴かされてきた、優しく凛とした低い声。
 光流は思い出す。友達と喧嘩をして帰って来た時。弟と喧嘩をした時。街中で悪さをした時。決まって父は、怒るよりも先にこの仏壇の前に正座をさせ、共に経を唱えさせた。それは怒鳴られるより殴られるよりもずっと、長くて苦痛な時間。自由奔放で縛られることを何より嫌う自分にとって、強烈な仕置きだったように思う。だからこそ、もう二度と悪いことはするまいと、硬く心に誓ったものだった。
 そして、考える。心を平穏にして、無になって、ただひたすらに己と向き合う。怒りや憎しみ、苛立ち、それらの感情に襲われた時、自分はどうすれば良いのか、どうすれば良かったのか、これから自分はどう在りたいのか。
 あの頃と変わらず、父の声を聴いていると心は無になり、不思議と穏やかな気持ちを取り戻す。長いような短いような時間を終え、父の声が止むと、父はゆっくりと振り返り、静かに口を開いた。
「あの女性とは、どういう関係だ?」
「え……? いや、最近知り合ったばかりで、関係と呼べるものは何も……」
「……そうか」
「父さん、あの人が何か……」
「俺達は、ずっと怯えていた。だから、すぐに解ったよ」
「え……」
 正史がどこか切なげな瞳で光流を見つめた、その時だった。
 ガタンと派手な音が響いた。光流は立ち上がり、音の響いた居間に足を急がせた。
  

 光流が居間の戸を開けると、そこには信じられない光景が繰り広げられていた。
「ごめんなさい……!!!」
「帰って……! もう二度とあの子の前に表れないで……!!!」
 正座して床に額を擦りつけ、何度も同じ言葉を繰り返す香里と、瞳から涙を流しながら声を荒げる幸枝の姿。光流は茫然とその場に立ち尽くした。いつも明るく逞しく強気で、息子には怒鳴り声をあげっぱなしだったが、他人に攻撃する事なんて一度もなかった母が、声を荒げ泣いている。
「ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!!!」
 その目前で、香里はただひたすらに同じ言葉を繰り返した。まるで壊れた機械仕掛けの人形のように。
「もう、顔をあげなさい」
 傍に歩み寄りそれを制したのは、正史だった。
 正史に肩を掴まれ、ようやく顔をあげた香里の瞳は涙に濡れていて。
 光流は愕然と、その姿を見つめた。
 どうして。何故。気付かなかったんだ。
 長い睫も、色白の肌も、明るい色の髪も、茶色の瞳も。
 どこからどう見たって、他人の物だなんて思えないほどに、自分と同じ───。
「……嘘、だろ……?」
 光流は肩を震わせ、香里を見つめた。
「あんたが……俺の……」
「やめて! 出て行って!! 早く出て行ってよ!!!!!」
 震える光流を、幸枝が離すまいと言わんばかりにぎゅっと抱きしめる。
 正史が手を添え、香里は立ち上がった。そして深く頭を下げると二人に背を向け、逃げるように廊下を走って去って行く。
「待てよ……! 本当のことを……!!」
「光流!!」
 光流が追いかけようとしたその時、幸枝が渾身の力を込めて光流の腕を掴んだ。
「どうして知りたいの!? 本当のことなんて知らなくてもいいでしょう!? あんたの母親は、あたしだけだ! あたしだけなんだから……!!!」
 狂気にも似た幸枝の瞳が、一瞬で光流の心をがんじがらめにした。
「……ごめん」
 その場に泣き崩れる幸枝を、光流はそっと抱きしめる。
「ごめん……母さん」
 大丈夫だから。俺の母親は一人だけだから。そう言って、光流自身もまた、涙を流した。
 何をどうして良いのか解らない、動揺する心のままに。    

 
 それは遠い遠い、幼い頃の記憶。
 いつか、会えるのだろうか。
 迎えに来てくれるのだろうか。
『本当は、捨てたくなんかなかったの。ずっとあなたに会いたかったの』
 そう言って、抱きしめてくれるだろうか。
(おれの本当の……) 
 夢見ていた日々は、ある日突然、あっさりと崩れ去った。それは、少女のように綺麗な夢ばかりを見ていた、馬鹿な自分に気付かされた瞬間でもあった。
『ほんとの親が名のり出たりしたらどうするつもりだよ!? その家の子になるのかよ!!!』
 ある日泣きながら、弟が訴えてきた。
 その涙の意味がわからなくて、どうして良いかわからなくて、母親の顔を見たら、母はうっすらと涙を浮かべていた。
 それまで何故自分が、血の繋がらない人達の家の中で、血の繋がらない人達を母だと、父だと、弟だと呼ばなければならないのか。自分は本当にここにいて良いのか。本当は迷惑なんじゃないか。いつか血の繋がった両親が迎えに来てくれるのではないか。
 そんなことばかり考えていた自分が、急に凄く恥ずかしくなって。
 それからは、本当の親のことは考えなくなった。いや、考えたらいけないんだと思った。何故ならそれは、愛してくれる家族への「裏切り」でしかないのだから。
 考えちゃ駄目だ。駄目だ。駄目だ。もう忘れなきゃ。俺の本当の母親は今まで育ててくれた母親で、本当の家族は池田家の人間なのだから。
 そうして心に必死で蓋をして、諦めて、自分の中から消したはずの執着が、今頃になって確かな形で目の前に現れるなんて。
 一体誰が、予測しただろう。


「ごめんね光流、母さん取り乱したりして……」
 実家から自宅のマンションに戻る道を歩きながら、光流は別れ際まで申し訳なさそうにしていた幸枝の顔を思い出し、長い睫を伏せた。
 母親のあまりの取り乱しようを前に、自分が取り乱すことをすっかり忘れていた光流であるが、既に混乱しまくって疲れ切った頭では、もう何を考えるのも億劫でしかなかった。
 大体考えたところで、どうにもならないし。俺の家族はあくまで池田家の人間だけだし。産まれてすぐの赤ん坊を捨てた女に、なんの情も無いし。かといって憎んだところで、自分が惨めになるだけだ。結局、今更なにも変わることはないのだ。
 これが中学生や高校生なら盗んだバイクで走り出して多少はスッキリ出来ただろうけど、この年になったらせいぜい帰って酒を煽る程度で終わる話だ。そう納得するより他はなく、ああもうとりあえず早く帰って忍(わんこ)に癒してもらおうと、家の鍵を開こうとしたその時だった。
「ちょっ……忍先輩!」
 突然、隣の家の扉がバン!と派手な音をたてて開き、忍が額に青筋を立てまくりながら飛び出て来た。
 うわまた喧嘩かよ、と光流が速攻で察したところで、目線が合うなり腕をガッと捕えられた。
「行くぞ」
「へ!?」
 問答無用で家へ帰らせてはもらえず、そのまま近くの居酒屋まで連れて行かれるはめになる光流であった。


 生ビールを一杯飲み干したところで、事の次第を把握した光流は、瞳を潤ませる忍を辟易とした表情で見つめた。
 どうやら今度は忍の元彼女である兄嫁が原因であるらしい。兄とのことで連絡をとって以来、過去の報復もあってか何かと嫌がらせをしてくる兄嫁が、蓮川を誘惑しにかかっている。何故ああも無駄に年上女にモテるんだあいつはと、もはやノロケにしか聞こえない忍の話を、眠気マックスの状態で聞かされている光流は疲労困憊だ。しかし忍はまったくもって気遣わずに、しまいにはうとうとする光流に「話を聞け」と殴る始末である。
「忍くん……俺は今、おまえに猛烈に救われてるよ……」
 おかげさまで人生これ以上ない苦悩もどこかに吹き飛んだ光流は、疲れ切った表情でハハハと笑った。
「疲れてる場合じゃないぞ、光流。おまえからも何とか言ってやってくれ。あの優柔不断な鈍感馬鹿に、これ以上隙を見せるなと」
「あー……、どうしたらあそこまでスッカスカに隙だらけで生きられるのか、逆に教えてもらいてーよ俺は」
 スカスカになりてぇ、と光流はぼやき、ついにテーブルの上に突っ伏した。
 そのあまりの疲労っぷりに、さすがに様子が変だと気付いた忍は、眉間に皺を寄せる。
「おまえも大概、隙だらけだと思うがな。……で、何があった?」
 気を取り直して、忍はいつものように冷静な口調で尋ねた。
「べっつにー。おまえらの危機感に比べれば屁でもないよーな話よ」
「話すなら思わせぶりに愚痴愚痴言ってないで、男らしく単刀直入に話せ。この前家に連れ込んでた女か?」
「……何故に解る」
 光流はテーブルに突っ伏したまま低い声をあげた。
「親戚か? それとも実の姉か?」
「……惜しい」
「まさかの?」
「まさかの」
「……さすがにそれは予想の範囲外だが、無くはないか」
 ほう、と忍は到って冷静に、事の次第を受け入れた様子だ。
「おまえのその反応に、つくづく救われるよ俺は」
 大したことないことにしてくれてありがとうと、光流は安堵の息をついた。こんな時は下手に同情されて「可哀想」だの「酷い!!」だの叫ばれるよりも、軽く流してくれた方が心はずっと楽だ。
「実際、大した話じゃないだろう。おまえを捨てた屑が今更親だと名乗ってきたところで、屑相手に何を傷つく必要があるんだ」 
「確かに、想像してたよりも遥かに、それはもうどうしようもない屑だけどよ……」
 不意に光流は、ガバッと身体を起こし、「あーもう!!」と声を張り上げた。
「なんつーの? なんつーかもうこの辺りがムズムズと! モヤモヤして消えねーんだよ!!!」
 光流は苛立ちを隠さず、胸の辺りを掻き毟りながら言った。
「なら俺が消してやる」
「は?」
「その女の居場所を教えろ」
 忍はそう言うと、立ち上がって店の会計を済ませ、店の外に出た。その表情がどこか鬼気迫っていて、光流は慌てて忍を制止する。
「いやいやいや、あの女のところに行ってどーすんだよ!?」
「この世から抹殺する」
 全身に殺気を漂わせながら、本気の表情で忍は言った。
 光流は唖然とした後に、ふっと顔を緩ませ、忍の肩をポンと叩く。
「ばーか、おまえがそんな怒る必要ねーだろ?」
 なにマジになってんだよ。光流が言うと、忍の肩がわずかに震えて、光流はますます苦笑した。
「忍」
 顔を覗き込むと、忍は咄嗟に横を向く。しかし光流は諦めず、何度も繰り返している内に、ようやく忍が今にも泣き出しそうな表情を見せた。途端に愛しさばかりが募って、光流はそっと、忍の身体を抱き寄せる。
「大丈夫。俺は、なんも憎んでねーから」
「……なんで、怒らないんだ……っ!」
「蓮川みてーなこと言うなよ」
 からかうように光流が言うと、忍はこらえきれないようにポロポロと涙をこぼす。
 いつかの保険医の気持ちが痛いほどに解り、光流はこれ以上なく愛されることの喜びと切なさを同時に知る。
 荒んでいた心のうちがみるみる内に浄化され、光流は酷く穏やかな気持ちで忍を抱きしめた。


「すかちゃん……仕方ないでしょ、事情が事情なんだから。大人になりなよ?」
「うっせーな! わーってるよ! でも……だからって、もし彼女が元彼の部屋に一晩泊まってて、おまえなら平静でいられるのか!?」
 苛立ちマックスの蓮川に思い切り噛みつかれ、瞬はどうどうと両手を上げる。
 事情は忍からしっかり聞いて理解はした蓮川であるが、だからといって光流が絶対に忍に手を出さないなんて保障はどこにも無いわけで。いやむしろここぞとばかりに手を出していそうな人なだけに、焦りと苛立ちは募る一方であった。
「光流先輩も難儀な人だよねー。こうも次から次へと不幸が重なっちゃって」
 瞬が溜息まじりに言った。グサッと何かが突き刺さり、蓮川は罪悪感に打ちひしがれたかのように表情を重くする。
「あ、別にすかちゃんのせいだなんて言ってないから誤解しないでね? 略奪愛ではあるけど、すかちゃんだって知らなかったんだし、仕方ないよ」
 更に傷をえぐられ、蓮川の表情がどんどん重くなる。
「にしても、忍先輩も残酷な人だよねー。まだ自分のことを好きだと分かってる相手に、むやみやたらに情をかけるなっての。光流先輩だって諦めるに諦めきれないじゃんねー? すかちゃんなら気持ち痛いほど解るでしょ?」
「おまえわざと人の傷えぐりまくってるだろ!?」
 解るよ解りすぎるほどに解るよ!!だから死ぬほど我慢してんだよこのやろう!!と、鈍感に愛情たっぷりな義姉を思い出し、蓮川は同情するやら憎いやら不安やらで実に複雑な心境であった。
「はいはい、僕が癒してあげるからおいでー?」
「癒しになんかならねーから……っ、気色悪いだけだから……っ」
「いっつも最後はこうして泣きついてくるくせに、まったく素直じゃないなぁ?」
 にっこり微笑みながら瞬が言うと、蓮川はわなわなと肩を震わせる。
「真面目な話、大人になるしかないんだよ、すかちゃん」
 ふと瞬が真剣な顔つきで言った。蓮川は眉をしかめ、不満げに目を伏せる。
「……大人って、なんだよ」
「さあ……僕にも、よくわかんない」
 二人は口を閉ざして、それぞれに思考を巡らせた。
 大人になれなんて、人はみな簡単に言うけど、簡単じゃない。ただ自分の気持ちを殺すことを大人だと言うなら、それは間違った大人のなり方のように思えてならない。無理矢理に殺すのではなくて、もっと穏やかに、優しく、この気持ちを鎮める方法が無いのか。ただそれを知りたいだけなのに、誰も教えてはくれないから、こうして足掻くしかないのだ。どうしようもなく叫ぶ自分を時に諌め、時に逃げ、時に抗い、ただひたすらに向き合いながら。


 朝から一緒にいたからといって、特に何をするわけでも、ナニをするわけでもなく。
 というか、今更もう、そういう気にはなれないというか。いや、なろうと思えばなれるかもだけど、なろうとするのもしんどいし。自分でも何言ってるのかよく解らないけど、色々な感情を乗り越えた今はもう、ただただ穏やかな関係でいたい。それだけなのかもしれない。
 光流は複雑な気持ちを抱えながらも、なんとか心の安定を保った。
「蓮川のこと放っておいていいのかよ?」
「そろそろ限界かな」
「……わざとやってんのか?」
「限界まで焦らすと、おまえ以上の激しさを発してくれるんだ、あいつは」
「そのプレイの為に傷心の俺を利用するのやめてくれる!? ねえお願いだからやめて!?」
 うっとりと目を細める忍を前に、光流は心の底から悶えながら訴えた。
 いや知ってたけど。とうの昔に解ってたけど。蓮川可哀想でもすっげー羨ましいとか思ってたけど。こいつの性悪さだけは手に負えねぇと、光流は心の内で号泣した。
「傷なんて、今更消えるものじゃないだろう?」
 ふと、忍が光流の胸を指差して、光流の瞳をじっと見つめた。
「たまには舐めてやるから、これくらいのお返しは認めろ」
「……了解。お返しにおおいに蓮川を煽ってやるよ」
 光流はお手上げだと言わんばかりに、はいはいと頷いた。


「あ……っ、あ……!!!」
 見事なまでに思い切り煽られてくれた蓮川によって、ベッドに辿り着くまでも行かず玄関でガンガンに犯された忍は、しかし歓喜の色に表情を染まらせた。
「もう二度と、外泊なんて許しませんからね!?」
 お仕置きだと言わんばかりにバックで突きまくりながら、蓮川もまた興奮度マックスである。
 結局一時間以上の激しいプレイを楽しみ、玄関先で力尽きたところで、汗と体液にまみれたまま、二人は抱き合い唇を寄せ舌を絡め合った。
「今夜は、四人で飲みに行かないか?」
「……賛成です」
 コツンと額を寄せ合いながら、二人は同時に笑みを浮かべた。


 めちゃくちゃスッキリした蓮川と忍を前に、光流と瞬は非常に複雑な心境ではあるが、ああ楽しめたんだね良かったねと思うより他に自分達を慰める術はなく。
「すかちゃん……っ。僕のすかちゃんが、すっかり穢れた大人になっちゃって……っ」
「おまえのじゃない。俺のだ」
 居酒屋のカウンターに座り涙する瞬に、隣に座る忍が微笑みながら言った。
「僕の方がずっと前から、すかちゃんのことずっとずっと可愛いって思ってたもん」
 ぷんと口を尖らせながら瞬が言った。忍は微笑みながらも額にピキッと青筋を立てる。
「それで光流先輩、これからどうするんですか?」
「どーするもこーするも、どーしようもねぇべ」
「そうですか? どうしようもってことは無いんじゃないですか?」
 一方テーブル席では、蓮川がビールをぐいと飲み干しながら淡々と言った。目前に座る光流が眉を寄せる。
「だって、生きてるんですから」
 蓮川があくまで素っ気無い口調で言い放つ。
 光流はますます眉をしかめた。


『生きてるんですから』
 確かにそう言われれば、凄く納得するし、納得すると同時に、なにか凄く申し訳ないような気分にすら陥る。
(ヘビーだよなぁ……)
 人間、誰でも何かしら深い事情があるとはいえ、お互いに随分と。
 その日の仕事の帰り道、光流は何度目になるか解らない溜息をついた。
 けれど蓮川の言うことは最もで。
 この胸のモヤモヤを晴らすには、全てを振り払って行動するしかない。そして相手が生きて存在しているからこそ、まだ行動することが出来る。どう足掻いてもどうにもならない蓮川とは、モヤモヤのレベルが違いすぎる。
(たぶん俺は)
 やっぱり、会いたいんだ。
 もう一度。
 もう一度だけ、きちんと会って、話がしたい。
 そうしなければ、いつまでたっても霧は晴れない。
 だから。
(ごめん、母さん……!)
 しかし決意すると同時に、酷い罪悪感に囚われた。香里に会うこと、それは母への裏切りだとしか思えなかったからだ。
 光流は心の中で母親に土下座して、その場から走り出した。


 以前から酷い部屋だとは思っていたが、それにしても。
 あちこちに缶ビールの空き缶が散らばった汚部屋の布団の上で、今まで商売してましたと言わんばかりに散らかったティッシュの山に囲まれながら、下着一枚で爆睡する香里を目前に、光流は妙に自分と同じ何かを感じずにはいられず、苛立ちと残念さばかりが募った。
 今まで、女相手にこんな扱いは一度もしたことないが、ムサい男以上に触りたくねぇ。思いながら、光流は右足で香里の身体を転がす。
「……おい」
「ん……」
「起きろよ、クソババア」
 光流が低い声で言うと、香里はようやく目を開き、だるそうに上半身を起こした。そして光流の顔を見上げるが、全くもって動揺する様子はなく、それどころか布団際に置いてあったまだ空いていないビールの缶を開き、グイッと喉に流し込んだ。
「勝手に入ってくんじゃねーよ」
 香里は完全に酔った様子で、いつものように口汚く言った。その瞳はいつもと変わらないが、酷く荒んだようにも見える。それは、事実を知ってしまったからだろうか。光流は眉をしかめ、意を決した様子で口を開いた。
「あんたに、どうしても聞きたいことがあるんだ」
 光流は香里に真剣な眼差しを向けた。
「なんで、俺のこと捨て……」
 尋ねようとしたその刹那、ビール缶が飛んできたと同時に中の液体が飛び散り、光流の全身を濡らした。
「っせーな! てめぇなんか知らねーよ! とっとと帰れ!!!」
 香里がまるで、今にも人を殺さんばかりの険しい瞳で、光流を睨みつける。一瞬怯んだ光流だが、すぐに生来の気の強さを取り戻し、香里の肩を掴んで声を張り上げた。
「っざけんなよ! てめぇ俺のこと産んでおいて捨てたんだろ!? だったら、聞く権利くらいあるだろーが!!!」
「あんたみたいなガキ、産んだ覚えはねーよ!!」
 しかし香里はあくまで強気で言うと、光流を思い切り突き飛ばす。 
「あ……それとも、忘れてるだけで、もしかしたら産んでたかもね? ほらあたし、こんな商売してるじゃん? ガキなんて腐るほど殺して来てるからさ。もしかしたら一人くらいうっかり、その辺の便所で産んじまったかも?」
 全っ然、記憶にないけどねと、香里は笑いながら立ち上がり、布団の上に散らかったスウェットを頭から被った。そのあまりの言い様に、光流は返すべき言葉も見つからず、愕然と拳を震わせる。
「まあでも、助かったんだから良かったじゃん? しかも良いとこに引き取られて、良い生活させてもらったんだろ? ほんっとラッキーだよね、あんた……っ」
 突然、香里の身体が布団の上に倒れこんだ。その口元に滲む血を見て、光流はハッと我に返った。こらえきれなかった。気が付けば、力一杯殴りつけていた。胸の内に滾る憎しみのままに。
「気が済んだ? わかったら、さっさと本当の母親んとこに戻りな」
 しかし香里は何ら動じることなく、冷め切った瞳で光流を睨みつけ、低い声を放った。
 駄目だ。これ以上傍にいたら。きっと。
 光流は必死で己を制御し、香里に背を向け部屋を後にした。
 

 せっかく、会いに行ったのに。
 あの優しい母親を裏切ってまで、会いに行ったのに……!!!!
 激しい絶望感と共に、光流は拳を握り締め、肩を震わせた。
 こんな想いをするくらいなら、行かなければ良かった。一体自分は、何を期待していたのか。何を切望していたのか。きっと何らかの事情があったのだと。本当は捨てたくなんかなかったんだと。一目でも良いから会いたかったと言って抱きしめてくれる。そんな子供の頃に夢見ていたような、陳腐なドラマみたいな展開を期待していたのかと思うと、あまりにも自分が浅はかで惨めで情けなくて、どうしようもなくなった。
 溢れそうになる涙を袖でぐいっとぬぐうと、急に、母親の顔が浮かんできた。
 会いたくて会いたくて堪らなくなったけれど、とても会いには行けなかった。
 あんな女に自ら会いに行ったなんて、絶対に、絶対に、知られたくなかったから。
(ごめん……)
 きっとこれは母親を裏切った報いなのだと、光流は自分に言い聞かせた。
 もう二度と、彼女には会わない。会いたいとも思わない。一生、育ててくれた親だけを守って生きていく。
 そう心に誓い、忘れようと決めた。
 いつまでも収まらない胸の疼きを、必死で押し殺して。