door
その日、蓮川の胸の内は酷く躍っていた。 というのも、つい先日。 「俺、明日から出張行かなきゃなんねーんだ」 いつものごとく図々しく家に上がり込み、なにかと理由をつけては真夜中まで滞在する光流が、実に面倒くさそうに言い放った瞬間、蓮川の瞳はぱーっと明るく輝いた。すぐさま胸倉を掴みあげられ、蓮川はハッと息を呑む。 「てめぇ今何考えた? なんなんだよそのニヤけた顔はよ?」 「な、何も邪なことなんて考えてませんっ!!」 馬鹿正直に胸の内を告げる蓮川に、光流がますます拳を震わせる。 「嘘をつけ、嘘を! どーせ一日中忍といちゃこらしようとかセックス三昧だとか、あれもそれもってエロいことばっか考えてたんだろ!?」 許さねぇ、絶対に許さねぇとばかりに光流が声を張り上げた刹那、背中に思い切り足蹴りをくらい、光流は床の上に突っ伏した。 「全部貴様のことだろーが、この万年発情期」 背後に怒りのオーラを背負った忍が、低い声で罵倒する。 しかし、その言葉を聞いて明らかに表情が暗くなった蓮川の顔を見て、忍がハッと危機迫った表情をした。 「違うぞ蓮川、だからといって一日中いちゃこらしたりセックス三昧だったわけじゃ……」 表情は大して変わらないが内心かなり焦っていると見られる忍が、馬鹿正直に全く嘘になってない嘘をついた刹那、蓮川が目に涙を浮かべながらキッと忍を睨みつけた。 「もう結構です! そんなの聞きたくもありません!!」 蓮川はそう叫ぶと、立ち上がり猛ダッシュで自室へ駆け込み、そのまま引き篭もってしまった。 「おまえあの面倒臭い彼氏のどこが良いんだマジで?」 しまったと呆然と立ち尽くす忍に、むくりと起き上がった光流が目を据わらせながら言った。 途端に忍はわなわなと拳を奮わせ、最大級の怒りを込めた瞳で光流を睨みつける。 「全部貴様のせいだろうが!! 明日から出張先に永住しろこの無神経鈍感男!!!」 ほとんど涙目で怒声を浴びせ、光流を玄関の外に蹴り飛ばした忍であった。 しかし光流の言ったことも、あながち間違いではないのが辛いところで。 デリケートだ繊細だと言えば聞こえはいいが……。 「……いつまで拗ねてるつもりだ?」 何度ノックしても部屋の鍵は閉じられたまま。返事もしない蓮川に、忍はドア越しに静かな声で呼びかけた。 それでも何の反応もない。忍は小さくため息をつき、その場に座り込んでドアに背を預けた。 重い空気が、沈黙を更に重くする。 こんな風に心を閉ざされて無視されるくらいなら、いっそ怒鳴られたり殴られたりした方がどれだけマシだろう。忍は何度、そう思ったかしれない。今すぐ二人を隔てるドアを蹴り破って、無理矢理にでも引きずり出してやりたいとすら思うのに。 (でも……) そんなこと、出来ない。出来るはずがない。蓮川がこんな風に殻に閉じこもるのは、絶対に自分を傷つけたくないからだと知っているから。溢れてくる感情を人にぶつけまいと、必死で抑えようと頑張っている事を知っているからこそ、忍にはただ待つことしか出来なかった。 けれど、ただ待つことしか出来ない事が、こんなにも辛いことだったなんて。 (馬鹿……馬鹿馬鹿馬鹿……!!!) もはや光流への怒りなのか蓮川への怒りなのか解らないまま、忍自身もまた不安感からくる猜疑心を必死で抑えながら、膝の上に顔を埋めた。せめて返事くらいしろこの馬鹿と、心の中で呟いたその時、コンとドアをノックする音が響き、忍はハッと顔を上げた。 たった一度のノックではっきりと感じる。ドアの向こうに在る、蓮川の存在。 その姿を想像したら、不思議と怒りは収まり、代わりに泣きたくなるような衝動が込み上げてきた。 忍はドアの方に向き直り、そっとドアをノックした。コン、と小さな音が静かな部屋に響き渡る。 少しして、またドアの向こうから、コン、と音が鳴った。 すぐそこにいるのに。こんなに傍にいるのに。どうして声も聴けず、顔を見ることすら出来ずにいるのだろう。たった一枚のドアのせいで。 けれど自分達には必要な。 静かに、優しく、時を重ねていくために。 なくてはならない壁だから、決して壊したりしてはいけないドア。 今すぐ出てこいと叫びたい気持ちを必死でこらえ、忍がもう一度ドアをノックすると、カチリとドアノブが音をたて、静かにドアが開いた。 ようやく顔を見せた蓮川の目は、ほんの少し赤くなっていて。 「すみません……もう、大丈夫です……」 情けなさでいっぱいみたいな顔をして、酷く恥ずかしそうに忍から視線を逸らしたまま、蓮川は言った。忍は思い切り怒鳴り付けたい気持ちになったけれど、なんとかこらえてそっとその身体を抱きしめた。 「明日は俺も休みだから……」 「……はい」 「……おまえの好きにしろ」 忍がそう言うと、蓮川は沈黙した後、そっと忍の腰に手を回して力を込めた。 「いちゃこらも、セックス三昧も、しませんよ……」 絶対に絶対にしません。半ば意地でそう言った蓮川は、まだ酷く悔しそうで。忍は切なげに目を細めた。 じゃあ何をするのかと尋ねれば。 「……や……、も……抜け……ってば……!」 「イヤ、です」 はっきりきっぱりと言い切って、うねるバイブを咥え込み痴態を晒す忍を真上から見下ろしたまま、蓮川はにっこりと微笑んだ。 「今日はセックスはしませんが、先輩のやらしいとこいっぱい見せて下さいね」 「あ……っ、ぁ……、ん……っ!!」 バイブのスイッチを強くされ、忍が涙目で悶えた。 いつまで根に持ってるつもりだ。この陰険。陰湿。最低だと睨みつけるが、蓮川は動じない瞳で忍を視姦し続ける。それも酷く蔑んだ瞳で。 「だって先輩が好きにしろって言ったんじゃないですか」 蓮川は低い声で忍の耳元に囁いた 「こん……なの……っ、セックス三昧の方がマシ……っ」 「どうやら本気でお仕置きされたいようなので」 思い切り勝気な瞳で睨みつけてくる忍を前に、蓮川はぴくりと眉を吊り上げ、忍に突き刺さるバイブに手をかけた。 「ひ……ぁ……っ! あぁ……っ、あ……!」 何度も抜き差しされるバイブに、忍が悲鳴まじりの声をあげる。 「これで何回目ですか? これ以上、イッたことあります?」 ふるふると涙目で首を横に振る忍を前に、あくまで冷徹な蓮川であった。 結局本当に本気で本番エッチはしないまま夕刻を迎え、もう十分すぎるほど絶頂は迎えたのに、気持ちは全然満たされていない忍は、もうマジで一生二度と戻ってくるなと、出張中の隣人に八つ当たりじみた罵倒ばかりを心の内で繰り返す。 「蓮川」 「……挑発しても無駄ですから」 ベッドの上で隣り合わせに寝転がりながらも、本ばかりを読んでいる蓮川に誘惑の瞳を向けながら股間をまさぐる忍だが、蓮川のペニスは一切反応を示さない。到って無表情の蓮川を前に、忍は額に血管を浮かばせた。 「おまえのちん○は神経通ってないのか!?」 「黙って寝ててください、もう!」 あまりに下品な忍の台詞に、蓮川が呆れ声を放った。 「……まだ怒ってるのか?」 「怒ってません。でも気持ちが納まらないんです」 「俺のせい……なのか……?」 忍がわずかに潤んだ瞳で蓮川を見つめる。蓮川がうっと言葉を詰まらせ頬を赤くした。 それから仕方ないように、そっと忍の唇に唇を落とす。 「誰のせいでもないです……。ただ、こんな気持ち抱えたまましたくなかっただけで……」 「考えすぎだ、馬鹿……」 「そう……かもですね……。でも、大事にしたいんです……」 つまらない気持ちを貴方にぶつけたくはない。そう言った蓮川の瞳には確かな愛が詰まっていて。その気持ちが解るからこそ、忍は切なげに目を伏せた。 それなのに唇は酷く温かい。そんな優しさなんか要らない。ありったけの感情をぶつけてくれたって、構わないのに。どうせもうとうの昔に汚れているのだから。壊れているのだから。そんな卑屈な想いばかりが忍の頭の中に駆け巡る。 「あ……どうしよう……、キス、したら、やっぱり……したくなってきました……」 「大丈夫だ、もう十分すぎるほど広がってる」 「またそーいう下品な口を……」 「念のため言っておくが、これは元々の性質だ」 いつまで理想の王子様を夢見るお姫様のつもりだと、忍は自ら蓮川の唇にキスをし舌を絡ませた。 お姫様。そう、彼はいつでも夢見るお姫様だ。 綺麗でいたい。綺麗でありたい。綺麗でいてほしい。この理想郷で、ずっとずっと幸せな夢を見続けていたい。 「……っん……っ」 理想も現実も、全てを受け入れたまま、忍は願う。 どうかずっと一緒に、夢を見続けていられますように。 いつか夢から醒めてこの場所から飛んで行ってしまう日が、永遠に訪れませんように。 そう願う自分は、王子でも姫でもない毒林檎を持った魔女そのものなのだと、自覚するままに。 結局は丸一日セックス三昧で、さすがに動けなくなった忍は、掃除洗濯全て蓮川にしてもらい夕食を作ってもらい挙句一緒に入ったお風呂で身体まで洗ってもらいと、至れり尽くせりで大満足の一日……となるはずだった。 夜中の9時過ぎに、チャイムが鳴るまでは。 「誰だろ、こんな時間に……」 まさか早々に出張から帰ってきたとかいうお約束じゃないだろうなと、蓮川が嫌な予感を抱えつつ玄関のドアを開くと。 「ハスカワーーーー!!!」 派手なオレンジ色の頭。皮ジャンにサングラスという、どこぞのミュージシャンにしか見えない個性的なスタイル。あまりに怪しすぎる目の前の男性にいきなり抱きつかれ、ぎょっと目を丸くし混乱しまくる蓮川であった。 細身の身体。ふわりとした長めの髪。大きめの瞳に長い睫。無邪気さ全開のオーラ。 確かにどこかで見たことある姿なのに、なかなか思い出せずにいた蓮川であったが。 『もしもしすかちゃーん? 僕今日ちょっと遅くなるんだけど、もしかしたらそっちに麗名が行くかもしれないから、すかちゃんとこに行ったら僕が帰るまで面倒見てやってくれるー?』 相手が名乗るより前に鳴った携帯電話の向こうからの声で、速攻で思い出した蓮川だった。 「おまえ……麗名……!?」 確かによく見ると面影がなくはない。しかしどこからどう見てもあの頃のように女の子には見えず、一人前の立派な男に成長している麗名を前に、蓮川はひたすら目を丸くさせた。 高校を卒業してからも、瞬の実家に足を運んだ際には時は金魚のふんのようにくっついてきていたので、年に一度くらいは顔を見ていたものの、忍と付き合いだしてからはそんな時間の余裕もなく、会うのは実に二年ぶりになる。最後に会ったときにはまだ幼さを残していたが、この二年で一気に身長が伸び体格も男らしく成長している麗名を前に、蓮川が驚かずにいられないのも当然だろう。 「うん! おにいちゃまにハスカワが隣に住んでるって聞いたから、遊びに来ちゃった」 一見するとどこぞの路地でギター弾いてそうな遊び人のバンドマンにしか見えないが、中身はどうやら全く変わっていないようだ。麗名は瞬によく似た端正な顔立ちでにっこり微笑んだ。その大き目の瞳と長い睫を目前にした蓮川は、確かにあの頃と変わらない弟分の麗名だと核心したように安堵の表情を浮かべた。 「というわけで、おっじゃま~!」 「あ……ちょっと待……」 蓮川が制止する前にさっさとリビングに駆けていった麗名は、ドアを開くなり大きな瞳を更にぱっちりと大きくさせた。 まさがもう一人人がいるとは思わなかったのだろう。到って無表情で歩み寄ってくる忍に、麗名はびっくり眼ばかりを向ける。 「……どちら様ですか?」 にっこりと、しかしどこか威圧感を持った笑みを向けられ、一気に萎縮する麗名であった。 「麗名!」 「おにいちゃま!!」 会うなり速攻で抱き合う、ハタチ過ぎても全く変わっていない特殊な兄弟を前に、蓮川は呆れた風に、忍は到って平静な表情で二人を見つめた。 しかし高校時代と違ってどこからどう見ても姉妹には見えない二人を前に、蓮川は酷く複雑そうな表情だ。 「あのさ……ハタチすぎた男が「おにいちゃま」って、いいかげん恥ずかしくないのかおまえは!?」 やっぱりおかしい。どう考えてもおかしい。絶対におかしい。そう悟った蓮川は、目の前の麗名に向かってまるで保護者めいた口調で言い放った。 「恥ずかしくないもん! だっておにいちゃまはおにいちゃまだもん!」 「そうだよねー、すかちゃんがいまだ忍先輩のこと名前で呼べないのと一緒だよねー」 抱きついてくる麗名の頭を撫でながら、瞬が笑顔で非常に含みを込めた台詞を言い放つ。蓮川は言葉を詰まらせ顔を赤くした。 「おまえもいつまで弟猫かわいがりしてるつもりだよ……っ、見てて気色悪いからやめれ!!」 「えー、年上の男猫かわいがりしてる人に言われたくなーい」 ゴロゴロと甘えてくる麗名にすりすりしながら、あくまで笑顔のまま瞬は言った。 どうあっても口では勝てない瞬を前に、蓮川はわなわなと肩を震わせる。 「ねえ、今日ハスカワのとこに泊まっていーい?」 「こら、目上の人を呼び捨てにしちゃ駄目って何度言ったらわかるの?」 「だって前に、ハスカワがハスカワでいいって言ったもん~」 めっと怒る瞬に、麗名が口をとがらせる。 「名前は別に構わないけど、泊まるのは駄目だ」 蓮川が目を据わらせ言った。 「えーっ! なんで!!?? 僕ハスカワと遊ぶの楽しみにしてたのに~!!!」 「なんでって……」 戸惑いながら、蓮川はチラリと忍の顔を見つめた。 忍は小さく息を吐くと、あくまで無表情のまま蓮川の横を通り過ぎる。 「別に構わないぞ。俺が瞬のところに泊めてもらうから」 到って平静な声で言い、忍はそのまま靴を履いて玄関を出て行こうとするが、咄嗟に蓮川の手が忍の腕を捉えた。 「先輩……怒ってません?」 「どうして」 「俺は……ちょっと心配なんですけど」 「……瞬と何があると……?」 忍が「人をビッチ呼ばわりするな」と言わんがばかりに瞳を吊り上げ低い声をあげると、蓮川は「いえ、何もないですあるわけないです!すみませんでした!」と、脅えきった表情で後退りした。 「ごめんね忍先輩、麗名が我儘言って」 「いや、何とも思ってないから気にするな」 「相変わらずだね、忍先輩」 高校時代と変わらずまるで何も気にしていない様子の忍を前に、瞬が苦笑した。 「麗名ってばどうしてか、すかちゃんのこと凄く好きなんだよね~。あ、好きって言ってもそーいう「好き」じゃないよ!?」 「わかってる。二人そろって何を心配してるんだ?」 あいにくあんな子供にヤキモチやくほど子供じゃない。忍がそう言うと、瞬は「だよねー」と再度苦笑した。 「まあ、気持ちは解らないでもない。なにしろ麗名にとって蓮川は、生まれて初めて真剣に叱ってくれた相手だからな。兄や父親のように思ってるんだろう」 高校時代、必死で麗名の面倒を見ていた蓮川のことを思い出し、忍は穏やかな顔つきをした。 「うん……。僕やお父様は甘やかしてばかりだったし、お母様は仕事で忙しくてあの子の世話までしてる暇なかったからね。内心、けっこう寂しかったんじゃないかなと思うよ、今では」 そう言ってどこか遠い瞳をする瞬を、忍は真剣な表情で見つめた。 「気にするな。寂しくてもまっすぐ明るく育ったのは、おまえがいたからなんじゃないのか?」 「……ありがと、忍先輩」 そうだね、と、瞬は静かに微笑んだ。 連休ではあったが忍は半日仕事のため、翌日の朝は会社に向かった。昼を過ぎて帰宅したところ、自宅には誰の姿も無く。おそらく三人揃ってどこかに出掛けているのだろうと、軽くシャワーを浴びてからソファーに座りテレビをつける。ただぼんやりとテレビを眺めていたら、次第に眠気に襲われ、忍はソファーの上に横たわりうとうとと瞳を閉じた。 不意に思い出される、高校時代。 「『弟を苛めたことのない兄貴』なんて、俺は信じないぞ」 蓮川の言葉が脳裏に蘇り、忍は失笑する。いったい幼少時代からどれだけ苛められていたんだ、あの単純馬鹿は。もちろん、愛ゆえに苛めずにはいられなかった保険医の気持ちも解るのだけれど。 そう思ってから、ふと自分の子供時代を思い出す。 (兄さん……) そういえば自分も、麗名同様、兄には一度だって苛められた記憶なんかない。年が離れすぎていたからだろうか。いや、それを言うなら蓮川のところと大差ないだろう。ということは、やっぱり、つまり。 (無関心……だったんだろうな……) 記憶の中の兄は、いつでも優しかった。例えば自分が姉を苛めるためにどんなに悪辣な手段を使っても、ずっと困ったように微笑んで見つめていたように。諌めることもなく、声を荒げることもなく、増して殴るなんて有り得ない、静かな波のように感情を荒立てない人だった。 だがそれは、本当は誰のためだったのだろう。 悪いことを悪いと止めもせず、どんどん奢っていく自分を、兄は一体どんな目で見つめていたのだろう。いや、そもそも「見て」すらいなかったのだろうか。数々の疑念を、忍は咄嗟に頭の中から振り払った。 疑い出せばキリがない、人それぞれの愛情の形。兄は見守ってくれていたのだと信じたい。けれど、放棄していただけだと思わずにはいられない。蓮川や瞬、そして光流。確かな形の愛情を目前にすればするほど、必死で積み上げてきたものが一気に崩れていく。思い出したくない。思い出さないでいい。このままずっと、「優しかった兄」を信じていたら、それで良い事じゃないか。忍は自分に言い聞かせ、眠りに落ちていった。 『忍……どうしてこんなことしたんだい?』 『……』 それは、兄がとても大切にしていた写真集。「どうして」と言われても、忍は応えられなかった。自分でも、「どうして」こんなことをしたのか解らなかったから。 切り刻まれたバラバラの写真集を前に、ただ居心地の悪い想いばかりが広がっていく。 どうしよう。どうしたら良いんだろう。頭の中がぐるぐる回る。それなのに、身体は固まったまま少しも動かない。 『……ねえさんが、やった』 『渚が……?』 『ぼく、じゃ、ない……』 違う。やってない。姉さんが僕のせいにしようとしてやったんだ。僕は何もしてない。 (嘘つき……) 違う。違う違う違う!! ぼくじゃない……!!! だってこんなことがバレたら……。 (嘘つき……!!!) そうだよ、でもつき続けなきゃいけないんだ! だから忘れるんだ!! 本当はぼくがやった事なんだって!!! だってそうしなきゃ……。 (捨てられる……!!) ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。 でもお願いだから、今は死んで。 ぼくが生きていくために。この世界で必要とされるために。たった一つの居場所を失わないために。 本当のことを知っているおまえなんて、要らないんだ。 髪を撫でられる感覚。不意に、目が覚めた。 「はす……かわ……?」 「帰ってたんですね。すごい汗かいてますよ?」 夢の不快感が拭えないままだった忍は、蓮川の顔を見るなり安堵し思わず抱きつこうとして、その背後にいた相手に気づき動きを止めた。麗名と目が合ったと同時に、何故か鋭い瞳で睨みつけられ、忍はわずかに目を見開いた。 「ハスカワ、買ってきたアイス食べよ!!」 非常に解りやすく感情を露にする麗名は、ヤキモチ全開で蓮川の腕を捉える。まるで大好きな兄を盗られまいと必死になっている小さな子供でしかない麗名を前に、忍は苦笑しながら起き上がった。 コンビニで買ってきたアイスは三つ。瞬はと尋ねると、まだ買い物したいから先に二人で帰っててとのことだった。 「はい、あーん!」 「自分で食うわ!!」 蓮川にアイスの乗ったスプーンを差し出し、異常なまでにベタベタしてくる麗名を退け、蓮川は忍に視線を向けた。 「先輩、抹茶なら食べるかなと思ったんですけど」 「ああ……俺はいいから、二人で食べろ」 「だって。じゃ、おまえ俺の分も食っていいぞ。俺抹茶食うから」 「二つも要らないよ~。おにいちゃまにとっとく」 麗名はそう言うと、バニラのカップアイスを冷蔵庫にしまいに行った。 「一口だけ、食べます? 冷たくて美味しいですよ?」 蓮川に差し出されたスプーンの上に乗ったアイスを、忍は躊躇わず口にした。ほろ苦い味のアイスクリームが口の中で溶けていく。心地良い感覚でいると、いきなり麗名がドサッと音をたて蓮川の隣に座った。その表情はいやに不機嫌そうだ。 「ねえ、二人ってなんで一緒に暮らしてるの? もしかして同棲してるとか?」 あまりにもいきなり露骨な言葉を放ってくる麗名を横に、蓮川がブッと口にしていたアイスを噴出した。 「な……っ!」 「別に隠さなくていーよ、ゲイのカップルなんて僕の周りじゃ珍しくもなんともないし。ただハスカワがゲイだとは思わなかったから、ちょっとビックリしたけど」 さすが兄弟だけあって、瞬と同じくはっきりきっぱり物を言う麗名を前に、忍はすぐさまごまかしても無駄だと悟った。 「そうだよ、付き合い始めて間もないけどね。受け入れてくれてありがとう」 忍は真摯な瞳を麗名に向けた。そんな忍に、麗名はまだ拗ねたような表情を向けるものの、何かを納得したのか不意に俯き黙り込んだ。無理もないと忍は思った。彼自身がゲイでない限り、そう容易く受け入れられる真実ではないはずだ。増して相手は慕っていた兄のような存在。それでも認めようとしてくれているのだ。 「……なんで、ハスカワなの?」 ふと麗名は、どうしても堪えきれない想いを吐露させるように、苦しげな瞳で忍に尋ねた。 「他に相手いなかったの? だって男同士だよ? 幸せになれるわけないじゃん!!!」 今にも泣き出しそうな声で麗名が声を放ったと同時に、パン!と鈍い音が響き渡った。 突然頬を張られた麗名が、驚愕に目を丸くする。その目前で、蓮川が厳しい瞳を麗名に向けていた。 「言っていいことと悪いことの区別がつかないのか!? 選んだのは俺の方だ!! 責めるなら俺を責めろ!!」 声を張り上げる蓮川の前で、麗名は瞳に涙を溜めると、その場から駆け出した。 リビングの戸を開けると、同時に部屋に入ってこようとした瞬とぶつかる。 「麗名……どうしたの?」 瞬が涙を浮かべている麗名の肩を掴み尋ねると、麗名は瞬にしがみつきわっと泣き出した。 「ちょっとすかちゃん!? 麗名に何したの!!??」 「一発殴っただけだ! んな強く叩いてねーよ!!」 すぐさま噛み付いてくる瞬に、蓮川もまた怯まず噛み付き返した。 泣き出す麗名と喧嘩を始める二人をよそに、忍の瞳は空虚なものだった。 「だってだって、男同士じゃ結婚も認められてないし、赤ちゃんだって作れないし、一生みんなに気持ち悪いって目で見続けられるんだよ!?」 大好きな大好きな蓮川が周囲にそんな目で見られるなんて耐えられない。かつての蓮川が兄の職業を嫌悪したのと全く同じ理由で物を言う麗名を、瞬が苦笑しながら落ち着かせる。 「わかったわかった。確かにその通りだけど、結婚って紙切れ一つの問題だし、赤ちゃんは異性同士だって必ず出来るものじゃないし、世の中には気持ち悪いって目で見ない人もいるんだよ?」 でもでもだってと喚く麗名に、瞬が刻々と言い聞かせること三十分、それでも納得いかない麗名に、ついに蓮川が二度目の手をあげた。バシッと頭を殴られ、麗名がまたも涙目になる。 「いちいち余計なお世話なんだよ!? おまえに心配されなくても事実結婚してるのと変わらねーし、あ、赤ちゃんは……その、出来たらそりゃ産んでほしいけど、作る行為だけでも充分幸せだし……っ!」 「ちょっと……生々しいからやめてくれるすかちゃん?」 切れながらも、「赤ちゃん」というキーワードで思い切り照れ出した蓮川に、瞬が嫌悪感を露に目を据わらせた。 「やだやだ不潔すぎる~~~っ!!!」 あまつさえ泣き出す麗名を前に、わなわなと肩を震わせる蓮川の隣で、不意に忍がクスリと笑い声をあげた。 「忍先輩……? なに笑ってんですか?」 ついにはこらえきれないというようにクスクスと笑い出す忍に、蓮川は不可解すぎると言わんばかりに忍を見つめる。 「赤ちゃん……産んでやろうか?」 目から涙が出るほど笑った後、自信満々な瞳を蓮川に送りそんな冗談を口にする忍を前に、顔を真っ赤にさせる蓮川であった。 最初から最後まで騒々しいばかりの如月兄弟が隣の部屋に帰り、二人きりになったところで、蓮川はまだ不可解さを拭えない瞳で忍を見つめた。 「何がそんなに楽しかったんですか? あんな酷いこと言われたのに!」 「……おまえら見てると、真剣に考えてるこっちが馬鹿みたいだって思って」 「真剣に……悩んでたんですか?」 「そりゃ、あんなクソガキに言われるより前に、何度も自分に言い聞かせてたことだ」 「クソって……」 忍のあまりの言い様に、蓮川が唖然と口を開いた。 「俺もいい子ぶるのはやめた。大人にもならない。だから正直に言ってるだけだ。ずっと大嫌いだった、あんな我儘で自己中なクソガキ」 「……それは、高校時代からですか……?」 蓮川が目を見開きながら尋ねた。 「そうだ。文句あるか?」 隠さず怒りを露にする忍を前に、蓮川は酷く嬉しそうに微笑んだ。 「……なに笑ってる」 「いや……実はけっこう、子供だったんだなぁって」 「……文句あるのか」 笑う蓮川の前で、素直に顔を赤らめる忍は、あまりにも子供っぽくて、でもだからこそ酷く可愛くて。 蓮川は、そっと忍の肩に手を回して引き寄せた。 「無いです。それに、すごく、すごく……大好きです」 そう優しい声で囁かれて、忍の瞳にじわっと涙が滲んだ。 我儘ばかりの子供じみた自分なんて、ずっと、ずっと、殺さなきゃいけないと思ってきた。 でも当たり前に、あまりにも素直に、相手が傷つくことも厭わず、我儘を恥じることもなく、子供心そのままの自分を曝け出す三人を見つめていたら。 どんなに酷いことを言われても、傷つきもしていない三人を見つめていたら。 一番殺しちゃいけないのは、素直な自分の想いなんだって、思い知った。 だから……。 「ほんとは……昨夜、寂しかった……」 「はい……すみませんでした」 「あんな奴、大嫌いだ……っ」 「俺がちゃんと叱っておきますので……許してやって下さい」 「嫌だ……」 「先輩のがずっと、我儘じゃないですか」 そんなこと言いながら、どうしてそんなに優しく頭を撫でたりするんだ。 こんな最低な自分を、許して、受け入れてくれるんだ。 そう思ったら、自然と涙が溢れてきて。 蘇る、鮮明な記憶。 『渚にも聞いたよ。わたしはやってないって言ってた』 『……』 『二人とも、やってないって言うから、俺はどっちも信じるよ』 そっと頭を撫でながら、兄はただ優しく微笑んだ。 『じゃあ、誰がやったの……?』 『うーん……どこかに悪戯っ子な妖精がいて、そいつがやったのかもなぁ』 『そいつ……見つけたら、どうする……?』 『おまえに聞いたのと、同じことを聞くよ』 『聞いても嘘ついたら……?』 『……たぶん、兄さんが悪かったんだろうなぁ』 『なんで……?』 『だって、この世に悪い妖精なんていないから。大事にしてるもの滅茶苦茶にしてやりたくなるほど、兄さんがその妖精を傷つけるようなことしちゃってたんだろうなぁ。ほら、兄さん、この通り鈍い性格だろ? だから妖精の気持ちにも気づかないことがいっぱいあって、本当に困ってるんだ』 『……悪く、ない』 そう言って、とても困った兄の顔を見たら、ぽろぽろと、自然に涙が零れてくる。 『兄さんは悪くない……!』 『ありがとう、忍』 ぎゅっと抱きしめられたら、ますます涙が溢れて。 ずっと、寂しかったから。構って欲しかったから。目を向けて欲しかったから。 だから、大事にしていた写真を滅茶苦茶にしてやったんだって、自分でも解ってた。 でもやっぱり、死んでも嫌われたくなくて。この場所だけは失いたくなくて。 本当のことは、どうしても、どうしても、言えないまま。 『ごめんな……忍』 兄の優しい声が、ただ悲しかった。 今なら解る。 きっと何もかも解っていて、大切なものを壊された怒りや悲しみ以上に、自分の気持ちを考えてくれ、不甲斐ないばかりの自分を責めていたのだろう。 (優しい……人、だったんだ……) だからもう、許してやって欲しい。 貴方が人の気持ちに気づかなかったのは、決して貴方のせいではなく。 「一緒に遊んで」って言いたくて、でも毎日勉強で必死な兄を見ていたらどうしても言えなくて。 そうやって、互いに我慢しすぎていた結果なのだと。 互いに想い合っていた証なのだと。 そう思える今だから、最低だった自分のことも、許せるような気がするんだ。 「ハスカワー、また遊びに来るねっ」 「二度と来んでいいっ!!」 「照れないでよー、僕これでも超有望株のギタリストだよ? 女の子にもモテモテだよ? 仲良くしとけば良いことあるよ~?」 「俺はおまえにも女にも全然興味ねぇよ……っ!」 ぎゅうぎゅう抱きつかれるものの、あからさまに麗名を突き放す蓮川を目前に、忍は心の中で「嘘つき」と呟いた。 もしも麗名に何かあったら、脇目もふらずに走って行くくせに。何を犠牲にしても助けに行くくせに。そう言いたかったけれど、忍は想いをそっと心の内にしまった。 ふと麗名と視線が合う。一瞬逸らされたが、麗名はおずおずと歩み寄ってきて、忍の目の前でぺこりと頭を下げた。忍がわずかに目を見開く。 「あの……色々と、失礼なことを言って……すみませんでした」 しゅんとしおらしい麗名は、どうやら本気で忍に言った言葉を反省している様子だ。 「なんだよ、瞬に怒られたのか?」 蓮川が察したように、にやけた表情で尋ねた。 「あ、知らないでしょ~!? おにいちゃま、本気で怒るとめちゃくちゃ怖いんだよ!?」 「ばーか、知ってるっつの。高校時代、俺が興味半分であいつの髪1センチ切っただけで、どんだけしつこく怒られたと思ってんだよ?」 「そりゃ怒るに決まってるじゃん! あの頃のおにいちゃまにとって髪は命だよ!?」 「あの頃のあいつの髪1センチ切って何が変わるんだよ!?」 意味が解らない、いまだに本気で意味が解らないと喚く蓮川の前に、その当事者がひょこっと姿を表した。 「すかちゃーん? いまだに反省してないってどーいうこと~?」 今にも石にされそうな空気を背負った瞬登場に、蓮川がヒッと表情を青ざめさせる。その怯えぶりたるや、過去にどれだけ熾烈な争いがあったのかと疑いたくなるほどだが、実際は「髪を1センチ切った」だけのことらしい。 実に馬鹿馬鹿しいと忍は頭を抱えた。 だが、そんな馬鹿馬鹿しいことでも本気でぶつかり合う二人を見つめていたら、微笑ましいと思うと同時に、急に寂しさのようなものが込み上げてきて。 「じゃあ、またね~!!」 バイバイと手を振る麗名を見送った後、また胸にぽっかりと穴が開いたような気分に襲われた。 道端でまだあの時はああだこうだと喧嘩を続ける二人を前に、忍が困ったように微笑みながらため息をついたその時だった。 「忍くーんっ!!ただいまっ!!!」 突然、背後からがばっと抱きつかれ、忍は目を見張った。 「二日も会えなくて寂しかったぜーっ! お土産いっぱい買ってきたから一緒に食おうなっ!」 すりすりと、柔らかい髪が頬にかかる。 忍はごく自然に、当たり前のように静かな笑みを浮かべた。 「……おかえり」 振り返り、身体が覚えているままにうっかり抱きついてしまった瞬間、蓮川の姿が視界に映りハッと我に返る。 「忍……っ、ついに……ついに俺のとこに戻ってきてくれたのかっ!!!」 なにやら感動に打ち震える光流に力いっぱい抱きしめられ、忍は額に汗を流した。 「ち、ちが……っ」 「そうだよな、やっぱ蓮川なんかじゃ物足りねぇよな! あんなクソ面倒な万年童貞はさっさと捨てて、今夜は目一杯愛し合おうぜ!?」 盛り上がる光流とは正反対に、蓮川は悔しげに肩を震わせ瞳に涙を溜めたかと思うと、くるっときびすを返してその場を走り去って行った。 しかし光流の馬鹿力にかなうはずもなく。がっちり抱き込まれたまま、ひたすら自分の馬鹿。馬鹿馬鹿馬鹿!!!と己を責め続ける忍であった。 手当たり次第買ってきたらしい、無駄に大量な光流からの土産も本人も、とりあえず放っておいて。 「蓮川……!」 またこのパターン、と辟易しながらも、忍は自室に引き篭もる蓮川に何度も呼びかけるが、やはり返事はなく。 「放っておけって忍、甘やかしてたらロクな男に育たねーぜ?」 「いいから貴様はとっとと帰れ!!!」 何を普通にくつろぎながらビール飲んでるんだと、忍は怒りに肩を震わせる。 「しゃーねぇなぁ……。いいか、こういう時はな……こーすんだよっ!!」 光流は面倒くさそうに立ち上がって瞳に気合を入れたかと思うと、容赦なく部屋のドアをガンッ!!と蹴りつけた。鍵ごとぶち壊し、見事ドアは開いたものの。 「……何の用です、光流先輩……?」 中には既に覚悟を決めた様子の蓮川が、背後に黒いオーラを放ちながら待ち構えており、まるで獣のような鋭い瞳で光流を見据える。 「男と男の勝負に言葉は要らねぇ、かかってこい蓮川!!」 「言われなくてもぶっ潰します……っ!!!!」 二人同時に拳をあげ、最後に残ったのはボロボロになって倒れた二人と無残な部屋のみであった。 だから。こうなるから。絶対最後は悲惨なことになるから。後始末大変なだけだから。下手したら本気で命に関わってくるから。強行手段だけは絶対に使わないって決めてきたのに。 「あ、あの……っ、すみませんごめんなさい許して下さい!!!!」 部屋のドアも壁もお気に入りの家具も全て滅茶苦茶にされ、うんざりするあまりどうにも気持ちが治まらない忍を前に、蓮川はひたすらに謝り続ける。(※光流は出入り禁止になりました) 「……もういい。今回は俺も悪かった」 ついうっかり高校時代に気持ちが戻ってしまったがために。忍は悔やんでも悔やみきれない後悔を胸に、ほんの少し表情を和らげる。 「いいけど、少しは加減を覚えろ」 一体どれだけ本気でやり合ったのかというほどに無残な、怪我だらけの身体。絆創膏が貼られた頬にそっと手を伸ばし、忍は呆れたようにため息をついた。(※光流の顔はすぐに治りました) 「だって、自分じゃ制御できないんです……っ」 だからいつも一人になって、一生懸命我慢してるのに。光流先輩が無理矢理に入ってくるから。泣き声交じりでそう言われると、確かに光流も悪いとしか思えず。忍は仕方ないと、蓮川の額に口付ける。くすぐったそうに蓮川が片目を閉じた。 「もう、光流先輩に抱きついたりしないで下さいね……?」 「あれは……癖、みたいなものだから……。頼むから気にしないでくれ」 「気にしますよ当たり前でしょ!? 癖なら治して下さい!!!」 「そう簡単に治らないのが癖なんだ! おまえだって性癖治せと言われて簡単に治せるか!?」 完全なる忍の逆切れであるが、蓮川は気づいていないままに眉をしかめた。 「……俺の性癖って何ですか?」 蓮川は真剣な表情で尋ねる。 「頼むから自覚してくれ色々と」 もしや全く自覚していなかったのかと、忍は目を据わらせた。 「俺の性癖……」 「だから、……その、色々と……」 「治した方がいいなら教えて下さい!! 俺頑張って治しますから!!」 「いや、それは、別に治さないでも……」 むしろ治されたら困るし!!いやいやそうじゃなくて!!!忍は心の内で絶叫した。 「いいなら……好きにしますよ……?」 「……!?」 突然に抱き上げられたかと思うと、そのまま風呂場に直行する。 忍はタイルの上に投げ出され、おもむろに服を剥ぎ取られ全裸にされた。 「好きにして、いいんですよね?」 計算なのか天然なのか、自覚しているのか全く無自覚なのか、まるで解らないまま右手に剃刀を持った蓮川を前に、忍は成す術もなく壁際に追い詰められた。 鈍いと思ったら妙に鋭い。冷めてるかと思えば、熱くなったら止まらない。奥手だと安心してたらいきなり大胆。つまり常に行動は予測不可能。 こんなにも心の内が解りやすいのに、肝心なところはまるで読めない人間、初めてかもしれない。 自分では見たくもない、毛が一本も残らない恥部をまじまじと見つめられ、忍は死にたくなるほどの羞恥を覚えた。 「まるで赤ちゃんみたいですよ、先輩」 「……や……っ……」 「こんな姿見たのは、俺が初めてですよね?」 そうじゃなかったら許さないとばかりに、蓮川は暗い瞳で静かに微笑む。忍は涙目でこくこくと頷いた。 「凄く……可愛いです。麗名には赤ちゃん欲しいって言ったけど、忍先輩がいてくれたら俺……他に何も要らないです」 「あ……、ん……っ」 ちゅと音をたてて乳首に吸いつかれ、忍はぎゅっと目を閉じた。 執拗に乳首に舌が這う。反り立った忍のペニスから、早く刺激が欲しいとばかりに液が滲んだ。 「こっち……弄って……っ」 「今日はおねだりは禁止です。黙って俺の赤ちゃんになって下さいね……?」 「……ふぁ……っ!」 恥ずかしいほどに足を広げられ、ペニスに艶かしい感覚が走り、忍はビクンと身体を震わせた。 口での愛撫と同時に、中に蓮川の指を感じる。内壁を擦られ、頭の中が朦朧となり、快楽を得ることしか考えられなくなる。 「あ……ぁ……っ、イ……く……っ!!」 身体が大きく震え、蓮川の口の中に精を放つ。忍は肩を上下させて息を荒くした。 「お漏らししちゃいましたね……? 綺麗にしてあげたいけど、俺ももう限界……」 「んぅ……っ!」 容赦なく侵入してくるペニス。忍が苦しげに眉を寄せた。 「すげ……、入ってるとこ、よく見える……」 「見…ないで……、いい……っ!」 忍が鋭い瞳で蓮川を睨みつけた。蓮川の瞳が明らかに機嫌を損ね、忍は怯えた表情を見せた。 「黙っててって言ったでしょう……? 俺、悪い子には容赦しませんよ……?」 激しく腰を揺さぶられ、ぐちゃぐちゃと結合部が音をたてる。忍のペニスから、二度目の精が溢れ出た。それでもなお動き続ける蓮川に、忍は涙目で懇願し叫び続けた。 たぶん全部無意識でやっているから、タチが悪いんだ。 頑固で強情で意地っ張りで。そのくせ素直でまっすぐで優しくて。 どうすれば人を愛せるのか、いちいち考えなくたって本能で知っている。 「ドア、壊れたままだな……」 早く直さないと。蓮川の部屋のベッドで抱き合ったまま忍がそうそう言うと、蓮川は苦笑した。 「いいですよ、自業自得だし。それに……」 コツンと額を合わせて、蓮川は優しい瞳を忍に向けた。 「もう、引き篭もったりしませんから」 「……それで、大丈夫なのか……?」 「たぶん。いや絶対、大丈夫です。だって俺には、貴方がついてるから」 いやに自信を持った声。忍はわずかに顔を赤らめ、それからそっと、蓮川の肩に額を寄せた。 「……ばーか。俺なんかがついてたって、何の役にも……」 「ずっと……このドアの向こうで待っててくれたじゃないですか……。それだけで、俺がどれだけ救われたか、知らないんですか……?」 すみませんでしたと、蓮川が小さく囁いた。 そう、いつだって、蓮川が自らドアを開ける時を、待って、待って、待ち続けて。 それは凄く、長くて苦しくて辛くて、何度もその場から逃げ出しそうになった。 でも今は、逃げなくて良かったと思える。 「もう、待つのは嫌だ……。だから、ドアの鍵は直さないからな……」 これからは、怒っている姿も、泣いている姿も、時にどうしようもなく惨めで情けない姿も、いつも目の前で見つめていたい。そうでなければ、不安で不安で、その気持ちに押し潰されそうになってしまうから。 だからいつも、ずっと傍についていて。 心の内で囁きながら、忍はそっと目を閉じた。 そうして結局、蓮川の部屋の鍵が直されることはなく。 「忍先輩っ! なんでまた光流先輩連れ込んでんですか!?」 「人聞きの悪い言い方するなっ! こいつが勝手に上がり込んでたんだ!」 「ぎゃーぎゃーうるせぇなおまえら、子供じゃあるまいし酒くらい静かに飲……」 「全ての元凶が偉そうに説教垂れるなっ!!」 っていうかいつの間に勝手にスペアキーなんて作成したこの犯罪者と、忍は光流の頭を踏みつけた。 「いいじゃんバリアフリーでいこうよ~。僕たちにプライベートないのなんて、寮時代に慣れっ子でしょ?」 「ここは寮じゃねーし、第一俺達恋人同士なんだよ……っ! プライベート無いのがどれだけキツいか……」 「ちょっと待て蓮川、それを言うなら寮時代、俺がおまえにどれだけ邪魔されたか何一つ覚えてねーのか?」 光流が怒りのオーラを放ちながら、蓮川の胸ぐらを掴みあげた。蓮川が「へ!?」と目を丸くする。 「俺が今日こそ(えっち)出来る!!!と思ったら、どこかで誰かが喧嘩してるから一緒に来て下さいだの、今から本番って時にどこぞの部屋に不審者が現れたから一緒に来て下さいだの、もう寮長でもない俺がどんだけ己の性欲こらえててめぇに付き合ったと思ってんだコラ? てめぇはいつもそうだよなぁ? なんだかんだ人に面倒見てもらいながら、いつも最後に一番美味しいとこ持っていきやがる……っ!!!」 今までの恨みつらみを全て思い出したと言わんばかりに、光流の表情は鬼気迫っている。蓮川はだらだらと額に汗を流した。 「今だってさぞ美味しい想いしてんだろ? 俺が必死で開発した体、隅から隅まで美味しく味わってんだろ!? でもこれだけは忘れんなよ? 忍の初めての相手は俺! 世界でたった俺一人だけだからな!!??」 完全に酒に酔っている勢いでまくしたてる光流の横っ面を、忍が盛大に足で蹴り飛ばした。勢い良く吐血しながら、光流がその場に倒れる。 「光流先輩っ、大丈夫!? 完全に死んでない!?」 「死なせておけ、瞬」 忍はまるで豚を見つめるかのごとく冷たい瞳で光流を見下ろし、それから蓮川に顔を向ける。 しかし瞳が完全に「無」になっている蓮川を前に、忍はうっと言葉を詰まらせた。 「大丈夫です、怒ってませんよ俺」 そう言うと、蓮川はにっこりと穏やかに微笑んだ。 どうやら大分感情を制御できるように鳴ったらしい蓮川を前に、忍がほっと安堵したその時だった。 「ただ……」 そっと肩に手を置かれ、耳元に蓮川の唇が寄せられる。ただならぬ雰囲気に、忍は額に汗を流した。 「次は、どうしようかなあって」 恐ろしく無邪気に囁く蓮川の顔をまともに見れないまま、先の行動が全く読めない相手への恐怖と期待を募らせるばかりの忍であった。 |
|
|