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『手塚さん、聞こえてます?』
 ふと、先日職場で交わした会話が頭の中を過ぎり、ベッド脇に座り本を読んでいた忍は顔をあげ、机に向かう恋人の背を眺めた。 
 忍がじっと視線を送っても、机の上のパソコン画面に夢中になっている蓮川は、おそらく見られていることに少しも気づいていない。忍は心の内で「なるほど」と呟いた。
 男にしては珍しく、ゲームなどのOA機器にはたいして興味を持っていなかった蓮川だが、少し前に忍がパソコンのプログラミングを教えてからというもの、このところ暇があればパソコンをいじっている。
 最初はわけがわからず、すぐに「解らないものは解らないんですっ!!」と例のごとく逆切れしていた蓮川だったが、根気良く教えていたらようやく理解し、理解が出来れば面白さが増していったのか、今では忍ですら驚くほどの上達ぶりを見せている。それは忍にとって非常に喜ばしいことなのだが。しかし。
(俺がいることを忘れてないか……?)
 過集中のあまり微塵も忍に気遣いのない蓮川を前に、そう気づいてしまったら苛立ちが止まらなくなった。せっかく一緒にいるのに。久しぶりに会えたのに。今日は早めに帰らなきゃならないなのに。我ながらなんか凄く女々しいこと言ってると思いながらも、忍の苛立ちは徐々に募っていった。
「蓮川」
 せめて気づかせようと声をかけるが、見事に無視され、忍の額に血管が浮かび上がる。
 ああでも、自分にも凄く身に覚えが。今思うと、「聞こえてます?」と尋ねてきた彼女も、ずいぶんと呆れた声をあげていた。忍は失笑し、次からは気を付けようと大いに反省した。
 自分に身に覚えのあることなら、理由もよく解る。ここは怒っても仕方が無い。忍は苛立ちを収めると立ち上がり、蓮川のそばに歩み寄った。そっと手を肩に置き、蓮川の耳元に唇を寄せる。
「聞こえてるか?」
 わざと艶っぽい低音ボイスを響かせると、蓮川がビクッと肩を揺らした。
「……ビックリした! どうしたんです急に?」
 急にじゃない急にじゃ。さっきからずっと傍にいたしずっと見てたし声もかけたし。多少の苛立ちを覚えながらも、忍は柔らかな微笑を浮かべた。
「オモチャが楽しいのは解らないでもないが、そろそろ終わりにしないか?」
 忍は目を細め、蓮川の耳元にふっと息を吹きかける。 
「え……でも、あと少しで終わるんですけど。あ、もしかして喉渇きました? 忍先輩用のお茶買っておいたんで、好きに飲んで下さいね」
 しかし蓮川はまるで平常心でそう言うと、椅子をくるっと回してパソコンの画面に視線を戻し、カチャカチャと音をたててキーボードを打つ。
 全く持って色仕掛けが通じていない蓮川を前に、忍は呆然とその場に固まった。
 明らかに誘っているのに気づいてないどころか、なんか凄く軽くあしらわれてるし。なにその作業邪魔してくる猫に餌やっときゃ大人しくなるだろう的な返し。おまけに「忍先輩用の」って。俺は猫か。猫感覚なのかこいつにとって。忍は屈辱にわなわなと肩を震わせた。(※自分も犬感覚だということには気づいていない)
「今はお茶飲んでる気分じゃない」
「え、コーヒーのが良いんですか? うちインスタントしかないですけど、それでも良いですか?」
 忍が怒りを抑えた声で言うと、蓮川は相変わらず平常心のままそう言って立ち上がり、台所に向かった。
 いやだからそうじゃなくて!!!忍は心の内で絶叫した。
「砂糖はいらないですよね? ミルクは入れます?」
 高校時代からの教育の賜物で、非常に手際良くコーヒーを淹れる蓮川を前に、非常に複雑な気分の忍であった。
 条件反射。条件反射だこれはと、忍は心の内で理解し、かつての自分達の行いを深く反省する。今思うとあまりに中2レベルなこき使いようだったが、あの頃はこいつに頼める事といえば「飲み物買って来い」くらいしかなかった。ほんとに本気でそれくらいしか能がないと思っていたし、実際に何をやらせても不器用すぎて使い物にならなかったのも事実だ。
 などと言い訳しながら、忍は心の内で唸り続けた。
 でも実は他にも能はたくさんあったことに、今更気づくなんて。しかも他者を遥かに凌ぐ秘めた才能が。ただ本人が自覚していないだけだ。
 実際、目の前に映っている蓮川がプログラミングしたゲームは、商用としても十分に通じるレベルの出来栄えだが、当人は陸上と同じく、あくまで「趣味の範囲」としか思っていない。
 実に勿体無い。そう悟った現在だからこそ、忍が蓮川に望むことは腐るほどあるわけだが。
 とりあえず、今一番望んでいることは。忍は己に問いかけた。
「要らない」
 忍は強気な口調で訴えると、蓮川に歩み寄った。ガッと腕を掴んで、そのまま力任せに引っ張り、ベッドの上に蓮川の身体を押し倒す。
「おまえのミルクが欲しい」
 「へ!?」と目を丸くする蓮川に、忍は単刀直入に訴え、蓮川のズボンのベルトに手をかけた。
 こいつに遠回しに言っても通じない。空気読めと言っても無駄。察しろなんてただの無茶振り。基本、要望は単刀直入に。忍は今までの教訓を頭の中で反芻させ、即座に行動に移した。
「ちょ……っ、わかった! わかりましたから、いきなりは止めて下さいっ!!」
 だから全然いきなりじゃないし。さっきからずっと誘ってるし。この鈍感無神経男と心の内で罵詈雑言を並べ立てながら、忍は半ば無理やり露出させた蓮川のペニスを握るが、呆気なく逃げられた。忍は鋭い瞳で蓮川を睨みつける。
「もう……。したいなら、そう言って下さいって」
 蓮川がどこか呆れたように言った。
「いきなり「セックスしよう」って言うデリカシーのない馬鹿になれと?」
「そうじゃなくて! ……って、誰のことですかそれは」
 蓮川ははぁと小さくため息をつきながら、忍の肩に手をかけ、そっと唇に唇を寄せた。
「いつもそんな風に、いきなりされてたんですか?」
 押し倒される形になった忍は、目の前でやや怒りを含んだ瞳で言う蓮川の視線に射抜かれ、途端に肩の力を抜いた。
 そんな事を言いたかったんじゃない。けれど、言われてみれば正にその通りで。思い出すのは目の前の蓮川に申し訳ないと思いながらも、思い出さずにはいられなかった。
 今の今まで知らずにいた。きっと同じように光流の視線に気づかずにいた、無邪気で無関心で残酷だった自分の姿。本当は光流もずっと、いきなりなんかじゃなかったのかもしれない。今の自分と同じように、好きで好きで、どうしようもなく好きで。早く触れたいのに触れさせてもらえない。気づいてもらえない。振り向いてもらえない。そんなことの繰り返しで、強引にいくより他に手段はなくて。
「違う……。ずっと……待ってたんだ」
 突然に切なさばかりが込み上げてきて、忍は潤んだ瞳で蓮川を見上げた。
 途端に蓮川が瞳を大きく見開き、カッと顔を赤くする。
「おまえが俺の方を見てくれるのを、ずっと……」  
 この馬鹿、と、忍は自分に向かって言う。
 情けなさばかりを感じていると、突然強く抱きしめられ、忍はハッと目を見開いた。
「す、すみません……っ! おれ、全然気づかなくて……っ!!」
 なんだか感極まった様子で抱きしめてくる蓮川の声が耳元に響き、忍は突然に冷静さを取り戻した。たぶんこいつ絶対に何か勘違いしている。思いながら宙を仰ぐものの、悪い勘違いではなさそうなので、もうこのまま勘違いさせておこうと思いながら、蓮川の背に腕を回しぎゅっと抱きついた。
「ずっとずっと先輩のこと見てます……。だから、見せて下さい、先輩の……」
 欲情に染まった瞳に見つめられ、忍の全身にゾクリと戦慄が走った。


 普段は死んでも絶対に誰にも見せられないような格好も、死んだって口に出せないような言葉も、たまらない刺激になる。
「早く……ここ、イかせて……っ」
「ここって、どこですか……?」
 目の前で思い切り晒しているのに。限界まで膨れあがって液を垂らしているそこに視線を向けられたまま、忍は瞳にじわっと涙を浮かべた。
「すみません、おれ、はっきり言ってもらわないと解らないもので」
 わざと意地悪く耳元で囁かれ、忍はキッと蓮川を睨みつけた。
「ち……」
 けれど生来の品性が邪魔をし、どうしてもどうしても口に出すことは出来ない。そんな下品な言葉を発することだけは、決して許されては来なかった。忍は欲望と理性の狭間でもがき苦しんだ。
「ここ……」
 どうしても口には出せない変わりに、足を開き腰を振っておねだりする。その方が言葉よりもずっと恥ずかしいことに気づかないまま。その痴態を楽しむ蓮川の視線にも気づかないまま。
「ここを、どうします……?」
 再び尋ねられ、忍は屈辱に身を震わせた。そんなこと、思うだけでも恥ずかしくて死にそうなのに、口になんて出せるはずがない。口にするくらいなら、自分でした方がずっとマシだ。思いながら、忍は己の右手を反り返ったペニスに絡ませた。
「ほんと強情ですね、先輩。だったらそのまま、自分でイッて下さい」
 蔑みの視線を向けられ、忍は唇を噛み締め目を閉じ、蓮川の目の前でペニスを扱いた。 
「……っ、は……っ」
「先輩、今すっごく恥ずかしいことしてるの、解ってます?」
 視線と言葉で蔑まれれば蔑まされるほど、得体の知れない興奮で身体の熱が上昇していく。昇りつめる欲望を抑えることは最早不可能だった。
「……ん……っ、あ……っ!」
 ビクビクッっと忍の身体が震え、ペニスから精液が飛び散った。
 ドロドロの液体を右手に絡ませたまま、忍は肩を大きく上下させ呼吸を繰り返す。こらえきれない欲望を吐き出してしまえば、襲ってくるのは惨めさや情けなさばかりで。ぽろっと涙が零れ落ちた刹那、足を開かれ、忍は大きく目を開いた。
「あ……!!!」
 容赦なく侵入してくる蓮川の指に、中を激しく刺激される。ローションで濡れた指がぐちゃぐちゃと音をたてた。
「ん……ぅっ、ぁ、あ……っ」
「すみません、おれももう、限界なので……っ」
 荒い息遣いで囁く蓮川の声に、言葉の意味を知る。
 だったらもう我慢なんてしなくて良いから。人の身体のことなんて気遣わなくて良いから。早く。早く──。
「も……入れて……っ!」
 気が付けば忍は、うんとはしたない言葉を口にしていた。  
「おまえの……っ、おっきいの……、早く……!!」
 欲しくて欲しくてたまらないと、身体がどうしようもなく叫ぶ。想いは叫ばなければ届かない。こんなにすぐ傍にいても。
「あ……っ、あ………!! イく……っ、イ……っ!」
「おれ……も……っ」
 どこかに連れて行かれる。恐怖すら覚える絶頂を極めたと同時に、忍は蓮川の首にしがみついた。強く抱きとめられる。安堵のうちに、忍は意識を失った。



「あーっ! 忍先輩、それもう消して下さいってば!!」
 パソコンをいじりながらクスリと微笑む忍の背後から、蓮川の雄叫びが部屋中に響いた。
 画面上には、蓮川が初めてプログラムで描いた奇妙な形の物体が、奇妙な動きを見せている。当人いわく花を描いたつもりらしいが、カクカクした丸い物体がアンバランスに繋げられているだけで、どこからどう見ても花には見えないそのイラストを見る度、初歩で悪戦苦闘していた頃の蓮川を思い出し、忍は笑ってしまうのだった。
「いいじゃないか、記念すべき第一作、大事にとっておけば」
「そんなこと言って、単にずっとからかいたいだけでしょーが」
 蓮川がジトッと疑惑の眼差しを忍に向ける。即座にマウスを握りそのイラストを削除しようとするが、忍は蓮川の手の上に自分の手を重ね、そっと制止した。
「おまえほどからかい甲斐のある奴は、そうそういないからな」
 手を重ねたまま目を細め顔を近づけると、蓮川の頬がわずかに赤らむ。
 その反応を楽しみ、忍は瞳を閉じキスを受け入れた。



 
「手塚さんて、基本、人に無関心ですよね」
 はぁと深くため息をつかれ、忍は返す言葉も無く俯いた。
 隣のデスクで書類仕事を続けながらズバズバと物を言ってくる同僚女性のことは、決して嫌いじゃない。むしろその単刀直入さが心地良いと感じるくらいだ。それに高校時代、蓮川と同室だった後輩に比べれば、まだ全然可愛い方かもしれない。思い出し心の内で苦笑しながら、忍は言われた言葉の意味を考える。
 開き直ることでも威張ることでもないが、基本、本気で他人に無関心だ。幼い頃から、家族にすら大して興味は抱けなかった。そのおかげで、あの感情豊かな姉には随分と嫌われたものだが、今なら嫌われるのも当然だったかもしれないと妙に納得してしまう。ごめん姉と思いながら、忍は自分と同類で、基本、他人に無関心な恋人を思い出した。
「やはり男だから、女性とは感じ方が違うのだろうね。僕にはそこまで人に関心を持てる女性の方が不思議だよ」
 大概、人の噂話か愚痴目的だけど。思いながらも決して声には出さない。
「関心っていうか、好奇心かもですね。どんな人なんだろう、何が好きなんだろう、何が嫌いなんだろう、どうすれば好きになってくれるだろうって。男の人は、自分はこれが好き、自分はこれが嫌い、自分はこうだから相手もこうだろう。基本自分のことばかりで、相手の気持ちとか考えない人多いですもんね」
「つまり想像力がない……と」
「あー、そういう事かも!」
 その男という生き物を前に、見事なまでにきっぱりはっきり物を言う同僚を前に、忍は改めて「女とは」を考えさせられた。


 
「忍くーんっ! 昨日はランチなに食べた? フランス料理それともイタリアン? たまには一緒にランチとかどーお?」
 こいつは基本、絶対女子だ。女子に違いない。確信しながら、忍は額に青筋を浮かべた。
「今日は牛丼の気分じゃない」
「じゃあうどんにしよーぜ? 忍、きつねうどん好きだろ?」
「うどんの気分でもない」
「じゃあファミレスでおまえの好きな海老と茄子のパスタとか」
「なんでいちいち人の好物を全部把握してるんだ貴様はっ!!」 
 しかも今は大して好きじゃないし。高校大学時代はおまえに合わせて貧相なメニューの中から何とか食べられるものを選んでいただけだし。いやそんなことはどうでもいい。いい加減ストーカーやめろと辟易しながら、忍は光流の誘いを無視してスタスタと歩き続ける。
 今日はカレー。最近お気に入りの喫茶店でカレーにすると朝から決めている。他のものなんて絶対にゴメンだ。基本自分が絶対の忍は、迷わず目的の喫茶店に歩を進めた。


「昨日からやり始めたゲーム、すげー面白いわ。なんたって映像がすげーのなんのって」
 結局のところいつも通り余裕でついてきて、同じカレーを黙々と食べながら、忍はひたすら黙って光流の話(=雑音)をスルーしまくる。
 恋人時代は話に大して興味なくとも、スルーしつつたまに相槌打つくらいの技は使えたが、まったくもって鬱陶しい以外の何物でもない今は、少しでもストレスを溜めないためにも完全スルーするより他はなく。
「時間だ。仕事に戻る」
 忍は時計を見つめ立ち上がった。要約すれば「ゲームが面白かった」「昨日上司と喧嘩したけど負けた」だけの話だったなと、頭の中で呟く。時間の無駄だと言わんばかりにレシートに手を伸ばすと、サッと光流に取り上げられた。
 そのまま颯爽とレジに向かって行く光流の後を追い、忍は眉をしかめた。
「光流、自分の分は自分で……」
 奢られる筋合いはないと訴えるものの、光流はまるで無視して支払いを済ませると、さっさと店の外に足を向けた。
「光流……!」
「話聞いてくれた御礼。サンキュ、忍クン」
 光流は含みのある笑みと声色でそう言うと、忍に背を向け去っていった。
 その後姿を見送りながら、忍は得体の知れない敗北感ばかりに襲われ、眉間に皺を寄せた。
  
 

「ここの店がけっこう美味いんだが」
「おれ、こーいう上品な店って落ち着いて食べれないんで嫌いです。昼飯なんてマックで十分じゃないですか。気軽にさっと食べれるし。大体男同士で行くような店じゃないですよ」
 要望を見事なほどにきっぱり断られ、忍の背後にブリザードが吹き荒れた。
 せっかくの休日デート、その貧相な舌をなんとかするべく、たまには良い店に連れていってやろうと思ったのにこいつは……っ。忍は心の内で拳を震わせる。
「もういい。おまえと飯食いになんか二度と行かない」
 ぷいっと蓮川に背を向け、忍はその場からスタスタと歩き出した。
「またそーいう我儘を……。わかりました、行けばいいんでしょ行けば」
「我儘じゃない! おまえがクソなぐらい無神経なんだ!!」
 なんで上から目線なんだ、なんで!!と、忍は立ち止まりくるっと振り返って牙を剥いた。
「クソってなんですかクソって! 人をうんこ呼ばわりする人に無神経とか言われたくありません!!」
「今はうんこの話じゃない! そうやってすぐ人の意見を否定するところを直せと言ってるんだ!」
「誰も否定なんかしてません! ちゃんと行くって言ってるじゃないですか!? その前に自分の意見言って何が悪いんですか!?」
「言い方! 言い方を考えろというのが解らんか!?」
「じゃあ何て言えば良かったんです!?」
「素敵な店ですね。一度行ってみたいけど、今はあまり時間がないので、出来ればさっと済ませられるものが良いんですが……。すみません、僕こういうお店あまり慣れてないもので。今日は気楽に行けるマックでも良いですか?」
「わかりました。凄く解りやすかったですけど……おれにそーいう営業トークされて嬉しいですか?」
「……確かにそれは一理あるな」
 結局のところいつもどおりで良いと結論が出たところで、マックに向かった二人なのであった。


 言い合っては納得し、言い合っては納得し、何だかんだで平和な外デートを終えアパートに帰ると、綺麗にラッピングされた袋を蓮川に手渡され、忍はきょとんと首をかしげた。
「これ、すみれちゃんと兄貴から」
「……なんだ?」
 袋の中身は、やや値の張りそうなボールペンだった。
「クリスマスに、緑が欲しがってた大きなくまのぬいぐるみプレゼントしたじゃないですか。兄貴に「高かっただろう」って心配されたから、忍先輩が半分出してくれたって言ったんです。その御礼にって」
「ああ……ありがとうございますと伝えておいてくれ」
「はい」
 蓮川は穏やかに笑って頷いた。
「緑、あのぬいぐるみすげー気に入って、毎晩抱きしめて寝てるみたいです。おかげで寝かしつけが楽になったって、二人とも喜んでました」
「いまだにあやさないと寝れないのか、あいつは」
「甘ったれですからね。おれはそんなことしてもらった記憶ないですけど」
 むしろさっさと寝ろと乱暴に布団被せられ電気を消され、暗闇に震えながら寝たと、やや拗ねた口調で蓮川は言った。
「ガキみたいなこと言うな。そんなに緑が羨ましいなら、俺があやしてやろうか?」
 忍はいきなり背後のベッドに蓮川の身体を引き倒すと、腕枕する体制に持っていく。
「結構です!! 恥ずかしいからやめてください!!」
 蓮川は顔を真っ赤にしたかと思うと、即効で忍の腕の中から逃れた。
 相変わらずまるで反抗期の中学生みたいに甘え下手な蓮川を前に、忍は悪戯っぽくクスクスと笑う。
「逆なら構わないか?」
 忍は「え?」と首をかしげる蓮川の腕を掴むと、ベッドの上に横たえさせ、蓮川の左腕に自分の頭を乗せる。先程とは逆で、腕枕される体制を整えた忍は、迷うことなく蓮川の胸に額を摺り寄せた。そうすると、蓮川が「うわ……!」と顔を真っ赤にして動揺するのが、見えなくても空気で伝わってくる。
 構わずぴったり寄り添うと、忍は心地良い表情で目を閉じた。
 確か自分も幼い頃は、蓮川と同じように一人きりで眠るのが当たり前だった。甘えるのは気持ち良いことだと、教わったのは誰からだったろう。それ以上は考えず、ただぎゅっと抱きしめられる。
「あやすのって、どうしたら良いんですか……?」
「おまえがしたいと思うように」
 いちいち教えなくたって、本能で解るものだから。
 忍が蓮川の問いに応えると、蓮川はやや時間を置いてから、戸惑いがちにそっと忍の頭に手を寄せた。そのまま、ゆっくりと撫でられる。
 「正解」と心の内で呟き、忍は心地良い感覚を無防備に楽しんだ。
「どうしよう……」
 まだ何を悩むことがあるのかと、忍が顔をあげると、蓮川の本気で困った顔が視界に飛び込んできた。
「凄く、ぎゅってしたいです」
 ついには泣きそうな顔でそんなことを言われたら、思わず笑ってしまうのも当然のことで。
 忍がふっと笑みをこぼし、自ら蓮川の首に腕を巻きつけたその時。
「一也~! いるか?」
 いきなり玄関のドアがガチャッと音をたてて開き、二人は即効で離れ身体を起こした。
「ひ、弘兄!? なんだよいきなり!?」
「お兄ちゃん来ちゃ悪かった?」
 たまにはおまえの顔見たいのに、とわざとらしく泣きを入れる兄を前に、蓮川は必要以上に狼狽え続けたのであった。