欠落<後編>

 

 

 

 すぐに引っ越そう。躊躇う忍の意見など少しも聞かず、光流はその翌日に新しいアパートと契約を結んできた。

 前より更に狭いし風呂もついていないから銭湯通いになるけれど、ちょっとの間だから、我慢できるよな? そう言った光流に、忍はなんの迷いもなく頷いていた。

 これで完全に、全てが終わったのだと思っていた。

 

 互いに安い時給で必死に働きながら、一日のうちのほんの数時間を共に過ごす日々は、しかし怖いほどに忍に充実感を与えてくれる平和な日々だった。これで借金さえ返し終えれば。慣れない仕事も相変わらずの不自由な生活も、その先にある明るい未来を思えば少しも苦しくはなかった。

 

 そんな安息の日々が数ヶ月続いたある日、光流の知り合いに紹介され働き始めた深夜の居酒屋で、偶然にも飲みに来た客に混じり、あの蛇の目をした男と再会を果たしてしまった。因果とは何て恐ろしいものだろう。忍は運命という、抗えない得たいの知れないものに翻弄されながら、絡みついてくる男の視線と目を合わせた。

 ニヤリと男が笑みを浮かべる。背にじわりと汗が滲んだ。

 

 

 嫌だ。嫌だ。嫌だ。

 何度も叫んだ。

 どうしてなのだと、見えない誰かに向かって叫び続ける。

 なぜ小さな幸福でさえも、守らせてはくれないのか。ほんのささやかな望みを、何故これほどまでに無残に奪われるのか。何も要らない。金も地位も名誉も才能も、家族でさえも、何も要らない。欲しいものは、ただ一つなのに。愚かさの報いなのだとしても、あまりに残酷だ。

 

「い……、ぁ……あぁ……!」

 必死で噛み締めた唇から、こらえきれない呻き声が漏れた。

 鬱血するほどに縛り上げられた手首に血が滲む。耳元で繰り返される男の荒い息遣い。気持ち悪い。早く。早く終わりにしてくれ。

「……諦めな。おまえはこういう運命なんだよ」

「……く……っ……ぁ……!」

 より一層奥に捻じ込まれ突き上げられ、引き抜かれる。白濁が胸から腹にかけて飛び散った。

 行為は一度きりでは終わらなかった。

 さんざ煮え湯を飲まされた男の暴行は容赦なかった。もう二度と逃がさねぇ。言いながら、男は更に激しく忍の身体を貪った。貫かれ、男の両手で首を締め付けられる。

「こうすると締まって良いんだぜ?」

 遠ざかる意識の中、男の声が低く残虐に響き、目の前が霞む。このまま殺されるのかもしれない。意識を失う寸前、忍は宙に向って手を伸ばした。

 最後にもう一度だけ。

 もう一度だけ。

 誰よりも憎んでいるはずの相手に、祈り続ける。

 憎い。それなのに、今はその相手に縋ることしか出来ない。あまりにも無力だ。無力だからこそ、人はそれを求め信じ縋り祈るのだ。

 絶望の淵から救ってくれるものなど何も無いと、知りながら。

 

 

 

「忍……!!!」

 どうにか辿り着いたアパート。光流に抱きしめられた瞬間、忍は安堵と共に意識を手放した。

 光流の声。暖かい温もり。大丈夫。ここに帰ってくるためなら、どんな絶望の淵からも這い上がってこれる。

 だから、離さないでくれ。

 この場所が無いのなら、祈りなど、何の意味も持たないのだから。

 

 

 どこか、遠くに行こう。

 誰も自分たちを知らない、ここよりずっと、ずっと、遠くへ。

 そう言って手を握り締める光流に、すぐに頷くことは出来なかった。

 逃げられるのだろうか。どう足掻いても逆らっても、運命は自分を逃がしてはくれないような気がした。

 

 一度だけ、光流が酷い怪我を負って帰ってきた。もう無理だと思った。あの男は、きっとどこまでも追いかけてくる。どこまで逃げても捕らえられ、蛇のように絡みついて離れないだろう。

 だったらいっそ、殺してしまえ。

 何度も夢を見た。あの男の喉をナイフで斯き切る夢を。

 恐怖。絶望。不安。憎悪。狂気。壊れていく心。

 

「忍……春になったら、どこか遠い田舎に行こうな……」

 遠い瞳をする忍をそっと抱きしめて、光流は優しく囁く。

 理想郷。

 そんなものが、本当に存在するのだろうか。

 小さく頷く忍の瞳は、ただ、遠かった。

 

 

「忍、迎えに来たよ」

 突然あらわれた兄、旭の姿を前に、忍は驚愕を隠せず、大きく目を見開いた。

「どうして……」

「もう気が済んだだろう? 最初から、おまえのいるべき場所じゃなかったんだ」

 アパートから連れ出そうとする旭に抗っていると、バイト先から帰ってきた光流の姿が視界に飛び込み、忍は安堵した。けれど、光流は酷く冷めた目で自分を見つめるだけで、その瞬間、忍は絶望にも似た感覚を味わった。

「彼が連絡をよこした。……借金と同じ金額と引き換えに、おまえ返すと」

 旭の言葉に、忍は更なる絶望を目前にした。

 縋るような視線を光流に向けるが、光流はそんな忍を拒絶するかのように目を背けた。

「光流、どうして……!」

 旭に肩を抱かれたまま、忍は光流に問いかけた。

「……仕方ねぇだろ。こうするしか、ねぇんだ」

 冷たい声と共に、冷たい視線が向けられる。

「ホント、奇麗事で、生きちゃいけねぇよな」

 投げやりなセリフを吐き捨てるように光流が言った瞬間、忍は光流に駆け寄り、激情のままに光流の頬に平手を放った。

 よろめきもしないまま、光流は相変わらず冷めた視線で忍を見据える。

「さっさと自分の家に戻れ。もう薄汚い娼婦に用はねぇよ」

 恐ろしく低い声と、少しも感情の篭っていない瞳。

 震える忍の拳がもう一度振り上げられたが、旭に振り下ろす手を遮られた。

「わかっただろう? もう……帰ろう」

 旭は優しくそう言うと、忍の肩を抱いてその場から歩き出す。

 もう一度、名前を呼ぼうとしたけれど、できなかった。もし呼んで振り向いてもらえなかったら、もう二度と正気には戻れない気がした。

誘導されるままに、アパートの前に停めてあったベンツに乗り込む。

(光流)

 震える肩が止まらない。

 車のエンジン音が鳴り響く。

(光流)

 頼むから、嘘だって言ってくれ。

 追いかけて、行くなって、抱きしめてくれたら、今なら全てを許せるから。

「光流……っ!」

 車が発進したと同時に、忍は顔をあげて声を発した。

 けれど振り返った先には何も無く。

 絶望の涙だけがゆっくりと頬を伝った。

 



 まるで能面のように心のない顔つきのまま、光流は開きっぱなしだった玄関のドアを閉じた。鍵をしめて、誰もいない部屋を見つめる。たった六畳一間の狭い部屋が、やけに広く感じる。

 これで、終わったんだ。

 ずいぶんバカなことをしたなとだけ、光流は思った。

 

 最初から、自分には遠い存在だった。

 手の届かない存在だと知りながら、どうしても欲しくて手に入れたくて、無理やりに温室から連れ出して、枯れる寸前まで追い詰めたのは誰でもない自分だった。

「忍……」

 呼んでももう、どこにもいない。

 急速に記憶が蘇る。

 このドアを開く前、いつも胸は喜びで騒いだ。

 ドアを開けば、いつでも忍が待っていてくれる。「おかえり」って言ってくれる、その声のためなら、どんな苦労も厭わなかった。寒くて凍えそうで空腹で死にそうに疲れた後でも、あの柔らかい微笑みが目の前にあれば、それだけで全ては満たされた。

「忍……っ」

 ずるずると座り込んだ光流の瞳から、涙が溢れ出す。肩が震える。

 ごめん。ごめんな。どれだけ謝っても、足りない。

 せめて憎んでくれ。

 バカな男と付き合ったものだと恨んでくれ。

 空っぽの部屋の中、何度も何度も、忍の温もりが蘇る。交わした口付けの優しさを思い出す。抱きしめた時の、心ごと抱きしめられる感覚。頬を摺り寄せ笑いあった時の例えようも無い幸福感。忍。忍。何度呼んでも呼び足りなくて、強く抱きしめて髪に指を絡ませる。

 もう、何も無い。

 たった一つだけだった。一つしか無かった。

 それすらも守ることが出来なかった自分の無力さが、ただ悔しくて許せなくて、光流はいつまでも肩を震わせ続けた。

 

 

 

 酒の瓶が転がる部屋で、光流はうつろな瞳で宙を見つめた。

 何度もドアを叩く音が耳に響く。

「……っるせぇな……」

 いいかげん、帰れよ。てめーらに返す金なんてどこにもねぇよ。心の中で暴言を吐きながら、飲みかけの酒瓶に手を伸ばす。もはや何の味もしない。クソ不味い酒だ。光流は酒の瓶を床に放り投げた。溢れ出した酒が畳に染みを作る。

 突然、派手な音を立てて扉が開いた。

 光流はのろのろと立ち上がる。

 ずいぶん派手にぶっ壊してくれたじゃねぇか。ニヤリと笑って、胸倉を掴んできた男の頬に拳を放った。すかさず襲い掛かってきた背後の男に肘鉄をくらわす。屈強な男二人があっという間に畳の上に転がった。

「来いよ、金返して欲しいんだろ?」

 ガツッと右足で男の頭を蹴りつけ、光流は酷く冷徹な瞳で男達を見下ろす。しかし反応はない。とうに意識を失った男二人に唾を吐きかけ、「つまんねぇ」と舌打ちして、光流は部屋を後にした。

 ふらついた足取りでアスファルトの上を歩く。

 いっそヤクザにでもなるかな。そうすりゃいつか、殺しても殺し足りないほど憎い、あの男にたどり着けるかもしれない。

 全ての幸福を無残に奪い去った、あの悪魔のような男。会ったら絶対に殺してやる。いや、殺すだけじゃ飽き足らない。むしろそう簡単に殺してなどやるものか。思いつく限りの残虐な仕打ちを頭の中に描きながら、街中をただフラフラと徘徊する。

 

 人気のない公園のベンチに座っていると、ふらふらと女が寄ってきた。似合わない派手な化粧と安い香水の香りを漂わせる女だった。うるさいと冷たく言い放って立ち上がると、つまらない男だと罵声を浴びせられた。刹那、光流は女の腕を捕らえベンチの上に押し倒す。

「いいぜ、試してみろよ?」

 女は勝気な瞳を光流に向ける。自ら光流のジーンズのジッパーに手をかけ、少しも反応を示していない雄を口に含んだ。光流は冷めた瞳で女を見下ろす。

「そんなんじゃイけねーよ、下手クソ」

 蔑む口調で言うと、光流は女の髪を掴み、より深く女の咥内に捻じ込む。女が突然の苦痛に眉を寄せた。構わず腰を動かし、女の頭を激しく揺さぶる。息苦しさのあまり、女は身を捩って光流の手から逃れた。そのまま恐怖に怯えた目をして、逃げるように走り去っていく。光流はまた「つまんねぇ」と舌打ちした。

 衣服を整えドカッとベンチに腰を下ろし、空虚な瞳で夜空を見上げる。珍しく無数の星が輝いているが、特に何とも思わなかった。

 何もかも、つまらない。

 楽しいことを思い出そうとしても、思い出せない。思い出すまいと、心が停止する。でもそれで良い。

 いつまでも泣いてなんかいられるか。忘れるしかねぇんだ。忘れて生きていくしか。

 そう自分に言い聞かせる。

 
 長い空白の後、不意に頭の奥で別の声がした。

 そんな人生に何の意味がある? 

 うるせぇ、意味なんかあるか。そんなもん無くたって生きていける。ただ生きていくだけなら、誰にだって出来る。

 そう。ただ、生きていくだけなら。

 

(だったら最初から、生まれてきたくなんかなかった)

 

 どうせ最初から、望まれてなどいない命だった。

 いらないものだった。

 

 だけど、こんないらない命でも、ただ一人、心から必要としてくれた人がいたから。
 ただ一人、おまえがいれば他に何も要らないって、そう言って抱きしめてくれる人がいたから。生まれて初めて、ありがとうって。産んでくれて、ありがとうって。生きていて、良かったって。

そう、心から思えたのに……!!!

 

「……の……ぶ……っ!!」

 

 会いたい。

 会いたい。

 会いたい。

 もう一度だけでいい。この手で抱きしめられたら、この身を千回八つ裂きにされたって構わない。

 いっそ誰か殺してくれ。もう二度と会うことが出来ないなら。

 思い出だけでなんて、人は生きていけない。ただ息を吸って吐くだけの人生なんて、何の意 味もない。意味が無いから、求めてさ迷って、出会い満たされ、絶望してはまた求める。

 

 何度こんな終わりを味わえば、安息の日々は訪れるのだろう。

 

 

 

 もう、この部屋を出よう。

 一人だけなら、もっと安い最低ラインのアパートで充分だ。

 思い出だけを胸に生きていくのはあまりに辛すぎる。

 少しの手荷物だけをまとめて、空っぽになった部屋のドアを開き外に出る。鍵を閉めた瞬間、本当に全てが終わったのだと思った。

 相変わらず心は停止したままだけれど、なんとか生きていこうと決意した。借金を返し終えたら、どこか遠くへ行こう。家など無くても構わない。待つ人がいない家など持つ意味は無い。ただ今は、空っぽでも、何も無くても、命ある限り生き抜くしかないんだ。

 
 コートの襟を掴み、光流は歩き出した。昨夜降った雪の名残が残る階段を降りようとした光流の目に、思いがけない姿が飛び込んできた。一瞬、錯覚かと思った。これまでに何度も見てきた幻かと。

 「しの……ぶ……」

 信じられない想いで声をあげると、階段に座っていた忍が光流の声に気づいたように顔を上げた。

 吐く息が白い。薄いコート一枚だけを羽織ったその身体は、一目で冷え切っているとわかるほどに寒々しい。縋るような瞳が自分を見据えた。

「何で……、何で、戻ってなんか……!!」

 光流が声を荒げたと同時に、忍が立ち上がる。首に腕が回り、強く抱きしめられる。

 駄目だ。すぐに家に帰れ。

 そう言わなければと思ったのに。

「忍……っ!!」

 抱き返さずにはいられなかった。

 抱きしめたら、もう二度と離せないと分かっていたのに。

「バカ……やろう……っ、どうして戻ってきたり……っ」

 震える声を発しながら、冷え切った忍の頬を包み込む。どうやってここまで来たのだろう。一体どのくらい、この寒空の下で自分を待っていたのだろう。愛しくて、何もかもが愛しくて、その心のままに涙が溢れる。

「離れてなんて……生きていけない……」

 同じように、忍の瞳にもまた、涙が溢れる。

「生きていけない……!!」

 縋りつくように抱きついてくるその身体を、光流もまた強く強く抱きしめる。

 離さない。もう絶対に。離せない。

 たとえ運命に抗っても。誰に間違っていると言われても。

 離れてなんて、生きていけない。

 

 

 暖房はおろか布団すら処分してしまった何も無い部屋の中、けれど心だけは一部の隙間もないほどに満たされる。

 頬に、額に、唇に、何度もキスをした。冷たい指先を絡ませ合えば、寒さなど微塵も感じなかった。

 重なる肌と肌。繋がる心と心。

 快楽の淵で喘ぎ閉じた瞼から滲む涙に口付ける。熱に浮かされながら何度も名前を呼ぶ。呼ばれる。
 光流。光流。不安げな声に、何度も大丈夫だって囁いた。俺はここにいる。もう二度と離さない。たとえ絶対的な何かに背をそむけても。

 もう二度と、この手を離したりしない。

 だからもっと乱れて、狂って、求めて。抱き合い触れ合い繋がり合って。そうして欠けた心の隙間を全て埋めて、満たされよう。

「あ……ぁ……っ……!」

 求めた先に、何度絶望が訪れても。

 二人でなら、きっと生きていける。

 

 

 

  花は散るからこそ美しい。

 散りゆく薄紅色の桜を見るたびに、忍は永遠に咲き続ける花を求めさ迷っていた子供時代を思い出す。

 けれどそんなあの頃の自分は、なんて美しかったのだろう。

 二度と取り戻せることは無いだろう輝きを失った今の自分を、ほんの少し寂しいと感じたその時、肩に手がかかった。

「そろそろ行くか、忍」

「……ああ」

 互いに少しの手荷物を持ち、住み慣れたアパートに背を向ける。

 歩きながら、光流が穏やかな笑みを浮かべる。

「向こうに着いたら、一番最初に炬燵買おうぜ?」

「これから夏になろうっていうのにか?」

「いいじゃん、ずっと欲しかったんだ」

 ようやく借金を返し終えて、東京からずいぶん離れた田舎に、古くて小さな家を買った。

 冬の間中、光流はずっと、炬燵が欲しいと言っていた。忍は特に欲しいとは思わなかった。抱きしめられる温もりがあれば、それで充分だったから。

「まあ確かに、テーブルは必要だしな」

 でもその前に、準備しなければならないことはたくさんある。何せちゃんと住めるかどうかも怪しいくらいの古い家だ。

 それなのに、何故だろう。酷く胸が躍る。身体中が歓喜で満たされる。

 ようやくたどり着ける理想郷を前に、忍は満ち足りた想いで、散ってゆく桜の花を見上げる。
 そうだ。運命になど翻弄されてたまるものか。初めから定められたものなど、全て壊して捨ててしまえばいい。人は何度だって生まれ変われる。そのたび世界はより輝いて、散りゆく花ですら美しいと思えるのだから。

「あ……やべ、大家さんに鍵一個渡し忘れてた」

 不意に光流がポケットから取り出した鍵を前に苦い顔をした。

「ちょっと渡してくる。すぐ来るから待っててな」

 そう言って、光流は慌てた様子で出てきたばかりのアパートに向って走って行った。

 まったくうかつな奴だと忍は小さくため息をつく。

 突然、強い風が吹いて、桜の花びらが目の中に飛び込んできて、咄嗟に目を閉じる。

 風が止み、ゆっくり目を開いた忍の瞳に、まるでスローモーションのように、見覚えのある姿が目前に近づいてきた。

 

「やっと会えたな……お嬢ちゃん」

 

 獰猛な蛇の瞳が、残忍に光る。

 運命。

 その言葉が、再び忍の脳裏に鮮やかに浮かび上がる。

 忍は踵を返し、男から逃げるように足を踏み出した。

 腕を掴まれる。逃れようとする精一杯の足掻きが、次の瞬間、ピタリと止まった。

 

「言っただろ? 俺は、一度気に入ったオモチャは二度と手離さねぇ」

 

 男はニヤリと笑い、ゆっくりと忍から身を離すと、そのまま忍に背を向け歩き出す。

 忍はその場で、ガクリとアスファルトの上に膝をついた。

 抑えた腹部から流れ出す漆黒の血液が、衣服を朱に染めていく。

 

「みつ……る……」

 

 意識が霞む。目の前が見えなくなる。

 忍は懇親の力を振り絞り、立ち上がろうと膝をたてる。

 

 負けるものか。

 最初から定められた運命になど、どこまでも抗ってやる。

 どれだけ腕を捕まれ引き戻されようとも、何度だって背をそむけてやる。決められた楽園には二度と戻らない。

 そうして、自分の足で立って、歩いて、自分の求める楽園に行くんだ。

 

「……る……」

 

 再び膝をつき、地面の上に倒れ込んだ忍の瞳が、やがてうつろになっていく。

 桜の花びらが、肩に、髪に、舞い落ちる。

 

 蘇る、記憶。描いていた理想郷。

 

 春には桜の木の下で笑い合い、夏には水をかけあってじゃれ合って、秋には共に夕暮れの景色を眺め、冬には……。

 冬には……。

 

 行くんだ、必ず。

 あの、楽園へ。いつか過ごしたあの場所と同じ、優しくて暖かい、自分の居場所へ。

 

『先輩』

『忍先輩』

 

『忍』

 

 大丈夫。たどり着ける。

 永遠に枯れない花は、今もこの胸に咲き続けている。


 閉じた忍の瞼から一筋の涙が伝い、アスファルトの上にこぼれ落ちた。