欠落<前編>
ずいぶんと趣味の悪い部屋だ。 バスローブの胸元を握り締めながら、忍は思った。 ディープピンクのカバーがかけられた回転ベッドの淵に腰を下ろすと、わずかに鼓動の音が高まるのを感じるが、大丈夫だと自分に言い聞かせる。 こんなことは、何でもないことだ。 見慣れた笑顔が頭の中に浮かび上がる。けれど忍は咄嗟にその笑顔を頭の中から打ち消した。 迷いなど、覚悟を決めた時にとうに捨てたはずだ。 こんなことは、一度きりだ。 再び自分に言い聞かせ、忍は小さく息を吐き、乱れる鼓動を整えた。 カチャリとドアを開く音が耳に届く。反射的に少し肩を震わせるものの、忍は冷めた視線をバスルームの方向にむけた。 名前も知らない男は、髪を濡らしたまま、テーブルに置いてあったセブンスターに手をつける。ライターの着火音がしてすぐに、独特の匂いが鼻についた。いつかは慣れていたはずの匂いが、今はやけに不快感を煽るだけで、するならさっさとしろと心の中で悪態をつく。 そんな忍をよそに、男は煙草の煙を吐きながら、ねめまわすよう視線を忍に向ける。
やや長めの黒髪に端正な顔立ち、長身でバランスのとれた肉体。見目は決して悪くないが、嫌な目つきをする男だと忍は思った。 声も発さないまま、突然唇を塞がれた。口内に割り込んできた艶かしい舌の感覚よりも、煙草の匂いをより不快だと感じた。 こんな余計なことはしなくていい。口にはしないが視線でそう訴え、忍は男の胸を押し退ける。その意思の強い眼差しや媚びない仕草が余計に男の征服欲を煽ることに気付かないまま。 「……っ……」 再び片手で肩を捕まれ無造作にバスローブの紐を解かれる。白い胸が露になると同時に突起に歯をたてられ、忍は声にならない悲鳴をあげた。 激しい屈辱とすぐにでも逃げ出したい衝動をこらえ、肌触りの悪い安いシーツを握り締める。 「感じてんだろ? だったら声出せよ?」 強く胸を摘まれ、痛みの伴う愛撫と共に耳元に囁かれた途端に、相手を誤ったと思った。 加虐心を隠そうともしない男の瞳。けれど決して屈したりはしない。ギリ……と唇を噛み締めると、男は異様に楽しげに口の端を上げた。 左の膝裏に手をあてられ、グイと足を開かされる。身を捩る間もないうちに、男の唇が性器の先端に押し当てられた。 けれど慣れた愛撫の仕方は、今はただ余計なものでしかない。相変わらず唇を噛み締めながら、忍は男の頭を押し退ける。こんなことはしなくていい。いや、して欲しくなかった。 男は了承したように顔を上げると、忍の顎に指をかける。反射的に睨みつけると、男はまた嫌な笑みを浮かべた。 「客にむかって、ずいぶんな態度だな? え? 世間知らずのお嬢さん」 威圧的な声でそう言うと、男はバスローブを脱ぎ捨てた。虎の刺青が彫られた腕に、しかし忍は怯むことなく上体を起こし立ち上がろうとするが、男の腕に引き戻され、ベッドの上にうつ伏せに押さえつけらえる。腰を引き寄せられたと同時に、露にされた双丘の窪みに熱い塊が押し当てられた。 「ひ……ぁ……っ!!」 無理矢理に押し入られ、痛みに耐え切れず悲鳴をあげ逃れようとするが、男の力強い腕はそれを許さない。 捻じ込まれる熱い塊。覆いかぶさってくる男の体温。身体を真っ二つに引き裂かれるような激痛。 「さすがに……キツいな……」 男はそう言って舌打ちすると途中で行為を止め、半分まで埋めていた自身を引き抜き、代わりに潤滑油で滑った指を押し入れる。忍は痛みに顔を歪め、シーツを握る手に力を込めた。 内部で蠢く指が、奥の性感帯を刺激する。忍はまた悔しげに唇を噛み締めた。自然と反応を示す性器にも男の指が絡む。先端をこすられ、滑った感覚を楽しむようにクッと笑い声をあげた男に、屈辱をこらえきれないように忍は肩を震わせた。 「声、出せよ。お客様の命令だぜ?」 前も後ろもいいように嬲られるまま、忍は首を振って男の命に背く。悪足掻きでしかないとわかっていても、こんな下衆な男に決して屈したくはなかった。 不意に指が引き抜かれ、身体を反転させられたかと思うと、膝裏に手を当てられ足を大きく開かされる。羞恥心を感じる間もないほど性急に、男は自身を忍の内部に突き入れた。 「……く……っ……!」 続け様に貫かれ揺さぶられる。 何も考える余地もないほど激しく責めたてられ、ギシギシとベッドが音をたてる。忍の爪が男の腕に食い込む。噛み締めた唇から血が滲み、男がそこに唇を寄せるが、忍は咄嗟に顔を背けた。 瞳に滲んだ涙がこめかみに流れた刹那、引き抜かれ、熱い迸りが顔中に飛び散る。忍は忘我した瞳で、ぼやける壁をただ見つめた。 白濁にまみれ足を開かされたまま胸を上下させる忍を、男は満足し切った様子で眺めると、ベッドから降りて早々に衣服を身につける。 財布から数枚の万札を取り出し、それをベッドの上に放り投げた。 「困ったらまたいつでも連絡しな」 男は笑みを浮かべそう言うと、忍に背を向け部屋を去っていった。 約束よりも数枚多い万札と、男の偽名と連絡先が書かれた名詞。忍はゆるりと身を起こし、一枚の万札を手にとった直後、ぐしゃっと握りつぶした。 皺の寄った万札をよりいっそう強く握り締める。無駄な八つ当たりだと感じた。 たかが一枚の紙切れ。 それなのに、ビリビリに引き裂くことも出来ない。 古びたドアの鍵穴に差し込んだ鍵を回し、ドアノブを回して扉を開く。部屋の中は暗い。忍はほっと胸を撫で下ろした。 照明の紐に手を伸ばし引っ張ると、切れかけた蛍光灯がチカチカと鈍く光った後に、パッと明るく部屋を照らした。 コートをハンガーに引っ掛け、ちゃぶ台の脇に腰をおろす。暗い面持ちで一息ついた後、忍は胸ポケットにしまっていた財布を取り出した。札入れから数枚の万札を手にとる。一枚だけが皺くちゃになっているその金を、もう一度握りつぶしたい衝動にかられた。 けれど同じくらい安堵している自分に、またため息が漏れる。 これで、今月分の家賃はどうにか支払える。 たかが家賃5万8千円のアパート。六畳一間のこの狭い空間を守るためだけに支払い、失ったものは何だろうか。 握った拳に力を込めたその時、玄関からカチャリと扉の開く音がし、忍は咄嗟に財布の中に金をしまい、その財布を近くの棚の引き出しにしまった。 「ただいま」 「おかえり」 いつもと変わらない光流の声。一瞬胸がチクリと痛んだが、平静を装っていることを決して悟られないよう、自然な声を発する。 「なんだ、まだ起きてたのかよ?」 「ああ……飯、まだだろ?」 連日のバイト続きで、おそらく相当疲れているだろうに少しも顔には出さず、ただ明るい笑顔を向けてくる光流に、忍は薄く微笑んで立ち上がった。 台所にむかい、味噌汁の入った鍋が置かれたコンロの火をつけようとするが、なかなか火がつかない。何度かコンロのスイッチを回してようやくついた火を、何故だか酷く空虚な想いで見つめていると、背後から肩にふわりと重みがかかる。思わず忍は小さく肩を震わせた。しかしすぐに平静を取り戻す。大丈夫だ。痕は何も残していない。気付かれるはずがない。 「いつも……ごめんな、忍」 少し汗くさい、慣れた光流の匂いは、不思議なほど忍の心を落ち着かせた。 「何がだ?」 「こんな部屋で一人にばっかりさせてさ。もうすぐ休みとれっから……待っててな?」 優しい声。暖かい温もり。 先ほどまでの憂鬱が嘘のように、心が満たされていく。 ゆっくりと振り返ると、頬に唇が寄せられる。 すぐにでも柔らかい髪に指を絡ませたい衝動にかられた。けれど今日はとても、光流の前に素肌を晒す気にはなれない。 「悪いな。今日は少し、体調が優れなくて」 声のトーンを落とし、わざとやや疲れた表情を見せる。 「どうした? 大丈夫か?」 「……少し疲れてるだけだから、心配ない」 小さくそう言うと、温まった豆腐の味噌汁をおたまですくい、椀に盛る。 茶碗一杯の白飯と、もやしと挽肉を炒めたおかずが一品。それから胡瓜の浅漬け。 それらをいつものように旨そうに平らげる光流の姿を見つめるこの一時があれば、他には何も要らない。 もう、忘れよう。今夜は悪い夢を見ていただけだと思えばそれで良い。 何度も「大丈夫か?」と尋ねられ、何度も「大丈夫だ」と応える。 布団の中でも何度も尋ねられて、いいかげんしつこいと思いながらも、光流の気遣う声は酷く心地よかった。 柔らかいキスと、抱きしめられる温もり。 満たされる心のままに、光流の腕の中、忍は安らかに眠りに落ちていった。 日々の消耗品と数字が並ぶ赤字だらけのノートを見つめ、忍は幾度目になるかわからない小さな溜息を吐いた。 今月も、どう頑張ってもやはり足りない。赤字に目を向け、忍は苦悩の表情を浮かばせる。 せめてこの借金さえ無ければ……。 ついそう思ってしまった自分に嫌悪を感じ、忍はちゃぶ台に肘をつき額に手をあて頭を抱えた。今更、背負ってしまったものを嘆いたところで意味のないことだ。それよりも、いいかげん溜まった家賃を少しでも支払わなければ。 財布の中身を確認する。千円札が一枚と、百円玉が六枚。それからわずかな小銭。今日は夕刻から商店街のスーパーで卵の特売があるから、それを買って。思考を張り巡らせたその時、一枚の名刺が視界に飛び込んできて、忍の表情が更に苦悶に満ちた。 『困ったらまたいつでも連絡しな』 すぐに捨ててしまえなかった理由は、いまさら考えるまでもない。 惨めさ。卑しさ。脆弱さ。そんなものばかりが己を支配するのを感じながら、忍は名刺をくしゃりと握りつぶした。すぐ捨てようとゴミ箱にむかって手を振り上げた直後、その手がピタリと止まる。迷いを断ち切れない長い間の後、忍は振り上げた手を静かにおろした。手の中名刺を震える指先で広げる。 電話機のプッシュボタンを鳴らす音が、静かな部屋にやけに響いた。 相変わらず、嫌な目をする男だ。 ねめつけるような視線の中、バスルームにむかおうと足を踏み出した瞬間、腕を掴まれ抱き寄せられる。頭一つぶん長身の男に顎を捕らえられ上をむかされ、唇に唇が覆いかぶさる。絡み付いてくる舌を押し退け顔を背けるが、男は抱きしめる力を緩めようとはしなかった。 「……シャワーくらい浴びさせろ」 「させて下さい、だろ? 相変わらず、客への口の効き方がなってねぇな、お嬢ちゃん」 低い声は完全に蔑みとからかいの意を含めている。忍は男を切れ長の瞳で睨みつけた。 再び男は忍の顎を捕らえ上を向かせる。キツい視線が男を見据える。とてもこれから身売りをしようという娼婦には見えない、誇り高くプライドに満ちた瞳。いったいどこの高貴なお姫様かと、男は心の中で嘲笑した。 突然、男は乱暴に忍の髪を掴み、力任せに肩を押して床の上に跪かせる。 右手で忍の髪を掴んだまま、左手でズボンのベルトを外し猛ったものを露にすると、男は興奮を隠せない目の色でそれを忍の口元に押し付けた。 「さっさと咥えろ。今日ははずんでやっから」 半ば無理矢理に、男は忍の咥内に性器を捻じ込む。とても収まりきらないものを喉の奥に突き立てられ、忍は苦痛に眉を寄せた。 「……ん……ぐ……っ……」 何度も前後に揺らされ、突如として引き抜かれる。背けようとした顔を上向かされ、液を浴びせられ反射的に目を閉じた。 殺してやる。 欲情を露に自分を見下ろす男を前に、何度も心でそう叫ぶ。けれど思うことしか出来ない。それ相応の見返りは確かに受け取っているのだから。 叫ぶ代わりに視線で訴えると、男はニヤリと笑みを浮かべ、忍の腕を掴み立ち上がらせる。そのまま勢い良くベッドの上に忍の身体を放った。覆いかぶさりシャツに手をかけ乱暴に引き千切る。ボタンが床の上にはじけ飛ぶ。素早くズボンのベルトを引き抜き、下着ごとズボンを引き摺り下ろし、衣類をすべてまとめて剥ぎ取る。露になった細い足首に手をかけ、いやらしく足を開かせると、ベッドの上に置いてあった男根を象った黒いバイヴレーションを見せ付けるように忍の目前に晒した。途端に忍の表情が恐怖で引きつる。 「いや……いやだ……っ!!」 忍は激しく身を捩り逃れようとするが、男は抵抗をあっさり捻じ伏せる。忍の両手首をベッドの柵にかけていた手錠で拘束し、再び足を大きく開かせた。ぬるりとしたローションの冷たい感覚に、忍がビクリと身体を震わせ、恐怖で息が荒くなる。 少しも気遣わないまま、男は忍の内部にバイヴレーションを押し込んだ。全て埋め込み、屈辱に歪み涙を見せる忍の表情を心底楽しんでいるように、舌で乾いた唇を舐める。 「客の楽しませ方ってやつ、教えてやるよ」 威圧的な声で男が言ったと同時に、ウィン……と機械音が鳴り響いた。ビクンと大きく忍の身体が震える。 「あ……や……、やめて……くれ……っ!!」 内部で蠢く異様な感覚に、忍はぎゅっと目を閉じて首を横に振った。 しかし男はやめるどころか、バイヴに手をかけ前後に激しく動かし始める。 「……ん……っ、ぁ…………、っ……」 乳首に生暖かい舌が這う。奥の性感帯を絶え間なく刺激され、淫らに反応する自身に嫌悪ばかりを感じながらもただひたすら陵辱に耐えるより他は無く、せめてと思って精一杯声を押し殺した。行為は残虐なまでに繰り返される。感じたくなどないのに、絶頂の波が押し寄せる。嫌だ。嫌だ。嫌だ。心の中で何度も叫ぶ。 「……っ……あ……!」 果てる瞬間、こらえきれず声があがった。 男は忍の放った液で濡れた指を見せ付けるかのように、忍の目前で粘ついた液に糸を引かせる。 粗い息を吐きながら肩を上下させる忍の瞳からこめかみに、屈辱の涙が伝った。 徐々に荒くなっていく男の行為に比例して、札の数も増えていく。 札を投げ捨てられた後の、激しい屈辱感と惨めさ。紙切れに描かれた人物が悪魔のように映る瞬間だけは、このまま死んでしまえればと何度も本気で思った。 戻りたい。 身を起こす気にすらなれないまま、ぐしゃりと金を握りつぶす忍の瞳から、涙が溢れる。 どうしてこんな事になってしまったのだろう。 光流と2人暮らし始めた頃は、ただ幸福で。毎日は怖いくらいに全てが満たされていて。 永遠にこんな日が続くことを信じようと思えたあの日々が、今はあまりに遠すぎる。 全ては、報いなのだろうか。 家を捨て、親を捨て、全てに背いて逆らって、己の幸福だけを追い求めた罪。 「……つ……る……っ」 戻りたい。 まるで死の淵にでも立たされているかのように、走馬灯のように甦る記憶。 211号室のプレート。後輩達の笑い声。春には満開の櫻。初夏の木々の香り。校内中を走り回った秋。肩を並べ座る炬燵の中で、寒さなど微塵も感じなかったあの雪の日。 戻りたい。 今はただ、あの頃に。 まだ何をも知らずにいた、無邪気な子供だった、あの頃に。 今夜はやけに冷える。 食器を洗い流す水が凶器のように思えるほどに冷たい。 出来る限り素早く洗い物を終えると、玄関から扉の開く音がした。 「ただいま」 「おかえり」 いつもよりずいぶんと早い帰宅。 外はよほど寒かったのだろう。鼻の頭を赤くして帰ってきた光流をすぐにでも暖めてやりたいと思ったが、小さなストーブを使う電気代すら惜しいと思う自分に嫌気がさす。せめてと思って頬に手を寄せると、光流もまた、一瞬酷く悲しげな表情をした。 手を握り締められたと同時に抱き寄せられる。 「相変わらず、体温低いな。少しはあっためてもらおうと思ったのに」 「悪かったな、暖房器具になれなくて」 からかうような光流の口調に、忍もまた可笑しいように低く笑った。 抱き合ったまま、無言の時間が流れる。長い空白の後、光流が先に口を開いた。 「……後悔、してねぇ?」 苦悶に満ちた声。抱きしめられるまま、忍は切なげに睫毛を伏せた。 「馬鹿なことを言うな」 小さく囁くと、光流の腕に更に力が篭る。 静かに離れ互いの気持ちを確認し合うように見つめ合うと、光流の冷えた指先がそっと忍の頬を撫でた。 優しく、時に激しい抱擁。呆れるほど繰り返される口付け。自分を呼ぶ声。忍。忍。好きだよ。しがみつき息を乱しながら、このまま一つに溶け合えてしまえたらと何度も思った。もっと気が遠くなるほどおかしくして欲しいと願った。 永遠に、この夢が覚めてしまわないように。 もう終わりにしなければ。
こんな嘘なんて、いつまでも隠し通せるはずがない。 それなのに、何故だろう。この体中にまとわりつく、妙な不安感は。 大丈夫。最後に会ったのはもうニ週間も前のことだ。あの男には名前すら知られていない。たった数回切りの取引でしかない。自分もまた、あの男の素性も本当の名前も知らない。連絡先の名刺もビリビリに破り捨てた。もう全ては終わったことなのだ。 そう思うのに、嫌悪感は拭い去れない。きっとあの男の瞳が瞼に焼き付いて離れないせいだ。あの、まるで蛇のように絡みついてくる嫌な視線。 ゾクリと鳥肌がたつような嫌悪感に襲われ、忘れるためにとにかく動こうと腰をあげたその時だった。 玄関からチャイムが鳴り響く。時刻はもう真夜中の二十二時過ぎ。
光流が例のごとく鍵を忘れて出かけて行ったのだろう。思いながら立ち上がり、玄関に向う。 咄嗟に閉じようとするが、足を挟まれ阻止される。 蛇のような視線が、忍を残忍に見据えた。 「貴様……っ!!」 「久しぶりだな、最近連絡よこさねぇから心配してたんだぜ?」 言うなり、男はずけずけと部屋の中に土足であがりこみ、忍の腰を掴み抱き寄せる。不躾に近づいてくる唇から必死で顔を背け、忍は抵抗を試みた。しかし抵抗は儚く畳の上に押し倒される。 「さんざ人に貢がせておいて、そう簡単に逃げられると思ったのか?」 「……っ……代償は……支払ったはずだ……っ」 「ばーか。甘ぇよ。俺は一度気に入ったオモチャをそう簡単に手離す気はねぇ」
男の手がシャツの裾から潜り込み、胸を強く摘む。蛇のような瞳が近づいてきて、唇を塞がれた。 「相変わらず威勢のいいお嬢ちゃんだな」 「は……なせ……っ!」 「嫌だね」
うつぶせに押さえつけられ、後ろ手に手首をまとめて握られる。凄まじい激痛に眉を寄せると、男は素早く忍の手首を自分のネクタイで縛り上げた。 逃げられない。そう理解した刹那、忍は男に懇願の目を向ける。 「わかった……から、外に……っ」
言いかけた忍の声をまるきり無視して、男は忍の下半身の衣服を一気にずらし双丘を露にする。硬く張り詰めたものを太股に感じ、忍は恐怖と絶望に息を詰まらせた。 「あ……ぁ……っ……」 早く。早く。早く。 苛まれる痛みよりも、時計の針の音がやけに頭の中に響いて恐怖心を煽るほんの数分のはずの時間が、まるで数時間にも思えた。
ぐったりと力を無くす忍から身を離し、男は満足し切った様子で衣服を整える。 「ほら、報酬だ」 男は忍の手首の戒めを解き、ネクタイをポケットに無造作にしまい込むと立ち上がる。財布から十枚以上の万札を取り出し、畳の上に放り投げた。 「またな」
絡みつく嫌な目つきが、これで終わったわけではないと冷徹に光る。去っていく男の背を見送った後、忍はのろのろと傷ついた身体を起こした。痛みや屈辱よりも、今は安堵の方が勝った。とにかく早くシャワーを浴びて。そう思いながら衣服を整え、畳に散らばった金を握り締めたその時、玄関から鍵の開く音が鳴った。ドクン、と大きく心臓が脈打った。 静かな部屋に、ずいぶんと長い時間、沈黙が流れる。 ちゃぶ台を前に向かい合わせに胡坐をかいた光流が、台の上に肘をついて額を抱えた。その表情は苦悩に満ちている。忍は無言のまま、せめて心の動揺を知られないよう必死で冷静さを取り繕う。 「……んで……こんなこと……っ」 苦しげな光流の声が、酷く忍の心を切り裂いた。 言い訳など仕様も無かった。不自然すぎる畳の上に散らばった金。赤く腫れた手首。男の精液にまみれた身体中の無残な跡。 「……仕方……なかった。こうでもしないと、このアパートにはいられなくなる……」 もはやどんな言い逃れも出来ないと悟った忍は、わずかに震える声を発した。刹那、光流がバン!とちゃぶ台を叩き、忍はビクッと肩を震わせる。 「金なら俺が何とかするって言っただろうがっ!!」 荒い声に一瞬の恐怖を感じながらも、忍は責め立てられるような光流の言い様に、反発心を覚えずにはいられなかった。 「何とか出来てないから、こうするしかなかったんだ」 思わず睨みつけ声を荒げるが、光流は怒りを隠さない。その軽蔑にも似た眼差しになおさら苛立ちを覚え、忍は理性を抑えきれないままに言葉を続けた。 「実際、助かっただろう? おまえが一ヶ月寝ないで稼ぐ金を、たった一度きりで手に入れら れるものなら安いものだと思わないか?」 そうだ。安いものだ。忍は思った。これまでたった数円のためにチラシと睨み合い、たった数十円を節約するためにこらえてきた不自由さ惨めさ。ここにいられなくなるかもしれない不安感。先の見えない生活への絶望感。頑張っても頑張っても訪れない平穏。堕ちていくばかりの日々。それらに比べたら、たった数分、自分が屈辱に耐えれば良いだけのことだ。いったい何が悪かったというのか。 「何回……寝たんだ?」 震える声で尋ねられる。忍は光流の怒りを嘲笑した。 「五回……いや、今日で六回目だったかな。たった六回で、いくら稼げたと思う? 少なくともおまえが一ヶ月稼いでくる十倍は……」 「……っざけんな!!!」 光流が再びちゃぶ台を派手に叩き立ち上がった。怒りと絶望に満ちた瞳。 だがそれが何だと言うのだ。おまえに何がわかる。いったいどんな想いで自分があんな下衆な男の前に身を投げ出していたか。舌を噛み切りたくなるほどの屈辱に耐え続けていたのか。それもこれも全て、光流との生活を守りたかったからだ。少しでも光流に楽をさせてやりたかったからだ。それなのになぜ責められなければならない。忍もまた酷く悔しげに光流を睨みつけた。 「たかが数回、身体を売るくらいのことが何だって言うんだ?」 忍の冷徹な声に、光流は握り締めた拳を震わせる。 「もううんざりだ、おまえの奇麗事に付き合わされるのは。愛だの情だのという奇麗事で生きていけるほど、世の中は甘くない。時には割り切る事だって必要なんだ」 そうだ、あのくらいの行為はなんでもない。ただ寝転んでほんの一時間程度、身を任せていればそれで済むだけの事だ。それで一日中あくせく働いて得る報酬の何倍も得られるなら、なんて安いものだったろう。 「本当に……何でもなかったのか……?」 ふと光流が震える声を発した。忍は相変わらず冷めた視線を光流に向ける。光流の手が忍の胸倉を掴み上げた。 「本当に何でもなかったのかよ!!!」 声を荒げられた瞬間、忍の中の何かが爆発した。光流の手を払いのけ、腰をあげ膝立ちになる。 「そうだ!」 激情のままに、忍は声を荒げた。 「こんなことは、何でもない! どうせ一度は汚れた身体だ、二度も三度も同じこと……!!」 抗う心のままに発した声を、次の瞬間に遮られた。 畳の上に叩きつけられたかと思うと、再び胸倉を掴まれ引き起こされ、今度は反対の頬を打たれる。鈍い音と鼓膜が破れるような激痛。身体が反射的に痛みから逃げようとするが、手首を捕らえられる。再び光流が手を振り上げ、次に襲ってくる痛みに一瞬怯えた忍に、しかし襲い来るものは何もなかった。思わず閉じた瞳を恐る恐る開く。次の瞬間、忍の目がハッと見開かれた。 「この……バカ……」 振り上げた手を降ろした光流の目に、涙が溢れていた。 苦しくて、苦しくて、たまらないように。 その涙を拭いもせず、光流は強く忍の身体を抱きしめる。 「バカやろう……っ!!!」 強く抱きしめられた瞬間、忍の瞳からもまた、抑え切れない激情と共に涙が溢れ出した。 どうしようもない後悔と痛みばかりが胸を引き裂く。 光流の背に腕を回し、しがみつくように抱きつくと、よりいっそう強く抱きしめられた。 「光流……っ」 震える肩。こらえきれない涙と激情のままに、忍はただ必死で光流にしがみついた。 離さないでくれと、何度も叫んだ。そうでなければ、心がバラバラに崩れていってしまいそうだった。 柔らかい髪。優しい匂い。力強い腕。そうだ。ここが自分の居場所だ。どうしても失いたくなくて、必死で守ろうとして、そうして投げ出して捨てたものが、何よりも守りたかったものを一番に傷つけていた。自分の愚かさ、浅はかさが、どうしようもないほど忍の心をズタズタに切り裂く。 「ごめん……な、忍……。ずっと……気づけなくて……」 まだわずかに痛みの残る頬を包み込まれ、優しく口付けられる。涙の混じった口付けは、ただ切なくて悲しくて、忍はただ子供みたいに首を振ることしか出来なかった。「ごめん」ともう一度囁かれて、抱きしめられる。どうして光流が謝るんだ。どうして。そう言いたかったのに、溢れてくる涙のせいで想いは言葉にできず、ただ首を振ることしかできなかった。 |
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