mirror<後編>


「おはよーっ」
 企画部室の扉を開くなり、大声でそう言い放ったあたしに、当然ながらみんなの視線は冷たい。
 寒い……はっきり言って寒すぎる、この空気。
 いやでも、負けないって決めたんだ。頑張れ自分!!!
 自分を奮いたたせながら、自分のデスクにカバンを置こうとして、あたしは愕然とした。
デスクの上に大切な書類がビリビリに破かれて置いてあったからだ。
あたしは破かれた書類をぐしゃっと力を込めて握り締める。同時に携帯のメール着信音が鳴った。
『ご愁傷様』
 一言だけのメールを見た途端、あたしの血管がブチッと切れる音がした。数人でクスクスと笑い合う女子社員達に、あたしは早足で歩み寄る。そして中心にいた斎木の手にしていた携帯を奪いとると、力のままにへし折って、壊れた携帯を斎木に突き返した。
「今度こんなくだらねぇ真似したら、あんたもこの携帯と同じ目に合わせてやる」
 そして怒りのままに斎木を睨みつけながらそう言うと、途端に彼女達が脅えた目をしてあたしから視線を逸らす。
「買いかえたら領収書持ってきな。きっちり弁償してやっから」
 あたしは斎木に乱暴に携帯を突き返して、彼女達に背を向けて自分のデスクに戻った。破かれた書類を集めていると、不意に横から手が伸びてくる。
「斎木さん、このこと、僕から主任に報告させてもらうよ」
 破られた書類を手に厳しい声色でそう言ったのは、なんとオールバック眼鏡だった。
「プロジェクトチームのリーダーは外されると思いたまえ」
 オールバック眼鏡の言葉に、斎木がショックを隠し切れない表情をする。あたしは呆然と、オールバック眼鏡を見据えた。
「勘違いするな。僕はこういう下賎な真似は許せないだけだ」
 オールバック眼鏡は相変わらず素っ気無い態度でそう言うと、あたしに背を向けて自分のデスクに戻っていく。
 あたしはといえば、感激のあまり、目頭に涙が滲んできた。
 オールバック眼鏡!! これまで根暗なインテリとしか思ってなかったけど、実はすげー良い奴だったんだな!! 見直したぜ!!!
 やっぱ世の中、そう悪くは出来ていない。
 あたしはそう思いながら、ちょっと浮かれ気分で椅子に腰を降ろした。
 
 
 その翌日、オールバック眼鏡の言ったとおり、斎木はプロジェクトチームのリーダーから外された。
 これまた当然ながら、その怒りの矛先はあたしに向かってくるわけで。
 食堂でカツ丼を食らっているあたしの目の前に、斎木を中心に企画部の女性社員達がずらっと並ぶ。
「あんた……いい気になってんじゃないわよ」
「誰もなってねーっつの。おまえが勝手に自爆しただけだろ?」
 つーか、いいかげんレベル低すぎることに気づけ。あくまで無視しようと立ち上がったその時。
「やめて下さい!!」
 食堂に大きな声が鳴り響いた。同時に、斎木の前に怒りを露にした也美が立ちはだかる。
「ミチル先輩が何をしたって言うんですか!? 妬むのもいいかげんにして下さい!!」
「な、なによあんた……! だいたい、そいつが悪いんじゃない! 人の男奪ったりするから……!」
「ミチル先輩はそんなことしません!!」
 也美の威勢の良い声に、やや怯んだ風に斎木が言い返すと、也美はますます強い口調で言い返す。
「絶対絶対、絶対! そんなことしません!!!」
 そのあまりの迫力に、斎木がたじろいだ表情を見せる。
「そーだよ、ミチル先輩がそんなことするはずないじゃん」
 するとそこへ、唯が現れて也美の横に立った。
「だいたいミチル先輩に、そんな器用な真似できるはずないでしょ? 初恋もまだって人だよ? 男と女の駆け引きなんてできるわけ無い無い」
 唯は呆れ顔でそんなことを言い放つ。
 ちょっ……待てコラ。あたしが初恋もまだって……いや確かにまだだけど、何であんたがそれを知っていて、なおかつそんなバカにされなきゃなんないわけ?
 しかし斎木は何故か言い返す言葉もないようで、余裕の表情をした唯に悔しげな視線を向け、くるっと背を向けてその場から立ち去ろうとする。食堂を出て行こうとしたその時、今入ってきたシノブとすれ違い様、斎木の表情が一変して青くなった。「斎木さんっ、大丈夫!?」と周りの友人達に声をかけられる。
「あんた……何言ったの?」
 あたしに歩み寄ってきたシノブに尋ねると、シノブは実に楽しそうに笑っただけだった。
 っとに、こいつらは……。
 呆れながらも、あたしの心は、暖かさで満ち溢れて。
 なおさら頑張らなきゃって、心から思った。
 
 
 その日から、あたしへの嫌がらせはピタリと止んで、プロジェクトチームのリーダーもあたしに任命されて、あたしは目の前で造り笑いを浮かべる手塚に目をすわらせる。
「その最初から全部わかってたって顔、やめろ」
「この程度でへこたれる部下なら、必要ないからな」
 余裕の態度で言う手塚に、あたしはますます肩を震わせた。ようするに今までずっと、あたしを試してたってわけだ。ほんと、嫌な奴。
「それはそうと池田、次のプロジェクトまでもうあまり時間がない。今夜はさっそく取引先の社長と食事だ。準備は……俺がする」
 あたしの全身を見て、どこか呆れた風に手塚は言った。
 
 
 いや確かに、頭もぼさぼさだったし、スーツもちゃんとアイロンかけてなかったし、ストッキングも伝線すれすれだったけど。
「こんなもん、買ってもらえません」
「勘違いするな、仕事のためだ」
 会社を出るなり、高級ブランド店に足を運んでン十万単位のスーツを試着させる手塚に、あたしは返す言葉もなく、結局上から下まで全部揃えてもらって、取引先の社長と約束をしているフランス料理店に足を運ぶ。
「君は黙って俺の横に座っていればいい。言っておくが、一言でも余計なことを口にしたら即効で企画から外す」
「へぇへぇ、わかりやした。お上品に横に座ってればいいんですね」
 あたしはお人形かっつーの。
 だいたいこんな高級ブランドスーツも慣れない靴も化粧も、気色悪い以外の何物でもないわ。
 
 
 と、自分では思うものの。
 目の前に座る社長は、あたしにあからさまに好意全開の視線を向けてくる。あたしはひたすら気色悪さばかりを覚えながらも、必死で造り笑いを社長に向ける。けれど横に並ぶ手塚の纏うオーラは凄まじく冷たいものだった。
 だって……だって、フランス料理とかって、こんなお上品な食事とかって、どうにも苦手なんだよ!!! 慣れてないんだし、マナー悪いのは仕方ねーじゃん!!! てめーみたいなボンボンと一緒にすんなっ!!!
「それにしても、こんな綺麗な人と一緒に仕事が出来るなんて、年甲斐もなく張り切ってしまうな。どうだい、良かったら今夜、ゆっくり仕事の話でも……」
 そう言って、社長があたしの手に自分の手をそっと重ねてきたその瞬間、あたしは思わず拳を振り上げていた。
 直後、取引がどうなったかどうかは、あえて口にしたくもない。
 
 
 さ、寒い……寒すぎる……。
 人ってここまで強烈な冷気を放てるんだ……。
「す……すみませんでした」
 さすがに反省して、あたしは車の中で、ひたすら無言の手塚に向かって本気で謝罪した。
「……もういい。君を連れて行った俺の判断が間違いだった」
 完全なる諦めの言葉と表情。さすがに凹まざるをえない。
 なんたって社に与えた損害は数千万だもんな……これでクビにならない方がおかしいわけで。
「でもあたし……あんな男に身売りするような真似できませんから!」
 だからといって、媚を売るような真似は死んでもごめんだ。クビは覚悟でそう言うと、手塚はあからさまに蔑んだ目であたしを見てくる。思わずあたしは怯んだ。
「誰も身売りをしろなんて言っていない。うまくかわす方法などいくらでもあるだろう。あの程度の男を扱えないようじゃ、今後も君に大事な仕事は任せられんな」
 おもいっきり厳しい口調と言葉に、あたしはただうなだれる事しかできなかった。
 
 
 結局、当分大事な企画からは外されるというお咎めのみで済んだものの、あたしの心は鉛より重かった。
 くそ……っ、こんなんじゃ、一生かかってもあの男には勝てねぇ!!!
 つーか、あの男が全てにおいて完璧すぎんだっ!! 頭は切れるわ要領良いわ躾完璧のお坊ちゃんだわ、わざわざ仕事で稼がなくたって金は腐るほど持ってるわで、超一般庶民、一般社員のあたしに付け入る隙なんざ一つもありゃしねぇ!!!
「ミチル」
 机に突っ伏しながらあの男へどう報復するべきか悩みに悩んでいると、不意に声をかけられる。顔をあげると、そこには仏頂面の斎木の姿があった。
 ……あれ、今、ミチルって呼んだ? 久々に聞いた気がする。
 思わず目を丸くすると、突然、目の前に領収書を突きつけられる。
「ああ……携帯、さっそく買ったんだ」
 そりゃ良かった。良かったけど、なにも最新機種買うことないんじゃね?
 今月、ただでさえ財布の中身ピンチなんだけど。
 とはいえ壊したものを弁償しないわけにはいかないので、おもいっきり凹んでいると、今度は紙袋を突きつけられた。
「なに、これ?」
 紙袋を受け取って中身を見ると、そこには真新しいスーツが入っていた。
「……悪かったわよ。クリーニング代のかわりだから、それ」
 斎木はぶっきらぼうにそう言うと、フンとあたしから顔を背ける。
「あんたもさっさと、携帯代払ってよね!」
 そして乱暴にそう言い放つと、自分のデスクに足を向けた。
 あたしはぽりぽりと頭を掻いてから、なんだか急に可笑しくなって、思わず笑ってしまった。
 
 
 ちゃんと、決着つけなくちゃ。
「余計なことして、すみませんでした!!」
 女子トイレに二人きりなのをしっかり確認してから、あたしは楠野さんに頭を下げた。楠野さんはあたしから視線を逸らしたまま、酷く辛そうな表情をする。
「でもあたし、間違ったことしたとは思ってません。先輩のこと……本当に、好きだから」
 正直な思いを打ち明けると、途端に楠野さんの目から涙がこぼれる。
「……ごめんなさい……」
 小さくそう言って泣き続ける楠野さんを、あたしはただ黙って見つめた。
 そして、心の底から、申し訳ないと思った。
 あたしが余計なことを言わなければ、いつか彼女が自分自身で決着をつけられていたかもしれないのに。
 傷つくことも踏み出すことも出来ないまま一方的に終わらせられて、どこにも行き場のない悲しみや怒りをあたしにぶつけてきた彼女が、今もまだどこにぶつけていいかわからない苦しみを抱えていることに、今やっと気づいた。
 最初から、放っておけば良かったんだ。
 どんなに彼女が苦しんだって悲しんだって、それは、いつか必ず彼女の糧になるのだから。
 彼女の可能性を、立ち直れるだけの強さがある事を、ちゃんと信じていなかったんだ、あたし。
 後悔ばかりを胸に、あたしは彼女が泣き止むまで、ただ待ち続けた。
 
 
 ファイト、いっぱぁぁぁつ!!!!!
「ぐ……ぁぁぁぁぁっ!!!」
 よっしゃラスト100回目!!!
ダンベルを気合入れて持ち上げた後、周囲からパチパチと拍手喝さいが鳴り響く。
「さすがだねぇ、ミチルちゃん。お疲れさん」
「お疲れ~」
 ジム仲間のおっちゃんと挨拶を交わしてからジムスタジオから出て、駅に向かって歩いていると、またしても嫌なものと鉢合わせした。
 せっかく汗流すだけ流してスッキリした後なのに、最悪だ。
「やあ、良かったら一緒に食事でもどうだい?」
「……結構です。お邪魔ですから」
 だからその造り笑顔やめろっつの。見るたび鳥肌たつわ。
「お邪魔なのはあたしみたいだから、帰るわね、忍くん」
「ま……待って下さい!!」
 何故かその場から離れようとする黒髪の美女を、あたしは思わず引き止めていた。
 
 
 で、なんでこんなことになってんだ?
 誰がどう見たって、お邪魔なのはあたしの方だろーが。
「ミチルさんのこと、忍くんから話は聞いてるわ」
「はあ……」
 ワインのグラス片手に、あたしは目の前の美女に遠慮がちに応えた。
「忍くんの言ってたとおり、元気で可愛い子ね。あたしが好きなタイプだわ」
 美女、倫子さんの思わぬセリフに、思いっきりむせていると、かかってきた電話のために席をはずしていた手塚が戻ってきた。
「何の話してたの?」
「秘密」
 なにやら視線と視線で会話する二人に、あたしは今すぐこの場を去りたい衝動にかられる。
けれどあたしが立ち上がるより先に、倫子さんが立ち上がった。
「じゃああたし、そろそろ帰るわね。あとは二人でごゆっくり」
「うん。またね、倫子ちゃん」
「さよなら、ミチルさん」
「あ……どーも……」
 倫子さんは手塚には目もくれず、あたしには優しい笑顔を向け、さっさと店を出て行ってしまった。
 なんだろう……なに考えてんだか、さっぱり分からない人だ。
「恋人なんじゃないの?」
「……だったら良かったけどな」
 なにやら意味ありげなセリフ。ますます苛立ちを感じて、あたしは椅子から立ち上がった。刹那、手塚に手首を掴まれる。
「なに?」
「少し付き合ってくれないか」
 どこかいつもと違う様子で、手塚が言った。
 
 
 だから、あたしはお人形じゃねーっつの。
「よくお似合いですわ」
 真っ白なワンピースを着たあたしに、店員がにっこりと微笑みかけてくる。
「ああ……やっぱり、よく似合ってる」
 なんだか酷く嬉しそうに、あたしを見て手塚が緩く微笑む。いつもの造り笑いとは違っていて、妙に居心地が悪い気分で、履き慣れないヒールでぎこちなく歩くあたしに、手塚は腕を貸してきた。けれどあたしは無視して歩き続ける。
「女をペット扱いすんな」
「普通は喜ぶものだが」
「服一着で手に入る女が、本気であんたを好きだと思ってんの?」
「まさか」
 容赦なく挑発的な言葉を投げつけると、手塚は妙に落ち着いた様子で応えてくる。
「わかってるのに、何でこんな空しいこと続けんだよ?」
 あたしはピタリと立ち止まって、鋭い視線を手塚に向けた。
「空しいことでも、一時の慰めくらいにはなるだろう?」
「バカじゃねぇの。てめぇの自己満足のために利用される女の身にもなってみろ」
「利用しているのはお互い様だろう?」
「違う」
 あたしはきっぱりと言い返した。
「ちょっとそこで待ってろ!!」
 そしてビシッとそう言うと、近くのコンビニに足を踏み入れ、トイレを借りて今着ていた服も靴も全部脱ぎ捨てて、紙袋に入っていた元の服に着替えてコンビニを出ると、待っていた手塚に紙袋に詰め込んだ服と靴を突き返した。
「あんたが利用しようとしてるから、そう見えるだけだ。誰もあんたのことを、利用したりしてない」
 あたしは手塚の目をまっすぐに見据える。
「しっかり目ぇ開いて、現実を見つめろ!! このバカ男!!」
 きっぱりそう言うと、あたしは手塚に背を向けてその場から走り出した。
 バカ野郎。
 いいかげん、気づけよ。
 あんたのことちゃんと見てる奴がいるって事に。
 あんたが本当は優しい奴だって、もうとっくに知ってる奴が、すぐ近くにいるって事に。
悔しさばかりを胸に、疲れて考えられなくなるまで、ただ走り続けた。
 
 
 翌日も、手塚は何一つ変わることなく、偽りの笑顔ばかり張り巡らせて、ただ淡々と目の前の仕事をこなしていく。
 胸の内のもやもやが収まらないままに、いつものメンバーで久しぶりに行きつけの居酒屋に足を向けると、なんの因果かいつもの男連中と鉢合わせして、結局8人で飲んだくれて居酒屋を出てカラオケボックスにむかう。
 喉が枯れるまで歌ってると、蓮川とシノブが「先に失礼します」と言って個室を出ていった。
「すっかりラブラブだね~、あの二人」
「羨ましいこって」
 如月と池田が僻み全開で呟いた。
 あたしはといえば、もう前みたいに胸が痛むことはないのだけれど、やっぱり気分は晴れないままで。
 たぶん、目の前の男のせいだと、わかっているのに認めようとしない自分に、ただ苛立つばかりだった。
 
 
 翌朝、相変わらず重い気分のままに出社するため通勤路を歩いていると、目の前に見覚えのある姿が映った。
「池田……」
声をかけようとした瞬間、あたしはぴたりと足を止めた。
「光流」
 あたしより先に声をかけた男に、池田が気づいて顔を振る。
 手塚が歩み寄ったと同時に、二人なにか言葉をかけあって、それから無邪気に笑い合った。刹那、どうしてか、あたしの胸が酷く痛んだ。
 あんな手塚の顔は、初めて見たからかもしれない。
 
 
 午後、新しいプロジェクトのため他社にむかう途中の車の中、あたしは小さく口を開いた。
「あんたさ……池田には、ちゃんと笑うんだね」
 低い声で尋ねる。手塚は何も応えない。
「あーいう顔、普段から見せてみろよ。そうしたら、もっといろんなもん見えてくるんじゃねぇの?」
「……余計なお世話だ」
 それは完全な拒絶の言葉だった。
 あたしはどうしようもなく胸が痛んで。
 ただ泣きたくなるのをこらえるのが精一杯だった。
 
 
 やっと、気づいた。
 あたし……ずっと、もうずっと長いこと、あいつのこと、好きだったんだ。 どうしようもなく反発する一方で、どうしようもなく惹かれていた。 だから、悔しくて悲しくて苦しくて。少しも自分の心を見せてくれないあいつに、苛立つばかりで。
 まるで過去の自分を見ているようで、あたしは改めて、也美や唯、そして誰よりもシノブに、申し訳ないと思った。
 あたしも、あいつと一緒だった。誰にも心を開けず、誰にも心を許せず、狭い檻の中でただ一人で足掻いていただけだった。
 本当に信じているなら、愛しているなら、誰のこともあんな風に傷つけることはなかったのに。
 だから、お願いだから。
 あんたも早く、気づいて。
 今も檻の中でもがいてるなら、早くそこから飛び出して。
(あたしが……)
 教えてやれることが、出来るのかな。
 そこから連れ出すことが、出来る?
(連れ出してみせる)
 鏡の向こうのあたしに、あたしは強い視線を向けた。
 自分の気持ちと向き合って。自分の瞳をしっかりと見つめて。
 前に進んでいかなきゃ、何も始まらない。
 
 
「手塚」
「何だ?」
休憩時間、あたしは手塚を人気のない場所に連れ込み、告白する決意をしたものの。
「あたし……、あたし……っ」
 いざとなると途端に心臓がばくばくと激しく動いて、うまく言葉にできない。
「あたし……あんたのこと……・っ」
 やたらと怪訝そうな顔をする手塚に、あと一歩で告白というところで。
「忍」
 突然背後から声がして、あたしは慌てて言葉を止めた。振り返ると、池田が歩み寄ってくる。
「おまえら何やってんの? こんなとこで」
 いつもの能天気な口調で声をかけてくる池田を、あたしは思わず睨みつける。
「べ、別に……っ、関係ねーよ……っ!」
 自分でも何言ってんだと思いながら、あたしはその場から歩き出して二人から離れた。
くそ……っ、あと一息だったのに、池田の野郎!!!
 自分の不甲斐なさを人のせいにして、あたしはただひたすら肩を落とすばかりだった。
 
 
 改めて、あたしって恋愛経験ゼロなんだと思い知らされる。
 たかが告白一つに何をこんなに戸惑ってるんだか。何度チャレンジしても空回りの自分に嫌気がさして、深くため息をつくと、斎木が怪訝そうにあたしを見つめてくる。
「いいかげん、そのため息の嵐やめてくんない?」
 うんざりしたように斎木が言った。
「どうしたのミチル? まるで恋の悩みでも抱えてるみたいよ?」
 その隣で、心配そうに楠野さんが尋ねてきた。
「あ……いや……まあ……」
 つか、バレバレかよっ。あたしってつくづく単純明快!?
「恋って言えば、わたし、彼氏出来たんだ~」
「え? まじまじ?」
 楠野さんの明るい言葉に、途端に他の女性社員達が群がってくる。
 え……ついこの前激しく失恋して激しく落ち込んでたのに、もう次の恋? 次の男? それじゃあ、あたしのあの凄まじい悩みは何だったの……?
 女ってホントたくましいわ……。いや、あたしも女だけど。
「いいな~、あたしも早く彼氏欲しい~」
「うちの会社、良い男はいっぱいいるんだけど競争率高すぎだもんね~」
「良い男って誰だよ?」
 即座に脳がピクッと反応して、あたしはみんなにむかって尋ねる。
「そりゃうちの主任にはじまり、営業部の池田主任、人事部の蓮川課長、総務部の如月くん、 みんなこれ以上ないほど上玉じゃない」
「でもうちの主任はあの通りかなりレベル高い女じゃないと相手にしないし、蓮川課長は妻子持ち、池田主任はうかつに手出しできないし」
「なんでうかつに手出しできないの?」
「あの人のファン、怖いからね~」
 尋ねると、そんな返事がかえってくる。ファン……いっちょまえにファンなんかいるのか、あの単細胞に。
「でもやっぱ如月くんが最強かなー」
「如月が!?」
 その言葉に、あたしは意外さばかりを感じて思わず声を張り上げた。
 確かに顔も悪くないし仕事もできるけど、あんななよなよした優男のどこが最強!?
「えー、彼良いよ~。顔は申し分ないし、お洒落だし、話は面白いし、いろんな遊び場所知ってるしブランド物にも詳しいし、凄くマメだし~」
「分かる分かる。私もよく恋愛相談にのってもらうんだけど、かなり的確な答えくれるよね」
「おまけに何といっても」
「金を持ってる!!!」
 なぜか全員が一斉に同じ言葉を放った。
 そーいやあいつも、どっかの社長のボンボンだっけ。 しかし女って奴はつくづく計算高い生き物だと思う。いや、だからあたしも女なんだけど。
「世の中金じゃねーだろっ!!」
 思わず突っ込むと、途端に場の空気が寒くなった。
 なに? このあたしがおかしいみたいな空気!?
「やだやだ、これだから男女は」
「だ、誰が男女だ!?」
 斎木の言葉に、あたしはムキになって言い返した。
「なにいつまでも青臭いこと言ってんの? 世の中金よ、金。金持ってない男なんてただの社会のゴミよ、ゴミ」
 ずばっと言い切った斎木に、けれど誰一人反論することなく頷く。楠野さんまでもが。
 えええええ……っ、あたしがおかしいの? あたしが間違ってるって言うの!?
 世の中って一体……。
 空しさばかりを覚えながら、あたしは机の上に突っ伏した。
 
 
「どうした池田、また悩み事か?」
 世の無常さに辟易しながら牛乳を飲んでいると、ふと声をかけられ、あたしは目の前に立った蓮川課長に目を向けた。
「課長……課長は奥さんのこと愛してますよね?」
 あたしは思わず真剣に尋ねた。蓮川課長はにっこりと微笑む。
「もちろん」
その言葉にほっとした次の瞬間、課長はあたしの口元に手をかけてきた。
「牛乳、ついてるぞ」
「あ……どうも」
「どうした? 恋の悩みでも抱えてるのか?」
「……顔、近いんですけど」
「気のせいだろ」
 いやいや、思い切り近いだろ。
 つか……この男……まさか……っ。
「奥さんのこと、愛してるんですよね……っ」
「もちろん」
「だったら近づくんじゃねぇ……っ!!」
「そういう可愛い反応されると、つい悪戯心が沸いてくるじゃないか」
「……ざけんなっ!!!」
 あと数センチで唇同士が触れるというところで、あたしは課長の顔面に拳を放った。
「なにも殴ることないだろーに、ほんの冗談だよ、冗談」
 課長が顔を押さえながら呆れ声を放つ。
「やっていい冗談と悪い冗談があんだよっ、このエロ親父!!」
 あたしは怒りを露に暴言を吐き捨て、課長に背を向けた。
 
 
 まああのエロ親父の悪い冗談はいつもの事だからともかくとして、せっかく斎木達に良い情報を聞いたことだし。
「え? 今度の日曜?」
「そう。ちょっとあんたに相談したいことがあってさ」
「ミチルさんが僕に? まあいいけど、予定空いてるし」
楽観的にそう言って、如月はにっこり微笑んだ。
 
 
 そんなわけで日曜日。
 待ち合わせ場所にむかうと、すでに如月の姿があって、あたしはすぐさま駆け寄った。
「悪ぃ、待たせた?」
「ううん、行こうか」
 優しく言って、如月は先に歩き出す。
 横に並んで歩いてると、やたらと視線を浴びている気がして、ふと如月を見て「なるほど」と思った。
 少し長めの洒落たヘアスタイルと、細身の身体にばっちりの着こなし、一見するとどこかのファッション雑誌にでものっていそうな外観に、斎木たちの言っていた意味がなんとなくわかった気がした。今まで「男」って目で見たことなかったから気づかなかったけど、こりゃモテるのも当然だよな。
「先にお昼食べようか? なに食べたい?」
「あー……牛丼?」
「おっけー。じゃ、すぐそこの吉○家行こっか」
 そう言って、如月はさっさと牛丼家に向かって歩いていった。
 
 
 ただの白飯に肉だけを移して、汁の染み込んだ飯だけをがーっと掻き込んでいると、如月が並の牛丼片手に尋ねてきた。
「で、どーいう風の吹き回し? ミチルさんが僕を誘うなんて」
「あ……いや、課の奴らに、あんたが恋愛相談得意って聞いたからさ……」
「へぇ、ついに忍先輩に告白する決心したんだ?」
 いきなり核心をつかれ、思わずあたしはブッと飯を吹き出した。
「ミチルさん、もうちょっとお上品にならないと、忍先輩には振り向いてもらえないと思うよ?」
如月は顔を拭いながら苦笑する。
「な、何でそれを……っ!!」
「なんとなく?」
 今度はにっこり微笑む如月に、あたしは何やら背筋がぞっとするのを感じた。
 こいつ……っ、人畜無害なツラしてるくせに、侮れない奴……!!
「でも忍先輩、あの通りの人だから、苦労するんじゃないかなぁ」
「どーいう意味だよ」
「気長にいくか、短期間で一か八かの勝負するか、二つに一つだと思うね」
「意味わかんねー」
「くわしく教えてあげるから、これからうちにおいでよ」
 あくまで穏やかに微笑む如月に、あたしは不信感を覚えながらも頷くより他はなかった。
 
 
 さっすが社長の息子。
 高級マンションの一室に招き入れられ、綺麗に整理されてお洒落な家具やインテリアの置かれている部屋のソファーに腰掛け、あたしは妙に感心しながら部屋中を見回した。
 あいつもたぶん、こーいうとこに住んでるんだろーなぁ……。やっぱ別世界の人間だ、とつくづく思う。
「どうぞ」
「あ……サンキュー」
 これまた高そうなカップに入れられたコーヒーをすすると、隣に如月が腰掛ける。
「あんたはさ……彼女いんの?」
「いないよ、本命はね」
 涼しく言う如月に、あたしは目をすわらせた。
 やっぱり……こいつもあの男と同じ類の人間だ。
「あたしはおまえらの、そーいう感覚が理解できないね」
 苛立ちのままに声を発するけど、如月は少しも動じない。
「僕は忍先輩みたいに、仕事のために女を利用したりはしないよ。お互い必要な時に、必要なぶんだけ愛情を与え合ってるだけで」
落ち着いた声。
 なるほど、ずいぶんと恋愛方面は達観していらっしゃるようで。
「そんなすんなりと割り切れるもんかね」
「そうだね。本気だったら割り切れないのかもしれないけど、僕は疲れる恋はしない主義だから」
「……あんたみたいに器用に生きれたら、人生さぞ楽でしょうよ」
 最もそんな人生、あたしはつまらないと思うけど。
「でも余裕のない人間に、本当の愛情は与えられないと思うよ?」
「本当のって……何だよ」
「教えてあげようか?」
 不意に如月の手があたしの肩を掴んで、次の瞬間、あたしはソファーの上に押し倒されていた。
「てめ……っ」
 すぐに逃れようと渾身の力を込めて撥ね退けようとしたけれど、思いもかけない強い力で押さえ込まれる。
 この優男……っ。中身だけじゃなく力も想定外かよっ!!
「だめだなあ、ミチルさん。その気もない男の家に易々とあがりこんで、そんな無防備な姿曝け出しちゃ、何されたって文句は言えないよ?」
 耳元で低い声で囁かれ、手があらぬところに伸びてくる。
「やめ……っ、やめろっ! ぶっ殺すぞ!!!」
 本気で寒気が走って声を荒げると、如月はクスリと笑ってあたしから体を離した。
あたしはすぐさまソファーから立ち上がる。
「冗談だってば。でも、ほんとに気をつけた方が良いよ? ミチルさん、中身はともかく外見は良い女なんだし。いい社会勉強になったでしょ?」
 あくまで人を見下した物言いに頭にきて、あたしはテーブルの上のコーヒーを如月の頭にぶちまけると、さっさと玄関に向かって走り出した。
 悔しい……悔しい悔しい悔しいっ!!!
 あんな男に一時でも頼ろうとした自分がバカだった。浅はかすぎた。
 どうしてあたしはいつも、こうなんだろう。ちょっと考えれば、わかることなのに。でも……友達だって、思ってたのに……!!!
(最低……!!!)
 もう絶対、二度と口効いてやるもんか。
 そう思いながら、あたしは憤りばかりを胸に家路を辿った。
 
 
 もう男なんか信用しねぇ。絶対、絶対、信用しねぇ。
 硬くそう心に誓いながら、頼まれていた書類を会議室に運ぶため、会議室のドアを開いたあたしの目に、とんでもない光景が飛び込んでくる。
「あ……」
 目の前で抱き合いながらも、たいして動じた様子も無い男女二人を眼前に、あたしは即効でドアを閉めてその場から駆け出した。
 なに、あれ……。
 今の、蓮川副社長と、池田……だよね。
 絶対に、キス、してた。たぶん、それ以上のことも。
(あいつ……!!!)
 信じられなかった。
 あの池田が。
 いつも能天気でへらへら笑ってて、女にはフられてばっかで、情けない男だとばかり思っていたあいつが。
 胸の動機が、なかなか止まらなかった。
 
 
 退社時、廊下で鉢合わせた池田から思わず視線を逸らすと、池田は黙ってあたしの横を通り過ぎていく。
「池田……!!」
 思わず振り返って呼び止めると、池田も立ち止まってこっちを振り返った。
「なに?」
 けれどその瞳は、確実にいつもと違っていて。
 手の震えが止まらない。
「副社長……旦那さん、いるよな。確か」
 半ば睨みつけるように池田を見据えて、あたしは尋ねた。
「それが?」
 けれど次の池田の反応は、あたしの予想を遥かに超える冷たいもので。鼓動が高まっていく。
「おまえが……そんな奴だとは思わなかった」
 あたしは低い声を発した。
 少しの間を置いて、池田が小さく息をつく。
「じゃあ俺って、どんな奴?」
 冷たい声色。冷たい瞳。まるで全てを拒絶するような。
「おまえが俺にどういう理想を持ってたか知んねーけど、俺だって男だぜ? 相手が人妻だろうが何だろうが、あんな美人に誘われたら男なら誰でも断れねーって」
 半ば投げやりに放たれたその言葉に、あたしはカッときて、池田に歩み寄ると、思い切りその頬に平手打ちをくらわせてやった。
「……最低」
 おまえだけは。
 おまえだけは、絶対にそんな奴じゃないと、信じていたのに。
「仕方ねぇだろ。一番欲しいものは、どう足掻いても手に入らねぇんだ」
 池田は怜悧な顔つきと冷たい瞳のままにそう言うと、あたしに背を向けて去って行った。
 
 
 男って……怖いかもしれない。
 男性恐怖症にでもなりそうな体験をことごとくしてしまったせいか、あたしはしばらく、うかつに男子社員に近づくことが出来なくなっていた。
 蓮川課長や如月はともかくとして、あの池田までもが……。
 いったい何なんだよあいつらはっ。頭の中、煩悩しかねぇのか!!??
「ミチル、どうしたの?」
 声をかけられて、いつの間にか牛乳パックを思い切り握りつぶしていて、牛乳がストローから溢れていたことにやっと気づいた。
「あー……いや、ちょっと考え事してて」
 テーブルに溢れた牛乳をティッシュで拭いてくれるシノブに、あたしは重い気分のままに応えた。
「シノブ、あんた、男のことには詳しいよね」
「あなたよりは詳しいと思うけど」
 まるで当然のようにシノブは言う。
 悪かったなっ、男経験ゼロで!!!
「その……相手をその気にさせる方法って……」
 思い切って切り出すと、シノブはやけに目を丸くして、それからあたしの手をがしっと握り締めた。
「おめでとうミチル、やっと大人になったのね?」
 やたらと感動したようにそんなことを言うシノブに、あたしは動揺を隠せなかった。
「な、なんだよそれ!! あたしは別に……っ」
「私に任せて! 男を落とすテクニックなら誰にも負けない自信があるわ!」
「自慢になるかっ!!!」
 あたしは即効でつっこむけれど、シノブはといえばやたらと嬉しそうに張り切っている。
なんだか嫌な予感を胸に抱きつつも、他に頼るところが無いのも事実なわけで、あたしは小さくため息をついた。
 
 
 いつのもメンバーでいつもの居酒屋に足を向け、さっそく「シノブさん流男の落とし方講座」を受けることに相成り。
「まず大切なのは、笑顔よ、ミチル」
 そう言って、シノブがいつもの完全なる造り笑顔でにっこりと清楚に微笑む。
 その隣で、何故か一緒に講座を受けている唯と也美もにっこりと微笑んだ。
 けれど、肝心のあたしはといえば……。
「ミチル先輩、全然可愛くない~」
 頑張って造り笑いをしようとするものの、意識するあまり顔が引きつりまくりで、唯が即効で突っ込みを入れてきた。
「次にさりげないボディタッチ」
「ぼ、ボディタッチ……?」
「そう。例えば酔って転んだフリをして腕を組んだ瞬間に……」
 そう言って、シノブはあたしの腕に自分の手をかけてくると、酷く潤んだ瞳であたしを見つめてきた。
「ごめんなさい……少し、酔っちゃったみたい……」
 なんてわかりやすい計算……。でもわかりやすいけど、確かに何かがグッっとくる! 
 っていやいやいや、あたしがグッときてどうする!?
「いやでも、それ、ちょっとわざとらしすぎねぇ?」
「……わかっちゃった……?」
 シノブが今度は頬まで赤く染めて、絶妙な涙目を向けてくる。
 ……って、だからあたしがグッときてどうする!?? 
「さっすがシノブ先輩。惚れた!!」
 唯が親指を立ててガッツポーズを作る。シノブがにっこり微笑んであたしから離れた。
 あ……良かった。うっかり惚れたの、あたしだけじゃなかったんだ。
「凄いですね~、さすがです~。わたしも頑張ってみようかな……」
 也美が尊敬しまくりの目でシノブを見つめながら言った。
「でも池田はやめといた方がいいぜ?」
「だ、誰も池田さんになんて言ってないじゃないですかっ!!」
 だからそこでムキになるところがバレバレなんだっつの。
 でもあの男は、本気でやめといた方が……。
『仕方ねぇだろ、一番欲しいもんはどう足掻いても手に入らねぇんだ』
 ふと、あたしは昼間の池田のセリフを思い出した。
 あれって……どういう意味だったんだろ。 あいつも実は結構、辛い恋してるってことかな……?
 でもだからって、それだけ好きな相手がいるのに人妻相手に性欲発散って、やっぱどう考えたって最低だろ。
「男って単純な癖に、ややこしい生き物だよなぁ……」
 女の手管にはあっさり落とされる癖に、あーいう情のないことを平気でやっちまうから、まったくもって理解できない生き物だ。
「だから面白いし可愛いんじゃない」
 余裕の笑みを浮かべながらシノブが言う。
 蓮川……つくづく哀れな奴。こりゃ普段から完全に手の平で操られてるな。
 そう思わずにいられないまま、結局のところ何も進歩しない自分に深くため息をついた。
 
 
 鏡の中の自分にむかって、あたしはにっこりと微笑みかける。
……だめだ、全然、可愛く笑えていない。
 何度やっても引きつり笑いになる自分に情けなさばかりを覚えながら、洗面所に手をついて大きく息を吐く。
 だいたいあんなわざとらしい演技、あたしには無理。絶対に無理!!!
 つくづくあたしって、女にむいてない生き物なんだと思い、なおさら自己嫌悪に陥った。
「だーーーっ、もうっ!!!」
 いいかげん、イヤになってきた。
 いつまでうじうじ悩んでんだ、自分!!! 
 男なら……もとい、女なら、当たって砕けろ!!!
 どうせ相手にされないのは最初からわかってるんだ、だったらもう一か八かの勝負に出るしかねぇ!!!
 胸に硬い決意を秘め、あたしは鏡の自分に向かって気合を入れた。
 
 
 けれどやっぱり、いざ告白となるとどうしても引いてしまう自分がいて。
 我ながら、あまりに情けなさ過ぎると、ただひたすら自己嫌悪に陥るばかりの毎日。今まで自分ってけっこう積極的な方だと思ってたんだけど、実は凄いへたれだったんだなぁ……あたし。
 
 
 その日もいつものメンバーで飲みに行って酔いに酔った後、アパートに帰宅するために駅に向かって歩いていたその時だった。
 数メートル手前を歩く、よく見慣れた後ろ姿の男と、長い黒髪の女性の姿が視界に映る。
刹那。
 ブチッと、あたしの中の何かがはじけた。
(あの野郎……っ!!!)
 心の中で叫んだと同時に、あたしはその場から勢い良く駆け出して、見慣れた後ろ姿の男にむかって盛大にジャンプキックを放った。周囲の空気が一変するのも構わず、あたしは地面の上に倒れ込んだ男の上に馬乗りになる。
「き……さま……っ、いきなり何を……」
 さすがに予想外の出来事だったのか、手塚がいつになく動揺を露にあたしを睨みつけてくる。けれどあたしは構わず手塚の胸倉を掴みあげ、大声を張り上げた。
「うるせぇ、この最低男!!!」
 勢いのままに、あたしは言葉を続ける。
「その腐った根性、あたしが叩き直してやる!!!」
 だから。
「だから……」
 まっすぐに手塚の瞳を見据え、あたしは言った。
「あたしのもんになれ」
 手塚もまた、あたしの目をまっすぐに見つめてくる。その瞳にもう動揺の色はなく、そうしてしばし見つめ合った後、手塚があたしの体を押しのけてゆっくりと立ち上がった。
「出来るものならやってみろ、この馬鹿女」
そして、少しも造ったものではない顔で、まるで喧嘩でも売ってくるようなセリフだけを残して、あたしに背を向けて去って行った。
 あたしはその場に座り込んだまま、しばし呆然とする。
 あれ……もしかしてあたし、一か八かの勝負に成功した?
「大丈夫? ミチルさん」
 不意に、黒髪の美女……倫子さんが、あたしに綺麗にアイロンがけされたハンカチを渡してくる。
「あ……す、すいません、あたし……!!!」
 途端に我に返って、あたしは慌てて立ち上がり、倫子さんに手渡されたハンカチを受け取る。
 たぶん真っ赤になっているであろう顔を向けると、倫子さんは静かに、どこか優しい微笑をあたしに向けてきた。
「忍くんを、よろしくね。ミチルさん」
「あの……」
「あたしにも、あなたみたいな強さがあったら良かった」
 倫子さんは微笑んだまま、少し悲しげな瞳をして言った。
 その瞳は、どこか、あいつと似ていると思った。
「……ハンカチ、洗って返します」
「結構よ。さよなら」
 抑揚のない声でそう言うと、倫子さんはあたしに背を向けて歩いていく。 あたしはその後ろ姿を見送りながら、しばらくそこから動けずにいた。
 
 
 えーと……確かに……確かに、あれはそういう意味だったし、そういう意味では別に何も拒む必要はないんだけど……っ。
「普通、もうちょっと順序ってもんがねぇか!?」
「だからしっかり着いて来てから言われてもな」
 以前と同じ一流ホテルの一室で、淡々と言い放つ手塚にむかって、あたしはわなわなと肩を震わせた。
 この男……っ、一体どこからどこまで本気なんだ!?
「言っとくけど、あたしはあんたの遊び相手になるつもりはないからな!! するならするで、きっちり責任とれよ!?」
「当然、そのつもりだが?」
 手塚は微笑しながら低い声で囁くと、あたしの肩に手をかけてくる。 けれどあたしは、思わず咄嗟に身を引いてしまった。
「なぜ逃げる」
 手塚が目をすわらせる。
「あ……あたし……こーいうの、初めてなんだから……っ!!」
 心臓ばくばくしたままそう言うと、途端に手塚は目を見開いて、それから可笑しいようにクッと笑った。
む、ムカつく……っ!! はっきり言ってムカつくっ!!!
「それでよく、あんなセリフが言えたものだな」
「う、うるせぇっ! あたしはおまえみたいに遊び半分で……こ、こーいうことは、したくねぇんだよっ!!」
「こーいうことって?」
「……だから……っ」
 わかってる癖に、ほんとムカつくっ。
 でも。
 でも……。
「……こーいうことだ」
 胸倉を掴んで引き寄せて、軽く触れるだけのキスの後、あたしは小さく囁いた。
 目の前の男は少しも動じない憎たらしい笑みを浮かべて、あたしの腰に腕を回してくる。引き寄せられた瞬間、やっぱりどうしようもなく、好きだって。
 ……愛してるって、思って。
 優しく触れられるままに、あたしはゆっくりと瞳を閉じた。
 
 
 
 よく初恋は実らないって言うけど、アレって嘘だな!!
 だって見事に実っちゃったもん! もう毎日ラブラブでどうしようって感じだもん!!!
……なーんてのは強がりで。
「あんたはどうしてそう勝手なんだよ!!??」
「嫌なものは嫌だ。面倒くさい」
「だからって歩いてたかが十五分の距離にタクシー使うなっ、このボンボンっ!!!」
手塚と正式に付き合い始めて早一ヶ月。
けれどこの一ヶ月、あたし達は喧嘩をしない日が一度もない。
以前から融通はきかないわ頑固だわ神経質だわ、厄介な男だとは思ってたけど、それに加えて付き合い始めて改めてわかったことも多い。
実は意外にあんまり何も考えてなかったり、実は物凄い天然だったり、実は恐ろしく我儘だったり自己中だったり、とにかくこの上なく手のかかる彼氏相手に、忍耐強さには自信のあるあたしもさすがに限界を感じている始末。も、一度こうなってしまった以上は、そう簡単に「はいさよなら」というわけにもいかず。
「ほら、文句言わず歩く!! あいつら待たせてんだぞ!?」
「待たせておけばいいだろう。どうせ先に飲んでる」
「い・い・か・ら、とっとと歩け!!!」
 あくまで面倒くさがる手塚の腕を引っ張って、あたしはその場から歩き出した。
 ったく、子供かこいつはっ!!!
 あたし、やっぱり何か間違ったのかも。
 そう思わずにはいられないまま、完全に拗ねた様子で嫌々歩く手塚を引きずり、いつものメンバーと約束している居酒屋へ足を向けたのだった。
 
 
「なんでそんなに疲れてるんですか? ミチル先輩」
「楽しいデートだったんじゃないの~?」
「いや……いろいろと……」
 そうだよな……デートって、普通、もうちょっと楽しいもんだよな。
 なのに何だこの凄まじいまでの疲労感……。
 あいつにこき使われるのは仕事で十分慣れてるハズなのに、プライベートでは更にその上を十倍くらい上回る使われよう……って、あたしホントにあいつの恋人!!??
「ダメだ……完全に人生失敗した……」
 あたしはビールを一気飲みして、テーブルの上に突っ伏した。
でもだからって、いまさら責任放棄するわけにもいかないし。あんな手のかかる男、あたし以外にまともに付き合える女がいるとは思えないし。
 半ばヤケになりつつカラオケボックスで飲みに飲みまくって、トイレに行って一度吐いて、また個室に戻ろうとしたあたしの目に、灰皿のあるスペースで煙草をくわえた手のかかる恋人の姿が映る。あたしはすぐさま歩み寄って、煙草を取り上げた。
「やめろつってんだろ」
「余計なお世話だ」
「あんたね……!!」
 また怒鳴りつけそうになったその時、突然、腕を引き寄せられ、唇を奪われた。
「……これで我慢してやる」
 目を開くと、なんだか子供みたいな瞳が目の前にあって。
 仕方ない。やっぱ、あたしがしっかり面倒見てやんないと。
 先に部屋に戻っていく恋人の後姿を追いかけようとしたその時、同じように飲みすぎてトイレに直行していた池田の姿が目に入る。あたしが歩み寄るより先に、彼があたしの隣に肩を並べた。
「……見てた?」
「見られるよーな場所でイチャつくからだろ」
 なんだか気まずい想いで声をあげると、どこか呆れた風にそう言われて、思わず顔が熱くなる。
「あいつ、結構手がかかるだろ?」
「結構どころか……」
 池田の問いかけに、あたしは答えるのも辛くなりながら深くため息をつく。池田がそんなあたしを見てクスリと小さく笑った。
「ま、頑張れよ」
 池田はポンとあたしの頭を軽くはたいてそう言うと、みんなのいる個室とは別方向に向かった。
「なに? 帰んの?」
「明日早いからな。お先ー」
 軽い口調で言って片手をあげて、池田は店の入り口に向かっていく。
 店内から出て行くその後姿を見送り、みんなのところに戻ろうと踵を返そうとしたその時、 ふと、いつかの会話が脳裏を掠めた。

『あんたもやっぱり、寂しい?』
『……たぶんな』

 瞬間、何故かどうしようもなく胸が騒いで、気が付けばあたしは店内を飛び出していた。
「池田……!」
「……なんだよ? んな血相かかえて……」
 追いついてガシッと腕を掴むと、池田はやや驚いた顔をあたしに向ける。
「あたし……絶対、絶対、あいつのこと幸せにするから!!」
 衝動のままに声を発すると、池田はやっぱり驚いたような顔をして、それからフッと小さく微笑して、あたしの頭をポンと叩いた。
「あいつのこと、よろしくな」
 そして穏やかな声でそう言うと、再びあたしに背を向けてその場を去っていく。
 あたしはその後姿を見送りながら、なんだか酷く胸が痛むのを感じて、それでもどうすることも出来ない現実に目を向ける。

 いつだって現実は思うようにはいかなくて、この胸の内の寂しさも切なさも苦しさも、どう足掻いても消せはしないのだけれど。

 しっかり鏡の向こうの自分と向き合って、前を見つめて歩いていかなきゃ。