mirror<前編>




ピピピピ! ピピピピ!
 
……うるさい。
 
 ピピピピ! ピピピピ!
 
うるさい。
 
 ピピピピ! ピピ……
 
「うっせー!!!」
 
 せっかく良い夢見てたのに、邪魔すんなっ!!!
 耳元でうるさく響く音ばかり鳴らす目覚まし時計を、あたしは思いっきり壁に投げつけた。投げつけて、時計が派手な音をたてて床に落ちた瞬間、ハッとする。
「げ……八時!!??」
 やっと鳴り止んだ目覚まし時計の時刻を目にした途端、あたしはがばっと身を起こし、慌てて布団の中から飛び起きた。
 
 
「また遅刻か」
「……すみません」
 今週、これで3回目の遅刻。さすがに周囲の空気も重く、上司をとりまく空気はもっと重い。
いいかげん怒鳴られるかと思いながら頭を下げてると、不意に上司が小さく息をついた。
「最近、調子でも悪いのか?」
 思いがけず優しい口調で尋ねられ、あたしは一瞬言葉に詰まった。
「遅刻に限らず、仕事でもミスが多すぎる。君らしくないね」
「……すみません、気をつけます」
「有給もずいぶん余ってることだし、少し休んでみたらどうだい?」
 またしても意外なセリフ。優しい声。穏やかな微笑み。
 ……つか、逆に怖い……怖すぎる……っ。なにこの不気味なまでの優しさ!?
「いえ……本当に大丈夫です。これからは気をつけますんで……」
「いいから無理しないで、明日から一週間、休みたまえ。課長には僕から報告しておくから」
「結構です! 本当に大丈夫ですから!!」
 相変わらずにっこり微笑み続ける上司に、あたしは強い口調で言った。
 途端、上司の顔つきが先ほどまでの穏やかなものから一変して、怜悧な表情に変わる。
「迷惑だから休めと言ってるんだ」
 容赦ない言葉を突きつけられたその瞬間、場の空気が一瞬にして凍りついた。
「……わかりました」
 もはや言い返す言葉もなく、あたしはそう返事をすると上司に背を向け、自分のデスクに戻った。周囲のあからさまな同情の視線がやけに痛かった。
 
 
 せめて今日はミスらないようにと集中して仕事を終え、休憩時間に突入したと同時にポンと肩を叩かれる。
「ミチル……大丈夫?」
「あ……はい、迷惑かけてホントにすみません」
 同じ企画部の先輩である楠野さんに心配そうに声をかけられ、あたしは苦笑しながら応えた。
「本当に良い迷惑ですよ。あなたのおかげでどれだけみんなが迷惑してると思ってるんですか?」
 するとその横から、あたしの中では「オールバック眼鏡」という名の一つ年下の後輩が、眼鏡を光らせてあたしを睨みつけてきた。
「だから、悪かったっつってるだろ!? 今日は一週間分まとめて残業して帰るから……」
「このご時勢に残業? あなた本当に何も解ってないんですね。今、主任が無駄な残業代を削除するために、どれほど自分の時間を削ってるかご存知ないんですか? 部下に無駄な残業されたところで不明時間が発生して、結局迷惑こうむるのは上司である主任ですよ? あなたの仕事は僕が責任持って引き受けますから、今日は定時に帰って、明日から一週間きっちり休んで下さい。それが主任にとっても僕達にとっても何よりのメリットですから」
 非っ常~っに嫌味っぽく言うだけ言って、オールバック眼鏡はあたしにくるりと背を向けて企画部室から出て行った。
 あたしは即座でデスクの上に頭を突っ伏す。
 くそ……っ、あの時代錯誤のオールバック眼鏡野郎……っ。ちょっとばかり仕事できるからって、上司のお気に入りだからって、調子のんじゃねーっ!!!
「ミチル、あんまり気にしないでね。わたしは全然、迷惑なんて思ってないからね?」
 楠野さんに優しい言葉をかけられ、途端に気持ちが和らいだ。
「彼、ちょっと僻んでるだけよ。ミチルが主任に頼りにされてること知ってるから」
「あの男がいつどこであたしを頼りにしたって言うんですか……」
 あたしは力なく言った。
 無い。それはあり得ない。現にあたしが立てた企画、相変わらずことごとく却下だし。
「だっていつも二人で大きな仕事やり遂げてるじゃない。だから主任も、本気でミチルのこと心配してると思うのよ?」
「心配、ねぇ……」
 あいつが、あたしのことを?
 いやいや……やっぱどう考えても、それは無いって。
「それに最近、本当に疲れてるみたいだから、言われた通り少し休んだ方が良いわ。せっかく    一週間も休みくれたんだから、旅行にでも行ってのんびりしてらっしゃいな。休み明けには、またこき使わせてもらうからね?」
 少し悪戯っぽく笑って言う楠野さんに、あたしも笑い返した。
 相変わらず、良い人だなぁ。あたしが入社した時から何かと面倒見てくれて、仕事もたくさん教えてくれて、あたしってば良い先輩に恵まれたなってつくづく思う。
 確かに楠野さんの言うとおりだ。
 せっかく休みもらえたんだ。いつまでもうじうじしてないで、いっちょ楽しみますか!
 
 
 自分に気合を入れて、昼食をとるため社員食堂にむかう途中、ふと目の前に見覚えのある姿が映った。
「シノ……」
 駆け寄ろうとした瞬間、シノブが横を向く。そしてあたしより先に駆け寄った相手に、優しい笑顔を向けた。笑顔を向けられた相手は、おもいっきりデレた顔をしながら、同じようにシノブに優しい笑顔を向ける。
 そのまま並んで歩いて行く二人に声をかけられないまま、あたしは踵を返して別方向にむかった。
だってやっぱ、邪魔しちゃ悪ぃじゃん?
(それにしても)
 蓮川のやつ、解ってんのかね。今自分が、どれくらい大勢の男達から反感かってんのか。
っても、しょせんは幸せなもん勝ちってやつか。
 社内であそこまでラブラブな雰囲気見せつけられちゃ、そりゃ周囲だって妬み僻みもするってもんだ。
 でもまさか、あの子が蓮川を選ぶなんて、誰も夢にも思わなかっただろうから。
(まさか、思わなかったよなぁ……)
 心の中で呟いた途端、さっきのシノブの笑顔が脳裏に甦る。
 突然、ほんの少し、胸がきゅっと締め付けられた。
 お腹、空いてたハズなのに。
 どうしても食堂に行く気にはなれなくて。
 結局その日は牛乳一本飲んだだけで昼食を終えて、仕事も定時に切り上げて、一人狭いアパートに帰ってすぐに眠りに落ちた。
 
 
 どうしてだろう、何もヤル気が起こらない。
 せっかくの休暇、3日たっても4日たっても家で寝て起きてテレビ見てまた寝て、そんな風にゴロゴロして過ごしてるだけであっという間に時間は過ぎていく。
 部屋はめちゃくちゃ散らかってるし、実家からたまには帰ってこいって電話あったし、友達からも飲みに行こうって誘いのメールがいっぱい来てるし。やらなきゃいけないことはたくさんあるのに、少しも動こうという気になれなくて。
 いいかげん、何かしないと。
 そう思って、のろのろと起き上がって、その辺に散らばってた服に着替えて出かける準備をして、外に出てアパートのドアの鍵をしめる。
 今日は日曜で、会社は休み。誰か誘おうかと思って携帯を手にしたら、自然といつもの名前を呼び出してる自分に気づいた。気づいて、あたしは携帯をカバンの中にしまった。
 結局、誰にも電話はしなかった。
 さーて、どこに行こう?
 あてもなく、適当に駅前をブラブラして、好きなブランドの服を見たり、好きな雑貨屋さんに行ってみたりしたけど、特に何も買おうという気にはなれなかった。
 ふと見つけた可愛い雑貨屋さんで、菫色の綺麗なバレッタを見つけた。
 そうしたら、またいつもの顔が浮かんできて。
(あ……これ、あの子に似合いそう)
 買おうかどうしようか迷ったけど、あたしは手にとったバレッタを元の位置に戻した。
 渡した時の嬉しそうな顔が見たかったけど。
 見たら、きっと、また胸が痛くなるってわかってたから。
 買うことは、出来なかった。
 
 
 そんな風に、適当に街中をブラついただけで時間は過ぎていって、いつの間にか空が暗くなって、誰か飲みに誘おうか、それとも家に帰ろうか迷っていた時、視界にいやなものが飛び込んできた。
「げ……」
 思わずあからさまに嫌な顔をしてしまうあたしに、目の前の相手はにっこり微笑みかけてくる。
「こんなところで会うとは奇遇だな、池田」
「……どーも……」
 つか、その造り笑顔やめろ。腹立つ。
 思いながら、主任の隣に立つ長い黒髪の美女に目を向けると、美女もまた静かに笑いかけてくる。
 こりゃまたえらい美人をお連れで。この前見かけた女とは、確実に別人のようですが。
「あたし、これから用事があるから今日は帰るわね、忍くん」
「送っていくよ、倫子ちゃん」
「いいわ、近くだから」
「じゃあ、またね」
 優しく微笑む主任に、美女は何も言わず、あたしに小さく会釈するとくるりと背を向けて去って行ってしまった。
「……忍くん?」
 美女が去った後、あたしは思い切り眉をしかめて尋ねた。
「昔からの知り合いなんだ」
「ふーん……じゃあ、あの人が本命なんだ?」
 なんたって『忍くん』に『倫子ちゃん』だもんね。
「さあ?」
 まるで余裕の笑みを浮かべて、主任は意味ありげに笑う。
 ますますイラついて、あたしは主任を睨みつけた。
「何を苛ついてるんだ? せっかくの可愛い顔が台無しだぞ」
 静かな声色と造り笑いに、ゾッと全身に鳥肌がたつ。
「そーゆー口調があたしに通用すると思ってんの?」
「上司にむかって随分な口の効き方だな」
「今はプライベートだ、今は! いいか手塚、あたしはあんたのそーゆーとこ、ぜってぇ認めねぇからな!!」
「君に認めてもらわなくとも結構だ」
 相変わらず余裕の笑みを浮かべたまま、手塚はその場から歩き出す。軽く舌打ちして、あたしはその後を追いかけた。
「乗れ」
「あ?」
 近くに停めてあった車に乗ろうとする手塚に、有無を言わさない口調で言われ、流されるままに、あたしは助手席の扉に手をかけていた。
 
 
「……煙草、やめてくんない?」
「俺の車で何をしようが勝手だろう」
 手塚は目も合わさないまま応える。全く聞き入れる気はないみたいだ。
 まあ、分かってたけど。……にしても、ちょっとは気ぃ使えっつの。
 仕事で車に同乗するたびに同じようなやりとりしてるのに、全く進歩のない自分達に思わずため息が漏れる。
「で、どこ行くんだよ?」
「好きなところへ連れてってやるぞ。どこがいい?」
 尋ねられて、言葉に詰まった。というか、どこも行き先なんて思い浮かばなかった。
「別に……どこでも」
 移り変わる景色を眺めながら、あたしは素っ気無く適当に応えた。
 
 
 確かにどこでもいいって言った。言ったけど。
 言ったけど……だからって……何で……っ。
「帰る!!」
 気がつけば一流ホテルの一室に来ていたものの、部屋に踏み込んだ途端に我に返った。
「どこでもいいって言ったのはおまえだぞ」
「うるせぇこの女たらし!! あたしはてめーに簡単に食われるほど安い女じゃねぇ!!!」
「相変わらず下品な女だな」
 わざとらしくため息をつきながら手塚が言った。
 ますます怒りに肩が震える。
「その下品な女をこんなとこまで連れ込んだのはどこのどいつだ……っ」
「しっかり着いてきてから言われてもな」
 またしても呆れ声を放たれ、あたしは掴みあげた手塚の胸倉をますます強く掴みあげる。
「ちょっと考え事しててどーかしてたんだよっ! 帰る! 今すぐ帰る!!」
「それは構わんが、せっかくだから一杯くらい飲んで行ったらどうだ?」
 落ち着いた声で言いながら、手塚はテーブルの上のグラスにワインを注ぐ。
「……酔わせて変なことしようって魂胆じゃねぇだろうな」
「まさか。正気じゃない女に手を出すほど馬鹿じゃない」
 グラスを差し出され、まだ心の内では少し……いや思いっきり疑いながらも、グラスを受け取った。
 相変わらず、なに考えてんだか分かんねぇ奴。
不信感でいっぱいながらも、けれどすぐに帰る気になれないでいたのも確かだった。
一人になることが、怖かったからかもしれない。
 
 
 頭の中が、ぐるぐるしてる。
 ああ……本気で酔ってきたかな。
 そりゃ、ワイン一本空ければ酔いも回るっつーの。
「あたし、何やってんだろ……」
 こんなことしてたら、犯られたって当たり前だ。ってか犯って下さいって言ってるようなもんじゃね? 
でもそれすら、もうどうでも良くなっている。 どうとでもしてくれって、思ってる。
ぐるぐる回る頭を抱えながらベッドの上に倒れ込む。
目の前の男は、変わらず平静なままで。
なおさら腹が立って、やけくそになってる自分にもっと腹が立つ。
「安い女じゃなかったんじゃないのか?」
「……うるせぇ、クズ男。すんならさっさとしろ」
 しっかり押し倒しておいて、何が「まさか」だ。
心の中で悪態をつきながら目を閉じると、さっきまで肩にかかっていた手が遠のいて、あたしはゆっくり目を開いた。
「言っただろう? 正気じゃない女に手を出すほど馬鹿じゃない」
 手塚はあたしから離れて立ち上がり、グラスを置いたテーブル脇の椅子に腰掛ける。
あたしはベッドに寝転んだまま、ただ惨めさばかりを感じて、目頭が熱くなった。
「どーせ……馬鹿だよ」
 そんなこと、言われなくたって解ってる。
上半身を起こしたその時、乱れた髪から外れたバレッタが、床の上に音をたてて落ちた。拾おうとして、突然、過去の記憶がフラッシュバックする。
 いつか、あの子に買ってもらったバレッタ。
『絶対にあなたに似合うと思ったの』
 そう言って初めて本当の笑顔を見せて、あの子があたしにプレゼントしてくれた、高校時代からずっと、あたしが一番大切にしていた宝物。
「……っ……」
 突然、堰を切ったようにあたしの瞳から涙が流れ落ちた。
買えば良かった。あの菫色のバレッタ。
絶対に、あの子に似合うと思ったのに。
絶対に喜ぶと思ったのに。
どうしても、買えなかった。
だってもう、あたしだけのものじゃないんだから。
 
『ミチル』
 
ずっと、あたしだけに見せていた笑顔も。
 
『ミチル』
 
あたしだけに見せていた泣き顔も。
 
『大好きよ、ミチル』
 
あたしだけに向けられていた言葉も、優しさも。
 
これからは、全部、あいつに向けられるんだ。
もう二度と、あたしだけに向けられることはないんだ。
 
(寂しい)
 
どうして?
 
(寂しい)
 
どうしてこんなに、悲しいの? 辛いの? 切ないの?
 
(寂しい)
 
どうして……!!!!
 
「ずっと……あたしだけのものだったのに……!!!」
 
どうしようもなく胸が痛くて辛くて悲しくて、そう叫んだと同時に、涙が後から後から溢れ出してきて。
止まらなかった。
 
ずっと、気づかなかった。
あの子はいつも、あまりにも当たり前に、あたしのそばにいたから。
初めて出会って心を通わせたあの時から、いつでもあたしだけを見て、あたしだけを想ってくれて、どんな時も寄り添うようにそばにいて。
これからもずっと、そうやってそばにいることが、当たり前だと思っていた。
こんな風に離れていく日が来るなんて、思いもしなかった。
でももう二度と、戻らない。
飛んでいってしまった雛鳥は、もう二度と、この手の中には戻らない。
 
(寂しい……!!!)
 
悲しい。
辛くて痛くて寂しくて、どうしようもなく苦しい。
ねえシノブ……お願いだから、教えてよ。
 
あたし、これから、どうしたらいいの?
 
 
 
……最悪だ。
洗っても洗っても腫れがひかない、鏡の向こうの瞼を見つめながら、あたしは何度も心の中で呟いた。
鏡に映る自分は、相変わらず酷い顔をしていて。まるで生気のない瞳をしている。なんだか本当に、死んでるみたいな眼だ。
でもこんな顔、二度とあいつには見せられないから、泣くのはもうやめようって思った。
この胸の痛みはどう足掻いても消せはしないのだけれど。
あたしらしく、前を見つめなきゃ。
鏡の向こうのあたしに、あたしはそう言い聞かせて、おもいっきり自分の頬を両手ではたいて、もう一度鏡の向こうの自分としっかり向き合った。
 
 
一週間ぶりの出社。
「……おはようございます」
「おはよう」                 
 めちゃくちゃ嫌だったけど。
嫌で嫌で仕方なかったけど、仕事は仕事。上司は上司。頑張れ自分!!と自分を奮い立たせるものの、目は合わせられないまま挨拶すると、目の前の相手は例の造り笑いで挨拶を返してくる。途端に苛立ちを抑えきれない自分を感じるけれど、ここは我慢だ我慢!!
「少しはマシな顔になったじゃないか」
 けれど目の前の相手はそんなあたしの心中などまるで無視して、からかうように笑ってそんな言葉を投げかけてきた。
 
 
悔しい……っ。
悔しい悔しい悔しい!!!
 
壁にガンッ!!と拳を打ちつけ、あたしは心の中で大絶叫した。
なんでよりによって、あんな男の前であんな醜態を晒したんだあたしは!!!
 
「よう池田、どうしたこんなとこで」
「あ……蓮川課長」
 人事部の課長に声をかけられ、あたしは胸の内の動揺を悟られないよう、必死で平静を取り戻して課長に向き直った。
 
 
入社時から何かと手のかかる社員だったあたしに何かと声をかけてくれ、何かと相談にのってもらっていたのが、今目の前にいる人事部の蓮川課長。人当たりが良く顔も良ければ仕事もできる彼は、当然のように女子社員からの人気者だけれど、妻子持ちの愛妻家なので嘆いている女子社員も多いことで有名な人でもある。
「長期休暇とってたそうじゃないか。最近ずいぶん調子悪かったらしいな。言ってくれれば相談にのったのに」
「それで気が済む程度のことなら自分で何とかします」
 奢ってもらった缶コーヒー片手に、あたしは笑って言った。
好意は有難いし嬉しいけど、やっぱりこれはあたしの問題だし。答えは自分で出さなきゃ何もならない。
(答え……)
 そう思ってから、あたしは自分自身に問いかけた。
あたし、何か答えを出せたのかな?
それともまだ、何も出せてないのかな……?
「そうか、なら良いが、あんまり根詰めすぎるなよ?」
 あたしの肩をぽんと叩いて笑いながらそう言うと、課長はその場から去っていった。
「ミチル!」
 ふと、よく知った声が耳に届いて、一瞬鼓動が高まった。
「ここにいたの、探してたのよ」
「……どーした?」
 目の前で微笑むシノブに、あたしもまた微笑みかける。
「昨日、クッキー焼いてみたの。味見してみて?」
 そう言って、シノブは可愛くラッピングされた袋を差し出してくる。
「あんたがクッキー……?」
 お菓子作りなんて一度もしたことのないこの子が、クッキーって……。しかも可愛くラッピングって……。
す、凄ぇ……これが恋のパワーってやつ? 別の意味で感動するわ。
し、しかもハート形だし……っ!!!
なぜか目頭に涙が滲むのを感じながら、クッキーを一つ口の中に放り込んだ次の瞬間、あたしは思いっきり口の中の異物を吹き出した。
「ミチル……汚い……」
「あんた……何いれたんだよっ、このクッキー!!!」
いったい何をどうしたら、この見た目普通の手作りクッキーがこんなミラクルな味になるんだ!!??
「あら、そんなに変な味だった? 確かにちょっとアレンジはしたけど……」
「ちゃんと本通りに作れ本通りに!!!」
「だってそれじゃつまらないじゃない」
「料理は実験じゃなくて愛情だっ!!!」
 つかそれ以前に、あたしに食わせる前にてめぇで味見をしろ味見を!!!
「これは没収! あんたこんなもん蓮川に食わせたら即効でフられるよ!?」
「でももうあげちゃったわ。おいしいって全部食べてくれたわよ?」
 にっこり微笑みながらシノブは言う。またも目頭に涙が滲んだ。
蓮川……なんて哀れな奴……。
おまえの健気さ、しかと受け取ったぜ!!!
「あ、そー。良かったねラブラブで」
「そういうミチルは、どうなのよ?」
「どうって、何が」
「手塚主任に告白しないの?」
 今しがた口に放り込んだミラクル味のクッキーが、またしてもあたしの口から吹き出された。
「ミチル、汚いってば。食べながら話すのはおよしなさいっていつも言ってるでしょう?」
「あんたがわけわかんねーことばっか言うからだろーがっ!!」
 あたしの口元をハンカチで拭いながら呆れ顔をするシノブに、あたしは怒りを隠さない。
「言っとくけど、あたしはあんな顔だけで中身最低の女たらし、死んでも好きになんかなんねーから!」
「あらそう?」
 意味ありげな目をして、シノブはくるっとあたしに背を向けた。
刹那、あたしの目に、菫色のバレッタが飛び込んできた。
「それ……」
「え?」
 シノブが振り返った。そしてあたしの視線の先にあるものに気づいて、菫色のバレッタに手を当てる。
「あ、これ? 蓮川くんがプレゼントしてくれたの。似合いそうだったからって」
 そう言って、シノブは心から嬉しそうに笑った。
瞬間、あたしはまた胸がチクリと痛むのを感じて。
「うん……よく似合ってる」
小さくそう言って、微笑むのが精一杯だった。
 
 
やっぱ買わなくて、正解だったな。
休憩室で、牛乳片手にぼんやりとそんなことを思った時。
「お、いいもん発見~!」
 突然横から手が伸びてきて、目の前に置いてあったクッキーを一つ掴む。
「あ……それは……」
 やめとけって言おうとするより先に、池田はクッキーを口の中に放り込んだ。次の瞬間、案の定クッキーを盛大に吹き出す。
「おまえ……汚い……」
「……んだよこれ!!?? なんかの罰ゲームか!!??」
 おもいっきり目を丸くして、池田は声を張り上げた。
ったく、相変わらず食い意地はった奴。人がせっかく止めてやろうとしたのに。
あたしは目の前の残ったクッキーを全部口の中に放り込む。
「おまえ……よく食えんな、そんなもん」
「うっせー」
 蓮川に食えて、あたしが食えないわけねーだろが。
一瞬吐き戻しそうになるのをこらえながら、全部飲み込んで、それから牛乳を一気に飲み干す。
もうホントにあいつ……いったい何入れたんだよっ、明日腹壊したらタダじゃおかねーからなっ!!
「そーいやおまえ、手塚と親友だよな」
「あ? 忍がどうかしたのかよ?」
「いや……親友に恋人が出来たら、どんな気分かなって」
「恋人? ってもあいつ、女は腐るほどいっからな~。まあどれも本気じゃねーだろうけど」
「……だよな」
 またしても苛立ちに襲われる。
やっぱ腐るほどいるわけだ、腐るほど。
「なんだよ、手塚さん蓮川にとられて寂しいのか?」
「なわけねーだろっ! 恋人同士じゃあるまいし!」
 にやにやとからかうような笑い顔を向けてくる池田に、思わずムキになって言い返した。
「恋人だろうが友達だろうが、あんだけいつも一緒にいた奴が急に離れていったら、誰だって寂しいんじゃねぇの?」
 急に真面目な顔をして言う池田に、あたしは一瞬返す言葉を失った。
「……あんたもやっぱり、寂しい?」
「……多分な」
 いつもと違うやたらと大人びた目をしてそう言うと、池田はあたしに背を向けてその場から離れていった。
おまえだけじゃないと言われてるみたいで、少しだけ、安心した。
 
 
 その日、久しぶりにいつものメンバー四人で飲みに行った帰り道、またしてもいやな光景を目の当たりにしてしまった。
「あ……ミチル……」
「……こんばんは」
 目が合った瞬間、楠野さんが明らかな戸惑いを見せる。けれどその横に立っている男は顔色一つ変えないままで。
「失礼します」
 あたしは即効でその場から離れるため、それだけ言って二人の横を通り過ぎた。
余計な詮索はしたくなかったし、余計な邪魔もしたくはなかった。
二人もまたあたしを引き止めることはなく、チラリと振り返ると、手塚が楠野さんの肩を抱いてそのまま歩いて行く。
相変わらず、最低な男だ。
怖いほど自分の気持ちが冷えていくのを感じながら、あたしはまた歩き出した。
 
 
 翌日、顔を合わせた途端に楠野さんが遠慮がちに声をかけてきた。
「ミチル、昨日のことだけど……」
「大丈夫、誰にも言いませんよ」
 あたしはすぐにそう答えた。あんな最低男でも、なぜか女子社員達からの人気は凄まじい。まして楠野さんみたいに控え目で善良な人が、女子社員達から妬み僻みの対象になることが怖いのは当然だ。
「でもまさか、楠野さんが主任と付き合ってるとは思いませんでした」
 苦笑しながら言うと、楠野さんは少し顔を赤くする。
「まだ付き合ってるって言えるかどうか……。一ヶ月前に食事に誘われてから、何度か……だけだし」
 何度か……。
何度か、しっかり食われちゃってるわけか。
「けどいいんですか? あの人、女たらしで有名じゃないですか」
「……わかってるけど……それは、仕方ないと思ってるわ」
「……」
 どうやらいろんな葛藤はある様子。
それでも良いって感覚、はっきり言ってあたしにはよくわからない。
「うまく言えませんけど、楠野さんは素敵な人だと思います。主任も、それをよくわかってるから誘ったんだと思いますよ」
 笑ってそう言うと、楠野さんは嬉しそうに微笑んだ。
その表情はとても可愛くていじらしくて、だからこそ、あたしはなおさら悲しくなった。
 
 
 翌週、新しいプロジェクトチームのリーダーに任命されたあたしは、取引先との仕事のため、手塚の車に乗って他社にむかった。
 取引先の社長の名は「楠野洋平」。あたしは即座にピンときて、抑え切れない怒りのままに手塚に尋ねた。
「彼女を利用するのは、やめてもらえませんか」
「なんの話だ?」
 ハンドルを握りながら、少しも顔色を変えず応える手塚に、また苛立ちを覚える。
「この企画を進めるために、彼女を誘ったんでしょう? 彼女が、取引先の社長の親族だと知ってて」
 バックミラー越しに睨みつけるが、やはり手塚は少しも表情を変えない。頭にきて、あたしはハンドルを掴んで車を停めさせた。
「あんたが誰と付き合おうとあんたの勝手だけど、彼女みたいな純真な相手を騙すのだけは止めろ」
 あたしは思い切り手塚を睨みつける。手塚もまた、あたしから視線を逸らそうとはしなかった。少しも悪いなんて思っていないその傲慢な態度が、やり方を変える気はないと物語っている。
「騙すとは心外だな。彼女を泣かせた覚えはまだないが?」
ようやく声を発するけれど、そこに罪悪感は微塵も感じられない。むしろ当然だとでも言いたげなその口調に、ますます苛立ちを覚える。
「これから泣かすつもりだろ?」
「そうだとしても、君には関係のないことだ。余計なお節介は身を滅ぼすだけだぞ」
「彼女は大切な友達だ」
「友達……ね、そう思ってるのは、君だけじゃないのか?」
「……なんだと?」
「友達ごっこなら、プライベートでやってくれ。仕事に余計な情を持ち込むな。おまえの奇麗事が通じるほど、世の中は甘く出来てない」
「人を騙すことが仕事だって言うなら、そんな会社、今すぐ辞表叩きつけてやる。あたしはあんたみたいなやり方は、絶対に認めない」
 決して目は逸らさず、強い口調で言うと、手塚もまた揺るがない視線であたしを見据えてくる。
「わかった。なら、彼女とは別れるよ。それで文句ないだろう?」
 突然の意外な言葉に、あたしは一瞬目を見張った。けれど手塚はそれ以上は何も言わず、ただ怜悧な横顔をあたしに向けただけだった。
 
 
 彼の意図を知ることになったのは、それからたった三日後のことだった。
 朝、出社すると、企画部に漂う雰囲気が明らかに異様だった。同僚の斎木を筆頭に、女子社員全員が、神妙な面持ちをしてあたしに一斉に目をむけてきた。
「ミチル、あんた、主任に楠野さんと別れろって言ったんですって?」
 怒りの視線を向けながら、斎木があたしに詰め寄ってきて、あたしは一瞬動揺して目を見張った。
 数人の女子社員に囲まれ、酷く冷たい表情をした楠野さんが、あたしに恨みのこもった瞳を向けてくる。瞬間、心臓がドクンと大きく音をたてた。
「自分が主任のこと好きだからって、サイテー」
「違……っ、なにわけわかんねーこと言って……っ!!」
 反論しようとした瞬間、全員が、鋭い視線を向けてくる。あたしは一瞬にして、全てを理解した。
 今、なにを言っても、なにを弁解しても、彼女達は決して受け入れないことを悟ったその瞬間、企画部室のドアが開いて手塚が姿を表した。途端に全員、自分のデスクに戻っていく。
あたしは握った拳を震わせながら、手塚を睨みつけた。
「池田」
 しかし手塚は平静なまま、あたしに落ち着いた声を向けてくる。
「プロジェクトチームのリーダーだが、今回は斎木さんに任せることにする。君は彼女のフォローをしてやってくれないか」
 そう言って、いつもの造り笑いをする手塚に、あたしは成す術もなく立ち尽くすことしか出来なかった。
 
 
 休憩時間になって、あたしは即効で手塚に詰め寄った。
「てめぇ……楠野さんに、何を言った!!??」
 抑え切れない衝動のままに胸倉を掴むけれど、手塚は動じないまま薄く笑みを浮かべる。
「君の言うとおりにしただけだが? 「この前池田さんに、その気もない相手と付き合うのは失礼だと言われた。確かにその通りだ、反省している。君とはもう別れるよ。池田さん、本気で君を心配していたよ。本当に素敵な女性だよね、彼女は」。……何か、間違っているかい?」
 あくまで落ち着いた声色で、冷静な瞳で発せられた手塚のセリフに、あたしは何も言い返すことは出来なかった。
 手を離したあたしを嘲笑うかのように見下ろし、そのまま手塚はあたしに背を向けてその場から去って行った。
震えが止まらない。
胸の震えが。
 すべては、あいつの策略だ。そう解っているのに、何一つ反論できない。自分の愚かさ、浅はかさを全て見せ付けられたかのような、あまりにも激しい屈辱感と敗北感。
あたしはただ震えながら、その場に立ち尽くした。
 
 
 誤解を解こうにも、とりつくしまもないほど女子社員達の気持ちはもう一つに固まっていて、その日からあたしは徹底的に彼女達から排除された。特にそれまで何かと大きなプロジェクトのチームに加えられていたあたしをライバル視していた斎木の嫌がらせは凄まじく、完全無視は当然のこと、リーダーとしてあたしに与える仕事はせいぜいコピー取りかお茶汲み程度で、彼女を筆頭に嫌がらせのメールが何件も入ったり、大事な書類にわざとお茶をこぼされたりと、やることはまるで小学生のいじめレベル。最初は逐一言い返していたものも、少しも止まないどころかエスカレートしていく嫌がらせに、いいかげんバカバカしくなって、一週間も過ぎる頃には諦めにも似た想いで、お茶汲みもコピー取りも文句を言わず黙って引き受けるようになっていた。
 
 その日も、朝から「最低女」だの「いっぺん死ねば?」などというくだらないメールにうんざりしてると、男子社員の先輩の一人である中林さんがあからさまに同情の目を向けてきた。
「大丈夫? 池田さん。良かったら俺から主任に相談しようか?」
「ありがとうございます。でもこれくらい、平気ですから」
 つーか……頼むから空気読んで下さい。今、男子社員に同情されると、ますます彼女達の目線が鋭くなるんスよ。
 案の定、即効で「男好き」「色目使ってんじゃねーよ」などというメールが届いて、ますます深いため息が漏れる。そんな最悪な空気の中でも、手塚はまるで態度を変えない。それどころか、斎木をますます増長させるように、彼女に重要な仕事ばかりを与えていく。
彼はきっと、どこまでも、あたしを追い詰めるつもりだ。
負けるもんか。
携帯を強く握りしめながら、あたしは自分に言い聞かせた。
 
 
「ミチル先輩!」
 こんな事態でも少しも食欲は衰えないままに昼食のうどんをすすっていると、不意に勢い良く也美が声をかけてきた。
 そしてテーブルにバン!と派手な音をたてて手をついて、あたしに真剣な目を向けてくる。
「どうして言ってくれなかったんですか!?」
「あ? 何を?」
 残ったうどんの汁をぜんぶ飲み干してから、あたしはやたらと興奮している也美にむかって尋ねた。
「先輩、同じ企画部の女子社員たちからイジメ受けてるって、同じ企画部の同僚から聞きましたよ! わたし、そんなこと全然知らなくて……!」
 何故か物凄く怒っている也美を前に、あたしは小さくため息をついて立ち上がった。
「いちいちあんたに言うことじゃないでしょ。あたしは少しも気にしてないから大丈夫」
だいたいこの年でイジメって、小学生じゃあるまいし、くだらなすぎて相手する気にもなりゃしない。
 けれど也美はまだ納得がいかないように、あたしの後を追いかけてくる。
「どうしてわたしには言ってくれないんですか!? わたし、そんなに頼りになりませんか!?」
「あのねぇ……あんた頼りにしてどーすんの? これはあたしの問題じゃん。時期なんとかなるから放っときゃいーんだよ」
 振り返ってそう言った瞬間、酷く傷ついたような目をする也美の顔が飛び込んできて、一瞬ドキッとした。
「……そうですよね、わたしなんか、頼りになりませんよね」
 也美は今にも泣き出しそうな顔をして、あたしから顔を背ける。
「あ……いや、そーじゃなくてさ……」
 やべ、言い方悪かったかな。別に頼りにしてるとかしてないとかじゃなく、単に相談するほどのことでもなかっただけなんだけど……。
「もういいです! 先輩のバカ!!!」
 完全に拗ねた様子でそう言うと、也美はきびすを返して走って行ってしまった。けれど追いかけて弁解する気にもなれず、あたしは肩を落としてその場から歩きだした。
 っとに、相変わらず厄介な子だよ……。ありゃ機嫌治るまで、そうとう時間かかるだろうな。
「ミチル先輩~~~……」
 すると今度は背後から、やたらと低い声が届いて、振り返った瞬間ぎょっとして思わず後ずさってしまった。
「な、なんだよ唯っ!」
「聞いたよ~……先輩、企画部の子達から嫌がらせされてるんだって?」
 こちらもなんだか、ずいぶん怒った様子。
だからっ、なんであんた達がそんな怒る必要あんだよっ!?
「今すぐ私が止めさせる!!」
「待てっ、早まるな唯!!」
 今すぐ企画部室に怒鳴り込みに行く勢いの唯を、あたしは慌てて引き止めた。この子もけっこう暴走壁があるというか、普段冷めてるぶん一度熱くなると止まらないというか……。
「なんで黙って嫌がらせなんかされてるの!? そんなのミチル先輩らしくないよ!?」
「あのね……あたしらしいって、何だよ? だいたいあんたがそんな怒るようなことじゃないだろ?」
「怒るよ! 当たり前じゃん!!」
 まだ興奮を抑えきれない様子で唯が言う。あたしは苦笑した。
「いや、それは嬉しいけど、でもこれはあたしの問題だから」
「……本当に平気なの?」
 さすがに也美と違ってすぐに納得はしてくれたようだけど、疑いの目は変わらない。
「平気だって。あたしがあんなセコいイジメにへこたれると思う?」
「そりゃ先輩ならへこたれるどころか、牛乳10本一気飲みして全員ぼこぼこにブン殴るくらい逆に張り切ると思うよ? 思うけど、それをしないから心配してるんじゃん!!」
 いやいやいや、いくらあたしでも、女相手にそこまではしないから。男相手ならともかく。
「昔から変わらないよね。そーやって、いつも壁作っちゃうところ」
 相変わらず辛辣なセリフを容赦なく投げつけてくる唯に、さすがに言い返せず黙り込むと、唯は悲しげに目を伏せて、それから鋭い目をあたしに向けてきた。
「なんかバカみたい、私一人ムキになって。じゃあね先輩。私、もう知らないから」
 完全に怒りを含んだ口調でそう言って、唯は早足で歩いていってしまった。
あたしはまたも深くため息をつく。もう……なんなんだっつの。単に余計な心配かけたくなかっただけじゃん。
 やたらと疲れただけの休憩時間を終えて、あたしはまたあの憂鬱な場所へ足を向けた。
 
 
 結局今日も一日、ロクな仕事は与えられず、定時に帰ろうと椅子から立ち上がろうとしたその時だった。突然、頭から熱い液体が降ってきて、反射的に目を閉じる。
「あ、ごめんね池田さん!! 大丈夫~!!??」
 大き目のマグカップを手に、斎木がわざとらしい声をあげる。目を開くと、少しも悪いと思っていないどころか完全に楽しんでいる様子の斎木が目の前にいて、あたしはポケットからハンカチを取り出して、あたしの全身を濡らしたコーヒーを、せめてと思って顔だけ拭う。
そのままカバンを手に立ち上がって企画部室から出ようとすると、背後からクスクスと笑い声が響いてきた。
 ドアを開いたその時、ちょうど入って来ようとした楠野さんと鉢合わせし、目が合った瞬間、楠野さんはクスリと微笑んだ。
「大丈夫? 池田さん」
 斎木と同じ、蔑みの瞳と、見下した台詞。
あたしは無言のまま楠野さんの横を通り過ぎ、そのまま足を速めた。
不意に、廊下の中央で、目の前に手塚の姿が現れる。
何も言わず黙ってあたしを見つめる手塚に、あたしは鋭い視線を向けた。
「これで……満足?」
 低い声を漏らす。手塚は応えない。
「満足かって聞いてんだよ!?」
 あたしは再度、声を荒げた。一瞬の間を置いて、手塚が口を開く。
「ああ、満足だ。いい格好だな、池田」
 容赦ない蔑みのセリフと、どこまでも冷たい瞳。
衝動を抑えきれず拳を振り上げたけれど、あっさり片手で受け止められた。
これでもガキの頃から喧嘩には慣れてて、男相手にだって負けたことはなくて、けっこう……自信あったんだけど。
「あんただけは、絶対に許さねぇ」
 強く握った拳を下ろして、あたしはありったけの侮蔑をこめて、手塚を見据えた。
許さない。
絶対に。
こんなにも誰かを憎んだのは、生まれて初めてだった。
目の前の男は、変わらず冷たい瞳のままで。
なおさら、本気で殺してやりたいと思った。
 
 
あたし……何を間違えたの?
余計なお節介だった?  偽善でしかなかった?
だったら、あのまま楠野さんが傷つくのを、ただ黙って見ていれば良かったの?
傷つくとわかっていて、必ず泣くと知っていて、それでも放っておけば良かったの?
目の前で大切な人が利用されていても、何もしないで見てるだけなら、それこそただの偽善じゃねえか!!!
 
なにかが音をたてて崩れていく。
あたしがずっと信じてきたもの。
あたしがずっと大切にしてきたもの。
 
(違う……!!)
 
 大丈夫。
 あたしは何も間違っていない。
 何も、間違ってなんかいないはずなのに。
 
『先輩のバカ!!』
 
『もう知らないから』
 
『大丈夫? 池田さん』
 
『偽善者』
『最低女』
『いっぺん死ねば?』
 
 どうしてみんな、あたしを責めるの?
 どうして誰も、わかってはくれないの?
 
 違う。あたしは間違ってなんかいない。
 何も、間違ってなんかいない……!!!
 
 
「ミチル」
 
 突然呼び起こされて、目を開いて、いつの間にか眠っていたことに気づいた。あたしはゆっくり体を起こして、目の前の相手に問いかけた。
「来てたんだ」
「ええ。そろそろ散らかってる頃だと思って」
 言いながら、シノブは床に散らばった雑誌やCDを集めていく。
「もういいよ、そんなことしなくたって」
「え……?」
 あたしはシノブの手から雑誌を奪い取って、少しも笑えないままに言葉を続けた。
「いいから、蓮川のとこ行けって。うちにはもう、来なくていいからさ」
「ミチル……?」
 そんな心配しなくたって、掃除くらい自分で出来るし。
渡した合鍵も、もう返してもらうべきかな。
そんなことを思っていると、シノブは小さくため息をつく。
「やっぱり……ずいぶん、落ち込んでるみたいね」
「……なんの話?」
「也美や唯から聞いたわ」
 目を合わさないままでいると、シノブは落ち着いた声で尋ねてくる。
「あなたらしくないじゃない、どうしたの?」
「……あたしらしいって、何?」
 あたしは低い声で放った。顔をあげると、シノブがどこか不安げな表情であたしを見る。
「帰って」
けれどあたしは、声色も表情も変えずに言った。
「ミチル……? どうし……」
「帰れ」                                              
 有無を言わさない口調で言うけれど、シノブは立ち上がろうとはしない。
あたしはシノブの腕を掴んで、強引に立ち上がらせた。
「ミチル……!」
「帰れっつってんだよ!!」
 そのまま玄関まで半ば引きずるように連れて行き、ドアを開いて部屋の外へ放り出そうとするけれど、シノブは激しく抵抗してきた。
「帰れ!」
「いや……っ!」
「帰れ!!」
「いや!!!」
 掴む腕にどんなに力を込めても、シノブは決して出て行こうとはしなかった。
あまりの頑なさに、ようやく力を緩めると、シノブの手首は真っ赤になっていて。
「どうして……何も、言ってくれないの……」
 その瞳から、涙が一筋、流れ落ちた。
「私は、あなたの何なの……!?」
 涙を隠しもせず、シノブがまっすぐにあたしを見つめる。悔しくて、悲しくて、仕方ないって、あの時の也美と同じ目をして。
 あたしは掴んだ手を離して、ドアを閉めて、シノブに背を向けた。
「ミチル!! 応えてよ、私はあなたの何なの!?」
 シノブの声が、やけに耳に響く。
うるさい。
うるさくて、たまらない。
お願いだから、もう放っておいて。
どうしてこんなに、あたしが責められなきゃならないの?
どうしてあんたまで、あたしを責めるの?
あたしが一体、何をしたっていうの……!!??
「黙れ!!!」
 振り返ると同時に、あたしは叫んでいた。
抑え切れない衝動。
これ以上、声を発しないで。
でなきゃ、あんたのこと、めちゃくちゃにしてやりたくなる。
「あんたに……あたしの何がわかる?」
 あたしはシノブの肩を掴んで、低い声で言った。シノブが脅えた顔をしても、抑えることは出来なかった。
「言ってくれなきゃ……何もわからないじゃない……!!」
 涙の溜まった瞳で、シノブは怯まずに懸命に訴えてくる。それでもあたしは自分の中の激しい衝動を抑えきれずに、シノブの肩を掴んだまま、シノブの唇に自分の唇を重ねた。
「だったら……あたしのものになってよ」
 触れた唇を離して、あたしは心のままに声を発した。見開かれたシノブの瞳が、驚愕に満ちている。
「あいつと別れて、あたしのものになってよ……!!!」
 叫んでから、自分自身にただ戸惑う。
 なにを言ってるの? あたし。
 自分で自分が、分からない。
 自分の中の衝動を抑えきれない。
 こんなことがしたかったんじゃない。
 こんなことが言いたいんじゃない。
 でも、あたしの中の誰かが、どうしようもなく叫び声をあげている。
 
(寂しい)
 
行かないで。
 
(寂しい)
 
そばにいて。
 
(寂しい……!!!)
 
あたしを置いて行かないで……!!!
 
「……別れる……」
 何かが胸の内で爆発した瞬間、シノブが涙を流しながら、小さく声を発した。
同時に、強く抱きしめられる。
「別れるから……ずっと、ミチルのそばにいるから……・っ」
 強く、強く、抱きしめられる。
 刹那、あたしの瞳から、涙が溢れ出した。
「ずっと、そばにいる……!!」
 悲痛な声が、耳元で響く。
 あたしの中の何かが、ゆっくりと小さく、萎んでいく。
 流れ落ちる涙と一緒に。
 あたしは強く、シノブの体を抱き返した。
 強く、強く、抱きしめた。
 そうしてずいぶん長いこと、ただ強く、あたし達は抱きしめあった。
 
 
 何度目だろう、こんな風に肩を並べて一緒に眠るのは。
 まだ幼かったあの日、あの場所で、初めて心を通わせたあの時から、あたし達はこんな風にずっと二人でいたね。
 小さな巣の中で、餌をくれる親鳥を待ち続けて震えながら、ずっと二人きりで飛び立てずにいた。
 あたしもまた、飛べない雛鳥だったことに、今になってやっと気づいた。だから、一人置いていかれたことが悲しくて。寂しくて。辛くて。
 飛びたいのに飛べなくて、飛び方がわからなくて、必死でもがいて苦しんで足掻いていた。
 でも、やっと、飛べるような気がする。
 あんたがあたしを、限りなく広い大空の中に連れて行ってくれる。
 戻ってきてくれて、ありがとう。
 あたし、頑張らなきゃ。
 ちゃんと、あんたに追いつけるように。
 この巣の中から飛び立って自由になって、二人一緒に、どこまでも高く飛べるように。
 
 
「ミチルが一番、大切よ。今までも、これからも、ずっと……」
「……ばか。そういうことは、蓮川に言ってやんな」
 あたしが笑ってそう言うと、シノブは少し寂しげな目をして、それからゆっくりと眠りに落ちていった。。
 あたしはずっと、その寝顔を見続けた。
 好きだよ。
 あたしもきっと、これから先もずっと、あんたが一番大切で、大好きで。
 この気持ちだけは、何があっても永遠に変わらない。
 だから、もう、終わりにしよう。
 何よりも誰よりも大切だから。
 ずっと二人きりで巣の中に閉じ篭っては、いられない。
 だって、それじゃ、二人一緒に死んでいくだけじゃない?
(ばいばい……シノブ)
 あたしはそっと、シノブの額にキスをした。
 今までもこれからも、あたしの一番の宝物。
 あたしの一番綺麗なもの。
 この世界でたった一つ、心から信じられるもの。
 永遠に、続いていくもの。
 ずっと、離したくはなかったけれど。
 もしあたしが男だったら、一生この手の中で、大切に守り続けていけるけれど。
 それは決して、出来ないから。
 あたしはあたしの道を、歩いて行く。
 
 
 もう、大丈夫。
 あたしは鏡の中の自分にしっかり確認して、前に踏み出すために、戦うべき場所に向かった。
 絶対に、負けるもんか。
 これからも、あたしはあたしを、信じる。
 偽善でも、お節介でも、奇麗事でも、構わない。
 目の前の大切な人が傷つくくらいなら、たとえ誰に罵られようとも、間違っていると言われようとも、あたしは     あたしの信じる自分のままでいる。 
 そうしていつか必ず、あの男に、思い知らせてやるんだ。
 この世界はあんたが思うよりも、ずっと、ずっと、綺麗なところなんだって。