face<前編>

 空はよく晴れ、気温も上々、心地よい風が吹く春真っ盛りの季節だというのに、蓮川の心は重かった。
 今日も仕事のため、電車を降りて会社にむかう道を歩きながら、蓮川は盛大にくしゃみを放つ。
「くしゅっ!!!」
 それと同時に、背後からも同じような音が響き、蓮川はティッシュで鼻を押さえながら振り返る。
「おばよーございばす、みづるぜんばい」
「うーす……」
 同じようにティッシュで鼻をかみながら、蓮川の上司であり高校時代の先輩である池田光流が応えた。
「やっぱマスクくらいするべきですかね」
 やっと鼻の通りが良くなり普通に声を発しながら、蓮川は深くため息をついた。
「いやでも、やっぱ見目悪ぃだろ」
「ですよねー」
 蓮川はうなだれながら頷く。
 数年前から花粉症に悩まされている二人だが、どれだけ悩まされようがマスクをつけないでいるのは、営業マンとして客の前にみっともない姿は晒せないという理由からだ。特に八割方ルックスで顧客を得ているといっても過言ではない光流にとっては、マスクで自慢の顔を覆い尽くすのはかなり抵抗があるらしい。
 とはいえ、今日は晴天のせいもあってか、いつもの倍くらい症状が酷く、とめどなく溢れてくる鼻水と格闘しつつ二人肩を並べて歩いていると、突然蓮川の頭に物凄い衝撃が走った。
「おっはよー、スカ、池田!」
 今しがた蓮川の頭をしたたかに叩いた通勤用カバンを手に、明るい声を放ちながら通り過ぎた女子社員に、蓮川はわなわなと肩を震わせた。
「池田さん! 毎朝カバンで殴るのやめて下さいって!!」
 抗議の声をあげると、肩まで伸びた癖っ毛をバレッタで止め、魅力溢れる顔立ちをした池田ミチルと、その隣に並んで歩いていたストレートの長い髪を風になびかせる社内一の美女、手塚シノブがピタリと立ち止まった。
「だからおまえの頭が叩きやすい位置にあるから悪ぃんだって」
 綺麗な顔にまるで似合わないガサツな口調で、ミチルはにやにや笑いながら言う。その隣で、シノブがクスリと上品に笑みを浮かべた。一瞬目が合って、蓮川の顔が赤くなる。
「くしょっ!!」
 突然、光流がまたしても派手なくしゃみを放った。
「なにおまえ、もしかして花粉症?」
「もしかしなくてもそうだっつの」
 ミチルに尋ねられ、光流はティッシュで鼻を押さえながら応えた。
「まあ大変ですね。良かったらティッシュ、どうぞ?」
「あ、サンキュー。すげー助かる。さすが手塚さん、気が利くね。どっかのガサツ女と違って」
「あ? 誰のことだ池田?」
 ミチルが目をすわらせて光流を睨みつける。
「どーせおまえ、ティッシュどころかハンカチも持ってねーんだろ?」
「ハンカチくらい持ってるよ!ほら!」
 ムキになって言いながら、ミチルがカバンの中から取り出したくしゃくしゃのハンカチを前に、その場に寒い空気が漂う。
「だめだ、おめーぜってぇ、一生男できねーわ」
 光流が首を振りながらわざとらしくため息をついた。
「まてコラ、おまえにだけは言われたくねーよその台詞」
「あ!?」
「知ってんだぜ? おまえこの前、秘書課の青木さんにこっぴどくフられただろ!」
「な、なぜそれを……っ!?」
「女の情報網ナメんじゃねぇ!」
 いつものようにぎゃあぎゃあと言い争いながらさっさと歩いて行く二人を呆れたように見送り、蓮川が小さく息をついた。
「あの二人、ほんと仲悪いですよね」
「あれはあれで楽しんでるのよ」
「はあ……」
 そういうものなのだろうかと思いながらシノブに目を向けると、にっこりと清楚な微笑を向けられ、またしても蓮川の頬が赤く染まった。
「行きましょう、蓮川くん」
「は、はい……っ」
 長い髪がサラリと風になびく。足を踏み出すシノブに、蓮川は慌てて着いていく。
 胸の鼓動がいっそう激しくなった。
 
 
 やはりこれは、恋、というのだろうか。
 昔から色恋沙汰は勿論のこと、全てにおいて鈍い蓮川でも、さすがに自覚せざるをえない症状に見舞われ、蓮川は自分のデスクにカバンを置くなり今日何度目になるか分からないため息をつく。
 だがしかし、不毛だ、とつくづく思う。
 なにせ相手は、社内一の美女と唄われ、社長秘書として社の第一線で活躍し、異性からの好意は波のごとく押し寄せられている、自分にとっては高嶺の花以外の何者でもない相手なのだ。好きだ付き合って下さいと告白したところで秒殺されることはまず間違いないと解っているだけに、ため息をつくより他に出来ることなど一切ありはしないのだった。
 
 その日は新入社員歓迎の催しがあり、最後まで残ったのはやはりいつものメンバーで。
「つーか……もう新入社員一人も残ってないんですけど……」
「あ!? いいから飲め飲め!」
「わっ!」
 完全に酔った様子のミチルから、紙コップに溢れるほどに日本酒を注がれ、蓮川は慌ててコップをしっかり握り締める。目の前では光流と同じく高校時代からの付き合いである如月瞬と手塚忍、ミチルとシノブの学生時代からの友人である如月唯がどんちゃん騒ぎを行っている。
 結局こうなるんだ、と、蓮川は肩を落とした。
「結局こうなるんだよね……」
 その隣で同じように肩を落としながら、同じように紙コップを片手に、蓮川也美が小さく声を発した。
「あーいう先輩達を持つと苦労するよな」
「でも不思議と縁が切れないんだよねぇ……」
 二人同時に深くため息をついたその時だった。
「蓮川、こっち来い! 今から王様ゲームすっぞ!」
「は!? このメンバーで!?」
 光流に呼ばれ、蓮川は目を丸くしながらも立ち上がった。
「そんなもんやってどーすんですかっ!!」
「いいじゃんたまには。たいしたこと要求するわけじゃないから大丈夫だって」
 実に楽しげに、瞬が蓮川の肩をポンポンと叩いた。
 だめだ、完全にみんな酔っている。蓮川は目をすわらせた。
「忍先輩、いいんですか? このメンバーで王様ゲームって、無茶苦茶になりますよ?」
「いいんじゃないか、別に。たまにはハメを外すのも必要だぞ」
 ヒソヒソと耳打ちをされ、メンバーに混じってはいるが少しも酔った様子はない忍が、落ち着いた笑みを蓮川に向けて言った。
「そうよ蓮川くん、いつもみんな仕事でストレス溜まってるんだもの。こういう時くらい楽しみましょ?」
 同じように全く平静なまま、シノブに柔らかく微笑みかけられ、蓮川は途端に自分の鼓動が高鳴るのを感じた。
「あ……はい、そうですよね!」
 気を取り直して、蓮川は瞬が割り箸で作ったくじを引く。自分の手元に「2」の数字が書かれた割り箸が残った。
 どうか当たりませんようにと、胸をドキドキさせながら、王様のくじを引いた唯の言葉を待つ。
「えーと……じゃあ、最初は軽~く、1番と5番がディープキスで!」
 自分が当たらなかったはいいが、しょっぱなからどこが軽~いんだよ!!!と心の中で激しく突っ込みながら、先の不安にかられる蓮川である。
「で、誰なんですか?」
「俺、俺!」
「ほう……いい組み合わせだな、光流」
「げ……!!!」
 すかさず手をあげた光流と、薄く笑みを浮かべた忍を前に、蓮川の表情が青くなった。
「おまえか忍……よっしゃ来い! 俺のスーパーテクでメロメロにしてやる!」
「いちいち言い回しが古くねぇ? あいつ」
「だから青木さんにもフられたんだって。あいついちいち言うこと古臭いのよって激怒してたもん」
 ノリノリで声をあげる光流に、すかさずミチルと唯が突っ込んだ。
「腰が砕けるのはどっちかな? 来いよ、光流」
 忍は低い声でそう言い放つと、光流の顎を捉え、少しも躊躇わず自ら唇を重ねた。
見たくない見たくない!!と蓮川は目を閉じつつも、やはり見ずにはいられない衝動にかられる。人前でも平気でしっかりがっつり舌を絡ませる二人に、妙に心臓がドキドキと高鳴る。
 不意にパシャッと聞きなれた音が耳に届き、蓮川は目を丸くした。
「何やってんの? 如月さん」
「うん、バッチリ! これで当分、お昼代には困らないわ」
「唯ったらいけない子ね」
 携帯にしっかり写った二人のキスシーンを見ながら、唯とシノブが実に楽しげに微笑んだ。女ってつくづく分からないと思いながら、蓮川は酒の入ったコップに口をつける。
「で、どっちがメロメロ?」
「たぶん池田」
「だね」
 二人がやたらと長いキスを終えた後、瞬とミチルが頷き合った。
なんで分かるんだなんでっ、とまたしても心中でつっこみながら、回収されたくじを再び引く。五番の数字を目に、早く終わりたいなどと思ったその時。
「あ……王様、わたしです」
 也美がおずおずと手をあげた。彼女で良かった、と蓮川は安堵する。
「じゃ、じゃあ……六番が五番の頬に……キスで」
 顔を真っ赤にしながら、也美が言った。
 自分の番号を当てられ、蓮川は「げ」と表情を青くする。けれどまだ頬にキス程度ならと安堵したその時、
「あら、相手は誰かしら?」
 シノブがそう言い放った途端、蓮川は思いっきり目を見開いた。
「あ……お、俺、です……」
 顔を真っ赤にしながら、蓮川が手を挙げる。シノブがにっこりと微笑んだ。
「いらっしゃい、蓮川くん」
 まるで小さな子供にでも言うように、シノブは蓮川にむかって手招きした。
 蓮川はこれ以上ないほど全身をこわばらせ、カクカクとした動作でシノブの元へむかう。
「分かりやすい奴……」
「あいつ絶対鼻血吹くぞ」
 光流は呆れ顔で、忍は実に楽しそうに微笑みながらそんな蓮川を見守る。
「蓮川くん」
「は、はい……っ」
「そんな緊張しなくても大丈夫よ?」
「だ……っ、やめて下さい~~っ!!」
 いきなり耳を引っ張られて、蓮川は顔をしかめた。
「ほら、怖くない……」
 シノブは囁くようにそう言うと、蓮川の頬を両手で包み込む。
 傍から見るとまるっきりペット扱いだが、当の蓮川はといえば緊張のあまり何も考えられないようだ。
 シノブの唇が蓮川の頬にわずかに触れた瞬間。
「やっぱり……」
 すぐさまシノブから顔を背け鼻をおさえる蓮川に、光流が頭を抱えたのであった。
 
 
「おまえさ、そんなに好きならとっとと告っちまえば?」
「それが出来たらとっくにやってます」
 翌朝、二日酔いでガンガン響く頭を抱える蓮川に、まるでケロッとした様子の光流が呆れ声を放つ。
「まあ、出来たとこでフられるのは目に見えてるけどな」
「光流先輩……」
 きっぱり言い切る光流に、蓮川は恨みがましい目を向けた。
 営業帰りの道を歩きながら、二人はふと立ち止まる。今まさに口にしていた噂の人物が目の前を歩いていたからだ。刹那、蓮川の胸がチクリと痛んだ。穏やかに微笑むシノブの隣に、同じように優しく微笑む忍の姿があったからだ。
「仲、良いですよね、あの二人……」
「あ? ああ……」
 どこか気遣う様子で光流は頷いた。
「やっぱり忍先輩くらいの人じゃないと、釣り合わないですよね……」
「いやでも、あの二人はそーいうんじゃねぇし……」
 慰めの言葉をかけようとしたが、光流は途中で口を閉ざした。何を言ったところで、今の蓮川にとっては酷以外のなにものでもないだろうと察したからだ。
 どんよりと重い空気を背負ったまま歩いていく蓮川の後ろ姿を見つめながら、光流は小さく息をついた。
 
 
「やっぱどーにかしてやんねぇとなぁ……」
「なに? スカちゃんのこと? 無理だって、シノブさんがスカちゃんに惚れるわけないじゃん」
 休憩室でコーヒーを片手にため息をつく光流に、瞬があっさりと残酷な台詞を口にする。
「おまえ、身も蓋もねぇな」
光流が目をすわらせる。
「じゃあ光流先輩は、うまくいくと思うの?」
「いや……そりゃ思わねーけど……」
 瞬の言葉に、光流は言い返す言葉も見つからなかった。
 確かに誰がどう見たって、蓮川の恋が実る確立など1%の可能性だってありはしない。
「相変わらず過保護だよね。恋なんて当人同士の問題なんだから、放っておきなよ。そのうちスカちゃんだって諦めつくって」
 とても親友とは思えないセリフを口にし、瞬が椅子から立ち上がり休憩室から去っていった。入れ替わりに、今まさに思い悩んでいた人物が入ってくる。
 自販機で紅茶を買い、隅の席に腰を降ろすシノブに、光流は思い切った様子で近づいた。
「手塚さん、ちょっと良いかな?」
「ええ、どうぞ。何かしら?」
 にっこりと微笑みながら、シノブは光流に目を向けた。
「あ、あのさ……もうとっくに分かってると思うけど、蓮川のこと、ちょっとでも真剣に考えてやってくんねぇかな?」
 光流の言葉に、途端にシノブの表情が怜悧なものに変わる。光流は思わずビクッと肩を震わせた。
「あなたに言われなくても、私なりに真剣に考えてますよ? それにこういうことは当人同士の問題ですから、放っておいてくださる?」
 瞬とまったく同じセリフを口にして、シノブは立ち上がるなり光流に冷たく背を向けた。そのあまりの冷徹さに、光流は額に汗を流す。
「池田……おまえまた余計なこと言っただろ?」
 突然背後から声をかけられ、光流はぎょっと後ろを振り返った。見ると呆れ顔のミチルが牛乳片手に立っている。
「な、なんだよっ、見てたのかよ!! だったらちょっとは助けろよ!!」
「なんであたしが助けなきゃなんねーんだよ?」
 ミチルの言葉に、光流は声を詰まらせる。
「俺……手塚さんにそんな悪いことしたか?」
 いつものことだが、シノブにこれ以上ないほど「近寄るな」オーラを発せられていることに気づいてない光流ではない。なぜにそこまで嫌われるのかさっぱり分からない光流は、半泣き状態でミチルに尋ねた。
「だから、おまえが余計なお節介ばっかするからだろ。そーいう偽善的なの、あいつ昔から大嫌いだからさ」
「偽善……ねぇ。そんくらい俺だって解ってるよ。でも善意なんて大体そーいうもんだろ?」
「あいつはたぶん、許せないんだよ。そういう偽善で傷つく人がいる事が、さ。……優しすぎんだ」
 仕方ないようにミチルは言う。
 無二の親友だけあって、シノブのことは何もかもよく理解しているミチルに、光流もそれ以上言うべき言葉は見つからなかった。
 
 
 どうしてこんなに苛立つのか、自分でも解らない。
 けれどあの人だけは、どうしても嫌いで嫌いで仕方が無い。他の人になら、あの程度で敵意をあからさまにしたりはしないのに、彼にだけはどうしても抑えきれない自分に、ただ苛立つ。
私もまだまだ未熟だわ。そんなことを思いながら、まだ開けていない缶の紅茶を片手に、社員食堂の扉を開いた途端に、今まさに出てこようとしたらしい蓮川と鉢合わせした。途端に、蓮川の顔が真っ赤に染まる。
 なんて分かりやすい子なのかしらと心中で呟き、シノブは思わずクスリと微笑んだ。
「お昼、終わったの? 蓮川くん」
「あ……はい、手塚さんはこれからですか?」
「お弁当食べて、ちょっと休憩しようと思ってたところよ。良かったら一緒にどう?」
「え……いいんですか?」
「ええ」
 
 
 いったいどういう風の吹き回しだろう。
 自販機で買ったコーラを前に、蓮川は緊張のあまり口も効けないでいるが、目の前のシノブの態度は実に落ち着いたものだった。
「池田さんて……」
不意にシノブの口から発せられたその名前に、蓮川は目を見開く。
「光流先輩が、どうかしたんですか?」
「……ううん。良い人よね、池田さんて。昔から、ああなの?」
 あくまで微笑んでいるが、どこか暗い雰囲気を感じ取り、蓮川はやや神妙な面持ちをしながらも気を取り直して笑顔を浮かべた。
「ええ、全然変わってませんよ。昔から人のことこき使ってばかりで、偉そうなのにもホドがあるっつーか」
 口をとがらせながら蓮川が言うと、シノブはクスリと微笑んだ。
「でも、好きなのね」
 そう言ってから、ふとシノブは悲しげな顔をする。
「私も、好きになれたら良かった」
「え……?」
「ああいう人を好きになれたら、幸せよね、きっと」
「どういう意味ですか……?」
 蓮川が尋ねると、シノブは静かに微笑む。
「光流先輩のこと、嫌いなんですか……?」
「……好きではないわね、少なくとも」
「どうして……?」
「きっと、私が嫌な人間だからよ」
 小さくそう言うと、シノブは静かに立ち上がった。
「だから蓮川くん、こんな私のこと、好きになっても仕方ないから……・諦めて」
 そうして静かに、はっきりとした口調でそう言うと、シノブは蓮川に背を向けた。
 蓮川は一瞬酷く傷ついた顔をして、顔をうつむける。
 缶コーラを握る手が、微かに震えた。
 
 
 どうしてこんなにも、悔しいのだろう。
 その夜、蓮川は布団の中でシノブに向けられた言葉を何度も反芻させながら、悔しさと憤りでいっぱいの自分にただ苛立った。
『こんな私のこと、好きになっても仕方ないから……』
 こんな?
 こんなって、何だよ?
 綺麗で優しくて頭が良くて人望もあって、喉から手が出るほど彼女を手に入れたがっている男は山ほどいて、それなのに、どうしてあんなこと言うんだよ!?
だいたい「仕方ない」って、どういうことだ?
 そんな言葉一つで諦められるくらいならとっくに諦めてるし、仕方ないなんて思えるくらいなら最初から好きになったりしない。
(ちくしょー……っ)
 悔しい。ただ悔しい。
 フるんだったら、せめてもう少しマシなやり方があるだろうとすら思ってしまう。
 あんな寂しげな表情を見せておいて。
 自虐的なセリフばかりを残して。
 本当は分かってほしいような素振りを見せておいて。
 なのに全身全霊で拒絶されたって、納得できるはずなんてない。
 そう、納得できるわけがない。
 蓮川は突然ガバッと上体を起こし、それから意思の強い瞳を目前に向けた。
 
 
「て、手塚さん!!」
 翌日、出先での仕事を終えた蓮川は、社から出て帰宅しようとするシノブに気合のこもった声をかけた。シノブが長い髪をなびかせて振り返る。
「あ、あの、俺、諦めませんから!!」
 蓮川は耳まで顔を真っ赤にして、まっすぐにシノブを見つめて言った。
「絶対、絶対、諦めません!!」
 半ば意地になっている様子の蓮川を、シノブは表情を変えないままただ見つめる。
 一瞬、どこか悲しげな目をして、それから強い瞳を蓮川に向けた。
「無駄なことはやめて」
 そして冷徹にそう言い放つと、蓮川に背を向ける。
「何が無駄なんですか!?」
 しかし蓮川は怯まずに言い返した。
「……私は誰も好きにならないわ」
 シノブが低い声を放つ。
「どうして……そんな悲しいこと、言うんですか」
 蓮川の拳が小さく震えた。
「そうやってこの先も、ずっとずっと一人で生きていくんですか?」
「そうよ」
「……自分が、嫌いなんですか?」
 蓮川の言葉に、シノブは小さく目を見開いた。
「昨日、言いましたよね。「こんな私のこと、好きになっても仕方ないって」。「こんな私」って、何ですか?」
「……じゃああなたは、私のどこが好きだって言うの?」
 どこか苛立った風に、シノブは蓮川に冷たい視線を向けた。
 一瞬、蓮川がたじろぐ。
「どこって……それは……び、美人だし、仕事も出来るし、いつも誰にでも優しいし……・」
 蓮川の言葉に、シノブはクスリと笑った。
「ありがとう、蓮川くん。見事に騙されてくれて」
「え……?」
「いい機会だから、教えてあげる。私が誰にでも優しいのは、その方が人を利用しやすいからよ」
 冷たい笑みを浮かべながらシノブがそう言った瞬間、蓮川は目を見開いた。
「困った時は誰かが助けてくれるし、余計な敵も作らずに済むからよ。好きで優しくしてきたわけじゃないわ。そうやってずっと、人を利用してきたの」
「どうして、そんな……!」
「いいじゃない、それで。誰だって優しくしてもらえれば嬉しいし、私も何も困ることはないわ。現にあなただって、そういう私を好きだったんでしょう?」
「ち、違います……!」
「何が違うの? みんな、一緒じゃない。見た目と評価と自分にとって都合の良い人間であること、ただそれだけだわ。私に言い寄ってくる男なんて、みんな同じよ。あなただってそういう男達と何一つ変わらない」
 完全に拒絶の言葉と瞳を向けるシノブに、蓮川は言い返す言葉もないようにただ肩を震わせる。
「もうこれ以上、私に近づかないで。迷惑なのよ」
 ハッキリとした口調でそう言うと、シノブは蓮川に背を向け、その場から離れていった。
 シノブの姿を見送りながら、蓮川はただ拳を強く握り締めた。
 
 
 まるで魂が抜け落ちたように自分のデスクに座りボーッと前だけを見つめる蓮川を横目に、いつものメンバーは遠くからあからさまに同情の目を向ける。
「あれはしばらく立ち直れねぇな……」
「それにしても、容赦ないよねシノブさん」
 光流と瞬が、同時に深くため息をつく。
「放っておけ。これであいつも諦めがついただろう」
 そんな二人をヨソに、忍はあくまで冷静に言い放つ。
「まあ、しょせん過ぎた相手だったんだよね~」
 どうにかしてやりたいのは山々だが、できることなど何一つないと解っているだけに、ただ蓮川が立ち直るのを待つしかない三人であった。
 
 
「あんたいくらなんでも、スカ相手にそれは酷すぎ」
 時を同じくして、空いた会議室でミチルが深くため息をついた。
「ほんと容赦ないね、シノブ先輩」
「蓮川くん、あんなに一生懸命だったのに……可哀相」
 同じように、唯と也美も肩を落とした。
 しかしシノブはあくまで平然とした態度だ。
「いいじゃない、余計な期待持たせる方がよっぽど残酷だと思うわ」
「そりゃそーだけど……相手は蓮川だよ? あの純情バカに他の野郎みたいな下心なんてあるわけないじゃん。もうちょっと言い様ってもんがなかったの?」
「……男なんて、みんな同じよ」
 咎めるようなミチルの言葉に、シノブは冷徹に言い放った。ミチルが小さくため息をつく。その隣で、唯がやや神妙な面持ちをした。
「ま、まあ、終わったことは仕方ないじゃないですか! でも……これから気まずくなるのは嫌だなぁ……」
やや悲しげな表情をして也美が言う。
「大丈夫。そんな小さい男じゃないよ、蓮川くんは」
唯が気を取り直したように明るい笑顔を放った。
 
 
 いやいや、やっぱり思いっきり気まずいわよ。
 飲んでぱーっと騒ごうという結論の元、行きつけの居酒屋に足を向けたは良いが、同じことを考えていたらしい男性社員4人組とばったり鉢合わせ、しかも隣同士の席になってしまい、しばし不穏な空気が漂う中、也美は心の中で思い切り絶叫した。
「よ、よう! おまえらも気晴らし?」
 かなり焦った様子ながらも、光流が女性社員たちに明るい笑顔で声をかける。
「そ、そーそー! たまにはぱーっとやんねぇとなぁ!?」
 同じように無理な空気を発しながらミチルが応える。
「とりあえず飲もう! な? スカ、ほら飲め飲め!!」
 必死でその場を明るくしようと、ミチルが蓮川のコップにビールをついだ。しかし蓮川にいつもの生気はなく、やはり気まずい雰囲気が漂う。
「……私、今日は帰るわ。用事があったの思い出したから」
 すると不意に、シノブが声を発した。椅子から立ち上がり鞄を肩にかけると、皆に背を向けて居酒屋を出て行く。
 またも重い空気がその場に漂った。
「スカ~……てめぇ、男ならいつまでもうじうじしてんじゃねえっ!!」
 ミチルが苛立ちを隠せない様子で、ぽかっと蓮川の頭を叩いた。
「まだあの子のこと好きなんだろ!? だったらんな簡単に諦めんなっ!!!」
 ハッパをかけられ、蓮川の手がグッとコップを握り締めた。
 そしていきなりビールを一気に飲み干したかと思うと、すかさず立ち上がって物凄い勢いで居酒屋を飛び出していく。
「池田さん、いいの~? どうせまたこっぴどくフられるだけだと思うよ?」
 蓮川を見送った後、瞬が呆れ声を放った。ミチルが「う……」と声を詰まらせる。思わず勢いで背を押してしまったはいいが、やや後悔している様子だ。
「いいからやらせとけって。あいつはそんな弱い奴じゃねーよ」
「やるだけやったら気が済むだろう」
 あくまで落ち着いた様子の光流と忍の言葉に、ミチルはやや安堵したように息をついた。
 
 
「て、手塚さん……っ!!」
 追いかけてきた相手に呼び止められ、シノブは静かに背後を振り返る。
「あの……俺、やっぱり、好きですから……!!」
 夜道ではっきりとは見えないが、きっといつもと同じ顔をしているに違いない。
 シノブはふっと微笑すると、蓮川のもとに歩み寄った。
「蓮川くん」
「はいっ」
 思い切り緊張を露に返事をすると、いきなり耳を引っ張られて、蓮川はその痛さに眉をしかめながら目を丸くした。
「な……何すんですかっ!?」
「お手」
 今度は手を差し出され、蓮川は反射的にシノブの手に自分の手を重ね、ハッと目を見開いた。
「……って、だから何なんですか!?」
 今度は怒ったように言い放つ。それから手を握られていることに気づき、耳まで顔を赤くした。
「あ、あの……」
 どうして良いか分からないままでいると、シノブはやけに神妙な面持ちで、握った手をただ見つめる。その表情がどこか寂しげで、蓮川はますます戸惑いばかりを感じた。
 やがて、シノブが蓮川の手を握ったまま歩き出す。
「戻りましょうか」
「は……はい……」
 手を引かれるまま、蓮川もその場から歩き出した。
 夜空には無数の星が輝いている。
 きっと、明日はよく晴れるだろう。
「あの……やっぱりマスク、するべきでしょうか」
「しなかったら、自分が辛いんじゃない?」
「……そうですね」
 今日の帰り、コンビニで買って帰ろう。
 そう決めて、蓮川は口を閉ざした。
 握った手は、ただ暖かかった。
 
 
 好きでいることくらいは、許されたのだろうか。
 あれ以来、シノブは以前と何ら変わりなく接してくれている。
 とはいえ結局は以前と何も変わっていないわけだが、蓮川の心の中ではほんの少し変化があったのも確かで。でもじゃあ何が変わったのかと問われても応えることはできないほどに、それは微妙な変化でしかなく。
「おはよう、蓮川くん」
「あ……おはよーございます」
 出勤時、声をかけられ、蓮川はマスクをややずらして返事をかえした。途端にくしゃみに襲われ、慌ててポケットからティッシュを取り出そうとしたら、シノブがすかさずティッシュを差し出してきた。
「ありがとうございます……」
 蓮川は遠慮がちにティッシュを受け取って、一枚取り出して鼻をかむ。
「やっぱりマスクって、必要ですね」
 そう言ってから、蓮川は落ち着いた笑顔をシノブに向けた。
「……傷つかないために、必要なんですよね」
 少しの間を置いて発した蓮川の言葉に、シノブはわずかに目を見開いた。
「人に嘘ついたり、偽りの笑顔向けたりって……必要なんだと思います。そうすることで、誰も傷つかないで済むなら」
 蓮川は優しい笑みを漏らす。
「マスクと一緒ですよね。こんな安いもの一つで少しでも楽になれるなら、最初からつけとけば良かったって思います」
「……でも、邪魔じゃない?」
「慣れれば何てことないですよ。つけてるのが当たり前になってくるっていうか。むしろないと居心地悪くて」
 苦笑しながら蓮川は言葉を続けた。
「だから、手塚さんは間違ってないと思います。俺はそんな、マスクつけた手塚さんがずっと好きで……でもそれだって、本当の手塚さんでしょ?」
 少し鼻を赤くして、少し間抜けな笑顔を見せる蓮川に、シノブは目を伏せ顔をうつむけた。
「嘘の優しさだっていいじゃないですか。それで、傷つく人が一人でも減るなら。だから……自分のこと、嫌いにならないで下さい」
「私は、別に……」
「俺は、好きですから」
 不意に、蓮川がシノブに真剣な目を向けた。
「どんな手塚さんも、好きです。今までと同じように、これからもずっと」
 強い口調で言ったかと思うと、途端に顔を赤くして、蓮川はくるりとシノブに背を向けた。
「だ、だからって……別に、何も望んでませんから! じゃあ……また!!」
 今度はやけに照れた様子で言うだけ言って、蓮川はその場から見事な駆け足で去っていってしまった。
 シノブはそんな蓮川を見送り可笑しいようにクスリと笑い、それからやや切なげに目を伏せた。
 
 
 テレビから流れてくる漫才コンビの罵声と共に、ミチルの爆笑が部屋中に響き渡る。
「ねえミチル……」
 そんなミチルにぴったり寄り添って、シノブが小さく声を発した。ビールを片手にしていたミチルがテレビから目を離してシノブを見つめる。
「……どーした?」
 いつもと違う、寂しげなシノブの表情に、ミチルが小さく尋ねる。
「花粉症って、やっぱり辛いのかしら」
「あ?」
 突然のわけのわからない質問に、ミチルが眉をしかめた。見ると、シノブの手には雑誌が開かれていて、そこにはいろんな形をした可愛いマスクが掲載されている。どうやら花粉症グッズの特集のページだ。
「なにあんた、花粉症になっちゃったの?」
「まさか」
「だよねー。あんた相手じゃ花粉の方が逃げて行くわ」
 からかうようなミチルの言葉に、シノブは同意するように笑った。
「いろんなマスクがあるのね、最近は」
「増えてるみたいだからなー、花粉症」
「ミチルは、どれが好き?」
「えー? んなもんシンプルが一番だよ、シンプルが。普通ので十分」
「あなたらしいわね」
 クスッと笑ってシノブが言う。
「……蓮川くんも、同じこと言うかな」
 シノブの言葉に、ピタリとミチルの動きが止まった。
「シノブ、あんた……」
「……このままの私が好きって、言ってくれたの」
 ミチルの言葉を遮って、シノブが言った。
「でも、私は、そんなのは嫌」
 ミチルの目が悲しげに伏せられた。
「どうしたら……本当の自分、見せられるのかしら」
「……自分で考えな」
「冷たいのね」
「当たり前。甘えんな」
 きっぱり言うミチルに、シノブは緩やかに微笑した。
「好きよ、ミチル」
「あたしに言うことじゃねーだろ」
「……私のこと、好き?」
「いちいち言わなきゃ分からない?」
「分からない」
「だったら……」
 突然、ミチルはガバッとシノブに抱きついて、その身体を床の上に押し倒す。
「キスすんぞっ! このバカ!!」
 言いながら、ミチルはシノブの脇腹をこちょこちょとくすぐり始めた。シノブが迷惑そうに顔をしかめる。
「もう……酔ってるでしょ!」
「うっせーバカ!」
さんざくすぐってから、ミチルはぎゅっとシノブの身体を抱きしめた。
「……ばーか……」
 小さく呟いたミチルの声が部屋に響く。穏やかな表情をして、シノブはミチルの髪にそっと指を絡ませた。
 
 
 やっぱりシンプルが、一番かもね。
 そう思いながら、コンビニの花粉症グッズコーナーに置いてあった、普通の形の白いマスクを手にとってレジに持っていく。
 渡したら、どんな顔するかしら。
 マスクをカバンの中にしまって、どこか楽しげに歩くシノブの前に、見慣れた後ろ姿が映った。思わず駆け寄ろうとしたその時。
「蓮川くん!」
「あ、おはよ、如月さん」
 駆け寄って、実に親しげに蓮川と腕を組む唯に、蓮川がにこやかな笑顔を向ける。 一瞬、ズキンと胸が痛くなった。
 シノブは咄嗟に二人から目を逸らし、そのまま歩き続ける。
「シノブ~、おっはよ~!!」
 突然背後からがばっと抱きつかれ、シノブが目を丸くした。
「……おはよ」
 そして振り返って、にこっと微笑む。
「あれ、スカと唯じゃん」
 ミチルは前方に目を向けたかと思うと、勢いのままに走り出す。
「おっはよ~!」
「だっ!! 池田さんっ、だからいいかげんその挨拶やめて下さいって!!」
 蓮川が抗議の声をあげる。ふと振り返って、シノブは蓮川と視線が合ったが、思わずすぐに逸らしてしまった。
「おはようございます、手塚さん」
 そんなシノブに、蓮川は変わらず明るい声を放つ。
「……おはよう」
 シノブは思いなおしたように顔をあげて、にっこりと微笑んだ。
 
 
 会議室に大量の書類を運ぶシノブの前に、またしても蓮川と唯が一緒にいる場面が目に映った。
「あははは、蓮川くん、可愛い~」
「男が可愛くても仕方ないの!」
 やたらと仲良さげに歩く二人を見た途端、シノブが一瞬眉をしかめる。
 スタスタと早歩きで歩き出し、蓮川と唯を追い越した瞬間、蓮川が「あ」と声をあげた。
「手塚さん!」
 まるで飼い主を見つけた犬のごとく、蓮川が早足で歩くシノブに追いついた。
「それ重そうですね、俺、手伝いますよ」
「結構よ。このくらい自分で持てるわ」
 しかしツンとした態度で蓮川の好意を拒絶するシノブに、蓮川は一瞬戸惑いを見せる。
「……あの、なんで怒ってるんですか?」
「怒ってないわ」
「え……でも……」
 どこからどう見ても怒っているとしか思えないシノブの態度に、蓮川はますます困惑する。
 しかし困惑しながらも、しっかりシノブの後に着いて行き、会議室にたどり着いてドアを開こうとするものの書類が邪魔でなかなか開けないシノブを補佐するため、ドアノブを回す。シノブは一瞬ムッとした表情をして、さっさと先に会議室に入っていった。蓮川もすぐさま後に続いて会議室の扉を閉める。
「あ、あの……俺、なんか悪いことしました?」
「だから、何も怒ってないって言ってるでしょう? 仕事の邪魔だから出て行って」
「怒ってるじゃないですか!!」
 シノブの冷たい言葉に怯まず、蓮川は声を張り上げた。
「そんなあからさまに態度に出されたら、いくら鈍い俺だって解りますよ! 悪いことしたなら謝りますから、ちゃんと言って下さい!!」
 動揺を抑えきれないように、蓮川がシノブの肩を掴んだ。途端、シノブの手に持っていた大量の書類が床の上に散らばる。
「あ……す、すみません……!!」
 蓮川が慌てて無惨に散らばった書類を集めるため床に膝をつく。
「いいから出て行って」
「いやでも、書類が……」
「私の仕事なんだから、私がするわ。いいから出て行って!!」
 突然、シノブのものとは思えないような強い口調で言われ、蓮川の手がぴたりと止まった。
「……そんなに俺のこと、嫌いなんですか」
「誰もそんなこと言ってないわ。ただ仕事の邪魔って言ってるだけよ」
「邪魔って……これだけ散らばった書類一人で片付けるの大変でしょう!? 手伝うことの何が悪いんですか!?」
 あまりに冷たいシノブの言葉に、蓮川は憤りを隠せない様子で声を荒げた。すぐにムキになるのは自分の悪いところだと分かっていても抑えられなかった。
「このくらいあなたなんかに手伝ってもらわなくても一人でできるわよ! 私の仕事なんだから一人でします!!」
 いつも冷静沈着なシノブが、珍しく同じようにムキになって声を荒げる。
「あなたなんかって何ですかあなたなんかって! 男見下すのもいいかげんにして下さい!!」
「見下されるようなことするからでしょう!?」
「俺がいつどこで見下されるようなことしたって言うんですか!?」
 互いに怒りを露にした目を向け、しばし睨み合いが続く。
 やがて、諦めたかのようにシノブが小さく息をついた。
「……分かったわ。私が悪かったわよ。それでいいんでしょう?」
 顔を逸らして投げやりにそんなことを言われ、蓮川の額にますます青筋がたった。
「全然悪かったなんて思ってないじゃないですか……っ」
「思ってるわよ」
「だったらちゃんと、俺の顔見て言って下さい!」
 蓮川の強い口調に、シノブの額にも青筋がたつ。そして蓮川にキッと鋭い瞳をむけた。
「すみませんでした。ごめんなさい」
 蓮川を睨みつけたまま、微塵も感情の篭っていない声を発する。蓮川がふるふると肩を震わせた。
 次の瞬間、パチン!と乾いた音が鳴り響く。
「……いいかげんにして下さい」
 シノブの頬に手を添えたまま、蓮川が低い声を放った。
 シノブは一瞬目を丸くしたかと思うと、蓮川の手が離れた途端にわなわなと肩を震わせる。
「……殴ったわね」
 恐ろしいほどの低い声と冷気をまとったオーラに、途端に蓮川がビクッと顔を引きつらせた。
「あ……いや……つ、ついはずみで……っ」
「女を殴るなんて、最低」
 しかしシノブは少しも怒りのオーラを緩めない。
「いや……あの、す、すみません……! ごめんなさい……!!」
「そうやって力で抑え付ければ、女はみんな静かになると思ってるんでしょ?」
「いや……あの……っ」
「だから男なんて嫌いなのよ! いいからもう出て行って!! あなたなんか嫌い!! 大っっっ嫌い!!!」
 完全なる拒絶の声をオーラを向けられ、蓮川は「はいっ!」と情けない声をあげて踵を返し、慌ててその場から駆け出し会議室を後にしたのであった。
 
 
「おまえ……それはさすがにやべーだろ」
「女殴るなんてサイテー」
「もう一生口効いてもらえんな」
 またしても死んだように机に突っ伏す蓮川に、三人は容赦ない言葉を向ける。
「俺だって反省してます。ついカッとなって……。でも、あんまり素直じゃないから……つい……」
「おまえな、暴力で事を解決させようってのは男として最低の行為だぞ?」
「それをおまえが言うか?」
 光流の言葉に、忍が目をすわらせた。
「男はいいんだよ、相手が男なら! 男は拳と拳で分かり合う生き物だっ!!」
「さすが光流先輩、単細胞~。僕は解りません~」
「うっせー瞬! 蓮川、とにかく今すぐ謝って来い!!」
「いや、この場合間を置くべきだろう。今謝ったところでなおさら拒絶されるだけだ」
 あくまで冷静な忍に、蓮川はうなだれながら「はい」と頷いた。
 
 
 床に散らばった書類を拾い集めていると、ふと会議室の扉が開いた。目が合った相手は、一言の言葉も発さずに、腰を落として床に散らばった書類を拾い集めていく。
 少しの沈黙の後、小さくシノブが口を開いた。
「言いたいこと、あるんでしょう?」
 シノブの言葉に、しかしミチルは厳しい顔つきを崩さない。
 ますますシノブが神妙な面持ちになった。
「……言われなくても、分かってんでしょ?」
 やがてミチルが小さく声を発した。そうしてただ黙々と書類を拾い集める。
 静かな沈黙の中、シノブもまた書類を拾い集める。その手は微かに震えていた。
 
 
 過去にないほど激しい自己嫌悪に見舞われながら、蓮川は社までの道のりをとぼとぼと歩き続ける。
「蓮川くん」
 ふと聞き覚えのある声が耳に届き、蓮川は咄嗟に振り返った。
 するとそこには、いつもの穏やかな笑みを浮かべたシノブが立っていた。思い切り鼓動が高まるのを感じつつ、つけていたマスクを顎までずらす。
「あ……き、昨日は……」
「昨日はごめんなさい」
 蓮川が言いかけた言葉を遮るように、シノブが声を発した。同時に小さく頭を下げる。蓮川は困惑した。
「え……」
「昨日は仕事で先のスケジュールが詰まってて、少し苛々してたの。あなたに八つ当たりするような真似して、反省してるわ」
 流暢にそう言って、シノブはにっこりと微笑んだ。
「本当にごめんなさいね。これからは気をつけるわ」
 笑みを浮かべたままに、シノブは蓮川の横を通り過ぎてそのままスタスタと歩いて行く。
「ま、待って下さいっ……!!」
 咄嗟に、蓮川が声をあげながらシノブを追いかけて、その肩を掴んだ。
「元はといえば俺が悪いんじゃないですか! なのになんで手塚さんが謝るんですか!?」
「あら、だって八つ当たりしたのは本当だもの」
 必死な形相をする蓮川に、シノブはあくまで落ち着いた笑みを向ける。ますます蓮川の表情が焦りに満ちた。
「いやでも、謝るのは俺の方です! 殴ったりして……本当にすみませんでした……!!!」
 心の底から反省している様子で、蓮川は深々とシノブにむかって頭を下げた。
「いいのよ、あのくらい、何とも思ってないわ。だからもう、終わりにしましょ?」
 頭をあげると、シノブは優しく蓮川に微笑みかける。
「……怒ってないんですか?」
「もちろんよ。あのくらいで怒るほど子供じゃないわ」
 おずおずと尋ねる蓮川に、シノブは笑みを絶やさない。一瞬、蓮川の目が真剣になった。
「じゃあまたね、蓮川くん」
「ま、待って下さい!!」
 蓮川に背を向けて歩き出したシノブの肩にかけたカバンを掴み、蓮川は咄嗟に引きとめた。刹那、シノブのカバンが音をたてて地面の上に落ち、中に入っていた書類や小物類が散らばる。
「す、すみません!!!」
 蓮川は慌てて腰を下ろして散らばったペンや書類を拾い集めた。
 ふと、一冊の本を手にとって、蓮川は怪訝そうに眉を寄せた。
「呪いの本……?」
 サブタイトルに「恨みを晴らす復讐マニュアル」と名のついた本を手に、蓮川はますます眉をしかめた。
 咄嗟に、シノブにその本を奪い返される。蓮川が顔をあげると、シノブは先ほどまでとはまるで違う、怒った表情を蓮川に向けた。
「あの、その本って、もしかして俺への復讐のために……?」
 苦笑しながら尋ねる蓮川に、シノブは次の瞬間、カッと頬を赤らめた。蓮川の目が大きく見開かれる。
「わ、悪い? 私、こういうの得意なんだから……!」
 少し、いやかなりムキになってそんなことを言うシノブに、蓮川はますます目を大きくした。それとほぼ同時に、「ぷっ」と吹き出す。
 シノブがますます目つきを鋭くさせた。そして凄まじい冷気オーラを纏うと、蓮川に詰め寄る。
「本気で呪うわよ?」
「はい……はいっ、すみません!!」
 これ以上ないほどの冷気を放たれ、蓮川は慌てて笑うのをやめる。そして地面に散らばった書類を全て拾い上げて立ち上がると、穏やかな笑みをシノブに向けた。
「いいですよ、呪っても」
 呪いの本を胸に抱くシノブに、蓮川は落ち着いた瞳を向ける。
「っていうか、そうやって、怒って下さい」
 その言葉に、シノブは目を見張って蓮川を見た。
「さっきの澄ました笑顔より、ずっとずっと、嬉しいですから」
 穏やかに言って、蓮川は手にしていた書類をシノブに手渡した。シノブは何も言わず、黙って書類を受け取る。
「呪うなり殴るなり、好きにしていいんですよ。俺、高校時代に先輩達に鍛えられたおかげで、打たれ強いとこだけは人一倍自信あるんで」
 やや自虐的なセリフと共に苦笑して、蓮川はその場から歩き出した。
「蓮川くん」
 ふと、シノブに呼び止められ、蓮川は振り返る。
 シノブはカバンのサイドポケットに入れていたものを取り出し、蓮川に差し出した。
「あ……ありがとう、ございます……」
 遠慮がちに、蓮川はシノブに手渡されたマスクを受け取った。
 普通の形の、白いマスク。
 ほんの少し触れた指先が、微かに震えていた。
 
 
「なにあれ、不気味すぎ……」
 デスクに座り、仕事そっちのけで、なんの変哲もないごく普通のマスクを見つめながらニヤニヤと笑い続ける蓮川を、瞬が不気味そうな目で見つめる。その隣で、光流もまた顔を引きつらせた。
「とうとう頭イカれちまったか……」
 マスクを見てはニヤニヤ笑い、時々ぎゅっと胸に抱きしめたり、マスクの袋に口付けたりと、挙動不審な行動ばかりを繰り返す蓮川に、もはやかける言葉も見つからない二人であった。
 
 
 可愛い。
 可愛い可愛い可愛いっ!!!
 もう頼むから呪って下さい!! 手塚さんに呪われるなら、俺、本望です!!!
 そんなことを思いながら、相変わらず浮かれながら退社する蓮川の前に、長い髪をなびかせ清楚に佇むシノブの姿が映った。
 途端に顔を真っ赤にして、蓮川はシノブに駆け寄る。
 しかし、声をかけようとしたその時、シノブが別の誰かにむかって笑みを浮かべた。現れたのは社長だった。社長はシノブの肩に手をかけ、その場から歩き出す。シノブは変わらない笑みを浮かべるが、歩き出したと同時に、一瞬、酷く冷徹な表情を露にした
反射的に、蓮川はその場を駆け出していた。そして突然、シノブの手首をぎゅっと掴み、社長から引き離すようにシノブを引っ張ってその場から連れ出す。
「ちょっと……蓮川くん……!!」
 あまりの力強さに止まることもできず、シノブは声をあげるが、蓮川は力を少しも緩めない。そのままかなりの距離を歩いて、あまり人気のない路地で、ようやく蓮川はシノブの手を離した。
「どういうつもり?」
 シノブに怒った目を向けられるが、蓮川の真剣な表情は変わらない。
「なんとか言って」
 黙り込む蓮川に、シノブは更に厳しい目を向けた。
「……すみません」
 わずかに肩を震わせ、蓮川がようやく小さな声を発した。
「どういうつもりかって聞いてるの」
 変わらず鋭い視線を向けるシノブに、蓮川は悲しげに目を伏せてシノブから顔を逸らした。
「……嫌だったんです」
「私は社長秘書よ。社長の食事に付き合うのも仕事の一つだわ」
「……はい」
「仕事は仕事よ、私にそれ以上の気持ちは何も無いの。だから子供っぽいことはやめて」
「……はい」
 シノブの厳しい言葉に、蓮川はただ小さく頷く。
「もう……しません。本当にすみませんでした」
 そして酷くうなだれたままそう言うと、蓮川はシノブに背を向けてとぼとぼと歩き出す。
不意に、手に暖かい感触が走った。蓮川が目を見開く。
「手塚さ……」
「……馬鹿ね」
 囁くようなその声に、蓮川の目に涙が滲んだ。
「すみません……」
「謝らないで」
 いっそう強く、シノブの手が蓮川の手を握り締める。
 見ると、さっきまでの怜悧な表情がほんの少し強張っていて。
 今、一生懸命、泣かずに頑張っているんだ。
 そう思ったら、しっかりしなきゃって思った。
 この、強くて優しい人を、自分が守ってあげられるように。
 いつか当たり前に、彼女が泣けるように。