残響<後編>


 街中がクリスマスの色に染められる頃、仕事の最中に光流から電話がかかってきた。
『仕事、今日何時に終わる?』
 七時には終わりそうだと言ったら、だったらたまにはどこかで待ち合せて飲みにでも行こうと、行きつけの居酒屋で待ち合わせることになった。
「悪ぃ、待たせた!!」
 三十分ほど遅れてやってきた光流が、向かい側の席に座ってビールを注文する。
「あ、そーいやおまえ、もうすぐ誕生日だっけ。なんか欲しいもんある?」
「なんだ急に?」
 誕生日など、今まで互いに祝うこともなく、抱き合った後に思い出したように「おめでとう」の一言で終わっていたのに、なぜ急にそんなことを言い出すのかと、忍は怪訝そうに尋ねた。
「いや……なんつーか、そーいう恋人同士~みたいなこと、たまにはいいかなって」
 少し照れくさそうに光流が言った。忍は口をへの字に曲げて、考え込むような顔つきをする。
「考えておく」
 間を置いて言った忍に、光流はニヤリと笑みを向けた。
「俺、っつーのは?」
「今更おまえを貰ってもな」
「どーいう意味だっ」
 うんざりしたように言う忍に、光流が眉をしかめたその時だった。
「おう池田、おまえも来てたのか」
 ふと隣に座ろうとしていた数人の男女のグループが、光流の顔を見るなり近寄ってきた。
「なによ、急いで帰ってデートかと思えば、男友達と会う約束だったんだ?」
「悪ぃかよ」
 からかうように声をかけてきた女性に、光流は実に親しげに目を向ける。
 どうやら全員、仕事仲間のようだ。
 どこに行っても人に囲まれる光流は、仕事場でもやはり人気者であるらしい。誰もが無遠慮に光流に声をかけてくる。高校時代から少しも変わらない人付き合いの良さに、忍は懐かしさを覚えた。そういえばこんな風に光流が人に囲まれているのを見るのは、ずいぶん久しぶりのような気がした。
 そして光流と初めて出会ってからもう十年以上もの時が流れている事に気づき、感嘆すると共に、何故か切なさのようなものを覚えた。
 
 
『なんか欲しいもんある?』
 裁判所での仕事を終え事務所に戻る途中、忍は何気なく光流の言っていた言葉を思い出し、ピタリと足を止めた。
 誕生日プレゼント。考えておくとは言ったけれど、特にこれといって何も思い浮かばない。
 けれど光流のことだ、「何もない」と言ったところで納得しないだろう。どうしたものかと考えて、そういえば光流の財布がずいぶんボロボロになっていた事に気づき、仕事帰りに百貨店に寄るついでに自分の欲しいものも探してみようと思いながら、また足を踏み出す。日用品に関しては「使えれば良い」と言って全く気遣わない光流のことだ、買ってやらなければいつまでたってもボロボロの財布を使い続けるに違いない。
『恋人同士~みたいなこと、たまにはいいかなって』
 街中のイルミネーションを見て、またそんな言葉を思い出した。
 そういえば、もうすぐクリスマスだった。今まで、別にクリスチャンでもあるまいし、クリスマスなど意味のないことだと思っていたけれど。
 自分の選んだものを見て、光流が嬉しそうな笑顔を浮かべる。そんな光景を思い浮かべたら、ほんの少し、光流が言った言葉の意味が分かった気がした。
 きちんと考えてみよう。
 そんな風に思いながら前を向いた瞬間、忍の目が驚愕に満ちた。
 人の群れの中に、確かに見覚えのある姿が目に映った。光流だった。
 けれどすぐに声をかけられなかったのは、光流が一人ではなかったからだ。
 すぐそばで肩を並べ、光流が笑顔を向ける先にあった姿が、彼女──河合諒子、だったからだ。
 無意識のうちに、忍は踵を返し、今来た道に向けて足を急がせていた。何故だか心臓の音が高鳴って、いつまでたっても落ち着かない。すぐに声をかければ良かったのに、何故──!?。
 光流と諒子が二人並んで歩く姿が、頭の中に浮かび上がっては消え、いつまでも離れなかった。
 
 
 そんなはずが、ない。
 今になって、光流が自分を裏切ることなど、あるはずがない。
 そう分かっているのに、信じているのに、どうしても諒子のことを尋ねることは出来なかった。
 相変わらず光流の口からその名前が出ることもなく、そのことが酷く辛く苦しい。ただ一言、彼女と会っているのかと尋ねれば、それで楽になれる事も分かっているのに、くだらないプライドばかりが邪魔をする。
 いつまで経っても変わらない自分の愚かさにただ自己嫌悪しながら、仕事の合間に昼食をとるため適当な軽食喫茶に足を踏み入れ、空いている席に腰を下ろす、
「忍先輩!?」
 突然、前方から大きな声がして、忍は顔をあげた。
 嬉々として自分の元に歩み寄ってくる、がっちりした体格の大柄な男を前に、忍は目を見開いた。
「藤掛……」
 彼は間違いなく、高校時代の一つ年下の後輩、藤掛達郎だった。

「お久しぶりです! あ、ここ座っていいですか?」
「ああ、久しぶりだな、藤掛」
 忍は柔らかい笑みを藤掛に向けた。
「変わってないですね、先輩! すぐに分かりましたよ」
 人当たりのよい笑みを浮かべる藤掛は、外観こそずいぶん大人になったが、中身は少しも変わっていないようだ。相変わらず人の良い、気さくで誰からも好かれる性質の彼に、忍はただ懐かしさばかりを覚えながら、とりとめのない話を始めた。
 現在は実家のみかん農園を継ぎ、結婚もして最近子供が生まれたばかりだと言う。女の子だったので、次は男の子を頑張れと、早くも二人目を切望されていて参っていると、苦笑しながら藤掛は言った。
 東京には友人の結婚式で出向いてきたらしい。これから実家に帰る途中だったらしく、突然の思いがけない再会ができて、迷いながらもここに入ってよかったと明るく笑った。
「……渡辺とは、別れたんだな」
 ずいぶん迷った挙句、忍は藤掛に尋ねた。
 高校時代、寮内で唯一の恋人同士として周囲からも認められていた彼らだったが、結婚したということはとうに別れたのだろう。
「ええ、高校卒業して、割とすぐに」
 藤掛はやや遠慮がちながらも、笑って言った。
「やっぱり男同士だからか……?」
「……っていうよりは、最初から、違ってたんだと思います」
「違ってた……?」
 忍は思いがけない藤掛の言葉に不審な目をした。
「なんて言うのかな、恋と錯覚してたって言うんでしょうか。出会ったばかりの頃の由樹って、あんまり頼りなくて弱々しくて……俺はそういう由樹を、ただ守ってやりたかっただけで……でもそれって、恋とは違ってたのかなって」
 藤掛は苦笑しながらそう言って、カップに残っていたコーヒーを一気に飲み干した。
 忍はその言葉に、一瞬、声を失った。
「でも、恋とは違ってたかもしれないけど、あの頃は確かに本当に好きだったんですよ。だから別れた後もしばらく辛かったけど……今は、これで良かったんだなって思ってます。俺にとっては、綺麗な思い出ですから」
「そう……か」
 忍は伏し目がちに穏やかな笑みを浮かべた。
 それから少し談笑した後、忍は藤掛と共に店を出て、「また会えたら」と別れを告げた。
 
 事務所に向かい、街中を歩く忍の目の前を、幾人もの人が通り過ぎる。
 何組めかの男女のカップルを目前に、忍はどこか遠い目をした。
 当たり前に手をつないだり、腕を組んだり、寄り添って歩く恋人同士の姿ばかりがやけに目について、意識から離れない。
『恋と錯覚してた』
 ふと、藤掛の言葉が頭の中に甦り、忍の目が悲しげに伏せられた。
 
 
 クリスマスまであとニ週間もない。いいかげん、光流の財布を買いに行かなければと思いながら、仕事が終わってデパートに足を向ける忍の携帯から、着信音が鳴り響いた。着信相手は全く知らない番号で、少し躊躇しながらも忍は携帯を耳にあてた。
「はい」
『あ……あの、お久しぶりです、河合諒子です』
 一瞬、忍の手がピクリと震えた。
 
 
 待ち合わせの喫茶店に足を踏み入れると、既に窓際の席に諒子の姿があった。
 店に入ってきた忍を見るなり、諒子が慌てて立ち上がり、ペコリと頭を下げる。
「すみません、急に呼び出したりして!!」
「いえ、たまたま近くにいて、良かったですよ」
 忍は社交辞令の笑みを浮かべ、諒子の向かい側の席に腰を下ろした。
「僕の携帯番号は、光流から聞いたんですか?」
 あくまで優しい口調で忍が尋ねると、諒子はすぐに頷いた。
「はい……あの、どうしてもすぐに弁護士さんに相談したいことがあって。池田さんに尋ねたら、手塚さんに相談するのが一番良いって、番号教えてくれて……あ、もちろん相談料はお支払いします!!」
「いえ、結構ですよ。光流の紹介では断れませんからね」
「あ……そうですよね、恋人同士ですものね」
 にっこり微笑んで言った諒子に、忍は一瞬笑顔を凍らせた。
「池田さん、会うといつも手塚さんの話ばかりで、あてられてばかりなんですよ、私。この前も、もうすぐ誕生日なんだけどプレゼントどうしようって、本気で悩んでらして」
「……この前?」
「ええ、池田さんが実家に遊びに来てる際に。実は私、正十さんの奥さんと昔からの親友で、それでよく池田さんの実家に遊びに行ってるんですけど、最近池田さんもよく実家に来られるから、この前もそれでお話させてもらって。例のストーカーの事でもずいぶんお世話になって、おかげで被害が止んで助かりました」
 屈託ない笑顔で話す諒子に、忍は表向きの微笑を絶やさない。
「そうだったんですね。あいつ、何も話さないから、知りませんでした」
「そうなんですか? 私には、いつも手塚さんの話ばかりですよ?」
 どこかからかうような視線を向けられ、思わず忍は諒子から視線を逸らした。諒子がクスリと微笑む。
「羨ましいです、池田さんみたいな人に、あんなに愛されて」
 にっこり笑ってそう言った諒子に、忍は直感的に、笑顔とは裏腹の光流への想いを感じ取った。
「光流が……好きなんですね」
 単刀直入に尋ねると、諒子は図星をさされたように顔を赤くする。
「い、いえ……! あの私、二人の邪魔しようなんて、これっぽっちも思ってませんから!!」
 慌てる諒子に、忍は静かな笑みを向けた。
「慌てなくても結構ですよ。好きになった相手にたまたま恋人がいても、それは仕方の無いことですから」
「……すみません」
 諒子は酷く遠慮がちに顔をうつむけた。
 ずいぶんと素直な反応に、忍はただ優しい笑顔を向ける。
「初めて会った時から……素敵な人だなって思って、たまに会ってお話してるうちに、どんどんその気持ちが高まって……。でもたぶん、近い人なんだからだと思います」
「近い人?」
 尋ねられ、諒子はやや遠慮がちに笑って、また口を開いた。
「実は私も、里子なんです。だから両親とは血が繋がってなくて、実の両親もどんな人だったか分かりません」
「ああ……そうだったんですね」
 忍は伏目がちに応えた。
「実の両親に、会ってみたいですか?」
「いえ、私の両親は、今の育ててくれた両親だけです」
「好きなんですね、ご両親のことが」
「ええ、だから早く結婚して孫の顔を見せてあげたいって思ってるんですけど、なかなか相手に恵まれなくって」
 苦笑しながら諒子は言った。
 それから三十分ほど、諒子の母親が遺産相続の件で悩んでいるという話の相談にのり、また何か困ったことがあれば遠慮無く相談してくれと、当たり障りの無い言葉を最後に忍は諒子と別れた。
 
 家に戻ってから「河合さんから連絡があった」と光流に告げると、光流は笑って「そりゃ良かった」と応えた。
 忍は自己嫌悪ばかりを感じ、そんな罪悪感を追い払うように、光流の首に腕を回し自ら唇を重ねた。
「……どーした?」
 滅多に見られない忍からの積極的な抱擁に、光流はやや驚きと戸惑いを隠せない瞳を向ける。ずいぶんと照れている光流に、忍は無言のまま、回した腕に力を込める。慣れた匂いと暖かい体温。どうしようもない愛しさばかりが込み上げてくる。何か言葉を発したら、溢れてくる感情が抑えきれず泣き出してしまいそうな気がして、ただ無言のまま熱い抱擁を繰り返した。
 
 その数日後、久しぶりの二人そろっての休日に、忍は光流を誘い出して車を走らせた。
 いつものように何気ない会話をしながらドライブを楽しみ、以前にも来たことのある海沿いに車を止め、人気のない海岸を二人歩いた。
「さっみ~!!」
 真冬の海風の冷たさに、光流が体を震わせながら忍の体に背中から抱きついた。
「にしても、何で急にドライブ? しかも海?」
「たまにはこういう休日もいいだろう?」
「え~、俺は家にいる方がいい」
「おまえの目的は一つしかないだろ」
 忍が目をすわらせると、光流はニヤッと笑って、忍の耳に唇を寄せる。
 誰もいないと思って完全に気を抜いている光流の様子に、しかし忍は拒むこともせず、抱きしめられるままに目を伏せた。
「そーいや、誕生日プレゼント、何が良いか決まった?」
 忍を抱きしめたまま、光流が急かすように尋ねた。
 少しの間を置いて、忍が口を開く。
「……財布がいい」
「財布? どんなの?」
「おまえが今使ってるようなのがいいな」
「そっか、分かった」
 そう言って、光流は忍を抱く腕に、少し力を込めた。
 忍が振り返ると、それが合図だったように光流の唇が重なってくる。少し冷たい感覚に、忍はゆっくり目を閉じた。
 触れるだけのキスをして唇が離れると、光流は少し照れくさそうに笑って、それから急に浜辺にむかって駆け出した。
 押し寄せてくる波を蹴って楽しそうに無邪気に遊ぶその姿を眺める忍の表情は、酷く穏やかなものだった。

(もう……充分だ)
 
 そっと目を閉じ、忍は確かに、そう想った。
 そうして、光流と過ごした十年以上の時を、何度も振り返る。
 
 これまで一体、何度共に笑い合い、何度喧嘩してぶつかり合ってきだろう。
 その度、どれだけの喜びを感じ、幾度胸が引き裂かれるほどの悲しみを抱いただろう。
 今はただ、全てが懐かしく──。
 
 緩やかに微笑しながら、忍は数え切れないほどの記憶と向き合う。
 初めて出会い、光流によって救われたあの時から、溢れるほどの愛情と優しさと暖かさを降り注いでもらって、数え切れないほど多くの感情を育んでもらった。
 それだけで、もう、充分だ。

(大丈夫)

 目を閉じれば、鮮やかに浮かんでくる。
 我が子を腕の中に抱き、愛する女性に優しい笑顔を向ける、当たり前に日常に溶け込む光流の幸福な姿。

(もう……一人でも、生きていける)

 穏やかな顔つきのまま、忍は静かに口を開いた。
「光流」
「ん?」
「……別れて、ほしいんだ」
 光流の表情が、一瞬にして驚愕の色に満ちた。

 
 
 家に戻って電気もつけずに床の上に座り込む光流を背後から眺めながら、忍は照明のスイッチを指で押した。
 パッと部屋が明るく照らされ、しばらく無言の時が流れる。
 先に沈黙を破ったのは忍だった。
「光流……分かってくれ」
 突然の別れの言葉に、光流は車の中で何度も理由を尋ねた。
 どうしても海外でやりたい仕事があるとだけ、忍は応えた。いつ日本に戻って来れるか分からない。だったら一緒に行くと言った光流に、おまえも仕事を捨てられないだろうと尋ねると、光流は苦しげに沈黙した。
「わ……からねぇよ……っ、……ん……でだよ……っ!!」
 苦悩の色を浮かべながら、光流がガン!!!とコタツのテーブルを叩いた。
 あまりに突然の宣告に、光流は激しい動揺を隠せない様子だが、忍はあくまで冷静に口を開く。
「おまえが今の仕事を捨てられないように、どうしてもやりたい事があるんだ。だから……」
「だったら……待ってる。たまにでも、ここに帰ってきてくれたら、俺はそれで……!」
「そんな半端なことはしたくない。だから別れるんだ」
「なんで……!! 何でだよ!?」
 光流は懇願するような目を忍に向けた。その目から自分の瞳を逸らさずに、忍は応える。
「大丈夫だ、離れたら、すぐに忘れる。少しの間は辛くても、おまえはまた他の誰かを好きになる。だからその人と結婚して、子供を作って……幸せになるんだ」
「んなわけねぇだろ……!? 何ふざけた事言ってんだよ……っ!?」
 突然、光流は立ち上がり、忍に詰め寄って思い切り肩を掴んだ。
「おまえは忘れられるのか!! 俺と別れても、またすぐ他の誰かを好きになれるのかよ!?」
「……そうだ」
 意思の強い瞳をして言った忍の言葉に、光流は絶望にも似た表情をした。
「そういうものだ。愛だの恋だの、そんなものはいつまでも続かない。おまえは……自分の責任に執着しているだけだ」
「責任……?」
「俺を殴ったあの時のことを、後悔しているんだろう?」
 咄嗟に光流が目を見張った。
「もう……いいんだ、そんな責任にいつまでも捕われる必要はない。俺はもう、一人でも、大丈夫だから」
「な……に言って……、誰が、責任なんて……」
 光流の声がわずかに震える。まるで言い返す言葉も出て来ないように。
「自由になれ、光流」
 忍の言葉に、しかし光流は大きく首を横に振った。
「大丈夫だ、すぐに忘れる。辛いのは、今だけだ」
「……だ」
「おまえなら……またすぐに、他の誰かを好きになれる」
「……っ……やだ……!!」
「だから、もう自由になって、早く両親を安心させてやれ」
「嫌だ!!!」
 振り絞るような声で叫ぶと、光流は乱暴に忍の唇を奪った。
 そのまま床の上に忍の身体を押し倒し、激情の入り混じった荒々しい口付けを交わす。忍は抵抗することなく、黙ってその激情を受け入れた。
「嫌だ……!! 絶対にどこにも行かせねぇ……!!!」
 獣のような瞳が忍を見据え、光流の手が乱暴に忍のシャツを引き裂き、ボタンがはじけ飛んだ。
「……好きに、すればいい」
 しかし忍はあくまで落ち着いた声色を変えずに言い放った。
「それで……人の心が本当に手に入ると思うなら」
 その言葉に、光流の手がピタリと止まる。 
 そして更なる絶望に満ちた瞳で、冷静な忍の目を見つめる。
 やがて諦めたかのように、光流は忍から体を離し、忍に背を向けて床の上に座り込んだ。
「……ら……ねぇよ……」
 震える声。肩。酷く小さく見える光流の後姿。
「他の奴なんか……好きになんねぇ……!!」
「今だけだ」
「違う!!!」
 決して忍に顔は見せない光流の震える肩に、忍はそっと手を置いた。
「違う……!!!」
 そうして、ただ、時を待った。
 光流の肩の震えが止まるまで。
 
 
 いつまでも待ち続けると、光流は言った。
 自分の気持ちが変わらないことを、証明してみせると。
 けれど、忍は待つなと言った。
 二度とこの家に戻ることはないからと。
 春になったら、荷物を全てまとめて出て行く。
 だからそれまでは、今まで通り、恋人同士でいよう。
 何度でも、抱き合おう。
 そして……忘れるんだ。
 しかし決して首を縦には振らない光流に、何度も同じ言葉を繰り返した。
 幸せになれ、と。
 
 
 その日は、何がなんでも絶対に早く帰ってこいと忍に言い含めて。
 だから自分も批難覚悟で強引に早い時間に仕事を切り上げて、帰りに百貨店で以前に目星をつけていた自分の物とよく似た財布を包装紙に包んでもらって、地下で高いワインを買って、急ぎ足で家に向かった。
 けれど家のドアを開いた光流の目に映ったのは、絶望的な光景だけだった。
 玄関に入った時点で、すぐに何かがおかしいと気づいた。
 部屋の中に入り照明を明るくした後の妙に殺風景な部屋を前に、光流は愕然として紙袋を床の上に落とした。
 急いで寝室にむかい、クローゼットの扉を開く。同じように、棚の引き出しや、ベッドの下の引き出し。
 しかしどこを探しても、何一つ見つからなかった。
 まるで、最初から何もなかったように。どこにもいなかったかのように。
 忍の使っていた衣類も小物もボールペン一つに至るまで、綺麗に消えて無くなっていた。
「忍……っ!!!」
 光流は誰もいないと分かっている部屋にむかって、何度も呼びかけた。

 春までは、どこにも行かないって言ったじゃないか。
 つい昨日の夜まで、抱き合ってキスをして、まだここにいるから大丈夫って、明日の夜は一緒に誕生日を祝おうって、確かにそう言ったじゃないか。

 震える手で、光流は携帯電話のボタンを押した。
 鳴り続けるコール音を耳に、心の中で何度も祈る。
 頼むから出てくれ。
 頼むから。頼むから。頼むから。
「……のぶ……っ!!!」
 頼むから。
 何十回も鳴り続けるコール音を耳に、光流は壁に背を押し付け、ズルズルと床に座り込んだ。
「忍……っ!!!」
 光流の瞳から、いく筋もの涙が携帯電話を握る手の上に零れ落ちる。
 涙に濡れた手で握り締める携帯電話から、いつまでもいつまでもコール音が鳴り響いた。
 
 
 街中を歩きながら、忍は携帯電話を耳にあてた。
「もしもし、夜分にすみません」
『いえ、どうかされたんですか?』
「実はさっき光流から電話があって、あいつ風邪ひいて動けないから早く帰って来いってうるさいんですが、今日は仕事でどうしても帰れそうになくて。だから、少し様子を見に行ってやってくれませんか?」
『え……でも……』
「よろしくお願いします」
 相手の返事は聞かずに、忍はすぐに電話を切った。
 
 
 シティーホテルの一室から、窓の外に広がる夜景を眺めながら、これで良かったのだと、忍は自分に言い聞かせた。
 不思議なほどに、心は落ち着いていた。
 ただ、冷蔵庫のドレッシングは今週中に使い切れと言い忘れたとか、洗濯用の洗剤が切れかけていたから買い足しておけば良かったとか、そんな、今更どうでも良いくだらない後悔ばかりが押し寄せてくる。
 ふと、ベッド脇のテーブルに置いていた携帯の着信音が鳴り響いた。相手は分かっていた。忍はそっと、携帯電話に手を伸ばし、右手に握り締める。
 ふざけた着信音が、部屋中に響き渡る。
 何度やめろと言っても、光流は勝手に携帯電話の着信音を変えることをやめなくて、そんな光流の悪戯に大人気なくムキになって、だったらもうこのまま変えないでおくと意地をはって、でもやっぱり恥ずかしくて、仕事中は常にマナーモードにしていた携帯電話の着信音。
 いつもいつも、光流はこんなくだらない事ばかりしては、忍を翻弄させた。
 忍は翻弄されながら、バカ笑いする光流を睨みつけて、時に声を荒げて、怒ってばかりいた。
 そんな忍に、光流はいつも笑顔を向けながら、最後に「好きだよ」ってキスをする。
 途端に酷く気持ちが和らいで、さっきまで怒っていたことなどすっかり忘れて、いつの間にか素直にキスを受け入れ、最後には光流と一緒に笑っている自分がいた。
 そうして。
 そうして……目の前に、いつも、光流の笑顔があった。

「……っ……」
 突然、激しい慟哭が忍の体中を突き抜けた。
 鳴り止まない携帯を強く握り締めた忍の瞳から、涙が溢れる。
 激しい消失感。
 覚悟していた筈の痛みを遥かに超える、全身を貫かれるような強烈な苦痛。
「……る……っ」
 何かに縋り付いていないと気が狂いそうな痛みに、忍はベッドの脇に座り込み、左手でシーツを強く握り締めた。
 鳴り止まない着信音。
「みつ……る……っ」
 頼むから、まだ鳴り止まないでくれ。
 そう何度も心の中で叫ぶ。
 繰り返し、繰り返し、ただ、叫び続ける。
 凄まじい叫び。残響。止まない嵐。慟哭。痛み。悲しみ。苦痛。震え脅え泣き叫ぶ心。それら全てが全身を貫き、忍はただ強く携帯電話を握り締めた。
 これが、最後だ。
 光流と繋がっていられる、最後の時。
 もう二度と会えない。
 あの笑顔は、見られない。
 あの唇には触れられない。
 いっそ誰か殺してくれと願うほどの痛みに苛まれていても、もう二度とあの腕に抱きしめてはもらえない。
 甦る、重ねた手の平の熱さ。優しさ。愛しさ。
 全ての幸福が、そこにあった。
 けれど、もう二度と時は戻らない。戻れない。そんな魔法はどこにもない。
「光流……っ!」
 これまでに感じたことのない、全身を引き裂くような激しい慟哭。
 
 愛している。
 どうしようもなく、愛している。
 愛しているから、誰よりも、世界で一番の幸福を願う。
 これから先も、死ぬまで永遠に、この想いは変わらないだろう。

 最後の繋がりを胸に抱きしめながら、忍は止まることのない涙を拭いもせず、残酷なほど鮮やかに甦る記憶と共に、心の中で何度も同じ名前を叫び続けた。
 自分を呼ぶ声が、頭の中に鳴り響く。

『忍』

 もう二度と呼ばれることのない声が、何度も何度も何度も鮮やかに甦っては消え、また響き続けた。

 
 
 アナウンスが響き渡る飛行場。
 少しの手荷物だけを持って飛行機に乗り込んだ忍は、空虚な瞳で窓の外を見つめた。
 仕事は辞めた。
 荷物も最低限必要なもの以外は全て処分した。
 行くあてはどこにもない。
 今はただ、この場所を離れるだけだ。

 そうして、知る。
 自分はこんなにも、何も持ってはいなかったのだと。
 そして、これまでなんて大きな力で、守られていたのだろうと。

 それは忍が生まれて初めて手にする、本当の自由。
 けれど自由とは、こんなにも孤独なものであるのかと、忍は目を閉じて想い、痛感する。
  
 ───さあ、これからどこへ行こう?
 
 とりあえずは、気の向くままに。
 
 揺れと共に轟音をたて、地上から飛行機が飛び立った。