残響<前編>

日曜の朝八時過ぎ、忍はポストに投函されていた新聞と共に一枚の葉書を手にとり一瞬目を見開いて、それから優しげに微笑んだ。
「光流、蓮川から葉書がきてるぞ」
「へ?」
 洗面所で歯を磨いていた光流にそう告げると、光流はまだパジャマ姿のまま歯磨きを終えてからリビングに戻り、テーブルに置かれた葉書を手にとった。
「へえ、あいつもついに父親か~」
 葉書には生まれたての赤ん坊を抱きながら妻と並んで一緒に写っている蓮川の姿があった。どこか照れくさそうな蓮川の表情に、自然と光流の顔が緩んだ。
「見に行きてぇけど、さすがに北海道じゃな~」
「いずれ戻ってくるんだろう?」
「奥さんの家の事情で、ちょっと間住むだけって言ってたもんな。しかしあいつが父親って、大丈夫なのかよ」
 苦笑しながら光流は言った。
「正君のところも、そろそろ産まれるんじゃないのか?」
「ああ、そーいやもうすぐ予定日だっけ。あいつも大丈夫かな」
 光流がカレンダーを見つめながら酷く心配そうに言う。
 ふと、光流の手が忍の腕を掴んだ。そしてそのままグイと引き寄せ、唐突に忍の唇を奪う。
「んなことより、今日は久しぶりに二人そろって休みだし?」
 ニヤリと笑った光流に、忍は呆れたように小さく息をついた。そして即効で光流から体を引き離す。
「そうだな、せっかく二人そろって休みなんだ。まずこの散らかった部屋を一緒に片付けないとな」
 あまりに現実的なその言葉に、光流はガクッと肩を落とした。
「え~~っ!!」
 咄嗟に文句の声をあげる光流を、忍はジロリと睨みつけた。
「今日やらなかったらいつやるんだ? 全部片っ端から捨てていっていいと言うなら、おまえの望みに応えてやっても構わんが」
 光流がグッと言葉を詰まらせる。
 そこかしこに散らばった漫画本やゲームやビデオ類はほとんどが光流のもので、忍にとってはあってもなくても良いようなものばかりだったが、光流にとってはなくてはならないものばかりだった。
「わーったよ、やればいいんだろ、やれば」
 光流は仕方ないと息をついて、まだ不服そうな顔で床に散らばった漫画本を片っ端から積んでいく。
 忍の潔癖さはよく分かっているが、それにしてもと思わずにはいられなかった。
 互いに仕事が軌道に乗り出し、二人そろって忙しい毎日を過ごしている昨今、そろって休日など滅多にないのに、こんな日くらい朝からいちゃいちゃしたい。それなのに、なにが悲しくて掃除などしなければならないのか。
 さっさと片付け終えようと、とりあえず隅っこに漫画本を積んで、散らばってるゲームやビデオ、CD類も同じように隅っこに積んだだけで光流はすっかり満足して、ベランダで洗濯物を干していた忍に背後からガバッと抱きついた。
「終わったぜ!! だから……」
「……どこが終わったって?」
 洗濯物を干し終え、光流が絡みついてくるままに部屋に戻った忍は、何をどう掃除したのか全く分からない部屋を前に目をすわらせる。
「もーいいじゃん! 掃除なんかいつだって出来るだろ!? それより……って何してんだよっ!?」
 いきなりごみ袋を持ち出し、隅っこに積んである光流の物を片っ端から袋の中に詰め込んでいく忍を、光流が慌てて止めに入った。
「分かったって!! すぐ片付けます!! だから捨てないでお願い!!」
 これが無くなったら生きていけないとばかりに、光流は涙目で忍に訴えた。
 ぶつぶつと文句を言いながら部屋の片づけを始める光流をよそに、忍は台所で冷蔵庫の整理を始める。賞味期限が迫っているいくつかの食品を取り出し、なんとか今日中に使い切らないとと考えていると、またも背後から光流が抱きついてきた。
「今度こそ終わった!!」
「じゃあ次はトイレ掃除だ」
「えーっ!!!」
「誰の家だ?」
 にっこり微笑んで言う忍を前に、光流はまたうなだれながら、すごすごとトイレに向かっていった。
 忍は呆れたように息をつき、中途半端に残っている挽肉と卵とハムを前に、とりあえず昼食にハムと卵で炒飯でもなどと思考を巡らせていると、バタバタと駆け足がして、忍は咄嗟に身を翻した。抱きつこうとした光流が、よろめいてシンクに手をつく。
「よけんなっ!!」
「ちゃんと掃除したんだろうな?」
 抗議する光流を無視して、忍はトイレに足を向ける。トイレの扉を開き、案の定、適当な掃除の仕方に、忍は額に青筋をたてた。
「ここは俺がやるから、おまえは風呂掃除してろ」
「えー!!! もういいだろ!?」
 光流がまたも抗議の声をあげると、忍が無言で光流を睨みつけた。
 その静かな気迫に光流が明らかに怯んだ表情をして、またがくっと肩を落とす。
「……はい、行ってきます」
 納得いかない様子でありながらも、今度は風呂場にむかっていく。
 忍は適当に掃除してあったトイレを見事なまでにきっちり掃除して、キッチンに足を向ける。
「忍~、洗剤もうねぇんだけど」
 風呂場から光流の声が届き、忍は踵を返して風呂場にむかった。
「どの洗剤だ?」
 尋ねながら、バスルームの扉を開いたその時だった。
 突然、シャワーのお湯が頭から降り注いで、忍は反射的に目を閉じた。
 いったい何事かと目を開くと、目の前で光流が悪戯っぽい笑みを浮かべている。
「おまえな……遊んでる場合じゃ……!」
 思わず声を荒げた途端、突然、腕を掴まれてバスルームの中に引き寄せられた。
 そのまま壁に背を押し付けられ、強引に唇を塞がれる。
「……っ……」
 シャワーの水音がやけに近い。光流の舌が咥内を激しく愛撫する。
 その感覚に、一瞬にして怒りを奪われた。
「後で……ちゃんと掃除しろよ……」
「うん、するする~」
 無邪気な声をあげ、酷く嬉しそうな笑顔を浮かべ、光流は忍のシャツのボタンをはずしていく。
 結局、光流の思惑通りになっていることに弱冠の悔しさを感じながらも、首筋から胸に伝う舌の感覚に痺れを感じて、忍はされるがままに目を閉じた。

 鎖骨の辺りに、何度も光流の唇の熱を感じる。ズボンのベルトを外され、下着の中に光流の手が滑り込んできて、きゅっと先端を親指で擦られ自然と声があがった。
 膨れ上がってゆく快楽の波に呑まれ、しがみつくように光流の肩を掴むと、光流の舌が耳元を執拗に舐め回す。
「ん……、ぁ……っ」
 いつの間にか露になった下半身。光流が右手で忍の左足を抱え上げ大きく開かせ、左手の指を内部に押し入れ、そこを柔らかくほぐしていく。少し性急なやり方に、そういえばずいぶんと久しぶりだったことを忍は思い出した。
 そして、溺れていく。光流が求めていたように、自分もまた求めていることを自覚せざるをえない快楽に。
「入れるぜ?」
 低く囁かれた声と共に、内臓を押し上げられるような感覚に襲われ、忍はより一層強く光流の肩にしがみついた。
 忍の片足を抱えたまま、光流は激しく腰を動かす。濡れた音は水温に掻き消され、繋がり合っている熱は高まるばかりだ。
「あ……、ん……、あぁ……っ!」
 ビクビクと全身が痙攣したように震えて、頭の中で閃光が走る。
 乱れた息をどうにか必死で整える。しかし絶頂の波が引いた途端に、また突き上げられ、忍の身体が大きく震えた。
「も……抜け……って……!」
「イヤ」
 まだまだ余裕と言わんばかりの口調。
「やめ……、っぁ……っ!」
 忍の声などまるで無視して、光流は続けざまに何度も抜き差しする。
 まるで飢えた獣だ。そんなことを思いながら、翻弄されるだけの自分が悔しくなって、忍は光流の首に腕を回すと、噛み付くように光流の唇に自分の唇を重ねた。柔らかい舌の感覚が、なおさら我が身を高みへと導いていく。
 もう駄目だ。何度も心の内でそう叫ぶ。それなのに、身体も心も激しく光流を求めている。その事実が狂おしい。
 二度目の絶頂に呑まれ、忍は一瞬意識を飛ばした。
 
 
 ずぶ濡れになった髪の毛をタオルで拭きながら、結局朝から風呂場で三回の事実に自己嫌悪と共に倦怠感に苛まれながらキッチンに戻った忍の耳に、玄関のチャイムの音が届いた。
 どうせ宅配便か何かだろうと、髪を濡らしたまま玄関のドアを開いた忍の視界に入ってきた人物を前に、思わず忍は目を見開いた。
「久しぶりだね、忍くん! 元気にしてたかい?」
 目が合った途端ににこやかな笑顔と共に明るい声を発したのは、光流の母、幸枝だった。
 
 
「全く、たまの休みくらいしゃんとしたらどうだい?」
 朝からパンツ一丁とTシャツというだらしない格好で姿を現した息子を前に、幸枝は呆れた風に言い放った。
「いいだろ、休みなんだから」
 光流はうるさそうに言って、幸枝の座る向かい側に腰を降ろした。
「何であんた達、髪濡れてんだい?」
 怪訝そうな幸枝の言葉に、光流がギクリと顔をひきつらせる。
「あ、朝シャンってやつ?」
 二人そろって朝からシャンプーって無理ありすぎだろ、と忍が表面上は平静を装いつつ内心つっこみを入れるが、幸枝は特になんの疑問の抱かずに納得した様子である。
「で、なんの用だよ?」
「用がなきゃ来ちゃ悪いのかい?」
「んなことねーけど、来る前に連絡くらいしろって」
「連絡したって、あんたいつも仕事で留守じゃない! こうでもしないと連絡一つよこしやしないし!」
 幸枝の叱責に、光流は言い返す言葉もなく苦笑した。
「まあでも、一応ちゃんと暮らしてるみたいで安心したよ。男二人暮らしなんてロクなもん食べてやしないんじゃないかと思って、おかず持ってきたんだけどね」
 綺麗に整理された部屋を見回しながら、幸枝は風呂敷に包んできた重箱をテーブルの上に置いた。
「いまさら、何だよ? 大学時代からちゃんとやってきてんじゃん」
「そりゃそうだけど、母ちゃんも年かね。なんだかあんたのことが心配で心配で。正は良い嫁さん貰って一安心だけど、あんたこれまで彼女の一人も見たことないし、このまま一生独身なんじゃないかと思ってさ」
 深くため息をつきながら、幸枝は言った。そしておもむろに、鞄の中から一枚の写真と封筒を取り出す。
「それで、知り合いの娘さんが結婚相手探してるってんで、あんたの写真見せたら偉く気に入っちゃってね。良かったら一度、会ってみないかい?」
 意気揚々としながら言った幸枝に、光流は即効で顔を引きつらせた。
「なんの冗談だよっ! 俺まだ二十代だぜ?! 今時この年で独身なんて当たり前だっつーの!!」
「なに言ってんだい! そんなこと言ってるうちにあっという間に三十、四十だよ! だいたい忍くんだっていつ結婚するか分からないんだし、いつまでも頼ってるわけにはいかないんだよ!? そうでしょ? 忍くん!」
「……そうですね。いいじゃないか光流、会うだけ会ってみれば。なかなか可愛い子だぞ」
 忍はいたって冷静な口調でそう言うと、テーブルに置かれた一枚の写真を光流に向けた。
 途端に光流がムッと口をとがらせる。
「母ちゃん……ずっと黙ってたけど、実は俺と忍は恋……がっ!!!」
 いきなり後頭部を雑誌で思い切りはたかれ、光流がテーブルに突っ伏した。
「すまん、蚊が止まってた」
 にっこり微笑んで、忍が言った。
 ムクッと光流が起き上がり、真剣な表情を幸枝に向ける。
「母ちゃん、俺と忍は恋……」
 途端にバコッと大きな音が鳴り響き、後頭部をタウンページで殴られた光流がまたもテーブルに突っ伏したのだった。
 
 
 幸枝と昼食を共にしながら忍が終始にこやかに会話して、機嫌良く幸枝は帰っていったが、光流は延々と不機嫌なままだった。
「何でホントのこと言っちゃいけねーんだよっ? だいたいいつまでも隠し通せることじゃねーだろ?」
「少しは物を考えたらどうだ? こんな事実を知ったら、おまえの母親がどれほどショックを受けるか分からないのか」
 あくまで冷静な忍のその言葉に、光流は言葉を詰まらせるが、やはり納得いかない様子だ。
「だからって、見合いしろってのかよ。その気もないのに会う方が、よっぽど失礼ってもんじゃねえ?」
「母親の顔を立ててやれと言ってるんだ」
「それで、いいのかよ、おまえは」
「いいも悪いもないだろう」
「……分かったよ! 会えばいいんだろ会えば!!」
 光流はあくまで不機嫌さを隠さず、投げ捨てるようにそう言い放つと同時に立ち上がり、リビングから寝室に続くドアを開き中に入っていくと、バン!!!と派手な音をたててドアを閉めた。
 最悪の空気の中、忍は小さく息をついた。そして、テーブルの上に置かれた一枚の写真と経歴書に目を向ける。
 写真に映る女性は、年よりはずいぶん幼く見えるが、清楚な顔立ちをした可愛らしい女性だった。
 ふと、どこかで見覚えのあるような顔のような気がして、忍は頭の中の記憶を辿る。
 何かに思い当たったように、忍が目を見張った。
 
 
 その一週間後、光流はせっかくの休みなのにとブツブツ文句を言いながら、忍に借りたブランドスーツに身を包み、「じゃあ行ってくる」と素っ気無く言って家を出て行った。
 くれぐれも、母親に余計なことは言うなと言い含めたものの、おそらく本人は少しも納得していないだろう。
 確かに光流の言うことは間違っていない。
 このままいつまでも周囲に隠し通せる関係でないことは、誰でもない忍本人が一番よく分かっていた。
 けれど……。
 あの優しい母親の悲しむ顔は、見たくない。それは同時に、光流もまた悲しませることであるのだから。
 重い心持ちで、忍もまた仕事に向かうため、マンションを後にした。
 今日はとても良い仕事ができそうにない。
 
 
 
 ──留学を進めたいのですが。
 
 いつかはやってくるであろう日が、予定していたよりずいぶん早まったことに、忍は複雑な心境で目を伏せた。
 海外留学。もちろん考えていなかったわけではない。けれど、それはもっと先の話だと悠長に考えていた自分に、少しばかり驚きを感じた。昔ならばもっと切実に考えていたであろう将来を、今はまだ考えたくないと思っている自分にも。
 分かっている。
 弁護士としてより上を目指そうと思うならば、すぐにでも頷くべきだった。けれど、出来なかった。ただ上を目指すだけなら、国内での活動でも充分だ。そう言い訳をしている自分に、二度目の驚愕を覚える。
 何を自分につまらない言い訳をしているのだと、忍は自宅へ向かう道を歩きながら、軽く自嘲した。
 結局はただ、光流と離れたくないだけだ。
 たとえ会える時間がわずかだったとしても、そのわずかな時間をどうしても捨てたくないだけで、それは仕事と両天秤にかけるまでもなく、たとえ何を失っても無くてはならない時間なのだということくらいとうに分かっている。分かっていながら、なにを迷う必要があるというのか。
 すぐに、断ろう。
 そう思いながら自宅のドアを開くと、既に明かりがついていて、そういえば光流は仕事休みだったということを思い出した。
「ただい……」
 リビングへのドアを開いた途端、忍は目を大きく見開いた。
「あ……す、すいません! お邪魔しています!!」
 テーブルの椅子に座っていた、見覚えのある顔をした女性が、忍の姿を見るなり咄嗟に立ち上がって深々と頭を下げた。
 肩の上で髪を揺らす、年齢よりずいぶん幼く見える顔がずいぶんと恐縮しているのが分かって、忍はすぐさま平静さを取り戻した。
「……お久しぶりですね、河合諒子さん」
「え……?」
 忍の言葉に、彼女が一瞬目を見張った。
「あ……!!!」
 そして、急に思い出したように目を丸くした。
 
 
 光流のお見合い相手の女性に、偶然にも忍は過去に出会っていた。
 まだ司法修習生として法律事務所で研修をしていた際、担当弁護士と共に幾度か相談にのったことのある女性だったのだ。
 その女性がなぜこの家にいるのかと問うまでもなく、光流がことの経緯をすぐに忍に説明した。
 母親に指定された場所で簡単な会話をして話し終えた後に彼女の家まで送っていったところ、あからさまに怪しい男が彼女が一人暮らしをするマンションの辺りをうろつき、あまりに脅えた様子の彼女に事の真相を尋ねると、どうやらストーカー被害にあっているとのことで、とりあえず一旦非難するために自宅に連れてきたとのことだった。
 すぐに警察に連絡すれば良いものを、すかさず自分が保護してしまう辺り。光流らしいといえばらしいが、それにしても浅はかだと思わずにはいられない。しかし責めても仕方の無いことだと思い、忍は小さくため息をついた。
「以前とは、また別の男ですか?」
 忍はやや冷ややかに、彼女──河合諒子に尋ねた。咄嗟に諒子の顔が恥じらいに赤く染まる。
「え、ええ……すみません」
「別に謝ることはないですよ。以前の男と縁が切れたのなら良かったです」
 数年前、彼女が法律事務所に駆け込んできた時も、やはりストーカー被害にあっての理由だった。話を聞く限りは、完全に相手の男の一方的な思い込みで、確かに彼女は何も悪くはなかった。今回もおそらく似たようなケースであろう。それだけに責めることはできない。
いかにも男に好かれそうな可愛らしい人当たりの良い素直そうな顔立ちは、しかし彼女のように毅然とした態度に出れない弱気な女性には損でしかないこともある。
「私……そろそろ失礼しますね。もう、あの男もいないと思いますし」
「本当に大丈夫なのか?」
 光流が心配そうに、彼女と共に腰をあげた。
「送ってやれよ、光流」
「ああ……、ってか、おまえも一緒に来いよ。二人いた方が心強いだろ?」
「いえ、大丈夫ですから!! 本当にありがとうございました!!」
 しかし諒子はあくまで申し訳なさそうに頭を下げ、さっさと家を出て行こうと二人に背を向け歩き出す。途端、あまりに慌てすぎたのか足元の雑誌につまづいて勢いよくその場に転んだ。スカートが捲れ下着が丸出しになり、思わず光流が顔を赤らめると、諒子は今にも泣きそうになりながら慌ててスカートを元に戻す。すかさず忍が手を差し伸べた。
「すぐに送ります」
 まるで何事もなかったかのように、忍は有無を言わさない口調で言った。
 
 
 諒子のマンションの周囲に怪しい人物はいないことをしっかり確認して家まで送り届け、自分たちの自宅にむかい暗い夜道を歩きながら、光流がふと口を開いた。
「あの子に、言ったから。俺には、男の恋人がいますって」
 その言葉に、忍は驚愕を隠せない目をした。
 出会った瞬間からやたらと焦っていた彼女の様子がどこか普通とは違うと感じたのはそのせいだったのかと、思わず光流を睨みつけると、光流は真剣な表情をして忍を見据えた。
「間違ったことしたとは、思ってねぇ」
 そのあまりに真摯な眼差しに、忍は言葉を失った。
「俺が愛してるのは、おまえだけだ。今までも、これから先も、ずっと」
 唐突に肩を抱き寄せられ、熱い唇が重なってくる。
 急速に、泣きたいような想いにかられ、誰に見られるかも分からない場所なのに、忍は光流の体を押しのけることが出来なかった。
 おそらくは自分が思うよりもずっと真剣に、光流は考えていたに違いない。母親のことも、これから先の自分達のことも。
「光流……」
 離れた唇と同じくらいの距離にある光流の優しい眼差しを、忍はまっすぐに見つめて、もう一度自分から唇を重ねた。
 迷うことは、何も無い。
 確かにそう思うのに、なぜ、こんなにも胸の内が騒ぐのか。
 不意に光流がいつものようににっこりと無邪気に笑った。
「ちゃんと言っとかないと、おまえ、急に消えちまいそうで怖いからさ」
「消えるわけないだろう、馬鹿」
 なにを変な心配しているのだと、忍は苦笑まじりに応えた。
「どーせだから、なんか食ってこうぜ! 腹減った!」
 光流が忍の肩に腕をかけ、明るく言った。
 また牛丼か? そう、忍は尋ねた。
 
 
 そうして秋が過ぎ、もうコートがなくては外に出られないほど肌寒くなってきた頃、家に帰るといつの間にかコタツが出されていて、忍は呆れた風にため息をついた。せっかくシンプルに整えた部屋も、コタツという家具があるというだけで、何故ここまで生活感が漂う部屋に一変するのか。
 しかし光流はそんなことはお構いなしに、コタツ布団を肩までかぶって、うつぶせながらゲームに熱中している。
「おっかえり~」
 目はテレビ画面に集中したまま、光流は帰宅してきた忍にむかって声を放った。
 忍は呆れつつも、せっかくだから冷え切った身体を暖めようと腰を下ろし、コタツの中に足を突っ込んだ。途端に光流が全身に鳥肌をたてる。
「うわっ、おまえ滅茶苦茶冷てーじゃん!」
 光流はゲームのコントローラーを床に置き、忍に身を寄せると、ガシッと頬を両手で包み込む。
「よくこの体温で生きてるな。やっぱ人間じゃねーだろ、おまえ」
 そんなことを言いながらも、光流は愛しむように、忍の体を抱き寄せた。
 悪戯っぽい笑顔が目の前に近づいてきて、唇がそっと頬に触れる。
 くすぐったいから止めろと言うと、光流はなおさらじゃれついてくる。耳に噛みつかれて眉間にしわを寄せたその時、光流の携帯の着信音が鳴り響いた。
 光流は面倒くさそうに立ち上がり、テーブルの上に置いてあった携帯電話に手を伸ばす。
 少しの間をおいて、光流の表情が一変した。
「わーった! 今すぐ行く!!」
 何やらやたらと興奮した様子でそう言って携帯を切ると、光流はパッと明るい顔を忍に向けた。
「正んとこ、産まれたって!!」
 その言葉に、忍の表情も一瞬明るくなった。
 
 
 即効で車を飛ばして正の待つ病院に駆けつけ、病室に向かう光流の足取りはやけに速い。相変わらず弟のことは心配で仕方ないらしい光流は、家を出る時も慌てるあまり上着も着ず財布も何も持たず、忍がすぐに外出の用意して後を追う形だった。
「光流! あ、忍さんも、来てくれたんですね!!」
「おめでとう、正くん」
「あ、ありがとーございます」 
 忍の言葉に、正は酷く照れくさそうに顔を赤らめた。
「で、子供どこだよ!?」
 光流は興奮を抑えきれない様子のままに正に尋ねた。
「落ち着けって光流、おまえが焦ってどーすんだよ。こっちだ、こっち」
 正が呆れた風に言い放つ。
「もう赤ん坊、抱けるのかい?」
「最近は産まれてすぐ母子同室がメジャーらしいっすよ。立会いもしたんで、俺がへその緒切ったんですよ」
「うわ、こえー!! 俺、絶対無理だわ、立会いとかって」
「でもやっぱ、感動するぜ?」
 どこか自慢げに言いながら、正は妻と子供が待つ個室の扉を開いた。
 しかしよく考えたら、いくら夫の兄といえど産後すぐに会いに来るなどずいぶん非常識ではないかと忍は躊躇したが、病室にいた正の妻と、既に駆けつけていた光流の母は、当たり前のように二人を迎え入れた。
「うわ、やっぱ小さいな~」
 赤ん坊用のベッドに眠る、生まれたての正の子供を、光流は感動が入り混じった瞳で見つめる。
「良かったら、抱っこしてあげてください」
 正の妻が我が子を抱き上げて、光流にそっと手渡した。
 光流はおもいっきり恐る恐る、やや震える手で赤ん坊をその腕に抱く。
「や……やっぱ怖い! 忍、パスパス!!」
「いや、俺はいい」
「あ、実はおまえも怖いんだろ!?」
 結局、赤ん坊はすぐに母親の腕に抱かれた。
「情けないねぇ。あんた達もいつかは父親になるんだよ?」
 幸枝が呆れた風に言い放った。
 
 
 正の子供が生まれてからというもの、光流は以前よりも頻繁に実家に足を寄せるようになった。
 まれに休日が重なる時はあくまで二人きりの時間を過ごしたがったが、光流が休みで忍が仕事の時はたいがい実家に行って留守にすることが多く、そんな日の夜は、甥っ子が笑うようになっただの、寝返りしただのと、嬉しそうにその日のことを忍に報告してきた。
 それは忍にとっても喜ばしいことではあったが、しかし、同時に襲ってくる罪悪感のようなものも感じずにはいられなかった。
 なぜならそれは、男同士であるが故の絶対的にあり得ない未来を、否応なく突き付けられる事実なのだから。

 そんな日常が続いた、ある日のことだった。
 珍しく二人そろって早くに帰宅し、一緒に夕食を終え、光流が風呂に入っている間に、ふとテーブルの上に置かれた光流の携帯が着信音を鳴らした。大昔のアニメ主題歌であるふざけた着信音に、テーブルの上でノートパソコンをいじっていた忍が目を向けたその瞬間、忍の目が驚愕を持って携帯を見つめた。
 携帯の画面にうつる着信の相手の名前、それは紛れもなく「河合諒子」だった。
 ずいぶん前に一度きりの見合いをして、二人で一緒に自宅まで送っていって、それきり光流の口から一度もその名前が出ることは
なかった女性。
 それなのに何故、今その女性から電話がかかってきているのか。
 しばらく鳴り続けていた携帯が音を止め、それとほぼ同時に光流が風呂からあがってきた。
「あーサッパリした~」
 タオルで髪をがしがしと拭きながら、光流はキッチンにむかい、冷蔵庫からペットボトルのスポーツドリンクを取り出して、蓋を開いて一気飲みする。
 忍は無言でパソコンのキーを叩き、光流はその向かい側の椅子に腰をおろした。
 そしてふと、自分の携帯電話に目を向け、それを手にとる。少しの間を置いて、光流は椅子から立ち上がって部屋から出て行った。
 五分ほどして戻ってきた光流は、またテーブルに携帯電話を置き、いつもと何ら変わりない様子で今日のとりとめのない出来事を忍に伝えてきた。
 忍はパソコンに目を向けたまま、適当に相槌を打つ。
 その日、光流の口から河合諒子の名前が出ることはなかった。