掌<後編>

  
  嫌な記憶が蘇る。
 

 熱にうなされた時、必ず見ていた夢がある。


 それはまだ物心ついて間もない頃の、遠い記憶。

 

 にゃあ、にゃあ、と、か弱い鳴き声をあげる、真っ白な子猫。

 あんまり可愛くて、そっと手を触れて、頭を撫でると、子猫は気持ちよさそうに瞳を閉じた。

 もっと触れてみたくて抱き上げると、子猫は腕の中でゴロゴロと甘えた声をあげた。

 でも、飼えないのは解っていたから、名残惜しい気持ちを堪えながら、地面の上に降ろすと、白い子猫はさっとその場から走り去って行った。

 その翌日、一匹の黒猫が目前に現れ、鋭い瞳を向けてくる。

 黒猫は、口に何かを咥えていた。

 その「何か」の正体に気づいた瞬間、全身に衝撃が走った。

 

「子猫には無闇に触っちゃだめよ。人間の匂いがつくと、親猫が食べちゃうことがあるの」


 後になって母親にそう聞いた瞬間、黒猫の射るような鋭い瞳を思い出した。

『おまえのせいだ』

 そう、言われている気がした。







 白い肌にいくつも残る、赤い印。

 噛み付かれた傷痕に、追い討ちをかけるように舌が這う。

「……ん……っ……」

 静かな生徒会室に、忍の苦しげな声が響いた。

 両手を拘束されなくとも、抵抗など出来はしない。

 机の上に仰向けに寝かされ、限界まで追い詰められた熱い塊は、もう一本のネクタイで縛られ、解放することは叶わない。

 忍の瞳に涙が滲む。感じているのが快楽なのか、苦痛なのか、その両方なのか。どちらにせよ、光流は許してはくれないと知っていた。

「イきてぇの? 誰がそう簡単にイかせるかよ、この淫乱」

 耳元で低く囁かれる声には、優しさなど欠片も無い。あるのはただ憎しみばかりだ。

「あ……ぁ……っ」

 限界寸前のそこを嬲られながら、胸の突起を強く噛まれ、痛みと追い詰められる感覚とでどうにかなりそうな忍の瞳に涙が滲み、こめかみに汗が流れた。

 足を大きく開かされる。間髪入れず、内部に光流の指が潜り込んで内壁を擦る。忍自身の先端から堪え切れない汁が溢れ出した。

 忍が苦しげに眉を寄せると、更に責めたてるように、光流は指の動きを激しくする。屈辱的な台詞を投げつけられても仕方のないほどに、忍の瞳は焦点が合っておらず、完全に忘我しているその姿に眠っていた熱情を呼び覚まされ、光流は更に嗜虐心を露にした。

「言えよ、誰の指咥え込んで喘いでんの?」

 どうせ誰のでも同じように感じるんだろうと、嫉妬に怒り狂った光流の瞳が物語っている。それがどれほど、忍に屈辱と惨めさを感じさせると知っていながら。

 とても口には出来ないと、忍は首を振って唇を噛み締めた。

 そんな忍に言えない言葉を解らせるように、光流は激しく指を動かして大袈裟に音をたてる。否応無く耳に届く恥ずかしい音。忍は懸命に声を押し殺した。

 達したくてたまらないのに、なお強情を張る忍。どこまでも追い詰めてやりたくなる。それこそ二度とこの手の中から逃げ出せないくらいに。嗜虐的な想いはより一層暴走して、忍に更なる追い討ちをかけた。

 指が引き抜かれる。更に大きく足を開かされた忍の秘部に、艶かしい感触が走った。柔らかい髪を太股に感じながら、内部まで入り込んでくる舌の感覚に翻弄される。

「……ん…ぅ…っ」

 達したくてたまらない。

 それなのに、執拗なほどに舌で責められるばかりで、いつまでたっても解放は訪れない。

「……や……、もう……っ……」

 懇願するように口を開くと、光流はようやくそこから唇を離す。足を大きく開かされたままの忍のあられもない姿を、光流は興奮と冷たさの入り混じった残酷な瞳で見据えた。息を荒くする忍の顎を捉え、唇同士が触れるギリギリまで寄せる。

「解いて欲しいよなぁ?」

「あ……っ」

 光流がわざとらしく濡れた先端を擦ると、忍の体がビクビクと震えた。

「でもまだ許すつもりねぇから、先に俺のイかしてくれる?」

 言うと光流は、忍の手首の拘束を解き、カチャカチャと自分のズボンのベルトを外す。その意図を察したように、忍は従順に上半身を起こした。

 机の上に四つん這いになると、光流の膨れ上がった欲望が目前になる。忍はそれにそっと手をかけると、躊躇うことなく口に咥えた。動物のように這い懸命に舌を這わせるその姿に、愛しさばかりが募り、それは同時に自分のものであるという錯覚を起こさせた。

 光流は両手で忍の頭を掴むと、自らも腰を動かした。忍が息苦しさで瞳に涙を滲ませるのもお構いなしに。

「……ん……っ……ふ……」

 忍の咥内に白濁が放たれ、顎を伝って机の上にポタリと零れる。

 自分の精液に塗れた忍の唇が、それを飲み込む様子を、光流は満足気に眺めた。

「解いてやるから、後ろ向けよ」

 光流が命令口調で言うと、忍はまたも従順にその言葉に従った。

 目前にはしたなく曝け出された双丘を掴むと、十分にほぐされたそこに、光流は一気に自身を押し込んだ。忍が一際高い声をあげ、背を仰け反らせる。光流は慣らすようにゆっくりと腰を動かしながら、白い背に舌を這わせる。約束通り、忍の自身を縛めていたネクタイを解いて床の上に投げ捨てた。

「あっ……あ……!」

 忍の背に覆いかぶさったまま、腰を激しく打ち付ける。肉と肉が擦れ合う音が響き渡る。音と感覚以外は何もない世界で、解るのはただ、今この瞬間だけは一つに繋がっていて、決して離れはしないという事実だけだ。忍の表情が苦痛に歪む。光流のこめかみから汗が流れ、もはや余裕は欠片もない。

 その熱に浮かされながら、光流が二度目の精を放った瞬間、忍の身体も痙攣した。

 繋がったまま荒くしていた息が少しずつ整うと、光流は忍の中から自身を引き抜いた。四つん這いになったままの忍の秘部から、放たれた白濁がとろりと零れる。欲望が満たされ、充足感に包まれるのを感じながら、光流は忘我した瞳で忍を見つめた。



 なぜ今まで、気づかなかったのだろう。

 光流が忍を見つめる視線の中にある、凄まじいまでの独占欲。忍が光流を見つめる視線の中にある、一途で健気な想いと大きな不安感。

 互いに執着し過ぎるが故に沸き起こるものが愛情ならば、その裏返しである憎しみもまた、二人の若さならば当然のように沸き起こることを、知らないわけではなかったのに。

『男の子だって、綺麗になりますよ』


 サラリと風になびいた髪を目前にしたその瞬間、一弘はいつかの女教師の言葉を思い出した。急速に胸の鼓動が高まる。あってはいけない感情だと知りながら、惹きつけられて止まないその少年の姿から、一弘はすぐさま目を逸らした。




 自制心を保ちながら保健室に戻ると、思いがけずベッドの上が占領されていた。

 すやすやと眠る少年のあどけない寝姿を前に、一弘はクスリと微笑んだ。妙に心が緩む。

 やはり自分の思い違いに違いない。

 この年頃の恋人同士だ。時に喧嘩の一つや二つ当たり前にするだろうし、忘れることが得意な年頃でもある。きっとすぐに仲直りもするはずだ。

 妙な疑いを持つのはやめよう。

 そう思ったその時、光流の表情が歪み、やや苦しげな声をあげた。どうやら悪い夢にでもうなされているようだ。

「光流」

 そっと肩に手をかけ揺すると、光流はハッと目を見開いた。

 すぐに、夢であったことは気づいたように上半身を起こし、額に汗を滲ませ、伸びすぎた前髪をかき上げる。

「授業をサボったりするから、悪夢なんかにうなされるんだ。立山先生に追いかけられる夢でも見たか?」

 一弘がわざと冗談交じりに言うと、光流は口の端に笑みを浮かべ、表情を緩ませた。

「あー……、はっきり覚えてねぇけど、そんな夢だった気がする」

 光流もまた冗談めいた口調で言うと、ベッドから足を下ろした。

「早く授業に戻れ」

「あと5分で終わりじゃん。喉渇いた、茶入れて」

 光流はそう言うと、机横の小椅子に腰を下ろした。

 全くふてぶてしいにも程があると思ったが、ついつい言われるがままにお茶を入れてしまう一弘は、やはり甘やかしすぎだろうかと悶々とした気分ながらも、お茶を飲み干してから肩の力を抜いた表情で窓の外を見つめる光流を見ると、妙に安心した気分になった。一弘もまた椅子に腰を下ろし、茶を一口すする。ゆったりした空気が流れ、ずいぶんと長い沈黙の後、不意に光流が口を開いた。

「なあ……あり得ないだろうけど、もし、すみれさんに他に好きな相手が出来たとしたら、あんたどーする?」

 珍しく神妙な瞳をする光流の問いに、一弘はやや眉をしかめた。

 確かいつか、同じような事を聞かれた記憶があるな。そう思い、一弘はその時に言った言葉をそのまま口にした。

「どんな条件だろうと、答えは同じだな。その相手の男ってのがそんな奴は滅多にいないが仮に俺よりいい男だったとしても、ゆずるつもりはないし、情けをかけるつもりもない」

 言ってから、ずいぶんと傲慢な考え方かもしれないとは思ったが、事実は事実だった。自分の独占欲の強さはとうに自覚している。ただそんな獣じみた感情を露にするのはみっともない事だと知っているから格好つけているだけで、もし本気で妻を奪おうとする者がいたとしたら、例えどんな汚い手を使っても力づくでも、大切なものを守るために全力で闘うに違いないし、それが男の性というものなのだ。

「……やっぱ、そうだよな」

 光流はその言葉を聞いて少し考えるように目を伏せ、それからまた窓の外に目を向けた。

 ぽつりと呟いた光流の瞳は、いやに空虚なものであった。





 何を不安がっているんだか。

 光流が出て行った後、一弘は仕方ないように心の中でため息をついた。

 とはいえ、不安になるなという方が無理な話なのかもしれない。

 何しろ相手は、すみれのようにごく普通の純朴な娘とは違う。育ちも違えば考え方も真逆。群がってくる人物は絶えないだろうし、男同士だという弊害もある。平凡な愛を貫くには、あまりにも弊害が多すぎるのだ。

 それに加え、まず手塚忍という人間の人格に問題がありすぎる。


「余計な口を出すつもりはないが……不安にさせるような行動は慎むんだな」

「僕がいつそんな行動を?」

 呆れたことに、光流を不安にさせていることを全く自覚していない忍を、一弘はため息混じりに見つめた。

「もしかしてわざとやっているのか?」

 一弘が尋ねると、忍は「まさか」とクスリと笑った。

 タチが悪すぎる。そう思わずにはいられなかった。

「もともとあいつは誰のことも信用していない。僕がどんなに潔白であろうとも、些細なことで疑っては束縛したがる。……無駄なことです」

「そうじゃない、手塚。潔白であることが問題じゃないんだ」

 思わず一弘は声を荒げた。

 しかし、言って通じるのだろうか。このさい事実などどうでも良い。ただ抱きしめて、好きだと言って安心させてやることが出来れば、それで良いのだと、まだ目の前の事実こそが全てであり、多くの概念に拘り惑わされる彼らに言ったところで、簡単に納得などするはずがない。

 一弘は開けた口を閉じて、一呼吸置き、それから突然、忍の身体を強く抱きしめた。あまりに思いがけない一弘の行動に、忍が抵抗するように身を捩るが、一弘は忍を放さない。

「いいから少し、じっとしてろ」

 一弘が言うと、忍は抵抗をやめた。

「少しでいいから……肩の力を抜いてみろ。絶対に、これ以上は何もしないから」

 全身から忍の緊張が伝わってくるのを感じながら、一弘はなお力強く忍を抱きしめた。

 思ったよりもずっと細い華奢な身体。抱きしめられることに少しも慣れていないことがすぐに解るほどに、戸惑いと恐怖心と不安感が伝わってくる。大丈夫だからと、何度も心の中で呼びかけながら抱きしめていると、やがて少しずつ、忍の緊張の糸が解れていった。

「もう……離して下さい」

「こうされてると、不安か?」

 尋ねると、忍は小さく首を横に振った。

「どうして……こんな……」

 そっと身を離すと、忍がどこか切なげに一弘を見上げる。しかし次の瞬間、忍の表情が強張った。

 忍は半ば一弘を突き飛ばすかのように離れると、すぐさま一弘に背を向け歩き出した。

「手塚……!」

 一体何事かと忍を呼び止めた刹那、一弘は背後から気配を感じ、振り返る。

 陽に透けると金色に光る髪が、瞬間的に目の前から消え、一弘の胸の鼓動が高まった。





 余計な同情など、するべきではなかったのかもしれない。

 後悔先に立たずとはこの事だと思いながら、一弘は深くため息をついた。

 しかしやはり、誤解は解かねばならないだろう。光流が自分の言葉を信じるかどうかはともかくとして、これ以上、彼に不安を感じさせてはいけないと、一弘は切に思った。

「すまないな、いきなり呼び出して」

「いや……俺もあんたに用事あったし、ちょうど良かった」

 放課後、誰も入ってくることはないであろう準備室で、一弘は光流に真摯な瞳を向けた。そんな一弘に、光流はいつもと変わらない笑顔を向けたが、言葉を放った次の瞬間、鋭い矢のように瞳を吊り上げた。

 一弘が目を見開いたと同時に、光流が拳を振り上げた。

 その拳は避ける間もないほどのスピードで、一弘目掛けて振り下ろされる。

 一弘が反射的に目を閉じた刹那、耳元で弾けるような音が響いたが、予測していた衝撃は何も無かった。

 目を開いた一弘の瞳に真っ先に映ったのは、一弘の背後にあった棚のガラスを割った衝撃で血まみれになった、光流の拳。

 一弘のこめかみに汗が流れる。言葉も出て来ないほどに恐怖を覚えたのは、ずいぶんと久しぶりのことだった。

 光流はそんな一弘を相変わらず鋭い瞳で見据えたかと思うと、ガラスに叩きつけた拳を降ろし、それから低く笑った。

「なにビビってんだよ、だっせ」

 なおも言葉の出ない一弘に、光流は嘲笑うかのようにそう言うと、一弘に背を向け、颯爽と教室を後にした。


『おまえのせいだ』


 その後ろ姿を呆然と見送りながら、一弘は古い記憶を思い出すと共に、確かな絶望を感じていた。

 


 全ては、まやかしだったのだろうか。

 毎日のように保健室に訪れては、他愛ない会話を交わし、時に冗談を言い合い、笑い合ったこともたくさんあった。

 その一瞬一瞬を、思い出せば思い出すほど、ただ悲しさとやり切れなさばかりが募っていく。

(どうしたら……)

 これ以上、信じることが出来るのだろう。

 確かな憎しみと殺意をもって自分を見つめた、彼の本当の心を。




「弘くん、大丈夫?」

 疲れ切った心を慰めるてくれように、すみれの手が肩にかけられ、一弘は安堵を覚えた。

「なあ、もし凄く大事にしていたものを無くしたら、おまえならどうする?」  

「え?」

 一弘の問いに、すみれはきょとんと目を見開いた。それから少し考えて、穏やかに微笑む。

「もちろん、一生懸命探すよ? 凄く大事なものなんでしょ?」

「探しても探しても見つからなかったら?」

「うーん……、部屋中ひっくり返して探す!」

「はは、ひっくり返して……か」

「??」

 苦笑する一弘を、すみれはさっぱりわけが解らないというように見つめた。

 

 


 そう、ひっくり返すんだ。

 例えどんなに散らばって、滅茶苦茶に踏み荒らされて、元に戻すことが困難だったとしても。

 探すことを諦めたら、もう二度と見つかることがないものなら、一度全てをひっくり返して、違う形に整理し直せばいい。


 


「光流くん、ちょっと保健室来なさい」

 朝ばったりと会うなり、にっこり笑ってそう言った一弘に、光流は途端に眉をしかめた。そしてくるりと一弘に背を向けその場を離れようとするが、一弘はそれを許さなかった。

「あ、そーいう態度? それならここで用件言うぞ」

 言うなり一弘は、どこから持ち出したのかメガホン片手に、「あのな、俺と手塚忍との間におまえが疑うような関係は何一つ」と叫びだし、光流がぎょっと目を見開いて、即効で一弘からメガホンを奪い取った。

「……行きゃいいんだろ、行きゃ」

 ふてくされながらも、さすがに焦りを見せた光流に、一弘は満足気に笑みを浮かべた。

 


 保健室の扉を開くと、空気が変わったように静寂が二人を包み込んだ。

 これまでと何一つ変わらない、二人きりの静かな時間。昨日のことなど、何もなかったかのように。

 一弘が振り返ると、光流はまだ警戒心を抱えているかのように、一向に目線を合わせようとはしない。

 少しも心を許していないその様子に、一弘は切なげな表情をしたが、思い直したように口を開いた。

「とりあえず座れ」

 一弘が言うと、光流は渋々と言ったように小椅子に腰を下ろした。

 仕方ないようにその様子を見つめてから、救急箱を手に取ると、それを机の上に置く。

「手、出せ」

「……いらねーよ、手当てなんか。こんくらい舐めときゃ治る」

「いいから出せ」

 一弘は絶対に怯まないといった口調で言うと、光流の右手を捉えた。

 ガラスに刺された傷が痛々しく残るその手を、淡々とした様子で手当てを始める。何も言わず黙って手当てをする一弘を、光流は無表情に見つめているが、心の中で何らかの葛藤を抱えている事はすぐに読んで取れた。

「痛かっただろう?」

 包帯を巻き、一弘が静かな口調で尋ねた。光流は応えない。

「……痛くない」

 一弘が沈黙しながら見つめていると、光流がようやく口を開いた。強がりの台詞に聞こえるが、きっと、強がりではないのだろうと、一弘は判断した。

「痛かったのは、こっちか」

 一弘はそう言うと、ぽんと拳で光流の胸を叩いた。光流がわずかに目を見開く。

「だが残念ながら俺には、ここの治療までは出来ない。どうしてか、解るよな?」

 優しい口調で諭すと、色素の薄い瞳が、まっすぐに一弘を見つめる。

 どこか切なげで、哀しみを宿したその瞳。

 あの時、必死で親を呼んでいた子猫を思い出させるような。

(ああ……)

 大丈夫だ。まだ、信じられる。

 その瞳を見て、一弘は確かに思った。

「それから、ずっと言いそびれていたんだが……」

 突然、一弘はいやに神妙な瞳で光流を見据えた、光流もまた、神妙な面持ちで次の言葉を待つ。

 すると一弘は光流の肩に手をかけ、眼鏡を外し、光流に顔を近づけた。

「俺がずっと好きだったのは……おまえなんだ」

 その台詞に、光流が目を見開いた。驚愕を見せる光流などお構いなしに、一弘は触れる寸前まで唇を近づける。さすがに焦りを隠せない光流が「い……!」と声をあげたその時、一弘が途端に目を据わらせた。

「冗談に決まっとるだろーが、馬鹿者」

 低い声で言ったかと思うと、ニヤリと笑みを浮かべる。

「なにビビってんだよ、だっせ」

 完全にからかいの意を含めた口調。光流が途端に目を吊り上げ、立ち上がった。

「……今度こそ本気でぶっ殺す!」

 光流は実に悔しげにそう言うと、両手を合わせてバキバキと手を鳴らした。

 しかし「あははは」と脳天気に笑う一弘に、その拳を向けることはなかった。



(何とか、戻せたかな) 

 だからといって別に、自分の中の何かが劇的に変わったわけではない。  

 何かを失いそうになっては、懸命にそれを探して見つけて、また大切に守り続ける、相変わらずの毎日だ。

(ま、良い勉強にはなったか)

 こんな仕事をしている限り、きっと逃れられない宿命なのだ。

 それならば、全てを受け入れて、近付いては離れて、そっと遠くから見守り続ければいい。

 たとえどんなに絶望を感じる瞬間があっても、孤独に苛まれても、自分自身に負けそうになっても。

 


「忍、見ろよ! でっけー飛行機雲」



 子供たちの無邪気な笑顔が目の前にある限り、また性懲りもなく愛し続けていくに違いないのだから、この手の中にある小さな力を、迷わず信じていこう。


 一弘は掌を自分に向けて見つめる。

 そうして穏やかに微笑むと、保健室の窓を開き、爽やかな風をその身に浴びた。