掌<前編>
もぞもぞとベッドのシーツが動いた瞬間、一弘は反射的に書類に向けていた顔をあげた。
「あー……っ……」
体を起こしたと同時に大きく伸びをした保健室の常連は、まだ少し寝ぼけた顔でベッドの上から降りれずにいる。
どうやら今日は、いつに増して疲れた様子。
日に日に厳しくなっていく受験勉強のせいか、それとも周囲への気疲れからくるものか。
「せんせー、今何時?」
「五時ジャスト」
「……んだよっ、もっと早く起こせよ!」
何を焦っているのか、突然がばっと体を起こしブレザーを羽織る光流に、一弘は眉をしかめながら目を向けた。
まるで反抗期の息子みたいな態度をとられるのはいつもの事だが、いくら温厚な一弘とて、いつ何時でも余裕があるわけでは決してない。
「おまえな……」
いいかげん、お小言の一つも言ってやろうかと思ったその時には、光流は既に保健室から姿を消していた。
一弘は仕方ないように小さくため息をつく。
椅子から立ち上がり、乱れたシーツを整えようとしたその時、ベッドの上で何かがキラリと光った。
一弘が手を伸ばし拾い上げたのは、細いシルバーチェーンにオープンハートがぶら下がった、どう見ても女性用のものであるネックレスだった。不審に思いながら、一弘はそのネックレスを机の引き出しにしまった。さて、明日、どう尋ねるべきか。少し考えて、一弘はベッドのシーツを綺麗に整えた。
途中、まだ学校に残っていた教諭の一人と他愛ない世間話をし、昇降口へ向かおうとしたその時、突然、目の前の扉がガラリと音をたてて開いた。思いがけず目を丸くした一弘の目の前に、一人の生徒が姿を現した。視線が合った瞬間、生徒はやや驚愕の色を瞳に浮かべた。
「……今、お帰りですか?」
しかしすぐに平静を取り戻した生徒を目前に、一弘は「らしいな」と思いながら、柔らかな笑みを浮かべた。
「ああ。まだ生徒会の仕事が残ってたのか? 手塚」
「ええ、色々と……」
いつでもきっぱりとした返事を返す忍にしては珍しい、やや言葉を濁した返答に、一弘は一瞬眉をしかめたが、それを悟られまいとすぐに表情を元に戻す。
「引退したというのに、ご苦労な事だな。もう遅いから、いいかげん帰れよ」
「はい」
いつもの優等生らしい涼しい笑みを浮かべながら心地良い返事をする忍を見つめたその時、一弘は奇妙な違和感を覚えた。何かがいつもの彼とは違う。けれどその違和感の正体はすぐには見つからず、何かあったかと尋ねたところで決して真実を答えることはないこともわかっていたから、追求は諦めた。
「じゃあ……」
忍に背を向けようとしたその時、生徒会室の扉が小さく揺れた。
「帰ろうぜ、忍」
扉の向こうからひょっこり顔を出したのは、保健室を出て行った時のままの、飄々とした笑顔の光流だった。
「何だ、おまえもまだ残ってたのか」
「腹減ったから、もう帰るよ。行こうぜ、忍」
光流は気楽な口調でそう言うと、忍の肩に腕をかける。忍もまたいつもと何一つ変わらない平静な表情で、二人そろって一弘に背を向け、廊下を歩いて行った。
ああなるほど、そういうことかと、一弘は二人を見送りながら妙に納得した様子で、自身もまた玄関に向かって歩き出す。
まったく、若いということは……。
仕方ないと思うと同時に、果たして教師としてそれを許して良いものかどうか。いいかげん甘やかしすぎだろうかと思いながらも、言って通じるならとうの昔に言い聞かせている。誰に迷惑をかけているわけでもないならば、多少のやんちゃは大目に見てやろう。無理やり自分を納得させながら、深くため息をつく一弘であった。
「おまえのだろう?」
目の前の生徒、手塚忍は、少しも顔色を変えないまま、そのネックレスを渡されるままに手の平に受け取った。
「どこでこれを?」
「恋人の忘れ物だ。……聞かなかったのか?」
「そんな事だろうと。どうせ、あってもなくても良いものですし」
忍は諦めと虚無感が入り混じった声でそう言うと、ネックレスを無造作にブレザーのポケットにしまった。
齢十七歳にして、大人の女性でもなかなか買えないようなブランド物のネックレスを適当に扱う。実に可愛げのない生徒だと思いながら、一弘は睫を伏せる忍を観察するように見つめる。
大人びた表情。無駄のない動作。全身から滲み出る清潔感。あまりにも完璧すぎる故に見え隠れする、一瞬即発の脆さ。入学したその時から実に興味深い生徒ではあったが、最近では更にそれが増している。
何故だろう。一弘は考えた。
入学当初、初めて言葉を交わした瞬間から、彼が頑なに心を閉ざしていることはすぐに直感した。希望や期待に胸を膨らませ、ほんの少しの不安に満ちた、年相応の明るい瞳の色をした同年代の生徒達と違い、全てが造られたような表情に加え、彼の瞳には明らかに「生」というものが宿ってはいなかった。
けれど同居人との図書室での喧嘩の後から、大地から芽生えた花のように、少しずつその瞳の色に命が宿っていくのを、一弘は確かに感じていた。それでもまだまだ、今が満開の花のように明るく健やかに育っている生徒達には及ばないが、いずれ必ず彼にもその時が訪れるだろうことは確信出来るほどに、健やかに今の学生生活を送っているように思う。
それなのに。
「手塚……、最近、何か変わったことはないか?」
一弘が尋ねると、忍はやや怪訝そうに顔を上げた。相変わらずの警戒心の強さを目の当たりにした一弘は、次に返ってくる言葉を容易に予測した。
「無いか、そうか。それは良かった」
返事を返されるより先に、大げさなまでの声色でそう言うと、忍はやや眉をしかめた。どうやら面白くなさげな様子だ。負けず嫌いの彼のこと、応えを見透かされた事が気に食わなかったのだろう。それから、からかうような口調にも。
「あったら……どうだと言うんです?」
珍しく反抗的な態度をとられ、一弘は目を見張った。
だがそれは、彼が自分に興味を示す千載一遇のチャンスであった。
「興味があっただけだ。おまえという奴にな」
一弘の答えを聞くなり、忍もまた目を見張った。
「何故です?」
警戒心を露に尋ねられるが、一弘は余裕の笑みを浮かべる。
「さあ? 何でだと思う?」
飄々とした口調で尋ねると、忍は神妙な面持ちで口を閉ざした。
どんな答えをはじき出すのか、一弘は興味津々に忍を見つめる。
「僕が人に興味を持つ理由は、「利用できるかできないか」、それだけです。つまり僕自身の欲望のために興味を持つ。先生も同じですか?」
少しの沈黙の後、忍は口の端に笑みを浮かべ、まっすぐに一弘を見つめる。
返ってきた答えは、一弘の予測の範疇外だった。
まさか彼がこんな正直に応えるとは思っていなかったし、増していつもと全く違う色を帯びた瞳で自分を見つめてくるなど、あり得ない。
「応えて下さい。先生の欲望が、僕に興味を持たせているのかどうか……」
「……そうだな、そうなのかもしれない」
一弘が静かな声色で答えた。忍の人を試すような瞳の色は変わらない。
「知りたいと思う気持ちもまた、欲望だ」
言葉に惑わされるな。そう思いながら、一弘は平静を保った。
忍はそれまでとは違った鋭さを宿した瞳で一弘を見据えた後、ようやく納得したように、一弘から視線を逸らす。一瞬、諦めたような顔つきで。
「すまなかったな、おかしな事を聞いて。何もないならそれで良いんだ」
一弘は忍の肩をポンと叩くと、その隣を横切って忍に背を向けた。
決して振り返ってはいけないと思った。
「ああ……それ、俺も感じてました。何がっていうわけじゃないんだけど……何かこう……」
久しぶりの教諭同士での飲み会の席で、ふと一人の教師が放った言葉で、一弘ははっとした。
「たぶんですけど、みんな彼女でもできたんじゃないですか? 特にあの年代の子は、恋をすると急に綺麗になったりするじゃないですか」
「うち男子校ですよ?」
「男の子だって、綺麗になりますよぉ! みんな、一年生の頃よりずっと、お洒落にも気を使ってるじゃないですか! いいなぁ青春。私も恋したい~!!!」
若い女教師が、実に羨ましそうにうっとりとした表情を浮かべる。
(恋って……)
一弘は思わず心の中でつっこんだ。
しかしそう言われれば、物凄く納得してしまう。女性ならではの眼力に、思わず感心してしまう一弘であった。
(しかし……)
なんというか、恋だの愛だの、そんなもの感じる隙もないほどにいつも表情を凍りつかせている、あの潔癖な冷血鉄仮面が、よりによって恋……。しかも、あの単純馬鹿に……。考えると、非常に複雑な気分になる一弘であったが、互いに心の傷を持っている二人だけに、寄り添うことで幸福になれるのならば、それはそれで素晴らしい恋なのかもしれないと思い直した。
(だが……)
不意に一弘は、思い出した。
『先生の欲望が、僕に興味を持たせているのか……』
あの時自分を見つめた、あの瞳。
あれは間違いなく、誘惑の色を含んでいる瞳だった。
無論彼に、自覚はなかっただろう。ただ悔しさと負けたくない想いで、懸命に相手を取り込もうとしていただけだ。それこそ身も心もズタズタに切り裂かれ、暗闇の中で生きる故に、なけなしのプライドを必死で守り続ける娼婦のように。
なぜ、自分に? 彼が恋する相手はただ一人で、今はその恋に溺れ、十分に満たされているはずなのに。
何にしてもあまりにも危険だと、一弘は思った。
誘うことを自覚しているならまだ良い。けれど無自覚の誘惑は、巻き込む相手をとことんまで追い詰める。それでなくとも、よく整った顔立ちと類まれな賢さとカリスマ性を生まれもち、それに加えて人を操る方法も熟知している、まるで神話に出てくる悪魔のような少年だ。もし彼が本気を出して周囲を取り込もうとしたなら、狂わされる人間の数は、よく耳にする宗教団体の比ではないだろう。
決して、彼の中に渦巻く数多の感情の波に呑まれてはいけない。
一弘は自分にそう言い聞かせ、グラスの中のビールを一気に飲み干した。
1時間ほど眠ってから目を覚ました光流は、やはり随分と疲れた表情をしていて、不審に思った一弘は寝ぼけ眼の光流に尋ねた。
「最近、あまり寝てないのか?」
「あ? ああ……やっぱ受験勉強とか、いいかげん本腰入れねぇと」
「そうか、おまえにしちゃ殊勝な心がけだ」
からかうように言うと、光流はさして気にしていない様子で鼻で笑った。
やや気だるい表情のまま立ち上がり、ブレザーを片手に持って保健室を出て行こうとする光流に、一弘は躊躇いがちに声を放った。
「光流、忘れ物の件だが……」
やはり気になって仕方ない。尋ねると、振り返った光流の表情に覇気がなく、どこか心無いその瞳に、一弘は不信感を覚えた。
「何のこと?」
次の瞬間、光流は少し笑って、いつもの飄々とした声をあげる。一弘はその不自然さに違和感を感じ、やや眉をしかめた。
「手塚のネックレスのことだ」
彼に誤魔化しはきかないと知っている一弘は、単刀直入に尋ねた。
すると光流は一弘から目を逸らし、ほんの一瞬、瞳に鋭さを宿した。
しかし次の瞬間、
「ああ、アレなら捨てた」
光流がやけにあっさりとそう言い放ち、保健室の扉に手をかける。一弘は狼狽の色を浮かべた。
「捨てたって、おまえ……」
さすがにそれはマズいだろうと、きちんと事の真相を尋ねようとした一弘だが、光流は貸す耳もないというようにさっさと扉を開き、保健室を出て行ってしまった。
尋ねる隙もないほどに鮮やかに去って行った光流を、しかし追いかけて問いただすほど自分が口を出すべきことではないと思い直した一弘だが、どうにも彼にはペースを乱されがちだ。それほど放っておけない何かが、光流にはあった。
数多くの友人に恵まれ、いつも明るい笑顔を絶やさず、周囲に光を放っている彼だが、一見すると悩天気で悩みなど何もない飄々とした笑顔の裏には、特別な何かが潜んでいるように思う。彼の育った環境という先入観が、そう見させるのかとも思ったが、先ほどのようなまるで心中が読めない表情をされると、やはりどうしても疑念ばかりが浮かび上がってくる。
何事もなければ良い。
ただそう願うしかない己の無力さに、しばし頭を抱える一弘であった。
朝になると、いつも必ず視界に映る光景がある。
「すかちゃーん! 待ってよーー!!」
「うるさいっ!!」
また何をカリカリしているのか、実の弟が早足で歩きながら怒りの声をあげている。そんな弟を仕方ないように追いかける同居人。その背後から、二人並んで歩く隣室の先輩達。
それは一弘にとって酷く安堵する光景で、心を和ませてくれる一時であった。
だが平穏な時間は一時で、数時間もすれば、誰かしら怪我をしただの具合が悪いだのと、保健室に駆け込んでくる生徒がいる。中にはメンタルの不調のせいで授業にならない生徒もいる。自分が学生時代に大きな悩みと葛藤の中で生きてきたように、誰もがみな何かしら、それぞれに暗く深い闇を抱えているものだ。
そう、何も「彼ら」だけではない。
それなのに……。
生徒達の群れの中に発見する瞬間。
壇上に立った姿を目前にする瞬間。
ふと廊下ですれ違う瞬間。
気がつけば、不自然なほどに、瞳が彼らを追っている───。
「大丈夫か?」
周囲の誰も気づかなければ、彼はそのままいつもと同じ生活をこなし、寮まで帰っていたに違いない。
一弘が声をかけた瞬間、緊張の糸が切れたように足元をふらつかせた忍を、一弘は保健室で休んで行くように諭した。
「そんなに我慢しても、得はないだろう?」
何故?とは聞かなかった。おそらくは理由などなく、彼にとっては我慢することが当たり前なのだろう。
忍は応えずうるさそうに一弘から顔を逸らして、ベッドの上に横たわる。掛け布団をかぶると横向きになって、まるで胎児のように背中を丸めた。
しばらくそっと寝かせておこう。そう思い、一弘はカーテンを閉める。
「……先生」
しかし思いがけず呼ばれ、一弘はそっとカーテンを開いた。
「どうした?」
「少し……気分が悪くて……」
忍が意外にも弱気な台詞を口にしたことにやや驚きながら、一弘はそっと忍の傍に歩み寄った。
「少し熱があるみたいだな」
一弘は忍の額に手を当て、それから軽く背中を摩った。
刹那、一弘は目を見張った。
ネクタイを緩め、第二ボタンまで外されたシャツの隙間から、いくつも残る赤い印が視界に映ったからだ。
何か見てはいけないものを見てしまったような気がして、柄にも無く鼓動が跳ね上がった。
同時に、いかにもあの単純馬鹿がやることだと冷静に思いながら、心の中で苦笑する。
「薬、飲んでおくか?」
「いえ……」
背を摩っていた手を離すと、突然、忍は一弘の白衣を掴んだ。瞬間、まるで縋るような瞳が一弘を見据える。一弘は思いがけないその忍の表情に、胸の内で驚愕した。
しかしすぐに平静を取り戻し、忍の背に掌を寄せる。
そっと摩ってやると、忍は安堵したように浅く息を吐いた。
(怯えている……?)
まるで、助けを求めるかのような、あの瞳。
どうして? なぜ?
一弘の心の内に疑惑ばかりが広まる。
けれど尋ねても、彼は応えてはくれないだろう。それならせめて、彼の望むままに。
思いながら優しく触れていると、突然、保健室の扉が派手な音をたてて開いた。間髪入れず、カーテンが開かれる。あまりの性急な行動に目を見張った一弘の前に表れたのは、どこか余裕の無い表情をした光流の姿だった。
「何だ、同居人の迎えに来たのか?」
一弘はあくまで平静に、忍から離れて光流に尋ねた。
「ああ……忍、大丈夫か?」
光流がやけに神妙な面持ちのまま、忍に歩み寄った。
忍がゆっくりとした動作で体を起こす。
「帰ろうぜ」
光流がそっと、忍の肩に触れる。刹那、忍の肩がビクッと震えたのを、一弘は見逃さなかった。
「もう少し……休ませてくれ」
忍が光流と全く視線を合わせないまま、静かな声色を発する。
「帰って休めばいいだろ? ほら、立てよ」
しかし光流は、やや強い口調で言うと、忍を立たせようと腕を掴んだ。強引にも見えるその行為に、一弘は眉をしかめた。
「光流、もう少し休ませてやったらどうだ? 何もそんなに急いで帰る必要はないだろう?」
咎めるように一弘が言ったその瞬間、光流の瞳が一瞬鋭く光を放ち、まるで睨みつけるように一弘を見据えた。まるで威嚇するようなその瞳に、一弘は驚愕を隠せず目を見開いた。
「帰るぞ、忍」
光流は酷く厳しい口調でそう言うと、一弘に背を向け足を踏み出す。
同時に、忍もベッドの上から降り、ブレザーを右手に持って、歩き出す光流の後を追った。
「手塚……!」
思わず一弘は忍を呼び止める。
「大丈夫なのか……?」
尋ねると、忍は振り返たものの、目は合わせないまま礼の言葉だけを残して、光流と共に保健室を去って行った。 |
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