memory<前編>


「……ってーなっ!! 何も殴ることないだろ!?」
 あまりにも突然に思い切り頬を殴られ、光流は赤くなった頬を押さえながら抗議の声をあげた。
「うるさいっ!! おまえなんかもう顔も見たくない!!」
 しかし忍は憤慨しきった様子で声を荒げると、光流に背を向けてさっさと家を出て行ってしまった。
「ちょっ……忍!!」
 光流は何が何やらさっぱり分からない様子で首をかしげる。
 そしてふと、何か思い当たったように目を見張った。
 
 
 移り変わる景色を眺めながら、先ほどから少しも口を開かない忍に、車のハンドルを握り締めながら瞬が尋ねた。
「もしかして、光流先輩と喧嘩でもした?」
「別に、何もない」
「そんな顔して?」
 運転しながらクスリと笑う瞬を、忍は面白くなさそうに睨みつけた。
「分かりやすいなあ、忍先輩。それで珍しく、僕の誘いにのってくれたわけだ?」
今 日から仕事が三連休、特に予定もないし、瞬からの旅行の誘いに断る理由もなく、こうして瞬の実家が経営する旅館に向かっている。
「おまえこそ、急に良かったのか? 予定があったんじゃないのか?」
 旅行に誘ったのは瞬の方だが、先に連絡を入れたのは忍だった。
 瞬の指摘通り、昨夜光流と揉め事があり家を飛び出し、忍は気がつけば瞬の携帯の番号を押していた。
 
『もしもし? 忍先輩? どうしたの?』
『あ……いや……』
 瞬の声を聞いた途端、忍は戸惑いを露にした。
 電話したは良いものの、しかしこれといって何を話して良いかも分からず、思わず躊躇った忍の様子をすぐさま察したかのように、瞬が間髪いれずに言葉を続けた。
『ちょうど良かった、こっちから連絡しようと思ってたとこ。先輩も明日から三連休でしょ? 暇だったら一緒に旅行でも行かない? どうせ光流先輩は仕事でしょ?』
『あ、ああ……』
 
 忍に断る理由はなかった。
 どうせしばらく家に帰るつもりはなかったし、今は光流の顔など見たくもない気分だったから。
「予定? だから先輩と旅行に行くつもりだったんだってば」
 瞬はサラリと言うが、おそらくは自分のために急遽たてた予定であることは、すぐに理解できた。
 いつでも瞬はそうだ。わざわざ言葉にしなくてもすぐに言いたいことを分かってくれて、なおかつ先回りしてこちらに気遣わせないように導いてくれる。
 昔から勘が鋭く面倒見の良い気質だったが、しかしこうまで鮮やかに心中を見抜かれると、少々複雑な気分でもある忍だった。
「なんか懐かしいね、一緒に温泉旅行って」
「そうだな……」
 瞬の言葉に忍は一瞬遠い目をして、また窓の外の景色に目を向けた。
 そんな忍を、瞬は神妙な目つきで見つめる。
 原因は分からないが、明らかに何かに酷く傷ついているような忍の様子に、気づかない瞬ではなかった。
 
 
「着いたよ、忍先輩」
 昔、一度だけ来たことのある瞬の実家にたどり着き、車から降りて入り口に向かう。
「おにいちゃま!!」
 すると、前方から高い声が耳に届き、忍は一瞬目を見開いた。
 数メートル先から走ってくる、髪の長い白いワンピースを来た高校生くらいの女の子が、満面の笑みを浮かべて瞬に抱きつく。
「唯、ただいま。元気にしてた?」
 瞬が愛しげに抱きしめるその女の子は、十六歳も年下の妹、如月唯だった。
 忍が唯に最後に会ったのはもうずいぶん昔のことで、いつの間にこんなに大きくなったのだろうと感心すると共に、あまりに高校時代の瞬と瓜二つで驚かざるをえない。
「元気なんかじゃないわ! なかなか帰ってきてくれないんだもの、寂しかった!! おにいちゃまのバカ!!」
 拗ねたように口をとがらせ、唯が瞬に訴える。
「ごめんね、連休中はずっとこっちにいるから。それより、ちゃんと僕の友人にご挨拶して?」
「あ……ごめんなさい! こんにちは。ゆっくりなさって下さいね」
 唯が忍に目を向け、可愛らしい笑顔を浮かべて言った。
 懐かしい顔を目前に、忍も人当たりの良い微笑を浮かべる。
「こんにちは。こちらこそ、よろしく」
 忍が優しく声をかけると、唯の顔がわずかに赤く染まった。
「あーっ!! おにいちゃま!!」
 すると背後から、今度は確実に男のものであろう声が耳に届き、振り返ると、瞬とよく似たスラリとした細身の男性が満面の笑みを浮かべて駆け寄ってきた。瞬の弟、麗名だ。今にも瞬に抱きつく勢いで駆けてくるが、阻むように唯が瞬の前に立ちはだかった。
「唯、どいてっ!!」
「だめ! おにいちゃまは唯の!!」
「ズルいっ!! 僕だって久しぶりに会ったのにっ!!」
「こらこら、二人とも喧嘩しない」
 瞬が苦笑しながら、かなり年の差があるにも関わらず同じレベルで言い争う弟妹を宥める。 
 相変わらずの麗名のブラコンぶりに、加えて妹まで相当のブラコンときている。ある意味感心する忍であった。
 やっと二人を落ち着かせ部屋に向かう途中、少々疲れた様子の瞬に、忍が尋ねた。
「旅館は妹が継ぐんだろう?」
「うん、でもまだ高校生だからね。今は麗名が経営任されてるんだけど、あれで結構よくやってくれてるよ」
「おまえはそれで良かったのか?」
「もともと会社なんてやりたくなかったし……それに、僕はあの子達のそばにいない方が良いと思って」
 そう言って、瞬は苦笑した。
「僕がそばにいたら、二人とも、甘えちゃうからね。昔すかちゃんに言われて、僕なりに厳しくしようと努力はしたんだけど、やっぱりどうしても甘やかしすぎちゃって。だから、離れた方が良いと思ったんだ」
「そんなに可愛いものか?」
「可愛いよ~。二人とも、僕の宝物だもん。でもやっぱり無条件で甘やかすのって、良くないよ。どんどん駄目になっていく麗名見てたら、つくづく自分が嫌になってさ」
「……だから、ずっと一人でいるのか?」
 瞬が一人身でいる理由。ずっと特定の恋人も作らず、割り切った関係を持てる相手としか付き合わない理由が、そこにあるのだろうと忍は思う。
「人間て、結局は一人だと思うよ? 僕は今のままで満足してるよ」
 そう言って、瞬はにっこり微笑んだ。
 そこに悲壮感は欠片もない。きっととうの昔に割り切っているのだろう。少しの幼さも残っていない現在の瞬を見ると、無邪気にはしゃいでいた頃の瞬が酷く懐かしいように思えて、忍は切なげに目を伏せた。
 
 
 熱いお湯に浸かりながら、遠い昔の記憶をそっと頭の中で辿っていく。
 かつて四人で入った温泉は、昔とは少し形を変えているのは分かった。けれどどんな風に変わったのか、もうハッキリと昔の形は思い出せない。
 こうやって、人は古い記憶を捨て去っていくのだ。
 どこか悲しげな瞳をする忍の頬に、不意に長い指先が触れてきた。顔をあげると同時に突然唇を塞がれ、忍は動揺を隠せず目を見開いた。
「瞬……っ」
「何?」
 唇を塞いだ当人は、忍の鋭い視線に少しも動じない冷静な瞳を向ける。
 そうして忍の顎を捕らえ、もう一度顔を近づける。忍はすぐさま瞬から顔を背けて、二度目のキスを拒んだ。
 けれど瞬は忍の後頭部に手を回し少々強引に引き寄せると、その耳元に唇を寄せ、耳たぶを軽く噛んだ。ゾクリとするようなくすぐったさに、忍が微かに身を竦める。
「誘ったのは、忍先輩の方だよ? まさか僕の気持ち知っててここまで着いて来て何もないと思うほど、子供じゃないよね?」
 まるでこの時を待っていたと言わんばかりの瞬の口調に、忍は返す言葉を失った。
 言い返せるはずもない。瞬の自分への想いは知っている。知っていながら、その想いに甘えようとしていたのだから。
「分かった……から。でも……場所は変えてくれ……」
 ちゃぷんとお湯が波立って、耳に瞬の舌が這う。
 この場で事に及ぼうとする瞬に、震える声で忍は訴えた。
「じゃあ、後で部屋でね」
 低い声で囁かれて、忍は瞬から視線を反らしたまま、困惑を隠せない瞳で小さく息をついた。
 
 
 やはりこれは、浮気というのだろうか。いや、浮気以外の何ものでもないだろう。
 罪悪感ばかりが胸の内に広がっていくのを感じながら、忍は広げてある客間の布団の上に腰を下ろした。
 良いはずがない。けれど、瞬の想いに応えないわけにはいかなかった。それほど大きな借りが、瞬にはあるのだ。
 光流と別れた後、あまりにもいろいろな事がありすぎて、どうしようもなく弱くなっていた時、偶然再会した瞬によって命を救われ、同時にそれまで無くしていた心も大きく救われた。
 何も言わず、何も聞かず、ただ優しく寄り添って、暖かい抱擁と言葉だけを注いでくれた瞬に、感謝してもしきれない。もしあの時、瞬によって救われなかったら、今の平穏はどこにも無かったに違いない。それなのに瞬の想いに応えることは出来ず結局は光流を選んだ自分に、なおも友人として優しく接してくれる瞬に、忍はただ負い目を感じるばかりだ。
 けれど瞬のそばでは、光流といる時には得られない、不思議な安堵感を得られる。麗名や唯があれほどまでに瞬に依存する気持ちも理解できなくはなかった。
(どうして……)
 家を飛び出してから無意識のうちに瞬に電話して、瞬の声を聞いた途端、電話をした自分に驚いた。
 いくらどうしようもなく傷ついているとはいえ、誰かに甘え縋ろうとするなんて、自分はそんな弱い人間だっただろうかと、激しく自己嫌悪に陥る。
 けれどいまさら遅いと悔いても、ここまで来て拒むことなど出来るはずがない。瞬の言うように、一方的に甘えるだけ甘えてそれが許されると思うほどに、もう身勝手な子供ではない。
 罪悪感にかられながらもその場に姿勢良く正座していると、そっと背後から肩に手をかけられ、忍の身体がわずかに震えた。
「大丈夫だよ、そんな不安そうな顔しなくても。忍先輩の幸せを壊すつもりはないよ。光流先輩にも絶対に知られないようにするから」
 優しい声で囁かれる。
 確かに瞬と二人で旅行に来たところで、光流は何の疑問も抱かないだろう。まさか瞬とこういう関係に陥っているなんていう事実も、光流は微塵も気づいていない。
「そんな関係で……いいのか? おまえは」
 割り切った付き合い。大人の、と言えばそうかもしれない。
 昔は自分も、そんな関係ばかりを続けていた。あの頃は、罪悪感など微塵もなかった。むしろ楽だとさえ感じていた。
 それなのに今、何故こんなにも罪の意識に囚われるのか。
 頭の中に浮かび上がる見慣れた笑顔をどうにか打ち消そうとしても、沸き起こる罪悪感は増していくばかりだ。
「僕は構わないよ。どんな形でも、忍先輩を抱けるなら」
 そっと抱きしめられ、首筋を撫でられる。
 執着はしない。束縛もしない。それなのにどうしようもなく優しくて暖かい心が伝わってくる。決して遊びなんかではない、増して割り切った関係でもない、切なまでの自分への想いが痛くて、忍は覚悟を決めたように瞬に身を委ねた。
「好きだよ、忍先輩」
 重なってくる唇。

 布団の上にそっと押し倒され、忍の白く滑らかな首筋から胸に、細く長い指先が伝う。
 優しくて、酷く落ち着いた瞬の瞳。決して不安感を与えないような。
 いつの間に、こんな大人の顔をするようになったのだろうと忍は思う。
 今の瞬に、高校時代の面影は少しも無い。あの頃を思い出すとまるで別人だと言っても過言ではないくらいに、目の前にいるのは、女性なら誰でも一瞬で心を奪われるであろう魅力的な大人の男だ。
 高校時代は幼いばかりだった瞬が、いつの間にか遥かに自分を追い越し成長していることに、とうに忍は気づいている。けれどそれは当然のことだ。そのくらい、長い年月が経過して、人も景色も変わっていく。いつまでも、同じままではいられない。
「不安なら、目を閉じてて。何があっても僕のせいだよ」
 言われるままに、忍は目を閉じる。
 卑怯だと分かっていながら、瞬の言葉に縋る。胸の内に宿る罪悪感は、やはりどうあっても拭えない。けれど忘れなければいけない。今だけは、全て。
「……ん……」
 瞬の指が胸の突起をやんわりと刺激して、忍はぎゅっと瞳を閉じた。
 襲ってくる感覚に恐怖にも似たものを覚えるが、ここまできて拒むわけにはいかない。与えられる刺激に、ただ目を閉じて乱れる息をこらえていると、瞬が耳元に唇を寄せてくる。
「せっかくなら、楽しみなよ。いつもと違う愛撫も、刺激的でしょ?」
 繊細なばかりの指が、労わりをもって忍の硬く尖った乳首をやんわりと撫でる。感じやすい肌は指先だけの愛撫で十分に反応を露にする。まるで少年のようなきめ細かい肌が少しずつ色を帯びていき、瞬の欲情は煽られるばかりだ。
 忍の口から時折漏れる吐息に、たまらない色香を感じる。よく慣らされたいやらしい肉体。誰にここまで開発されたかと思うと、少しばかりの嫉妬心を感じて意地悪な気にかられ、瞬は軽く忍の乳首に歯をたてた。
 思わず口をついて出そうになる喘ぎ声をこらえるように、忍が口元に自分の手を押し当てた。しかし瞬はそれを許さず、忍の手首を捉えて布団の上に押し付ける。
「声、聴かせて? 今夜限りなんだから、そのくらいの楽しみ、僕にちょうだい?」
「ん……っ」
 太ももを撫でる指の感覚に翻弄されながら、強く目を閉じたまま忍は小さく声をあげた。
 今夜限り。そう、今夜限りだ。
 そう自分に言い聞かせ、与えられる愛撫にただ身を委ねる。
 けれど一番感じやすい部分に瞬の指が触れたその時、思わず忍は身を捩った。
 そしてうっすらと瞳に涙を滲ませる。
 瞬の指が愛撫を止めた。
「……やっぱり、光流先輩の指の方が良い?」
「ちが……違う……っ」
 その名前は出すなとばかりに、忍は開いた瞳を瞬に向けた。
 不意に、瞬がスッと忍から身体を離した。咄嗟に忍は瞬に目を向ける。
「やっぱり、無理みたいだね」
 小さくため息をついて、瞬が言った。
「無理なんか、してない」
 即座に忍は言葉を返した。
 しかし瞬は、そんな忍に呆れたような視線を向ける。
「覚悟できてない人を無理に抱くほど、馬鹿じゃないよ、僕」
 少し怒っているかのようにも思えるその言葉に、忍はまたも返す言葉を失った。
 身体だけ投げ出せば瞬が満足するはずなどないことは分かっていたのに、浅はかな自分に情けなさが増してくる。
「……ごめん、ちょっと意地悪言った」
 瞬もまた、自分が情けないように顔をうつむける。
「いや……俺が、悪かった。すまない……」
 忍が小さく声を発した。
 瞬の言うとおり、少しの覚悟も出来ていないのは、確かだった。
 せめて今だけでも瞬のことだけを想いたい気持ちは本当だったけれど、打ち消せない光流の笑顔。なぜこんなにも光流でなければならないのか、自分自身に問うても答えは出てこない。
 少しの沈黙のあと、瞬が笑みを浮かべた。
「悪いと思ってるなら、理由くらい教えて? 光流先輩と何があったの?」
 優しい声で尋ねられるが、忍は酷く言いにくそうに目を伏せる。
「もしかして浮気でもされた?」
「違う!」
 咄嗟に忍は否定した。
 瞬は少し意外そうな顔をする。
 浮気でもなかったら、何をそこまで忍を怒らせる出来事があったのか、まるで分からないといった様子だ。
「……が……」
「え?」
「マグカップが……割れたんだ……」
 
 
 話は冒頭に戻り、先日の夜。
 趣味と実益を合わせてパソコンをいじっていた忍の耳に、突然ガシャン!!と派手な音が響いて、忍は咄嗟に音のした台所に目を向けた。
「あ~あ、割れちまった」
 光流が苦い顔をしながら腰を落とす。
「大丈夫か? 何を割っ……」
 片づけを手伝おうと歩み寄った忍の目が、床に散らばった破片を見るなり咄嗟に大きく見開いた。
「それは……」
「悪ぃ悪ぃ、すぐ片付けっから。食器ってどこに捨てればいいんだっけ?」
 光流は水玉模様のマグカップの破片を拾いながら、忍に尋ねる。
「光流……それは……」
「ん?」
「覚えて……ないのか?」
「は? 何を?」
 忍は少し震える声で光流に尋ねるが、光流はまるで分かっていない様子で、淡々とビニール袋に破片を拾い集めていく。
「まあ割れちまったもんは仕方ねーじゃん。マグカップくらい、また新しいの買えば……」
 立ち上がって飄々と言う光流の頬に、突然、強い衝撃が加わった。
 いきなり平手打ちをくらって、光流は何がなんだか分からない様子だが、忍は鋭い目つきで光流を睨みつける。
「……ってーな!!何も殴ることないだろ!?」
 マグカップの一つや二つで、と光流は怒りを露にするが、忍はよりいっそう怒りを露にして声を荒げた。
「うるさい!! おまえなんかもう顔も見たくない!!!」
 
 
「水玉のマグカップ……」
 話を聞き終え、瞬は必死で高校時代の記憶を手繰り寄せる。
 そう言われれば確かに、光流と忍がそんなカップを使っていたような記憶がなくもない。
 しかし、果たしてそれはそこまで怒る出来事なのだろうかと思いつつ忍の顔を見ると、本気で真剣に怒りを露にしながら、なおかつ今にも泣きそうな顔をしていて、瞬は思わず肩を震わせた。
(なにこの可愛い生き物……!!!!!!)
 思いっっきり笑いをこらえつつ、今すぐ抱きしめてよしよしして頭撫でてあげたい!!!などと思いながら、その衝動を必死で抑える。
 いやしかし、彼は真剣なのだ。本当に真剣に、心の底から、マグカップが割れたことを悲しんでいるのだ。ここで笑っては彼のプライドを台無しにすることは間違いないであろうと思い、瞬はどうにか心を落ち着け、一息ついてから口を開いた。
「そっか……それは、悲しいよね。マグカップが割れたことより、光流先輩が忘れてたことが」
 瞬のその言葉に、忍は図星をさされたように顔を赤くした。
「でもたぶん、忘れてたんじゃないと思うよ。あの人、昔から前しか見えてないから、今も同じなんだよきっと」
 仕方ないように、瞬は言う。
 光流のデリカシーの無さは嫌というほど知っているだけに、心底呆れる思いだった。
「光流先輩にとっては、過去より、今が大事なんだよ。でもそれって、今の忍先輩が一番大事ってことじゃない?」
「……」
「忍先輩は、違うの? 今の光流先輩より、思い出の方が大切?」
 優しく尋ねると、忍は静かに首を横に振った。
 そんな忍がどうしようもなく愛しくなって、瞬は優しく微笑む。
 割れてしまった思い出の結晶。
 きっと忍にとっては何よりも大切なものだったに違いない。
 その気持ちは、瞬にもよく理解できた。
 グリーン・ウッドにいた日々。
 それまで家に縛られ、ほんの少し窮屈な毎日を送っていた瞬にとっても、寮で過ごす毎日はあまりに解放的で楽しくて、夢みたいな日々だったのだから。
 優しい家族に囲まれて育った自分でさえそうなのだから、幼い頃からずっと厳しい家庭で抑圧されて育ってきたであろう忍にとって、生まれて初めて得られた安息の日々は、きっと何にも変えられない大切な思い出だったに違いないのだ。
 瞬は小さく息をつくと、テーブルに置いていた携帯電話に手を伸ばし、邪魔されないようにと切っておいた電源を入れる。画面が明るくなると、何件かの着信の記録があり、相手先の番号と名前を見て、瞬は緩やかに微笑んだ。
 携帯電話を耳にあてる瞬を、忍が不審げに見つめた。
「あ……もしもし? うん、僕。……分かってるから落ち着いて。忍先輩なら、僕と一緒にいるから」
 瞬のその言葉で、電話の相手が誰なのかを、忍は咄嗟に理解した。
「でも忍先輩、様子がおかしいんだ。急にすごく苦しみ出して……今すぐ来ないと、大変かも!!」
 今度はなにやら切羽詰った声をあげる。何を言い出すのかと、忍は驚愕を隠せない目をした。
「そう、僕の実家。すぐに来てね!!」
 演技がかった声でそう言うと、瞬は携帯を耳から離し、それから忍に顔を向けて悪戯っぽく舌を出した。
「ま、ちょっとしたお仕置き?」 
「瞬……」
「すぐ飛んでくると思うよ。忍先輩の携帯にも、めちゃくちゃ着信入ってるんじゃない? いいかげん出てあげたら?」
 瞬に言われて、忍は咄嗟に顔をそらした。
 何もかも見透かされて、ただひたすらに気恥ずかしい想いだった。
「……本当に、ごめん……」
 忍の口から漏れた謝罪の言葉に、瞬は少しばかり驚愕した。
 昔なら絶対に聞けなかった言葉だ。
 瞬は少しの間を置いて、口を開いた。
「悪いと思うなら、先輩からキスして? それくらいはいいでしょ?」
 そう言って忍の前に膝をつくと、忍はわずかに戸惑いを見せながらも、瞬の頬に手を伸ばし、ゆっくりと唇を近づけていく。刹那、瞬の手が忍の後頭部をグイと掴み引き寄せ、唇が重なると同時に瞬は忍の口内に舌を割り込ませた。
「……ん……」
 遠慮がちに応えてくる忍の熱い舌の感覚に酔うように、優しく、時に激しく、忍の咥内を愛撫する。
 やはりどうしようもなく、愛しさばかりが募っていく。今すぐに自分のものにしてしまいたい。きっと忍は拒まないだろう。そうと分かっていても、今、この身体を抱くわけにはいかない。瞬が欲しいのは、あくまで一晩限りの忍ではないのだから。
「ありがと、先輩」
 躊躇い迷いながらも、精一杯の誠意をもって応えてくれた忍に、瞬は優しく微笑んでそう言った。
 そうしたら、忍の瞳にわずかに涙が滲んで。
 瞬は驚き戸惑いながらも、そっとその身体を抱き寄せた。
 嬉しくて、ただ嬉しくて、涙が出そうになる。
 高校時代。
 ずっと、こんな風に心を開いて欲しいと思っていた。
 一度でいいから、偽りの笑顔ではなく、素顔を見せてほしかった。
 一緒にいる時間が楽しければ楽しいほど、少しも胸の内を見せてくれない光流と忍に、寂しさばかりを覚えていたあの頃。
(良かった……)
 もう、大丈夫なんだ。
 不思議な安堵感と共に、瞬は確かにそう感じて、ずいぶん長い時間、ただ忍の身体を抱きしめていた。