ここにある永遠<後編>

 


「先輩達、喧嘩でもしたのー?」
 朝からいっさい口も利かず目も合わそうとしない光流と忍に、不安を隠せない表情で瞬が尋ねたが、二人とも依然として口を開かない。瞬と蓮川は困ったように目を合わせた。
「ごっそーさん」
 さっさと朝食をたいらげ、光流が先に立ち上がった。
「光流先輩、もう学校行くの?」
「おう。お先―─」
 あくまでいつもの声色だが、やはり忍には目もくれず、光流はさっさと食堂を後にした。
「光流先輩があんなに不機嫌なのって、僕初めて見たかもー」
「どうせまた、ロクでもないことしたんじゃないですか、忍先輩」
「ああ、昨夜あんまりいびきがうるさいから、試しに口封じの術を使ってみたら効いたみたいだ。これで当分静かになる」
「ほんっとロクなことしませんね」
 蓮川が目を据わらせる。
 忍は至って涼しい顔をしていた。
 そう、あくまで表面上は……。
 
 
「手塚、ちゃんと寝てるか?」
 すれ違ってすぐに声をかけられ、忍は声の主をゆっくり振り返った。いつもの大人特有の余裕のある笑顔で、一弘が口を開く。
「顔色が悪いぞ」
「ご心配ありがとうございます。でも大丈夫ですから」
 にっこりと笑みを浮かべてそう言うと、忍は一弘に背を向けた。
 ふぅと小さく、一弘がため息をつく。
 一筋縄ではいかない事は分かっているが、やはり気にかけずにはいられない忍の危うさを、一弘はとうに見抜いていた。
 あの誰をも寄せ付けない笑顔の裏で、静かに、ゆっくりと壊れていきそうな、あまりにも危うすぎる心のバランス。
 一度でも人に裏切られた猫が滅多なことでは触らせてもくれないように、彼の心には誰にも触れられない深い傷がある。そしてそれを癒せるのは、自分ではないこともよく分かっていた。
 願わくばこの三年間の高校生活で、誰でもいい、せめて触れられても怖がらないくらいに、心の傷を癒してくれる友人がいればと思う。
「やっぱりあいつしかいない、か……」
 独り言を呟いて、一弘は賑やかに廊下を行きかう生徒たちを見つめた。
 そしてふと、自分の高校生時代を振り返り、思う。
 最も多感で傷つきやすくて脆く、そしてしなやかに強い、この一時にだけしか手に入れられないものが、必ずあるのだから。
 
 
 211号室に重いばかりの沈黙の時が流れることに、先に耐えられなくなったのは忍の方だった。

「ずいぶんと久しぶりね、忍君」
 何ヶ月ぶりだろうか、忍はかつての恋人、六条倫子のもとに身を寄せていた。
「なんだか痩せたみたい、ちゃんと食べてるの?」
 心配しているのかしていないのか分からない、抑揚のない声で倫子が尋ねてくる。
「大丈夫だよ。元気にしている」
 穏やかな笑みを浮かべ、忍は言った。
「そう……」
 おそらくは納得していない様子で、倫子は忍を見据えた。そんな倫子に忍は変わらず笑みを向ける。
 相変わらず冷たい目をしている。
 けれどそんな倫子だから、ほんの少し、弱いところも見せられる。
「今日、泊まっていっていい?」
「いいけど別に」
「ありがとう」
「お風呂、入れるわね」
 そう言うと、倫子はバスルーム足を向ける。
 絵の具の香りが漂うよく知った部屋の匂いは、忍を妙に落ち着かせた。リビングのソファーに腰掛け、小さく息をつく。
 また、逃げてきてしまった。その時点で、もう何もかも負けていると分かっているのに、耐えられなくて。
 無言の重圧は、ただ苦痛でしかない。
 いまさら俺に、何を言えと言うのだ。
 頼むからもう、これ以上、追い詰めないでほしい。
 でなければ……。
「酷い顔してるわよ」
「……慰めてくれる?」
「そんな気ないクセに」
 低くそう言って、倫子はそっと忍の頭を抱いた。
「倫子ちゃん……永遠て、あるのかな」
「永遠……?」
「ずっと続いていくものなんて、何もないよね……」
「そうね、無いわね」
 互いにそれを知っているから、二人はそれ以上何も言わなかった。
 
 
 倫子は忍にとって、初恋の女性だった。
 けれど彼女はずっと昔から、兄のことが好きで。
 どうしても自分の物にしたくて、あらゆる悪辣なやり方を使って兄を失踪に追いやり、その隙を狙って彼女を手に入れた。
  けれど、手に入れた途端に、急速に心が離れていく自分がいた。あんなに手にしたいと思ったのに、抱き合った途端に何もかもどうでも良くなった。
 その時に、忍は知ったのだ。
 恋というのは実は酷く身勝手なもので、相手を征服してしまえばそれで終わりなのだと。
 だから、怖かった。
 自分を手に入れた光流が、あの時の自分のように、急速に心が離れていくことが。
 つまらないと思われることが。
 どうでもいいと、思われることが。
 だったら離れないように駆け引きをすれば良いのに、それを出来る余裕すらなくて、ただひたすらに光流に身を委ねて必死で縋りついた。 
 そうやってどこまでも光流に依存していく自分は、とてつもなく醜悪でつまらなくて、最低の人間だった。
 こんな自分を、いったい誰が変わらず愛してくれるだろう。
 どうせいつか捨てられるなら。壊されるなら。消えて無くなってしまうものなら。早く壊すんだ。
 崩れるよりも、早く。
 
「可哀想な子……」
 寝顔だけは年相応の子供みたいな忍の髪をそっと撫で、倫子は小さく呟いた。
 まだたったの十七歳。
 何もかも諦めるには、早すぎる年齢だというのに。
 そう、自分のように、何もかも諦めるには……。
 

 
 夢を見ていた。
 まだ幼い自分がいる。
 物心ついた頃から、父と母の記憶は、感情の篭らない厳しい表情と造られた笑顔だけ。
 人より少し成長が早くて、さして努力せずとも何でもこなしてしまう自分に、みな表面上は優しくしても、どこか畏怖なものを見る目をしていた。
 父はそんな自分を認めたが、母は頑なに拒んでいた。おそらく姉と同じで、甘えもしない、泣きもしない、あまりに出来すぎたわが子を不気味とすら思っていたのだろう。常によそよそしい母に、ずいぶん早いうちからもう期待はしなくなった。
 そんな冷たい家族の中、ただ一人、兄だけが優しかった。
「忍、今日誕生日だよな。欲しいものないか?」
「特に、何もありません」
「そうか……。何もないか」
 少し悲しそうにそう言って、兄が自分の頭を撫でる。
 大きな、暖かい手。
 不器用で口下手で、何もかも自分の足元にも及ばない兄。
 けれどいつだって、優しい目を向けてくれる兄。
 そんな兄の誕生日に、何かをプレゼントしたくて、学校帰りにふと目についた、道端に咲いた白い花を摘んで帰った。
 兄は、よく花を見つめていたから。きっと好きなのだと思って。
 けれど。
「お帰りなさい、忍さん」
「ただいま帰りました、お母さん」
「あら、そのお花は……?」
「あ……これは……」
 プレゼントなんて生まれて初めてだから、少し気恥ずかしいような想いで、口を開きかけたその時。
「いけませんよ。そんな汚らしい花、早く捨てていらっしゃい」
 感情のない目をしたまま、母はそう言って自分に背を向けた。
 冷たい背中。
 何故だか胸が締め付けられる想いで、花を握り締める。
 その花を捨てられないまま縁側に座り込んでいると、不意に背後から声がかかった。
「忍? こんなところでどうした?」
 兄だった。
「あ……」
 花を渡しかけたその時、兄が言った。
「花を持ってるなんて珍しいな。おまえでも、花を綺麗だと思うんだな」
 いつもと同じ優しい口調の兄の言葉。
 しかし。
(おまえ、でも……)
 まるで、自分が同じ人間ではないかのような、その言葉を耳にした瞬間、何もかも色を失ったような気がした。
 いつものように頭を撫でられても、もう何も感じない。
 一人になってすぐに、摘んできた花を庭に捨てた。
「可哀想」
 不意にか細い声が耳に届く。
 長い艶やかな黒髪の、セーラー服を身にまとった少女が、庭に捨てられた花を拾い上げた。
「こんなことしたらお花が可哀想よ」
 まっすぐに自分を見つめた、よく兄と一緒にいる少女。
 何も応えず、彼女に背を向け、自分の部屋に戻った。
(可哀想……)
 何度も何度も、その言葉が胸に深く刻まれる。
 花でさえ、誰かに愛されるのに。
 胸がぎゅっと締め付けられる、その痛みを、まだ孤独という言葉の意味だとも知らずに、ただ痛みと共に眠りに落ちた。
 
 
 寮に戻っても、光流は相変わらず冷たく背中を向けるだけで、いっそ部屋替えを希望しようかと真剣に考えていた忍に、ふと蓮川が声をかけてきた。
「あの……」
「何だ、蓮川」
 少し言いにくそうにした後、しかし思い切った様子で蓮川は口を開く。
「光流先輩と、仲直りして下さい」
 目は合わさずに照れくさそうに言う蓮川を、忍は表情を変えずに見下ろした。
「俺があいつと決裂していた方が、おまえにとっちゃ好都合じゃないのか?」
「そっ、それはそうですけど……!!」
 二人揃って悪巧みをされるよりは、蓮川にとっては今の状態の方が少なからず安心していられるはずだが、どうやら当人にとっては違うらしい。
「でも、嫌なんです!!」
 今度はまっすぐに忍の目を見て、蓮川は訴えを続ける。
「なんか分からないけど、嫌なんです」
 曇りのない真摯な瞳。
 それは、どこか誰かに似ている。
「蓮川」
 忍はゆっくりと口を開いた。
「はい……」
「永遠はあると思うか?」
 突然なんの脈絡もない質問をされ、蓮川は目を大きくした。
「え、永遠、ですか……?」
「そうだ」
 今度は真剣に考え込む。
「よ、よく分からないけど、ある、と思います」
「例えば?」
「え……っと……愛、とか」
少し顔を赤らめながらも、蓮川は真剣に応えた。
そのあまりに陳腐な答えに、忍は思わず小さく笑った。
「またからかったんですか?!」
「分かってるのに応えるんだな、おまえは」
「忍先輩っ!!!」
 まだクスクスと笑う忍を、蓮川は顔を真っ赤にしたまま睨みつけた。
「愛か、よく覚えておこう」
「覚えてなくて結構です!! とにかく早く光流先輩と仲直りして下さいね!?」
 思い切り拗ねた口調でそう言うと、蓮川はきびすを返して駆け出していった。
 あらゆる意味で可愛がりたくなる奴だと、忍は思う。
 素直で単純でまっすぐで、そして強くて。
 だから、どう答えるのか知りたかった。
 何もかも自分とは正反対の彼の答えは、予想を遥かに超えて陳腐なものだったけれど、ほんの少し忍の心を和らげてくれたのも確かだった。
 
 
「早く光流先輩と仲直りしてよ~」
 その数時間後、蓮川とほとんど同じセリフが瞬の口から漏れた。
「俺たちが喧嘩してると、おまえに不都合があるのか?」
「だって空気悪い悪い。ちょっとは気を使う方の身にもなってよね」
 相変わらず先輩を敬う気持ちなど欠片もない言葉使い。
「瞬、おまえは、この世に永遠なんてものが存在すると思うか?」
「え~?なんの話~?」
「あるか無いか、それだけ答えてくれればいい」
「永遠……ねえ」
 少し考えて、瞬はひらめいたように答えた。
「そういう言葉があるってことは、あるんじゃない?」
「ほう……」
 なるほど、瞬らしい前向きな答えだと忍は思った。
「やっぱおかしいよ、忍先輩」
「いつものことだろう」
「そうだけど……なんかこう、おかしいってば!!」
 おっとりしているようで実のところ人一倍勘の強い瞬にも、さすがに事の真相は一生かかっても理解できまい。
「だからいつものことだろう」
 あくまではぐらかしながら、瞬の訴えを却下する忍だった。
 
 
 永遠。
 未来永劫、ずっと続いていくもの。
 何よりも幻に近い、その言葉。
 光流に聞いたら、なんて答えるのだろうか。
 今は何を聞いても、答えなんて返ってはこないのだろうけど。
 あれからもう二週間が過ぎようとしている。
 それはまるで永遠とも呼べるかのような、忍にとっては長い長い二週間だった。
 光流にとっても、そうだろうか。それとももう、とうに諦めているのだろうか。そう思ったら、ついこの前まで肌を合わせていたことが、まるで夢幻のように思える。
 誰もいない生徒会室で書類を整理しながら、軽く息を吐いて吸おうとしたその瞬間。
「……っ……」
 突然、息が苦しくなった。
 例の過呼吸の症状だ。
 どうすれば楽になれるかは、以前に一弘に処置してもらったから分かっている。すぐに書類を入れていた封筒を口元に当てようとして、ふと忍は思った。
 このまま、何もしなければ、死ねるだろうか……と。
 息が出来なくなって、酸素が足りなくなれば、この苦しみから解放される。
 忍は手にしていた封筒を投げ捨て、床に膝と手をついた。
 苦しい。
 苦しい。
 苦しい……!!
 でも、もう何も感じたくない。
 考えたくない。
 全て、終わりにしたい……。
「手塚!!!」
 意識が揺らいできたその時、聞き覚えのある声がして、上半身を抱き起こされる。
「しっかりしろ!! 紙袋あるから前に教えた通りに……」
「……っ……」
一弘の差し出す紙袋を、忍は首を横に振りながら押しのけた。
「ばっ……死ぬつもりか?!」
 無理に袋に口を当てさせても、忍は顔を背けるばかりだ。
 自殺行為にも似たその様子に、珍しく苛ついた表情を隠せないまま、一弘は忍の頭を両手で抑えつけると、強引に唇に自分の唇を重ね、鼻をつまみながら息を吹き込んだ。
 何度か繰り返すうちに、やっと自力で息が出来るまでに回復する。
「本当にバカだな、おまえは!! 過呼吸じゃ死ぬことは出来ないんだぞ?!」
 頭から叱りつけられて、忍は呼吸を整えながら立ち上がる。
「……来い」
 一弘が忍の腕を掴み、そのまま歩き出した。
「もう大丈夫です」
「いいから来なさい」
 強い力で引っ張られ、わずかな後ろめたさも手伝い、結局保健室まで半ば引きずられるように連れられる。

 保健室に着いた途端にベッドの上に乱暴に投げ出され、上からばさっと布団をかけられた。
「少し寝ろ」
 怒りを含んだ口調。
 いつも穏やかでのほほんとした保険医でも、こんな風に怒ることがあるのかと、忍は少し意外に思った。
 しかし当然、眠ることなんて出来るはずがなかった。
 そんな忍をよそに、一弘は机に向かって書類の整理をしている。
 何もない、穏やかな時間がただ過ぎていく。
 気まずいはずなのに、不思議と瞼が緩んでいく。
 ここにいていいんだという空気が、そうさせるのだろうか。
「先生……」
 気がついたら、忍は小さく口を開いていた。
「ん?」
「永遠に続くものなんて、あるんでしょうか」
 忍の問いかけに、一弘は椅子から立ち上がりベッドに近寄った。
「そういや昔、同じことを一也に聞かれたことがあったな。といっても、まだ7歳くらいの頃だったが」
 少しからかうような口調。
 弟の7歳の頃と同じレベルだとでも言いたいのだろうか。忍はわずかに眉を寄せた。
「知ってますよ。愛だって教えたでしょう。あいつ、いまだに信じてますよ」
「まあ、間違っちゃいないだろう?」
 飄々と一弘は応える。
 なるほど、この兄にしてあの弟ありだと言われても頷ける。愛情に包まれて育った人間ほど強いものはないのだと、今なら分かるような気がした。
「でもおまえには、そんな嘘をついても仕方ないな」
「嘘……ですか」
「本当だと思うか?」
「まさか」
「可愛くないなーおまえさんは」
 呆れた声。
 可愛いなんて言われても気持ち悪いだけ、と憎まれ口を叩こうとして、忍は口を閉じた。言ってしまったら、なんだか甘えているみたいで心地悪い。
「率直に言えば、永遠なんてものは存在しないだろうな」
 望んだ通りの答えをもらえたはずなのに、忍の瞳はどこか悲しい。
「でもな、手塚」
 ベッドの脇の小椅子に座り、一弘は穏やかな笑みを浮かべ、まっすぐに忍の目を見つめて言った。
「『ある』と信じる事は、誰にでも出来ると思うぞ」
 その刹那、心地好い風が室内を通り抜ける。
 忍は一弘から顔を背けるように、壁際に横を向いた。
 そんな忍の頭をくしゃりと撫でて、一弘は立ち上がる。
 その、遠い昔に感じたことのある、酷く懐かしく優しい感覚に、忍は額に手をあてて目が潤むのをこらえたのだった。
 
 
 土曜日の夜。
 光流が机にむかってノートに英文を書き綴っている。
 その後姿を、忍は黙ったまま見つめた。
 どのくらいの時間が流れたのだろう。
 ふと、忍がゆっくりと立ちあがる。
 そして。
 背後から静かに、光流の身体をそっと抱きしめた。
 一瞬、光流の身体がわずかに震えた。
 高鳴る心臓の音すら隠せないほど近い距離。
 突き放されるかもしれない。
 でも……。
 でも。

(信じたい……)

 忍は目を閉じて、長い時間を待った。

(信じたいんだ……)

 懐かしい、柔らかい髪に顔を埋め、初めて自分から何かを求めた夜。
 光流は、応えてくれるだろうか。
 きっと、応えてくれる。
 だって彼はいつだって必ず、自分の一番欲しいものを与えてくれたではないか。

「この……」
 不意に腕を掴まれ、忍の表情が一瞬強張った。
 けれど次の瞬間。
「意地っ張り」
 言葉と共に向けられたその笑顔は、ずっとずっと、忍の待っていた、一番に欲しかった、いつもの光流の笑顔だった。
「おいで」
 まるで小さい子供にするように、両手を広げた光流の腕に、忍は躊躇うことなく抱かれる。
「光流……」
 ぎゅっと強く抱きしめられて、泣きたいような気持ちが胸いっぱいに広がっていくのを感じながら、忍はずっと呼びたかった名前を口にした。
「ん?」
「光流……っ」
「好きだよ、忍」
 同じ言葉を、返したかった。
 けれど名前を呼ぶのが精一杯で、もう何も言葉にならない。
 だったらせめてと思って、自分から唇を重ねた。きっともう、言葉にしなくても、分かってくれる。それを示すかのように、光流も熱く舌を絡ませてくる。
「……ふ……っ」
甘い吐息と共に、首筋に口付けられ、忍は思わず身体を震わせた。
「したい……?」
 少し意地の悪い質問。
 でも今日は、酷く素直になれそうな気がしている。
「……したい……」
 消え入りそうな声で忍が言ったその瞬間。
「よっしゃぁあああ!!!!」
 物凄い勢いで体を持ち上げられ、そのまま床に押し倒され、忍は目を丸くした。
「ニ週間分、たっっっぷり楽しませてもらうからな?!」
 満面の笑みを浮かべながらそそくさと忍の衣服を脱がせる光流に、忍は嫌な予感を覚えずにはいられない。
「分かった……分かったから、早まるな」
 とりあえずこの興奮を沈めようと、光流のズボンのベルトに手をかけると、素早い動作で器用に外していく。
 性急に露にした光流の自身を口に含むと、光流の手が優しく髪を撫でた。
「うわ……すげぇ、いい……っ」
 光流が感極まった声をあげる。 
 二週間分の触れ合いがどうこうというより、とにかく一刻でも早く解放してやらなければと必要以上に焦ってしまう自分が、なんだか情けないような気もするが、このまま好きなようにさせていたら本気で無茶しかねないので仕方が無い。
「い……く……っ」
 光流の体がビクッと震えた瞬間に、生暖かい液が口中に広がる。けれどあまりの量の多さに全部飲み込むことは叶わず、忍はティッシュで口元を押さえ咳き込んだ。
「だいじょぶか~?」
「一体どれだけ我慢してたんだ、おまえ」
「おう、自分でも怖いくらいだぜ。何度くじけそうになったか」
 光流は飄々と言うが、もしかしたら彼の本性を隠すその演技っぷりは、自分の表の笑顔と大差ないくらいに達者なのではないだろうかと忍は思う。やはり侮れない男だと心中で呟きながらも、こういう男だからこそ認めたのだという事実も確かではあり。
「つーわけで、まだまだ先は長いぜ」
 一回抜いても興奮を抑えるどころか、逆に更に光流の欲望を呼び覚ましてしまったらしい。
 性急にズボンも下着も脱がされ、先ほど自分がしたのと同じように舌を這わされる。もうこれ以上はどうにもならないと諦めを覚えながら、忍はされるがまま快楽の波に呑まれていく。
「あ……っ」
「いいお声」
 からかうような言葉の後、執拗に耳を舐められる。
 くすぐったさと背筋が震えるその感覚に、忍は顔を歪めた。
「やめ……っ」
「ここでやめたら困るだろ?」
 感じやすい部分を攻められ、忍の瞳が潤んでいく。
「は……ぁ……っ」
 空いた手で乳首を弄ばれ、全身を隈なく愛撫される。声を押し殺すのが精一杯の忍を、光流は容赦なく攻め立てる。
 足を開かせ潤滑油を指に垂らし、ゆっくりと忍の中に押し入れる。濡れた音をたて何度も出し入れされる光流の指。羞恥と快楽に耐えられないように、忍の手が光流のシャツを掴んだ。
「も……いい……っ」
「だーめ。久しぶりだから、念入りにな」
「……んぅ……っ」
 刺激がやけに強く感じる。光流と同じように、自分もまた激しく求めていたのだということを思い知らされる。
「とりあえず一回、指でイッとくか?」
「あ……あ……っ!!」
 更に強く光流のシャツを握り締め、限界に達する忍の頭を光流の腕が引き寄せる、同時に唇を重ね、熱く舌を絡ませる。光流は激しく求めてくる唇の味に満足すると、足を開かせ、張り詰めた自身を忍の中にゆっくりと押し入れる。
 時間をかけて慣らしただけあって、すんなりと呑み込む忍を、達したばかりだというのに余韻も与えず次の快楽を与え続ける。
「ふ……っ」
 声が出ないように必死で口元を押さえる忍の手を、わざと声を出させるように掴んで床に押し付け、首筋を舐めながら激しく揺さぶる光流に、もはや加減の二文字はどこにもない。
 いったいどのくらい、自分を失くさせれば気が済むのか。
 忍は次々と襲い来る快楽にもう耐え切れず、光流を求め自らも腰を動かした。
「みつ……る……っ」
 壊してほしい、何もかも。
 おまえにそうされるなら、それ以上のことは何もない。
 崩れるより先に、もっと形なんて何も無くなるほどに、壊してほしい。
「愛してるよ、忍……」
 ナイフよりも鋭いその言葉が、声が、忍の意地もプライドも、頑なな心も幼かった記憶も、全てを崩していく。
 最初から、崩してしまえば良かったのだ、こんな小さなものなんて。そうしたら、傷つけあうより先に、もっと大きなものを築けたはずだった。そんな簡単なことに、どうして今まで気づけなかったのだろう。

「『ある』と信じることは、誰にでも出来ると思うぞ」

 熱に浮かされながら、一弘の言葉が蘇る。
 そう……信じることが出来なかったのは、自分だ。
 いつも、どんな時も。
 こんなに愛されているのに、信じることが出来なかった。

「あ……光流……っ」

 答えは簡単だったんだ。

 ただ、自分が信じる。

 たったそれだけで、良かった。
 

 
「さ、さすがに腰が……!!!」
「どうしてくれるんだ、明日動けないぞ」
「まぁ、こうして寝てりゃいいんじゃね?」
 悪戯っぽく笑って、光流は言う。
「なあ、光流」
「何だ?」
 もう、別に聞かなくても良かったのに、なんとなく好奇心でもって忍は光流に尋ねた。
「永遠て、あると思うか?」
 なんて応えるのだろう。
 蓮川のように、愛だとか陳腐な答えでも、そんなものは無いと答えられても、どれでも構わないのだけれど。
「永遠? そんなの……」
 まるで考えもせず、光流は忍の目をまっすぐに見て、
「あるに決まってるだろ」
 キッパリとそう言い切って、優しく触れるだけのキスをした。
 きっと本当はあるなんて思っていないのだろうけど。
 いつでも光流は、一番欲しい答えをくれる。
 
 
 ついこの前に来た時とはまるで別人のように穏やかな顔をしている忍を、倫子は以前よりも更に冷めた瞳で見つめる。
「もう、ここに来る理由はないんじゃないの?」
「来たら迷惑かな」
「構わないわよ。忍君が来たいと思うなら」
「……倫子ちゃん」
 忍はまっすぐに倫子を見つめた。
 かつて愛した女性。
 今でもたぶん、女性の中では一番に大切に想う彼女に、どうしても伝えたい言葉があって、今ここにいる。
「今までありがとう」
 穏やかな微笑を浮かべる忍に、倫子は感情の無い瞳を向ける。
「何よ、それ」
 怒りにも諦めにも似た、冷たい声。
 彼女は決して自分を許さないことを、忍は知っている。彼女が最も得たかった幸福を、最も卑劣な形で奪った、最低のかつての恋人を。
「聞かなかった事にしてもいいよ」
 許してもらうつもりなど、どこにもない。
 憎まれ続ける覚悟もしている。
 けれどもう、自分から不幸になる事はやめたいから。
 あの暖かい光の中で、もう少しだけ、寒さを凌ぎたいから。
「聞かなかったことにするわ」
 倫子は忍に背を向けたまま、花瓶に生けられた花を細い指先でいじりながら低い声をあげた。
 白い花が小さく揺れる。
 ふと、忍は思った。
 ああ……そうだ、兄はずっと、花ではなくて、花を見つめる彼女を見ていたのだ。
「綺麗な花だね」
「……そういえば、忍君も花が好きだったわね」
「そんなこと、言ったかな?」
「聞いたのよ、昔、旭君に。忍はああ見えても花が好きなんだぞって。……なんだか、嬉しそうだった」
 白く細い指先で、小さな花を揺らしながら、倫子は優しい微笑を浮かべた。
 そして倫子のその言葉に、忍の幼かった頃の冷たい記憶が、日に当たって溶けてゆく雪のように、暖かい記憶に変わっていく。
 兄は、不器用な人だった。
 だからいつも言葉が足りなくて。
 愛情表現も下手すぎて、届かなくて。
 でもとても……。
 とても、綺麗な心の持ち主だった。
 
 許されようとは思わない。
 自分の罪は、いくら時が経っても消える事はない。
 もっとずっと未来に、彼らが自分を許すと言っても、自分で自分を許せる日は、きっと来ることはないだろう。
 それなのに、今、自分はこんなにも幸福だ。
 人の世は、全くもって不公平だと思う。
 
(世の中は、おまえが心配してるほど、悪くない)
 
 忘れられない、あの言葉を、いつか彼らにも伝えられるようになりたい。
 
(もう、不幸になる必要なんてないんだから)
 
 伝えられるだろうか。
 そのためには、もっと強くならなければ。
 いつか自分を許せるくらいに
 まっすぐに、愛を信じられるくらいに。
 
「花、一本もらってもいいかな」
 忍は立ち上がり、花瓶から一本、小さな花を引き抜いた。
「すぐに枯れるわよ」
 わざと意地の悪い口調で言った倫子に、忍は静かに微笑んだ。
 
 
 211号室に戻ると、明らかに不機嫌なオーラを発した光流が、さして興味もなさそうな小難しい本を机の上に開いていた。
「ただいま」
「……おー」
 気のない返事。
 忍は光流に近寄ると、何やらゴソゴソと光流の頭をいじりだす。
「痛っ、何だよ?!」
 光流は顔をしかめて、違和感のある自分の頭に手を当てた。
「なにコレ」
「プレゼント」
「俺ぁ女じゃねーぞ」
 小さな白い一輪の花を片手に、光流が目を据わらせた。
「ふーん、いっつもこういうテ使ってんだ」
 花を片手で器用に回しながら、光流は完全にふてくされた様子で言う。
「花より、おまえの方が綺麗だよ」
 そんな光流の手に自分の手を重ね、低い声で忍は囁く。
「だから俺は女じゃねーっつの!」
 振り返った光流の唇に、忍はそっと自分の唇を重ねた。
「……っ……」
 光流の目がビックリしたように見開き、それからそっと目を閉じる。
 長いキスの後、なんだか照れたように顔を赤くする光流は、ようやく機嫌を直した様子だ。
「昨夜のぶん、今からするからな!!」
「鍵、かけ忘れるなよ」
「了解」
 途端に顔をにやけさせ、そそくさと光流は部屋のドアの鍵を閉める。
「忍っ!!」
 勢いよく飛びついてくると共に床に押し倒され、無邪気な瞳がまっすぐに自分を見つめてくる。
 近づいてくるその瞳が眩しすぎて、忍はゆっくりと目を閉じた。
 
 
 その日、光流の机の上のマグカップに、小さな白い花が揺れていた。
 忍をその花を見つめ、穏やかに微笑む。
 きっとこの花は、すぐに枯れてしまうだろう。
 でも、それでも構わないと思った。
 
 ずっと続いていくものは、確かにこの胸の内にあるのだから。