ここにある永遠<前編>

 
 土曜日の夜は、ノートの整理をする。
 ただ整理するだけだから、さほど集中も考えもせずに済むからだ。
 なぜ決まって土曜の夜にそんな単調な作業をするのか、おそらく同室の男は何も分かっていない。
「忍くーんっ」
 突然、高らかな声と共に背後から抱きつかれ、ノートに文字を書き綴っていたシャーペンの芯が小さく音をたてて折れた。
「しよっ」
 この時を待ってましたとばかりに、酷く無邪気で嬉しそうな声をあげる彼に、忍は小さくため息をついた。
「光流、たまには……」
 顔を向けた途端に、唇を塞がれる。
 分かっていたが、やっぱりそうなるのかと思いながら、忍は甘んじてキスを受け入れた。
 たまには普通の週末を過ごしたいものだが、言ったところで光流が聞き入れるはずがないことも分かっている。
 あっという間に押し倒された床は硬くて冷たいが、ベッドはさすがに狭いし音が気になって使えない。この数ヶ月の間に、体を重ねるのにもいろいろなルールが出来た。最初は覚えたての猿みたいに毎日したがった光流に、週に一度だけと頑なに拒み続けるのも苦労したが、ようやく苦労が身を結び、土曜の夜が暗黙の了解になった今、パジャマのボタンを外す光流の手もずいぶん慣れたものだ。
「……っ……」
「声、出せよ」
「隣に……聞こえるだろーが……っ」
「なんでそんなに冷静なの、おまえは」
 しっかり兆しを見せているくせにまるで平常心な忍の中心部分を弄びながら、光流はつまらなそうに言う。
「たまには「いいっ!!」とか「もっと~!!」とかさあ」
「そんなもんは98%演技だし、実際言われたら引くぞ」
「悪かったなっ、経験なくて!!」
「なんだおまえ、童貞だったのか」
 少なくとも中学時期に一度くらいは経験あると思っていた忍には、かなり意外だった。
「普通聞くか? この状況で」
 呆れた声で光流が言った。
「この状況だから聞くんだろ」
 あくまで冷静な忍に、光流は言葉を詰まらせる。
 が、すぐにニッと笑って応えた。
「そーだよ、おまえが初めて」
 少し低い声で、耳元で囁くように言ったその言葉を、忍はすぐに「嘘だ」と思ったが、敢えて口にはせず、押し寄せてくる快楽の波に身を委ねた。

 優しい指使い。
 初めは粗野で少し乱暴だったやり方も、さすがに学習能力は高いだけあって、わざわざ教えなくともあっという間に上達していった。だから最近は、光流の好きなようにされるがままになっている。ただやはり、男同士という行為の難しさを時に感じずにはいられないのも確かで。
「あ……く……っ」
 幾度目かの挿入にいい加減辛くなってきて、忍は呻くように声をあげた。
 しかし光流は動くのを止めない。
「も……いい加減……っ」
「あと一回だけ……っ」
 光流は完全に興奮してしまっている。こうなると、もう何を言っても無駄だ。最初は優しかった愛撫も徐々に荒々しくなっていって、まるで腹を空かせた野生動物そのもののように、無我夢中で忍の体を貪る。
「愛してるよ、忍……」
「……あ……ぁ……っ!」
 激しく揺さぶられ、もう快楽なのか苦痛なのか分からない荒波の中、いつもと違う声が自分を呼ぶ。
 愛してる?
 そんなこと、言わないでくれ。
「忍……」
「も……やめ……ろよ……っ」
 もう、何も欲しくない。言葉も体も、もう何も。
 そう言いたいけれど口にはできず、代わりに、光流の背に爪を立てた。けれどそんな想いが光流に届くはずはなく、光流が果てるまでただひたすら襲い来る苦痛に耐えるより他はなかった。
 身体よりもずっと痛む心を抱えたまま。
 
 
 相変わらずうるさいいびきを横に、忍は上半身を起こしたまま深くため息をついた。
 やるだけやって、スッキリしたら豪快に眠る、単純な光流が羨ましい。たぶん彼は、本当に何も考えていないのだろう。自分のしたいことをして、言いたいことを言って、そしてそれらが当然だと思っている。
 けれど忍は、光流と同じように単純に考えることは出来ない。
 別に、嫌なわけではない。キスもセックスも、今までこんなに気持ち良いと感じたことはなければ、抱かれる事にだって何ら抵抗はない。光流が望むなら、どんな痛みも乗り越えられる。
 けれど、何故だろう。
 このところずっと、息が苦しい。
 特に土曜の夜。抱き合った後は、どうしようもなく胸が締め付けられる。
 罪悪感かとも考えてみたけれど、いまさらこんな行為くらいでそんなものを感じるほど、経験不足でも純真でもない。
「しのぶぅ……好きだよ~……」
 ふと耳に届いた寝言に少し驚いて、それから力の抜け切った声の主の寝顔を見て、忍の表情が少し和らいだ。
 色素の薄い柔らかい髪に、そっと触れてみる。長い睫。白い肌。小さな子供みたいに無邪気な寝顔。このまま永遠に、この時間が止まれば、どれだけ……。
 そう思ってから、永遠などどこにもない事に気づいたように、忍の瞳が曇った。
 
 
 そして、何もなかったような今日。
 生徒会の役員会が終わった後、忍は一人残った生徒会室の窓辺にもたれかかった。
「光流~!!」
「おう」
 ふと聞き覚えのある声が遠方から耳に届き、忍は窓の外を見下ろす。
 そこには光流と、クラスメート数人の姿があった。何事か会話をしている様子を見つめていると、強い風と共に賑やかな笑い声が響き渡る。楽しそうな笑顔。忍の口元が緩んだ。しかしすぐに、その表情が小さく歪んだ。
 突然、酷く胸が苦しくなった。少し息が乱れる。すぐに整えようと、忍は浅く深呼吸した。
(どうして……)
 こんな風になってしまうのだろう。
 最近の自分がおかしいことに、忍はとうに気づいている。
 いつもと変わらない日々。ずっと焦がれていたものも、大切なものも、すぐそばにあるはずなのに、なぜこんなにも苦しくなるのだろう。ただこんな風に光流の姿を見ただけで。
(違う……)
 まだわずかに呼吸を乱しながら、忍は唇を噛み締めた。
(遠いんだ……)
 光流が、遠い。
 そう感じた瞬間、また酷く胸が痛んだ。
 そばに……いつもあんなにそばにいるのに、今、光流がこんなにも遠い。
 抱き合うより前よりも、ずっとずっと。
 ふと、忍は途方もない孤独を感じた。そして深い後悔が、胸の内をよぎる。
 もう後戻りは出来ない。 
 確かな繋がりは何もなくて、けれど全てが満たされていたあの頃にはもう二度と戻れないのだと、今頃になって思い知るなんて。
「……っ」
 吐き気に近いものを感じて、忍はその場に膝をついた。そうして一人、ただ時間が流れるのをひたすらに待った。
 心臓をえぐられるような激しい痛みと共に。
 
 
 また土曜日の夜が来る。
 もう何回目になるだろう、折れたシャーペンの芯でもとっておけば良かったかもしれない。
「忍~っ、夜だぜーっ!!」
 相変わらず、無邪気な笑顔。待ち焦がれてたと言わんばかりに性急な口付け。
「光流……」
「ん?」
 曇りのない瞳で見つめられ、忍は言葉を失った。
 今更、言えるはずがなかった。
「なんだよっ、そんな誘うような目しなくたって、俺はヤル気満々だぜっ」
「誰が誘うか」
 あまりの脳天気さに、忍は呆れるより他は無く、諦めにも近い感覚で床に横たわる。
「来いよ、光流」
 自分でパジャマのボタンを外しながら、忍の切れ長の瞳が光流の目を捕らえるように見据えた。途端に光流の顔が耳まで赤くなり、思わずという風に口元を押さえる。そのあまりに純な反応に悪戯心が沸いてきて、忍はますます怪しげな瞳で光流を見据えた。
「誘うっていうのは、こういうことだろ?」
 低い声を発し、口元にからかいの笑みを浮かべる。
「おま……っ」
「おまえが鼻血吹くほど自分に色気があるとは知らなかった」
「冷静に言うなっ!!」
 ティッシュを鼻に詰めながら、光流は感心したように言う忍に間髪いれずつっこむ。
「どうなっても知んねーぞ!」
「……鼻血出されながら言われてもな」
 あまりの間抜け面に、思わずぷっと吹き出しそうになるのをこらえながら忍は言った。
「そ……」
「そ?」
「そんなおまえも好きだっ!!」
 鼻に詰めたティッシュを勢い良く吹き出し、光流は忍の上に覆いかぶさった さすが化け物並みの回復力だけあって、もう鼻血が止まったようだ。
「跡、つけるなよ」
 首筋に吸い付いてくる光流に、忍は半ば脅し口調で言う。
「たまには……駄目?」
「当たり前だ」
「大丈夫だって! 誰も俺の跡だなんて思わないから」
「なら俺もつけるぞ」
「え……それはマズい」
「何でだ」
「おまえはともかく、俺はどう言い逃れしろっつーんだ!!」
 一応寮内では女遊びを黙認されている忍と、いまだかつて女のおの字も縁がない光流とでは、友人たちのつっこむ数が半端ではないということだろう。
「なるべく目立たないトコにつけるから!!」
「つけたところで利点があるのか?」
「俺がいないところでも、俺のこと思い出すだろ?」
 そう言って、光流は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
 間髪入れず、忍が光流の肩に噛み付く。
「いってぇ!!!」
 突然の激痛に身体を跳ね上がらせ、光流が叫んだ。
「そこまで怒ることないだろ! 分かったよ……ちぇ」
 ようやく跡をつけるのは諦めたらしい光流を、忍は変わらず怒りを含めた目で見据えるが、光流はお構いなくいそいそと忍のシャツを脱がせていく。
 忍は別に、跡をつけようとした事に怒っていたわけではなかった。無性に腹が立ったのは、そんな事じゃない。
 光流のいないところで、光流を思い出せ、なんて、どこまで俺を分かっていないのだろうこの男は。いつだって、おまえのことを考えてない時間なんて少しもないのに。おまえが俺のことを考えるよりずっと、ずっと長い時間、おまえに縛られてるのに、これ以上どうやって思い出せ、なんて。
「今日は……一回だけだぞ」
 あまりに怒りが沸いてきて、忍は怯まない口調で言った。
「えーっ!!!無理!!!」
「問答無用」
「……あ、そー。ならこっちにも考えがあるぜ」
 やや怒ったような目つきになったかと思うと、光流はニヤリと笑った。
 
 そこから先は、もう悪辣としか言えない。指先で、舌で、やんわりと感じやすい部分を刺激されながらも、限界に達する一歩手前で止められ、焦らされるばかりの時間が延々と続く。
「は……ぁ……っ」
「おまえが一回だけって意味だろ?」
「誰がそんなこと……っ!」
「じゃあ、イきたい?」
 限界まで膨れあがって解放を求めている忍の自身を指で擦りながら、光流は意地悪く忍の耳元で尋ねる。けれど忍は応えず、唇を噛み締めて悔しげに光流を睨みつけた。それでも光流は余裕綽々で。なおさら腹がたつけれど、限界の波が押し寄せて思考がうまく回らない。耐え切れず欲求の言葉ばかりが頭の中を駆け巡る。
「み…つ……っ」
「何?」
 せめてと思って瞳で懇願しても、焦らす指の動きは変わらない。人の事は言えないが、光流も大概、性悪だ。明らかに楽しんでいる光流の首に腕を回して抱きつく。言葉の代わりにぎゅっと力を込めて甘える仕草を見せると、光流はようやく譲歩したようだ。忍の自身を握り、上下に激しく扱き始める。
「あ……っ、あ……!」
 焦らされた分だけ身体が大きく跳ね上がる。胸を上下させ、恍惚とした瞳でぐったりと横たわる忍の酷く乱れた姿に、光流は自らの欲望を抑え切れない様子で、ぞんざいに忍の身体を反転させる。腰を掴まれやや持ち上げられ、性急に濡れた指が内部を掻き回す。いつからか光流は忍の感じる部分を正確に探り当て、忍は既に後ろだけで達してしまうようにすらなっていた。
「忍、イきたい?」
 奥の性感帯を指で刺激しながら、光流は忍の耳元に囁いた。
 またしても焦らすつもりか。忍が苦しげに眉を寄せ、床に爪をたてる。わざと音をたてられ、淫猥な響きが羞恥心を煽りますます刺激を欲させる。もうどうとでもしてくれという想いで光流の言葉に頷くと、光流は指を引き抜き、代わりに欲望に猛った自身を一気に忍の内部に突き立てた。唐突に訪れた刺激に忍が背を仰け反らせ嬌声を放つ。
「おまえだけ何回もって、ズルくねぇ?」
 低い声で言いながら、光流は忍の最奥を目がけて腰を打ち付ける。
 どっちが卑怯だ。忍は心中で叫びながらも、あまりの激しさにただ必死で声を押し殺すことしか出来ない。更に腰を高く持ち上げられ、何度も続け様に貫かれる。
「ん……ぅ……ん……っ……」
 半ば苦痛にも近い快楽の渦の中、忍は懸命に口元を押さえ、瞳に涙を滲ませる。
 頭も身体も心も、何もかも呑み込まれる。もう駄目だと心が叫んだ瞬間、光流が何度目かの精を放った。
 忍がうつ伏せたままぐったりと息を吐く。
 さんざ突き抜かれて、下半身がやけに重い。
「まだ足りないならしてやるけど?」
 そんな忍を挑発するかのように、光流は面白そうな笑みを浮かべる。もはや怒る気力も失せた忍はゆっくりと体を起こし、床に放られてイいたパジャマを拾い上げ、のろのろと袖に手を通した。
「光流……」
 パジャマのボタンを閉めながら、忍は静かに口を開く。
「もう……やめないか、こういうことは」
 光流の目は見ずに、忍は低い声で言った。
「忍くーん、マジで怒るなよ~」
 光流は調子の良い声で言うと忍に抱きつき、そのまま二人一緒に床に倒れこむ。突然の抱擁に軽く頭を打った忍だが、抵抗はしなかった。謝罪の代わりなのか何なのか、光流はしつこいほどに顔中に唇を寄せてくる。
「もう…いい……っ」
 頭を押しのけたが光流は簡単に離れようとしない。仕方なくそのまましたいようにさせてやる。
 
 怒っていたわけじゃない。増してや冗談でも。忍は浅く息を吐きながら心で呟いた。
 本気で言ったのだ。こんなこと、もうやめたい。抱き合えば抱き合うほど、辛くなるだけだから。今この瞬間は繋がっていることができても、離れた後のどうしようもない孤独感に、苛まれるだけだから。
「光流……もう……」
 無邪気に抱擁を繰り返してくる光流の頭を押し退け、忍は暗い面持ちをする。だが光流はそんな忍の様子には気付かず、なおもしつこくじゃれついた。なおさら胸が苦しくなるのを感じながら、忍は諦めて力ない笑みを浮かべる。 
 嫌なんかじゃない。この無邪気にじゃれ合うだけの時間はむしろあまりにも幸福で、優しくて、暖かくて。
 だけど、知っているんだ、俺は。
 どんなことをしたって、おまえは絶対に手に入らないことを。この手を繋ごうと思えば思うほど、いつか必ず離れていくことを。
 それならせめて、友達のままで……。それでほんの少しでも長く続くことができるなら、友達のままで良かった。
 少なくともこんな、いつ終わっても、いつ離れていかれても何もおかしくない、こんな関係でいるよりは。
「……っ……」
 顎を掴まれ柔らかい唇が重なってくる。忍は目を閉じて、何度も心の中で光流の名前を呼ぶ。
 せめて今この瞬間だけは、離れていかないように。
 手に入れられるのがこの一瞬だけだと、知っているから。
 祈りを捧げる相手なんてどこにもいないと思っていた忍が、初めて祈らずにはいられない彼に出会い、生まれて初めて祈りは苦しみなのだと知った。
 助けててくれ、誰か。
 このどうしようもない苦しみから。
 切なさから。
 不安から。
 孤独から。
 誰か…………!!!
「好きだよ、忍」
 救ってくれるのは、ただ一人しかいないと、知っているのに。
 
 同じ言葉を簡単に口に出せるなら、どんなに幸福だっただろう。
 
 
「忍先輩、もう食べないの?」
 月曜日の朝、半分も手をつけていない忍の朝食を覗き込み、瞬が心配そうに言った。
「俺、食べましょうか?」
 瞬の隣に座る蓮川が、どこか嬉しそうに言う。
 珍しく部活に出ると言って先に学校へ行った光流がいないのをこれ幸いとしているその様子に、忍は可笑しいような想いで静かな笑みを浮かべた。
「いいぞ蓮川。常に誰かの恨みをかっている俺の朝食の余りで良ければな」
 飄々とした口調で忍が言った途端、蓮川が表情を強張らせた。
「や、やっぱいいです俺!!」
「大丈夫だってすかちゃん、毒盛るまでする人はいないから」
「そんなの分かるもんか……っ」
 ヒソヒソと声を上げる蓮川の前に自分の朝食の余りを置き、忍は蓮川の耳元に囁いた。
「ひじきは青酸カリ特有のアーモンド臭がしたから避けた方が良いぞ」
 ますます顔を青くする蓮川に背を向け、食堂を後にする。からかい甲斐のある後輩は、忍に一時のわずかな安息を与えてくれる貴重な人物でもあった。
 
 
 光流は蓮川のことが好きだ。瞬のことも。
 後輩達だけじゃない、クラスメートも先生も昔の友人たちも、全てを大切に想い、本当に大切にできる、それが光流という人間だ。そんな、光流が好きな人も、光流を好きな人も、自分も好きだと思える。忍にとっては、そんな感情すら初めてのものだった。
 好きな人が大切にしているものを、自分も大切にできる。こんな小さな事が、何より嬉しいと思う。
 それなのにどうして、離れていることはこんなにも辛いのだろう。
 光流が他の誰かと話して、笑って、無邪気な顔をしているのが、胸に痛いのだろう。
 それは嫉妬とも違う。独占欲とも違う。自分一人のものにしようなんて思わない。思えない。
 ただ、離れていくことが。
 光流が、自分を置いていくことが。
 自分のいない場所でも、ずっと笑っていくことが出来る事が。
 
「会長…? ……会長! 会長……!!!」
 
 放課後、生徒会の会議を終え教室を出たものの、忘れ物に気付いて慌てて生徒会室に戻った副会長の目に、窓際で床に膝をついて胸を押さえる忍の姿が映り、副会長は慌てて保険医を呼びに行った。
 もうまばらにしか人の残っていない学校の廊下に、一弘の足音が響く。

「手塚! どうした手塚!!」
 青ざめている忍を抱き起こし、一弘は名前を呼ぶが、とても声を出せるような状況ではなさそうだ。
「過呼吸か……。落ち着け手塚、大丈夫だ。とりあえず保健室に行くぞ」
 呼吸のままならない忍を背に抱え、一弘は保健室まで走った。
 忍が倒れたとなったら日中なら大騒ぎだったろうが、もう校内に残っている生徒はいたとしても一人二人だろう。幸いだった、と一弘は思う。
 保健室に辿り着き、すぐに処置をすると、忍の呼吸はやっと正常に近くなった。
「落ち着いたか?」
「……すみません、ご迷惑をおかけして」
 忍は力無く言いいながら、ベッドの上に横たえていた身体を起こした。
「こらこら、まだ寝てなさい」
 喋れるようになった途端にいつもの冷静な顔と口調で立ち上がろうとする忍に、一弘は苦笑を向けた。
「どうした? おまえでもストレスを抱えるようなことがあるのか?」
「昨夜、勉強し過ぎただけですよ」
 忍の中では「あなどれない男№1」の位置をキープするこの保険医に、安易に自分の心の内を見せたくはなく、当たり障りのない答えを返す。
「……そうか。勉強も大概にしておけよ」
「分かりました。どうもありがとうございました」
 忍は立ち上がり、ネクタイを調えた。
 敢えて深く尋ねてこないのは彼なりの優しさなのだとは知っていても、心を開くことはできなかった。
「忍っ!!!」
 保健室を出ようと足を踏み出したその時、いきなり保健室のドアが派手に音をたてて開いた。
「光流、まだ帰ってなかったのか?」
 一弘が尋ねる。
 しかし光流は一弘の声を無視して、忍に詰め寄った。
「倒れたって、大丈夫なのかおまえ!! どこか具合でも悪いのか?」
 既に自分たちの関係を知られている一弘の前では、光流はなりふり構わず感情を露にする。額に触れてくる光流の手を、忍はあくまで冷静に振り払った。
「夕べ、おまえのいびきがうるさくて眠れなかっただけだ」
 うるさそうにそう言って、忍はすぐさま保健室を出て行く。
「待てって、忍……!」
「光流」
 忍を追いかけようとした光流を、一弘が呼び止める。
「気をつけてやれよ」
「何のことだ……?」
 真顔で言う一弘に、光流は怪訝そうな顔をした。
 忍がさっさと行ってしまうので、早くちゃんとした理由を聞きたかったが、一弘の次の言葉に光流は思わず足を止めた。
「あいつ、相当ストレス溜めてるぞ」
「あいつが、ストレス……?」
「理由は知らんが、簡単に口に出すような奴じゃないだろうから、おまえがしっかり見ててやれよ」
 諭すようにそう言って、一弘は机に向かった。
 光流は動揺を隠せない表情で、しばらくその場に立ち尽くした。
 
 
 心配する光流を置いて先に寮に戻った忍は、疲れた顔でベッドの上に腰をおろした。
 まさか倒れるほどストレスを抱えてるなんて、自分でも思いもしなかった。何故だか必死でその事を隠したくて、逃げるようにして光流のそばを離れた。
 小さくため息をついて首のネクタイを緩めた時、ゆっくりと部屋のドアが開いた。
「忍……大丈夫か?」
「ただの寝不足だと言っただろう」
 いつになく神妙な顔つきをしている光流に、忍はいつもの冷静な表情を向ける。しかし光流の表情は緩まない。
「本当に?」
 まっすぐに見つめてくる光流の瞳から、忍は思わず視線を逸らしてしまってから、すぐにしまったと思った。この目に少しでも怯んでしまったら、もう何もかも見透かされてしまうと知っていたのに。
「俺には言えないのか?」
 案の定、忍の嘘をすぐに見透かした光流が、神妙な顔つきを崩さず忍の目の前に立つ。
「それとも、俺にだから言えない?」
 ベッドに右手を添え、数センチにも満たない距離まで詰め寄られる。
「嫌……だったのか?本当は」
「何の事だ」
 あくまで冷静さを装い、忍はやっと口を開いた。
「俺に抱かれる事が」
 直接的な言葉でもって、光流は忍を追い詰める。
 忍は応えない。いや、応えられなかった。
「そうなんだな……?」
 光流の手にぎゅっと力が込められた。
 今にも泣き出しそうな顔をして、光流はベッドの淵を拳で強く叩いた。
「バカ……みてぇ、俺……」
 自嘲にも似た声。
「光流、違う」
「何が違うんだよ!!」
 光流が声を荒げた。
「そんな……倒れるほど嫌だったなら、なんで言わないんだよ! 適当にあしらってたつもりか?!」
 本気で怒りを覚えている光流に、忍は表面上は何も変わらないまま、ただ光流を見つめた。
 けれど心の内は、今までにないほど混乱している。
 何を言っているのだろう、この男は。
 「適当に」だなんて、そんなつもりで、この自分があんな行為を許すとでも? 倒れるほど嫌な事を、当たり前にさせるとでも……?
「言えよ! 本当の事を!!」
「本当の……?」
 どこか遠い、ぼんやりとした瞳で、忍は光流を見つめる。
 自分の気持ちが分からない。
 今、光流の言葉を否定すれば、望む幸福を手に入れられるのかもしれない。けれどその後に待つのは、またあの途方もない孤独と不安だけだ。
 それなら肯定すれば。
 ……出来るはずがない。
 拒絶してしまったら、もう二度と、何も戻らない。
 そう思ったら途端に酷い恐怖を覚え、忍は立ち上がってその場を離れようとしたが、光流に腕を掴まれ引き戻される。
「逃げるなよ、ちゃんと答えろ!!」
 決して容易に逃がしてはくれない、どこまでも自分の中に容赦なく踏み込んできて追い詰める光流を、今だけは拒絶したい気分でいっぱいだった。
「どう答えれば、満足なんだ?」
 低い声色で発した言葉は、光流を限界まで怒らせるには十分なものだった。
 光流は乱暴に忍の胸倉を掴み振り上げた手を、寸でのところで冷静さを取り戻したように降ろした。
「おまえの言葉を聞かせろよ」
 震える声。
 まだ殴られた方がマシだったかもしれない。
 こんな顔をさせるくらいなら。
「言えない……」
「忍!!!」
「言えない……!!」
 忍は光流から顔を背け声を荒げた。
 本当の事なんて、何一つ、言えるはずがない。
 いつだって、どんなに抱き合っても不安しか感じない。
 繋がれば繋がるほど、孤独になっていく。
 おまえが離れて行くかもしれない。
 そのことが、怖くてたまらない。
 こんな惨めな自分を、光流にだけは死んでもさらけだせない。
「言えない……」
 頑なに拒み続ける忍を、光流は酷く憔悴し切った表情で見下ろす。長い沈黙が二人を包んだ。
「だったら……終わりだ」
 絶望にも似たその言葉に、忍はハッと顔を上げた。
「終わりだ」
 まっすぐに忍の目を見つめ、もう一度揺るがない口調でそう言うと、光流は忍に背を向け、バタン!と大きな音をたててドアを閉めて部屋を出て行った。
「みつ……!!」
 忍は思わず立ち上がったが、それ以上追いかけることは出来なかった。
 今追いかけて縋っても、行き着く先が一緒なら、早い方が傷は浅い。
 忍は座り込んだまま、一筋の光の欠片もない瞳で、ただ何も無い一点を見つめるだけだった。