キセキ<後編>


 自室の押入れの奥の棚から取り出した、古い数冊のアルバムの埃を、佐和子はそっと指先で掃った。
 三人の子供達の記録を、怜悧な顔つきでパラパラとめくっていく。
 
 一人目の子は、生まれてすぐに姑に取り上げられた。滅多に抱くことも叶わず、姑にばかり懐いていく子を前に、何度も心の中で叫んだ。私の子供なのに。私が生んだ子供なのに。どうして奪われなければならないの?
 二人目の子は、父親によく似た気性の激しい娘で、ずいぶん手を焼かされた。それでもこの子だけは決して手放すまいと強固になるあまり、厳しさばかりを押し付けて、いつしか娘は母を嫌うようになっていた。
 三人目の子は、思いがけず授かった子供だった。産むことを反対されるほどに、誰からも期待されていない、誰からも望まれていない子供だった。だからこそ、惜しみない愛情を注ごうと、生まれる前から心に決めていた。もう誰にも、奪われることはないのだから。思う存分、抱きしめられるのだから。
 けれど。
 けれど……。
 めくったアルバムの中に写る、三人目の子供は、一つも笑った顔がない。
 いつもいつも、決まって同じ顔。
 笑う形は浮かべていても、瞳はいつも同じ色。
 
 どうしてなの?
 どうしてあなたは、笑ってはくれないの?
 私はこんなにあなたを愛しているのに、どうしてあなたは私を愛してくれないの?
 どうしてみんな、私を必要としてくれないの!?
 私は、この家の何なの!!!
 
 どれだけこの胸に抱いても愛情を示しても、少しも自分を求めてはこない我が子を前に、何度も心の中でそう叫んだ。
 いつしか愛は形を無くして、閉じてゆくばかりの心。もう、誰も愛するのはやめよう。期待するのはやめよう。叫ぶのはやめよう。何も感じず、何もせず、ただ静かに、見ているだけでいればいい。たとえ我が子がどれだけ酷い仕打ちを受けていようと、見たくないものは見なければ良い。そうすれば、何も傷つくことはないのだから。
 もう、誰に愛されなくてもかまわない。必要とされようなどとは思わない。
 私は一人で生きていく。
 
 パタリと静かにアルバムの閉じる音が、薄暗い部屋に響いた。
 
 
 小鳥のさえずる音と、朝のまぶしい光を感じて、忍はそっと目を開いた。
「おはようございます、忍様」
 すると途端にすぐ目の前にキラリと眼鏡が光り、忍は目を大きく見開いた。
 そしてガバッと起き上がる。
「朝食の準備ができていますので、早くお支度なさって下さい」
「わ、分かったからすぐに出て行け」
 忍に睨みつけられ、三島はにっこり微笑んで、言われたとおりに部屋を出てゆこうとして振り返った。
「すぐにタートルネックのシャツを用意しますね。昨夜はお楽しみなられたようで何よりです」
 その言葉に、忍は咄嗟に首元を手で覆った。
 三島は実に楽しげに微笑んで、部屋を後にする。
 忍は悔しそうに肩を震わせ、まだ隣で眠っている光流の頭を思い切り殴りつけた。
「だっ!! ……あにすんだよっ!?」
 突然の激痛に光流が目を覚まし、後頭部を押さえながら怒り顔で起き上がった。
 
 
 そして、母と祖母と兄との一家そろっての朝食時。
 家政婦の作った贅沢極まりない朝食を何度もおかわりする光流を前に、佐和子と貴子はやや呆気にとられた様子で、忍は気恥ずかしさを隠せない様子である。
「まったく下品だこと。これだからどこの馬の骨とも分からない下賎の子は……」
 一気に食欲が失せたと言わんばかりに、貴子が箸を置いて深くため息をついた。
「何? ばあちゃん食わねぇの? 勿体ねーから俺もらっていいですか?」
「ば、ばあちゃん……!?」
「え? 忍のばあちゃんですよね?」
 一気に凍りつく場の雰囲気を少しも読まないまま、光流は貴子に無邪気な顔を向けた。
 貴子がわなわなと肩を震わせる。
「うちのばあちゃん、やかましいばっかりですげぇ厳しかったから、優しそうなばあちゃんで羨ましいですよ」
 にっこりと人懐こい笑顔を向けられ、途端に貴子の表情が和らぐ。どうやらまんざらでもない様子だ。
 コホンと小さく咳払いして、貴子は澄ました顔を光流に向けた。
「ま、まあ……悪い子ではなさそうね。育ち盛りですものね、たんとお食べなさい」
「ありがとーございますっ! 遠慮なくいただきまっす!!」
 そう言って、ガツガツと朝食を食べ始める光流と、その様子を穏やかに見つめる貴子を前に、佐和子と旭はプッと小さく笑みを漏らす。本当はめいっぱい笑いたいのを必死でこらえている母と兄の様子に、忍はただひたすら気恥ずかしく、またしても光流の頭を思い切り殴りつけた。
「てっ!! 何で殴るんだよっ!?」
「うるさい馬鹿!! 少しは礼儀というものをわきまえろっ!!」
「わきまえてんだろーがっ! いただきますってちゃんと言ったぞ!?」
「そういうことを言ってるんじゃない……っ!」
 忍は怒りを露にするが、どんな状況でも食欲だけは決して衰えない光流に、がっつくなという方が無理な話である。
「おまえも食わねーんならもらうぞ」
 咄嗟に光流が手を伸ばしてきた玉子焼きの皿を、忍はサッと持ち上げて光流の箸をかわした。
「あ……っ、くしょ~!」
「俺は蓮川とは違う。誰がおまえに奪われるか」
 自信満々に言う忍に、光流は悔しげな目を向ける。
 まるで兄弟喧嘩みたいなその様子に、佐和子がまたクスリと笑って光流の前に自分の皿を差し出した。
「たくさんおあがりなさい。忍さんも、おかわりはよろしいの?」
「いえ……僕はもう結構です」
 母に優しい微笑を向けられ、忍はそう言いながら何故だか咄嗟に目を逸らしてしまった。
 そんな忍に、佐和子は穏やかな目を向け、優しく微笑んだ。
 
 
 その日の昼頃に朔太郎は帰宅し、広い客間に全員集合と相成ったわけだが、朔太郎の表情はやはり厳しく重いものだった。
 どうあっても忍がこの家を出て行くことは認めないといったその様子に、ただひたすら重い空気が漂う。
 沈黙を真っ先に破ったのは、佐和子だった。
「どうか認めてやってくださいませ、あなた」
「ならん。わしは絶対に認めん」
 佐和子と朔太郎の鋭い視線が絡み合った。少しの睨み合いの後、佐和子が重々しく口を開く。
「それならば、私にも考えがあります。三島」
「はい」
 佐和子にうながされ、三島が立ち上がり、朔太郎の前にいくつかの書類を差し出した。
 その書類に目をむけた朔太郎の表情が、一瞬にして驚愕に満ちてゆく。
「これは……!!」
「はい、これまでの数々の汚職の証拠です」
「三島……どういうことだ!?」
「佐和子様にご協力いただいたおかげで、いつでもあなたを陥れる手段が出来ました、先生」
 額に汗を滲ませる朔太郎に、三島はあくまで涼しい笑顔を向けて言い放った。
「貴様……恩を仇で返すつもりか!?」
「まさか。ただ、人の弱みを握っておいて損はないでしょう? あなたからの教えですよ、先生」
 容赦ない三島の言葉に、朔太郎は悔しげに歯を噛み合わせる。そして鋭い視線を佐和子に向けた。
「いったいどういうつもりだ佐和子!!手塚家の一員ともあろう者が……!!!」
「私は自分がこの家の一員などと思ったことは一度もございませんわ」
 あくまで冷静な態度を崩さないまま、佐和子は冷たい声を朔太郎に向ける。
 まるでこの復讐の機会を待っていたといわんばかりの佐和子の態度に、朔太郎は追い詰められた。
「どうか決断なさって下さいませ、あなた。手塚家の繁栄をとるか、忍さんに自由を与えるか」
「く……っ」
 朔太郎は窮地に追い詰められた表情の後、やがて諦めたように力を抜いた。どちらを選ぶかなど、もはや考える余地もなかった。しかしなおも、朔太郎は苦しげな眼差しで忍を見つめる。
「父を……選んではくれぬのか、忍……っ」
 それは朔太郎が初めて自分を曝け出して露にする、紛れも無い忍への愛情だった。
 忍の瞳が困惑に満ちていく。
 ずっと愛されているなどとは夢にも思ってもいなかった父の、あまりに小さな姿。
「そんな……そんな男にやるために、父はおまえを育てたわけでは……っ」
 肩を震わせ、朔太郎は言った。
「目を覚ませ忍!! こんな顔だけが取り柄の軽薄な男など、おまえが不幸になるだけだ!!!」
「だから顔で判断しないで下さいっ!!!」
 思わずといった風に、光流が声を大きくした。
「黙れ若造!! いざ忍を自分のものにしたら、外で浮気しまくった上にパチンコ三昧の挙句、忍に働かせて貢がせようという気なのだろう!? そういう男の顔だ貴様は!!!」
「好きでこの顔に生まれたわけじゃありませんって!!!」
「確かに時給800円ですからねえ」
「まだ学生なんだから仕方ねぇだろ!!!! ってか時給800円は関係ねえ!!!」
 すかさず口を挟んできた三島にも、光流は声を荒げる。
 ふと、唖然とするばかりだった忍が、いいかげんこの場を収めなくてはと我に返り、口を開いた。
「お父さん……僕は、ただ、自分の道を歩きたいだけです」
「忍……」
「決してこんな馬鹿のためではなく、自分で決めて、自分で生きていきたいんです。決してこんな馬鹿のためではなく」
 そう言って、忍は真剣に朔太郎と見つめ合うが、光流は思いっきり拳を震わせ、忍の肩を掴んだ。
「なんでてめーはそう見栄っ張りなんだよっ!? 素直に俺と生きたいからって言やいいだろ!?」
「誰が貴様なんかと駆け落ちするか、馬鹿者!!」
 意地でも駆け落ちエンドだけは避けたい忍であるが、光流は意地でも駆け落ちエンドに持ち込みたいらしく、いきなり忍の頬をガシッと両手ではさむと、おもむろに忍の唇を奪った。一瞬にして周囲の空気が凍りつく。
「お義父さん、忍くんは僕が絶対に幸せにします!!!」
 ぷはっと唇を離すと、光流は自信満々にそう言い放ったが、即効で忍に頭を思い切り殴られてその場で気を失った。
「今すぐこの馬鹿を連れて出て行きます!! 今までお世話になりました!!!」
 額に青筋をたてまくりながら、忍は倒れている光流の襟首を掴み、ズルズルとひきずりながら逃げるようにその場を後にしたのであった。
 
 
 ヒヤリとした感覚に、光流は眉をしかめながら目を開いた。
「あら、気がつかれました?」
 開いた目の先に、真っ先に佐和子の姿があった。
 どうやら気を失ってる間、介抱していてくれたらしい。頭にのせられていた冷たいタオルを右手に持ち、光流はゆっくりと身体を起こした。
「ごめんなさいね、忍さんがずいぶん乱暴なことを」
「いや……いつものことなんで」
「恋人同士だというのに、ずいぶん過激なスキンシップねえ」
「いや別にスキンシップというわけでは……」
 まだズキズキと痛む後頭部を右手で押さえながら、光流はいい加減調子にのりすぎたかと反省するが、おそらく忍の怒りは当分冷めないだろう。分かっていてもついからかいたくなってしまう自分の子供っぽさが我ながら憎いと思う。しかし忍が慌てふためく姿がどうにも面白くてやめられないのも事実であった。
「でも、驚きましたわ。あの忍さんが、あんな風に怒ったり困ったりするところ、初めて見ました。……母親ですのにね」
 ふと、一瞬悲しげな目をした佐和子を、光流は見逃さなかった。
「母親だから、見せれなかったんじゃないですか?」
「え?」
「あいつ、好きな人にほど素直じゃないですからね」
 にっこり微笑んでそう言った光流に、佐和子は優しい微笑を浮かべた。
「あなたは……養子でしたわね、確か。実の母親のこと、憎んでいらっしゃる?」
 光流に背を向け、窓の外を眺めながら、佐和子は尋ねた。
「いえ、今は感謝してます。生んでくれた実の母親に」
 光流は正直に応えた。
「そう、あなたは良い子ね」
 優しく佐和子が微笑む。
「でも、感謝など、しなくていいんですよ」
 静かな笑みを光流に向け、佐和子は言った。光流がわずかに目を見開く。
「だって、子供を生むのは、母親の勝手ですから。そんな親に、子供は感謝など、する必要ないんですよ。憎んで、恨んで、良いんです。生み捨てて、育ててはくれなかった親のことなど」
 佐和子のその言葉に、光流は返す言葉もなく、神妙な顔つきで睫を伏せた。
「池田さん、母親ってね、母親である前に、どうしようもなく一人の人間なんです。子供を生んだからといって、誰もがすぐに母親になれるわけじゃありません。あんたを生んだ母親も、きっと同じ。ただ一人の弱い人間に過ぎなかったのだと思いますよ」
「……はい」
「けれどあなたを見ていたら、良い母親に愛されて育ったのだと、すぐに分かります。きっと素敵な方なんでしょうね、あなたのお母様は」
「はい」
 まっすぐに佐和子の目を見て、光流は応えた。
 佐和子は優しく微笑んで、また窓の外に目を向ける。
「私は……あの子を愛せませんでした。母親として、失格です」
 落ち着いた声色。しかしどこか悲しさの宿るその声に、光流は真剣に耳を傾けた。
「あの子ね、何度も流産しかけたんですよ。まるで生まれてくることを必死で拒んでるように。だからお腹の中にいる時は、毎日のように声をかけてました。大丈夫だから。何も怖くないから、安心して産まれておいでって。いつでも話しかけられるように、名前もずいぶん早くから決めて。男の子でも女の子でもいいように、忍って名づけたんです」
「そう……だったんですね」
「なんとか無事に生まれたけれど、標準より少し小さい子で、ミルクも上手に飲めなくて。だからきっと、この子は弱い子なんだと思ってました。だから私が守ってあげなければと、大切に育てようと、心に決めていました。けれど、どれほど愛情を注いでも少しの笑顔も見せてはくれないあの子に、ずっと同じ想いを抱けませんでした。私もまた、母親である前にどうしようもなく弱い、一人の人間にしか過ぎず……」
 悲しいばかりの佐和子の後姿を、光流はただ黙って見つめる。
「あの子……あなたの前では、笑うのかしら?」
 窓の淵にそっと手をかけ、佐和子が光流に尋ねた。ゆっくりと光流が口を開く。
「はい。特に高校時代は、からかい甲斐のある後輩がいて、二人でそいつからかってばっかいたんですけど……よく、笑ってましたよ。……みんなと一緒に」
 穏やかな微笑を浮かべながら、光流は言った。
「怒ったりも、するのかしら?」
「基本的に怒ってばっかです。けっこうつまんない事で怒るんですよね、そーいうとこはすげー子供っぽくて」
 思い出しながら苦笑する光流に、佐和子は背を向けたままだ。
「泣いたりも、する……?」
 少しずつ、佐和子の声が震える。
 光流は緩やかな口調で言葉を続けた。
「滅多なことじゃ泣かないですね。物凄い意地っ張りなんで。だからいっつも頑張りすぎて、無理してんなーこいつって思って、たまにめちゃくちゃ泣かせてやりたくなるんですけど、悔しいくらい泣いてくんないです」
 背を向けたままの佐和子の方が震えていて、透明な雫が佐和子の手を濡らしていた。
 光流は明るい笑顔と声を絶やさない。
「だからつい、からかいすぎて、結局こーいうことになっちまって。俺、やっぱバカですね。こんなバカ、なんであいつは好きになったのかなって、ほんと分からないんですけど……」
 ふと、光流の声と瞳の色が、まっすぐに真剣に、佐和子を見つめた。
「けど、俺……絶対、大事にしますから」
 そして、背筋をピンと伸ばして、佐和子に向けて正座をする。
「絶対、絶対絶対、大事にします。これからもたくさん笑わせて、怒らせて、それでいつか……あいつが人前でも平気で泣けるくらい、幸せにしてみせます。だから……忍くんを、僕に下さい!」
 そう言って、光流は畳に手をついて、深々と頭を下げた。
 少しの沈黙の後、佐和子が震える声を発する。
「あの子を……よろしくお願いします」
 振り返ることは、できなかった。
 人に涙を見せることなど、もう二度とあってはならないと、とうの昔に心に決めていたから。
 何年ぶりに流したであろう佐和子の涙が、いくつも手の甲に落ちる。
 
 なぜ、もっと愛してやれなかったのだろう。
 なぜ、抱きしめてやれなかったのだろう。
 嘘偽りでもいい。愛などなくてもいい。ただ手をつないで抱きしめてやれば、それで良かったのだと、いまさら気づいても時は二度と戻らない。
 もう二度とこの手で抱きしめてやることは叶わない今になって、どうしようもなく愛していたのだと、思い知る。
 
 愛していたから、辛かった。寂しかった。悲しかった。
 あの子が私を愛してくれないことが。必要としてくれないことが。
 この狭い牢獄の中で、心をしっかり閉じなければ、生きてはいけなかった。
 そんな私と、きっとあの子も、同じだった。
 誰も愛さず、誰にも心を許さず、傷つけられないよう必死で自分を守ることしかできない、儚く弱いただ一人の人間だった。
 後悔ばかりが、胸の内に渦巻く。
 けれど今、後悔と同じくらい、嬉しくて。
 ただ嬉しくて、胸が震える。
 
 あの子を愛してくれる人がいて、良かった。
 あの子が人を愛せる人で、良かった。
 
「ありがとう……」
 
 その一言を伝えるのが、精一杯だった。
 震える佐和子の後姿を、光流はただ黙って見守り続けた。
 
 
 庭園を歩きながら、まだクスクスと笑い続ける兄を、忍は気恥ずかしさを隠せない表情で睨みつけた。
「いや……すまんすまん。おまえのあんな顔、初めて見たから」
 旭はそう言いながらもまだ可笑しさを隠せない様子だ。
「ずいぶん変わったな、忍。緑都学園に行ったおかげかな」
 穏やかに微笑んで、旭はポンと忍の頭を撫でるように叩いた。
 一瞬、忍の表情が和らぐ。それから少し切なげに目を伏せた。
 きっと、憎まれているだろうと思っていた。
 かつて、最も卑劣な方法で最愛の恋人を奪った自分のことを、兄は決して許さないだろうと。今でもはっきりと覚えている。倫子の唇を半ば強引に奪ったあの時、偶然居合わせた兄の、衝撃を隠せないあの瞳の色。あれからすぐに、兄は失踪した。父や親族によってさんざ追い詰められた兄を、限界まで追い詰めたのは誰でもない自分だった。
 けれど今思えば、倫子への気持ちは、決して恋や愛などではなかった。今、光流に対して抱いている想いとは明らかに違う。
 ただ、奪いたかっただけだ。幼い頃からただ一人、自分に優しさを向けてくれた兄に愛され続けていた彼女に、子供じみた嫉妬をしていただけに過ぎなかったのだと思う。彼女と同じように愛されたくて、振り向いて欲しくて、少しでも関心を寄せてほしくて、お気に入りの玩具を壊してわざと怒らせるような真似をしただけだ。
 しかし、兄は決して振り向いてはくれなかった。ただ捨てられただけだ。壊れた玩具と一緒に。
「兄さん……」
 静かに発した忍の声に、旭はゆっくりと振り返った。
「……申し訳ありませんでした。僕は……」
「なぜおまえが謝る?」
 忍の言葉を遮るように、旭は穏やかな笑みすら浮かべて言葉を発した。
「謝るのは、俺のほうだ。今まですまなかった、忍」
 悲しげな瞳をして、旭は言った。
「俺はずっとおまえに全てを押し付け、逃げていた。だがもう、逃げない。手塚家の長男として役目はしっかり果たすつもりだ。だからおまえはもう、自由になってくれ」
「僕を……許すと仰るのですか?」
「許す……? なぜ?」
「僕は、あなたの恋人を卑劣な形で奪った、最低な弟です」
「それは違う。俺は、典子のことも選べなかった。ただ自分が自由になりたかっただけだ。何もかも捨てて……。そうしておまえを犠牲にした。許されなければならないのは、俺のほうだ。本当に……すまなかった」
 嘘偽りのない兄の言葉に、忍はただ切なさを覚えた。
 そして、もうずいぶん長いこと、すれ違っていただけなのだと思い知る。
「兄さん……僕は、ずっと……」
 今、伝えなければと忍は思った。
「ずっと……あなたに、ただ……昔みたいに、頭を撫でて欲しくて……」
 顔をうつむけながら酷く気恥ずかしそうに、そんな言葉を口にする弟に、旭は目を見開いた。
 そうして、長いこと出来すぎた弟を僻み妬み、少しも愛情を注いでやれなかった自分を、ただひたすらに嫌悪した。
 年の離れた小さな弟は、滅多なことでは感情を表に出さない子供だった。その類まれな才能ゆえに、誰もが彼を褒め称えながらも、どこか畏怖なものを見る目をして、一歩距離を置いて接していた。実の母親でさえも。
 けれど、寂しくなかったはずがない。誰からも愛されず、誰からも抱きしめられることのなかった、小さな弟。
 ほんの気まぐれに、たまに小さな頭を撫でてやっていた記憶を思い出し、旭は胸が締め付けられる想いで、そっと忍の頭に手を置いた。
 あんな小さなことが、忍にとってどれだけ嬉しかったのか。上手に感情を出せず、子供心を必死で押し殺していた弟の胸のうちを、なぜ分かってやれなかったのか。後悔ばかりが波のように押し寄せる。
「兄さ……」
「おまえは必ず幸せになってくれ」
 長いこと溜まっていたわだかまりが、少しずつ溶けてゆく。
 大きな手に優しく頭を撫でられて、忍はまた顔をうつむけた。
 胸のうちに溢れる切なさを、必死でこらえる。
 そんな忍に、旭はただ優しく微笑みかけた。
 
 
 もう二度と帰ってくることはないだろう、生まれ育った家に背を向け、光流と共に三島の運転するベンツに乗り込もうとしたその時だった。
「忍」
 ふと呼び止められ、忍は振り返った。
 一瞬、鼓動が高まった。
 母が、そんな風に自分を呼ぶことなど、初めてだったから。
 しかし佐和子はいつもと変わらない怜悧な表情のまま忍に歩み寄り、風呂敷に包まれた通帳と印鑑を差し出した。
「大学は、しっかり卒業なさい」
 そう言って、佐和子は忍の手に風呂敷を握らせた。
 忍がなにか言葉を発しかけたその時、佐和子はその言葉を遮るように口を開いた。
「これは親として当然の義務です。だから、あなたは私を、憎んで良いのよ。許してもらおうなどと、思ってはいません」
 まっすぐに忍の目を見て、佐和子はあくまで厳しい口調で言った。
「もう二度と、この家に戻ってきてはいけませんよ。……幸せに、なりなさい」
 穏やかな微笑を向けると、佐和子は静かに忍に背を向けた。
 そうして振り返りもせずに門をくぐって去ってゆく佐和子の背を、忍はただ黙って見つめる。一瞬、ピクリと忍の手が動いた。
「お……」
 何かを言いかけたけれど、思い直したように、忍は目を伏せた。
 そして手塚邸に背を向け、車へと足を向ける。
 光流は何も言わず、ただ神妙な面持ちで、黙って忍の後へ続いた。
 
 
「お母さん……」
 戻ってきた母を前に、旭が戸惑いがちに声をかけた。
 そんな旭に、佐和子は静かに微笑む。
「覚悟はよろしい? 旭さん」
「もちろんです。僕が、必ずこの家を変えてみせますから」
 微笑む母を目の前に、旭は意思の強い瞳を向けた。
 
 
 帰りの車の中でもひたすら罵詈雑言の嵐である光流と三島に、忍はやはり精神統一して耳を頑なに閉ざしつつ、ようやくたどり着いたアパートを前に車から降りると、三島が突然、忍の体をぎゅっと抱き寄せた。
「な……っ!」
「どうか幸せになってくださいね、忍様」
 忍はすぐさま三島の体を押しのけた。しかし少しも動じない笑顔で、三島が光流に顔をむけた。
「こんな世間知らずのワガママ坊やですが、どうか忍様のことをよろしくお願いしますね、池田さん。せめて時給1000円は稼げるくらいの男になってください」
「しつけーよっ! 悪かったな時給800円でっ!!」
 光流が怒りを露にし、ムキになって言い返した。
「なにを言っているんです、私は褒めているんですよ」
 しかし三島は、意外にも真面目な声を放った。
 そしてニヤリと笑みを浮かべる。
「時給800円の仕事ができない男に、良い仕事などできるはずありませんからね」
 その言葉に、光流はやや驚いたように口を開いた。
「時給600円から成り上がった男が言うのだから、間違いありませんよ」
 三島は自信たっぷりに、造ったものではない笑顔を浮かべた。
 光流も同意するように、笑みを浮かべる。
「忍様、あなたも少しは苦労というものを知りなさい。あくせく働いてくる旦那のために、毎日パンツ干しながら暮らす生活も悪くないと思いますよ」
「いずれ本気で殺しに行くから、それまで失脚せずに待ってろ……っ」
 今すぐ殴りかかりたいのを必死でこらえつつ、忍は思い切り三島を睨みつけながら言った。
「はい、お待ちしています」
 三島はにっこり微笑むと、車に乗り込み、エンジンをかけて車を発進させ、去っていった。
 車が見えなくなるまで見送ったあと、光流がぽつりと呟いた。
「あーいうのに育てられるとこーいう人格ができあがるわけだな」
「どういう意味だ?」
「その笑顔やめろー?」
 にっこり微笑む忍に、光流もまたにっこり微笑むのであった。
 
 
 時刻は既に真夜中過ぎ。
 とりあえず風呂に入ってパジャマに着替えて、一気に押し寄せてきた疲労感と共に、二人は倒れるように布団の上に寝転んだ。
 ふと、光流が肘をたてて忍のほうに体を向け、ニヤリと笑みを浮かべる。
「略奪成功! これってやっぱ駆け落ちだよなぁ?」
 そんな光流に、忍は明らかに面白くなさそうな顔つきをして、鋭い視線を向けた。
「おまえの馬鹿さかげんには、いいかげん愛想が尽きた」
 怒りを隠さず、忍は光流から顔を背ける。
「んな怒るなって~。いいじゃん、結果オーライだったんだし」
 まるで悪びれない様子でそう言うと、光流はそっと忍の頬に唇を落とした。
「……今日はしないぞ。疲れてるからな」
 忍はジロリと光流を睨み付けた。
 とはいえ、どうせまた無理やりにでも襲ってくるだろうと予測はしていた。
「俺も今日は、するつもりねーって」
 けれど意外な言葉を発して、光流はぎゅっと忍の体を背後から抱きしめる。
 しばらくそうして無言の時間が流れた後、不意に光流が体を移動して、忍の上に覆いかぶさるように膝を立てて、間近まで顔を寄せる。
「あ、あのさ、忍」
 突然、なにか酷く照れくさそうな顔をする光流に、忍は怪訝そうに眉をよせた。
「なんだ?」
「あのさ……今日は俺のこと、「お母さん」って呼んでもいいぞ……?」
 何故か神妙な顔つきをして、そんなことを言い出す光流を前に、忍の表情が一瞬にして凍りついた。
 そしてフイと光流から顔を逸らす。
「いや……そのプレイはもう二度とご免だ」
「ちげーよっ!!!」
 まったくもってそういうつもりで言ったわけではない光流は、即効で否定する。
 だったら何だと、忍がまるで不可解だというように光流に顔を向けると、光流が酷く優しい顔をしていて、忍はわずかに目を見開いた。
「なんか……すげー、甘やかしたい気分なんだ、おまえのこと」
 優しく微笑むと、光流はそっと忍の頬にキスをする。静かに触れるだけの唇が、何度も顔中に降り注がれる。
「何をわけのわからないことを……っ」
 いいかげんにしろと、忍は迷惑そうに身を捩る。
「いいからたまには甘えろって!」
 光流は逃がさないというように、忍の手首を布団の上に押し付けて、また何度もキスをする。
「たまには素直になりなさいって、忍くん」
 光流が言った、その瞬間だった。
 
(忍くん)
 
 突然、忍の頭の中に、いつかどこかで聴いた柔らかい声が響いた。
 
(生まれてきてくれて、ありがとう……忍くん)
 
 そんなはずが、ない。
 忍は思った。
 生まれたばかりの頃の記憶なんて、あるはずがない。
 あの人が……いつも冷たい背中を向けるばかりだったあの人が、そんな風に自分を呼ぶはずがない。
 だから、きっとこれは、夢だ。幼い頃からずっと見ていた、夢。
 いつかあの手が、優しく触れてくれるかもしれないと、抱きしめてくれるかもしれないと、暗い部屋で一人きり、毛布にくるまれながら見ていた、夢の続き。
 
「忍……?」
 思いがけず、あまりにも突然流れた忍の涙に、光流が一瞬驚きを隠せないように目を見開いた。
 どうしたんだ?と尋ねようとしたけれど、できなかった。
 忍が、あまりにも悲しい目をしていたから。
 泣いている理由が自分でも分からないように、どうして良いかわからなくて、ただ必死で涙を止めようとしているその姿が、なにかに震え泣いている小さな子供の姿とあまりにも重なって、切なさばかりが光流の胸の内に広がっていく。
 光流は強く忍を抱きしめた。
「いいんだ……泣いて、いいんだよ……っ」
 我慢なんか、しなくていいから。
 寂しい時は、寂しいって泣けばいい。辛い時は、辛いって叫べばいい。
 そう心で叫びながら、強く、強く、抱きしめる。
「……っ……」
 それでも必死で泣くまいとする忍の、押し殺してきた小さな子供の心が、あまりにも辛くて悲しくて、光流の目にも涙が滲んだ。
「大丈夫だから……俺が、ずっと……ずっと、こうしてるから……」
 何度も囁きながら、光流はただ忍を抱きしめる。
 そして、心の中で激しい後悔を感じた。
 最初から、こうしてやれば良かった。
 初めて出会った時から、忍は頑なに心を閉ざしていた。誰も信じず、誰も愛さず、どれだけ失っても傷ついても、そのことに気づくことすら必死で拒んでいた、傷つきやすい小さな心。
 辛くなかったはずがない。悲しくなかったはずがない。傷ついていなかったはずがない。
 その叫びを、あの時、確かに聴いていたはずなのに。
 だから救ってやりたいと。
 そう、心から想いながら、なぜ……殴ったりしたのだろう。
 ただ、抱きしめてやれば良かった。どんなに時間をかけても、どんなに忍が拒んでも、何度だって、こうやって抱きしめてやれば良かったんだ。
 深い後悔と共に、光流もまた涙をこらえきれないままに、ずっと忍を抱きしめ続けた。
 
 
「……つ……る……っ」
 自分でもどうして泣いているのか分からないまま、忍は光流の首に腕を回して、しがみつくように抱きついた。
 分からない。
 分からないけれど、どうしようもなく悲しくて。辛くて。苦しくて。
 とても一人じゃ、止められない。
 子供みたいだと、恥ずかしいと想う余裕すら無くて、ただ必死で縋りつく。そうしていなければ、バラバラに壊れてしまいそうだった。
 大丈夫。光流は受け止めてくれる。
 もう何も怖くない。
 光流がそばにいるから。しっかりと、抱きしめていてくれるから。
 だから、泣いていいんだ。
 今だけは、好きなだけ、泣いてもいいんだ。
 
「好きだよ、忍。ずっと……一緒に生きていこう」
 
 重なる手の平が、ただ温かくて、優しくて、切ない。
 
 今、心から想う。
 
 ───生まれてきて、良かった。
 
 
 
 とある日曜日。
 大学は休みなのに、朝からやけに綺麗に身支度を整える忍に、光流がきょとんとした顔つきで尋ねた。
「なに、どっか出かけんの?」
「昔付き合ってた恋人に、会ってくる」
 忍のその言葉に、途端に光流の表情が険しくなった。
「……なにソレ?なんかの冗談?」
 焦りを隠せない様子の光流に、しかし忍は不敵な笑みを向けた。
「妬くなよ、馬鹿。俺が愛してるのはおまえだけだ」
 怪しげな目で見つめられ、光流の顔が赤く染まる。
「ご、ごまかすんじゃねーよっ! 昔の恋人って誰だよ!?」
「兄の婚約者だった人だ。どうしても、伝えたいことがあるんだ」
 忍の真剣な表情に、光流はまだ少し納得いかないながらも、仕方ないように口を閉ざした。
「すぐ……帰ってこいよ」
 少し拗ねたように口をとがらせながら、光流は言った。
 忍が静かに微笑む。そして、光流の唇にそっと自分の唇を重ねた。
「帰ってきたら、満足させろよ?」
「……ったりめーだ。足腰たたなくしてやっからな」
 まだ膨れっ面を隠さない光流に、忍はもう一度軽く触れるだけのキスをして、光流に背を向けて玄関のドアを開いた。
 
 
 ずいぶんと久しぶりに会った、かつての恋人は、相変わらず冷たい眼差しをしていて。
「わかったわ」
 けれど、そう言った倫子の瞳は、確かにまだ兄のことを愛していた。
 そのことに酷く安心しながら、忍は倫子に「またね」と別れを告げた。
 きっともう二度と、会うことはないだろうと分かっていたけれど、できるならばずっと未来にでも構わない。兄と二人、幸福でいる姿を見たいと、心から想ったから。
 
 早くアパートに帰ろうと、少し急ぎ足で街中を歩きバスに乗り込み、座席に座った忍の目の前に、ふと大きなお腹をした女性が立った。
「良かったら、どうぞ」
「あ……ありがとうございます」
 少し辛そうにしていたその女性は、忍の言葉に嬉しそうに微笑んでペコリと頭を下げ、重そうな体を座席の上にそっと下ろした。
 そうして大きくなったお腹を、愛しむを込めた瞳でそっと手の平で撫でる。
 直後にバスが止まり、忍はバスから降りてまた歩き出した。
 
(いつか……)

 もし、光流を産んだ母親と会えることがあるのならと、想う。
 会って、伝えたい。
 たとえそれがどんな相手だったとしても、どんなに辛い現実が目の前にあったとしても、心から、伝えたい。
 
 
 産んでくれて、ありがとう。
 
 
 この世界に、光流がいる。
 光流がいるから、巡り合えた。

 
 それは紛れもない、奇跡なのだから。