鋼の男<後編>

 

「おはよーっす!」

約一週間ぶりの出勤。光流は元気いっぱいの笑顔を職場の仲間たちに向ける。

職場の連中はそれぞれに労いの言葉を光流にかけた。昔から、どこにいても人に囲まれる光流の様子を目前に、蓮川は小さく息をつく。実は大の注射嫌いだとみんなにバラしたら、どんな反応をするだろうか。そんな意地悪な思考が駆け巡ったが、後の報復が怖いのでやっぱりやめておこうと心で呟いた。

「蓮川、例の容疑者、どうなった?」

ふと声をかけられ、蓮川は慌ててデスクの上の書類に手を伸ばす。

例の容疑者とは、光流が病気で寝込む二週間ほど前に、殺人犯の容疑をかけられ所轄で捜査を依頼されていた四十代男性のことだ。蓮川はいまだ逮捕に至らない容疑者の名が書かれた書類を光流に手渡した。

「よっしゃ、今から張り込み行くぞ」

「……って光流先輩、自分の仕事はいいんですか?」

「自分の仕事のついでだ。俺の仕事なんて、そこら中に転がってっからな」

確かに、と蓮川は頷いた。街中に出れば、目的もなくうろうろしている奔放な若者などいくらでもいるし、少年犯罪などそこら中に転がっている。

二人はすぐに署を出る準備をした。

容疑者の自宅前で張り込みを続けるものの、結局その日はなんの収穫も得られず。

「腹へった~、なんか食ってくか」

「あ……そこにす○家ありますよ。入りますか」

「おー」

通りがかった牛丼屋の駐車場に車を止め、二人は店内に入っていく。

真夜中近くだけあって客数は少ない。店員の活気ない声に導かれ、テーブルの座席に腰をおろす。それぞれに牛丼並と大盛りと生卵を注文し、特に会話も無くひたすら牛丼を腹の中に収めていると、ふと二席向こうのテーブル宅から「きゃ」と小さな悲鳴があがった。

二人同時に声の方向に目を向けると、テーブル宅に座るいかにもガラの悪そうな若者三人が実に楽しげに笑っている。そして一人が店員である若い女性の尻をふざけ半分に制服の上から撫でた。

「やめて下さい……!」

「えー、誰も触ってねーじゃん。なあ?」

「なに勘違いしてんですかー?」

明らかに痴漢行為を働いたにも関わらず、若者達はそ知らぬフリをしてケラケラと笑い出す。女性店員の目に涙が浮かび上がった。

ガタン!と派手な音をたて、光流が椅子から立ち上がる。蓮川が即座に光流の腕を掴んだ。

「先輩……」

止めようとするが、光流は蓮川の手を振り払って、若者達の前に足を向けた。

「てめぇら、今、何しやがった?」

鋭い眼差しを向ける光流に、若者たちは顔をしかめた。

「あ? なんだよおっさん? カッコつけてんじゃねーよ」

金髪にピアスをした派手な格好の男が立ち上がって光流の胸倉を掴み上げる。

「や……やめろっ!」

慌てて蓮川が光流の元に駆け寄り、スーツのポケットから警察手帳を取り出す。

「今の行為、見てたぞ。すぐに署に連行する」

意思の強い眼差しで、蓮川は若者たちを見据える。しかし若者たちは少しも怯まなかった。

「だから何だよ? できるもんならやってみな! 連行したとこで、無罪放免だけどな」

金髪の男がにやけた笑顔を浮かべ、自信たっぷりに言った。

「どういうことだ?」
 蓮川が眉をしかめる。なんだ、この余裕は。普通なら相手が警察だと分かった時点でとうに逃げ出している。蓮川は額に汗を滲ませた。
「ちょうどいい、暴れてぇ気分なんだ。おまえら、加勢しろ」

あくまで余裕をかます男の威勢よい声と共に、男が光流に向けて拳を放った。しかし光流はさっと男の拳を避ける。よろめいた男が悔しげに舌打ちした。

「やるじゃねぇか、おっさん」

低い声と共に、男は再度拳を放った。今度は光流の頬にまともに直撃した。わずかによろめいた光流は、殴られた頬を押さえ、鋭い視線で男を見据える。

「お客様、やめて下さい……!!」

慌てた様子で店長らしき男性が飛び込んできた。「うるせぇ!」と仲間の一人がテーブルを蹴り付け、派手な音をたてて椅子が倒れる。光流は即座に目の前の男に拳を放った。もはや若者の暴走を止める手段は一つしかなかった。向かってくる男達に、光流は次々に拳を放つ。見掛け倒しの三人が床に倒れ込むのに、まるで時間はかからなかった。
「蓮川、連行すっぞ」

「……はい」

やれやれと、蓮川は若者の一人に手錠をかけた。


その翌日。

「……どういうことですか?」

眉をひそめる光流を前に、上司である警察署長はこめかみに汗を流しながら言葉を続けた。

「だから……君が昨夜殴り飛ばした少年、実は警視総監の息子でね。今すぐ息子に謝らないと、君を降格する言い張って……」

「そんな……! 光流先輩はああするより他になかったんですよ!?」

拳を震わせる光流の横で、蓮川が声を張り上げた。

「いや、わかってる、わかってるよ僕だって。でも……相手が相手だけに……ねぇ?」

いかにも気の弱そうな年配の署長は、酷く申し訳なさそうに遠慮がちに言うが、光流の硬い表情は変わらない。

「例えどこに飛ばされようと、俺は絶対に謝りません」

光流は低い声でそう言い放つと、署長に背を向けた。

署内のムードが一気に暗くなる。誰もが納得いかないのは当然のことだった。

「池田……今回は頭を下げろ」

一番に声をあげたのは、光流が刑事になりたての頃から何かと世話になっていた年配の捜査課刑事、間宮栄介だった。

「……嫌です」

「池田」

「どうして俺が謝らなきゃならないんスか」

頑なな光流の態度に、間宮は仕方ないように頭を抱える。

「池田……世の中には、ままならねぇこともあるんだよ。今おまえにいなくなられると、俺らが困るんだ」

誰もがみな、間宮の意見に同意するように光流を見つめた。

こんなことで、おまえを失うわけにはいかない。その想いは、蓮川とて一緒だった。

「先輩、一緒に謝りに行きましょう」

やや迷った末、思い直したように蓮川が言った。

しかし。

「……先輩!!」
 みなに背を向けその場から足を踏み出した光流に、蓮川は呼び止めるように声をかけたが、光流は振り返りもせずに署を出て行ってしまった。

苦悩に満ちた表情で、蓮川は握った拳を握り締める。

納得いかないのは、みんな同じ想いだ。けれど間宮の言うように、こんなくだらないことで光流がいわれの無い処罰を受けるなど、もっと納得がいかない。

「蓮川……おまえが説得しろ。あいつを失いたくねぇだろ?」

「……はい」

間宮の声に、蓮川は暗い声で同意し、頷いた。



「お願いですから、今回だけ頭を下げて下さい」

翌日、例の容疑者の自宅前で車を止め、張り込みを続けている最中、蓮川はもう何度目になるかわからない言葉を光流に向けた。

「いいかげんしつけぇよ、俺は絶対に謝らねぇ。どこに飛ばされようが例えクビになろうが、答えは一緒だ。もう諦めろ」

「……嫌です」

光流の言葉に、蓮川は真剣な表情で肩を震わせる。光流は小さく息をついた。

「蓮川……」

「先輩は勝手です!!」

仕方ないような表情ばかりを向ける光流に、蓮川は声を荒げた。

「そうやっていつも一人で背負い込んで……みんなの気持ち、考えたことありますか!? 光流先輩はそれで良くても、俺達は納得できません!!!」

悔しげに声をあげる蓮川に、光流はあくまで冷静な目を向ける。

「大げさなんだよ、おまえは。俺なんかいなくなったとこで、何も変わりゃしねぇよ。寂しいのは最初だけだ、そのうちみんな慣れる」

「それ……本気で言ってるんですか?」

「だから、そうムキになるなって。俺はどこに行こうが構わねぇよ。自分の気持ちに嘘つくくらいならな」

どこか遠い目をして、光流は言った。

その言葉に言い返す術もなく、蓮川は口を閉ざす。

握った拳が小さく震えるのを抑えられないままに。


もう、どうすることも出来ないのだろうか。

だが考えても考えても、他に答えは出てこない。相手は警視総監。こちらは所轄の若手刑事。どう足掻いたところで勝てるはずがない。無茶をすれば他の仲間達にも被害がいくかもしれないことを思えば、仕方が無いと諦めるより他はない。それに自分にも間宮にも、守るべき家族がいる。守るためには、どんなに辛くても堪えなければならない現実がある。

「すかちゃん、疲れてるね~」

「話は聞いてるぞ。おまえも苦労するな」

がっくりと肩を落とし凄まじく重い空気を纏う蓮川に、忍と瞬は心底同情めいた視線を向けた。

突然、蓮川はガン!と喫茶店のテーブルを叩き、震える声を発した。

「なんであんなに頑固なんだ……っ」

悔しさばかりを露に、蓮川は言葉を続ける。

「世の中どれほど理不尽だって、たとえ120%自分が悪くなくたって、堪えて頭を下げなきゃならないことなんて山ほどあるでしょう!? そう思いませんか忍先輩!?」

真剣な蓮川に、しかし忍と瞬は何故か驚いたような目を向ける。

「すかちゃん……なんて大人になって……!」

やたらと感動した様子で、瞬ががしっと蓮川の手を握り締めた。

「とても人前で歌を歌わされたくらいで人を思いっきり殴り飛ばした奴の台詞とは思えんな」

忍もまた感心したように頷くが、自分が悪いくせに殴られた仕返しに呪いをかけた人間の言う台詞でもないことには気づいていないようだ。

が、蓮川にとってはそんな過去の話はどうでも良いことだ。またしてもバン!と派手にテーブルを叩き、忍に真剣な眼差しを向けた。

「忍先輩! 頼むから光流先輩を説得して下さい!!」

「無駄だ」

あまりにも容赦なくはっきりきっぱり出た忍の言葉に、蓮川は絶句した。

「諦めろ蓮川、あいつは一度決めた事は、たとえ死んでも覆さない」

実に冷静に言い放つ忍に、蓮川はがくっと肩を落とす。

もう無理だ。心底そう思った。二十年以上を共に過ごしている唯一無二の親友(と蓮川は思っている)にこう言われてしまっては、もはや何も言い返す言葉は何も出てこない。

「本当に……諦めるしかないんでしょうか……」

うつむきながら力なく言う蓮川を前に、忍と瞬が顔を見合わせる。

「らしくないよ、すかちゃん」

数秒後、瞬が穏やかな声を発した。蓮川がそっと顔をあげる。

「諦めないのが、おまえ達だろう?」

忍もまた、静かな声を発する。

しばらくの間の後、蓮川は小さく頷いた。意志の強い眼差しを二人に向けて。


コタツのテーブルの上に小さく音をたててビールの缶を置き、いつになく神妙な面持ちをする光流の前に、忍は薄く切ったハムとチーズの並んだ皿を置いた。

「ああ……サンキュ」

光流が顔をあげ、力ない笑顔を浮かべる。

忍はその傍らに腰を降ろした。

しばらくの沈黙の後、光流がぽつりと口を開いた。

「とんでもねーとこに飛ばされねぇといいけどな」

「いいんじゃないか、一度は北の果てで暮らしたりするのも悪くない」

穏やかな忍の声。光流はうつむき、やや苦しげに声を発した。

「……ごめん、忍」

迷惑ばかりかけるとわかっていても、どうしても、自分の意思を、信念を、翻すことが出来ない。我ながら、あまりにも身勝手だ。自己嫌悪ばかりを抱えながら光流は言った。

そんな光流の肩にそっと手を伸ばし、忍はそのまま光流の肩を抱き寄せる。光流が切なげに瞳を伏せた。

「ごめん……」

「もう謝るな」

どこにだって、一緒について行く。

そう瞳で訴えかけ、忍は光流の唇に、そっと自分の唇を重ねた。

優しい口付けを交わしながら、光流は忍の身体を抱き寄せた。腕にこもる力は強い。頼むから離さないでくれ。そう何度も心の中で叫んだ。

心がバラバラに切り裂かれるような痛みばかりを抱えながら。



その翌日、いつまでたっても頭を下げに来ない光流に業を煮やした警視総監が息子を連れ、直々に所轄まで足を踏み入れてきた。

実に偉そうに踏ん反り返って客用のソファーに座る親子が待つ応接室を気にしながら、署内の刑事達はみな同じ想いで光流と署長に目を向ける。

「池田君、頼むから謝ってくれないか?」

「……今までお世話になりました」

何度も説得にかかる署長を前に、しかし光流は少しも耳を傾けず、自分のデスクの上を片付け始める。

「池田、いいかげんにしろ」

間宮が怒り半分に声を荒げ、光流の元に歩み寄った。

「何度も言わすな! 世の中にはままならねぇこともあるんだ!!」

声を荒げる間宮に、しかし光流は揺るぎの無い瞳を向けた。
「すみません。俺の気持ちは変わりません」

きっぱりとそう言い切った光流に、間宮は一瞬苦悩の表情を浮かべ、それから諦めたように肩の力を抜いて息を吐き出した。

「……ったく、馬鹿な奴だよ、てめぇは」

「……はい」

二人同時に悲しげに目を伏せる。みなもそれぞれに最悪な想いで目を伏せた。

署内の空気が酷く重い中、突然、蓮川が勢い良く椅子から立ち上がった。

驚く連中をよそに、蓮川は応接室に足を急がせる。光流と間宮が慌てて後を追いかけた。



「申し訳ありませんでした!!!」

相変わらずソファーの上に踏ん反り返る親子を前に、蓮川は床に膝をつき、深々と頭を下げた。

「最初に手を出したのは自分です! 処分なら自分にお願いします!!!」

土下座しながら声を大きくする蓮川を、親子はまるで虫けらでも見るような目つきで上から見下す。

「蓮川! やめろ!!」

咄嗟に光流が応接室に足を踏み入れ、土下座する蓮川の肩を掴み立ち上がらせようとする。けれど蓮川は頑として姿勢を動かさなかった。

止めようとする光流の手を強い力で跳ね除け、再度床に両手をつく。

「お願いします!!!!」

親子は変わらず蓮川に蔑んだ視線を向ける。けれど蓮川は屈辱など微塵も感じていない様子で頭を下げ続けた。

光流が握り締めた拳を震わせる。苦悩に歪む表情で、床に這い蹲る蓮川を見つめた。

長いような短いような間の後、光流が意を決したように拳を握り締める。それから、ゆっくりと蓮川の隣に膝をついた。

頭を下げたままの蓮川の視線が、隣で座る光流に向けられる。ハッと目を見開いた瞬間。

「……申し訳ありませんでした」

蓮川と同じように頭を下げ、光流が低い声で言い放った。

長い沈黙の後、親子がソファーの上から立ち上がる。

「次から気をつけたまえ」

踏ん反り返ってそう言うと、親子は応接室から出て行き、署長に頭を下げられながら姿を消した。

刑事達が悲痛な想いで見守る中、光流が先に立ち上がる。そして無言のまま、その場から歩き出した。

「せんぱ……」

蓮川もまた立ち上がり、光流の後を追う。

「蓮川」

ふと、間宮が口を開いた。蓮川が振り返る。

「よくやった」

笑顔と共に発せられた間宮の言葉に、蓮川はどこか照れ臭そうに頬を染め、それからすぐに光流の後を追った。


「先輩……!!」

署内を出てすぐに、蓮川の声を背後に光流がピタリと足を止める。

しかし振り返らない光流に、蓮川はどう声をかけて良いのかわからないままその場に立ち尽くした。

ふと、蓮川が気づいた。背を向けたままの光流の肩が、小さく震えていることに。

「あの……ありがとう……ございました」

言うべきことが間違っているだろうかと思いながらも、言わずにはいられなかった。

光流の後姿が、まるで小さな子供のように、あまりにも小さくて、あまりにも悔しそうで。今、泣き出したいのを精一杯堪えているんだ。一体どれほどの想いで自分のために頭を下げてくれたのだろう。そう思ったら、今すぐ抱きしめたいような衝動にかられたけれど。


「もう……二度と同じ真似はしねぇからな……!」

震える声で、めいっぱい強がりながら、そんなことを言うから。


「……はい」

ただ、頷くことしか出来なかった。

「行くぞ蓮川、仕事だ!!」

「はい!!」

そのまま歩を進める光流に、蓮川は勢いよく返事をして後に続いた。

(まったく、この人は……)

心の中で小さくため息をつきながら、蓮川は思う。


 我儘で自己中で、どうしようもなく頑固で潔癖で融通が効かなくて。

そして……誰よりも、強くて優しい人。

ずっと、守って行こう。


 この人がいるから、この醜い世界の中でも、ずっと、信じていける。


「先輩! 待ってくださいよっ! 光流先輩っ!!」


 
 愛は、何より強いんだって。