first love<前編>


 先月、ついに三十歳の大台にのってしまった。
 このところ、時間がどんどん加速していく気がしている。
 とはいえ僕の人生は順風満帆で、今のところ特に悩みも不安もなく、それなりに充実した毎日。
「如月先生、今度のお休み、空いてませんか?」
 最近入ってきたばかりの新人看護婦に声をかけられ、僕は振り向いてにっこり微笑んだ。
「暇すぎてどうしようか悩んでたとこ」
 嬉しそうに顔を赤らめる、まだ二十代前半の可愛らしい新人さん。
 この通り、女にも不自由しない理由は、やっぱりお医者さんという職業のせいか、それとも僕個人の魅力によるものなのか。
 如月瞬。三十歳。総合病院、勤務医。
 人生は、上々。
 
 
 その日は、別の科の看護婦と夜遅くまでイケナイ事(しかも院内)をして、帰宅時間が少し遅れた。
 いいかげん帰らなきゃと思って、病院を出ようとしたその時だった。
「如月先生! 急患なんですけど、田辺先生に連絡つかなくて!! ちょっとよろしいですか!?」
 いきなり外科の看護婦長に呼び止められ、かなり強引に救急病棟に連れていかれる。
「あの……僕、眼科医なんですけど?」
「以前、外科に勤務してらしたと聞きましたよ! お願いします、一刻を争うんです!!」
「はあ……」
 凄いなあ、ナースの情報網って。僕が外科から眼科に転科したのなんてだいぶ以前のことだし、この病院の誰にも言ってないのに。
 けれど腐っても医師、急患を放っておくわけにはいかない。
「で、患者の状態は?」
「腹部をナイフで刺されています。病院近くで倒れていたのを、発見者がここまで連れてきてくれたようです」
「物騒な世の中だなあ。通り魔?」
「呑気なこと言ってないで、急いで下さい!!」
 キツい口調で言われて、僕は足を急いだ。
 これだから年配のナースは……。新人さんが可愛く見えるのも当然だ。
 なんて、彼女の言うとおり、呑気なこと思ってる場合ではなく。
 白衣を着て手を洗い、患者が運ばれている急患室に急ぐと、既に救急処置は施されており、患者はベッドの上に横たわっている。
 僕はその患者の元に歩み寄り、出血多量で死亡寸前の蒼白な顔を見た途端、愕然とした。
「忍……先輩……!?」
 その患者は、確かに僕のよく知る人物だったのだ。
 
 
 必死の処置で一命はとりとめたものの、かなり危険な状態だった。
 患者は、麻酔が効いてまだよく眠っている。
 僕はその患者が横たわるベッドの傍らに座り、小さく息をついた。
(どうして……?)
 思うのは、ただそればかりだ。
 腹部をナイフで刺され、倒れていたところを発見者に助けられ搬送されるなんて、どう考えても尋常な患者ではない。本来ならすぐにでも警察に連絡するところだけれど、知り合いだから通報は待ってくれと頼んだのは僕だ。警察沙汰にするには、彼が目を覚まして事情を聞いてからの方が良いと判断したからだ。
(細い……な)
 点滴の針が刺さった細い腕を見て、ただ痛々しさばかりを感じた。
 彼は、僕の高校時代の、一つ年上の先輩。名前は手塚忍。
 けれど僕が知る限り、どう考えてもこんな事件に巻き込まれるような人ではない。
 最後に会ったのは、もう何年前になるだろうか。確か……高校時代の親友の、結婚式の時以来……だろうか。もう四、五年前も前の話だ。あの時は、高校時代と何ら変わることなく元気で、最年少で司法試験に合格し、弁護士として前途多望な未来を歩んでいたはずだった。
 それからは互いに仕事で忙しくて、高校時代の仲間とはいつの間にか滅多に会うこともなく、現在に至っている。
 でもそういえば、風の噂で忍先輩は外国に移住したって、聞いたことがあるような……。連絡一つよこしてくれないなんて薄情だなぁと思いながらも、僕もその当時は仕事にいっぱいいっぱいで敢えて追求しようともしなかったのだけれど、まさか今頃になってこんな形で再会するなんて……。
「……ん……」
 不意に長い指先がピクリと動いて、忍先輩の瞳がゆっくりと開かれた。
 まだ覚醒しきっていない瞳が、ぼんやりと天井を見上げ、それからその視線が僕の方に向けられた。
「久しぶりだね、忍先輩」
 出来る限り好意的な笑顔でもって、僕は彼を見つめ、そう言った。
 一瞬、彼の目が大きく見開かれた。
 
 
 忍先輩の怪我は重傷だったけれど、幸いリハビリさえすれば後遺症が残ることはほとんどない程度で、あとはただひたすら回復するのを待つだけだった。
 僕は毎日のように、仕事の合間を縫って、彼の元へ走った。
「先輩」
 僕たっての希望で移してもらった個室のドアを開くと、まだ起き上がることしか出来ない忍先輩は、静かに眺めていた窓の外から僕に視線を移した。
「少しは食欲出てきた?」
「ああ……」
 そう言って頷くけれど、ほとんど食べていないのは確かだ。
 点滴だけで命を繋いでいるような、白く細い腕がそれを証明している。
「そろそろ……話してくれない? いったい、何があったの……?」
 ある程度傷が癒えるまではと思って、僕はこれまでの経緯を、少しも尋ねてはこなかった。けれどいい加減、身元不明なまま入院させておくわけにもいかない。
「二年くらい前に、外国に移住したっていう話を風の噂で聞いたけど、いつ日本に戻ってきたの?」
「半年前に……帰ってきた」
 忍先輩は目を伏せたまま、低い声を発する。
「それで、今はどこに住んでるの?」
「特に、決まってない。適当に、知り合いのところに……」
「実家には帰れないの?」
「とっくに勘当された身だからな」
 少し嘲笑するかのように小さく微笑む忍先輩は、やっぱり僕の知る昔の彼とは全くの別人のようで、僕はただ胸の内に痛みを感じた。
「でもまさかおまえに助けられるとは思ってなかったよ。いろいろ、すまなかったな」
「医者だし、患者を助けるのは当たり前だよ。……っていっても、偶然だけどね。僕、眼科医だし」
「ずいぶんマイナー科に進んだんだな」
「だって外科医だの内科医だのって、重労働すぎて割に合わないんだもん。マイナー科でのんびり過ごしたいよ」
「おまえらしいな」
 クスリと忍先輩が微笑む。
「うん、あと五、六年したら開業医になろうと思ってるよ。忍先輩は、弁護士続けてるんじゃないの?」
「ああ……怪我が治ったら、どこかの法律事務所に雇ってもらうつもりだ」
「そっか……。それなら、良かった」
 僕も微笑んで言った。
 それから少しの沈黙があって、僕が先に口を開いた。
「もし良かったら、完全に怪我が治るまで、僕のところに来ない?」
 僕がそう申し出ると、忍先輩は少し意外そうな顔をして僕を見た。
「治るまでまだ当分かかるだろうし、完治するまでずっと入院っていうのも、不便でしょ? 僕、都内のマンションで一人暮らしだし、部屋も余ってるから、遠慮しないでいいよ」
 何故だろう、迷うことなく、僕は彼を受け入れようとしていた。
 忍先輩は少し迷ったように沈黙して、それから、「悪いな」と小さく言った。
 僕は笑顔で、「いいよ」って応えた。
 
 
 高校時代。
 僕の目に、彼はいつも絶対的に叶わない強者であると共に、尊敬して憧れて止まない存在だった。
 都内の名門校で常に学年一位の成績を維持しながら生徒会長を務めていた彼は、いつでも冷静沈着で無敵で、弱みなど一つも見せたことのない、神様のように完璧に近い人間だった。同時に、人の弱みを握っては脅しをかけたり悪巧みばかり繰り返していたりと、校内でも寮内でも最高に恐れられていた、悪魔のような人でもあった。
 そんな、とても同じ人間とは思えないような人だったけれど、僕は彼のことが大好きだった。
 当時、同室だった親友すかちゃんのことはよく苛めていたけれど、少なくとも僕にはいつも優しかったと思うし、彼の自信に溢れる姿も、人の上に立てる器量も、人付き合いの要領の良さも、全てが今の僕のお手本となっていることも確かで、彼から学んだことはとても多かったように思う。
 それなのに……。

「大丈夫? 忍先輩」
 予定より少し早めに退院させて、僕は忍先輩を、今住んでいるマンションに招きいれた。
 2LDKの広めのマンションを借りておいて、良かった。まさかこんな形で役にたつとは思っていなかったけれど。
「着替え、手伝おうか?」
 ベッドの上に忍先輩を座らせて、僕は尋ねた。
「いや……大丈夫だ」
 おそらくまだ相当痛むだろうに、忍先輩は苦痛のくの字も見せない。そういうところは、まるで変わってないなと思う。
 けれどまだ指先の震えも残っていて、パジャマのボタンをはめるのすら苦労しているのに、少しも頼ってこようとはしない忍先輩に何だか寂しさのようなものを覚え、僕はそっと忍先輩のパジャマのボタンに手を伸ばした。
「瞬……」
 ボタンをかけてあげる僕に、忍先輩が低く囁いた。
「なに?」
「俺なら、床の上で構わないぞ。すぐに出て行くから……」
 その言葉に、僕は小さくため息をつく。
「あのねえ、なに水臭いこと言ってるの? 知らない仲じゃあるまいし。だいいち迷惑なら、最初から面倒見たりしないから! そう出来ない理由があるから、ここにいてもらってるの! だからもう、変な遠慮しない! 分かった?!」
 ちょっとばかり強気な口調でそう言うと、忍先輩は少し物怖じしたように、顔を俯けさせた。
「ああ……すまない」
 あれ、なんかちょっと素直。
 もう少し噛み付いてくるものかと思ったけど、意外かもしれない。
 それともそれだけ、弱ってるのかな……。
「で……刺された理由は? そろそろ教えてくれてもいいんじゃない?」
 卑怯かもとは思ったけれど、今なら応えてくれそうな気がして、僕は思い切って尋ねてみた。ずっと聞くに聞けなかったけれど、やっぱり今の事情や理由も知らずに面倒見るわけにもいかないし。
「油断……しただけだ」
 少し躊躇しながらも、忍先輩は口を開いた。
「油断……?」
「いつもなら避けられたんだけどな」
「いつもって……いつも、刺されるような危機にあってたわけ? 忍先輩、いったい何やってたの!?」
 いったいどうしたら、刺されるのが日常茶飯事みたいな生活を送れるのか、僕にはさっぱり理解できないぞ。
「何もしてない。ただの逆恨みだ。付き合って別れることくらい、おまえだってあるだろう?」
「つまり、痴情のもつれってやつ?」
「まあ……そんなとこだ」
「だったら付き合って別れることくらいあるけど、刺されるほどこじれることなんて、よっぽどの事がない限りありません!!」
 いったいどんな付き合い方したら、相手をそこまで逆上させられるというのか。
 それを当たり前みたいに言っちゃうこの人って……やっぱりどこか、一本切れてる。まあ、昔から女遊びは盛んだったようだから、痴情のもつれなんて不思議じゃない。でも高校時代には上手に立ち回ってたはずなのに、何で今になってそんな厄介な付き合い方を……。
 そこまで思って、ふと僕は、ある事を思い出した。
「もう……やめなよ、そういうこと。自分痛めつけたって、なんも良い事ないじゃん」
「……」
「おやすみなさい、忍先輩。明日は仕事休みだから、リハビリに散歩でも行こうね」
 最後のパジャマのボタンをとめて、僕は忍先輩の体をベッドの上に横たえた。
「髪……切ったんだな」
「え?」
「ずいぶん変わったから、一瞬、分からなかった。おまえだって」
「ああ……髪。やっぱり、邪魔だしね、仕事に」
 高校時代は腰まで長かった髪だけど、切ってみて、こんなに楽ならもっと早くに切れば良かったと後悔した。
 あの頃の自分って、ホントなんも考えてなかったと思う。女に間違われることも、たいして何とも思ってなかったし。実際、何度か男に襲われかけたけど、それすら面白がってたもんなぁ。あれも若さゆえの過ちってヤツなんだろうか。無理やり強姦されなかっただけラッキーだったと、つくづく思う。
「おかげで今は、女に間違われることはないよ。むしろ女にモテモテだし?」
 高校最後の一年間で、身長もバキバキ伸びたし、それなりに体力作りもしてる。
 だから、今、目の前にいる忍先輩を抱き上げることだって可能だ。
「先輩は……ちっとも変わらないね。すぐに分かったよ」
 あの頃と同じままの、短いサラサラの髪。切れ長の瞳。白い肌。体つき。
 でも、外見以外は、きっと凄く、変わった。
 けれど、それは言葉に出してはいけないような気がした。
「……変わったよ」
 僕の言葉を否定するように、忍先輩は言った。
 やっぱり、変わったんだね。
 言えない言葉を飲み込んで、僕は忍先輩の体にそっと布団をかけた。
「おやすみなさい、先輩」
 そっと閉じられる、長い睫。
 なぜかトクンと心臓の鼓動が高鳴って、僕は一瞬戸惑った。
 細すぎる腕が、あまりに痛々しいせいだろうか。
 そう、痛々しいんだ。
 何もかもが。
 あの頃、あんなに強くて無敵で、僕の目に神様のように映った人なのに。
(いないから……?)
 尋ねたいけれど、どうしても、尋ねることはできなかった。
(あの人が……いないから?)
 いつも必ず彼の隣にいたあの人が、なぜ今、ここにいないのだろう。
 全ての理由がそこにあるのだと、もうとっくに分かっていたのに、分かりたくないような気がして、僕はただ、彼の寝顔を見つめていた。
 
 
 いつからか、僕はごく自然に、理解していた。
 僕が高校に入学した時から、二人はいつも必ず一緒だった。
 同じ寮に住み、同じ学校に通い、朝から晩まで行動を共にして、笑ったり怒ったり泣いたり、時にトラブルに巻き込まれ紛争したり、そんな風にいつも一緒に過ごしていたあの懐かしい日々。
 特に同室の同級生とは、自然と家族のように親しくなっていき、気がつけばかけがえのない親友になっていく。
 僕の隣に住んでいた先輩達は、その中でもとりわけ、強い信頼と絆で結ばれていた親友同志だった。
 けれど、いつだったろう、その関係がただの「親友」ではないことに気づいたのは。たぶん、もう先輩達が卒業していった後のことだったと思う。
 高校を卒業して寮を去っても、二人は同じ大学に通いながら、都内のアパートで同居暮らしをしていた。大学時代はそんな先輩達のアパートにマメに通い、寮時代と同じようにふざけたり騒いだりして、飲み明かしてばかりいた夜。
 もちろんその時も、二人は寮時代となんら変わりなかったし、いつものようにすかちゃんを苛めて遊んでばかりいた。
 なのに、僕は気づいたんだ。
 ごく普通に、何の嫌悪感も抱かず。
 ああ、二人は、愛し合っているんだな、って……、
 だってそれは、あまりに当たり前のように思えたから。
 それくらい、もう僕にとっても、おそらくすかちゃんにとっても、二人が一緒にいることが自然すぎて、むしろ離れることの方が考えられなくて。
 だから今、こんなにハッキリと理解できるんだ。
 忍先輩が、こんな風に自暴自棄になっている理由。
 まるで別人みたいに、弱くて痛々しくて、とてもじゃないけど放ってなんかおけない。
(こんなに……)
 どうしてだろう、切ない。
(こんなに……弱い人、だったんだ……)
 ただ、あの人がそばにいないという、それだけで。
 だけど、それでも、あの頃と変わらず、僕はこの人を好きだと思う。
 だからもう一度、見せて欲しい。
 何も怖いものなどなかった青春時代に共に笑いあった日々の、あの笑顔を。
 
 
「忍先輩、あ~ん」
「……もう自分で食べられる」
「食べないからやってるんじゃん」
 リゾットを乗せたスプーン片手に、僕は忍先輩を睨みつけた。
 ようやく立って歩けるくらいにまでは回復したものの、相変わらず物をほとんど食べようとしない先輩は、いったいなんで生きているのか不思議なくらいだ。
 まあもともと化け物じみた体質の人ではあったけれど、人間であることに違いはないのだから、いいかげん食事くらいちゃんとしてくれないと困る。
「ちゃんと食べないなら、無理やりでも食べさせるよ?」
「出来るものならやってみろ」
「あ、そーいう挑戦的な態度とる? 命の恩人にむかって」
 僕が言うと、忍先輩はちょっと悔しそうな顔をして、僕を睨みつけた。
 なんて、もちろん恩を売る気なんて微塵もないけど。ムキになるなんて、しっかり恩は感じちゃってるわけだ。
「分かったら、食べる! これ全部食べるまで、見張ってるからね!」
 きっちり言い聞かせると、忍先輩は渋々ながらもスプーンを手に持って、ようやくリゾットを口の中に運んだ。
「昔はすかちゃんのオカズ、しょっちゅう奪ってたクセに」
「……蓮川は、元気か?」
「しばらく連絡とってないなぁ。ちょっと前に、刑事課に移動になったとは聞いたけど。もしかしたら光……」
 僕は咄嗟に口を閉じた。
 言葉にしてはいけない気がしたその名前を、うっかり口に出しそうになったからだ。
「光流と、一緒のところかもしれない?」
 そんな僕の気持ちを察したのか、忍先輩が先にその名前を口にして、僕は驚きを隠せなかった。
「……光流先輩とは……別れたんだよ、ね」
「いつから知ってた?」
「さあ……大学時代に、なんとなく」
「そうか……」
 少しの沈黙。僕は迷ったあげく、尋ねた。
「でも、どうして……?」
「俺といても、良いことないだろ?」
 笑みさえ浮かべて、忍先輩は言った。
 変わらない冷静な表情。
 それで理解した。きっと別れを告げたのは、忍先輩の方からだろうと。
 そしてそれは、たぶん間違いなく、光流先輩のためで……。
 そう思ったら、突然、酷く深い悲しみに襲われて、気がついたら僕は忍先輩の体を強く抱きしめていた。
「そんなことない」
 お願いだから、そんな悲しいこと、言わないでよ。
「そんなことないよ……」
 僕は、ちゃんと、知ってるよ。
 二人がどんなに深く愛し合って、信頼し合って、結ばれていたのか。
 だから、もし今の別れがそれ故の決断だとしたら、あまりにも悲しすぎて、辛くて、切ない。
 思わず涙が目に滲んだその時、玄関からチャイムの音が鳴り響いた。
「誰……だろ」
 僕はそっと忍先輩から離れて、玄関にむかう。
 この家に訪問者が訪れるのは珍しかった。
 基本的に、僕は自分と家族以外、この家に人を入れることはなかった。
「はい」
 ゆっくりドアを開くと、そこには見知らぬ一人の男が立っていた。
 長身で、軽くウェーブのかかった黒髪に、よく整った顔立ちをしているけれど嫌な目つきをした同年代くらいの男。
「忍、いるか?」
「誰だ」
 僕は咄嗟に、その男に睨みをきかせた。
 けれど男は僕には目もくれずに、不躾に靴のまま部屋の中へあがりこんでいく。そのまま奥の寝室のドアを開くと、ベッドの上にいた忍先輩に早足で歩み寄り、いきなり忍先輩の頬を殴りつけた。
「今度はこの男か? どこまで俺をコケにしたら気が済むんだ?」
 男は忍先輩の髪の毛を掴むと、ドスの効いた声でそう囁いた。
 しかし忍先輩は、怯まずその男を見据えて、不遜な笑みを浮かべる。
「刑務所に送られたくないなら、今すぐ俺の前から消えろ」
 その言葉で、目の前のこの男が忍先輩を刺した当人だということをすぐに理解した。
「ふざけんな。おまえは一生、俺のもんだ」
「貴様にくれてやるものなど、何一つない」 
 忍先輩の言葉に、男は逆上した様子で忍先輩の胸倉を掴み上げると、乱暴に唇同士を重ねた。
 ドクン、と僕の心臓の音が跳ね上がって、気がつくと僕はその男に掴みかかっていた。
「今……警察を呼んだ!! すぐに出て行け……っ!!!」
 携帯電話片手に、僕は叫んだ。
 男はさすがに怯んだ様子で忍先輩に一瞥をくれると、逃げるようにこの場から去っていった。
 僕は携帯電話を床に落とした。もちろん警察なんて呼んでいない。
 こんな手段でしか男を追い払えない自分が酷く小さく感じて、悔しさと悲しさが胸の内に入り混じるのを感じながら、僕は忍先輩に歩み寄った。
「バカ……だね、忍先輩」
 乱れたシャツを調えてやりながら、僕はそう囁いた。
「せめてもうちょっと、マシな相手選びなよ」
 それとも、顔だけで選んだのかな。
 少し、似てたね。
 光流先輩に。
 でも、あれは光流先輩じゃないよ。
 光流先輩じゃ……。
「分かってる……」
 忍先輩が応える。
 分かってるのに、どうして……。
 どうして……!!
「どうかしてるよ!!」
「何でおまえが……泣くんだ」
「どうかしてる……!」
 辛くて悲しくて悔しくて、どうしようもなくて、僕は強く忍先輩を抱きしめた。
 きっと、忍先輩と同じように、僕も、どうかしている。
 だって、こんな……。
 こんなに……離したくない、なんて。
 ずっとずっと、ここにいてほしい、なんて。
「しゅ……」
 彼が僕の名前を呼ぶよりも先に、僕は彼の唇に自分の唇を重ねた。
 後から後から流れてくる涙が止まらなくて。
 ただ強く抱きしめて、キスをすることしか出来ない僕を、彼はただ黙って受け入れた。
 そうしてずっと長いこと、僕たちは抱き合っていた。
 泣いていたのは、僕だけだった。
 
 
 もともと仕事はやる気満々でもなかったけれど。このところ、更にやる気のない僕に、いいかげんナース達も呆れ気味。おかげで言い寄ってくる女が少なくなって、気楽だけどね。
 それより早く、家に帰りたい。
 帰って、あの人に会いたい。
「ただいまっ」
 玄関の扉を開けるのももどかしい勢いで家の中に入ると、いい匂いが漂ってきて、台所に愛しい人の姿が立っていた。
「おかえり。飯、まだだろ?」
「え……作ってくれたの?!」
「いいかげん、タダで居候させてもらうわけにもいかないからな」
「でも体、辛くない?大丈夫?」
「もう普通に動ける」
「うわ……すごい嬉しい!! ありがと先輩!!」
 まさか先輩の手料理が食べれるなんて。感激のあまり、僕は背後から忍先輩の体を抱きしめた。
「なんか新婚さんみたいで良いね、こういうのって」
「俺はおまえに囲われるつもりはないぞ」
「分かってるって。これから仕事探すつもりでしょ? でも、家は探さないでね」
「……瞬、俺は……」
「黙って」
 僕は先輩の顎に手をあて自分の方に振り向かせると、その唇にそっとキスをした。
「お腹すいたっ、早く食べよっ?」
 でも悲しいかな、そこから先には進めない、ちょっとヘタレな僕。
 だって男同士ってどうすればいいか分からないし。
 もうちょっと勉強してからでないと……ね。
 
 
 見つめているだけで胸がドキドキして、鼓動が止まらなくて、息苦しくなるほど切なくなる。
 僕は三十歳にして、初めて本当の恋というものを知った。
 けれど相手は、高校時代の先輩で、しかも……男。
 人生って、何が起こるか全く分かりやしない。
 この年で初恋で、相手が男って、もうホントどうして良いか分からない。キスは勢いでしちゃったものの、そこから先がどうしても進めなくて、悶々とする日々。せっかく一緒に暮らしてるのに、何やってんだ、僕は。
 高三の時に童貞捨てた時だって割と平静だったのに、キスだけで有頂天って……我ながら恥ずかしすぎるぞ。
「明日、映画でも見に行かない? たまには気分転換しないと」
「ああ……そうだな」
 忍先輩は、いったいどう思っているのだろう。僕のことを。
 キスは受け入れてくれるし、この家からも出て行かないってことは、ちょっとは期待してもいいのかな?
 悪戯心にかられて、僕は忍先輩の項にそっと唇を寄せた。先輩の体が小さく震えた。
「ここ、弱いんだ?」
 そのまま背後から抱きすくめ、右手をそっと握り締める。
「手は、同じくらいだね、大きさ」
 背はやっぱりちょっと負けてるけどね。
 そう言ったら、忍先輩はクスリと笑った。
「昔は見下ろしてたのにな」
「そっか、だからあんまり見えなかったんだ」
「? 何が?」
「ココ」
 もう一度、項に口付ける。
「やめ……っ」
 くすぐったそうに、忍先輩は迷惑がる。
 ヤバい、ぞくぞくする。
 この人、こんな色っぽい人だったっけ?
 それともこれが、恋心の成せるわざってやつ?
 それになんか、凄く可愛いし。先輩の仕草の一つ一つが、可愛くて愛しくてたまらない。
 いっそこのまま最後まで……。
「風呂、入ってくる」
 けれど想い人はつれなくそう言うと、バスルームにむかって行こうとする。
「洗ってあげよーか?」
「いらん」
 ちょっとからかうと、ふざけるなって睨みつけてくるその瞳すら、愛しいと思う。
 ずっと、ここにいてよ、忍先輩。
 深い傷があるなら、ここでゆっくり癒せばいい。
 僕はいつまでも、ずっと待つし、ずっとそばにいるから。