first love<後編>
映画なんか、見に行かなければ良かった。 後に深く後悔することになったその日のことを、僕は一生忘れないだろう。
「本当は産婦人科医になろうと思ったんだけどねー」
「なんで産婦人科?」
「なんとなく、面白そうじゃない?」
「意味がわからん」
その日は日曜日で仕事は休み。
ずっと家の中ではあまりに退屈だろうと思い、一緒に映画を見た後に喫茶店で他愛の無い会話をしていた、その時だった。
「とーちゃん! とーちゃーん!!!」
窓の外に三、四歳くらいの小さな子供がウロウロしながら声を張り上げて泣いているのを発見して、僕は立ち上がった。
「迷子かな? ちょっと行ってく……」
店を出ようと思ったその時、子供に一人の男性が駆け寄ってきて、泣いている子供を抱き上げた。子供は安心したように男性に抱きついて、その男性が保護者であることに間違いはなかった。
けれど僕は安心するより遥かに上回る驚愕を隠せなかった。
子供を抱き上げてその場から離れていったその男性は、間違いなく見覚えのある姿で。
僕は咄嗟に忍先輩に視線を向けた。
彼も、間違いなく見ていたはずだ。
どう声をかけてよいか分からずにいると、忍先輩はコーヒーを片手に微笑した。
「子供……できたんだな、あいつ。ってことは、まっとうに結婚したか」
あまりに普通に、当たり前のことのように、そんな言葉を口にする。
「あ……ああ、そうみたいだね……」
僕は椅子に座り、気まずい想いで忍先輩を見据えた。
でもやっぱりこらえきれず、衝動的に立ち上がると、忍先輩の腕を掴んで立たせる。
「出よう。追いかけようよ、光流先輩のこと」
千円札をレジに渡し、僕は忍先輩を半ば強引に引っ張りながら喫茶店を出る。
けれどもう光流先輩の姿はどこにも見当たらなかった。でもまだすぐ近くにいるはずだ。そのまま歩を進め、信号が青に変わった交差点を早足で歩き続けると、急に忍先輩が足を止めた。 「瞬、探さなくていい」
「でも……!」
「会わない方がいいんだ」
目を伏せて、忍先輩は小さく言った。
「先輩……」
どうしようもなく切なくなって、僕は忍先輩の頬に手を添えて、そっと唇を重ねた。
「……ここをどこだと思ってる」
あからさまに見られはしなくとも、確実に周囲の視線を浴びている現状に、忍先輩は呆れ口調で言う。
「交差点? 昔、こんなドラマなかったっけ?」
「少なくとも男同士ですることじゃない」
「いいよ僕は。忍先輩となら何だって」
「瞬……!」
何か言おうとする忍先輩の唇を、僕はもう一度強引に塞いだ。
「……好きだよ、先輩」
まっすぐに忍先輩の瞳を見つめると、少し困ったような顔をされて……正直、ちょっと凹んだ。
「あ、思い出した!」
「え?」
「歩道橋の上から~見かけた革ジャンに~って、歌、誰だっけ歌ってたの?」
「……知らん」
うーん……相変わらず芸能人には疎いなぁ。
「気になるから、CDショップ行こう?」
僕は忍先輩の手をとると、そのまま歩き出した。
そうして一刻も早くこの場から離れようとしたのに。
「とーちゃん、はんばーぐ食べたい!!」
「よっしゃ、今から食いに行くか!!」
信号が点滅し、赤に変わろうとした瞬間だった。
「しの……ぶ……」
彼は酷く驚いた様子で目を見開きならが、すぐに目の前の相手の名前を口にした。
「久しぶりだね、光流先輩」
「え……あ、おまえ、瞬?!」
僕に視線を向けた光流先輩は、更に目を丸くする。
「髪切ったのか?! 一瞬分からなかったぜ!!」
「光流先輩は……変わらないね。その子は……」
「とーちゃん、ハンバーグは?!」
僕が尋ねるより先に、子供の方が声をあげて教えてくれた。
「あ、ああ……後で行くから、ちょっと待ってろ」
「お腹すいたよ~」
拗ねる子供を抱き上げて、光流先輩は酷く遠慮がちに、忍先輩に目を向けた。
「元気……だったか?」
尋ねられ、忍先輩は静かに微笑みかける。
「ああ。おまえも元気そうで安心した」
「……うん」
何故か咄嗟に目線を逸らして、光流先輩は頷いた。
しばらくの間、沈黙が続き、なんだか酷く気まずいような空気が流れる。僕もまたあまりに突然の出来事に珍しくも動揺してしまい、うまい言葉が見つからなかった。
「おなかすいた~っ!!!」
沈黙を破ったのは子供で、光流先輩が苦笑しながら「わかったわかった」と子供をあやす。
「瞬、行こうか」
忍先輩が足を一歩踏み出した。
「あ……うん、それじゃ、光流先輩」
さっさと歩いていこうとする忍先輩を追いかけようとしたその時。
「忍……!!」
光流先輩が、忍先輩を呼び止めた。
忍先輩が振り返ると、光流先輩は酷く居心地が悪いような顔をして、躊躇いがちに口を開く。
「あ、あのさ……」
「じゃあな、光流」
けれど忍先輩は、それ以上何も言わさないかのように光流先輩の言葉を遮って光流先輩に背を向け、そのまま歩き出した。
「光流先輩、近いうちに、また連絡する! じゃあね!」
僕は光流先輩にむかってそう言うと、忍先輩の後を追いかけた。
だけどどう声をかけてよいのか分からず、しばらく無言で歩き続ける。
いったいどういう事情があってどんな風に別れたのか知らないけれど、おそらく数年ぶりに会ったのは間違いないだろうに、あまりに冷静な忍先輩の態度に、逆に違和感を覚えていた。
昔から、この人はいつもそうだった。
なに考えてるんだかさっぱり分からなくて、もしかして本当に血の色ミドリなんじゃないかと思ったこともある。
「忍先輩」
「何だ」
「結婚しよう」
僕のその言葉に、忍先輩の表情が一瞬凍りついた。
「何を……考えてるんだ、おまえは」
そして呆れたように言う。
「本気だってば。僕と結婚して?」
「しない」
「えー、しようよ~っ」
「しない」
「一生楽させてあげるからっ! ねっ?」
「ふざけてないで行くぞ!」
いいかげんにしろと歩き出す忍先輩の耳が心なしか赤くなっていて、僕は思わず笑ってしまった。
なんで、あの頃は気づかなかったんだろう。
冷静な仮面の下に隠れた、本当の忍先輩の顔。
素直じゃなくて、物凄く照れ屋で、寂しがりやで、誰よりも優しくて……孤独な人。
守ってあげたい。
先を歩く背中を追いかけて、僕は心からそう思った。
光流先輩がお父さんになっていたことに、僕は実のところ酷く安心していて。
でも安心していた自分を認めたくなくて、高校時代の友人を頼りに、光流先輩に連絡をとった。もちろん忍先輩には内緒で。
「瞬、悪い! 待たせたな!」
待ち合わせの喫茶店に少し遅れて、光流先輩はやってきた。
仕事の合間をぬって来てくれたのだろう。ちょっとくたびれたスーツ姿。頭もぼさぼさで髭も剃ってなくて、昔の美少年っぷりはどこへ行ったのだろうと思うほど適当な身なりに、現在の苦労が伺える。
「ごめん、仕事、忙しかった?」
「あ、ああ、なかなか休みとれなくて参ってるぜ」
確か、一年くらい前に警察署の刑事課に移動になってたっけ。そりゃ忙しいはずだ。
「それだけ忙しいと、子供と遊ぶ暇もないんじゃない? 今はあの子、奥さんと家にいるの?」
「え、俺、結婚なんかしてないぜ? あいつ、俺の子じゃねーし」
光流先輩が発したその言葉に、僕は心の中で激しく動揺した。
「え……だって、とーちゃんって……」
「あー……預かって三ヶ月も経つからなー。なんかすっかり俺のこと父親みたいに思ってて」
苦笑する光流先輩に、僕は心の動揺を悟られないよう、コーヒーを一口すすった。
「なんで、預かったりしてるの?」
「あいつの母親……まだ十八歳でさ。前にちょっとした事件で関わった子なんだけど、いろいろと相談にのってるうちに親しくなってな。でもしばらく姿見かけないなと思ったら、ある日突然子供連れてきて、「あなたの子だから責任とって!!」とか言われて、気がついたら預かる羽目になっちまってよー」
ヘラヘラ笑いながら言うけれど、僕は目を据わらせた。
それは……全くちっとも笑い話ではないのでは?
「なんか覚えあったの? 光流先輩、まさか十四、五歳の子に手を……」
「んなわけあるかっ! 手ぇ出した覚えはねーよ!!」
「だったら何で、子供なんか預かるの? いつ戻ってくるか分からないでしょ、その母親」
お人よしもそこまでいくと、ただの考えなしの阿呆だっての。
まあ、この人、昔からそんなとこあったけど。
そのおかげで女運も悪かったっけ。しかしいまだにここまで悪いとは……。っていっても、変な女にばっかり捕まってすっぱり縁を切れない本人が実は一番悪いんじゃないかと、僕は思うんだけどね。
「仕方ねーじゃん。子供見捨てるわけにはいかねーし……」
光流先輩はバツが悪そうに言った。
僕は返す言葉を失った。
ああ……そっか、そういうことか。
ホント、変わってないね、光流先輩。
「ま、そのうち何とかなんだろ。あいつの母親のこと、信じてるしさ」
そこまで楽観的に考えていいものだろうかと思うけど、そこは僕が口出しすることじゃない。
「じゃあ……今もまだ一人身、なんだ?」
「もちろん。おまえもだろ?」
「まーね」
素っ気無く応えて、僕は黙り込んだ。というか、言葉が出てこなかった。
呼び出したはいいけど、いったい何を話そうとしていたのかもよく分からなくて、ただ光流先輩がまだ一人身だって分かって、例えようの無い不安感のようなものが胸の内に広がっていくのを感じていた。
「あいつ……は?」
不意に、光流先輩が口を開いた。
言いにくそうに、でも聞かずにはいられないように。
「日本に……帰ってたんだな。外国に行ったって、聞いたけど」
「僕も半年くらい前に再会したばかりだよ。たまたま、偶然だけど」
「そっか……まあ、元気そうで良かったよ」
全然ちっとも、元気なんかじゃなかったよ。少なくとも再会したばかりの頃は。
そう心の中で呟く自分は、なんか嫌な人間っぽくて、光流先輩の目を見られない。
「何で、別れたの? 忍先輩と」
気がつくと僕は、おもいっきり単刀直入に尋ねていた。
光流先輩はわずかに目を見開いて、それからずいぶん悲しげな顔をして口を開いた。
「フられたんだよ、俺。俺は別れたくて別れたわけじゃない」
「ふぅん……。でも、追いかけなかったんだ?」
「お、追いかけようにも、あいつ、見事に行方くらましちまって……! だからこの前会って、すっげー驚いて……あんまりビックリしすぎて、逆に動けなくなったっつーか……」
光流先輩の話を聞きながら、僕はどんどん眉間に皺がよるのを感じていた。
なんだろう、この苛々感。
なんか今すぐ、殴りつけたいみたいな。
「結局、その程度の気持ちだったんじゃない? 別れても平気でいられたってことは」
少なくとも忍先輩は全然平気そうじゃなかったけど、光流先輩は普通に仕事して日常をこなして、人の子まで世話やいちゃうほど余裕あって。僕の苛々の原因はそこにあるのかもしれない。
「平気……なんかじゃねーよ……。これでも結構、ボロボロだったんだぜ?」
そう言って、光流先輩は遠慮がちに笑う。
そっか……そうだった。そう言われればこの人も、見た目まんまの人ではなかったけ。むしろ忍先輩より上手に心の内を隠せちゃう人だから、すっかり忘れてた。
「忍先輩、今、僕の家にいるよ。でも、光流先輩に会うつもりはないと思う」
だけど、だからって、今の僕に同情なんか出来るわけがなく、僕はきっぱりとそう言い切った。
「それに……付き合ってる人、いるみたいだし……」
言ってから僕は、いったい何を言うつもりだと、自分自身に驚愕した。
「ああ……そっか……」
しばらく沈黙が続く。
そろそろコーヒーを飲み終えようとした時、不意に光流先輩が立ち上がった。
「悪ぃ、そろそろ仕事戻んねーと」
「あ……うん。また今度、飲み会でもしようね」
「ああ、じゃ、またな!」
光流先輩はコーヒー代をテーブルの上に置くと、笑顔でそう言って去って行った。
でもたぶん、凄く傷ついている。
僕はやり切れない気持ちでいっぱいのまま、しばらくその場から動けずにいた。
家に戻ると、忍先輩がパソコンで調べ物をしていて、「ただいま」と声をかけると綺麗な微笑を向けてくれて、僕は途端に自分の心が和らぐのを感じた。
「今日……光流先輩に会ったよ」
ジャケットを脱ぎながら、僕は正直に今日のことを話した。
でも何故だろう、鼓動が高まる。
「仕事忙しいみたいで、子供の面倒とか、大変そうだった」
どんどん心臓の音が高まってゆく。
言わなきゃ。
あれは光流先輩の子供じゃなかったよって。
光流先輩は、まだ結婚もしてなくて一人身で。
まだ……忍先輩のことを……。
「でも……幸せそうだったよ。……奥さんと子供に、囲まれて……」
ドクン、と一際大きく鼓動が高まるのを、僕は確かに感じた。
「そうか……」
忍先輩が静かに応える。
けれどその姿を、僕は見ることが出来なかった。
「ちょっと、シャワー浴びてくる」
顔を向けることができないまま、バスルームに急ぐ。
服を脱いでバスルームに足を踏み入れ、シャワーのコックをひねると、頭からシャワーのお湯をかぶった。
(最低……だ)
最低だ。
自分をこんなに最低だと思ったのは、生まれて初めてだった。
僕は今まで、それなりに要領良く、誰に嫌われることもなく、かわりに激しく愛されることもなく、自己満足だらけの人生を生きてきた。でもそんな人生は僕にとって上々で、これから先もずっと、死ぬまでそんな風に自分のために生きていこうと思ってた。
それなのに。
今、僕は自分で自分を酷く嫌っている。こんな自分、消してしまいたいほどに呪っている。
嫉妬という名の欲にとり憑かれた僕は、醜くて汚くて、最低の人間だ。
でも……でも、離したくない。
僕はどうしても、あの人を離したくない。
たとえ、どんなに醜い人間になっても。
僕は、あの人を……!!!
「ちく……しょ……っ!!」
ガン!!と大きく壁を叩く音が鳴り響く。僕は自分の汚れを落とすかのように、ずっとシャワーを浴び続けていた。
重い。
ただひたすらに重い。
沈黙し続ける罪悪感。
愛する人の幸福を願えない身勝手な自分。
苦しむ姿を知りながら、友人を裏切り続け自分を優先する、我が身への失望感。
ずっと、醜い人間にはなりたくなかった。いつでも、誇りだけは捨てたくないと。
けれど今の僕には誇りなんて欠片もなくて、ただ惨めでズルくて、とてつもなく醜い。しかしこれこそが恋というものなのだと、三十年生きてきて初めて知る。
(情けなさ過ぎるだろ……)
いったい今までの人生の何が、順風満帆だったというのか。
自嘲を浮かべながらそんなことを思ってソファーの上に腰掛けると、忍先輩が隣に座って僕の顔を覗き込んできた。
「疲れてるみたいだな。仕事、忙しかったのか?」
「……大丈夫だよ。ちょっと寝不足なだけだから」
僕は忍先輩から視線を逸らす。立ち上がろうとしたその時、不意に腕を掴まれた。
「瞬……」
一瞬、鼓動が跳ね上がる。
まるで縋るような瞳が僕を捕えて、僕はその場に座りなおした。
見つめてくる、忍先輩の瞳。
少し潤んでいて、艶やかで、酷く悲しい、縋りついてくる瞳。
「どうして、そんな顔、するの」
分かっているのに、僕は尋ねた。
「おまえが……おまえが、俺を求めるなら……俺は……」
言い終わらないうちに、僕は忍先輩の肩を掴み、奪うように唇を重ねた。
そのままソファーの上に押し倒し、舌を絡ませると、忍先輩も応えてくる。頭の芯がズキンと痛むような熱さに、僕は自分を制御できなくなるのを感じていた。
卑怯だよ、そんな風に誘うなんて。
いくら弱くなってるからって、そんな風に僕を利用するなんて。
そうと分かっていながら、僕もまた彼を利用しようとしている。
傷をつけて、自分のものにして、そこから先に何があるのかも分からないまま。
「僕が……好き……?」
応えるかわりに自ら唇を重ねてくる忍先輩を、僕は強く抱きとめた。
シャツの下からそっと手を潜り込ませて、背筋に指を這わせると、小さく先輩の身体が震える。
白い、滑らかな首筋にキスをして、跡をつける。
背中から腰をなぞって這わせた指で、胸の突起を軽く摘むと、少し怯んだように身体が脅えた。
愛しくて、何もかもが愛しくて、身体の隅々まで優しく撫でて、もっと先輩の感じる顔が見てみたい。
「……あっ……」
「感じやすいね?」
「……ん……っ」
硬く反応を示している突起を舌で舐めながら、もう片方も指で摘む。
桜色に染まっていく肌があまりに淫らで綺麗で、僕の邪な欲望で汚すのは勿体無いと思いながら、どこまでも汚してやりたい欲情にかられ、僕はいくつもその身体に跡を残した。
ベルトを引き抜いて、熱くなっている部分に触れると、忍先輩の手が僕のシャツをぎゅっと握り締めた。
「ん……ぁ……っ」
少し引き気味な腰を引き寄せて、先端に口付ける。
甘い吐息が先輩の口から漏れるたびに、どうしようもなく気持ちが高揚して、気がつくと僕は夢中で先輩の感じる部分を舌で愛撫していた。
「あ……あ……ぁ……っ」
一際大きく身体が震えて、熱い液が咥内に迸る。
残さず舐めとって、ゆっくり弛緩していく身体を抱きとめた。
「少しは、スッキリした?」
息を乱す忍先輩の耳元に、僕はそっと囁いた。
「シャワー浴びといでよ。そんで、もう寝よう?」
「瞬……でも……」
「実はすっごく眠くて、そろそろ限界」
苦笑しながらそう言うと、忍先輩は力無く「分かった」と頷いて、乱れた服を調えるとバスルームにむかった。
小さなため息が僕の口から漏れ、静かに部屋に響いた。
その日、僕たちは肌を合わせて一緒に眠った。
忍先輩はまだ少し申し訳なさそうに僕の欲望を満たそうとしたけれど、僕はやんわりそれを拒否した。
本当は、今すぐにでもめちゃくちゃに抱いてしまいたかったけれど。
「おやすみなさい、先輩」
ただ抱きしめて、眠った。
やがて安心したように眠りに落ちていく先輩の顔を見つめながら、そっと頬に口付ける。
(バカだね、先輩)
同情なんて、僕は欲しくないんだ。
(本当に、バカだよ……)
増してや、抜け殻みたいな空っぽの愛情なんて。
(これで……終わりだね……)
強く抱き寄せた先輩の髪に顔を埋めて、僕はこめかみに涙が伝うのを感じながら、確かにそう思った。
翌日、仕事が終わって帰宅してすぐに。僕は忍先輩を外に連れ出した。
たどり着いたのは、人気のない大きな公園。
呼び出し人は、既にベンチに座って待っていた。
「瞬……!」
その人を見るなり、忍先輩は怯んだ表情をする。
「いいから、行って。ちゃんと話すんだ」
まっすぐに忍先輩の目を見て、僕は言った。
少し不安げな眼差しをする忍先輩の背をポンと叩くと、先輩はまっすぐにベンチに座る人の元へむかった。
僕は少し離れた場所で、大きな木に背を預けた。
このまま帰っても問題はないかと思うけど、やっぱりちゃんと、最後まで見守ってあげたい。
「今日、子供は……?」
「一週間前、母親が引き取りに来て、帰ったよ」
「え……? おまえの子じゃ、ないのか……?」
「違うって。俺、結婚なんかしてないし。結婚どころか恋人もいないし。なんか……そういや昔、おまえに言われた通りになっちまったな」
「……早く結婚して子供作れって、言っただろう」
「んなこと絶対しないって、言った」
「……」
「待ってるって、言っただろ?」
「光流……!」
「分かってるよ、俺の勝手だって。でも、俺はやっぱり、おまえじゃなきゃ駄目だから」
「……」
「勝手に待つくらいは、いいだろ? んで、十年後でも二十年後でも、五十年先だっていいから、もしその時におまえが一人だったら……あの部屋に、戻ってきてくんねぇかな」
「……」
「未練がましいって分かってる。だから俺からはおまえに会いに行ったりしねぇから。でも……想うくらいは、許してくれよ」
「……」
「……じゃあ、行くわ。元気でな、忍」
光流先輩がベンチから立ち上がる。
何、やってんだか、忍先輩。
早く立ち上がって追いかけなよ。
いつまでも、つまんない意地張ってないでさ。 (行かないで……) 早く、行ってよ。 (行かないでよ) さっさと寄り、戻して。 (行かないでよ……!!!) 早く、幸せに、なってよ。 「光流……!!」
呼び止められ、光流先輩が振り返ったその時、駆け寄ってきた忍先輩の体を抱きとめて。
「光流……っ」
光流先輩の肩に顔を埋めた忍先輩の声は、震えていて。
今にも泣き出しそうな顔をして、光流先輩はその身体を強く抱きしめた。
バカな、二人。
何やってるんだよ、本当に。
つまんない理由で離れたりくっついたり、振り回されるまわりの事も、ちょっとは考えてよね。
「あーあ……」
僕は木の下にズルズルと座り込み、手で顔を覆った。
後から後から涙が溢れて、止まらなかった。
三十歳で初恋に落ちて、やっぱり初恋は実らないって知って大泣きするなんて、あんまりカッコ悪すぎて逆に笑えてくる。
でも、仕方ないじゃないか。
僕は空っぽの先輩なんか欲しくないし。
抜け殻抱いたって、空しいだけだし。
同情でそばにいてくれたって、寂しいだけだし。
それに、ずっと。
ずっとずっと、忍先輩に、笑ってほしかったんだ。
あの頃みたいに。
大好きで、大切な二人だから、あの頃みたいに……笑ってほしかったんだ。
「うー……っ」
好きだよ。
大好きだよ、忍先輩。……光流先輩。
だからもう、絶対に離れたりしないで。
僕が流した涙のぶんも、絶対に、幸せになるんだよ。
空っぽになって久しい部屋を見つめながら、僕は携帯電話のボタンを押した。
『……もしもし? なんだよ急に?』
ずいぶん久しぶりなのに、昔と少しも変わらないぶっきらぼうな声。それなのに何故だか酷く安心する。
「ね、今から飲みに付き合ってよ」
『はぁ?! 俺、明日も仕事なんだけど!!』
「駅前の居酒屋で待ってるから。絶対来てね」
『ちょ……おい! 瞬!!』
居酒屋で一人、ビール片手に管を巻いていると、息を切らせた親友が駆けつけてきた。
「おまえなぁ、久しぶりに連絡よこしたと思ったら何なんだよ急に?!」
僕の向かい側の席に腰かけ、ぶつぶつと文句を言いながら僕を睨みつける。
相変わらずだなぁ、すかちゃん。嫌なら来なきゃいいものを、律儀にも息切らせて駆けつけてくれるんだから。
「ちょっと失恋して傷心気味でさあ。いいじゃん、久しぶりに飲もう?」
「おまえが失恋?!」
「そーそー、中学生の時以来だよ。こんないい男フるのってどう思う?!」
「見る目あったんだろ、その子」
「どーいう意味~?」
「それより瞬、聞いてくれよ!」
いきなりすかちゃんがムキになって声を張り上げる。
「俺、職場移動になったんだけど、よりによって光流先輩と同じ署になっちゃってさあ!! あの人、相変わらず人をコキ使いまくりで、おかげで休みほとんどなくて、俺もう家庭崩壊の危機かも~っ!!!」
「あー……よしよし。すかちゃんもうそういう運命なんだから、諦めた方がいいよ」
「諦めきれるかーっ!!! 俺の不幸の源は、全部光流先輩のせいだ~!!!」
嘆くスカちゃんを宥めながら、僕は携帯電話のコールを鳴らした。
つーか、確か僕が慰めてもらうために呼んだはずなんだけど、何でこうなるわけ?
僕って一生、スカちゃんの面倒見続けなきゃならない運命?
でもって、その元凶はだいたい光流先輩にあるわけで。
「あ、光流先輩? 今どこ? 近くにいるの? じゃあすぐ来てよ。えー、だってスカちゃん泥酔してて大変なんだもん」
携帯電話を切った二十分後に、スカちゃんの不幸の源が駆けつけてきた。
「なんなんだよ、おまえら。俺ぁ早く帰りてーんだよっ」
なんだかんだ文句言いつつ、しっかり駆けつけてくるあたり、つくづく似た物同士だと思う。
「じゃあ忍先輩も呼んだらいいじゃん」
「おー、それもそうだな」
なるほどと言って、光流先輩は携帯をポケットから取り出した。
あれから一ヶ月以上が経つけど、仲良くやっていけてるようで、何より。
「うまくいってるみたいだね」
既に泥酔して潰れているスカちゃんを横に、僕は光流先輩に話しかけた。
「ああ、おまえには感謝してるよ。忍も、一生瞬には頭が上がらないって言ってたぜ?」
「ふーん……」
それだけ先輩に恩を売れたんなら、僕の涙も無駄ではなかったってことか。
僕の家を出て行く時も、物凄く申し訳なさそうにしてたもんなぁ、忍先輩。
人のこと振り回すだけ振り回して、あれじゃ刺されもするっつの。例の忍先輩を刺した男も、しばらくしつこく僕のところに来てたけど、同じ失恋仲間としていつの間にか友人になっちゃったりして、人生って何が起こるか分かりゃしない。
「ほんとありがとな、瞬」
「いいよ、礼なんて。ま、安心したよ、うまくいってるなら」
「そりゃ~もう! なんつーか新婚みたいな? いいよな~やっぱ伴侶がいる生活って!! おまえも早く相手みつけて結婚しろ
よ~!?」
実に愉快そうに下品な笑い声をあげる光流先輩に、僕はわなわなと肩を震わせた。
人の気も知らないで、この男は……っ。
やっぱこんな人にくれてやる前に、一発だけでも犯っとけば良かった!!!
……っていうか、よく考えたら、子供がいるわけでもなし、別にそんな簡単に諦める必要もないのでは僕?
なんてことを思った時に、居酒屋のドアが開いて、久しぶりに顔を合わせた忍先輩は変わらず平静を装ってるけども。
「みつるへんぱい~、きぼぢわるいです~」
「こら蓮川! ここで吐くなっ!」
今にも吐きそうなすかちゃんを光流先輩がトイレに連れて行った隙に、僕はそっと忍先輩の耳元に囁いた。
「僕、やっぱり諦めるつもりないから」
わずかに目を見開いて僕に顔を向けた忍先輩の唇に、咄嗟にキスをすると、先輩は返す言葉も失うくらい驚いて。
「いつか襲うから、覚悟してね」
にっこり微笑んだ僕に、耳まで顔を赤くして困った顔をする。
ヤバい。今すぐにでも襲いたくなるくらい、可愛い。
悪いけど、僕はしつこいよ?
だって人生は、自分のためにあるものだし。
これからも、めいっぱい楽しまないと、損だからね。
それに一生に一度くらい、本気出して戦ってみるのも面白い。
だからって真っ向勝負したって叶うはずないのは分かってるから、もちろん僕なりのやり方で。
覚悟しててよ、忍先輩。 |
|