colors<後編>

 
 怒りを隠さない光流のやり方は、いつでも容赦なく冷たい。
 これがおまえの望む付き合い方だということを徹底的に分からせるように、光流は忍に愛情をいっさい示さなくなった。それでも、二人きりの夜には優しいキスと愛撫、熱い抱擁を忍に与え続ける。けれどそれが終われば、口付けは愚か触れることすら一切しない。目を合わせても、そこに温かみは微塵もなく、まるで他人を見るかのような冷ややかな光流の瞳に、忍は耐え切れない想いで自ら視線を逸らす。
昔から、このやり方だけは一貫して変わっていない。
 そのたびに、忍は思い知らされる。
 光流という人間の、底の知れない冷たさを。
 とことんまで軽蔑されてしまったら、光流はもう二度とその手を差し伸べてはくれないだろう。
 それは、とてつもない恐怖だ。
 こんな風に思い知らされるくらいなら、まだ乱暴に抱かれて体を苛まれる方がマシだと思うくらいに。
「光流……」
「なに?」
「……」
 表面上はいつもと何一つ変わらない、笑みすら浮かべた穏やかな表情。
 だからこそ、何も言えなくなる。
 言わせる隙を決して与えてはくれないからだ。
 今、何を言っても、自ら抱擁を求めても、容赦なく冷たい視線を向けられるだけだろうと思うと、ただ萎縮する事しか出来ない。
 まるで針のむしろだ。
 精神的に追い詰められるとは、こういう事を言うのだ。
 光流はもしかしたら自分よりもずっと、無慈悲で冷酷な心の持ち主なのかもしれないと、これまでも何度思ったかしれない。そうして結局はいつも光流の言葉に従い、それで良いんだと抱きしめられて安心しては、また同じようなことを繰り返す。
(残酷だ……)
 迷うことすら、許されないのだろうか。
 けれど誰もが、光流のように強く正しくまっすぐに生きていくことなんて出来はしない。誰もがそんな強さを持ち合わせてはいない。持ち合わせていないから、こうして迷い、悩み、心の底から苦しむ。
 それでも光流は、決めろと言う。
 おまえが自分で決めろ、と。
 崖っぷちギリギリに立たされ、突き落とされてもなお、自分で這い上がってこいと。
(まるでライオンだな)
 そんな肉食獣に追い詰められる自分は、さながらライオンの子供か、それとも食料でしかない兎か。
 どちらにせよ、弱い存在だ。
 自嘲しながら、忍は深く息をついた。
 先ほど、また父から電話があった。
 今度は女性相手ではないが、それよりも更に憂鬱で、長野から出向いてくる父と共に都内に住む有力者に会わなくてはならない。たとえ四十度の熱があろうと事故におころうと、這ってでも来いと父は言うだろう。
 鉛のように重い心を抱えたまま、忍は一人、眠りについた。
 光流はバイトでまだ帰ってこない。けれどたとえ今ここにいても、その腕に縋りつくことは許されない。
 谷底に突き落とされ、目の前にはどう足掻いても這い上がれないような高い崖が聳え立っている。
 決断をしなければならない。
 このまま死んでいくか、命ある限り這い上がっていくか。
(決まっている)
 誰がこのまま、死んでいくものか。
 這い上がった先に見えるものが、例え草一本生えていない荒野だとしても。
 
 
「光流」
 翌朝、大学へ向かう途中の道を歩きながら、忍は重々しく口を開いた。
「俺は、おまえを選べない」
 その言葉をきっかけに、ピタリと二人の足が止まった。
 光流がまっすぐに忍の顔を見据える。
 少しの沈黙の後、光流は真剣な表情で口を開いた。
「それが、おまえの答えか」
「……ああ」
 忍もまた、真剣な目を光流に向けた。
「分かってくれとは言わない。別れるつもりもない。だけど、どうしても捨てられないものがあるんだ」
 それが全ての答えだった。
 光流を切り捨てることは死んでも出来ない。けれど、生き方を捨てきることも出来ない。
「後はおまえが決めてくれ。俺はそれに従う」
 我ながら、卑怯すぎると分かっていた。
 結局は一番苦しい決断を、光流にさせようとしている。
 それを象徴するかのように、光流の拳がわずかに震えていて、それでも平静を保とうとする視線を忍に向ける。
「……考えさせてくれ」
 そうとだけ言って、光流は忍に背を向けて歩き出した。
 これでもう本当に、終わったのかもしれないと、忍は思った。
 急速に心が冷えていく。
 感情の扉が閉まっていく。
 けれど、ちょうどいい。
 どうせ今夜は父に会って、全ての感情を押し殺して笑顔を張り巡らせなければならない。
 ずっと、そうして生きてきて、これからもそうして生きていくのだ。
 少しの生気も無い瞳を前に向け、忍もまた足を踏み出した。 


 なぜ、こんなにも景色が暗いのだろう。
 まるで全てが色を失くしたように、色とりどりの花でさえ、モノトーンにしか移らない。
 でもその理由を知ってはいけない。心を強く閉じて、信念だけを持って前に進まなければ。
 もう迷わないと決意し、構内の色褪せた景色を前に、友人達と立ち止まり、いつもと同じ味気ないだけの会話をしていたその時。

「光流、葉っぱついてる。また外で寝てたでしょ?」
 
 モノトーンの景色の中、酷く鮮やかに、そこだけが色を持って、光流の姿が映った。
 少し離れた距離で、光流が友人らしき女性と肩を並べ歩いている。
 いつものように、笑顔で、明るい光を発しながら。
 クスクスと楽しそうに微笑み、光流の肩について葉っぱを指で摘む女性に、光流もまた優しい笑みを向ける。
 ふと、光流の手が彼女の髪にそっと触れた。それは彼女の髪にもついていた木の葉を取り払うだけの仕草だった。ただそれだけなのに。
 忍の胸の鼓動が、ドクンと大きく高鳴る。

 急速に、あまりにも突然、忍は理解した。
 光流と別れること。割り切った関係を続けていくこと。それらは全て、こういう事なのだと。

(嫌だ……)

 光流が、自分以外の誰かに微笑みかける。
 自分以外の誰かに、優しく触れてキスをする。
 好きだよって、囁く。

(嫌だ……!)

『おまえが一番、好きだよ』
そう言って、強く、抱きしめる。
自分ではなく、他の誰かを。
その腕で抱きしめて、その唇でキスをして、その声で囁いて、その瞳で見つめる。

(嫌だ……!!!)

無意識のうちに、忍はその場を駆け出していた。

「光流……!」
 忍の声に咄嗟に振り返った光流の首に腕を回して、忍は抑え切れない衝動のままに、光流の唇に自分の唇を重ねた。
あまりに突然の忍の口付けに、光流が大きく目を見開く。周囲にいた忍の友人や、光流と一緒にいた女性もまた、驚愕を隠せない目で二人を見つめた。
「忍……っ!!」
 光流が慌てて忍の体を引き離すが、忍は離さないというように、光流の頬を両手で包み込み、もう一度唇を重ね合わせる。
 通常では死んでもありえない忍の行動に、光流はひたすら驚愕を隠せない様子だが、そんな光流とは裏腹に、忍は唇を離すと目の前にいた女性を鋭い視線で睨みつけた。その恐ろしいほどの気迫のこもった視線に、彼女は脅えたような目をして、その場から逃げるように走り去った。同じように、忍の友人達もまた、関わってはいけないと悟ったようにその場から離れる。
「おまえ、何考えて……っ!!」
 咎めるように声を発する光流の首にもう一度ぎゅっと抱きついて、忍はただ強く、しがみつくように腕に力を込める。
 甘えるようなその仕草に光流は何かを悟ったのか、やがて力を抜いて忍の背中に腕を回し、そっと抱き返した。
「っとに、おまえは……」
 呆れたような、愛しむような声。
「なんでそう、唐突なの? 俺達別れるんじゃなかったのか?」
 決して冷たくはない優しいその声に、忍は目に涙が滲むのを感じながら、首を振った。
「この、バカ……」
 まるで小さい子供をあやすように、光流は忍の背中をぽんぽんと叩く。
「……俺が手のかかるのなんて、おまえが一番よく知ってるだろう?」
「威張ることか、バカ!!」
 今度は叱るように言って、光流は忍の体を引き離すと、両手で忍の頬を包み込んだ。
「さんざ人を悩ませやがって! その結果がコレかよ! どーすんだ明日っから、噂の的だぞ!?」
「おかげで悪い虫がつかなくて良い」
「そーじゃねえだろっ!! 俺はともかく、おまえはこんな噂広がったら立場ってもんが……」
 光流の言葉を遮るように、忍は光流の唇を奪った。
「俺は、おまえと生きる」
 そうして、光流にまっすぐに、揺るぎのない瞳を向ける。
「おまえと、ずっと……」
 刹那、自分の瞳からあふれ出る涙に、忍は一瞬自分でも驚いたかのように目を見開き、それから涙を隠すこともなく言葉を続けた。
「ずっと……一緒に……」
 溢れる雫が玉になって零れ落ち、頬を伝う。
 閉じていた感情の扉が開いて、堰を切るように溢れ出す愛しさ。
 冷え切った心が、熱を取り戻して、よりいっそう熱くなる。
 
 光流と一緒にいるから感じられる、何より激しい想い。何より熱い心。
 生きていると感じられる、たった一つの……。
 どうして、捨てようとしたのだろう。
 これを失ったら、もう何もない。死んでいるのと同じ事でしか、ない。

「忍……」
 光流が忍の背に腕を回し、その体をそっと抱き寄せた。
「……最初から、離れる気なんかねぇよ。愛人にでも何でも、なってやるつもりでいた」
 優しい声に、忍は目を閉じて、ひたすらに身を委ねる。
「だったら……意地の悪いやり方をするな、このサディスト」
「だって悔しいじゃん。ちょっとは痛い目見せてやんねーと、気が済まねーよ」
 忍の言葉に、光流は少し口をとがらせて拗ねたように言った。そして、ぎゅっと強く忍の体を抱きしめる。
「でも……捨ててくれるんだな、俺のために」
 強く抱きしめられて、忍もまた、返事の代わりに光流の背に腕を回して強く抱き返した。
「すげー……嬉しい」
 忍の肩に顔を埋め、光流は震える声で言った。
 瞬間、忍は悟った。
 苦しんでいたのは、自分だけじゃない。光流の方が。もう長いこと遥かに悩み、苦しんでいたのだ。
 全ては、自分のために。
「ずっと、そばにいてくれ……。ずっと、俺だけのもので……」
 激しい後悔と共に、でき得る限りの想いを込め、忍は言った。
「……うん」
 どちらともなく、唇を重ね合わせる。
 触れた熱から伝わる、満たされる想い。
 そっと瞳を開くと、光流の色素の薄い瞳が真っ先に写って。
 その色があまりに綺麗で、忍は小さく微笑んだ。
 
 
 光流のために生きる。
 それは、他の全てを捨てるという事だ。
 生き方も信念も、そして自分が育ってきた家も、両親も家族も、何もかも。
 それら全てを捨てさせることを、苦しんで苦しんで、それでもなお強くあろうとする光流の優しさを、利用しようとしていた自分をただ嫌悪する。
 互いに好きな仕事をし、いずれは互いに結婚もして、それでもなお関係を続けていく事も出来るかと思っていた。
 けれど意味がないのだ、そんな関係では。
 他の誰にも渡せない。
 意地もプライドも信念も無くして、たとえ縋りついてでも離せない。
 割り切れない、ただ一つの物がある。
 

 
 父との約束の時間はとうに過ぎている。
 電話線は切っておいた。
「なんで……縛るんだ?」
「今からちょっと、苦しいことするから」
 緩やかではあるが、手首をネクタイで拘束されて、忍は怪訝そうに眉を寄せる。
 ずいぶん懐かしい感触だななどと冷静に思うものの、光流が何を考えているのかさっぱり分からない。怒っているわけでもないのに、なぜ縛られなければならないのか。
「大丈夫、痛いことはしねーから。ただ、余計な事考えないように」
 そう言って、光流は優しく忍の唇を奪う。
 唇を割って舌が押し込まれると、忍はわけがわからず少しの不安を抱えたまま、求められるままに応えた。
 光流の指が胸の上を緩やかに滑り、やがて乳首を柔らかく圧迫する。自分でもすぐにそこが硬く尖っていくのが分かり、少し身を捩るともう片方の乳首を軽く噛まれて、忍の体が小さく震えた。
 極力声は出したくない忍の口から、こらえきれない吐息が漏れる。
 太股をなぞる指が忍の自身を握り締め、先端を舌で焦らすように撫でられる。思わず逃げ腰になると、手首にわずかに痛みが走った。拘束 されていたのを忍はすっかり忘れていた。
「……ん……ぅ……っ」
それでも艶かしい舌の感触に酔い、すぐに絶頂の波に呑み込まれ、光流の咥内にその証を放つ。
ビクビクと身体が痙攣して、息苦しさに解放を求めるが、光流は忍のものを咥えたまま離そうとしない。続けざまに刺激を与えられる。
「も……う……いい……っ!」
 一度達しているそこは酷く敏感になっていて、忍は必死で逃れようとするが、強く足を抑えつけられ、舌での愛撫が続けられた。
 執拗な愛撫に、自然と声が漏れる。眩暈のような感覚の中、二度目の絶頂を迎えると、ようやく光流は口を離した。しかし、今度は手で握り締め、上下に扱き始める。また大きく忍の身体が震えた。
「も……いい……って……!」
必死逃れようとするが、手首を拘束されているせいで、足を抑えつけられたら逃げようがなかった。やっと光流が手首を縛った意味を知り、立て続けに襲ってくる快楽に、忍は目に涙を滲ませながら必死で身を捩って逃れようとする。
しかし光流は逃がさないというように、乳首を舌で転がしながら、手で強く中心を刺激する。
「……はあ……は……ぁ……っ!!」
 頭がおかしくなりそうな続けざまの愛撫。けれど身体は嫌というほど素直に反応して、また絶頂へと導かれる。
「もう……だめ……だ……っ、光流……っ!」
 頼むからやめてくれと懇願するが、光流は愛撫の手を止めないまま、忍の耳を軽く噛んだ。
「イけよ、何度でも。今はそうやって、俺のことだけ考えてろ」
 ゾクリとするような声で囁かれ、また強く刺激を与えられる。
 三度目の絶頂を迎えるのにそう時間はかからなかった。
 
 
「も……嫌……だ……っ!」
 忍の瞳から涙がこぼれ、頬に伝った。
 これで何度目になるのだろう。もう達する事に限界を感じてもなお、光流は愛撫の手を止めない。
 絶頂を迎えたいのにいつまでたっても達せない感覚は、もはや苦痛でしかない。
 頭の中がおかしくなりそうな感覚。これではまるで拷問だ。
「みつ……る……っ」
頼むから、と忍が哀願するような目を光流に向けると、光流は忍の髪にそっと指を絡ませ、唇を重ね合わせた。情熱的な口付けと共に、苦しいほどの愛撫は止むことなく続けられる。
 「苦しいこと」と分かってやっているのだ、光流は。急速に憎らしい想いにもかられ、忍は光流の唇を思い切り噛んで抗議を示した。
「意地悪してるわけじゃねーって。考えなくて済むだろ? 何も」
 光流は余裕の声でそんなことを言うが、もはや忍はそれどころではなかった。
何も考えなくなるどころじゃなくて、本当に苦しいのだ。ただひたすら苦しい。早く終わりにして欲しくてたまらなかった。
 涙に濡れた瞳で睨みつけると、光流は苦笑しながら、指で忍の内部の良い部分を的確に刺激する。ビクンとまた忍の身体が震えた。
「じゃ、もう1回だけで終わりにしてやっから」
「ん……ぁ……っ!」
 そのもう一回が辛いんだと心の中で叫びながらも、与えられる刺激に翻弄される。
 悔しさと憎らしさばかりが心の内に広がるけれど、逃げることは許されず、ずいぶん長い時間の後にようやく何度目かの絶頂を迎えた。
「はぁ……はぁ……っ」
「何回イッたか覚えてる?」
 からかうような光流の声に、忍は必死で呼吸を整えながら、光流を睨みつけた。
 しかし光流は相変わらず余裕を見せたまま、忍の膝裏に手を当て、足を大きく開かせ自分の自身をゆっくりと忍の中に埋め込んで行く。
「そろそろ俺も限界」
「あ……!」
 言うのとほぼ同時に、奥深くまで貫かれて、忍は背を反らして強く目を閉じた。
 不意に光流の手が、忍の手首を拘束しているネクタイを掴み、解こうとしたその時。
「解く……な……」
「え、でも痛そうだぜ?」
「いい……から……、今日が、終わるまでは……」
 今まで随分、逃れようと必死だったから、確かに少しだけ痛む。
 けれど、今日、せめて0時が過ぎるまでは、このままでいたかった。
 こうして繋がれて、この場所に止めて欲しかった。今この時も業を煮やしても自分を待っているだろう父の元に、心が向かないように。
「わかった……。じゃあ、俺のことだけ、見てて?」
 忍の心を理解したように、光流はそう言うと、そっと忍の唇に口付け、ゆっくりと腰を動かし始める。
「あ……っ、あ……!!」
 光流の背に腕を回して、忍もまた自ら舌を絡ませ、腰を動かした。
 繋がり合う部分が、これまでで最高の快楽を忍の身体に齎す。
 今は、今だけは、光流のことだけを想っていたい。
 だから、もっと激しく、強く、何もかも忘れるくらい、執着を見せて欲しい。
 どんな苦しい方法でも構わない。ここに縛り付けて、離れられなくして欲しい。
「みつ……る……っ、もっと……っ」
 激しく揺さぶられながら、熱いキスを交わす。
 奪われる。心も、身体も、何もかも。
 
 獣じみていると、愚かだと、誰かは嘲笑するかもしれない。
 けれどどんな歓喜よりも、激しく身体が反応する。はっきりと、あまりにも自然に、こうありたいと望む自分がいる。
 間違っているはずがない。
 こんな感覚が、熱情が、喜びが、……愛情が。
 激しい一時を熱に浮かされながら、忍は強く目を閉じ、そして確かに、想った。

(間違っているはずが、ない)
 
 
 0時を過ぎたとほぼ同時に、手首の戒めが解放され、少し赤くなったその部分に光流がそっと口付ける。
 懐かしい仕草だった。縛られてとことんまで征服された後の、暖かい抱擁。限りなく甘い感覚。
「光流……大人になんか、なるなよ」
 手首を預けたまま、忍は囁く様に声を発した。
「こうしていいんだ……。こう、されたいんだ。俺は、弱いから……」
 強い執着を、愛情を、束縛を、忍は求めていた。
 意地もプライドも、無意味だと思った。
 光流に縛られ犯され、征服される。何もかも奪われる。かつて恐ろしいばかりだったその感覚は、しかし何よりも激しい歓喜でもあったのだ。今ならば、きっと恐怖はどこにもない。ただ熱く激しく、狂おしいほどに満たされるばかりだろう。
 弱いから、それを願う。そうでなければ、翻弄され、間違ってばかりいる脆弱な自分を、忍はもうとうに認めている。
「うん……そう、したいけど……やっぱ、やめとく」
 ずいぶん迷った挙句のように、光流が言った。
「なんか、エスカレートしちまいそうで怖いから……」
「エスカレート?」                                                                                
 どういう意味だと忍がきょとんと目を見開くと、光流は忍の耳元に唇を寄せ、そっと声を発した。
 途端、忍の頬がカッと赤く染まる。
「やっぱり……今回限りだ」
 この変態、と言わんばかりの忍の呆れように、光流が苦笑する。
 かなりマニアックなプレイばかりを囁かれ、つくづく間違った相手を選んだと後悔しながらも、忍は思った。
 もしかしたらいつか、それさえも受け入れてしまいそうな自分が少し怖くもあり、けれどそこまでの執着はやはり喜びでしかなく、心はどこまでも満たされてゆくばかりだ。
「じゃあ、たまには縛っていい?」
「これきりだ!!」
「え~っ!」
「うるさい変態」
 突然襲ってきた羞恥心を前に、忍はフイと光流から顔を背ける。
 けれどすぐに顎を捕らえられ、熱を帯びた唇が自分の唇に吸い付いてきて、舌が優しく咥内を蹂躙する。
 その感覚に酔いしれながら、忍はとうに父の存在を忘れていたことを思い出し、けれどその事に酷く心穏やかでいられる自分に何も嫌悪は抱かなかった。
 
 
「ほんっとに大丈夫か!? 俺、やっぱり付いて……」
「来るな! 大人しく待ってろ」
 翌日、父の泊まるホテルに向かおうとする忍に、光流がしつこいほど「俺も一緒に行く!」と言って聞かなかったが、忍は頑なにそれを拒否した。
 けれど結局、ホテルの近くで待つという結果に終わり、光流を喫茶店で待たせながらホテルに向かい、忍は深くため息をついた。
 全く光流の過保護には、ただ呆れるしかない。
 光流が一緒に行ってどうしようというのだ。ただでさえ父を困惑させるばかりなのに、そのうえ男の恋人など連れていった日には、その場で心臓麻痺でもおこしかねない。
 肝心な時は手を差し伸べてくれない癖に、こういうどうでも良い時ばかりにとことん甘やかしてくる。
 そこまで思って、ふと忍は失笑した。
(どうでも良い、か)
 父の事をそんな風に思ったのは初めてだった。
 そう思えることがなぜだか誇らしくもあり、忍は父の待つホテルに、まっすぐに顔を上げ、足を向けた。
 
 
 ホテルでディナーを共にしながら、昨夜の約束をすっぽかした理由を口にした途端、父は無言になった。
 当然ながら恋人と共に生きたいからなどという直接的な事は口にしなかったが、父の怒りを煽るには十分な理由で、食事を終え父の泊まる部屋に足を踏み入れたとほぼ同時に、右の頬に平手が飛んできて、忍は足元をよろめかせた。
「今回のことは大目に見てやる。少し頭を冷やせ」
 冷徹な声。
 変わらない抑えつけ。
 幼少時から、少しでも父の命令に背いたり、人より劣ったり、父の期待に応えられなかったら、容赦なく罵声と体罰が飛んできた。そんな時、たいがい兄だけは庇ってくれたが、姉は当然のこと、母もまたそ知らぬフリで横を通り過ぎてゆくだけだった。
 そうしていつからか父を怒らせない要領を身につけ、いつか何もかも奪ってみせると心のうちで野心を燃やしながら、ただ心を無にして父の命令に従い続けた。だからこんな風に殴られるのは、ずいぶんと久しぶりの事だった。
「……変わりません。僕は、自分の生きたい道を……」
「黙れ!!!」
 頭ごなしに怒鳴りつけられ、忍は諦めにも似た想いで心の中でため息をつく。
 今、何を言っても、父は決して受け入れはしない。それを分かっていても訴えなければならない空しさに、疲労感ばかりが溜まっていく。
「絶対に認めん。いま少し時間をやるから、よく考えるんだ。それでも考えを変えないというなら、容赦なく連れ戻す」
 もはや無駄だと悟り、忍は口を閉ざした。
 口の中に血の味が広がり、苦さばかりを抱えたまま、冷たい父の背に忍もまた背を向け、その部屋を後にした。
 
 
 酷く重い面持ちで喫茶店のドアを開いた途端に視界に飛び込んできた、慌てて駆け寄ってくる光流の姿に、一瞬にして張り詰めていた心が緩むのを感じながら、いきなりガシッと頬を包み込まれて大きく目を見開く。
「大丈夫だったか!? うわ、ほっぺ腫れてんぞ!! もしかして殴られたのか!?」
「騒ぐな、このくらい何でもない」
 それより早いところこの場から出ないと、注目の的だ。
 忍は早々に喫茶店を後にし、街中を歩き出す。
「なあ……本当に大丈夫なのか?」
「まあ、何とかなるだろう」
 横を歩く光流に尋ねられ、忍はやけに飄々とした顔で応えた。
 もちろん一筋縄ではいかないであろうことは分かっているが、だがもう何も迷う事はないのだ。ずいぶんと気楽になったとだけ思う。
「光流、ちょっと付き合ってくれないか?」
「へ?」
 何故だか少し嬉しそうな様子でそう言った忍に、光流はきょとんとしながら後を付いていった。
 
 
 忍が足を向けたのは高層ビルの展望台で、イルミネーションが広がるムード溢れる夜景を目の前に、恋人同士であろうと思われる男女が肩を組み合ったり、あるいは腰に手を回し寄り添っている光景の中、光流が目の前に広がる美しいばかりの夜景に感動したように、観覧スペースに手をついた。
「やっぱ凄ぇな、久しぶりに見たけど感動するわ」
「誰と見たんだ?」
「……そういうこと聞くか?」
 呆れたような面持ちで、光流が目を据わらせる。
「つか、何でこんなトコ連れてきたんだよ? おまえは見慣れてるんじゃねーの?」
 少し嫌味っぽい光流のその言葉に、忍はフッと静かに微笑する。
「確かに見慣れてるけどな」
 光流と同じように観覧スペースに手をつき、忍は小さく言った。
「こんなに綺麗だと思ったのは、初めてだ」
 目の前の夜景に目を細め、静かに声を発すると、スッと手を伸ばし光流の首に腕を回して引き寄せ、唐突にその唇を奪う。
 光流は驚いて目を見開き、しかし唇を離してもまるで平静な忍を目前に、また目をすわらせた。
「おまえ……最近、なりふり構わなすぎじゃねえ?」
 とりあえず、いろんな意味で注目を浴びているであろう周囲の視線に、顔を赤くしながら光流は言う。
 しかし忍は相変わらず落ち着いたまま、静かな微笑を浮かべた。
「なりふり構わないから、恋なんだろう?」
 忍の言葉に、光流はほんの少し目を見開いて、それから穏やかに微笑んだ。
 そうして忍の腰を抱き寄せ、ゆっくりと顔を近づけていく。
「開き直ったおまえって、サイキョー……」

 触れ合う唇から伝わる、指先まで満ちてくる幸福感。
 急速に、心が色を増してゆく。
 光流がいるから。いつも近くにいて、自分だけのものでいてくれるから、目の前の景色が鮮やかに色を持つ。
 いつか、この選択を後悔する日は来るのかもしれない。
 それでも今は、この色を失いたくない。
 モノトーンの景色ではなく、色鮮やかな世界に住んでいたいから。
 
(頑張って、幸せになろうか)