colors<前編>
『いつでも笑顔を絶やしてはいけませんよ。相手に警戒心を与えないよう、決して嫌悪感を表に出してはなりません。どんな相手にでも、優しい微笑みと言葉だけを向けなさい。そうすれば、人は自然とあなたに付いてきます』
微かな人のざわめきの中、ふとそんな言葉を思い出し、忍は目の前の女性に取り繕うように笑顔を向けた。
「すみません、少しぼんやりしてしまって。そろそろ、ここを出ましょうか?」
「はい」
一流ホテルのラウンジから外に出ると賑わしい人の群れが行き交い、先ほどから止まない頭痛に悩まされながらも、忍は人当たりのよい微笑みを絶やさず、先ほどまで当たり障りのない会話をしていた女性に別れを告げた。
そうして、急ぎ足で自宅へ向かう。
一分でも一秒でも早く、帰りたかった。
頭が痛い。
父の言いつけで、都内に住む有力者の娘に会う時は、いつもこうだ。
つまらない会話。早く過ぎれば良いと思うだけの時間。記憶になど残したくないのに、自然と彼女の人柄や思考を即座に見分け、喜ばせる方法を頭の中で計算しては、また一人、利用できる人間が頭の中にインプットされる。
(うんざりだ)
そう思うのに、何故、父からの命令に背を向けることができないのか。
暗い面持ちで、忍はようやくたどり着いた自宅の古びたドアの鍵を開けようとして、既に開いていることに気づきドアノブを回した。
「ただい……」
「忍っ!!」
突然、足元がよろめくほど急速に抱きつかれて、忍は一瞬目を大きく見開いた。
「……何なんだ、いったい」
少し呆れた風に声を発すると、いきなりガシッと手で頬を包み込まれる。
「だって一日ぶりじゃん!!」
「一日……」
確か昨夜は光流が夜遅くまでバイトで、結局帰ってきたのは明け方で、数時間もしないうちにまた光流はバイトに行って。だから確かに、こうして触れ合うのは一日ぶりといえば、それはそうだが。
「おま……」
だからって何もここまで喜ばなくても、といった意味合いの台詞を口にしようとした途端に、いきなり唇を塞がれる。
一瞬、鼓動が高まるのを感じて、忍は目を閉じて光流の袖を掴んだ。
少しだけ、光流の気持ちが分かった気がした。
たったの一日。それでも、ずいぶんと長い一日だったように思う。
熱い唇。眩暈がするような幸福感で、体中が満たされる。
先程までの吐き気や頭痛が嘘のように和らいでいき、唇を離して目を開くと、無邪気な笑みが視界に入ってきて思わず口元が緩んだ。
「腹、減ってねえ? っても、まだ飯作ってねぇんだけど」
今日の夕食当番は光流の番。
どうやら今から作ろうとしていたところらしい。キッチンから湯の沸きあがる音が耳に届き、光流が慌てて止めに行った。
忍は靴を脱いで部屋に入ると、ネクタイを緩ませ、小さく息をつく。
「……風呂、入ってくれば?」
光流がコンロのスイッチを切って小さく声を発した。
その様子に、忍はすぐさま不穏な空気を感じ取った。そして、気まずさを隠せない様子で目を伏せる。
「ああ……そうする」
忍もまた小さく言って、上着を脱ぎ捨てた。
ほんの少しだけれど、香水の香りがするスーツが、床の上にバサリと音をたてた。
「……っ……ん……」
いつもより性急で、少しだけ荒々しい愛撫に、忍は苦しげに身を捩った。
シーツを握る手に、自然と力が篭る。
それでも極力優しくあろうとする光流の、抑え付けた激情が胸に痛い。
女と会っていたからといって、特に何をするわけでもない。ただ会って、話をするだけ。
光流もそのことをよく分かっているから、いつも何も言わない。けれど、抑えつけている感情は、自然と忍を抱きすくめる腕の力を強くする。
そんな光流の想いを分かっているからこそ、忍もまた、強く光流の体を抱きしめた。
「あ……! も……う……っ!!」
激しく体を揺さぶられ、限界の波が押し寄せる。
体内に快楽の証を解き放たれても、それを咎めることは出来なかった。
繋がりあったまま、深く口付けを交わす。
何も言葉にしてはいけない。
互いに、分かっているからだ。
言葉にしてしまったら、傷付け合う結果にしかならないことを。
けれどせめて、想いだけは伝えたいから、強く抱きしめ合う。熱を伝え合う。触れる指先から満たされる幸福感を分かち合う。
なぜ、人は一つに溶け合えないのだろうと、切ない想いにもかられ、忍は瞳の奥に悲しさばかりを宿しながら、柔らかい光流の髪に指を絡ませた。
光流もまた何も言わず、頬に、額に、唇に、優しくキスをする。
その優しさが痛くて、大丈夫だと言うかわりに、光流の頬を両手で包み込み、優しいキスだけを返した。
大人になったのだと思う。
たとえどんな理不尽なことを強いられても、決して無理強いをしなくなった光流は、見ていて痛々しいほどに自分の感情を押し殺していて、それを知りながら愚かなことを続けている自分の汚さを、忍はただ嫌悪する。
自分は利用しているのだ、光流の優しさを。
光流が本当は昔のように、激情だけを露わにして、感情に任せて叫びたいのを必死でこらえていることを、知っているのに。
けれどどうしても、捨てられないものもあるのだ。
幼い頃からずっと、それだけをただ一つの道と信じていた。
これを捨ててしまったら、今まで生きてきた全てのものが意味を成さなくなる。
それは光流を苦しめるだけだと、知っているのに。
(最低だな……)
激しい自己嫌悪と共に、忍は深く息をついた。
大学は同じでも、光流と忍の交友関係はまるで別のものだった。
気さくで自由気ままに生きる友人に囲まれる光流とは反対に、同じような境遇で生まれ育ち、人脈を築くためだけに付き合う忍の友人とでは、やはり考え方も価値観もまるで違う。二つの線が交じり合うことは決してなく、自然と大学では別行動になり、恋人同士として暮らしていることが嘘のように、すれ違えばたまに声をかけ合う程度の仲。周囲が何故一緒に暮らしているのか疑うほどの距離感。
「手塚君って、どうして池田なんかと付き合ってるの? 一緒に住んでるんだろ?」
「……ああ」
二人の友人に囲まれながら、忍は力無い返事をした。
「それ、僕も聞こうと思ってたんだ。彼って、なんでも捨て子だって話だよね。見るからに軽そうだし、付き合っててメリットないんじゃないの? 手塚君みたいな人が、何でわざわざ好き好んで……」
次第に友人達の声が遠くなっていくのを感じながらも、忍は微笑だけは絶やさない。
もはや友人と呼ぶにも汚らわしい。わざわざ好き好んで付き合ってやってるのは、お前たちの方だ。利用できる価値がない人間なら、お前達などとうに切り捨てている。
恐ろしいほどに心が冷えていくのを感じたその時、不意に腕に暖かい感触が走って、忍はハッと顔をあげた。
「忍、来て」
いつの間に、そこにいたのだろう。あまりにぼんやりしていて、不覚にもまるで気づいていなかった。
忍の腕を捕らえた光流が、友人たちから引き離すように、忍をその場から連れ去った。
「どうしたんだ? 急に」
「ん? たまたま見かけたから、声かけただけだぜ?」
あまり人気のない構内を歩きながら、光流は何気ない口調で言った。
「今日の夕飯、何する? たまにはどっか食べに行かねえ?」
「珍しいな、外食したいなんて」
「先月みっちり働いたおかげで、バイト代多めに入ったから、奢るぜ? なに食べたい?」
「おまえの好きなものでいい」
「またそれかよ、たまにはおまえが決めろよな」
小さく息をついて、光流は咎めるように言った。
「俺が好きなものだと、予算が合わないだろう?」
忍はからかうようにそんな言葉を口にする。光流がグッと言葉を詰まらせた。
「じゃ~焼肉にする! いつものとこ!」
「分かった。また後でな」
ふてくされたように言った光流に、造ったものではない笑みを浮かべて、忍は光流に背を向ける。
「忍……!」
ふと、呼び止められ、忍は振り返った。
「……大丈夫か?」
優しい瞳で、尋ねられる。
忍は一瞬、返す言葉を失った。
なぜ、光流には分かってしまうのだろう。
なぜこんなにも鮮やかに、冷え切って失った心を取り戻させてくれるのだろう。
急速に、泣きたくなるような想いにかられ、今すぐにでも抱きついてキスをしたくなった。
「変な心配するな」
忍は必死でその衝動を抑え、落ち着いた声色でそう応えた。
そうしてまた、光流に背を向けて歩き出す。
大学が終わったら、一緒に焼肉を食べに行って、それから家に帰って、抱き合えればそれでいい。
そう、自分に言い聞かせながら。
その日は数ヶ月ぶりに蓮川や瞬と一緒に、朝からドライブに行こうという予定になっていた。
けれど前日の夜、突然父から電話があり、先日会った女性がおまえのことをいたく気に入ったからと、既に決められた時間と場所を指定されるだけされ、素っ気無いだけの会話が途切れた。
「光流……悪いが明日、予定が出来た」
「え? まじ? あいつら楽しみにしてたのに」
「車は貸すから、おまえらだけで行って来てくれ」
「……また、親父さんの命令?」
やや低い声で、光流が声を発する。
いつもは尋ねられることのない問いに、忍はわずかに鼓動が高まるのを感じた。
無言でいると、しばらくの沈黙の後、光流が小さく息をついた。
「おまえさ……決める気、あんの?」
明らかに怒りを含んだ口調。
「悪ぃけど俺、いつまでも物分かりの良いフリ、出来ねえから」
いいかげん我慢の限界だと言うように、光流は苛立ちを隠さない。
近く話さなければならない日が来る事は忍にも分かっていた。けれどこんな急に、突然、答えを求められても、返事など出来るはずがない。まだ答えは何も出ていないのだ。
「決める……? 何をだ?」
誤魔化すように、忍は尋ねる。
問いの意味など、分かっていながら。
「誤魔化すんじゃねーよ。分かってんだろ?」
容赦ない言葉を向けられ、忍は追い詰められた。
「決めたりしなくても、俺の心は変わらない。たとえどこにいても、誰といても、全てはおまえのものだ。それだけじゃ、駄目なのか?」
もはや誤魔化しなど意味のないものだと悟り、忍はまっすぐに光流を見つめ、真剣な言葉を向けた。
「それって、俺におまえの愛人になれ、って事?」
光流の視線が、冷ややかに忍を見据える。
あまりに直接的なその言葉に、忍は目を見張った。
「……嫌な言い方をするな」
忍は光流から視線を逸らし、気まずいように言い放つ。
「どういう言い方をしようが、同じ事だろ? つまり割り切ったお付き合いしましょうって、そう言いたいんじゃねえの?」
「違う……!」
「何が? 今やってる事自体、もう同じ事だって分かってねえの? これからもずっと、おまえが女に会いに行って香水の匂いさせて帰ってくんのを、俺に黙って待てって言うのか?」
いつもの光流とはまるで別人のような、冷たい目つきと声。
「そう……じゃない。何もおまえに待てなんて言ってない。おまえだってやりたい事をやって、好きなように生きればいいじゃないか」
「……っざけんな!!!」
突然、光流が拳で強く壁を叩いた。
ビクリと忍の肩が震える
「俺がどこにいて何をしようと、たまにここに帰ってきておまえを抱きさえすれば、それで構わないんだな?」
極限まで達した怒りを抑えつけたまま、光流は忍の腕を強く捕らえ、その唇を奪った。
「だったらお望み通り、そうしてやるよ。愛人にでも何でもなってやる。その代わり、体だけだ」
獣じみた瞳が、忍を見据える。
こんな光流の顔を、ずいぶんと久しぶりに見たと思いながら、忍は奪われるままに身を預け、咥内に割り込んでた光流の舌に自分の舌を絡ませた。
やはり、光流にはもう限界だったのだ。当然だ。光流の言うことは全てがあまりにそのままで、結局は大人になって我慢をしろと言っているに過ぎない。嫉妬も独占欲も全て押し殺して、互いに自由に生きながら体の関係だけを続けるなら、そこには愛情など欠片もないのだ。
けれど、どうすればいい?
愛をとるのか、信念をとるのか、冷め切った関係だけを続けていくのか。
分からない。どうしても。
「……く……っ!」
半ば無理やり体内に押し入れられた激痛。
苦痛に眉を寄せる忍を抱きすくめながら、光流は容赦なくその体を貪る。
それでも忍は、全身でもってその激情を受け入れる。
離したくはなかった。たとえ、何を捨てても。
そこまで想いながら、信念を、生き方を、捨て切ることが出来ない。
本当はそんなもの何一つ、欲しくなどないのに。欲しいものは、ただ一つしかないのに。
「忍……、俺を、選べよ……!」
「は……っ、……っ!」
強く、強く、抱きしめられる。
体だけだなんて言いながら、心ごと強く。
「大人になんか……なるな……っ」
繋がるまま忍の頬を撫でる光流の手は、酷く優しい。
戻りたい。
忍は心底、そう願った。
まだ互いだけを求め合い、愛し合い、それだけでいられた幼かった時期に、もう一度戻れるなら。
あの、小さな楽園に。
(グリーン・ウッド……) あの場所に、戻りたい……。 |
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