BORDER<前編>
それは、とある日の放課後。教室での出来事だった。
「あ……」
教室の扉を開いてすぐに、光流は間抜け面で口を開けた。
明日の古典の課題のプリントを教室に忘れていた。さすがにマズい。マズすぎる。いったん寮に帰ったものの、慌てて学校に戻った。時計の時刻は夕刻の六時を回っていた。だからまさか、こんな時間に教室に人がいるとは思わなかったし、増してや生徒同士が窓際で口付けを交わしているなんて、いったい誰が想像しよう。
「ご……ごめん……!!!」
光流はこれ以上なく焦りを露に、慌てて教室の扉を閉じて踵を返し、長い廊下を早足で歩き出した。その表情は狼狽の色に満ちている。
いや別に珍しいことじゃない。学校でキスするカップルなんて中学時代にも普通にいたし、自分にだって決して無い記憶ではないわけで。
(だけど……)
確かここ、男子校だったよな?
思った瞬間、光流はますます心臓の鼓動が高鳴るのを感じ、寮までの道のりを早足で歩き続ける。
どうしよう。といっても、どうしようもこうしようも無いのだが、だけど、それにしても。両手で頭を抱え、光流はその場に座り込んだ。
すっかり暗くなった空には、三日月がぼんやりと浮かんでいた。
明日は立山の古典。余計な雑念に囚われている場合ではなく、きっちり課題を仕上げなければならないというのに、少しも思考が回らない。とりあえずは飯だ。そう思いながらコタツに突っ込んでいた足を出し、部屋を出ようと立ち上がったその時、カチャリと小さな音をたててドアが開いた。光流は思わず肩をびくつかせ、その場に静止する。
「ただいま」
そんな光流とは裏腹に、光流よりだいぶ遅れて帰ってきた忍は、いつもと何一つ変わりない落ち着いた声で言い放ち、いつもと何一つ変わりない落ち着いた造作で鞄を机の上に置いて、首に巻いたマフラーを外した。
「お、おかえり……」
明らかに上擦った声で、光流は返事を返す。
わずかな沈黙の後、忍が何気なく光流に顔を向けた。またしても一瞬、鼓動が高鳴る。
「飯はもう食ったのか?」
「いや……これから。おまえも行くだろ?」
「ああ」
低い声で忍が返事をする。
冷静な声。怜悧な表情。いったい何を考えているのだろう。これまで何度思ったか知れないが、今日はなおさらその想いが込み上げてくる。けれどどうしても聞くに聞けない。行動力には自信があるはずなのに、何故こうも非常事体には弱いのだろう。
結局何も聞けないまま、消灯時間に突入。部屋の明かりを消すと、忍が先に下段のベッドに潜り込む。光流ははしごに手をかけ上段のベッドにあがろうとしたが、やはりこのままでは落ち着いて眠れそうにない。思い直してピタリと動きを止めた。
「あ、あのさ……」
光流の上擦った声を耳にした忍が、横向きにした身体を起こした。わずかな明かりの下ではその表情は見えにくい。
「今日……教室で……」
言い出したものの、どう尋ねて良いか分からず口ごもった光流に、忍は間髪入れず応えた。
「なんでキスしてたかって?」
あっさり応えた忍に、光流は言葉を詰まらせ顔を赤らめた。
どうやら尋ねたくても尋ね損ねていたことは見透かされていたらしい。全く意地の悪い奴だと、光流は心の中で悪態をつく。
「無理やりされただけだ」
「む、無理やりって……」
光流はますます焦った様子で、はしごにかけていた手を下段のベッドの柵に移動させ、狼狽ばかりを露に忍の顔を覗きこんだ。
「男子校では大して珍しい事でもない。同意でも何でもないから、そんなにうろたえるな」
そういえば、忍が中学時代も男子校だったという話を即座に思い出した光流だが、かといってそんな事実に狼狽するなという話が無理というもので。
「おまえ……大丈夫なのかよっ?」
「何がだ?」
「いや……だから、この先どうするのかとか……」
「早々に転校するだろうな、おそらく」
「は?」
突然のわけのわからない台詞に光流が眉をしかめると、忍は邪悪な笑みを浮かべた。
「この俺にうかつに手を出して、タダで済むはずがないだろう?」
邪気をたっぷり含めた声色。
そうだ、こいつはこういう奴だった。光流は無駄な心配だったと肩を落とす。
「おまえなぁ……ビビらせんなよ……。ったく……」
呆れ口調と共に身体をまっすぐにし、とりあえずの安堵と共に足を一歩踏み出したその時、忍の手が光流の腕を掴んだ。
「な……」
んだよ? 尋ねようとした刹那、強い力で腕を引き寄せられる。思わず目を丸くした光流の唇に、柔らかくて暖かい感触が走った。一瞬にして光流が全身を硬直させる。
すぐ目の前の相手は先ほどよりは暗闇に慣れた目のせいでしっかり見えるけれど、その表情からは全く感情が読み取れない。ただ、唇を離したと同時に薄く微笑んだ口元と、切れ長の瞳の上に小さく揺れる睫が、やけに光流の脳裏に焼きついた。
「この程度でビビるなよ。……おやすみ」
からかうような口調でそう言い放つと、忍は光流の腕を離し、光流に背を向けて布団の中に潜り込んだ。
少しも動けずにいた光流は、しばし呆然とした瞳で忍の背を見続けた。
手塚忍。緑都学園一年生。現在生徒会の副会長。
自分。池田光流。同じく緑都学園一年生。ごくごく普通の一生徒。
時は一月半ば。あと三ヶ月も経たないうちに、揃って二年生に進級する。
吐く息がやや白い部屋の中、コタツに足を突っ込んで勉学に励む光流は、机に向かい本を読んでいる忍にチラリと目を向けた。
この寒いのに、寒さなど微塵も感じていないような淡々とした横顔。本当は寒いのに我慢しているのか、それとも本当に寒くないのか。まるで読み取れないその怜悧さは、さすが鋼鉄の仮面を持つ悪魔のような男だと、寮内でも学園内でも一目置かれるだけのことはある。
血が通っていない。そんな言葉がピッタリ当てはまるような同居人。
(でも……)
ちゃんと、暖かかった。
そんなことを思い出した途端に小さく鼓動が跳ね上がり、自分でもわけの分からない感覚に襲われ、光流は慌てて忍から視線を逸らした。
あれは忍のただの悪ふざけで、冗談で、からかわれただけで。この門限破りの常習犯にはあくまで「この程度」のことで。だから何も、狼狽する必要なんてない。
そう自分に言い聞かせ、光流は目の前の参考書に意識を集中させた。
その一週間後、三年の生徒会役員である菅原という先輩が、卒業を前に退学していったらしいとクラス内で噂されていた。
忘れようにも忘れられない、ただ一瞬のあの感触だけを除いて。
「じゃあ光流、今日もよろしく」
「……あいよー」
二月十四日、バレンタインデイ。大量のチョコレートの包みを前に、光流は力なく返事をする。
『大好きです』
語尾にハートマークのついた可愛らしいメッセージカードを見つめながら、光流は小さくため息をついた。
彼女たちの気持ちもプレゼントも嬉しくないと言えば嘘になるけれど。それが本当の「好き」ではないことくらい、とうの昔に知っているから、心のどこかが空しさで溢れている。そんな空しさを打ち消すために、寮の友人達の前では浮かれてはしゃいで自慢してみせる。自分も大概、仮面を被った道化師だ。
今度は深くため息をついて、メッセージカードをチョコレートの箱の中にしまった。
部屋の明かりを消し、下段のベッドに潜り込む。明日の朝、起きたらきっと文句を言われるだろうけど、そんなの知ったことじゃねぇ。
口をとがらせ心の中で悪態をつきながら、光流は頭からガバッと布団を被った。
四時限目が終わり昼休みに突入。大勢の生徒達が廊下を行きかう。賑やかな足音と声の中、光流は学食に向かうため教室から廊下に足を踏み出した。
「キスって……」
ふと、横切った生徒二人のうちの一人の声が耳に届いた。何気ない一言に、ドクンと鼓動が跳ね上がった。
「美味くねぇ?」
「いや、天ぷらはやっぱ海老だろ」
他愛もない話をしながら、生徒二人は遠ざかっていく。なんだ天ぷらの話かと、光流は浅く息を吐いた。
(キス)
頭の中に、何度も浮かび上がるその言葉。気がつけば人差し指が唇に触れていた。
しかし余計な思念を追い払うように、光流は唇から指を離して頭を振る。
「光流」
ふと声をかけられ、光流は振り返った。一瞬跳ね上がった鼓動を誤魔化し、力なく「おう」と返事をする。
「今から学食か?」
忍が光流の隣に足を並べた。そのまま二人、学食に向かって歩き続ける。
突然、バタバタと派手な音をたてて廊下を走ってきた生徒数人にぶつかられ、忍が足をよろめかせた。光流は反射的にその身体を支える。細い髪が頬に当たって、またしても一瞬、妙な胸騒ぎを覚えた。
「大丈夫か?」
「……確かサッカー部の連中だったな」
忍は体制を建て直し、ぶつかっていった生徒数人の姿を目で追った。表情は変わらないが、その瞳の色は明らかに怒りに満ちている。光流は苦笑した。
「ちょっとぶつかられたくらいで怒るなよ、っとにおめーは大人げねーな」
呆れた想いでそう言うと、忍は面白くなさげに、フイと光流から顔を逸らす。
(拗ねんなよ)
言葉に出したらますます不機嫌になるから、光流は心の中で再度苦笑しながら呟いた。
やたらと人生達観してるくせに、変に子供っぽいところもある忍のアンバランスさが、光流はいつも可笑しくてたまらない。ついついからかいたくなってしまうけれど、以前あまりにからかいすぎて本気で怒らせてしまい、寝てる間に濡れ布巾をかけられ危うく殺されかけたことを思い出し、からかうのはやめにした。
「早く飯食いに行こーぜ、腹減った」
気を取り直して明るい声でそう言って、光流はまた廊下を歩き始める。数歩足を進めるが、忍が近づいてくる気配が無い。振り返って、光流は笑顔を浮かべた。
「忍」
呼ぶと忍はようやく、まっすぐな姿勢と軽やかな歩き方で光流の元に歩み寄った。
「なに食うかなー」
両手を頭の後ろで組んで、光流は独り言のように呟いた。チラリと忍に目を向けると、まだほんの少し機嫌を損ねている様子で。またしても心の中で笑ってしまうと共に、そのよく整った横顔を前に、また一瞬、妙な胸騒ぎを覚えた。
その日の夜、忍は例のごとく門限破り。いいかげん、いちいち鍵を開けておいてやるのも面倒だし、何だか無性に腹が立つ。
「つーかよく考えたら、何で俺がいちいち鍵開けといてやらなきゃならねーんだよ?」
いつの間にかフォローをするのが当たり前になっていたことに不満を覚え、光流が「もうやらない」と訴えると、忍はさして悪いとも思っていない様子できょとんと光流を見つめる。それから何事か考えついたようにポンと光流の肩を叩いた。
「分かった。毎月プレイボーイ一冊で手を打とう」
「のった!!!」
光流は思わず喜んでから、忍がパタンとドアを閉めて出て行った直後に、ハッと目と口を開く。そして即座に後悔した。いやしかし雑誌一冊分の小遣いが浮くのはあまりに捨てがたい。というかうまく乗せられた。乗ってしまった。なんでこうバカなんだ自分。頭の中で後悔ばかりが渦巻く。ぐるぐるする思考をどうにか沈めるため、光流は部屋を出て同級生の親しい友人の部屋に飛び込んだ。
なんだか最近、やけに感情の起伏が激しい気がする。
その日も何故か酷く疲労感を感じて、放課後いつものように仮病を装って保健室のベッドに潜り込むが、一向に睡魔は襲ってこない。それどころか胸の内のもやもやは広がっていくばかりで。光流は深いため息と共に身体を起こし、ベッド脇の白いカーテンを勢いよく開いた。
「どうした?」
机に向かい書類にペンを走らせていた保険医、蓮川一弘が穏やかな視線を光流に向ける。
「眠れねぇ」
「悩み事でもあるのか?」
「何で」
「人が眠れないのは、たいてい脳が働きすぎてる証拠だ」
言いながら、一弘は光流の元に歩み寄った。
ということは、よく眠れているいつもは、まるで脳が働いていない証拠なのだろうか。どっちもどっちだと思いながら、光流はベッドの上から立ち上がって籠の中に放り込んでいたブレザーを手にとった。
「何かさ、最近、落ち着かねぇんだ」
「原因は?」
「原因……」
「いつから落ち着かない?」
考え込む光流に、一弘はなるべく答えやすい質問を選んで尋ねた。酷く考え込む光流の表情が、一瞬、何かを思い出したように微妙に変化した。
「……キスくらい、大した事じゃねぇよな」
思い出しながら、光流は素っ気無く言った。そう、大したことじゃない。けれどもしかしたら、そう思いたいだけかもしれない。
「いくら男同士でも」
「まあ……無い話じゃないな。男子校なら」
光流の抽象的な台詞を即座に理解し、一弘はあっけらかんと言い放った。
なるほどそういうことかと、妙に納得している様子だ。誰にされたかまでは聞かないことにして、一弘はポンと光流の肩に手を置いた。
「そんなに気にすることじゃない」
「……だよな」
光流はやや俯き加減で応えた。その表情も声も力無い。
よほどショックだったのだろうか。だが色恋に飢えた年頃の男ばかりの男子校で、この可愛らしい顔立ちの一年生が男に目をつけらえるのはある意味仕方ない。一弘はやや検討違いの憶測を言葉にはせず胸に秘めたまま、もう一度「気にするな」と笑顔を浮かべた。
「わっ!!」
何やら考え込みながらぼんやりした表情で教室の窓辺に肘をつき外を眺めていた光流の背後に、同じブラスバンド部三年生の先輩が軽い声を放ちながら光流の肩に飛びついた。あまりの勢いの良さに窓から落ちそうになった光流は、慌てて窓のサンを掴み転落は免れたが、まだ抱きついている先輩に恨みがましい目を向ける。
「いきなりなんスか、久留米先輩」
「浮かねぇ顔してたから、元気付けてやっただけだよ。んな怒るな」
そう言って、光流より頭一つ分長身の久留米は、まるで子供にするように光流の頭をポンと叩く。
気持ちは有難いが、しかし出来ればもう少しマシなやり方で頼みたいものだと、光流は浅く息を吐いた。
「なに? なんか悩み事でもあんのか?」
「別に無いですよ。あ、そーいや先輩、大学合格おめでとーございます」
「おう、サンキュ」
「凄いじゃないですか、あのK大に現役合格なんて」
「ああ、自分でもビックリだぜ。にしても、まさかあいつが落ちて俺が受かるなんてなぁ……」
ふと少し暗い表情をして久留米が言った。
「あいつって?」
「菅原だよ。去年、生徒会にいた学年一の秀才」
その名前を耳にした途端、光流は目を見張らせた。
「なんでも受験前からかなりノイローゼ気味だったみたいで、今回大学落ちたことで、自殺未遂図ったらしいぜ? いきなり退学したのも、それが原因だったのかもな。良い奴だっただけに、なんかやるせねーよ」
本気で落ち込んでいる目をして久留米は言った。
光流もまたやや暗い面立ちで「そうですね」とだけ返して、別の話に転化する。
心の内に、酷くもやもやした感情ばかりが渦巻いた。
けれど今回の菅原の件に関しては、どうしても引っかかる部分がある。
消灯前、そろそろ寝ようと本を閉じて椅子から立ち上がった忍と一緒に、光流もまたコタツのテーブルの上に開いていた雑誌を閉じて口を開いた。
「今日……聞いたぜ、菅原先輩のこと」
光流が何気ない口調で言うと、忍は案の定、まるで表情を変えず、「そうか」とだけ言ってベッドの柵に手をかける。
「おまえさ……平気なの?」
「何がだ?」
淡々とした横顔。光流は真剣な表情のままに言葉を続けた。
「自殺未遂の原因、自分だって分かってんだろ?」
直接的に尋ねると、忍はわずかだが反応を見せた。けれど、相変わらず冷めた視線を光流に向ける。
「それがどうした?」
「……平気なのかって言ってんだよ」
「平気も何も、俺には関係の無いことだ」
忍はまたも冷徹に言い放って、それ以上何も言う気はないというように、自分のベッドの中に潜り込んでいった。
今は何を聞いてもそれ以上応えない。光流はそう悟ったものの、心の内に沸いた苛立ちを隠せず、眉を上げて拳を握り締めた。
忍が心の内を見せてくれない。ただそれだけのことで、胸が酷く締め付けられる。
あの図書室での喧嘩以来、ゆっくり時間をかけて少しずつ歩み寄って、ようやく近づいたと思ったのに、近づいたと思ったらまた離れていく。どれだけ打ち解けようと努力しても、忍は依然として頑ななままだ。
(平気なわけ)
ねぇだろ、普通。
光流は激しい苛立ちと共に心の中で呟いた。
ノイローゼ。大学受験に失敗。そして自殺未遂。それらの原因が自分であることを知りながら、平気でいられる人間がどこにいるものか。あいつは何も分かっていない。それともあの時のように、分かろうとしないだけか。自らの傷を自覚するのがそんなに怖いのか。
(あのバカ……っ)
苦しさばかりを胸に、光流は保健室に向かうため早足で廊下を歩き続けた。
放課後、頭痛薬を飲むなりベッドの上に倒れ込んだ光流を前に、一弘は仕方ないなという風に小さく息をついた。
「だが仕方あるまい。現に手塚は何も悪いわけではないんだ。平気なフリより他に方法などないだろう? 同じ立場ならおまえだってそうするんじゃないのか?」
少なくとも自分もそうだという意味を含め、一弘が言った。その言葉に、光流も返すべき言葉は見当たらないようだ。
「本当は辛いのに、相談一つしてくれないのが寂しいのか?」
「……だってそうだろ。それじゃ何のための友達なのかって……思って悪ぃかよ」
光流は上半身を起こしベッドの上に座りなおし、ややふてくされた様子で応えた。
そうだ。結局のところ、自分は寂しいだけなのだ。光流は理解した。胸のうちのもやもや。苛立ち。悲しみ。怒り。それらは全部、忍が少しも自分を頼ったり胸の内を明かしてくれないことが寂しくて辛いからで。それは、目の前にいるのに少しも自分を見てはいなかった、出会ったばかりの頃の忍に感じていた苛立ちと同じものだった。
「おまえの気持ちも分かるさ。それだけ手塚を想っての事だからな。一方通行ほど寂しいものはないよな」
優しい口調で言われ、光流はやや心が和らぐのを感じた。
敢えて多くを口にせずともすぐに言いたいことを分かってくれる一弘の存在は、人に弱音を吐けない光流にとっては有難いとも言える存在だ。気を取りなおして、光流はベッドの上から降りて立ち上がった。
「サンキュ。ちゃんと、話してみる」
ようやく笑顔を浮かべた光流に、一弘もまた穏やかな笑みを浮かべる。
「殴り合うなら、公共物を破壊しないよう外でしろよ」
その言葉に、光流は苦い笑みを浮かべた。
「わーってるよ。もう、んなことしねぇ」
あんな痛い喧嘩は、もう二度とごめんだ。
そう心で呟いて、光流は保健室を後にした。
足を急がせ、たどり着いた生徒会室のドアを勢い良く開く。中には現生徒会会長の中林と、副会長の忍が隣り合わせに座っていた。どうやら何か相談事をしていた様子だ。
「あ……すいません、まだ仕事中でした?」
「いや、もう帰るところだ」
中林はいつもの気さくな笑顔を浮かべてそう言うと、目の前の書類をまとめながら立ち上がった。
「じゃあ手塚、卒業式の件はまた明日」
「はい。おつかれさまでした」
忍がにっこり微笑んで言う。
中林は自分の鞄を手に持ち、生徒会室を出ようとして振り返った。
「いつもありがとな。おまえのフォローのおかげで、良い仕事が出来たよ。じゃ、またな」
そう言って、中林は光流の背をポンと叩いて挨拶すると、生徒会室を後にした。光流はその後姿を見送って扉を閉じ、書類の整理をする忍に歩み寄る。
「フォロー、してんだ?」
光流は机の下に落ちていた一枚の書類を拾い上げ、忍に手渡しながら尋ねた。
「彼は人望はあるが、無駄を削る能力は欠片も無いからな」
先ほどの笑顔はやはり上っ面のものかと呆れる辛らつな台詞に、しかし今更何も言う気は起こらない。実際、忍の言うことも間違ってはいないのだろう。制度をより良くするためには無駄を省くことも必要不可欠なのだ。もっともその無駄を省く事によって被害を被る側にしてみたらたまったものではないだろうが。
「だからって何も、おまえが悪役に徹することは無いんじゃねぇ?」
机の上に腰掛け、椅子に座る忍を見下ろす形で光流は言った。
忍はやや目を見張るものの、無表情にプリントをまとめてファイルの中にしまう。
「いや、むしろ楽しいぞ」
「悪党の血が騒いで?」
光流がニヤと笑って言うと、忍は「分かってるじゃないか」と笑みを浮かべた。
「まあ、部員二人しかいない部活を潰すとか、予算集めるために賭博とか、そんくらいならまだ楽しいだろうけどよ」
ふと、光流は神妙な目つきを忍に向けた。忍は何か不穏な空気を感じ取ったように、自分を纏う空気を張り詰めさせる。
「菅原先輩の件は、違うだろ?」
いつもとはまるで違う真剣な表情を崩さない光流に、忍は警戒心を宿した瞳を向けた。
「何の話だ?」
案の定、見事に見えない壁を張り巡らせる忍に、光流は言葉を続ける。
「行こうぜ、一緒に。菅原先輩に会いに」
机の上から飛び降りて、光流は扉に向かった。が、忍の反応は変わらず、その場を動く様子もない。
「どうしてそんな必要がある?」
尋ねる忍に背を向けたまま、光流は応えた。
「……そのままじゃ、眠れねぇだろ?」
静かな声色だった。
少しの沈黙が室内に流れる。
応えない忍を、光流はゆっくりと振り返った。
「目を逸らすなよ、忍。逃げたって、おまえが辛いだけじゃねーか」
頼むから、分かってくれ。そう心で願いながら、光流は忍の目をまっすぐに見つめた。
忍が一瞬、苦しげに眉を寄せた。けれど心は頑ななままだ。それを示すかのように、忍は鋭い視線を光流に向けた。
「逃げてなどいない。俺は何もしていない。あいつが勝手に好きになって、勝手に自分を追い込んで、勝手に死のうとしただけだ。それだけのことに、どうして俺が心を痛める必要がある?」
「現に痛めてるじゃねーか!!」
突然、光流がバン!!と激しい音をたてて扉を叩いた。忍が一瞬、怯んだように肩を震わせる。
険しい表情のまま、光流は忍に歩み寄りその肩を掴んだ。
「いいかげん気づけよ! おまえ、夜、全然寝てねぇだろ!? そんくらい、俺が気づいてないとでも思ってたのか!?」
強く肩を掴まれ、忍がわずかに顔を歪める。それでも光流は力を緩めなかった。
「ホントは辛いんだろ? 苦しいんだろ? だったらちゃんと先輩と話し合って、終わらせてスッキリしろよ」
「何を……どう終わらせろって?」
忍に鋭い眼差しを向けられ、光流はわずかに目を見開いた。
「あなたの気持ちには応えられません、僕のことは忘れて下さい。そう言って自分が楽になりたいために一方的に終わらせて、自己満足で終わりか?」
鼻で笑うように放った忍のその言葉に、光流は目を見張る。
違う。浅はかだったのは自分だ。忍にはもう全てが分かっていたのだ。分かっていたからこそ、その先のずっと先までを考えて、考えすぎてなお自分を追い詰めていたのだ。菅原を退学にまで追い詰めたのも、徹底して自分を諦めさせるための手段だったのかもしれない。
けれど何故、忍がそこまで悪者になる必要があるというのだ。いったい被害者はどちらなのか。まるで分からなくなる。
「おまえは……。だったらおまえは、どうなるんだよ……?」
光流は痛む心のままに声を発した。
そうやって何も終わらせることも出来ず、罪の意識ばかりを抱えて、ずっと苦しさを抱えているおまえは。人を傷つけないために、自分を悪者にして傷ついて、その傷をずっと抱え続けていかなければならないおまえは、どうなるんだ?
「言っただろう……俺には悪党の血が流れてるんだ。こんなことには慣れている」
冷徹に言い放った忍の肩を掴み、光流は苦しげな瞳を向けた。
「……慣れんなよ」
そして小さく訴える。
「そんなことに、慣れんな」
「……慣れるしかないんだ」
少しの揺らぎもない瞳が、あまりにも悲しかった。
幼い頃からずっと、こんな風に生きてきたのだろうか。そしてこれからもずっと、こんな風に生きていくのだろうか。要らないものを守るために、自らの心を犠牲にして。
どうしようもない苦しさと切なさばかりが胸の内に込み上げて、沸き起こる衝動のままに、光流は忍の肩を掴み背後の机の上に押し倒した。
忍の瞳が光流を心無く見つめる。全てを諦めたかのようなその瞳。けれど胸の内は叫んでいる。苦しくて悲しくて辛くて、本当は「泣きたい」って、叫んでいるのに。
「だったらせめて……泣けよ」
光流は真剣に忍の瞳を見つめ、低い声を放った。忍が光流から目を逸らし睫を伏せる。冷静な表情を取り繕ったまま、立ち上がろうと光流の身体を押しのけようとする。だが光流は再度忍の肩を強く抑え付けると、唐突に忍の唇に自分の唇を重ねた。
あまりに思いがけない光流の突然の行動に、忍が唇を塞がれたまま目を見開く。舌が割り込んでこようとした瞬間、忍は光流から顔を背け唇から逃れた。
「なんの……真似だ」
それでもなお、声も表情も冷静なままで。
光流の中に、得体の知れない感情が膨れ上がった。
強情な忍。頑なな忍。どんなに分かり合おうとしても、その心には決して入っていけない。
声が届かないなら。抱きしめても拒まれるだけなら。あの時のように、めちゃくちゃに壊してでも。
どす黒い感情が光流の中で膨れあがる。
「……っ……めろ……っ!!」
唇を離すと、忍は本気で抵抗を示した。しかし力の強さは光流の方が数倍上だ。机の上に忍を抑えつけたまま、光流の唇が忍の首筋に寄せられ、噛み付くようなキスをした。
その表情に忍が明らかに怯み、一歩後ずさる。光流が咄嗟に手首を捉え引き寄せた瞬間、忍の足が光流の腹を蹴り飛ばした。光流が小さく呻きよろめく。しかし忍の本気の抵抗は、光流の男としての本能をより刺激させるだけだった。光流は変わらず鋭い眼光を忍に向け、自分の首のネクタイを乱暴に引き抜く。
即座に逃げようと扉に向かう忍の手首を掴み、捻りあげた。忍が痛みに低く呻き、床に膝をつく。光流は素早い動作で忍の両手首を一つにまとめ、ネクタイで縛り抵抗を封じた。
うつ伏せた忍の背後から覆い被さり、耳元に唇を寄せる。小さく肩を震わせた忍のネクタイを乱暴に引き抜き、シャツを引き裂く。ボタンが飛び散り、忍の白い肌が露になる。止めようという気は微塵も起こらなかった。
「……つる……っ」
胸に指を這わせると、忍は狼狽と苦痛に満ちた声をあげる。構わずベルトを引き抜き、下着ごとズボンをずらした。
目の前に白い双丘が露になった瞬間、頭の中が焼ききれそうなほど熱くなった。腰を掴み、前を握り込む。後ろ手に手首を縛られ腰だけを持ち上げられた不自由な体制は酷く辛そうだ。それなのに欲望が膨れ上がる。もっと。もっと。頭の中で得体の知れない怪物が形を膨らませる。
緩やかに愛撫を加えると、手の中の忍自身が蜜を溢れさせた。肩が震え息が乱れている。忍でもこんな反応を示すのだ。それも自分の手で。興奮で気が狂いそうになる。
「……っ……」
一瞬、忍の身体が小さく跳ねた。手の中に熱い液が迸る。
「力……抜けよ……」
少しも慣らしていないそこに、容易に潜り込むことは出来ない。軽く苛立ちを感じて忍の耳元に囁く。忍は辛そうな呼吸を繰り返しながら首を横に振った。それでも光流は、半ば無理やりに忍の中に入っていく。半分ほど埋めたところで、忍が苦痛の声をあげた。
「忍……」
光流が忍の顎に手をかけ、その顔を横に向かせる。今まで見えていなかった忍の表情が目の前に露になった。刹那、光流の動きがピタリと止まり、我に返ったように目を見開いた。
「忍……」
先ほどまでとは対照的な酷く優しい声で、光流は忍の名前を呼ぶ。けれど忍には届いていない。屈辱と悲しみに満ちた涙が頬を伝う。
光流はゆっくりと自身を引き抜き、忍を仰向けに寝かせると、その頬を両手で包み込み、頬に伝う涙に口付けた。そのまま言葉も無く、強く、ただ強く抱きしめる。
長いような短いような抱擁の後、光流はそっと忍から離れ、手首の戒めを解いた。動きを示さず横たわったままの忍の身体に自分のブレザーをかけ、軽く衣服を整え立ち上がる。
「……ごめん……」
立ち上がる気力もないのか、横たわったまま小さく身体を震わせる忍に向かって力無い声でそう言うと、光流は扉を開き、振り返りもせず生徒会室を後にした。
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