愛欲<前編>
──どうしてこんなに、欲情するのだろう。
雨続きの日曜の午後、特にすることもなく暇を持て余していた光流は、勉強机にむかう忍に目をやり、軽く人差し指を噛んだ。
綺麗にアイロンがけされた清潔なシャツの首元から、白い肌が見え隠れする。細く長い指が、ノートの上を滑らかに行き来する。切れ長の瞳と、指どおりの良いサラサラの髪。
思わず理性が吹き飛びそうになるのを感じて、光流は忍から目をそらし、忍のベッドの上に倒れこんだ。
「あーーー……暇だなぁっ!!!」
わざと声を張り上げるものの、同居人は見事に無視である。
光流はムッとした表情を隠せないままいきなりベッドから立ち上がり、背後から忍の体に飛びついた。
「そんなに暇なら隣の後輩に構ってもらえ」
ようやく忍が淡々とした様子で口を開いた。
「隣は留守だ」
「なら勉強でもしたらどうだ? 成績落ちただろう、このところ」
「ダルくてやる気しない」
「だったら寝てろ。邪魔だ」
あくまで冷淡に言い放つ忍の耳に軽く噛み付いて、光流は言った。
「せっかく隣、いないんだしぃ~……」
「邪魔だ」
ドぎっぱりと言われて、光流は仕方なく忍から体を離す。
つれない。あまりにつれな過ぎる。と光流は思う。けれど強引に押し倒したところで、後の報復が怖いだけなので、ふてくされながらもまた忍のベッドの上に戻って布団をかぶった。
悶々とする胸の内をどうにか押さえながら、光流は思う。
なんで自分ばかり、こんなに欲情してるのかと。
同じ男でありながら、忍は週に一度で十分。それ以上は絶対にさせてくれない。加えて誘うのはいつも自分ばかりだ。その冷たさは、女々しいと分かっていても、ホントに俺のこと好きなのかと疑問に思わずにはいられない。
仮にもそういう体の繋がりを持つ関係で、なおかつ気持ちも互いを必要としているなら、それって恋人同士っていう関係ではないのか。なのに、せっかくの二人きりの休日の午後、勉強ばかりしてるってどういうことだよ……。光流は心中で深いため息ばかりをつく。
「光流、ちょっとコンビニに行ってくる」
不意に忍から声がかかったが、光流は無視を決め込んだ。しかし忍は気にせず部屋を出ていく。
ますます苛立ちが募った。
胸のモヤモヤが収まらない。というより、体の疼きが。なんて悲しい男子高校生の性だろうと、嘆かずにはいられなかった。
「うー……」
もういっそ今のうちに一人でしとこうかと悲しいことを考えていたその時、不意に冷えた感覚が頬に走った。光流は思わず目を閉じる。
「いつまでふてくされてるんだ」
いつの間にか部屋に戻っていた忍が、ついでに買ってきたらしい光流の好きなジュースの缶を片手に、呆れたように言った。
「……別に」
言葉とは正反対の態度で、光流は忍に背を向けた。
「プリン買って来たぞ」
「……いんねぇ」
「なら隣に……」
「やっちゃ駄目!!」
立ち上がろうとした忍のシャツを強く掴む光流に、忍は小さくため息をついた。
「……分かった。してやるから、起きろよ」
「マジ?!」
パッと表情が明るくなり、いきなり飛び起きる。自分でも単純すぎると思うが、やはり男子高校生の性欲に勝てるものなんてないのだ。それに。
「あー……気持ちいー……」
ちょっと冷たい態度をとれば、忍は簡単に折れることも知っている。
我ながら子供じみていると分かっていても、プライドなんてつまらないものだと思う。そうすることで、忍と触れ合えるなら。
「……っ、イきそー……っ」
巧みな舌使い。
光流は懸命に舌を這わせる忍の髪を掴む手に力を込めた。
「なあ……顔に出しちゃ駄目?」
「へし折るぞ」
「嘘ですごめんなさい」
たぶん絶対その通りにされるので、速攻で諦めざるおえない。
けれど自分のものを含む忍は、あまりに艶かしくて。あれもそれもこれも、それはもういろいろいろいろしてやりたい気分に駆られてしまうのだ。
「……く……っ」
限界に達するその瞬間、光流は忍の頭を強く引き寄せた。
喉の奥深くまで突き刺され、忍が苦痛に顔を歪めたと同時に、光流は果てた。
「悪ぃ!! だいじょぶか!?」
むせて咳き込む忍に、光流は咄嗟に侘びを入れるが、忍の目は険しかった。
「いやその……あんまり気持ちよくて、つい。俺もしてやるから許して!!」
「必要ない」
忍のベルトに手を伸ばそうとしたが、あっさり拒絶される。
「ごめんってー、忍~」
即効で後始末をしてズボンのチャックを閉めて、光流は机に戻る忍にまたも抱きついた。
「邪魔だ」
しかし忍はやはり冷たいものだった。
だいたいこういう時は、忍の一方的な奉仕で終わることがほとんどで、何故かこちらからは滅多にさせてくれない。元々潔癖なところはあるから行為自体そんなに好きではないのかもしれないけれど、それにしても、と光流は思う。好きだったら、少しでも触れ合っていたいと思うのが当然ではないのだろうか。
「忍~、忍~」
スリスリと肩に自分の頭をなすりつける光流に、しかし忍はあくまで冷静に振り返り、
「光流……」
「ん?」
「ウザい」
その冷徹ぶりは、徹底して容赦ない。
光流はショックを隠しきれない様子のまま、トボトボと部屋を出たのだった。
ほんの半年くらい前までは、ごくごく普通の友人同士だったように思う。でも今は、その頃の感覚が思い出せない。朝から晩まで一緒にいて、欲情せずにいられた頃の自分が信じられない。それくらい今は、頭の中は常に煩悩にまみれまくっていて、どうしたら抑えられるのか自分でも分からない。
(俺は男子中学生か?!)
もうすぐ昼休みにさしかかろうとしている授業中に、光流はまたも背徳的な妄想に浸っていた自分に気づき、自分で自分を叱咤した。深くため息をついたと共に授業終了のチャイムが鳴り、昼休みが始まる。
「光流~、今日学食行くか?」
「行く行く~」
教科書を机にしまい、同級生と共に教室を出る。
続々と生徒たちが集まってくる学食で、早々にきつねうどんとカツ丼のセットを頼み、ガツガツとそれを平らげていると、ふと同級生の中村が滑り込むように隣に座ってきた。
「見ろよこれ、ちょっと可愛くね?」
中村がやたらと興奮した様子で光流に差し出したのは、グラビアアイドルのかなり際どいエロ雑誌だった。
「うわ、すげーなコレ! どこで手に入れたんだよオイ」
ニヤニヤ笑う光流の目は雑誌に釘付けだ。
「可愛いだろ~? 一度でいいからこんな娘とヤッてみてーなー」
「うんうんう……」
ニヤけながら頷く光流の視線が、不意に止まった。
「忍! 忍~!!」
学食に入ってくる忍の姿を発見し、すぐさま駆け寄っていく。
「今からか~?」
「ああ。おまえはもう食ったのか?」
「まだ途中。一緒に食おうぜ」
「後で行く」
そう言うと、忍は昼食を注文しに列に並びに行った。
光流が元の席に戻ると、まわりに数人の友人が増えていて、みな中村の雑誌を囲ってグラビアアイドルの水着姿を前に興奮を隠せない様子だ。
「いいよな~この娘。なあ光流」
「ああ、いいんじゃね?」
ズルズルとうどんをすすりながら、先ほどには興味なさそうに、光流は頷いた。
「何の話だ?」
数分して、光流の向かい側に忍が座る。
「お、忍!! 見ろよこの娘、可愛くね?」
「……俺は趣味じゃないな」
いつもの済ました顔で、忍は答えた。
「あーそうですかー、彼女持ちは違うねー」
「男はやっぱ顔ですかー」
完全に僻んだ様子で、同級生たちがよってたかって忍を責め立てる。
「そーいや光流は、なんで彼女作らないんだ?」
「あ?」
いきなり話をふられ、光流は間抜けに口を開けた。
「そんだけモテるんだから、彼女の一人や二人、いつでも作れんじゃねーの?」
「あ、あー……ま、まあな」
不意に焦ったような様子になる光流に、同級生たちは興味津々の目を向ける。
「いや、作らないっつーか、なんかこう、ピンとこねーっつーか……」
「彼女なんて作らない方が身のためじゃないか?」
そう口を開いたのは忍だった。
いきなり何を言い出すのかと、光流は一瞬焦りを隠せなかった。
「おまえの女運の悪さは天下一品だからな」
忍の言葉に、周囲が同意を込めて頷きはじめる。
「そりゃそーだ、忍が正しい」
「まあいいじゃん光流、俺ら彼女いない同盟、仲良く今度エロビデオでも見ようぜ」
「そんな同盟いらんわっ!!」
光流にとっては余計なお世話でしかなかった。
別に女の子に興味がないわけでもないし、エロビデオを見たらそれなりに興奮はする。けれど……。
「今日も生徒会あるのか?」
「ああ」
昼食を終えて、廊下を歩きながら、光流は少し前方を歩く忍の項を見つめた。
白い首筋、ちょっと舐めてみたいかもなどと思い、慌てて首を横に振る。
「どうした?」
「いや、俺、ちょっと用事思い出したから行くわ。後でな」
忍から目を逸らしてそう言うと、光流はその場から逃げるように走り去る。
そのまま男子トイレに駆け込み、洗面所に手をついて大きくため息をついた。
「やっべ……」
もう少しで、あの場で首筋に噛み付くところだった。
(病気か? 俺は……)
あのエロ雑誌なんかよりずっと、ただ目の前を歩いているだけの忍に、こんなに欲情するなんて。
「くそ……ヤりてー……」
土曜日の夜まで、まだ六日もある。
なのに今夜も明日の朝も夜もずっと我慢しなきゃならないなんて、ハッキリ言って拷問だ。どうにかこの欲望を抑えるためにも、今夜は蓮川達を部屋に呼ぼう。
そう決めて、光流は長い廊下をトボトボと歩き出した。
「何でこんな簡単な問題ができなねぇんだ~?」
「そりゃ二年生にしてみりゃ簡単でしょうけど!!」
「口答えすんな」
丸めた教科書で蓮川の頭を叩くと、バコッと良い音が響いた。
なんとなくいつもより不機嫌そうな様子の光流を前に、蓮川はふてくされながらも渋々と問題を解き始める。そんな光流と蓮川をよそに、光流の机の椅子に座った瞬が、すぐ隣の椅子に座る忍に話しかけた。
「忍先輩、聞いて~! この前さぁ……」
何故かコソコソと瞬が忍に耳打ちをする。
「ほう……」
「ね? いいでしょ?」
「好きだな、おまえも」
やたらと楽しげな瞬に、忍もどこか楽しそうに笑みを向ける。
「何の話だよ、おまえら」
「光流先輩には関係ない話だよ。ね、忍先輩」
「そうだな」
素っ気無い返事を返され、光流の顔が面白くなさそうに歪んだ。
「そろそろおまえら部屋に戻れ」
「えっ、まだ途中なんですけど!!」
「知るか、てめーでやれよそのくらい」
またも頭を叩かれ、蓮川は光流を睨みつけたが、逆に睨み返されて怯んでしまった。
「わ……分かりました!!」
「じゃあおやすみなさい~」
渋々と出て行く後輩をよそに、光流は忍のベッドの上に倒れこむ。
「そろそろ点呼の時間じゃないのか?」
「……眠い」
「そこで寝るなよ」
「なんで? 一緒に寝たらいいじゃん」
「狭いのは嫌いなんだ。ほら、さっさと点呼行け」
頭からかぶっていた布団をはぎとり、忍は光流を起こそうとするが、いきなり腕を掴まれて引き寄せられ、光流の上に覆いかぶさるようにベッドの上に倒れこんだ。
「おまえって冷たい……」
ぎゅっと忍を抱きしめながら、光流は悲しげに言う。
「低体温だからな」
「そーじゃなくてさあ……」
「なら何だ?」
「……俺たちって、何なの?」
「人間だろう」
「だから、そーじゃなくて!!」
ガバッと起き上がり、思い切りツッコミをいれる光流に、忍はあくまで無表情だ。 そんな忍の頬に手を添え、光流はそっと自分の唇を忍の唇に重ねた。
「しようぜ」
それなりにムードを作って、誘う声にしたつもりだが。
「点呼に行け」
間髪入れず、あっさりと跳ね除けられる。
「しのぶぅ~っ」
「黙れ猿」
「ひ、酷い……っ」
鋭い目で睨みつけられ、仕方なく光流はのろのろとベッドから這い上がった。
「行ってきやす」
点呼のチェック表を手に、部屋を後にする。
結局、今夜も我慢か……と、光流はv深くため息をついた。
「蓮川、瞬、いるなー?」
「はい~」
「はーい!!」
まずは隣のドアを開けて、元気良く返事をする瞬を見て、何故だか少し苛立ちを感じた自分に光流は気づいた。先ほど忍とやたらと親密にしている様子が思い出されたせいだ。けれどすぐに、別にどうという事はないではないかと思い直す。瞬と忍は割とウマが合うようで、あまり人に打ち解けない忍も瞬のことを気に入ってるのは確かだし、でもだからといって何故自分が苛つく必要があるというのだ。
「田中、水元、いるか?」
「おーう」
「はいよ~」
極力早めに点呼を終えようと、光流は次々と部屋を回っていく。
せめてもう一度キスして、抱きしめたい。一秒でも一瞬でも早く。我ながら本当に猿みたいだと思いながらも、煩悩はとどまるところを知らなかった。
とてもじゃないけど、授業なんて受ける気になれない。
「先生……下痢が止まらないんです……」
「保健室じゃなくてトイレに行きなさい」
「ちょっと寝れば治りまーす」
もはや了解を得る気など微塵もないようだ。呆れる一弘をよそに、光流はいそいそと保健室のベッドの中に潜り込んだ。
少しうとうととしてきた頃、不意に保健室のドアが開く。
「失礼します」
聞き覚えのある声。
「どうしたんだ手塚、怪我なんて珍しいな」
「って忍!?」
光流はいきなり飛び起きて、閉めていたカーテンを豪快に開く。するとそこには、頬からわずかに血を流している忍の姿があった。
「どうしたんだおまえ?!」
「廊下を歩いてたら、いきなりガラス窓が割れて浴びただけだ」
いきなり姿を現した光流にさして驚く様子もなく、忍は淡々と答えた。
「体育の連中だろ、さすがのおまえも避け切れなかったか。まあとにかく座れ」
一弘に促され、忍が患者用の丸椅子に座った。
「おっとその前に、念のため他に怪我ないか診るから、服脱げよ」
「はい」
言われるまま、忍は制服のネクタイをほどくと、シャツのボタンを外していく。
(こ……これは……っ)
思わず光流は口元を押さえた。
「頭からかぶったのか? まあ……たいした怪我はなさそうだな」
頭から上半身を隈なく診察してから、怪我した部分を手当てする一弘にされるがままになっている忍は、いつになく従順で物静かだ。不意に、忍の体がビクッと震えた。
「痛かったか?」
ちょうど項の辺りに小さな傷があり、そこを消毒していた一弘が忍の異変に気づいて手を止めた。
「いえ、そうじゃなくて……」
「ん?」
再び手を動かすと、また小さく忍の体が揺れる。
「あ、分かったおまえ、ここくすぐったいんだろ。ほーらほらほら」
「や……」
「やめろこの変態保険医!!」
いきなり叫び声をあげたのは光流だった。
「み、光流? どうしたんだ?」
突然の大声に、わけが分からないという風に、一弘は目を丸くする。
「忍のここを触っていいのは俺だ……」
最後まで言い切るより先に、忍の手が光流の口を思い切り塞いだ。
「どうした光流、そんなに具合悪いのか?」
「ふが……が……っ!!!」
「これじゃお互い授業にならないので、今日は早退しますね、先生。ありがとうございました」
もがく光流の口を塞いだまま、忍は半ば引きずるように光流を連れて保健室を出て行く。
「仲良きことは美しきかな」
一弘は穏やかな笑みを浮かべ、のほほんと二人を見送ったのだった。
人気のない廊下の踊り場で壁に光流を押し付け、忍は険しい目で光流を睨みつけた。
「何を言うつもりだったんだ、おまえは……!!」
やっと忍の手が離れ口を解放された光流は、怯まず答える。
「おまえが保険医なんかの言いなりになるからだろーがっ!!」
「いつ誰がどこで言いなりになった?」
まるで身に覚えのない言われに、忍は更に眼光を鋭くする。
そんな忍の少し乱れたシャツの襟を掴んで引き寄せ、光流は忍の首筋に軽く噛み付いた。
「な……っ」
「俺以外の奴に触らせんじゃねーよ」
吐き捨てるようにそう言うと乱暴に忍を壁に跳ね除け、そのまま背を向けて階段を下りていく。
何故だか無性に腹が立つ。
俺以外の奴が、忍のことを見るのが嫌だ。
俺以外の奴を、忍が見るのが嫌だ。
こんな感情、初めてだ。
(私以外の人を見ないで……!!!!!)
不意に光流の頭の中で、聞き覚えのある声が叫んだ。
それは、いつか誰かに言われたことのある言葉。
(嫉妬……してる?)
この今の自分の感情がなんという言葉なのかを、光流はようやく理解した。
そして、強く拳を握り締める。
胸の内に燃え滾るような、激しい独占欲。
それは光流が一番に恐れていたものだった。
光流が中学二年生に進級してすぐの頃だった。
教育実習に来ていた女教師に誘われ、何度か体の関係を持った。けれどその関係はほんの短期間のもので、光流も興味本位の部分が大きかったし、女教師もきっと遊びだったのだろうと、一方的に終わったものだと思っていた。
その後、顔も性格も申し分ないうえ、友人としても気の合う同級生に愛の告白を受けて、光流は軽い気持ちで付き合うことを承諾した。
ごく普通の中学生の恋。
けれど次第に、彼女の様子がおかしくなっていった。
他の女の子と話さないで。
他の人と仲良くしないで。
いつもそばにいて。
二十四時間ずっと離れないで。
そんなことを言い出した彼女と光流の前に、もうすっかり忘れかけていた女教師が現れ、更に彼女はおかしくなっていった。完全な三角関係を描いたその恋愛は、日を追うごとに泥沼化していき、それはもはや愛情などではなく執念。嫉妬に耐え切れなくなった彼女は、ついに女教師に刃を向けた。光流は彼女を止めるため、自らナイフの前に身を投げた。滴り落ちる赤い血。彼女達の悲鳴。
幸い軽症で済んだ光流から、その後、彼女たちは憔悴し切った顔で去っていった。
女教師は痩せ細り精神を病んで。彼女は自殺未遂をはかり親に連れられ転校していった。
誰もが、光流は何も悪くないと言った。彼女たちが勝手に暴走していっただけだと。そしてその事件は周囲には間もなく忘れられたが、光流の記憶には今も生々しい経験として残り、恋愛というものに積極的になれないのもそのせいだと分かっている。
決して裏切られたわけではないから女性不信にまでは陥らなかったが、何度告白を受けても頷けないまま今に至るのも、きっとその時のトラウマが根深く残っているせいだろう。
あの時の、狂ったような彼女の瞳。いつも穏やかで優しくて可愛い笑顔を見せていた彼女の、真っ黒な闇を見せ付けられたかのような。
今も恐怖として心に残るその記憶を、今、自分が彼女と同じように感じている。
(俺以外、誰も見るな……!!!)
そう、叫びたい。
いっそ縛り付けて檻の中に閉じ込めておきたい。そんな狂気が、自分の中にもあったなんて……。
「くそ……っ」
自分ではどうにも抑えることのできない獣じみた狂気を、光流は懸命に押し殺した。
そして深く息を吸って吐く。
大丈夫。大丈夫だ。
昔から、後ろ向きな感情を押し殺すことには慣れているじゃないか。
そう自分に言い聞かせ、光流は寮にむかって歩き出した。
「怪我、大丈夫か?」
後から帰ってきた忍に、いつもの軽い口調で光流が尋ねる。
「ああ……問題ない」
忍は何か別のことを言いかけたようだったが、そう応えて鞄を机の上に置いた。
「災難だったな。日ごろの行いが悪いせいじゃねーの?」
からかうように笑う光流に、忍はわずかに口の端をあげ、教科書を机の棚にしまいながら言う。
「このくらいで済んだなら安いものだ」
いつもの澄ました表情。
綺麗に教科書の並んだ棚は、いつもきっちり整理されている。
それに引き換え、いつも散らかった自分の机を見て、さすが育ちの良い奴は違う、と光流は思う。忍は見るからに「お坊ちゃん」という雰囲気だが、やっぱり中身もそれ相応に「お坊ちゃん」だ。姿勢も仕草も常に上品であることは勿論のこと、食事の作法も完璧、生活の乱れは少しもない。
それだけ毎日を潔癖に過ごしいてよくストレスが溜まらないものだと思うが、忍にとっては光流のようにだらしない生活の方がよほどストレスが溜まるもののようで、何かとすぐに「片付け」を強要される。
そのくせ、中身はとんでもない性悪で、頭の中身は常に悪巧みでいっぱいという辺り。
「また何か企んでるのかぁ?」
「別に。来月の体育祭でどのくらい上がりが出るか、って事くらいかな」
そう言って忍は、机に何やら数字の書いた紙を広げ、鉛筆を手にする。
パッと見、知的に物を考える美少年だが、その実、体育祭の博打の計画。
「頑張って稼げよー」
光流は半ば呆れたように言った。
ギャンブルなど賭ける方にも問題がある。双方が楽しんでいるなら好きなようにしたら良いというのが光流の心情だ。実際、光流もパチンコ程度はたしなむし、決して嫌いなわけでもない。
ただ忍の場合は、ギャンブル好きというよりも、金を儲けるために策略を練るのが好きであるようだ。
万事が計算づくの頭の中身。
でも時折、その計算がうまくいかない時だってある。その時の激しいギャップが、光流にとっては可愛いと思うことすらある。最も「可愛い」なんて口にしたら即効で鉄拳が飛んでくるから、敢えて口にはしないのだが。
「忍」
「なんだ?」
「キスして?」
光流はそう言って人差し指を自分の唇にあてると、悪戯っぽく笑った。
「いいぜ。目、つぶれよ」
いつものように冷徹に断られるかと思いきや、意外にも笑みすら浮かべて忍は言った。
しかし浮き浮きしながら目を閉じて待っていた光流の唇にあてられたものは、忍の唇ではなく、なにやら冷たく硬い物体。
「……って、スリッパはねーだろっ!!!」
「黙れ色欲魔人」
やっぱり可愛くない。全然ちっとも微塵も可愛くない。
覚えてろ週末、と思いながら、光流はふくれっつらで椅子に腰掛けた。
その冷静な顔、おもいっきり淫らにあえがせて崩してやる。
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